『岐阜百秀山』出版!2021年05月06日

 イオンの千種店に丸善が居抜きで入った。中々行く機会もないが、買い物ついでに寄ったら、本書が目に入った。以前から出版の話は聞いていたが、中身を見たのは初見。まずはどんな山を選定したのか。あれだけ山が豊富な県なので良くぞ、100座に絞ったものである。
 東海支部でも東海の100名山を募ったら、たちまち150座になってしまい、200座に増やした。東海・北陸200秀山は共著なので特に基準もなく、集まってしまった。約80名の執筆者がそれぞれの個性で書いたから文体もバラバラになってしまった。
 著者の清水さんは周到に入念に選定し、先達にも査定してもらいながら準備されたらしい。単独の著者なので文章も査読してもらったという。したがって山は違えど統一性は保たれたわけである。
 それで、目次の山名を見ると、未踏は2座だけだった。漆山岳と輝山でともに飛騨の山である。漆山岳は道が無く藪漕ぎで近くまで登って時間切れで断念した。中途でブナの下にいたらいきなり熊が下りてきて谷底へ走り去った。後続に熊だ、と呼び掛けて注意喚起した。以来、単独では怖いし、こんな藪山に付き合う人もいない。輝山はスキー登山用に残してきた山だったが、すでに齢71歳になったので、果たして登れるか。
 というわけで、山ほどあった未踏峰も残り少なくなった。平均寿命まで後10年あるかないか。もう少し岐阜の山には遊ばせてもらうが、それにはもっと網羅的に山座数を増やして欲しいなあ。と著者に会ったら言おう。

低体温症2021年04月19日

奈良県川上村に沢登りに行った大阪の山岳会員4人の内、1人が低体温症で71歳の女性の死亡が伝えられた。上多古川らしいが、具体的な山行計画までは不明。
このところは気温が低いので、水をかぶることもある沢登りには不向きな気象状況だったと思われる。
18日は恵那市の笠置山に登ったが、1128mの低山ながら降雪があった。名残雪、終い雪などと言うが晩春でも油断出来ない。あらかじめ、低温は予測して、冬山の下着を着ていったから、ブルブル震えることもなく、無難に下山した。山岳遭難は想像力の欠如だと思われる。

東濃・笠置山を歩く2021年04月18日

 珍しく入会見学者1名、何年ぶりかで復会した会員、何ヶ月ぶりかで同行する会員ら7名の会山行になった。それで、名古屋駅前のジャパレンで、トヨタの誇る7人乗りミニヴァン・ヴェルファイアをレンタルした。朝6時45分に集合。乗る前、休憩後も車内の消毒液でシュシュとやり、マスク着用も忘れず励行。
  気圧配置が不安定な1日だった。名古屋市は晴れ、登山口の恵那市笠置姫栗は曇りだった。小雨模様を心配し、山腹にある一段高い登山口にクルマで移動した。
 林道の周囲は新芽が吹き出したばかりの若々しい緑が美しい。二つ目の登山口も雨で、最初から雨具の上着を着た。登山道は階段で整備してある。頂上手前で林道を横切るとすぐに山頂だ。手前からは霰が降り、直下からは雪になった。寒いはずである。
 俳句では、晩春の季節感を表現し、雪の果て、名残雪、忘れ雪、終い雪などと季語になっている。麓なら忘れ霜だろう。
 ガスに包まれて展望はない。有名なヒカリゴケを見に岩を下り、見学、確かに、ビロードのような淡い光が見える。
 まだまだ降って来るので、早々に下山した。時間はたっぷりあるので、恵那駅前の五平餅屋に行く。次々お客さんが来るので、店外で待った。店内に招かれ、熱いお茶が嬉しい。胡桃の香ばしい匂いに食欲を促され、あっと言う間に五本を平らげた。
 まだ時間があるので、清内路峠を越えて、ハナモモ街道をドライブした。ヴェルファイアの登攀力は素晴らしく加速する。峠を越えると、エンジンブレーキの操作が分からず、一旦停止して、操作を確認。DからMに入れて、前後するとエンブレが効くことを確認。楽しいドライブになった。
 かつて、漂泊の俳人・山頭火が越えて、伊那の支持者へと旅した古い街道である。「分けっても分け行っても青い山」が有名な句。園原インターから帰った。ジャパレンへ返す前に給油したが燃費も良かった。こみこみで4000円だったから割安に上がった。帰りは有志で居酒屋で一杯と、マイカーよりは物入りだが偶には良い。

山岳古道⑩2021年04月10日

 17時30分から、JACの古道調査事業のZOOMミーティングが始まった。東京本部、全国から関係者が59人に参加して、PTリーダーから説明、質疑応答などインターネットを介して会議をした。たった今、18時45分ごろ終了した。
 全部で200以上の古道が提案された。それから120を選定して記録として残す。2年余りあるがあっという間に過ぎるのでさっそく取り掛かることになる。
 どうしても関西周辺、東海周辺、中部山岳に偏在することになる。中国、四国、九州は少なく、長崎県、佐賀県がゼロ、和歌山県が1つしかないことに懸念が示された。しかし他県の会員でも良いので推薦することはできる。もっと集まると思う。
 調査にはGPSログを残すことが必須という方針が示された。ここが現代的です。アバウトではなく、明細に調べることになる。

WEBズーム会議初体験2021年03月17日

 昨夜は加盟の山岳団体で理事会があった。リアルな集会はできず、ズーム会議になった。約90団体あるが30団体ほどが参加した。当方も初参加した。
 実は先月中に別の団体でズームが必須になるので開通テストは終えていた。WEBカメラがないことに気が付き買いに行ったりした。
 今回は約1時間超の会議になった。使ってみての感想は習うより慣れろということです。

リアル会合2件こなす2021年03月09日

 朝7時半から2ヶ月ぶりに同窓会の朝食会に出席。忘年会も新年会も中止なのでリアルな会合は嬉しい。もう一つは17時半から山岳会の編集会議をこなした。これも面と向かってれこれ話し合う。話題があっちこっちへと飛ぶも楽しいものである。要する積もる話があるのだった。

定例会のリアル2021年02月24日

 久々に山岳会の定例会に出席。ズームで出席も数名いるので人数は少なかったが、リアルな会合はやっぱりいいですね。今夜は古手の会員から伝統行事の継続と意義を見直しの疑義が飛び出て少し長引いた。
 伝統だからと言って毎年反省もなしに続けて良いのか。現場の会員らは意義を感じておらず、やらされ感があるというのである。趣味の会でそれは無いよ、という強い主張で緊迫した雰囲気になった。
 ボトムアップならば良いが、トップダウンは承服しがたいのである。確かにそうだ。再審議ということになった。
 もう一つは遭難事故の顛末である。昨年6月の事故当事者がまだ立ち直っていないという。4日間山中を彷徨うという事故で滝から転落し、下山できなくなった。その人は登山届を出しておらず、どこの山へ登ったのか誰も知らない。家族が本人のPCの履歴から推測で分かった。登山口へ行ったら車があった。そこから警察と山岳会の捜索が始まった。
 幸いに発見されて九死に一生を得た。しかし高齢で山岳会幹部の若い指導者に従わない。自分の方が偉くて山岳会は自分を救済する義務があると勘違いしているのだろう。プライドの高いのはまあ人間社会では通用するが自然では通用しない。つける薬が無い。今後は登山届が無いのは救助しないことにしよう、という話になった。腹立たしい話である。

山岳古道⑨北畠が陸奥へと赴任した東山道2021年02月22日

 『神皇正統記』の著者の北畠親房の足跡を追う。

https://1000ya.isis.ne.jp/0815.html
「 北畠親房が『神皇正統記』を書いたのは、常陸の筑波山麓にたつ小田城の板の間でのことだった。同じころ吉田兼好が『徒然草』を書いていた。二人の執筆の姿勢はまことに対極的で、親房は日の本を背負い、兼好は草の庵を背負っていた。14世紀になってしばらくのこと、内乱の時代の只中である。」

「 こうした親房が『神皇正統記』をなぜ陣中で急いで書いたのかというと、これは東国武士に南朝への参加を説得するための分厚い政治パンフレットだったのだ。かつては後村上天皇のために書いたとされていたのだが、いまでは関東の“童蒙”(かんぜない君主)、すなわち結城親朝の説得のために書いたというのが定説になっている。
 けれどもその効果は出ずに、説得工作は失敗をする。しかもその直後に後醍醐の崩御を聞いた。親房は傷心のまま吉野まで帰ってくることになる。まだ十代の後村上天皇はさすがに親房の労をねぎらい、准大臣として迎えるのだが、親房は静かに黙考して、動かない人になっていた。つまり『神皇正統記』は後醍醐存命中にこそ流布されるべきレジティマシーのための一書パンフレットだったのである。」

「浪岡氏(なみおかし)または浪岡北畠氏(なみおかきたばたけし)は、村上源氏の一族北畠家の流れを汲む陸奥の国司の一族とされる。

「後醍醐天皇の命により国司として奥州を支配した北畠顕家の時代には、2度までも足利尊氏を危機に追い込むほど強勢を誇ったものの、顕家が2度目の上洛戦で戦死し、勢力を引き継いだ弟の顕信も、傘下の武士の離反や幕府より奥州に派遣された吉良氏や斯波氏のために勢力を衰退させていったという。顕信の後半生ですら不詳であり、それ以後の歴代当主の事跡は、戦国期に登場した具永(後述)以前のものは判然としてはいない。

当初は南朝ゆかりの南部氏に保護されて、稗貫から閉伊船越にいたようであるが、やがて三戸南部氏が北朝方についたため、根城南部氏の庇護のもと、浪岡に入部した[2]ものと推測されている。[3]

現在の地に15世紀後半に浪岡城が築城されたとみる説[4]が多い。北畠氏は浪岡を拠点としたことから「浪岡御所」と呼ばれて、浪岡の位置する津軽田舎郡から外浜・西浜にかけて勢力を維持することとなった。」

 北畠氏は14世紀に日本史に登場する。三重県で一代勢力を拡大した時期もあったが、親房は長男とともに奥州統括のために多賀城へ赴任する。その時の通路は東山道であっただろう。京都から神坂峠を越えて陸奥までほぼ東日本を縦断する幹線であった。
 不思議なのは青森県の北畠氏の存在である。浪岡氏が復姓したのだろうか。どうやって調べるのか見当がつかない。
 それでも青森に北畠八穂が生まれたことは確かであり、錯綜した歴史の中で流れ流れて青森に定着したのである。

山岳古道⑧松浦武四郎が歩いた大台への道2021年02月21日

 晩年の松浦武四郎が歩いた道がある。大台ケ原と尾鷲を結ぶ古道である。この道を何度も往復している。ここ以外にも奈良県側からも入山している。古くから人が入っていたのである。

「小屋番の山日記」から
初冬の尾鷲道を歩き、マブシ嶺に登る
http://koyaban.asablo.jp/blog/2017/12/11/8746470

 身支度を整えて出発したのは7時56分。地蔵峠までは林道歩きである。軍手をはめても非常に寒い。峠からは山道に入るが、橡山に続く尾根を切通しされたために古い峠の趣はない。非常階段のような急登を強いられる。地元の篤志家らで転落防止のロープも張られている。尾根に届くと稜線歩きとなり山道も安定する。
 木立は落葉して見通しが良い。最初の道標は古和谷分岐である。ここからが古来からの尾鷲道である。下山路として今も歩けるのかどうかは不明だ。先へ進む。数分で又口辻だ。ここから山腹の水平道に入る。ふかふかの落葉の山道を歩く。北面には雪が積もっている。温暖なイメージの南紀の山にも寒波が来た。山腹の道、特に沢をまたぐ所は壊れやすく注意を要した。やがて新木組峠に着いた。ここは極端に寒かった。雪をかぶった大峰山脈が見渡せる。寒いはずである。峠の風下側に下ると若干寒さが和らぐ。少し食べたり飲んだりして休む。
 寒風に曝されながら落葉樹の冬木立の尾根を歩く。いかにも冬の山旅である。そうして木組峠に着いた。峠から破線路があるが尾鷲道は少し下る。先程ははげ山を越えたが山腹の尾鷲道は消失してしまったようだ。テープに導かれて山腹まで下ると再び道形を見出して歩いた。
 山腹を巻き終えると一本木の杭を見だした。あとは山頂までひと踏ん張りである。
 標高1216mの緩斜面に展開する雑木林は今は疎林となって平らかな別天地である。夏ならば緑濃き動物の楽園であろうか。
 山頂直下の疎林の中を歩く。北西からの寒風のせいか樹木はなべて矮小化している。余りの寒気に毛糸の手袋を出そう、雨合羽をはおろうと考えるうちに11時30分に三角点1411.0mに着いた。マブシ嶺である。
 紀勢線に名古屋から夜行列車がある頃から尾鷲道を歩いて見たかった。今回は三分の一くらいを歩いたことになった。大台ケ原山は高くはないが深い山域である。ヒマと交通の面で中々実行できなかった。伊勢道も久居ICまでしかなかった。R42を延々走ったものだ。名古屋から約230kmはあった。高速なら橋とトンネルでつないで180kmに短縮できる。
 大台の開拓を試みた松浦武四郎も奈良県側から入山し、下山は尾鷲道を下った。大杉谷を初遡行した大北聴彦と大西源一も下った歴史の道であった。

 以前はコブシ嶺(*1)と覚えていたが、このほど発刊の『分県登山ガイド 三重県の山』によれば松浦武四郎の紀行にマブシ嶺とあるのでそれに従ったという。私も松浦武四郎全集の中の絵図で確認した。どちらも由来までは言及はない。
 休憩の後、最高点まで行って12時30分に下山した。往きとは違い、寒気も和らぎ、陽光を一杯浴びて少し暑さも覚える日だまり山行の雰囲気になった。往路をそのまま戻り、15時10分ゲートに着いた。
 帰路はニホンジカ3頭に出会った。昨夜はタヌキ2匹を見た。けものが多い山域である。

*1コブシ嶺=この山だけを目指す登山ガイドは前掲の本が初めてだろう。過去のガイドブックを調べた。手持ちの書籍では
 ①昭和54(1979)年刊行の仲西政一郎編『近畿の山』(山と渓谷社)の大台の山と谷の地図に掲載。北の鞍部は雷峠になっている。点名は雷峠1である。雷峠から東の川へ本谷沿いに破線路が示されている。木組峠も木組谷をからむ山腹に破線路があり廃村木組がある。
 ②平成10(1998)年の小島誠孝『台高の山と谷』には尾鷲道が独立して章建てされている。ここでもコブシ嶺と書かれている。取材当時は伐採跡だったらしい。木組峠から古和谷へは猛烈なブッシュだったという。 
 ③『台高の沢』の見ひらき地図にもコブシ嶺とあったから関西岳人はコブシ嶺を踏襲しているのだろう。
 三重県の岳人らが調査して出来た書籍には
 ④平成21年(2008)年の津・ラ・ネージュ山岳会選『三重の百山』もコブシ嶺になっている上に大台ヶ原からの往復コースになっている。この当時は写真を見ると木立に囲まれて展望はないとある。今とはえらい違いである。以南は廃道化しつつあると案内してある。
 ⑤平成25(2013)年の伊勢山の会『宮川源流53山』には、大台ケ原からの往復ルートで紹介。まぶし嶺とある。この本では「展望360度の絶景の山である」と書いてある。写真にも高い樹木はない。
 
 コブシ嶺とマブシ嶺は2008年ころから変化したらしい。ネットの検索では以下が詳細である。最近ではマブシ嶺(コブシ嶺)と書いてあったりする。南から1411mのマブシ嶺に突き上げる光谷からか光山ともされる。(但し今の道標では1184mの山に当てられる。)

山岳古道⑦菅江真澄が歩いた道2021年02月20日

 みちのく・えぞのロングトレイルの創始者かと思う。
 単に物見遊山ではなく、知的な発見を求めての旅だからオデッセイだった。成果は『菅江真澄遊覧記』にまとめられている。

 『菅江真澄遊覧記』1の書き出しは「この日本国内のすべて古い神社を拝みめぐって、幣を奉りたい、」と旅に出て行った。信州にはかつて姥捨て山にも登ったことがあり、飯田の街に住む当時の友人からのお誘いもあったらしい。
 風越の山は名のみそ治まれる御代の春とて花の静けさ
を詠んでいる。

 真澄の脳裏には何があったのか。愛知県の豊橋市に白井英二後に秀雄の名前で生まれた。白井姓はたしかに東三河には少なくない。30歳で両親に別れを告げてあるかみちのくへと旅立ったのである。名古屋では本草学、国学を学んだという。
 その中に旅のヒントがあったのだろう。弥生文化の西端だった名古屋から豊橋地域から東は山岳を越えねばならなかった。伊那街道は山越えが続くので足助に回り込んで塩の道を歩き、愛知長野県境の杣路峠を越えた。いわゆる飯田街道である。それから治部坂峠を越えるともう難所はない。昼神から飯田へ。飯田の風越山のふもとの白山神社に詣でた。そこで道々採集していた薬草を小児科医に売って路銀を作っている。
 ここはもう東日本の縄文文化圏である。そこから北上しうとう(善知鳥)峠890mを越えて塩尻の洗馬へ。塩尻ではもてなしを受けたという。
 「信毎おでかけ」によると
「 塩尻市の本洗馬歴史の里資料館で7日、江戸時代の文人で紀行家の菅江真澄(すがえますみ)(1754〜1829年)の没後190年記念展「菅江真澄旅の始まり」が始まった=写真。県内に残る菅江の直筆作品全14点を初めて展示。地域の行事など菅江の絵画作品もあり、当時の暮らしぶりが分かる。

 菅江は1783(天明3)年から1年余、同館隣の県史跡「釜井庵(かまいあん)」を拠点に県内各地を訪ね歩いた。今回、県内で菅江の直筆作品を所蔵している個人らから借りた。

 須々岐水(すすきがわ)神社(松本市里山辺)所蔵の和歌の掛け軸「ぬさとれば」は初めて一般公開した作品で、菅江が同神社を訪れた際に詠んだ歌だ。菅江が県内滞在中に読んだ和歌133首をまとめた歌集「雄甫詠草(ゆうほえいそう)」などもあり、学芸員の中原文彦さん(67)は「これだけの直筆作品が一堂に並ぶ機会は貴重」と話す。

 菅江は短歌だけでなく、絵図も残している。拠点としていた洗馬の七夕や県内各地の風景など当時の様子も紹介している。」

 真澄は道中のスケッチや短歌を詠んだという。それらを一宿一飯のお礼に置いていったのだろう。松浦武四郎も篆刻の技があり、泊めてもらったお礼に置いていったらしい。泊める側の宿主は西日本の珍しい話をせびったのだろう、さあさ、もう一献などとやりながら情報交換したと思われる。
 宿主に残した絵は後々に研究家がまとめて『真澄遊覧記』と書籍化された。
本洗馬歴史の里資料館からのお知らせ
https://www.city.shiojiri.lg.jp/tanoshimu/hakubutukan/motosebarekisinosato/oshirase.html

菅江真澄『すわの海』から「御頭祭」 21.9.18
https://yatsu-genjin.jp/suwataisya/sinji/suwaumi.htm

菅江真澄が見た天明4年の上社本宮 21.10.18
http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/zatugaku/sugae.htm

名酒 真澄の由来は
「地元諏訪の諏訪大社の宝物「真澄の鏡」から由来
創業は1662年(350年超え)でとても由緒ある酒蔵さんなのです!
どうやらもともとは武家で、戦国時代に一度地元を追われて50年ほど静岡で過ごすことになったが、ようやく戻ってこれた時に刀を捨てて酒屋になったとのこと。」

 東洋文庫『菅江真澄遊覧記』1の年表を読むと、
1782年 29歳 5月 木曽路を歩く。三河から駿河ま、また京都へ行ってくる。

1783年 30歳
1月    伊勢神宮参宮
2月末  故郷三河(岡崎市)を出発
3月    信濃下伊那郡に入る(伊那の中路)
付録の旅の軌跡を見ると風越山に登った
5月24日 東筑摩郡洗馬村に至る
8月15日 姥捨山に登る(わがこころ)
11月末  亡母の三回忌を行う(手向け草)

1784年 31歳
1月    信濃諏訪地方を往復す(諏訪の海)(庵の春秋)
6月    越後を経て奥羽へ出発(くめじの橋)
9月    出羽へ入国す
10月   雄勝郡柳田(秋田県湯沢市)に至る(秋田のかりね)
・・・5月から翌年6月まで信濃に居た事になる。

名前の変遷
1754年  白井英二 青年になってから秀雄
1783年~1800年 津軽に居るころまで白井秀雄を名乗る
1801年  8月 弘前から西津軽郡鰺ヶ沢にくる 白井真澄になる
1808年  秋田県能代にて菅(すが)水斉を名乗る
1810年  以後、菅江真澄を名乗る

以下省略

・・・私は諏訪大社を参拝してから真澄を名乗ったかと思ったがずっと後だった。さらに菅江を名乗る前に菅を名乗ったという。
 脱線するが「略。 愛媛県・山形県・秋田県などに多く、読み方は愛媛では96%以上、山形では90%以上が「かん」で、秋田では99%以上が「すが」である。 ... 「菅」姓の人数は約4万人で全国順位は500位前後であるが、愛媛県今治市では7位、秋田県湯沢市では6位、山形県最上町では最も多い名字となっている。」(ウィキペディア)
 ちなみに菅(すが)義偉は秋田県、菅(かん)直人元総理は山口県である。