奥三河・鷹ノ巣山を歩く2021年04月21日

 鷹ノ巣山の登山口はかつては裏谷がメインだった。新ハイキングの昭和56年4月号に段戸山のガイド紀行があり、それを購入して、すぐ登りに行った。あの時は森林の中の踏み跡程度の道だったと記憶している。人工植林が優勢する山ではあるが、秘境を訪れた感動があった。
 設楽町は今、ダム建設の真っ最中だ。加えて、道路改良も盛んになった。岩古谷山にトンネルが穿たれ、段戸山周辺にも広域農道が延びた。
 私が40年前に未舗装の駒ヶ原宇連林道をノロノロ通行したのもはるか昔になった。広域農道に寸断された駒ヶ原林道にマイカーを置いて、出発。スマホの軌跡を見ながら、澄川橋から返り水林道に入る。
 澄川は760m地点から沢登りしたことがある。水がきれいだった。滝もあり、変化に富む。滝の後は延々続く滑が良い。溯行価値はある。その終了点が澄川橋だ。

http://koyaban.asablo.jp/blog/2019/06/17/9088190

 澄川の滑を横目に見て楽しみながら歩く。登山口らしい 道標を発見し、鹿避けネットを開けて歩き出す。1124mに突き上げる浅い谷沿いに踏み跡が続く。やがて、二股になり、左に振って尾根に上がると、ネット越しに鷹ノ巣山の全貌が見えた。内側は植栽が終わり、外側は皆伐されて殺風景な谷の風景をさらけ出す。登る途中では奥三河一円の大展望が広がる。一見の価値はある。
 1124mに登って左折し、一旦下り登り返すと良い道にあう。この道は急に確りするので振り返って見ると、少し下で白いテープが張ってあり、通行止めの意味だろう。つまり、皆伐の中に行くので踏み跡が不明瞭になるのだ。かつての裏谷ルートは消失したのも同然だろう。
 山頂が近付くに連れて付近だけは自然林が増えて雰囲気が良くなる。イヌブナががあり、赤っぽい木肌の樹木名を忘れたが、そうそう、ヒメシャラも見えた。今時は葉っぱも茂っていないので遠方の白い山も見える。石標は岡崎高校のもの。
 『日本風景論』を書いた岡崎市出身のジャーナリストの草分け的な志賀重昂の歌「三河男児の歌」に段戸山の山名が謳われている。明治政府は薩長人が重んじられて、徳川幕府の一翼を担った愛知県とりわけ三河人は意気消沈していたから激励したのだろう。名古屋帝国大学は日本で一番遅く設立され、医学と工学系しかなかった。
 しばらく休んで引き返し、東への道を下る。作業道路が2段階で寸断しており、赤テープで確認しながら広域農道に着いた。

仏庫裡を歩く2021年04月11日

『設楽町誌』から
 愛知県の山の中でも難読で由来が分からなかった仏庫裡。『設楽町誌』の村落図にヒントがあった。ぶくり小屋が今の仏庫裡。
 ぶくりはぼっくり、ぽっくり、ぽくりなどという。高下駄のことである。明治期に木地師を導入して原生林の伐採をした。木地屋の店で見ると、お盆、曲げわっぱ、お椀とかの日用品が多いが、中には山中に小屋掛けして高下駄を作る木地師もいたであろう。
 段戸山中の無名の三角点を登った際に、道のないところに草深く埋もれた菊の御紋の墓を見たことがある。山から山へ良材を求めて移動するから先祖の供養もできないまま草に埋もれてゆくのである。

 旧稲武町には木地山という地名があるし、月ヶ平なる山もある。月は槻のことで、ケヤキである。かつて揖斐川町の日坂峠近くにブクリヤの地名があったが、今は地形図からも消えた。同じ意味と思う。

山岳古道③秋葉街道ー小川路峠を越えたアルピニスト2021年02月15日

松濤明の遺稿集『風雪のビバーク』の中の春の遠山入りの中にこの秋葉街道の紀行が名文で紹介される。深田久弥も南アルプスからの帰りに下っている。木地師の墓がある。三十三体の観音様の石仏がある。
 遠山側の歩道は踏査していないのでこの機会に歩きたい。遠山谷の民宿に泊まったら、かつての馬宿だった。庭には名古屋コーチンが飼ってあった。文化は関東圏、経済は名古屋圏らしい。飯田線が開通するとあっという間に寂れた。
 北には中央道から分岐した三遠南信道路が開通を待つ。今は秋葉街道の入り口付近が工事中で、先に矢筈峠の下にトンネルが開通させている。矢筈峠は深田久弥が遠山谷へ入る際に越えた。

山岳古道②権兵衛峠-伊那のコメを木曽へ運んだ道2021年02月14日

 HP「みはらしファーム」から
http://www.dia.janis.or.jp/~miharasi/miharashifarm/shoukai/toge/index.html

 昔々、伊那と木曽との間にわずかに人だけが通う険しい峠道がありました。
 ある者は転倒し、鍋を欠いたことから「鍋懸峠」と呼ばれました。
 この峠を馬の通える峠に整備し、米不足の木曽へ伊那の米を運ぼうと、木曽町日義神谷の牛方、古畑権兵衛は木曽11宿にこの峠の開発を呼び掛け、自らも進んで工事を進めました。伊那側では木曽の助郷人馬役(中山道経営のための労働提供)の割り当てを恐れ、初めは開発に消極的でしたが、ついには伊那側15ヶ村の協力により元禄9年(1696)に完成したのです。
 以後、伊那からは大量の米が、木曽からは漆器などが運ばれました。以来この峠はいつしか「権兵衛峠」、峠への道は「米の道」と呼ばれるようになったのです。

小屋番の山日記「秋冷の権兵衛峠 」
http://koyaban.asablo.jp/blog/2014/10/05/7450584

朝日遺跡ミュージアムを見学②2020年12月15日

猿投神社所蔵の絵図は1300年前。
 朝日遺跡がこの位置にあること、2400年前の人たちの生活の場だったことで、想像力を巡らせて頭で考えることは大変に楽しい。雑駁な知識、断片的な知識がくっつきあってまとまってゆく好奇心が刺激されます。
 何でこの清州の位置に、というのは2400年前は干潟が広がっていたというのです。そうか、今の五条川も自然河川ではなく、木曽川の古い流れの1つという。「一方、尾張側では、この御囲堤の完成で木曽側の氾濫は無くなりましたが、逆に尾張平野はそれまで派川であった五条川、青木川、日光川、三宅川、領内川などの八流が無くなり水不足になる」(水問題研究所:木曽川物語から)ので取込み口を設けて用水化したのです。
 地質学の本には東海湖という絵図があります。今の白鳥町あたりまで長良川は入江だった。鷲ヶ岳山麓の阿多岐では藻が珪藻土になり切り出してコンロに利用されています。「美濃白鳥湖に堆積した成分が重なって,約300万年~150万年前に形成」されたので相当古い話です。
 時代が進んで、最後にアップした猿投神社所蔵の717年(古事記は712年、日本書紀は720年)の絵図になると1300年前の地形になります。清須(清洲)も津島も水っぽい地名ですが実際に昔は島だった。それも木曽川の氾濫で、長良川は西に押し出されて、沖積平野になります。秀吉の頃から尾張国側は堤防を高くして囲い込みます。前述の通り濃尾平野は巨大な造成地になった。
 愛西市教委の学芸員、石田泰弘さんは「東方からやってきた人たちが道中、尾張国と伊勢国を行き来する際、七里の渡しを使った記載があったのはわずか五十五点。最多は、同県清須市付近から甚目寺(同県あま市)を経て同県津島市に至る津島街道で、実に三百九十五点もあ」ったとして津島街道が主流だったことを明らかにされた。古代史と古絵図からの推移を見てもむべなるかな、と思います。4月ごろ、中区丸の内の事務所から津島神社(疫病退治の神様)までサイクリングして参拝しましたが緩やかな下り坂でした。往きは休まず走ったが帰りは喫茶店で一休みしました。
 こうしてたかが遺跡ではあるが、雑駁な知識が積り重なって、それはまるで地層のように、想像を膨らませることができるようになってきた。それと改めて再発見したのは西日本には陶器の産地が多いのに東日本にはほとんどない。これも弥生文化を考えるヒントになります。瀬戸市の猿投山山麓の赤津は有名ですが、なんでこんな山奥に津の地名があるのか不思議でした。しかし猿投神社の絵図には掲載されています。海に面していたのです。
 赤津、瀬戸市(陶器生産の本場)、日進市(陶土採取場がある)、東郷町(古窯がある)、常滑市(常滑焼がある)と陶土の地質が続いているそうです。これが海浜だったのか。

若狭駒ヶ岳の山旅余情2020年11月26日

 若狭駒の余情を楽しんでいる。筋肉痛が時間の経過でほぐれていくのと反対に、山旅の余韻は終わった後から後から湧いてくる。
 この山の紹介文の書誌学考察
A 昭和45(1970)年 伏木貞三『近江の山々』 (白川書院)

B 昭和47(1972)年 伏木貞三『近江の峠』(白川書院)

C 昭和59(1984)年 草川啓三『近江の山』(京都山の会出版局)

D 平成4(1992)年  山本武人『近江朽木の山』(ナカニシヤ出版)

F 平成11(1999)年 近江百山之会編著『近江百山』(ナカニシヤ出版)

G 令和2(2020)年 竹内康之「山と渓谷」誌11月号202Pのガイド記事

  駒ヶ岳の由来は

 Aは蔵書になく、検索で目次がヒットしたので見ると項目がない。

 Bには木地山から若狭へ越える峠道は3つあったと紹介し、木地山峠の項目を重点的に解説。駒ヶ岳については記載がなく、駒ヶ越と河内越の2本を簡単に紹介。下る予定だった尾根道は昔は池河内(木地山の真北)へ越えた峠道だったのだろう。河内越が2か所もあるので一方を駒ヶ越にしたのか。

 Cの本は駒の連想から駒ヶ岳由来を説く。したがって馬も通れる道だったと想像する。しかし、馬を通らせるにはS字形の道が必須であり、重量が重いから痕跡は残るだろう。奥三河の山間部の街道跡には残っている。(寺山)書きで寺山としてある。著者は若狭側から藪漕ぎで登っている。様子は今と大違いである。当時でも森林公園からの切り開きはあった。

 Dは写真のリアルさが際立つ良書。ここでは登山ルートとして上中町へ越えた河内越を紹介する。尚、若狭町は小浜市とばかり思っていたが、「2005年(平成17年)3月31日 - 三方郡三方町・遠敷郡上中町が合併し、三方上中郡の自治体として発足。」とあるので独立した自治体である。
 五万図熊川に残る破線路をトレースしているが藪漕ぎである。
麻生谷にかかる橋を渡るのは今も同じだが、杉は植えて20年くらいの若杉であり風景が違う。略図を見ると焼尾谷の対岸の道標にあった「ろくろ橋」は麻生川にかかる橋で昔はそこに登山口の道標もあったと思われる。
 ブナの疎林の落葉を踏みしめて歩いたが、写真で見ると当時は背の低い笹が茂っている。ブナも若く、日光が差し込んでいたのだろう。ここでも由来に触れているが、不明。
 寺山は若狭側の地名。ちなみに三角点の点名は寺山。木地山では河内越が正しい。駒ヶ岳山頂の写真は下は笹に覆われ、灌木が茂り、展望は皆無だろう。三角点は今は盛土の上に埋まるが当時は平地に埋まっていたと思われる。周囲の土砂が削られたのだろうか。Cでも三角点の周囲だけは同じである。

 Fでも由来に触れるが不明とする。ブナ林は千古斧鉞の森ではなく、炭焼きの際に切り残したという。つまり、ブナは良い炭にならず、意図的にブナを残して択伐していたのだ。
 確かに、ブナの文字は山毛欅、橅、椈、桕、橿と多い。2番目は国字ですが、木では無い、と有用な樹種ではなかった意味が込められている。水分が多いので曲がりやすく建築材にはならず、戦後はパルプ材になった。
 すると植林と同じ原理で間引き(間伐)することによって残ったブナは成長し易くなる。ブナは一番背が高くなるので成長とともに周囲の木や笹も発芽できず、ブナの純林になるのだろう。それを知らずに見て「ブナ林は良いなあ」と感動しているのである。
 今の登山口の近くにあるろくろ橋も昔は少し下流の分校跡から入山したらしいが、草深くなって今のところに移動した。するとあの道標は朽ちてもおらず、新しいように見えたが20年以上は経ったのか。
 結局駒ヶ岳の由来はどの本も言及されず、不明でした。それどころか、山名などなかったし、駒ヶ岳なんて初めて聞くと地元の人の話を紹介している。

 以下は駒ヶ岳異聞というか小説である。
 金達寿『日本の中の朝鮮文化』(講談社文庫)シリーズの長野県か山梨県辺りのどこかに駒ヶ岳は高麗ヶ岳という説を紹介している。いつの時代か、渡来人が大挙して日本に来たのだろう。ウィキペディアには「10世紀の最大版図時に高麗の領土は朝鮮半島の大部分に加えて元山市や 鴨緑江まで及んだが、1259年に高宗の時代に複数に渡る元の侵略で降伏・皇帝号喪失で元の属国になった。」とあるから乱世を逃れて日本に来たのかも知れない。
 確かに山梨県には北巨摩郡があり、甲斐駒がある。埼玉県には高麗神社がある。高麗の地名は意外に多い。但し、全国の駒ヶ岳の場所からのイメージでは一つにくくれない。北海道の駒は説明できないからだ。朝鮮人作家ならではの視点ではある。
 私の連想では、若狭には熊川宿(くまがわ)があり、韓国の釜山には熊川(ウンチョン)がある。百里ヶ岳は韓国の釜山とは500kmの距離にある。江戸時代の蕪村の俳句に「方百里」という言葉があるが、多分中国由来だろう。今の日本の換算では1里は約4kmなので400kmになる。実際は500kmもあるが誤差の範囲に入れても良い。
 昔の戦乱や乱世を嫌った職能集団は渡来人として対馬海流に任せて若狭湾にたどり着き、山越えで近江に流れ込んだ。
 他方で敦賀湾からも渡来人が流入してきた。敦賀はおつむの意味という。仏教徒や文人も来たのだろう。湖東にも朝鮮文化がある。
 演歌歌手の前田卓司の「小浜旅情」の歌詞には「御食国」の語彙があるが、皇室などへ海産物などを貢いでいた地域という。そういうルーツを持つ人々が遠い朝鮮半島の故郷を思い命名したのか。
 日本語の文字が発明され、普及するのは平安時代以降になる。和紙の普及も一般人には手に入らないから書き残すことはできず、口伝のみでは伝承できなかったのだろう。

大西暢夫『ホハレ峠』を読む2020年06月20日

彩流社刊

著者は  アマゾンから
大西/暢夫
1968年、岐阜県揖斐郡池田町育ち。東京綜合写真専門学校卒業後、写真家・映画監督の本橋成一氏に師事。1998年にフリーカメラマンとして独立。ダムに沈む村、職人、精神科病棟、障がい者など社会的なテーマが多い。2010年より故郷の岐阜県に拠点を移す。『ぶた にく』(幻冬舎)で第58回小学館児童出版文化賞、第59回産経児童出版文化賞大賞。映画監督作品:『水になった村』(第16回EARTH VISION地球環境映像祭最優秀賞受賞)(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

出版社側のねらいは
編集者が明かす、ダムに沈んだ徳山村の本を出した理由 ―そこから見え隠れする近現代
https://note.com/sairyusha/n/naeff5f3e8d72

朝日新聞の書評は
(書評)『ホハレ峠 ダムに沈んだ徳山村 百年の軌跡』
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14511895.html?pn=3

 ■現金がのみ込んだ大地との生活

 ダムの底に沈んだ岐阜県揖斐郡徳山村。一五〇〇人ほど暮らしていた村民が次々と出ていく中、そのもっとも奥の集落・門入(かどにゅう)で、最後まで暮らしていた廣瀬ゆきえさん。

ここから続き
 山に入り、山菜を採り、日が暮れれば寝る。夫を村で看取(みと)り、たった一人で大地の恵みと呼吸するような生活に、強制的に終止符が打たれる。ダム建設に伴い立ち退きを余儀なくされた日、漬物小屋を解体する重機から目をそらすように遠くを見つめる写真が全てを物語る。「村の清流だった揖斐川の水が、自らこの大地を飲み込もうとしている」

 約三〇年前から村に通い、ゆきえさんと向き合い、その足跡を記録した。門入の住民は街に出るために、ホハレ峠を越えた。早朝に出たとしても着くのは夕方。わずか一四歳、家で育てた繭を運びながら峠へ向かう。峠の頂上から初めて「海」を見た。それは、初めて見る琵琶湖だった。

 北海道真狩村に嫁ぎ、やがて村に戻ると、山林伐採、ダム建設が忍び寄っていた。ダムの説明会に参加するだけでお金が支給され、集落の繋(つな)がりを巧妙に札束で崩していく国。「みんな一時の喜びはあっても、長い目で見たらわずかなもんやった。現金化したら、何もかもおしまいやな」

 転居した先のスーパーで特価品のネギを見て、「農民のわしが、なんで特価品の安いネギを買わなあかんのかなって考えてな。惨めなもんや」と漏らす。村を最後まで見届けたゆきえさんの人生は「点」でしかないが、その点は長く繋がってきた尊いもの。誰よりも本人がそのことを知っていた。

 台所で倒れ、亡くなったゆきえさん。口の中から一粒の枝豆が出てきた。ゆでた枝豆をつまみながら、ご飯を作っていたのだろう。時折さしこまれる写真の数々が、村の歴史、ゆきえさんの足跡を伝える。読みながら、本のカバーを何度も見返す。「現金化したら、何もかもおしまいやな」と繰り返し聞こえてきた。

 評・武田砂鉄(ライター)

徳山村は映画「ふるさと」にもなった。
以上

 個人的には、昨夜で粗方読破してしまった。奥美濃の山は登山の開始と同時進行である。山岳会に入会したのが昭和53(1978)年(28歳)であった。『鈴鹿の山』とか『秘境 奥美濃の山旅』を買って読んで山行のヒントにした。『ぎふ百山』を知るのはもう少し後になる。次々と登った山が増えてゆくのが楽しみになった。この後、サンブライト出版から森本次男『樹林の山旅』の復刻版が出た。すぐに買った。たちまち愛読書となった。
 足は月1回のレンタカーであった。入会した年の10月にトヨタ・スターレットというレンタカーで、馬越峠を越えた。初めての徳山村探訪になった。早暁、薄いガスの中に徳山谷が見え、紫色の煙が昇っていた。その時は冠山に登った。特に岐阜の山が面白く、当時は守山区に住んでいて、中日新聞の購読に加えて、岐阜新聞の東濃版を配達してもらった。昭和55(1980)年3月4日から『続・ぎふ百山』の連載が始まっていた。それが目的だった。昭和60(1985)年1月までのスクラップが残っている。切り抜きしたものを友人に託したらきれいな海賊版にしてくれた。何冊も印刷して仲間に配布したが後に岐阜新聞社から立派な装丁の『続 ぎふ百山』が出版された。海賊版は100山目で止まっていたが新版は130山もあった。
 昭和55(1980)年(30歳)にマイカーを買った。その車で、金ヶ丸谷の偵察に出掛けた。この時は揖斐川沿いに走り、西谷川を遡った。初めての門入との遭遇である。着いた門入では家の取り壊し中だった。墓には白い布をかぶせてあった。こんな情けない姿を先祖に見られたくないからだという。それで村人に金ヶ丸谷の熊の生息状況を聞いたら、いつぞやは京都の若い人が夜叉ヶ池から金ヶ丸谷を下降して遭難死したという。京都から親御さんがきて息子が帰らないから探してくれというので探したら谷の中で死んでいた。「あんたね、熊よりも谷の方が怖い。行かん方が良い」と諭してくれた。その日はそこで帰った。これが門入とのなれそめである。『ホハレ峠』P236には「たしかに昭和55年ということは、そろそろ徳山村から移転地へ引っ越しが具体的になってくるとき」とあるから記憶にまちがいはない。
 金ヶ丸谷の遡行は平成17(2005)年9月になった。偵察から実に25年の歳月が流れ、ダムの湛水が始まる前年だった。我ながらしつこく追いかけたものである。
 門入の予備知識としては安藤慶一郎編著『東海 ムラの生活誌』(昭和55年9月刊 中日新聞社)がある。5番目に「西美濃山村の生活と親族組織」がある。学者が書いただけに綿密に調査したのだろう。門入の特殊性は通婚関係と指摘している。閉ざされた狭いムラ社会ではそうせざるを得ないだろう。
 乙川優三郎『脊梁山脈』は木地師が主人公の小説である。しかも東亜同文書院の学生のまま兵隊にとられた設定。小説では長野県売木村の木地師と主人公が復員列車の中で出会うのだが、復員列車で親切を受けたお礼に売木村を訪ねると本人は居るのだが別人であった。出会った人は東北に住んでいたというトリックにも使われている。つまり東北の兄が結婚してすぐに出征したが戦死した。弟は無事で帰国できたので戸籍上は兄に成りすましたまま、兄の嫁と子を養う人生を送る。そんな筋書きだった。木地師の社会も他と交わりが少ないから近親婚になるのだろう。要するに限られた山奥の閉ざされた社会での家を守ったのである。
 著者も門入の婚姻関係の理解には相当な苦労をしている。P182辺りから明らかにされている。
 廣瀬ゆきえさんは大正7(1918)年生まれ。昭和7(1932)年14歳で初めてホハレ峠を越えたと、本書にある。昭和8年にはまたホハレ峠を越えて、更に鳥越峠を越えて彦根市のカネボウの紡績工場へ働きに出た。16歳までの冬はそこで働いた。17歳から24歳まで一宮市、名古屋市の紡績会社で働いた。
 著者の大西暢夫さんは門入が越前藩の領域だったことまでは調査されていないようだ。越前から見て最初のムラが門入、次は戸入、本郷である。古くはお坊さんも越前から迎えていた。福井県の日野川源流の廃村・大河内へ行く途中に二つ屋があり、そこから夜叉ヶ池に向かって登る尾根が街道の尾と言った。登りきると金ヶ丸谷の源流部に下る。そこからどのように道があったのかは明らかではない。
 ゆきえさんは昭和17(1942)年頃、24歳で結婚し北海道に渡った。『ぎふ百山』の千回沢山・不動山の項に入谷の人らは大正の初めに北海道へ渡ったことが書いてある。門入では明治36年から移住が始まっていたのである。戦争を経て昭和28年に北海道を引き揚げた。34歳になっていた。八ヶ岳山麓に一時的に身を置き、昭和30(1955)年に徳山村へ戻った。13年間はまさに転変流転の人生だ。廣瀬家から橋本家に嫁いだはずなのに夫がまた廣瀬家に戻した。もともと親戚同士の結婚だった。これが親族組織で成り立つ門入の特殊性である。
 愛読書の『樹林の山旅』には黄蘗(きはだ)の村(千回沢山と不動山)の項で門入が紹介される。きはだは薬になる木のことで、徳山会館で売っていた。
 森本は昭和10年頃の記録をまとめて昭和15年に発刊した。だから廣瀬ゆきえさんは18歳頃になり同時代を生きていたことになる。但しゆきえさんは一宮市の紡績工場に住み込みで働いているので遭遇はしなかった。森本は大滝屋という旅館に泊まって門入のめぼしい山と谷を跋渉した。ホハレ峠の話も出てくる。「あへぎあへぎ登る急な坂路は、太陽の光を顔に受けて峠に着いた時分には日焼けで頬がはれている。だから、ここはホヽハレ峠だという話を聞いたが、この峠の名前は街で信じてもらうにはふざけすぎている。だが私達は嘘だとは思わない。」
 栃や欅の原木を板に挽いてホハレ峠まで来ると余りの力仕事に頬が腫れるというのが由来のようだ。
 湛水が始まったころは遊覧船が浮かぶとか、門入へは県道が通るとかは仄聞したが今も実現していない。

西三河・蚕霊山434.9mと茶臼山418.2mの三角点を歩く2020年05月24日

豊田市の茶臼山418.2m
 緊急事態宣言で外出自粛が続き、「巣ごもり」生活の結果、肉体的に疲れることはないためか、夜型人間になってしまった。午前3時、4時まででも起きてしまう。すると一旦眠れるが8時、9時に起きても朝食の食欲は余りないことになり、ぐずぐずと昼前まで雑務に明け暮れる。結局出かけるのは午後遅く、早くても14時になる。その結果中途半端に終わったピークハントがあった。サイクリングとハイキングを兼ねて行った5/5の蚕霊山と昨日の東萩平の茶臼山だ。
 そこで今日は午前中に出発することを第一にした。まず豊田市小原町の蚕霊山である。クルマで山頂付近まで登れてしまうのでハイキングの要素はない。かつては登ったがもう記憶の彼方になった。頂上は蚕霊神社の境内でそこの隣に宮司さんたちも住んでいるのだろう。三角点は隣の小さな神社の石碑の奥に埋まっていた。それでも来る人はいて山頂板がぶら下がっている。 

 蚕霊神社の案内板には、もともとは御嶽大明神が祀られ江戸時代から信者も多かったという。明治20年に小原村に伝染病は流行、それを契機に伊勢神宮外宮より、大気都比亮命(オオゲツヒメ)を勧請して蚕霊神社の建立となった、という。
 
 明治20年とはどんな時代だったのか。これも検索してみた。
https://say-g.com/topics/609
①1822(文政5)年8月14日 日本で初めてコレラの感染が確認

「「日本の細菌学の父」と呼ばれる北里柴三郎が、1887(明治20)年に、第6回万国衛生会議で行った口頭発表をまとめた「日本におけるコレラ」によると、
「長崎とジャワ島との間を往復する一隻のオランダ船が、この伝染病を最初にわれわれのもとへもたらした。長崎は当時の日本において異国人、すなわち清国(中国)人とオランダ人と貿易取引を行うただひとつの都市であった。コレラはまずそこで発生し、長崎を取り囲む日本の南西部に広がったが、数ヶ月後に日本の内陸部へと到達し、間もなく大流行となった」と記しています。

※オランダ人が不潔だった証拠に江戸川柳がある。

登城する紅毛にハエのついていき

紅毛というのは当時のヨーロッパ人をいうが、「1639年(寛永16年)の南蛮(ポルトガル)船入港禁止から、1854年(嘉永7年)の日米和親条約締結までの期間を「鎖国」」の時代はオランダ人を指す。「オランダだけは「人悪し、国もまた悪し」」だったらしい。

②日本国内で2度目のコレラ大流行となった1858(安政5)年
長崎で発生したコレラは数ヵ月の後に江戸へと至り、8月下旬から数ヵ月で10万人以上の死者を出したと伝えられています。加えて江戸にとどまらず、京都・大阪にも被害が拡大。深刻な打撃を与えています。

このときの大流行はとどまるところを知らず、「1859年から1861年にかけて、この流行は時には局所的に、時には国内至るところで発生し」た。

③1878(明治11)年〜1879(明治12)年の流行

④当時の防疫知識を総動員して対応にあたってはいたものの、コレラの猛威には対抗できず、1886(明治19)年にも、10万人を超える死者が出た。

・・・小原村の伝染病はコレラだったのだ。これを封じるためにこの神様が勧請されたというわけだ。今回のコロナ禍も1回では終息せず、何度も感染するのだろう。専門家と称する人は群盲巨象をなでるごとく、薬の開発は途上だし、治療法も確立していないのだ。

 大気都比亮命は日本神話の神様。
ウィキペディアには
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%AA%E3%82%B2%E3%83%84%E3%83%92%E3%83%A1

「高天原を追放された須佐之男命は、空腹を覚えて大気都比売神に食物を求め、大気都比売神はおもむろに様々な食物を須佐之男命に与えた。それを不審に思った須佐之男命が食事の用意をする大気都比売神の様子を覗いてみると、大気都比売神は鼻や口、尻から食材を取り出し、それを調理していた。須佐之男命は、そんな汚い物を食べさせていたのかと怒り、大気都比売神を斬り殺してしまった。すると、大気都比売神の頭から蚕が生まれ、目から稲が生まれ、耳から粟が生まれ、鼻から小豆が生まれ、陰部から麦が生まれ、尻から大豆が生まれた。 これを神産巣日御祖神が回収した。」

・・・頭から蚕が生れたというところがミソだな。

 次の東萩平に向かった。この山は周囲が車道に囲まれているので南回りに走った。結構な急斜面に山家が張り付くように建っている。谷もないのに水はどうしているんだろう。そういえば頂上の家も水がない。しかし地形図をよく見ると標高350m付近は水線ががあり、湧き水があると思われる。小さな谷間に水田もあった。案外水は恵まれているのだろう。大規模な谷は土木技術が無いと制御できないが家族が暮らせる程度の水は不自由しないのだ。

 というわけでまた県道11に下り、笹戸へ行って矢作川左岸に移る。市平からヘアピンの山道を走る。ゴルフ場があるために道案内があり、簡単に水上に着いた。今日は茶臼山の「登山口」付近にデポした。お須原山との鞍部になる。ちょっと探すと赤いひもがぶら下がっており、蜘蛛の巣を払いながら廃道の山道を辿る。登山口のヤブ、枯れ枝、倒木の散乱状態を抜け出ると落ち着いていて、赤いテープも見える。とはいえ、418mの山である。山頂近くになると踏み跡もしっかりしてきた。赤テープが二重に巻いてあるところからすぐで山頂だった。四等三角点が埋まる近くに山つつじが咲いている。展望は樹林の中なので皆無である。

 帰路は尾根を戻るつもりだったが赤テープを二重に巻いたところは谷へ下る踏み跡が比較的明瞭だったので小さな冒険を試みてみた。源頭では倒木や枯れ枝が散乱し荒れ気味だった。大きな岩が散乱する谷の左岸に不明瞭な踏み跡が続き、辿ると車道に出た。クルマにはすぐに戻ったが時間はあるのでお須原山に登った。風が心地よい。初夏の使者かというホトトギスが近くに来て鳴きながら去って行った。もうすぐ夏だよ、という。

 緊急事態宣言はもう解除されたものの愛知県独自にはしばらくは続けるという。コロナウイルスを完全には封じ込めることは出来ない。しかし、こんな三密ではない山歩きなら健康維持になりこそすれ病気にはなるまい。
 帰名の途次、矢作川河畔の「うな武」で遅い中食を取った。健康のためにうな丼3350円を奮発。近場で高速料金も掛からず、ガソリン代も知れてる。その分食事に回す。カーエアコンを利かせながら帰名した。

豊田市郷土資料館特別展「猿投山ー祈る山、観る山、登る山」2020年01月29日

 猿投山は私の住むマンションの窓から朝な夕なに眺める山である。右側に一段低くなる台地がありあそこがヤマトタケルの兄のオオウスノミコトの墳墓があるところであろう。まさに霊山である。
  親しい猿投山をどんな風に展示するのか興味深々で1/28に見学。一回りすると別室で動画もあり戦前のはげ山だったころの映像が視聴できる。文献の展示は学芸員の解説がないと楽しめないかも知れない。学芸員によるトークもあるので午後に尋ねるが良い。1/19から3/15の間、2時から2時30分間解説してくれる。ギャラリートークは2/15と2/29でともに午後2時から3時まで。講師は外部から招いた専門家。但し猿投山そのものではなく、石、名園に限る。
 今回は豊田市側のみに限る。どちらかと言えば猿投神社に重点が置かれた。猿投山の自然、民俗などが加味されればさらに充実する。この点は学芸員に注文をしておいた。例えば、猿投山の山名の由来である。景行天皇がいたずらする猿を投げたという伝説がもっぱら引用される。しかし、豊田市名誉市民の本多静雄氏は猿投山の「さな」は昔の製鉄に由来するという説を書いていました。こんな解説があれな尚興味は増すだろう。地名の語源辞典にもそう書いてある。
 また猿投山がはげ山だったというのは多分瀬戸市側ではないか。神社のある境内は樹齢200年はありそうな神杉が林立している。神域からちょっと離れると植林になり谷は荒れている。瀬戸物生産には大量の木炭を必要とした。約700年もの間伐採と自然生を繰り返してきたから東濃の窯元周辺の里山はほとんどはげ山になったのである。愛知県は地味の痩せた瀬戸市側の山を買い取り、植林はしたものの、育ちが悪かった。そこを日本山岳会東海支部が貸与してもらい、猿投の森づくりの会を立ち上げた。育ちの悪い植林を伐採し、林床に光を入れて雑木林の自然生を促し、ゆくゆくは市民が憩える雑木林になる。このまま放置すると元々の照葉樹林に戻るので、時々干渉して雑木林の状態を保つという。
 瀬戸市側の東大演習林側は行方不明者の捜索で許可を得て入山したことがある。さば土の尾根や谷にやっと植生が根付いたところである。今も松が残り杉桧の植林も不安定なままで崖崩れも多いので危険領域もある。活き活きした里山に回復するのはまだ数十年はかかるだろう。

鈴鹿・奥草山を歩く2019年12月21日

 鈴鹿の奥草山に登って来ました。
 名古屋を出たのは予定より30分遅れの7時30分になった。武平峠を越えて滋賀県土山町大河原のかもしか壮に着いたのは8時30分。伊勢湾岸道、新名神のお陰で約1時間ともの凄く早い。1250円也。
 かもしか壮のPから仰ぐとこれから行く山なみが見える。かもしかにPの承諾を得て、出発は9時になった。PからR477へ出て右折、R477の手前で右に入る車道を行く。最初は舗装だったが未舗装になる。標高450mの峠で車道は終わる。ここから尾根の踏み跡を探しながら歩き始める。すると左から良い道が合わさり、そのまま行くと537mのコブを巻くイメージで登った。さらに急な切り開きを攀じ登る。東西に横切る幅2mくらいの作業道に合う。そこも横切って急登にあえぐと820mの奥草山に着いた。
 まだ11時前だし、寒いのでそのまま歩く。雑木林を下って小さなコブを越え、右折して下ったところに政子3等三角点があった。点名は鶏岩という。ピンクや黄のテープが多い。11時になった。ここから一段と下って南のコブに行く。ピンクのテープが花が咲いたように見えるほどたくさん結んであった。矢印まである。明瞭な尾根を下る。標高620m付近でやっと12時を回ったので昼食にした。
 山頂と違って風もない。尾根は広くなった。雑木林から植林内へ入ると下枝もない。黄のテープが小まめに巻いてありそれを追う。途中、二重巻きがあって分岐らしいが尾根を忠実に下った。最後は堰堤の取り付け道路の終点に下れた。途中で下ると車道の山側の金網が越えられないだろう。堰堤まですぐだった。
 近道になると思い、ちょっと堰堤の階段を下ってみたが対岸で鍵がありしかも鉄条網で出られず袋小路になっていたのでまた戻ることになった。これは失敗。立入禁止の看板はなかったが事実上そうなっている。またR477へ出てかもしか壮へ戻った。13時30分頃か。
 一風呂浴びた。65歳以上は400円とシニアに優しい。旧宿舎以来久々の入浴である。コンパクトながら手ごたえはあった。
 奥草山は赤松の古木が多かった。樹齢は150年くらいか。かつては東海道を往来する馬の秣(まぐさ)を生産する草山だったのだろう。秣の需要が無くなると松を植えた。松は草山で養分が流れたやせた土地に強い。倒木が多いのは雑木林で落葉が養分となり地味が肥えたために枯れたのだろう。放っておけば落葉広葉樹の薪炭林になる。薪炭の需要も無くなると今度は皆伐して杉桧の植林山になった。
 里山の森林文化史を歩いているようだった。奥草山とは言いえて妙である。奥三河の萩垂山、萱場山は伊那街道の草山だったし、木曽上松の風越山は中山道の秣生産の山だった。