三遠研役員会 ― 2026年04月02日
午前中は早めに出発。県道58号で岡崎市日影町に行く。松平往還の出入り口が不明瞭なので再度現地調査である。案内書を読みながら現地を観察。3/15は迷いながらもなんとか往還の道につながった。結局、よく読むと県道が拡幅されて削られてしまった。鍋蓋のような道路を山を削って直線的に切通しにしてある。見ただけでは分からないわけだ。
この際県道338の旧道も走って見た。郡界川沿いの一車線の細い道だった。二畳ヶ瀧も見えたが降水後で濁っていた。どこまでも行くと奥殿陣屋の三差路へ出た。一周したわけだ。また瀧脇を経て林夫添のR301の信号に出て新城に向かった。
午後から新城市民文化会館で役員会を開催。4/18の総会の段取りを話し合う。
この際県道338の旧道も走って見た。郡界川沿いの一車線の細い道だった。二畳ヶ瀧も見えたが降水後で濁っていた。どこまでも行くと奥殿陣屋の三差路へ出た。一周したわけだ。また瀧脇を経て林夫添のR301の信号に出て新城に向かった。
午後から新城市民文化会館で役員会を開催。4/18の総会の段取りを話し合う。
歴史街道・松平往還を行く ― 2026年03月15日
徳川家発祥の地である豊田市松平郷から菩提寺の大樹寺を結ぶ古道を松平往還という。墓参に利用されたらしい。平成30年に磯貝榮一氏が『消えゆく松平往還を歩く』という案内書にまとめて発刊された。奥殿陣屋で入手して読んでみてトレースを試みた。日本版ロングトレイルである。
ピークは目指さず山里から山里へ歩く。順路は岡崎城または大樹寺から松平郷が終点になる。名鉄東岡崎駅から歩くと街歩きになることと時間の都合で名古屋からは標高270mの松平郷から同18mの大樹寺へ下る形の山旅になった。
3月半ばになると午前5時半というのに明るくなった。地下鉄鶴舞線・豊田線の始発に乗車、豊田市駅には約30分の6時47分に着いた。豊田市駅はリニューアル工事でごった返していた。駅員に聞いてバス乗り場を教えてもらった。午前7時8分発の下山行きおいでんバスに乗車、R301を走って松平郷に7時38分に着いた。バス停から5分ほど歩いて松平東照宮と松平親氏像を拝観。本当は高月院に詣でたいが割愛してバス停へ戻った。
松平往還の古道の入り口を迷走
当初は林添(はやしぞれ)を経由して南下とイメージしていた。案内書の地図にR301を少しもどって稲荷大神を裾を経由して地形図では無名の高ノ山の山里を経由する赤線があった。しかも✖がある。稲荷大神の界隈へ戻って地図通りに行ってみたが沢筋までは古道を下れた。水田に当たって1mの鉄線のフェンスと2m以上ありそうなネットが張ってあり隙間はなく、戻るしかなかった。✖の意味は進めないということだった。
R301から実線の車道に入った。舗装路ということで民家があるのだろう。狭い谷沿いの道はパッと開けて小さな中山間地に着いた。
鶯の初鳴きが聞こえてきた。土場の先にマイカーを止めた家が一軒あったが無住という感じだ。さらに奥のどん詰まりに若い人がいて聞くと家人に伝えてくれた。地形図で数戸の人家の記号がある高ノ山は1戸のみだった。家人に聞くとここから松平郷までは歩道があり、また七売は子供の通学路だというのである。家人曰く東海自然歩道の道というが、調べると松平ウォーク「寅の径」というコースに絡んでいると分かった。
高ノ山から古道を歩いて七売の里へ
家人に教えてもらった道をたどると行き過ぎたので戻って水田記号との境の林道をたどるとまもなく尾根に登ってゆく印があった。ここが子供の通学路だったというのだ。踏み跡は消え入りそうだったが樹林下なので下草ややぶは茂っていない。すぐに神社記号の元神明神社に着いた。お堂は古びて倒壊しそうな気がした。石段を下ると七売の里だ。下る途中に寅の径の道標があった。これが松平自然歩道の独自のに設定された径だった。
舗装路を歩いて滝脇へ(ここまでは豊田市)
一旦は車道に下って淡々と歩く。石御堂、滝脇小学校は見聞したが、豊田市と岡崎市の市境の郡界川を渡る。下流に二畳が滝があるが割愛。案内書ではここまでがあおいの道であるがバスを下車してかなりのロスタイムがあった。
渡通津町の山里へ松平往還の核心部を歩く
郡界川からは岡崎市に入る。案内書の竹の道である。読みにくい難読地名だが「松平五代長親の歌の一部即ち「・・・渡り通い津・・・」から家康が名付けた地名」という。
市道のどこかに渡通津町(わつづ)へ越える山道があるはずと思ったが何も目印はない。GPSの記号が示す所に多分送電線の巡視路と思われるセメントの道が登ってゆくのでそこに入ってみた。足元は荒廃しているが何とか登ってゆける。落ち葉の道について行くと広い巡視路に交わった。鉄塔巡視路の道標がある。下って見たが道路へ下る明瞭な山道は不明。この道を渡通津へ行くと確かに自然がよく残されていて新緑の頃は良いだろう。動画で見たのもこの辺だろう。地形図の実線の道が全コースを通じて自然度が高いという。やがて渡通津の中心地に下る。とはいえ、有人無人の数戸あるだけの過疎の山里である。
新東名をくぐって米河内へ
ここで少し腹ごしらえ。車道の急坂を歩いてマルタ園(レジャー施設)に向かう。途中から山の中へ入ってゆく。松平往還の案内板がある。この車道は中間地点で鎖がかかって車は通れない。駒立町に下り、また登り返す。唯生句碑が目印だったが見落とした。幸果園への目印を見落としてまた戻る。新東名の下を通過、幸香園を左に見てゆるり登ると射撃場へのゲートか。左の旧道(実線)へ行く。米河内までは荒廃しているがほぼセメントの道だった。
大樹寺から愛環鉄道・大門駅へ
米河内からは大樹寺まで立派な2車線の県道を歩く。今回は登山靴でもなく、スニーカーでもないがビブラム底の固い靴底で車道を歩いたから足裏が痛くなった。案内書では19kmとあるがヤマップの記録では喫茶店での休憩と道間違いの往復、道迷いのロスタイムを含めて、22.4km、8時間21分かかった。登山の原則である早立ち早着きを守って良かった。
喫茶店で一服したりして無事に大樹寺に着いた。五平餅で小腹を満たし、愛環鉄道大門駅発16時17分の電車に乗れた。車窓からは愛知高原の山並みの突起である焙烙山と六所山が目立った。
ピークは目指さず山里から山里へ歩く。順路は岡崎城または大樹寺から松平郷が終点になる。名鉄東岡崎駅から歩くと街歩きになることと時間の都合で名古屋からは標高270mの松平郷から同18mの大樹寺へ下る形の山旅になった。
3月半ばになると午前5時半というのに明るくなった。地下鉄鶴舞線・豊田線の始発に乗車、豊田市駅には約30分の6時47分に着いた。豊田市駅はリニューアル工事でごった返していた。駅員に聞いてバス乗り場を教えてもらった。午前7時8分発の下山行きおいでんバスに乗車、R301を走って松平郷に7時38分に着いた。バス停から5分ほど歩いて松平東照宮と松平親氏像を拝観。本当は高月院に詣でたいが割愛してバス停へ戻った。
松平往還の古道の入り口を迷走
当初は林添(はやしぞれ)を経由して南下とイメージしていた。案内書の地図にR301を少しもどって稲荷大神を裾を経由して地形図では無名の高ノ山の山里を経由する赤線があった。しかも✖がある。稲荷大神の界隈へ戻って地図通りに行ってみたが沢筋までは古道を下れた。水田に当たって1mの鉄線のフェンスと2m以上ありそうなネットが張ってあり隙間はなく、戻るしかなかった。✖の意味は進めないということだった。
R301から実線の車道に入った。舗装路ということで民家があるのだろう。狭い谷沿いの道はパッと開けて小さな中山間地に着いた。
鶯の初鳴きが聞こえてきた。土場の先にマイカーを止めた家が一軒あったが無住という感じだ。さらに奥のどん詰まりに若い人がいて聞くと家人に伝えてくれた。地形図で数戸の人家の記号がある高ノ山は1戸のみだった。家人に聞くとここから松平郷までは歩道があり、また七売は子供の通学路だというのである。家人曰く東海自然歩道の道というが、調べると松平ウォーク「寅の径」というコースに絡んでいると分かった。
高ノ山から古道を歩いて七売の里へ
家人に教えてもらった道をたどると行き過ぎたので戻って水田記号との境の林道をたどるとまもなく尾根に登ってゆく印があった。ここが子供の通学路だったというのだ。踏み跡は消え入りそうだったが樹林下なので下草ややぶは茂っていない。すぐに神社記号の元神明神社に着いた。お堂は古びて倒壊しそうな気がした。石段を下ると七売の里だ。下る途中に寅の径の道標があった。これが松平自然歩道の独自のに設定された径だった。
舗装路を歩いて滝脇へ(ここまでは豊田市)
一旦は車道に下って淡々と歩く。石御堂、滝脇小学校は見聞したが、豊田市と岡崎市の市境の郡界川を渡る。下流に二畳が滝があるが割愛。案内書ではここまでがあおいの道であるがバスを下車してかなりのロスタイムがあった。
渡通津町の山里へ松平往還の核心部を歩く
郡界川からは岡崎市に入る。案内書の竹の道である。読みにくい難読地名だが「松平五代長親の歌の一部即ち「・・・渡り通い津・・・」から家康が名付けた地名」という。
市道のどこかに渡通津町(わつづ)へ越える山道があるはずと思ったが何も目印はない。GPSの記号が示す所に多分送電線の巡視路と思われるセメントの道が登ってゆくのでそこに入ってみた。足元は荒廃しているが何とか登ってゆける。落ち葉の道について行くと広い巡視路に交わった。鉄塔巡視路の道標がある。下って見たが道路へ下る明瞭な山道は不明。この道を渡通津へ行くと確かに自然がよく残されていて新緑の頃は良いだろう。動画で見たのもこの辺だろう。地形図の実線の道が全コースを通じて自然度が高いという。やがて渡通津の中心地に下る。とはいえ、有人無人の数戸あるだけの過疎の山里である。
新東名をくぐって米河内へ
ここで少し腹ごしらえ。車道の急坂を歩いてマルタ園(レジャー施設)に向かう。途中から山の中へ入ってゆく。松平往還の案内板がある。この車道は中間地点で鎖がかかって車は通れない。駒立町に下り、また登り返す。唯生句碑が目印だったが見落とした。幸果園への目印を見落としてまた戻る。新東名の下を通過、幸香園を左に見てゆるり登ると射撃場へのゲートか。左の旧道(実線)へ行く。米河内までは荒廃しているがほぼセメントの道だった。
大樹寺から愛環鉄道・大門駅へ
米河内からは大樹寺まで立派な2車線の県道を歩く。今回は登山靴でもなく、スニーカーでもないがビブラム底の固い靴底で車道を歩いたから足裏が痛くなった。案内書では19kmとあるがヤマップの記録では喫茶店での休憩と道間違いの往復、道迷いのロスタイムを含めて、22.4km、8時間21分かかった。登山の原則である早立ち早着きを守って良かった。
喫茶店で一服したりして無事に大樹寺に着いた。五平餅で小腹を満たし、愛環鉄道大門駅発16時17分の電車に乗れた。車窓からは愛知高原の山並みの突起である焙烙山と六所山が目立った。
早春の古城山を歩く ― 2026年02月22日
2月になってやっと山に来れた。ゴホンゴホンと咳き込んで絶不調が続いて一ヶ月ぶりのハイキングは美濃には3ヶ所ある古城山のうちの長良川左岸に聳える437mの山。
今回は犬山遊園駅で合流。こっちは上小田井駅まで地下鉄鶴舞線で往き犬山線に乗換。約1時間と車よりも早く交通費も安い。
登山口の運動場のPに止めて歩き出す。古城山への道標が無いのでヤマップを見て最初は運動場の端を歩き車道に降りた。そこに道標があった。先へ行くと毛鹿洞池があるが渇水期の今を利用して何やら工事中だった。俳句歳時記の冬の季語に池普請がある。
いよいよ登山道らしいところに道標があった。植林内を歩くと林道に合い左折、二俣は谷筋へ直進した。道標はマメにあるから安心だ。岩山のせいか水涸れるの季語通り小さな谷にも流れがない。谷から出て本格的な山道に入る。少し身体が温まってきたので衣服を調整した。
一ヶ月のブランクで鈍った身体の血液が循環して全身を巡る。温かい血液が足の筋肉の収縮でポンプになり全身に運ばれる。体温が上がると免疫力も上がる。気分も高揚してくる。山歩きの健康効果である。
最初の東屋に着いた。ここからはわずかに南方面にひらけている。風もなく穏やかだ。”のどかさや”・・・と一句詠みたいが後がでない。
ここから階段の道を連続的に登るようになった。登って下ってを繰り返すと2等三角点のある山上だった。城趾らしく広い。
永禄、天正年間にできた山城という案内板が建っている。
「古城山の古名は鉈尾山(なたおやま)。 この山の山頂に、戦国末期の佐藤氏三代の城(鉈尾山城)の城跡がございます。この城は永禄六年(1563)に佐藤六左衛門清信により築かれたといわれています。鉈尾山の由来は、四方を釣壁で構えられ、鉈一丁で壁を切り落とせば何千騎も防ぐことができたことに由来するといわれています。」
尾張藩が編纂した江戸時代末期の地誌『新撰美濃志』に当たると「上有知村」の項目に「鉈尾山」は直高十五町程、根廻り二里八町餘の山なり。と簡単に紹介。ちょっと後に「佐藤氏古城は鉈尾山にあり。佐藤將監、其の子六左衛門、其の子才二郎、三代すみしが、慶長五年の亂れに才二郎岐阜中納言秀信に随ひ、岐阜没落しければ此城を退きしのち廃して小倉山にうつせり。その後は「金森五郎が織田豊臣の両公に従ひ、数度戦功をあらわして飛騨国と共に領して鉈尾山の上に城をうつせり」とある。しかし金森氏の子孫は郡上一揆で失策。改易された。
ネットからのコピペですが
中世の主な元号(年号)
鎌倉時代:建久、建仁、承久、貞永、文永、弘安
室町時代:建武、延文、応安、明徳、応永、永享、嘉吉、応仁、文明
戦国時代:大永、天文、永禄、天正
※この期間は、武士の力が増大し、荘園制が崩壊して寄生地主制へと変化した、日本の大きな転換期です。
以上
人の世は虚し=1467年の応仁の乱以後、天皇家の権威をバックにした宮廷の政治から武家の政治へと大転換。日本中世史には宮廷が武家を冷遇したからだと解説。藤原氏も政治が巧みだったわけではなかった。つまり身分の低い武士でも武力で政権の座に付けるチャンスと見られた。乱世を究めた下剋上の戦国時代は1603年の徳川幕府成立まで100年以上も続いた。
春浅し佐藤氏三代夢の跡 拙作
南西に展望が広がる。美濃は長良川が作った沖積平野だ。その奥には金華山らしい山が見えた。すると手前の右は百々ヶ峰か。船伏山、兎走山も見えているはず。伊吹山は春霞で見えない。
充分な休憩後、下山開始。山で会った人は階段が多かったと言いながら元の道を戻った。確かに急で階段が多く疲れるが早い。運動場に着いて登って来た山を見上げた。
こんな里山にも「しかるに何事ぞ、天変甚速にして、かくのごとく盛大をいたせし」鉈尾山も「ついに槿花一朝の栄に過ぎざりしや。」の歴史に思いを致した。
今回は犬山遊園駅で合流。こっちは上小田井駅まで地下鉄鶴舞線で往き犬山線に乗換。約1時間と車よりも早く交通費も安い。
登山口の運動場のPに止めて歩き出す。古城山への道標が無いのでヤマップを見て最初は運動場の端を歩き車道に降りた。そこに道標があった。先へ行くと毛鹿洞池があるが渇水期の今を利用して何やら工事中だった。俳句歳時記の冬の季語に池普請がある。
いよいよ登山道らしいところに道標があった。植林内を歩くと林道に合い左折、二俣は谷筋へ直進した。道標はマメにあるから安心だ。岩山のせいか水涸れるの季語通り小さな谷にも流れがない。谷から出て本格的な山道に入る。少し身体が温まってきたので衣服を調整した。
一ヶ月のブランクで鈍った身体の血液が循環して全身を巡る。温かい血液が足の筋肉の収縮でポンプになり全身に運ばれる。体温が上がると免疫力も上がる。気分も高揚してくる。山歩きの健康効果である。
最初の東屋に着いた。ここからはわずかに南方面にひらけている。風もなく穏やかだ。”のどかさや”・・・と一句詠みたいが後がでない。
ここから階段の道を連続的に登るようになった。登って下ってを繰り返すと2等三角点のある山上だった。城趾らしく広い。
永禄、天正年間にできた山城という案内板が建っている。
「古城山の古名は鉈尾山(なたおやま)。 この山の山頂に、戦国末期の佐藤氏三代の城(鉈尾山城)の城跡がございます。この城は永禄六年(1563)に佐藤六左衛門清信により築かれたといわれています。鉈尾山の由来は、四方を釣壁で構えられ、鉈一丁で壁を切り落とせば何千騎も防ぐことができたことに由来するといわれています。」
尾張藩が編纂した江戸時代末期の地誌『新撰美濃志』に当たると「上有知村」の項目に「鉈尾山」は直高十五町程、根廻り二里八町餘の山なり。と簡単に紹介。ちょっと後に「佐藤氏古城は鉈尾山にあり。佐藤將監、其の子六左衛門、其の子才二郎、三代すみしが、慶長五年の亂れに才二郎岐阜中納言秀信に随ひ、岐阜没落しければ此城を退きしのち廃して小倉山にうつせり。その後は「金森五郎が織田豊臣の両公に従ひ、数度戦功をあらわして飛騨国と共に領して鉈尾山の上に城をうつせり」とある。しかし金森氏の子孫は郡上一揆で失策。改易された。
ネットからのコピペですが
中世の主な元号(年号)
鎌倉時代:建久、建仁、承久、貞永、文永、弘安
室町時代:建武、延文、応安、明徳、応永、永享、嘉吉、応仁、文明
戦国時代:大永、天文、永禄、天正
※この期間は、武士の力が増大し、荘園制が崩壊して寄生地主制へと変化した、日本の大きな転換期です。
以上
人の世は虚し=1467年の応仁の乱以後、天皇家の権威をバックにした宮廷の政治から武家の政治へと大転換。日本中世史には宮廷が武家を冷遇したからだと解説。藤原氏も政治が巧みだったわけではなかった。つまり身分の低い武士でも武力で政権の座に付けるチャンスと見られた。乱世を究めた下剋上の戦国時代は1603年の徳川幕府成立まで100年以上も続いた。
春浅し佐藤氏三代夢の跡 拙作
南西に展望が広がる。美濃は長良川が作った沖積平野だ。その奥には金華山らしい山が見えた。すると手前の右は百々ヶ峰か。船伏山、兎走山も見えているはず。伊吹山は春霞で見えない。
充分な休憩後、下山開始。山で会った人は階段が多かったと言いながら元の道を戻った。確かに急で階段が多く疲れるが早い。運動場に着いて登って来た山を見上げた。
こんな里山にも「しかるに何事ぞ、天変甚速にして、かくのごとく盛大をいたせし」鉈尾山も「ついに槿花一朝の栄に過ぎざりしや。」の歴史に思いを致した。
雪とグルメと温泉の釜ヶ谷山 ― 2026年01月11日
気象予報では雨が降るようで芳しくない。今回は久々に2名になったので冬の雨は嫌だな、と思いつつ出かけた。名古屋を5時には出る。すき家で朝定をかき込んで名二環に入り、名古屋高速一宮線で北上、R22に降りてR156へ、岩戸トンネルを抜けてすぐ左折、鵜飼い大橋で長良川を渡ると百々ヶ峰に突き当たる。R256に入って如来ヶ岳山麓を北上、県道79号を西へ行くと伊自良川と交差するので県道91号に右折。集合はてんこもり農産物直売所へ午前7時だがチエーンがあっては入れない。まだ薄暗いが相棒はコンビニで待っていていた。すぐ伊自良湖へ向かった。立ち寄りたいたい所があったが下山後だ。
下山後に江戸時代の地誌『新撰美濃志』を読んでみた。伊自良郷と呼ばれていたが伊自良村はなく、長瀧村の項目があった。伊自良は十郷あってそれぞれ字があった。・・・『釜嶽』は濃陽志略に「里民呼曰釜溪ト連互數里ニ絶頂有池四時不涸、此山雑樹葱岩石岣最爲奇也」と見えたり。『長瀧山、岸見山』伊自良の高山なり。伊自良川は此の山中より出づ。常は水なく、砂川にて洪雨の時水出づ。略。『甘南美寺』は臨済宗にて白華山と號す。開基は高阿彌、名知阿彌。本尊は千手十一面観音、脇立不動毘沙門なり。當國三十三所十三番に配す。引用は以上。
長瀧村の名残りは伊自良湖のすぐ下流の里の地名に見る。伊自良湖の湖面が見えると多数のボートが浮かんでいた。恋人同士が朝早くからデート?多分公魚釣りか、疑問のまま登山口の臨時Pに着いた。地形図で116m地点。あいにく小雨模様だ。オーバーヤッケで防寒と小雨対応の身支度を整えて出発。最初は舗装路を分け入ると杉の高木が生える森の中である。番号入りの観音の石仏が立っている。バンガローのような施設は今は冬のもの寂しい雰囲気である。しばらくは車道を歩くと二又に別れる。右は釜ヶ谷に沿う林道で赤谷の出合い迄続く。堰堤記号が三か所連続してあった。我々は釜ヶ谷本流に沿いながら直進。左へ上がって四阿などの施設で舗装路は終わった。ここからは未舗装の林道歩きだが次第に山路になった。途端に谷が立って来て傾斜が強まる。岩がごろごろした歩きにくい山路をこなしてゆくと優しい道になり、山頂からの南東尾根の端に立つ四阿に着いた。残念ながら展望はない。途中から小雨が降雪になった。一種の感動とともに不安も伴う。ここで雪に備えて雨具でザックをカバー。尾根の道からみぞれ谷の枝谷の源流を迂回すると奥の院に着いた。社殿は穴だらけだ。中をのぞくと座禅した板間があった。穴は多分風通しを良くして腐食を避けるためか、人が使わない建物は内にこもった湿気で腐る。雨の時は膨張して外からの湿気を防ぎ、乾燥した時は縮んで隙間風を入れてやる校倉造が理想ですが高額の建設費がかかる。
さて出発だ。左に丁度33番目の石仏が建っていた。美濃三十三観音霊場の十三番目の霊場だ。ここを後に登るとすぐに神社が建っていた。ここはおそらく明治維新で「仏法を廃し、釈迦の教えを棄却する」という仏教の信仰や施設を否定する運動の影響か。説明を読むと明治3年とある。祖神は皇祖神のアマテラスだった。
地形図で等高線が密にになり、急登を強いられた。行者岩に到達、上に登ると、最近登った百々ヶ峰と金華山が見えた。ちょっと荒れ気味の登山道を登ると龍神コースへの分岐に着いた。降ったり止んだりしていたが標高640mまで来ると冷気が違う。一面真っ白になった。小さなコブを巻くと待望の山頂だった。千把小屋という避難小屋まである。扉がないので雪が吹き込んで床は白い。小屋の四隅の角は丁度腰掛に良いのがあって少し休めた。
休憩中にもどんどん降って来る。眺めもなく止みそうにないので往路の下山を決めた。連続的に降雪路を下る。桧の林に下っても断続的に雪がある。滑落しないようにゆっくり慎重に下った。東屋まで下るとやっと落ち葉の道になり安定的に歩ける。車道に着いてほっと一安心。そこから余裕で石仏の番号を見ながら下ってPに戻った。
帰りは甘南美寺に寄って参拝。池の鯉の大きさに見とれた。もう一ヶ所、「伊自良湖 FISHING & ADVENTURE PARK」に寄った。公魚(わかさぎ)の天ぷらはあるか、聞いたらフライはあるとの回答。13時だったがラーメンと公魚のフライ(二人で一つ)を注文。朝6時半から釣りボートを営業するから恋人のデートではなかった。疑問が解けた。待っている間にも車にどんどん積もって来た。雪とグルメの冬日和を楽しめた。
もう一つおまけに帰りがけに約30分の所にある武芸川温泉に寄って入湯した。900円と高くなったにもかかわらず、そして大雪というのに大勢のお客が詰めかけて来た。これには驚いた。
下山後に江戸時代の地誌『新撰美濃志』を読んでみた。伊自良郷と呼ばれていたが伊自良村はなく、長瀧村の項目があった。伊自良は十郷あってそれぞれ字があった。・・・『釜嶽』は濃陽志略に「里民呼曰釜溪ト連互數里ニ絶頂有池四時不涸、此山雑樹葱岩石岣最爲奇也」と見えたり。『長瀧山、岸見山』伊自良の高山なり。伊自良川は此の山中より出づ。常は水なく、砂川にて洪雨の時水出づ。略。『甘南美寺』は臨済宗にて白華山と號す。開基は高阿彌、名知阿彌。本尊は千手十一面観音、脇立不動毘沙門なり。當國三十三所十三番に配す。引用は以上。
長瀧村の名残りは伊自良湖のすぐ下流の里の地名に見る。伊自良湖の湖面が見えると多数のボートが浮かんでいた。恋人同士が朝早くからデート?多分公魚釣りか、疑問のまま登山口の臨時Pに着いた。地形図で116m地点。あいにく小雨模様だ。オーバーヤッケで防寒と小雨対応の身支度を整えて出発。最初は舗装路を分け入ると杉の高木が生える森の中である。番号入りの観音の石仏が立っている。バンガローのような施設は今は冬のもの寂しい雰囲気である。しばらくは車道を歩くと二又に別れる。右は釜ヶ谷に沿う林道で赤谷の出合い迄続く。堰堤記号が三か所連続してあった。我々は釜ヶ谷本流に沿いながら直進。左へ上がって四阿などの施設で舗装路は終わった。ここからは未舗装の林道歩きだが次第に山路になった。途端に谷が立って来て傾斜が強まる。岩がごろごろした歩きにくい山路をこなしてゆくと優しい道になり、山頂からの南東尾根の端に立つ四阿に着いた。残念ながら展望はない。途中から小雨が降雪になった。一種の感動とともに不安も伴う。ここで雪に備えて雨具でザックをカバー。尾根の道からみぞれ谷の枝谷の源流を迂回すると奥の院に着いた。社殿は穴だらけだ。中をのぞくと座禅した板間があった。穴は多分風通しを良くして腐食を避けるためか、人が使わない建物は内にこもった湿気で腐る。雨の時は膨張して外からの湿気を防ぎ、乾燥した時は縮んで隙間風を入れてやる校倉造が理想ですが高額の建設費がかかる。
さて出発だ。左に丁度33番目の石仏が建っていた。美濃三十三観音霊場の十三番目の霊場だ。ここを後に登るとすぐに神社が建っていた。ここはおそらく明治維新で「仏法を廃し、釈迦の教えを棄却する」という仏教の信仰や施設を否定する運動の影響か。説明を読むと明治3年とある。祖神は皇祖神のアマテラスだった。
地形図で等高線が密にになり、急登を強いられた。行者岩に到達、上に登ると、最近登った百々ヶ峰と金華山が見えた。ちょっと荒れ気味の登山道を登ると龍神コースへの分岐に着いた。降ったり止んだりしていたが標高640mまで来ると冷気が違う。一面真っ白になった。小さなコブを巻くと待望の山頂だった。千把小屋という避難小屋まである。扉がないので雪が吹き込んで床は白い。小屋の四隅の角は丁度腰掛に良いのがあって少し休めた。
休憩中にもどんどん降って来る。眺めもなく止みそうにないので往路の下山を決めた。連続的に降雪路を下る。桧の林に下っても断続的に雪がある。滑落しないようにゆっくり慎重に下った。東屋まで下るとやっと落ち葉の道になり安定的に歩ける。車道に着いてほっと一安心。そこから余裕で石仏の番号を見ながら下ってPに戻った。
帰りは甘南美寺に寄って参拝。池の鯉の大きさに見とれた。もう一ヶ所、「伊自良湖 FISHING & ADVENTURE PARK」に寄った。公魚(わかさぎ)の天ぷらはあるか、聞いたらフライはあるとの回答。13時だったがラーメンと公魚のフライ(二人で一つ)を注文。朝6時半から釣りボートを営業するから恋人のデートではなかった。疑問が解けた。待っている間にも車にどんどん積もって来た。雪とグルメの冬日和を楽しめた。
もう一つおまけに帰りがけに約30分の所にある武芸川温泉に寄って入湯した。900円と高くなったにもかかわらず、そして大雪というのに大勢のお客が詰めかけて来た。これには驚いた。
地形図に残された交通史~森林鉄道 ― 2025年12月26日
設楽町の資源は森林と水である。昭和の初めの地形図には明治時代にはなかった田口鉄道のトンネルが印刷される。後には豊橋鉄道田口線に変わる。戦後の石油輸入が盛んになると自働車用に改良されて稲目トンネルに変わった。1958年頃にはスバルのテントウ虫が発売、続いてトヨタのパブリカ、日産のサニー、トヨタのカローラでモータリゼーションの波が来ると鉄道は衰退する。
田口線の終点は田口から寒狭川に下ったところに田口駅があった。昔は津具村で算出した金鉱山も運んでいた。田口線田峯駅から当貝津川沿いに森林鉄道の支線が張り巡らされた。更に栃洞線、最奥の鰻沢線が伸びた。鰻沢の源流は出来山という。鰻沢を遡行して出来山に登った。この時も源流部には森林軌道の跡が残置されていた。橋脚、沢沿いの軌道は美しいアーチを描く石垣が続いていた。これを見ると伐採作業員、鉄道の機関士、石工等多くの働き口を提供したであろう。
トラックの時代になるとこれらは一気に何事も無かったかのごとく消え去った。古いトンネルだけは壊さずに残っている。
田口線の終点は田口から寒狭川に下ったところに田口駅があった。昔は津具村で算出した金鉱山も運んでいた。田口線田峯駅から当貝津川沿いに森林鉄道の支線が張り巡らされた。更に栃洞線、最奥の鰻沢線が伸びた。鰻沢の源流は出来山という。鰻沢を遡行して出来山に登った。この時も源流部には森林軌道の跡が残置されていた。橋脚、沢沿いの軌道は美しいアーチを描く石垣が続いていた。これを見ると伐採作業員、鉄道の機関士、石工等多くの働き口を提供したであろう。
トラックの時代になるとこれらは一気に何事も無かったかのごとく消え去った。古いトンネルだけは壊さずに残っている。
地形図に残された交通史~伊那街道 ― 2025年12月25日
あいにくの小雨模様だが三の丸のPに停めて、愛知県図書館に向かう。三の丸の道路は南へはしばらく歩かない。これまでは幕で閉ざされていたが知らない内に白いビルが姿を現して来た。耐震補強をしたのかどうか。
城跡の蔓性の植物も枯れている。そんな風景が枯れ葎の季語を引き出す。小雨で暗い感じが如何にも生命力の衰えた感じを引き出している。
さて、久々の愛知県図書館に来た。警備員が以前から居たとは思うが強い警戒心を感じさせるのは不審な入館者をチエックしているのだろうか。
目的は戦前戦後の地形図の閲覧である。3階に上がって地域資料のコーナーに行く。ここには明治時代からの地形図が閲覧できるのでたまに来る。今日はこの前歩いた新城市から設楽町を貫く歴史の山路である伊那街道の資料探しだった。
まずは設楽町誌の絵図だけを集めた書籍を調べた。明治時代初期までの本格測量の地形図がなかった時代は鳥観図のような手書きの絵図で村の様子を記録していた。以前にも名倉の仏庫裡の古名を調べたら「ぶくりこや」となっていた。段戸山も後に鷹ノ巣山に変更されたが根拠は古名の「たかのす」である。宇連山の古名は「がんどぅ」であり、振草村誌の古名は「がんぞもちふで」というわけである。鳳来湖の奥地は振草村だったが合併で最奥は設楽町に編入、外は東栄町とまたがって整理された。
つまり地図は散文ではないが、歴史が凝縮されている。見たのは五万図の「田口」。明治44年版、昭和の戦前、戦後の4枚を見た。
与良木峠は記載されていたが、設楽町側に下った辺りから・412の南の鞍部を越えて、四谷の大代と小代を結んだ旧伊那街道に連絡する破線路がつながっていた。かしやげ峠を経ないで海老へ行く近道のイメージである。四谷には仏坂峠付近に古宿という地名があった。ここは宿場があったのだろう。小代から塩津、荒尾までも険しい山路である。与良木峠経由清崎経由の新道もすでにあって現在のR257の道に伊那街道とルビが降ってある。なおかつ隣の破線路は石畳の道も残っている。
江戸時代から明治時代になると人口も増えた。輸送する塩の運搬の回数や量が増えてなるだけ楽なルートへと改良が続けられたと読める。
城跡の蔓性の植物も枯れている。そんな風景が枯れ葎の季語を引き出す。小雨で暗い感じが如何にも生命力の衰えた感じを引き出している。
さて、久々の愛知県図書館に来た。警備員が以前から居たとは思うが強い警戒心を感じさせるのは不審な入館者をチエックしているのだろうか。
目的は戦前戦後の地形図の閲覧である。3階に上がって地域資料のコーナーに行く。ここには明治時代からの地形図が閲覧できるのでたまに来る。今日はこの前歩いた新城市から設楽町を貫く歴史の山路である伊那街道の資料探しだった。
まずは設楽町誌の絵図だけを集めた書籍を調べた。明治時代初期までの本格測量の地形図がなかった時代は鳥観図のような手書きの絵図で村の様子を記録していた。以前にも名倉の仏庫裡の古名を調べたら「ぶくりこや」となっていた。段戸山も後に鷹ノ巣山に変更されたが根拠は古名の「たかのす」である。宇連山の古名は「がんどぅ」であり、振草村誌の古名は「がんぞもちふで」というわけである。鳳来湖の奥地は振草村だったが合併で最奥は設楽町に編入、外は東栄町とまたがって整理された。
つまり地図は散文ではないが、歴史が凝縮されている。見たのは五万図の「田口」。明治44年版、昭和の戦前、戦後の4枚を見た。
与良木峠は記載されていたが、設楽町側に下った辺りから・412の南の鞍部を越えて、四谷の大代と小代を結んだ旧伊那街道に連絡する破線路がつながっていた。かしやげ峠を経ないで海老へ行く近道のイメージである。四谷には仏坂峠付近に古宿という地名があった。ここは宿場があったのだろう。小代から塩津、荒尾までも険しい山路である。与良木峠経由清崎経由の新道もすでにあって現在のR257の道に伊那街道とルビが降ってある。なおかつ隣の破線路は石畳の道も残っている。
江戸時代から明治時代になると人口も増えた。輸送する塩の運搬の回数や量が増えてなるだけ楽なルートへと改良が続けられたと読める。
奥三河・冬枯れの無名の山を歩く。 ― 2025年12月19日
明日明後日は悪天候というので気になっていた三角点「連合」のピークハントに来た。与良木峠(370m)は伊那街道の古い峠道である。クルマでトンネル迄走って見た。
生成AIの回答(一部編集)は「南設楽郡鳳来町(現新城市)の「与良木(よらぎ)」の地名由来は、「与良木」が元々、鳳来寺の氏子圏だった小野村(現在の連合地区)の別称」だそうです。与良木隧道は「明治27年(1894)に作られた。当時の原形を留めており、愛知県最古のトンネルである。長さ35m、道路幅5m、車幅4m、高さ5m。設楽町側の扁額には、草書体で上段に「北設楽」、下段に「よらき隧道」と記される。新城市側の扁額には、楷書体で上段に「南設楽」、下段に「與良木隧道」と記される。新城市側の坑門は明治の頃の姿を残している。内部はコンクリートで修復されているが、元々は素掘りだった。後略」
三角点の点名の連合も「元々は別の集落や地名だったものが、明治の市町村制施行やその後の合併を経て、この地域一帯の集まり(連合体)のような意味合いで「連合」という名称が使われ、それが大字名として残った」と回答があった。
設楽町側からトンネルを通過して旧鳳来町側の山側に杣道を探して見た。△494.8mの真東まで実線の林道を走ったが無いので設楽町側まで引き返す。
峠まで登る山路は残っておらず、危うい踏み跡をたどった。馬頭観音の碑が確かに古い峠だった証を示す。設楽町と新城市の境界尾根に立った。峠から東へは明瞭な踏み跡が登ってゆくのに「連合」へはない。境界尾根は幸いに植林の疎林であり、ヤブもないのでそろそろ歩いていく。「連合」は南北に長い尾根の南端にあり、境界尾根が北端につながったところの獣道を急登すると460mの等高線に達する。ここで約40分なので水を飲もうとしたらペットボトルを忘れた。
三角点までの約500mの尾根も疎林で多少の低灌木はあるが痩せ尾根のために障害はない。明るいので岩場からの展望を期待したが灌木に囲まれて見えない。東は樹林越しに仏坂峠から宇連山辺りの稜線が見える。西には龍頭山だろう。三角点は土に埋まっていた。地形図では無名なので誰も登って来る人がいないのだろう。しかし、無名であるはずはなく、地元では命名されているだろう。ヤクルトの空容器の分岐まで戻る。登った獣道がこんなに急だったか、と思わせるほどの急斜面を下って鞍部に立つ。峠まで戻っても良いが鞍部から谷を降りてみた。カール状の源流部の急斜面は杉の立木や灌木の根元を支点にゆっくり下る。間伐材が散乱する谷底まで来ると足元は安定する。林道に出て峠まで戻った。
峠から地形図の実線の道を少し歩いて見たら水田の廃田のところで引き返した。峠へ登り返して危うい踏み跡を下った。
実線の道を行けば410mのコブの右の小さな峠を越えたところが与良木だ。水線が複雑に入り組む地形では湧水が豊富なのだろう。だから水田耕作が出来たのだ。又南向きの斜面は作物の生育には良い。米が採れれば建物の記号が固まってあるから結構人が住んでいたのだろう。隣の四谷は棚田で知られる。清崎を流れる豊川の支流の野々瀬川の支谷が境界尾根を越えて四谷の源流部に食い込んでいる。地形図を眺めていると不思議な地形だから再び来てみたい。
帰りは道の駅したらに寄って遅い中食にした。絹サーモンを注文したが売り切れという。一日五食というレアなメニューである。あれは豊邦というところで養殖していた気がする。代わりに鮎のフライ定食にした。3尾の鮎が開かずに丸ごと揚げてある。頭からかぶりつくが骨が硬いので食べにくい。味はまあまあ。たっぷりのキャベツも良い。
生成AIの回答(一部編集)は「南設楽郡鳳来町(現新城市)の「与良木(よらぎ)」の地名由来は、「与良木」が元々、鳳来寺の氏子圏だった小野村(現在の連合地区)の別称」だそうです。与良木隧道は「明治27年(1894)に作られた。当時の原形を留めており、愛知県最古のトンネルである。長さ35m、道路幅5m、車幅4m、高さ5m。設楽町側の扁額には、草書体で上段に「北設楽」、下段に「よらき隧道」と記される。新城市側の扁額には、楷書体で上段に「南設楽」、下段に「與良木隧道」と記される。新城市側の坑門は明治の頃の姿を残している。内部はコンクリートで修復されているが、元々は素掘りだった。後略」
三角点の点名の連合も「元々は別の集落や地名だったものが、明治の市町村制施行やその後の合併を経て、この地域一帯の集まり(連合体)のような意味合いで「連合」という名称が使われ、それが大字名として残った」と回答があった。
設楽町側からトンネルを通過して旧鳳来町側の山側に杣道を探して見た。△494.8mの真東まで実線の林道を走ったが無いので設楽町側まで引き返す。
峠まで登る山路は残っておらず、危うい踏み跡をたどった。馬頭観音の碑が確かに古い峠だった証を示す。設楽町と新城市の境界尾根に立った。峠から東へは明瞭な踏み跡が登ってゆくのに「連合」へはない。境界尾根は幸いに植林の疎林であり、ヤブもないのでそろそろ歩いていく。「連合」は南北に長い尾根の南端にあり、境界尾根が北端につながったところの獣道を急登すると460mの等高線に達する。ここで約40分なので水を飲もうとしたらペットボトルを忘れた。
三角点までの約500mの尾根も疎林で多少の低灌木はあるが痩せ尾根のために障害はない。明るいので岩場からの展望を期待したが灌木に囲まれて見えない。東は樹林越しに仏坂峠から宇連山辺りの稜線が見える。西には龍頭山だろう。三角点は土に埋まっていた。地形図では無名なので誰も登って来る人がいないのだろう。しかし、無名であるはずはなく、地元では命名されているだろう。ヤクルトの空容器の分岐まで戻る。登った獣道がこんなに急だったか、と思わせるほどの急斜面を下って鞍部に立つ。峠まで戻っても良いが鞍部から谷を降りてみた。カール状の源流部の急斜面は杉の立木や灌木の根元を支点にゆっくり下る。間伐材が散乱する谷底まで来ると足元は安定する。林道に出て峠まで戻った。
峠から地形図の実線の道を少し歩いて見たら水田の廃田のところで引き返した。峠へ登り返して危うい踏み跡を下った。
実線の道を行けば410mのコブの右の小さな峠を越えたところが与良木だ。水線が複雑に入り組む地形では湧水が豊富なのだろう。だから水田耕作が出来たのだ。又南向きの斜面は作物の生育には良い。米が採れれば建物の記号が固まってあるから結構人が住んでいたのだろう。隣の四谷は棚田で知られる。清崎を流れる豊川の支流の野々瀬川の支谷が境界尾根を越えて四谷の源流部に食い込んでいる。地形図を眺めていると不思議な地形だから再び来てみたい。
帰りは道の駅したらに寄って遅い中食にした。絹サーモンを注文したが売り切れという。一日五食というレアなメニューである。あれは豊邦というところで養殖していた気がする。代わりに鮎のフライ定食にした。3尾の鮎が開かずに丸ごと揚げてある。頭からかぶりつくが骨が硬いので食べにくい。味はまあまあ。たっぷりのキャベツも良い。
遠望峰山へ ― 2025年11月30日
11/29の研修後は旗振り山の踏査行。前日の帰路、蒲郡市と幸田町にまたがる遠望峰山へ行った。ほとんど車で登れる山だからと行くには行ったが山上にはホテルがあって多数の車が止まっていた。さらにPからはみ出して路駐の車も多くて違和感がある。ちょっと寄るだけのつもりだったがモチベーションがだだ下がりで撤退。
三河湾スカイラインをドライブするだけに終わった。隣の桑谷山は40年位前に車で山頂をかすめた記憶がある。改めて登り直すことにした。JRで幸田駅まで行って、山頂へ向かい、続いて桑谷山へミニ縦走。そして岡崎市側へ尾根伝いに下って名鉄で帰名というプランを立ててみた。
12月下旬になれば落葉樹も落ち尽くすので遠望が利くようになる。三ヶ日町の旗振り山を認識できれば良い。
三河湾スカイラインをドライブするだけに終わった。隣の桑谷山は40年位前に車で山頂をかすめた記憶がある。改めて登り直すことにした。JRで幸田駅まで行って、山頂へ向かい、続いて桑谷山へミニ縦走。そして岡崎市側へ尾根伝いに下って名鉄で帰名というプランを立ててみた。
12月下旬になれば落葉樹も落ち尽くすので遠望が利くようになる。三ヶ日町の旗振り山を認識できれば良い。
坊ケ峰ミニハイキング ― 2025年10月03日
新城市に4日午後に急用ができた。明日は雨模様、今日は辛うじて曇天、坊ヶ峰なら午前中に登れそう。と東三河に来たが金曜日なので交通量が多く更に東名高速道路の工事渋滞に冷や冷やしながら豊川ICを出て本坂峠に向かった。
八名弓張山地は北へ行くほど登山者の数が少ない。一等三角点を置く富幕山を除くと人と会うことが稀だった。未踏峰としてストックしてあった坊ヶ峰も姫街道と絡めて歩きたかった。
R362のトンネル付近から左折しそこねて遠州側に出てしまったのでUターンして旧道に入る。つづら折れの狭い車道を行くと旧トンネルまで来てしまった。幸い姫街道につなぐ歩道があったので今日はここが登山口になる。
周囲の植生は檜の人工林で照葉樹の灌木が混じる。途中弘法大師様の湧水があった。コンコンと湧くイメージではない。夏ならひと掬いでも重宝する。峠にはあっと言う間に着いた。
峠からは急登が待っていた。岩が混じるのでちょっと大変だ。やがて祠が見えてきた。北へ回り込むと2等三角点が埋まる坊ヶ峰頂上だ。但し樹林の中で展望はない。歩道は北へ続いていてここが目標とされる山頂ではない感じ。祠前で水を飲んで下山した。
峠からは足元の地質が気になる。チャートの様な褶曲が露頭して居る。滑落しない様に下った。あっと言う間にPに着いた。
往復1時間弱のミニハイキングでした。443mと低いがさわやかな秋の空気のお陰で汗をかくこともなかった。
冒頭の八名はかつてあった八名郡の名残りだ。弓張山地は地殻変動で東側に弓状に湾曲させられたと想像する。赤石山脈の南部というがもっと北の佐久間町で天竜川も東へ流路を変える。秋葉街道に沿って南流する不思議。大井川も平野部まで南流しながら小笠山で東に折れ曲がって居る。何故か法多山がある。地殻変動は想像力を掻き立てる。
豊川沿いには中央構造線が走り豊橋で西に折れて渥美半島につながる。古道歩きで気付いたことは地殻変動のあった辺りには古刹名刹が多いと思った。中央構造線では三河は本宮山奥宮砥鹿神社、豊川稲荷、伊勢は伊勢神宮、遠州では秋葉山、法多山。信州では諏訪四社。今日の帰りには豊川の国分寺尼寺跡に寄った。壮大な寺院跡が発掘、一部が再現されていた。
八名弓張山地は北へ行くほど登山者の数が少ない。一等三角点を置く富幕山を除くと人と会うことが稀だった。未踏峰としてストックしてあった坊ヶ峰も姫街道と絡めて歩きたかった。
R362のトンネル付近から左折しそこねて遠州側に出てしまったのでUターンして旧道に入る。つづら折れの狭い車道を行くと旧トンネルまで来てしまった。幸い姫街道につなぐ歩道があったので今日はここが登山口になる。
周囲の植生は檜の人工林で照葉樹の灌木が混じる。途中弘法大師様の湧水があった。コンコンと湧くイメージではない。夏ならひと掬いでも重宝する。峠にはあっと言う間に着いた。
峠からは急登が待っていた。岩が混じるのでちょっと大変だ。やがて祠が見えてきた。北へ回り込むと2等三角点が埋まる坊ヶ峰頂上だ。但し樹林の中で展望はない。歩道は北へ続いていてここが目標とされる山頂ではない感じ。祠前で水を飲んで下山した。
峠からは足元の地質が気になる。チャートの様な褶曲が露頭して居る。滑落しない様に下った。あっと言う間にPに着いた。
往復1時間弱のミニハイキングでした。443mと低いがさわやかな秋の空気のお陰で汗をかくこともなかった。
冒頭の八名はかつてあった八名郡の名残りだ。弓張山地は地殻変動で東側に弓状に湾曲させられたと想像する。赤石山脈の南部というがもっと北の佐久間町で天竜川も東へ流路を変える。秋葉街道に沿って南流する不思議。大井川も平野部まで南流しながら小笠山で東に折れ曲がって居る。何故か法多山がある。地殻変動は想像力を掻き立てる。
豊川沿いには中央構造線が走り豊橋で西に折れて渥美半島につながる。古道歩きで気付いたことは地殻変動のあった辺りには古刹名刹が多いと思った。中央構造線では三河は本宮山奥宮砥鹿神社、豊川稲荷、伊勢は伊勢神宮、遠州では秋葉山、法多山。信州では諏訪四社。今日の帰りには豊川の国分寺尼寺跡に寄った。壮大な寺院跡が発掘、一部が再現されていた。
遠祖に坂上田村麿 直参の旗本徳山氏の事 ― 2025年06月15日
少し早めに出発した。目的地は揖斐川町交流センター。講師は田中 豊 で86歳、愛教大出身の元数学の教師だった人。今は古文書の解読を通じての歴史研究家として活動中。揖斐川町歴史民俗資料館の古文書講座の講師をしている。
根尾谷の奥の根尾能郷にある能郷白山神社の猿楽を拝見した。その舞台の奥の垂れ幕に大野郡 徳山云々との染め抜きの印刷があった。本巣郡なのになぜ大野郡なのかの疑問があった。
以前に揖斐川町歴史資料館を訪ねた際に大きな絵図で根尾川の右岸が大野郡と判明した。
講座のメモ書きを列挙しておく。
徳ノ山五兵衛 元の名前は坂ノ上だった。
勅許で変更 勅許は天皇への上納金で下される
NHK 豊臣兄弟 異父兄弟
初婚 秀吉 北の政所 やや 古文書 県庁図書館
再婚 秀長
作家は百姓より 出世をさせて 面白がらせる
公家上がり
歴史の真相 古文書の存在 無いものは想像の産物
古文書とて100%正しいとはいえない
征夷の夷人 アイヌ人
中国 漢民族 中華思想 世界の中心
馬鹿にした
東夷・・・京都からみて、東国の人、特に無骨で粗野な東国武士をあざけっていった語。東夷 (とうい) 。
南蛮・・・古代中国では、四夷(東西南北の異民族)の一つとして、南方の異民族を蔑んで「南蛮」と呼んでいました。
日本での意味の変化:
戦国時代以降:ポルトガルやスペインといったヨーロッパ人が日本にやってきて、彼らを「南蛮人」と呼ぶようになりました。
南蛮貿易:南蛮人がもたらした鉄砲やキリスト教、そして彼らとの貿易を「南蛮貿易」と呼びました。
南蛮文化:南蛮人が持ち込んだ文化や、彼らが好んで食べる食材も「南蛮」と呼ばれるようになりました。例えば、ネギや唐辛子、油を使った料理などが挙げられます。
西戎・・・せい‐じゅう【西戎】
青海・甘粛地域に住んだトルコ族・チベット族、または広く西域の住民をも含めた。 転じて、西方の異民族の称。 西方のえびす。 また、日本では、広く、野蛮人、朝敵をもいう。
北狄・・・「狄」は、古代中国で北方民族を指す言葉で、野蛮で未開な存在として見なされていました。
夷狄:
「夷狄」は、東方の夷と北方の狄を合わせた言葉で、四方を囲む異民族を指す総称として使われることもあります。
四夷:
「四夷」は、東夷、西戎、南蛮、北狄をまとめた言葉で、中国の四方を囲む異民族を指します。
歴史的背景:
古代中国では、自国を文明の中心とみなし、周囲の民族を野蛮な存在として差別的に見ていました。そのため、「狄」や「夷狄」といった言葉は、そのような差別意識を反映しています。
現代:
現在では、歴史的な文脈以外で「北狄」という言葉が使われることはほとんどありません。
日本人は感性、情緒優先
吉田松陰 テロリストを育てた 歴史の裏と表
流罪 根尾谷の最奥の越波(おっぱ)
沢田ふじ子『けもの谷』では流罪の場所として設定されている。
歴史的にも身分の高い人ほど山奥へやられるらしい。
能狂言もなぜあんな耕地もほとんどない狭い地域で継承されてきたのか、というと高貴な身分の人たちが集団で流刑地になったのか。
根尾谷の奥の根尾能郷にある能郷白山神社の猿楽を拝見した。その舞台の奥の垂れ幕に大野郡 徳山云々との染め抜きの印刷があった。本巣郡なのになぜ大野郡なのかの疑問があった。
以前に揖斐川町歴史資料館を訪ねた際に大きな絵図で根尾川の右岸が大野郡と判明した。
講座のメモ書きを列挙しておく。
徳ノ山五兵衛 元の名前は坂ノ上だった。
勅許で変更 勅許は天皇への上納金で下される
NHK 豊臣兄弟 異父兄弟
初婚 秀吉 北の政所 やや 古文書 県庁図書館
再婚 秀長
作家は百姓より 出世をさせて 面白がらせる
公家上がり
歴史の真相 古文書の存在 無いものは想像の産物
古文書とて100%正しいとはいえない
征夷の夷人 アイヌ人
中国 漢民族 中華思想 世界の中心
馬鹿にした
東夷・・・京都からみて、東国の人、特に無骨で粗野な東国武士をあざけっていった語。東夷 (とうい) 。
南蛮・・・古代中国では、四夷(東西南北の異民族)の一つとして、南方の異民族を蔑んで「南蛮」と呼んでいました。
日本での意味の変化:
戦国時代以降:ポルトガルやスペインといったヨーロッパ人が日本にやってきて、彼らを「南蛮人」と呼ぶようになりました。
南蛮貿易:南蛮人がもたらした鉄砲やキリスト教、そして彼らとの貿易を「南蛮貿易」と呼びました。
南蛮文化:南蛮人が持ち込んだ文化や、彼らが好んで食べる食材も「南蛮」と呼ばれるようになりました。例えば、ネギや唐辛子、油を使った料理などが挙げられます。
西戎・・・せい‐じゅう【西戎】
青海・甘粛地域に住んだトルコ族・チベット族、または広く西域の住民をも含めた。 転じて、西方の異民族の称。 西方のえびす。 また、日本では、広く、野蛮人、朝敵をもいう。
北狄・・・「狄」は、古代中国で北方民族を指す言葉で、野蛮で未開な存在として見なされていました。
夷狄:
「夷狄」は、東方の夷と北方の狄を合わせた言葉で、四方を囲む異民族を指す総称として使われることもあります。
四夷:
「四夷」は、東夷、西戎、南蛮、北狄をまとめた言葉で、中国の四方を囲む異民族を指します。
歴史的背景:
古代中国では、自国を文明の中心とみなし、周囲の民族を野蛮な存在として差別的に見ていました。そのため、「狄」や「夷狄」といった言葉は、そのような差別意識を反映しています。
現代:
現在では、歴史的な文脈以外で「北狄」という言葉が使われることはほとんどありません。
日本人は感性、情緒優先
吉田松陰 テロリストを育てた 歴史の裏と表
流罪 根尾谷の最奥の越波(おっぱ)
沢田ふじ子『けもの谷』では流罪の場所として設定されている。
歴史的にも身分の高い人ほど山奥へやられるらしい。
能狂言もなぜあんな耕地もほとんどない狭い地域で継承されてきたのか、というと高貴な身分の人たちが集団で流刑地になったのか。
最近のコメント