相続手続き支援 ― 2025年04月21日
10時から12時前までびっしり相続の手続きに関するヒアリングを行う。当方の直接関与する業務と外注する業務の手配などを決めて行く。網羅的な説明は終えて、すでに依頼主でも終わっている業務もあった。割とシンプルなのでうまく行くだろう。
終わって、栄の丸善で死後委任契約の事務手続きの本を購入しに行った。もう慣れたはずだが、名古屋国際ホテルがあった跡地はPになって空間がぽっかり空いた。ハナミズキの花が青空によく映える。
13時から新たな許認可を包括的に編纂した法律書の購入のために持参してもらった。結局購入することにした。ネットでも情報は入るが書籍化されたものでチエックすることにしたい。
17時からは山岳会の編集会議に出席。どこの団体も会員数減少、収入減少、そしてコスト削減などをしているが追いつかない。挙句会報のデジタル化を主張する会員n声が高まりつつある。
しかし電子化された書面は見る気力が湧かない。おそらく多くの人がそうだろう。新聞も紙があってこそデジタル版が時に欲しいというだけだ。今後の議論になる。
終わって、栄の丸善で死後委任契約の事務手続きの本を購入しに行った。もう慣れたはずだが、名古屋国際ホテルがあった跡地はPになって空間がぽっかり空いた。ハナミズキの花が青空によく映える。
13時から新たな許認可を包括的に編纂した法律書の購入のために持参してもらった。結局購入することにした。ネットでも情報は入るが書籍化されたものでチエックすることにしたい。
17時からは山岳会の編集会議に出席。どこの団体も会員数減少、収入減少、そしてコスト削減などをしているが追いつかない。挙句会報のデジタル化を主張する会員n声が高まりつつある。
しかし電子化された書面は見る気力が湧かない。おそらく多くの人がそうだろう。新聞も紙があってこそデジタル版が時に欲しいというだけだ。今後の議論になる。
揖斐川歴史民俗資料館 ― 2025年04月20日
正午から再び美濃へ出かけた。名二環から名古屋高速に入り、R22に降りた。R156沿いのガソリンスタンドで軽油を給油。141円/リットルと激安なので目を付けていた。そこから本巣市の図書館を目指す。探し求めるのは根尾谷の歴史の本だがなかった。
それで揖斐川歴史民俗資料館へ移動。そこにはすぐにお目当ての資料が見つかった。先ずは発見したのは揖斐川、根尾川などにまたがった江戸時代の絵図である。
大野郡はやっぱり根尾川と揖斐川に挟まれた、というか能郷白山に端を発する雷倉山脈が大野郡だった。
近世の根尾谷の大部分は本巣郡のエリアだった。ウィキペディアには「山口村、神海村、佐原村、木倉村、川内村、奥村、金原村、平野村、板所村、市場村、神所村、中村、越卒村、門脇村、長嶺村、天神堂村、長島村、黒津村、越波村、上大須村、下大須村、松田村、西小鹿村、東小鹿村、東板屋村、西板屋村、口谷村、奥谷村、樽見村、内野村、木知原村、日当村」が入っている。
絵図にない能郷村は旗本領寺社領として徳山出羽守の下にあったので別格だった。同じく大河原村は美濃大垣藩のエリアにある。
もう一つの目的の水戸天狗党の件は水戸方面から1000人の武装集団は揖斐川町に来たという。彼らの宿泊だけでも大変な世話が必要だった。そこは棚橋天籟の活躍があってのことだった。同館に『筑波の嵐』が復刻版で頒布されていたので購入(500円)した。その中のはじめにを天籟の曽孫(ひまご)の棚橋嘉明氏が書いている。顛末が簡潔に書いてあるので転載しておきたい。
「天狗党の乱というのをご存知だろうか。時は幕末、元治元年常陸国筑波山で挙兵した水戸天狗党千人余の大砲、小銃で武装した軍勢は、京都にいた十四代将軍家茂後見役で水戸藩主六男一橋慶喜を頼って尊王攘夷を訴えるべく中山道を上京。十二月一日、戦を避けて間道を通った一行には幕府より追討命令が出され、行く手を阻まれることとなった。十二月一日揖斐宿で一泊することになった。揖斐宿では近くに大垣藩の鉄砲隊が出陣していて大騒動となったが、天狗党の軍勢と折衝し、双方の応戦次第では宿場が火の海となるところを救い、被害を最小限に止めるため奔走したのが棚橋衡平(こうへい。天籟)である。天狗党の総大将武田耕雲斎はその夜衡平の助言もあって、根尾を抜け、蠅帽子峠の難関を突破。越前の敦賀にたどりついた一行を待ち受けていたのは、頼りとする慶喜が禁裏御守衛総督として天狗党を逆賊としたことに愕然となり加賀藩に投降。逆賊として三百五十二名の斬首という残忍な結末となった。
これが天狗党の乱といわれる事件だがその悲劇は歴史の表舞台には登場しない。しかし、この事件はやがて歴史の転換期明治維新の先駆けになったともいわれる。
以下略。
天狗党は苦労して越前へ峠越えしたのにその先の民家は焼き払われていたという。敦賀で命運尽きた悲劇である。その後揖斐川町立図書館にも寄って『棚橋天籟翁』の小冊子を発掘した。
それで揖斐川歴史民俗資料館へ移動。そこにはすぐにお目当ての資料が見つかった。先ずは発見したのは揖斐川、根尾川などにまたがった江戸時代の絵図である。
大野郡はやっぱり根尾川と揖斐川に挟まれた、というか能郷白山に端を発する雷倉山脈が大野郡だった。
近世の根尾谷の大部分は本巣郡のエリアだった。ウィキペディアには「山口村、神海村、佐原村、木倉村、川内村、奥村、金原村、平野村、板所村、市場村、神所村、中村、越卒村、門脇村、長嶺村、天神堂村、長島村、黒津村、越波村、上大須村、下大須村、松田村、西小鹿村、東小鹿村、東板屋村、西板屋村、口谷村、奥谷村、樽見村、内野村、木知原村、日当村」が入っている。
絵図にない能郷村は旗本領寺社領として徳山出羽守の下にあったので別格だった。同じく大河原村は美濃大垣藩のエリアにある。
もう一つの目的の水戸天狗党の件は水戸方面から1000人の武装集団は揖斐川町に来たという。彼らの宿泊だけでも大変な世話が必要だった。そこは棚橋天籟の活躍があってのことだった。同館に『筑波の嵐』が復刻版で頒布されていたので購入(500円)した。その中のはじめにを天籟の曽孫(ひまご)の棚橋嘉明氏が書いている。顛末が簡潔に書いてあるので転載しておきたい。
「天狗党の乱というのをご存知だろうか。時は幕末、元治元年常陸国筑波山で挙兵した水戸天狗党千人余の大砲、小銃で武装した軍勢は、京都にいた十四代将軍家茂後見役で水戸藩主六男一橋慶喜を頼って尊王攘夷を訴えるべく中山道を上京。十二月一日、戦を避けて間道を通った一行には幕府より追討命令が出され、行く手を阻まれることとなった。十二月一日揖斐宿で一泊することになった。揖斐宿では近くに大垣藩の鉄砲隊が出陣していて大騒動となったが、天狗党の軍勢と折衝し、双方の応戦次第では宿場が火の海となるところを救い、被害を最小限に止めるため奔走したのが棚橋衡平(こうへい。天籟)である。天狗党の総大将武田耕雲斎はその夜衡平の助言もあって、根尾を抜け、蠅帽子峠の難関を突破。越前の敦賀にたどりついた一行を待ち受けていたのは、頼りとする慶喜が禁裏御守衛総督として天狗党を逆賊としたことに愕然となり加賀藩に投降。逆賊として三百五十二名の斬首という残忍な結末となった。
これが天狗党の乱といわれる事件だがその悲劇は歴史の表舞台には登場しない。しかし、この事件はやがて歴史の転換期明治維新の先駆けになったともいわれる。
以下略。
天狗党は苦労して越前へ峠越えしたのにその先の民家は焼き払われていたという。敦賀で命運尽きた悲劇である。その後揖斐川町立図書館にも寄って『棚橋天籟翁』の小冊子を発掘した。
三遠研の総会に出席 ― 2025年04月19日
13時からの総会に出席するために名古屋市の自宅を出たのは8時半過ぎだった。天気が良ければ里山の頂上を踏んで行くつもりだった。
土曜日のR153は豊田市が近づくと交通量が増えて余り走れない。自動車の街は休日返上で忙しそうだ。松平橋まで行くとR301になり俄然スピードがアップする。根引峠の急坂をやり過ごすと高原の道路になり走りやすい。R473との交差点ではほとんどが左折して前方を走る車はなくなった。しばらくカーブの多い山坂を走ると作手高原に着く。
90度右折して平坦な道を走ると道の駅に着くので休憩と買い物をする。3/8に見たミネアサヒの値段が3800円だったが今日は5000円に値上がりしていた。32%も上がる要因はない。便乗商法である。油揚げと鶏卵2袋を購入した。
道の駅の手前を左折すると彦坊山へ行ける。すでに10時を回ってしまったのでハイキングは止め。R301は下り坂になり、本宮山スカイラインの入り口付近からは転げ落ちるように急カーブの連続する道になる。R151に着いたら左折。13時多少時間に間があるので喫茶と昼食を済ました後会場へ走る。
13時から受付、13時30分から開会。白井会長はあいさつの中で当会は平成7(1995)年の創立で30周年の年回りを述べられた。他の歴史イベントなどの紹介もされた。
その後議事進行。しかし財政難から機関誌の発行が85号と86号に終わり87号は発刊できなかった旨報告があった。残念なことは2年に1回発行する季刊『研究輯録』が先送りになったこと。
高齢化の波はこんな小さな会にも押し寄せて来る。会員数の減少とそれに伴う会費の減少などで手詰まり感が出て来た。しかし、これは三遠研のみならず山岳会や俳句界でもある。所属の山岳会でも機関誌をデジタル化して郵送費を減らせという輩もいる。ほとんど無関心な会員もいる。俳句会でも某老舗の俳句雑誌が会員減少で休会、解散に追い込まれている。短歌雑誌はもっと急激に減らしている。
特に郵送費の値上がりは大きく、PDFなどの大手に交渉して印刷費、通信費を半減することに成功した。登る事のみならず読んで楽しむ登山者が減る一方なのだ。それはSNS(ヤマップやヤマレコなど)の普及に与ること大である。
さて、14時30分からは記念講演。演題は「最近の考古学の成果「銅鐸から吉田城の発掘まで」講師は豊橋市文化財センター所長の岩原 剛氏。立命館大文学部史学科卒業。美術博物館に就職。
・・・銅鐸というと藤森栄一の名前を思い出す。『古道』『かもしかみち』などの蔵書はある。目下は古道に傾注している。先月投稿した治部坂峠の道形は発掘はしないが考古学的な発見に近い。銅鐸の本までは買わなかった。発掘にはカネがかかるし技術も要る。
愛知県埋蔵文化センターと同様に豊橋市文化財センターも公務員である。誰かが持統天皇の関係の質疑をされたが公務員ゆえに回答は回避されたのも頷ける。
私も以前に愛知県埋蔵文化センターの職員に底の穴が空いた素焼きの壷に葉っぱを敷いて胞衣を収納して地下に埋める出産習俗の質問をした。恵那山の山名はアマテラスの胞衣を山頂に埋めた伝説に基づく。これと縄文遺跡で発掘される素焼きの壷と埋め甕との関連の質疑であるが、職員はこともなげに回答を反らした。
考古学の発掘工事の経費は公費でまかなわれている。
そもそも三河地方で銅鐸が出土するなんて初耳である。知らなかったし関心も無かった。先月の貝塚の話と同様に考古学的な傾向が強まっている。
設楽ダム工事が行われている設楽町では愛知県埋蔵文化センターによる縄文遺跡の発掘調査が集中的に行われてその成果を見学に行ったこともある。
三河の沖積平野では貝塚、弥生遺跡の発掘になるようだ。環濠集落という語彙は清須市の大規模な弥生遺跡である朝日遺跡でも聞いた。行ってみたこともある。ここで東海学という本にも出会った。
大和政権は西から東へと勢力を拡大してきたのだろう。
土曜日のR153は豊田市が近づくと交通量が増えて余り走れない。自動車の街は休日返上で忙しそうだ。松平橋まで行くとR301になり俄然スピードがアップする。根引峠の急坂をやり過ごすと高原の道路になり走りやすい。R473との交差点ではほとんどが左折して前方を走る車はなくなった。しばらくカーブの多い山坂を走ると作手高原に着く。
90度右折して平坦な道を走ると道の駅に着くので休憩と買い物をする。3/8に見たミネアサヒの値段が3800円だったが今日は5000円に値上がりしていた。32%も上がる要因はない。便乗商法である。油揚げと鶏卵2袋を購入した。
道の駅の手前を左折すると彦坊山へ行ける。すでに10時を回ってしまったのでハイキングは止め。R301は下り坂になり、本宮山スカイラインの入り口付近からは転げ落ちるように急カーブの連続する道になる。R151に着いたら左折。13時多少時間に間があるので喫茶と昼食を済ました後会場へ走る。
13時から受付、13時30分から開会。白井会長はあいさつの中で当会は平成7(1995)年の創立で30周年の年回りを述べられた。他の歴史イベントなどの紹介もされた。
その後議事進行。しかし財政難から機関誌の発行が85号と86号に終わり87号は発刊できなかった旨報告があった。残念なことは2年に1回発行する季刊『研究輯録』が先送りになったこと。
高齢化の波はこんな小さな会にも押し寄せて来る。会員数の減少とそれに伴う会費の減少などで手詰まり感が出て来た。しかし、これは三遠研のみならず山岳会や俳句界でもある。所属の山岳会でも機関誌をデジタル化して郵送費を減らせという輩もいる。ほとんど無関心な会員もいる。俳句会でも某老舗の俳句雑誌が会員減少で休会、解散に追い込まれている。短歌雑誌はもっと急激に減らしている。
特に郵送費の値上がりは大きく、PDFなどの大手に交渉して印刷費、通信費を半減することに成功した。登る事のみならず読んで楽しむ登山者が減る一方なのだ。それはSNS(ヤマップやヤマレコなど)の普及に与ること大である。
さて、14時30分からは記念講演。演題は「最近の考古学の成果「銅鐸から吉田城の発掘まで」講師は豊橋市文化財センター所長の岩原 剛氏。立命館大文学部史学科卒業。美術博物館に就職。
・・・銅鐸というと藤森栄一の名前を思い出す。『古道』『かもしかみち』などの蔵書はある。目下は古道に傾注している。先月投稿した治部坂峠の道形は発掘はしないが考古学的な発見に近い。銅鐸の本までは買わなかった。発掘にはカネがかかるし技術も要る。
愛知県埋蔵文化センターと同様に豊橋市文化財センターも公務員である。誰かが持統天皇の関係の質疑をされたが公務員ゆえに回答は回避されたのも頷ける。
私も以前に愛知県埋蔵文化センターの職員に底の穴が空いた素焼きの壷に葉っぱを敷いて胞衣を収納して地下に埋める出産習俗の質問をした。恵那山の山名はアマテラスの胞衣を山頂に埋めた伝説に基づく。これと縄文遺跡で発掘される素焼きの壷と埋め甕との関連の質疑であるが、職員はこともなげに回答を反らした。
考古学の発掘工事の経費は公費でまかなわれている。
そもそも三河地方で銅鐸が出土するなんて初耳である。知らなかったし関心も無かった。先月の貝塚の話と同様に考古学的な傾向が強まっている。
設楽ダム工事が行われている設楽町では愛知県埋蔵文化センターによる縄文遺跡の発掘調査が集中的に行われてその成果を見学に行ったこともある。
三河の沖積平野では貝塚、弥生遺跡の発掘になるようだ。環濠集落という語彙は清須市の大規模な弥生遺跡である朝日遺跡でも聞いた。行ってみたこともある。ここで東海学という本にも出会った。
大和政権は西から東へと勢力を拡大してきたのだろう。
相続支援の下調べ ― 2025年04月18日
直系の相続人がいるのでこの事案は早く進められるかも知れない。詳細は4/21に面談でお伺いすることにして、参考資料を整理しておく。
『聳嶺』の原稿送稿 ― 2025年04月17日
会報用に原稿を3本まとめて送信した。どこの会でも原稿が不足気味というので埋め草に送ることがある。当会でも締切が9月末だが早々と要請があった。
法律書の差し替え ― 2025年04月16日
事務所で利用する法律書の差し替えで事務所に来てもらった。内容が変われば変わった部分のみのページを差し替える作業である。結構な時間とお金もかかる。今日的には電子書籍のようにデジタル化してインターネットで利用した方が良いかも知れない。しかし電子書籍は一覧性がないので使いにくい。新聞もそうなりつつある。
昨日は久々に知己から相続手続き支援の注文があった。それに備えるために最新の法律に対応している2025年度版の相続手続きのムック本を購入した。相続関係は毎年のように変わってゆく。経験や記憶だけでは心もとない。
昨日は久々に知己から相続手続き支援の注文があった。それに備えるために最新の法律に対応している2025年度版の相続手続きのムック本を購入した。相続関係は毎年のように変わってゆく。経験や記憶だけでは心もとない。
年金入金日 ― 2025年04月15日
今日は2ヶ月に一度の入金日なので一部を引き出してそれぞれの口座に移動した。4月から5月にかけては税金や会費の納付のラッシュになる。固定資産税、書士会の会費、山岳会の会費、自動車税等々の出費が続くから財布が細るばかりだ。加えて健康保険料、介護保険料も目白押しで請求が来る。いや恐ろしい。先月で新聞2紙の購読も打ち切った。これまで続けていることもそろそろ止めることになる。
アムスカの監査 ― 2025年04月14日
午後1時から拙事務所に理事で財務2人、監事2人の合計4人が集い、2024.4.1~2025.30.3.31の財務諸表の監査業務を行った。各科目の説明と数字の根拠の説明、証拠書類等の点検をびっしり2時間ほど休憩なしで行った。会計ソフトから出力される数字にはソフトへの信頼があるが、そこからエクセルへ転記して作成するカスタマイズの書類には若干の疑義が指摘できた。
財務諸表は日々入力が基本なので中々に大変な仕事である。代表が見て眼光紙背というわけにはいかない。後、事業報告も各理事会でタイムリーに報告と監査が行えると良い。15時過ぎに開放されたときはほっとする。
栄地下街のジュンク堂によって、佐山和弘著『「本当に」使える遺言書の取扱説明書』を購入。今後の参考にしたい。
財務諸表は日々入力が基本なので中々に大変な仕事である。代表が見て眼光紙背というわけにはいかない。後、事業報告も各理事会でタイムリーに報告と監査が行えると良い。15時過ぎに開放されたときはほっとする。
栄地下街のジュンク堂によって、佐山和弘著『「本当に」使える遺言書の取扱説明書』を購入。今後の参考にしたい。
能郷の猿楽を鑑賞 ― 2025年04月13日
先週に能郷の手前の倉見山へ登った際、来週の13日の日曜日は能狂言の奉納の日だな、また行ってみようと急に思い立った。
前は2014年4月13日に初見だった。この時は天気が良くて多くの来場者があり、地べたに座って鑑賞した記憶がある。
https://koyaban.asablo.jp/blog/2014/04/13/7274185
今日は朝から雨の予報だった。能郷白山神社の能狂言の奉納は毎年4月13日と決まっているので雨天決行です。能狂言保存会の人らも半年前から仕事が終わった後、一定の場所に集まって練習をして来たわけです。所作、セリフ、間合いに乱れがあっては芸にならないので真摯に練習されてきたと思います。
予定の7時半には出発できず8時半になってしまった。名古屋高速から名神・一宮ICを経由して東海北陸道から美濃関JCTから東海環状の山県ICで降りた。地方道を走って金坂峠を越えると金原である。ここからはR157を一本道になる。雨のせいか、根尾川も濁流と化した。薄墨桜の公園付近も車は少ない。
出発して約2時間後の10時30分過ぎに白山神社に到着。高速道路をフルに利用して片道95km。地道だけなら3時間だが、そんなに急ぐことも無かった。開演までの待つ時間も実は面白い。
関係者らが集まって準備中だった。指定のPに案内してもらって簡単な服装で神社に戻る。10時から予定の神事はすでに終わっていたのでカッパを着て本殿に参拝。非常階段みたいな急な石段を登って参拝を済ませる。また車に戻って羽毛ジャケット、雨合羽上下、登山靴姿で戻った。
開演前に神社脇の受付に係りが着席したので金五千円を寄進。お返しに小さな羊羹をくれた。これには「撤饌」と印刷されている。撤饌とは本来ならお米、清酒、お餅などの神饌(供物)に対するお下がりの意味。神社の方から手渡される際の箱に『撤饌(てっせん)』と書かれてある。神様にお供えされたものを食べる=神様の力を体の中に取り込むということになります。神社から、神様から分けていただいたありがたいお下がりです。美味しく食べることにします。前は落雁という粉菓子でしたが今回は井村屋の羊羹でした。
12時前後、根尾谷最奥の村となった能郷付近にコンビニや飲食店はないので予め用意したパンとミルク、バナナを車内で昼食は済ませた。
本当は屋台でも出ると良いのだが。
開演13時が近づくと、参加者らのクルマが続々着いた。Pには岐阜ナンバーに交じって神戸ナンバーもあったからファンがいるのだろう。参加者は120人と中日新聞は伝える。
定刻通り上演される。
1.能:式三番(露払い・翁・三番叟)
2.狂言:丹波淡路
3.能:高砂
4.狂言:宝槌
5.能:田村
6.狂言:鐘引き
7.能:羅生門
以上の演技を順次鑑賞。やっぱり能は厳かであり、狂言は諧謔的な面があって違いを楽しんだ。特に能は後半になるに従い動きが派手になり、衣装も彩色されて華麗な雰囲気がある。
書いている途中で白洲正子の『かくれ里』や『お能/老木の花』『世阿弥』などを手にしてみた。しかし、能郷の能は芸として確立させる前の素朴な形式なんだそうです。そのままに味わう方が良いようです。世阿弥の能はまた機会があれば鑑賞してみたい。
約2時間たっぷり中世以前の古式ゆたかな世界に浸った。
目の前は依然として大雨である。世俗の垢を洗い落とせたんではないか。一斉に能郷を後にして帰る車が列をなした。その中に私もまじって帰名した。冷えた体を温めに一週間ぶりに根尾川谷汲温泉に立ち寄り入湯した。R157を南進、R21に左折し忘れたのでそのまま南進し、安八スマートICから名神に入った。大降りであった。
前は2014年4月13日に初見だった。この時は天気が良くて多くの来場者があり、地べたに座って鑑賞した記憶がある。
https://koyaban.asablo.jp/blog/2014/04/13/7274185
今日は朝から雨の予報だった。能郷白山神社の能狂言の奉納は毎年4月13日と決まっているので雨天決行です。能狂言保存会の人らも半年前から仕事が終わった後、一定の場所に集まって練習をして来たわけです。所作、セリフ、間合いに乱れがあっては芸にならないので真摯に練習されてきたと思います。
予定の7時半には出発できず8時半になってしまった。名古屋高速から名神・一宮ICを経由して東海北陸道から美濃関JCTから東海環状の山県ICで降りた。地方道を走って金坂峠を越えると金原である。ここからはR157を一本道になる。雨のせいか、根尾川も濁流と化した。薄墨桜の公園付近も車は少ない。
出発して約2時間後の10時30分過ぎに白山神社に到着。高速道路をフルに利用して片道95km。地道だけなら3時間だが、そんなに急ぐことも無かった。開演までの待つ時間も実は面白い。
関係者らが集まって準備中だった。指定のPに案内してもらって簡単な服装で神社に戻る。10時から予定の神事はすでに終わっていたのでカッパを着て本殿に参拝。非常階段みたいな急な石段を登って参拝を済ませる。また車に戻って羽毛ジャケット、雨合羽上下、登山靴姿で戻った。
開演前に神社脇の受付に係りが着席したので金五千円を寄進。お返しに小さな羊羹をくれた。これには「撤饌」と印刷されている。撤饌とは本来ならお米、清酒、お餅などの神饌(供物)に対するお下がりの意味。神社の方から手渡される際の箱に『撤饌(てっせん)』と書かれてある。神様にお供えされたものを食べる=神様の力を体の中に取り込むということになります。神社から、神様から分けていただいたありがたいお下がりです。美味しく食べることにします。前は落雁という粉菓子でしたが今回は井村屋の羊羹でした。
12時前後、根尾谷最奥の村となった能郷付近にコンビニや飲食店はないので予め用意したパンとミルク、バナナを車内で昼食は済ませた。
本当は屋台でも出ると良いのだが。
開演13時が近づくと、参加者らのクルマが続々着いた。Pには岐阜ナンバーに交じって神戸ナンバーもあったからファンがいるのだろう。参加者は120人と中日新聞は伝える。
定刻通り上演される。
1.能:式三番(露払い・翁・三番叟)
2.狂言:丹波淡路
3.能:高砂
4.狂言:宝槌
5.能:田村
6.狂言:鐘引き
7.能:羅生門
以上の演技を順次鑑賞。やっぱり能は厳かであり、狂言は諧謔的な面があって違いを楽しんだ。特に能は後半になるに従い動きが派手になり、衣装も彩色されて華麗な雰囲気がある。
書いている途中で白洲正子の『かくれ里』や『お能/老木の花』『世阿弥』などを手にしてみた。しかし、能郷の能は芸として確立させる前の素朴な形式なんだそうです。そのままに味わう方が良いようです。世阿弥の能はまた機会があれば鑑賞してみたい。
約2時間たっぷり中世以前の古式ゆたかな世界に浸った。
目の前は依然として大雨である。世俗の垢を洗い落とせたんではないか。一斉に能郷を後にして帰る車が列をなした。その中に私もまじって帰名した。冷えた体を温めに一週間ぶりに根尾川谷汲温泉に立ち寄り入湯した。R157を南進、R21に左折し忘れたのでそのまま南進し、安八スマートICから名神に入った。大降りであった。
ミニメンテナンス ― 2025年04月12日
てっちんのホイールに交換後、黒いのは良いが錆びた中心の部分が気になる。そこでホームセンターに行って紙やすりと錆止めのグリスのスプレーを買って来た。とりあえず、錆びた上からグリスのスプレーを塗布してみた。錆びた面に浸透して変色したので雨で濡れるとどうなると観察していきたい。
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