橋下琴絵『われ、正気か!』を買う2024年03月04日

 アマゾンのキャッチから

広島弁のX(旧ツイッター)が話題騒然!
おかしな常識・言論がまかり通る世の中を容赦せずなで斬りじゃ!

「日本人よ、怒りを知れ」
・岸田さん、国民を舐めすぎじゃ!
・ボーッとしとると、北海道・沖縄をとられるぞ!
・中国に大義名分を与えるな、日本は中国に侵略されるぞ!
・あの〝タレントAさん〟は密入国者だった?
・外国人の性暴力がことごとく無罪。どういうこと?
・「日本に生まれた女性は幸せ」ジェンダーギャップ指数なんてぶっ飛ばせ!
・現役自衛官が靖國神社に参拝して何が悪い!
・震災につけ込んでぶざけた犯罪(マネ)をするな!
・最高裁は日本を変態天国にしたいんか!
・共産主義、LGBT……人が頭で考えたことはロクでもないことばかり!

「唐突な広島弁じゃが、X(旧ツイッター)でわしの故郷の言葉、広島弁を使って熱く憂国の檄(げき)を飛ばしたところ、ちょっと人気だったけぇ、本書でも広島弁で語らせてもらう。決してふざけているわけではないけのぅ、それほど、いま日本が本当に危ない状況にあるんじゃ」
・・・・・・・・広島弁というところが搦手の売り方になる。動画で見ると著者は可愛い感じの若い女性であった。これから読む。

講演会「戦前の高等商業教育:グローバルな視点から見た東亜同文書院」を聴く2024年02月27日

 27日午後から愛知大学名古屋キャンパスで表記の講演会が行われた。私も近現代史の学びの一環として出かけた。
 自宅は11時半に出て地下鉄・植田駅乗車は11:50。多数の乗り換え客で混雑する伏見駅で名古屋駅へ行く。下車後、あおなみ線の名古屋駅へ小走りに移動するが構内は右往左往する客でごった返す。
 春が近くなったせいか多くの人々が動き出しているような気がした。とはいえ、あおなみ線の駅はがらがらで金城ふ頭へ向かう人はいないのか、と思ったら時刻までには続々乗客が増えた。一つ目の笹島ライブ駅で下車し、地上に降りることなくビルと駅を結ぶ連絡橋で移動。愛知大学名古屋キャンパスまでは大した時間はかからない。そのままキャンパス内へ行けるのか、と思った。ところが建物は2棟あって慌てた。一つ目のインターホンで問うと隣のビルらしい。結局は地上に降りて移動した。
 20階まで上がるとやっと会場に着いた。時刻前なので聴講者はまだまばらである。定刻になり、常務理事、副学長、東亜同文書院大学記念センター長の加納寛氏があいさつの後、講演者のカナダ・レジャイナ大学経営学部准教授・ポール・シンクレア氏が登壇。パワポで近代の海外の商業教育の紹介が始まった。講演後は質疑応答に約1時間超が割かれて関心の深さが伺われる。
 終了後は徒歩で名古屋駅へ行った。事前にスマホでチエックすると大須観音駅から市バスで移動するプランが出てきた。あおなみ線経由は無かった。久々にこの道を歩いた。名駅から喫茶店で一休み後事務所へ移動。休憩だけで仕事には手が付かなかった。
 近現代史は知識が広範でかなり難解である。本を書く人の視点、立場でバイアスが入るから考え出すときりがない。
 近代の世界史は商業、貿易で始まった。戦争すらも経済だという。お金を回すという意味で的確な把握である。したがって商業教育は理論的な学問よりも早くに教育が開始された。一橋大学の沿革から抜粋すると
・一橋大学は、明治初期に実業人を養成する商法講習所(1875)として誕生(明治8年)
・1920年には東京商科大学として日本における商学教育・研究の一大拠点となり
・第二次世界大戦後の1949年に学生の投票によって一橋大学と改称され、日本の経済発展とともに、実業界・財界で活躍する多くの卒業生を輩出
・これまで一橋大学は、明治時代初頭にビジネススクールとして誕生して以来、日本のマネジメント教育を先導する高等教育・研究機関としての役割を担ってき

 一方東大はウィキペディアの沿革では
・1877年(明治10年)4月12日に至って合同することになり、文部省所管の官立東京大学が創設された。
・司馬遼太郎は東大を文明の配電盤と表現した。外国から文献を輸入して翻訳したものを学生に教える役割だった。

とあるように近代の高等教育は商業教育が優先された。東亜同文書院は1901年の創立、旧制大学になったのは1939年だった。

読書三昧2024年02月26日

 昨夜からの続きで『近衛文麿』を読む。付箋だらけになってしまった。創立者の近衛篤麿は1904年に死去。その長男の文麿が継承する。さらに篤麿の孫が東亜同文会入りして、近衛色が強まる。文麿は東京裁判への出頭前夜に劇的な死に方をする。既読の中川八洋の本は戦争責任ありきであるが林千勝氏は自殺ではない説を述べる。膨大な参考文献を渉猟しての結論である。

休養2024年02月25日

 朝から天気が悪いこともあるが足助検定で短時間ながら歩いたので疲れが出て休養した。寝床で『近衛文麿』に付箋を付け乍ら熟読三昧。

林千勝『近衛文麿 野望と挫折』を購入2024年02月23日

 アマゾンの広告から
旧版 2017.11.15
近衛は自殺したのではない! 実は謀殺だった!?
近衛は、単なるポピュリストに非ず!
用意周到に己の野望を実現するための布石を着々と打っていた──

近衛は、首相時代は赤色分子(風見章・尾崎秀実ほか)を重用し、「敗戦革命」を夢見つつ、戦争末期には近衛上奏文(反共宣言)でアリバイ工作。
そして戦後はいち早くマッカーサー詣でをして、自ら改憲の音頭をとり、あわよくば昭和天皇を退位させて親米政権を樹立しようとしました。
勢力均衡の中で生き抜いてきた公家の名家としてのDNAをフル回転しての巧みな遊泳術ともいえます。
あと一歩で、その目論見が成就する寸前、それに危機感を抱き、挫折させようとした勢力がありました。
彼らは、近衛を東京裁判の被告人の席に追いやり、そして永遠に葬ろうとし、実現するのです。
近衛を葬ったのは誰だったのか?
そうした知られざる近衛の全生涯を、「自殺」とされる謎にまで踏み込みつつ、描ききったのが本作品です。

──彼は、極めて自己本位的に利用できるものは、昭和天皇でもコミュニストでも自分の子供(文隆)でも見境なく利用しました。
青酸カリを使っての「自殺」とされている彼の荻外荘での最期の日々の数々の矛盾や不可解な行動も本書で解き明かしていきます。
こういう叙述で、近衛の生涯を追求したノンフィクション作品は、初めての試みといっていいかもしれません……(「はじめに」より)。

新版 2023.7.23
〈渾身のノンフィクション大作!〉
◎近衛は自殺したのではない!―昭和史の闇―
昭和天皇、陸軍、尾崎秀実、東條英機らを操り、敗戦革命を利用。
戦後、一転してマッカーサーに取り入り、天皇退位まで画策。
大望を抱く近衛だったが、彼のシナリオは思わぬところで破綻――。
結局、近衛は内外の諸勢力から、国民から、天皇から、歴史から拒絶されることに……。

知られざる近衛の全生涯を、「自殺」とされる謎にまで踏み込みつつ、描ききったのが本作品です。

グローバリズム勢力に支配され、その傘下の共産主義勢力(反日分子)に浸透された戦後日本政治のあり方の原型は、近衛政権にあり!
・・・アメリカの支配層よりも藤原氏の系統につながる近衛家の方が歴史的には古い。平安時代は天皇家に代わって権力の座につくことができたのにあえてしなかった。
そして日米戦争で負けて天皇家の権威が落ちたことを利用して追放し自ら権力の座につくチャンスを迎えたがあえなく挫折した。

大和西大寺駅前を訪ねて2024年02月19日

 解散後はほとんどの参加者は直会に移動した。私は念願だった安倍元総理が凶弾に倒れた大和西大寺駅の現場に立ち寄りたかったので別行動になった。京都伏見からR1を南下。R24を走って約39kmほどで着いた。駅前の小さなロータリーの向かい側の花壇ということで見に行った。そこには安倍元総理への供花が3束置かれて生生しい当日を髣髴させた。
 2022年7月8日に安倍元総理が還らぬ人となって以後、日本の政界は大きく変わった。報道では裏金のことがことさらに報じられるが、それは自民党政治の終焉を暗示している。企業から莫大な献金を受けてその代わりに経団連企業に有利な税制、労務行政への取り計らいである。
 具体的に言うと、消費税の導入は経団連企業の主に輸出で稼ぐ大企業に有利な税制ということがはっきりしてきた。直間比率の見直しの元で20%の物品税の内税が3%の消費税に変わった。輸出企業には輸出戻し税があり、還付される。
 年商3000万円以下は益税が黙認されて零細な業者の批判の口を封じた。それが5%、8%、10%と上がって、ついにインボイスの導入で正体を見せた。大企業には引当金があり、利益を圧縮できる。法人税は消費税からの税源をもとに税率が下がった。至れり尽くせりである。政治献金の呼び水効果は大きい。
 しかし、そんな実態が一般有権者に分かって来た。票集めのための宗教団体を味方に付けたり、労使協調の労組の組織票に頼ったり、と日本の民主主義は壊れてしまった。投票に行かないから組織票に支持された候補が当選する。
 選挙に強くなるための裏金集めが目的化し、表面化してしまった。万事休す。信なくば立たず。
 帰名の途についたが霧雨で間欠ワイパーを作動させながらドライブした。安倍元総理が泣いているというのだろうか。

京都伏見「月橋院」の梅花忌」へ2024年02月18日

 午前5時過ぎに自宅を出た。R23で四日市を無難に通過。ここさえ通過できれば、山間部の国道なのでスイスイ走れた。後は京都伏見周辺で少しノロノロした。宇治川左岸沿いに走って観月橋を渡右折すると月橋院はあった。ガラガラのPに停めさせてもらった。
 今日は東亜同文書院を作った三人のうちの一人である根津一の命日である。大学同窓有志で学祖の忌を修す日である。境内は曹洞宗の寺院で庭園が見事に整備されていた。ここに根津一の墓苑がある。
 先着の3名に導かれて和室に入ると名刺交換。今日は29名の出席者があると聞いた。いつもは10名くらいらしい。三々五々参加者が集まって来た。多くは知己同士であろう。一旦集まって式次第を説明されて、本堂に移動し、和尚は般若心経を読経された。その間に次々ご焼香を炊く。抹香は樒の葉や皮を砕いたものという。
 焼香の儀式が終わると墓苑に出て和尚が読経の間に根津家の墓に線香をあげた。その後は母校の歌を歌う。
 本堂の前で記念写真を撮影。控室に戻ると藤田名誉教授から東亜同文書院の草創期の講話を拝聴した。これですべての予定をこなした。

「アジア・ヨーロッパをつなぐ草原地帯の3000年史」(講師:今村栄一)を聴講2024年02月16日

 今日も朝から調子が今一で寝転んでいるうちに午後3時になってしまった。朝食は食べたが昼食夕食も抜いたからやっぱり胃腸が弱っているんだろう。
 午後からは表題のサロンがあるので中生涯学習センターへ赴いた。18時30分丁度から開始。講師は今村栄一氏(51歳) 京都大OB。アルタイ交流舎サロンを主宰。
 表題からピンと来たのはユーラシアの諸民族の興亡である。パワポで予め映像を用意しくださり分かりやすかった。ユーラシアは日本のように単一民族がそのまま自然に国家形成をして来た国とは違う。小規模な民族が連結して国家を形成し、さらに大規模な連結で帝国を形成してきた。欧州の東から中国までは帝国の興亡を繰り返して来た。
 今回は遊牧民族の時代の終焉というテーマで深掘りされた。半知半解であるがそもそもユーラシアが把握しがたい領域である。多民族多文化が当たり前の地域である。人々は雑種化して今日に至る。漢詩で知られる李白は碧眼だったという。欧州の東から流れ着いて漢民族と交わった一例である。ロシア革命のレーニンも四分の一はモンゴル人の血が混じっている。かつてはモンゴル族がルーシ(ロシアの旧名)に攻め入った。そこで混血していった。
 先週、増補改訂版梅棹忠夫『文明の生態史観』(中公文庫)を購入したばかりである。この本も分かったようで分からない。少しづつ理解を深めたい。

公益法人のガバナンスと危機2024年02月06日

 山岳会の上部団体が財政危機と報告された。昨年末に初めて公表されたがここにきて詳細が明らかになってきた。一体何があったのだろうか。
 『失敗の本質』は日本軍の敗戦に至る原因を失敗と見立てて原因を究明した書籍でベストセラー且つロングセラーになっている。 本書では6つに要約された。
ソース:https://honcierge.jp/articles/shelf_story/6997
『失敗の本質』の
ポイント1:6つの失敗から学ぶ日本軍の特徴
日本軍は、全体として戦いの
①目的が不明瞭でした。各作戦において、行き当たりばったりに戦闘したり、目的が二重性を持つ(2つの戦略目的を持つ)ことになってしまったりと曖昧な目的だったため、統一性のない戦闘がおこなわれてしまったのです。

一方の米軍は、仲間内で議論を重ねて検討を進めた後に、目的をはっきりさせて動いていました。

ポイント2:異端・偶然を排除した結果の硬直化
日本軍には、「異端や偶然を排除する」という性格がありました。
②すべて人を同じ方向へ向かせ、異なるものは刑罰を与えたり排除する。当時の日本が「戦争一色」だったことを考えると、確かに、とうなずいてしまえる特徴です。

しかし「異端や偶然」は、自分たちの方向性を見直すためのものでもあります。自分たちの向いているもの、目的が果たして正常なものなのか。それを考えるきっかけが「異端と偶然」です。

しかし、日本軍はそれを徹底的に排除してしまっていたために、盲目的に組織が目指す目的を疑わずに行動してしまっていました。これは、組織の方向性の修正だけでなく、新しい考えも生まれない、つまり組織のイノベーションが起きないといった問題をも生み出してしまう考え方なのです。

ポイント3:環境の変化に適応できるかが勝敗を分ける!
日本軍と米軍は、環境の変化に対応したかどうかでも、違いが表れます。

③日本は初期の成功体験を信じ続け、また上層部の硬直した考え方で、戦略らしい戦略をとらず、戦術を重視した戦法を取り続けました。その結果、ガダルカナルの戦いで戦力を大幅に喪失した日本軍は、その後は負け続けてしまいます。

一方米軍はというと、日本軍の戦法を常に研究し続け、学習し、それを加味した対策・作戦で日本軍を圧倒していきました。新しい戦法を生み出し、トライ&エラーを続ける彼らの変化に、日本軍はついていけません。

日露戦争で勝利を収め、近代国家の仲間入りを果たした日本は、当時の勝利をひきずっていたのです。「白兵銃剣主義」「艦隊決戦主義」を過信し、新たな武器や兵器、戦闘機の発達に遅れをとりました。実際にこの戦争の決戦では、必ずしも白兵戦や艦隊戦が重要ではなかったのです。

日本軍は航空機や燃料の発達により、壊滅的な被害を受けました。空軍より海軍を重要視したため、米軍に遅れを取ったのです。

このように、日々進化していく科学技術や、相手の戦略に柔軟に対応することが、勝利の分かれ目となっていました。

ポイント4:成功体験にとらわれないイノベーションの重要性!
過去の成功体験にとらわれていては、イノベーションは起こりません。

先ほども説明したように、日本軍は日露戦争の勝利を、この戦争でも引きずっていました。また、最初の半年の勝利によって、それらの成功体験はやはり正しいのだと、過信を助長させてしまったといえるでしょう。

④そのため敵の戦力を過小評価し、一度失敗しても「過去に成功したのだから、運が悪かっただけだ」のように思ってしまうことが多かったのです。その間にも、米軍は日本軍の戦術を着々と研究し、自分たちの失敗も成功も改良し、次の戦いに備えていきました。

そもそも日本軍は、すでに模範解答が用意されており、それに向かっていく教育がなされていたのです。そのために、従来どおりの行動をし続けてしまうという弱さがありました。

過去に成功したからといって、それに甘んじているのではなく、相手が成長してくることも見据えての戦術や科学技術の開発、さらには組織としてのあり方を疑問視するようなイノベーションが起こらなかったというのも、日本軍の敗北要因のひとつでしょう。

ポイント5:学習スタイルの違いから学ぶ自己革新力の鍛え方!
では、成功体験を引きずらずにイノベーションを起こし続けるには、どうしたらいいのでしょうか?

⑤組織や自己が変わって進化し続けるには、自己革新力が必要です。これを身につけるには、まず「自己否定」をすることから始まります。そもそも成功にとらわれていては、自分を否定することはできませんよね。

本作では、日本軍と米軍の学習スタイルが異なることを例に挙げて説明しています。日本軍は「シングルループ」、米軍は「ダブルループ」といったスタイルです。

シングルループは、目標、問題構造が変わらないという認識を持ったうえで進める学習プロセスです。一方ダブルループは、学習の目標、問題そのものが本当に変わらないか?という疑問を持ったうえで、再びその問題を再定義したり、変更することもいとわない学習となります。

環境は、常に変わっていくもの。それを念頭において絶えず変化する現実、現状を見つつ、どんどんと見直していくスタイルが、ダブルループなのです。これだけの説明でも、米軍の学習スタイルが日本を上回っていたのだ、と理解できるのではないでしょうか。

人間活動でも自然活動でも、環境は常に変化していきます。特定のコト・モノに固執せず、柔軟に物事を考えなければ、自己革新はままなりません。どんなときもダブルループの考え方で取り組むことで、イノベーションは起こっていくのです。

ポイント6:現場を知らない指揮官の危険性!
⑥職場で、現場で営業している部下と上司の見方が食い違う。そんなこともあるのではないでしょうか。現実はこうなのに、上司はわかってくれない……そんな体験はありませんか?実はこの太平洋戦争のときも、そういった剥離が起こっていたのです。

先に説明した山本五十六は、新しい作戦を提案して実行するなど、確かに革新的な指揮官でした。しかし、個人の知識に頼ってしまった彼は、現場から帰還してきた部下と対話などせず、現場がどういうことになっているのかをあまり理解せずにいたのです。

それはつまり、結局は彼の頭の中だけでの計算にしかすぎないということ。そのなかでうまくいっても、実際に動く兵たちがどのように感じ、どのように行動し、また相手がどのように反応するかということを、報告を受けたうえでブラッシュアップするなどは、おこなわれませんでした。

上官が絶対だった日本的組織は、上官が現場を知らないにも関わらず、盲目的に上からの言葉を信じるのみだったのです。現場とそれが剥離している状況にも関わらず、です。

対話のままならない指揮官では、状況を好転させることは難しいといえるでしょう。

ポイント7:「空気」に左右される日本人気質の罠
今の日常でも、「空気を読む」という言葉は頻繁に使われますよね。旧日本軍も、そういった「空気」に左右されていたのです。

沖縄戦への戦艦大和出撃は、当初反対されていました。それは作戦を検討した際、大和が出撃しても意味がないという結論に至っていたからです。

しかし、それは参謀の一言で、出撃決定、とひっくり返されてしまいました。冷静に考えれば、兵員の犠牲や成功率などを重視しなければいけない場面であったにも関わらず。

なぜ、このような「空気」に左右されてしまうのでしょうか?

それは、まず1つ目にサンクコスト、つまり今までの犠牲を取り戻すために、さらに損害を重ねてしまうことが原因と考えられます。さらに説明すると、ずさんな計画を立てて多くの犠牲が出て、もう取り戻すのは不可能と思えても、それでも固執してしまうという状況です。

たとえば「次の台で出るかもしれない」とパチンコを続けてしまう考えと同じといえるでしょう。

さらに戦況が苦しく、打開する策が見つからない、何をしてもうまくいかないときは、現実を認められずにむきになってしまいます。冷静に考えることができなくなるのです。

そして、それは日本の「精神論」的な考えにもつながり、「やる気」「積極性」といった目に見えないもので評価される人事制度を助長したのです。

⑦上下関係が絶対だった日本軍では、部下の意見などを取り入れられることは、ほとんどありませんでした。そして上層部からの命令に、盲目的に従ってしまいます。

このような「空気」が日本軍を支配し、無謀ともいえる戦いに大きな犠牲を払ったのです。この「空気」は、現代社会にも少なからず存在するものといえるでしょう。

ポイント8:現代の日本とも共通する!?権威主義のリスク!
日本人的気質は、今も昔も共通しているのではないでしょうか。

目的が抽象化して具体案でないこと、何のための会議なのかわからないけれど上層部の判断に任せておこなわれること、人間関係や場の空気が尊重されること、結果よりも上司へのやる気の見せ方やプロセスなどが過剰に評価されること、声の大きい人の意見がとおってしまうこと……。

⑧現場との意思疎通が難しく、上層部が現実を見ず、過去のデータや成功体験に固執してしまい、変化に対応できないことなど、どこをとっても現代の組織の問題点にも通じます。

つまり、ここで書かれている失敗の本質は、「日本軍の組織的研究」でありながら、日本人の現代の組織の失敗の本質を説いているともいえるのではないでしょうか。

組織として上層部に権威を与え、そこを重要視していく日本的組織は、以前の日本軍のような失敗をする可能性をはらんでいるといえるのです。

・・・・・とてつもない巨額の赤字が出てから問題視される。予算統制が出来ていない。あるカネでしか執行できないはずが借金してまでやっている。どこかに無理がある。日本軍の敗戦と同様である。

詰め腹を切るということ2024年02月04日

 ソース:https://imidas.jp/idiom/detail/X-05-X-18-7-0005.html
辞職・辞任させられるなど、むりやり責任を取らされる。「だれかが責任をかぶらなければ、ということで販売課長が詰め腹を切らされて結局左遷さ」
以上
 2/2の帰り際に同席の人が元豊田自動織機の会社員だったので、「古巣が大変なことになっているね」と声掛けした。「辞めて良かった。居たら詰め腹を切らされていた」と。部下の手柄は上司の手柄、失敗は部下の責任という土壌であろう。
 トヨタの親会社であるから他のグループ会社よりも別格扱いされてプライドも高いだろうと思われる。そんな会社でも認証不正に手を染めてしまった。多くのトヨタ車のファンにショックを与えたんだろうと思う。
 こんな名門企業がなぜって?

 つらつら考えるとトヨタは世界での競争に勝ち抜いてきた。トヨタを追いかけるライバルが実質存在しない。ライバルは世界一のその慢心ではないか。

 2009年6月1日に世界一のGMが倒産した。
 トヨタは1968年に国内生産100万台を達成。それから48年後の2016年に1017万5000台に到達。
 世界の3大自動車グループの2016年世界販売はフォルクスワーゲン 1031万2400台、GM 996万5238台。
 トヨタはまずGMに勝った。2019年にワーゲンは1097万台まで伸ばしたが2015年以後はディーゼルエンジンの計測値の不正がばれてジり便になり、2022年には826万台まで落ち込んだ。ワーゲンにも勝ったのだ。
 日本のトヨタから世界のトヨタに名実ともに達成したのに。
 
 トヨタの経営難には至れり尽くせりの支援と恩典が与えられてきた。
 戦後の経営危機では日本銀行名古屋支店が市中銀行に呼び掛けて協調融資の音頭をとった。そして日銀再割引の恩典が付与された。市中銀行はトヨタが振り出した手形、裏書きした手形は日銀で割引ができる。流動性があるので信用は一気に高まる。協調融資銀行団は5000人の従業員の内1500人の人員整理を断行させた。代わりに協調融資でトヨタを支援。
 円高になるとドル買い円売りで支援。ドルは米国債に化けた。
 財務省は、1989年(平成元年)4月1日、日本ではじめて消費税3%を導入した。入れ替わりに昭和63年に20%の内税だった物品税が無くなった。これだけでも17%の減税である。
 当時の円は137円だった。1990年の法人税は40%だった。トヨタはお家芸のコストダウンで儲けても儲けても為替差損で利益を減らしていた時代だ。
 この時から直間比率の見直しの掛け声で消費税率増税と法人税率減税が始まった。しかも輸出車両の仮払い消費税は還付されるという恩典も与えられた。 
 世界と競争する企業の為替差損を支援するためだろう。トヨタには恩恵も大きい。
 2009年には豊田章男氏が社長に就任。アメリカで大量リコール、営業赤字4300億円、と大波乱でスタート。14年目の2023年に退任。
 地方自治体などがプリウスに補助金を支給したり、自動車税を免除して、増販促進を図る。日本経済のカネをを回す。こんなにもして経営に下駄をはかせるのも日本経済のエンジン役を担う基幹産業なればこそである。トヨタ自身の努力もあるが社会的に大きな支えがあることを自覚するべきだろう。

 豊田章男会長の双肩は重い負荷がかかった。