なにがうそでなにがほんとの寒さかな 久保田万太郎2023年01月31日

 愛知県知事選の投票日は2/5。そろそろ期日前投票に行きたい。しかし意中の候補者がいない。
 掲句のように何がホントで何が嘘なのか、見極め難い。

 愛知県知事選挙に立候補した6氏の経歴・政策まとめ
 https://news.yahoo.co.jp/articles/5e1a925be49074922ef4f306c8f588c9f9cc9d28

 任期満了に伴う愛知県知事選挙が1月19日告示、2月5日投開票の日程で実施されています。今回の愛知県知事選挙には届け出順に無所属新人の
 安江朗氏(55)、無所属新人の
 末永啓氏(37)、政治団体「起きる会。」新人の
 山下俊輔氏(60)、無所属新人の
 上原俊介氏(46)、共産党が推薦し社民党が支持する無所属新人の
 尾形慶子氏(65)、自民党愛知県連・立憲民主党・公明党・国民民主党が推薦する無所属現職の
 大村秀章氏(62)の6名が立候補しました。

1 安江氏は愛知県岩倉市出身、仏教大学中退。外資系企業や国際NGOボランティアを経て、現在は会社社長を務める
安江氏は愛知県岩倉市出身、仏教大学中退。外資系企業や国際NGOボランティアを経て、現在は会社社長を務める

安江氏は愛知県岩倉市出身、仏教大学社会学部中退。

外資系企業、国際NGOボランティア、トヨタ自動車等の勤務を経て、現在は医療コンサルタント会社社長を務めています。

2 末永氏は青山学院大学卒業。衆院議員秘書を経て、春日井市議を3期務める
末永氏は青山学院大学卒業。衆院議員秘書を経て、春日井市議を3期務める

末永氏は青山学院大学卒業。

衆議院議員秘書を経て、2011年から春日井市議会議員を3期務めました。

2022年には春日井市長選挙に立候補しました。

末永氏が掲げる政策とは
末永氏は以下の政策を公表しています。

・物価高への対応・賃金上昇対策として、最低賃金を引き上げることを目下の課題であり、現行986円から欧州並みの1.5~2倍にすることを労働経済政策の目標値とする。総合経済政策として、老朽化したインフラの再整備、フリーエネルギーへの設備投資等の公共事業、名古屋市と歩調を合わせた県民税減税、学生ローン返済免除など、国の緊縮財政とは真逆の積極財政に転換する。愛知県から通貨を発行して配布する。

・新型コロナウイルス感染症対策の抜本的な見直しを実施する。PCR検査やワクチン接種を即時中止する。

・産業振興・スタートアップ企業支援として、子どもが好きなことを見つけて続けられるように教育から改め、一人ひとりの生み出す力を伸ばす。コロナ関連予算を組み替え数千億円規模の若者スタートアップ基金を創設し、学生ローンの返済免除、賃金1.5~2倍ターゲット総合経済政策を実施する。現役世代の起業、伝統文化の継承、耕作放棄地の営農等の支援、生産拠点の国内回帰や首都圏からの本社機能移転を促進する。

・少子化対策・教育子育て支援に関して、子宮頸がん(HPV)ワクチンやコロナワクチンの接種、PCR検査を廃止しマスクも撤廃する。助産院を支援し自然分娩を促進する。教育委員会は委員を入れ替え抜本改革する。

・防災・減災対策として、エネルギー自給率アップに取り組む。老朽化するインフラの再整備をしつつ、タルタリア文明の建築を復興し、トヨタ自動車等と連携して電線の要らないフリーエネルギーを実用化し普及させる。

・共生社会の実現のため、教育や人づくりを抜本的に見直す。

3 山下氏は三重県朝日町出身、國士舘大学中退。現在は経営コンサルタント会社代表を務める
山下氏は三重県朝日町出身、國士舘大学中退。現在は経営コンサルタント会社代表を務める

山下氏は三重県朝日町出身、國士舘大学政経学部一部経営学科中退。

現在は経営コンサルタント会社代表、政治団体「起きる会。」代表を務めています。

4 上原氏は名城大学卒業。薬剤師として薬局に務める
上原氏は名城大学卒業。薬剤師として薬局に務める

上原氏は名城大学薬学部卒業。

製薬会社勤務を経て、現在は愛知県武豊町内の薬局で薬剤師として勤務しています。

上原氏が掲げる政策とは
上原氏は以下の政策を公表しています。

・物価高や賃金上昇対策として、間接的支援として自動車税の減税を行う。

・新型コロナはただの風邪と認識して感染症法の第2類相当から規制や警戒を緩和する方向に動くべき時だと考え、エビデンスに従い脱コロナを目指す国の施策に沿う。

・水、電力、道路等に関するインフラ整備により産業基盤の強化をはかり、防衛産業の支援により企業立地の促進、魅力的な観光資源を持つ知多半島を広報することにより観光産業の浮揚などにより産業振興をはかる。スタートアップ支援については、不必要な規制の改廃などにより後方支援する。

・少子化対策で成果を上げた明石市の政策を一部借用し、①18歳未満の医療費の無償化②第二子以降の保育料の無償化③保育士増員等の支援を実施する。また若い人が経済的に安定するよう景気・雇用対策を行い、間接的に少子化対策とする。

・田原市、豊橋市を念頭に、例えば夜間停電時を想定した津波避難訓練が必要である。常日頃から自衛隊との連携を確認し、被災時に速やかに救助要請する。また、被災地域では消防署員も警察官も被災者なので公助が十分に機能しないことが想定されるため、公助が機能するまでの間どのように緊急時に対処するかを避難訓練で確認する。

・共生社会の実現のためにはお互いに尊重しあうということにつきる。公共の福祉に反しなければどういう人にも寛容な愛知県であるようにする。共生社会を受け入れたくないという考えも尊重し、共生を強制しないのが良い社会だと考える。

5 尾形氏は三重県四日市市生まれ、大阪外国語大学卒業。通訳等を経て、環境問題や有機農業推進運動等に参加
尾形氏は三重県四日市市生まれ、大阪外国語大学卒業。通訳等を経て、環境問題や有機農業推進運動等に参加

尾形氏は1957年三重県四日市市生まれ、大阪外国語大学ロシア語科卒業。

流通大手企業に就職し、第1子妊娠で退職。夫の転勤に伴い4ヵ国(アメリカ・フランス・ベルギー・ブラジル)に暮らし、英語・フランス語の通訳として働きました。

福島原発事故後に緑の党グリーンズジャパン結党に参加し、環境問題、気候変動問題、気候危機対策を訴える若者の支援、有機農業・オーガニック給食の推進運動、性犯罪をなくすフラワーデモ、女性の貧困に立ち向かうSNAW(女性によるセーフティーネット愛知)などに参加しました。

6 大村氏は愛知県碧南市生まれ、東京大学卒業。農林水産省を経て、衆議院議員を5期連続で、愛知県知事を3期連続で務める
大村氏は愛知県碧南市生まれ、東京大学卒業。農林水産省を経て、衆議院議員を5期連続で、愛知県知事を3期連続で務める

大村氏は1960年愛知県碧南市生まれ、東京大学法学部卒業。農林水産省に入省し、徳島市部長、農協課、企画課課長補佐(総括)を歴任しました。

1996年の衆議院総選挙に初当選、以降5期連続当選しました。経済産業大臣政務官、内閣府大臣政務官、内閣府副大臣(経済財政政策、地方分権改革、金融、多重債務者対策、再チャレンジ担当)、厚生労働副大臣等を歴任。

2011年の愛知県知事選挙に初当選、以降3期連続当選しました。今回は4期目を目指しての立候補となります。

大村氏が掲げる政策とは
大村氏は自らのホームページにおいて以下の政策を公表しています。

新型コロナウイルス感染症を克服!!
・新型コロナウイルスの感染状況に応じた医療提供・検査体制の確保。
・ワクチン接種体制の整備。
・将来の新興感染症感染拡大に備えた体制確保。
・政府の経済対策に呼応、新型コロナウイルス感染症や物価高騰等の影響を受ける県民生活、事業活動への支援。

【河野太郎 謝罪コール】愛知、大村知事を応援2023年01月30日

【河野太郎 謝罪コール】愛知、大村知事を応援【サンモニ田中教授】再エネでデマ発言し大炎上
https://www.youtube.com/watch?v=b59ARUA6rCM

 愛知トリエンナーレで物議を醸した大村知事のもとへ、河野太郎氏が駆け付けたものの、思わぬ抗議デモにあってしまい、名古屋駅周辺がカオスになった話

 確かに野次が凄い。

愛知県知事選(2023年2月5日投票)・河野太郎大臣の応援演説
https://www.youtube.com/watch?v=o5bB8Z63ABI&t=0s

山岳古道会議2023年01月14日

 17時からは山岳古道の件で会議を開催。メンバー東京本部から3名、関西1名、東海から4名の8名。約2時間ほど熊野古道のイベントについて議論を交わした。主旨は全国の会員に熊野本宮へと歩かれた時代を偲び、古道の存在をアピールして山岳古道調査事業を盛り上げる。他に小川路峠、青崩峠の合同の踏査も盛り込んだ。その後は中華料理店で反省会をやった。

朝がゆ会に出席2023年01月11日

 1/10の朝6半に自宅を出るがまだ暗い。人道橋辺りまで来て東の空が焼けてくる。朝焼けである。地下鉄に乗って伏見で下車。ホテルに来るとまだちらほら。
 着席すると朝がゆが運ばれてきた。早速よばれる。毎年のこの行事は楽しみである。なかなか自分で1食分を用意できないからだ。食べ終わるころにはスピーチが始まった。
 長年小中学校の教員をしてきた人が定年後は教員を養成する課程で再び指導者になった話。母校の場合は毎年70名前後が教師になっている。
 教師も大変な仕事らしい。中学校で先生を尊敬する割合のアンケートを取ると25%くらいしかいなかったらしい。外国では80%が尊敬の対象という。
 これはなぜなんだろう。公務員で身分安定、給与高目、その上聖職と尊敬されたらいうことなしだが、世間は甘くない。管見ではあるが、管理教育が足枷になっている気がする。スカートの丈、髪の毛の長さまでくちばしを入れられる今の子供たち。
 伸び伸び遊ばせてもらえない環境がそうさせるのか。

第17回名古屋中国春節祭を見学2023年01月08日

https://www.n-cj.com/」から
 2007年に始まった名古屋中国春節祭は、中部地区の華僑華人と中華人民共和国駐名古屋総領事館が共同で開催する大規模な旧正月の祝祭です。
 パフォーマンス、料理、民芸、観光、物産、交流が一体となり、日本の華僑華人や地元住民の間では春節を祝う恒例イベントとして定着しています。 日本で暮らす中国にルーツを持つ人々が故郷の「お正月ムード」を楽しむだけでなく、日本人も中国文化に親しみ、中国の人々と旧正月の喜びを分かち合うことができます。
  春節の楽しい雰囲気を一緒に味わいながら、お互いの理解を深めましょう。 名古屋春節祭の成功をきっかけに、新潟春節祭、大阪春節祭、福岡春節祭、大分春節祭、東京文化祭、さらには日本人主催の犬山春節祭など、春節祭ブームが日本各地で巻き起こっています。 春節祭は中国人コミュニティにとどまらず、中国独特の年明けの風物詩として次第に日本社会にも浸透してきています。
 毎年盛大に行われる春節祭は、華僑華人や地元住民にとても人気があります。 16年間の試行錯誤を経て、名古屋の春節祭は名古屋の華僑華人によるローカルイベントから、日本各地に広がり、今では日本における中国人コミュニティ活動の最も優れた例のひとつにまで成長しました。 この春節祭には団結と結束を体現し、祖国や故郷への深い思い、そして未来への展望や熱い期待が込められているのです。 第17回名古屋中国春節祭2023は、新型コロナウイルスの蔓延を経験し、そして再び久屋広場に戻ってきました。
以下略
 松坂屋南館の東側では愛国倶楽部の街宣、カウンター、警備にあたる警察等で騒然としていた。

『浪合記』ノート②2022年12月19日

 津島市図書館で気になったのは『浪合記・桜雲記』という本だった。コピーに時間を取られて閲覧もできなかった。横断検索しても津島市にしかないのでまた再訪するか。
 ウィキペディアにもあった。
『桜雲記』(おううんき)は、南北朝時代における南朝の盛衰とその後胤(後南朝)を扱った史書・軍記。江戸時代前期の成立で、作者は書物奉行浅羽成儀と推測されている。書名は、南朝の舞台が吉野であることからして、雲かと見紛うばかりに咲き誇る吉野の桜花の叙景を念頭に置いて付けられたものと考えられる。

『南方紀伝』(なんぽうきでん)は、南北朝時代における南朝の盛衰とその後胤(後南朝)を扱った史書・軍記。江戸時代前期の成立とみられるが、作者は不詳である。書名に「紀伝」とあるとおり、あたかも天皇列伝の如き形態を採るが、内実は全て編年体の構成である。類書に『桜雲記』がある。南朝紀伝・南朝記とも。

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http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/namiai1.htm
南北朝動乱期の抹殺された宮将軍・尹良親王
              -『浪合記』の再検討-
                                   宝賀 寿男 

一 はじめに
 
 東大史料編纂所である系図史料を見ていたところ、南北朝動乱期に活動した人についての記事がかなり詳しくあり、それを見て、浪合合戦とそれを記す軍記『浪合記』について見直す必要を感じたので、種々検討のうえ、本稿を記した次第である。
 具体的には、その系図は『穂積姓井出氏系図前書』という駿河国富士郡の井出氏の江戸前期までの史料であり、そのなかの井出小源二郎重注(「注」は「経」のくずし字を誤読誤記したものではないかと推されるが、ここではそのママに記しておく)についての記事である。また、『浪合記』とは、南北朝末期ないし室町前期における後南朝の皇族尹良親王・良王親子二代の信濃国伊那郡浪合での遭難事件(「浪合合戦」と表示されることが多い)を中心にその前後の流浪の経緯や関係する南朝遺臣の後裔まで及ぶ軍記物である。
 
 『浪合記』のこれまでの取り扱われ方は、総じていうと、偽作か価値の乏しい史料とされ、浪合合戦自体も実際にあった事件のか疑問とされてきた。そうした評価をいくつかあげてみると、「現存本は、良王に従った者の子孫と称する天野信景が一七〇九年(宝永六)に書写したとされる本にもとづくが、史料としての信憑性には疑いがあり、史実または伝説をもとに信景が偽作したものと思われる。」(『日本史広辞典』山川出版社、1997年)、「本書は1488(長享二)年の著作となっており、1709(宝永六)年天野信景が美濃高須の松平家の本を写したというが、おそらくは信景が偽作したもので、その記事内容は信用できないというのが渡辺世祐の論文にみえる」(村田正志氏執筆。『日本歴史大辞典』河出書房新社、1985年)というのが代表的なところであろう。
 長野県の歴史研究者である小林計一郎氏は、多少トーンが違っていて、『浪合記』の根底に史実があったこと・南信濃・三河の国境地帯の各地に「ユキヨシ様」伝説が残っていることを認めつつも、同書の「記事は矛盾が多く信用できない。…(中略)…これらの伝説をもとにして、良王供奉の士の子孫と称する天野信景が偽作した可能性が強い」と記されており(『国史大辞典』)、偽作説ということではほぼ同様である。
 浪合村には戦死したと伝える地・宮の原に、尹良親王を祀る浪合神社が鎮座するが、その祭神の変遷過程などから、尹良親王の実在性については、『浪合記』等による作為・捏造だとみられている(平凡社『長野県の地名』463頁)。なお、神社の西に接して尹良親王陵(円墳)があり、現在、宮内庁書陵部の管理下にある。
 これらの事情のせいか、日本史の全集的な刊行物や『長野県史』など歴史学界の書物では、浪合合戦はまったくといってよいくらい取り上げられない。森茂暁氏の『闇の歴史、後南朝』でも言及がない事情にある。
 
 こうして『浪合記』とその研究状況について概観してみると、問題点は多少重複するが、次の四点ほどになってくると思われる。
 ① 『浪合記』の史料的価値はどのようなものか。天野信景の偽作か、たんなる写本か。
 ② 根底に史実があったのか、まったくの虚構か。
 ③ 浪合合戦があったとしたら、それは何時起きた事件だったのか、合戦は何度あったのか(『浪合記』では尹良親王親子が各々経験したとある)。
 ④ 事件関係者の具体的な名前は解明できるのか(尹良親王の実在性などの問題も絡む)。それらの後裔はどうなったのか(三河、尾張などに残って繁衍したのか)。
 こうした問題意識を持ちつつ、以下に具体的な検討を加えていきたい。上記の問題は、徳川家やその譜代家臣諸氏の起源問題とも深く絡んでおり、江戸期に新井白石も注目した書物であったのが、偽書説が広く知られるようになって、大正期の大著『建武中興を中心としたる信濃勤王史攷』(信濃教育会著、1939年)より後では、『浪合記』についても浪合合戦についても十分な検討がなされてこなかった事情にもある。従って、本稿でも『信濃勤王史攷』の記事を基礎に考えていきたい。
 
 最近、インターネットで『浪合記』がいくつか取り上げられ、同書の内容やこの関係の情報が提供されているので、注意をもたれる読者がおられるかもしれない。管見に入った代表的なHPをあげておくと、次のようなものがあり、適宜参照されたい(両HPのご教示等にも感謝申し上げます)。

 a 志岐専弘氏による「中世日本紀略」のなかの 「俗書類従」の「『浪合記』(原初本)」
     http://f25.aaa.livedoor.jp/~zflag/mirrors/kiryaku/namiaiindex.html

 b 芝蘭堂さんによる「軍記で読む南北朝・室町」のなかの「浪合記」
     http://homepage1.nifty.com/sira/

中略

(今後、さらに補記すべき点が出てきたときは、追加を考えたいと思っています)
 
   (06.8.14掲上。9.13追補修正)
 
 ウィキペディアによると
宝賀 寿男(寶賀 壽男、ほうが としお、1946年4月17日 - )は、日本及び北東アジアの古代史・系譜の研究者。日本家系図学会及び家系研究協議会の会長。元大蔵省(現財務省)の官僚。2003年から弁護士(第一東京弁護士会、第二東京弁護士会等)。正式な歴史学者ではなく、古代史のアマチュア研究者である。

※2006年は平成18年なので、廣瀬重見氏の平成27年の論考は2015年になるから9年間の研究の差がある。

『浪合記』ノート①2022年12月18日

良王神社に建っていた石碑
 2020年に津島神社へ自転車で参拝して以来2年ぶりに、尹良親王をめぐる歴史の調査で津島市へ行った。まづは良王神社へ参拝した。目的の神社がナビを使っても中々辿り着けなかった。津島市内は碁盤の目のような整然とした街づくりではない。人一人分の路地の道が錯綜していたからマイカーに乗ったままでは埒が明かない。そこで天王川公園の無料のPに止めて歩いて行って参拝を果たした。
 御醍醐天皇の子が宗良親王、その子が尹良(ゆきよし)親王、その子が良王(よしたか)親王である。参拝後は夕暮れの迫る中を津島図書館に急いだ。閉館は18時でまだ2時間はあるが目的物が見つかるか、探す時間がある。
 幸い司書さんの導きですぐに「『浪合記』天野信景偽作説弁駁」という薄い冊子が見つかった。ちょっと読むと平成27年というから『浪合記』の最新の情報である。
 著者は一宮市の元高校教員の廣瀬重見氏である。弁駁というように「他人の言論の誤りを攻撃すること。他人の説を言いやぶろうとして攻撃すること。」今も流布している偽作説、伝説に対する反論であった。内容的にアマチュアの域を出ている。ネットの検索で、昭和22年生まれ、岐阜県、皇學館大學文学部国史を卒業。福岡大学付属大濠高校、愛知県立一宮北高、江南高、一宮高の教諭を務めたとある。大川周明『列聖伝』の翻刻。
 天野信景とは尾張藩の学者である。この人の写本が出回ることで偽作説が広まったという。江戸時代の学者が南朝の時代の戦記を創作したとする説は東大の歴史学者から出ている。これへの弁駁である。天野信景は実証的な態度だからと擁護するように著者も実証的である。
 旧浪合村の宮の原の現存する尹良神社を見るととても偽作ではないと思う。これを書いた人は当時のことなので口承と記憶だけに頼ったのだ。言わば、『古事記』の成り立ちと同じである。

古事記(こじき)について
http://www15.plala.or.jp/kojiki/aboutkojiki.html

「古事記は、古代の日本人の先祖が、文字のない時代から口承(こうしょう)、つまり人から人へ語り継いで、頭の中に記憶してきた日本の神様たちの物語です。その豊かで大らかな想像力と日本人とはどういう民族が集まってできたのか(最初から、日本列島に日本という国があったわけではありません。)、また日本語という言葉や、現代まで伝えられている礼儀作法や生活習慣、宗教や道徳観などの日本人の伝統文化のルーツについての多くを知ることができます。」

 御醍醐天皇の皇子たち三代が遠州の井伊宮から始まり、伊那谷に出て大鹿村で信濃宮を陣取った。尹良親王は遠州の井伊で生まれた。三河の稲武で三河宮と呼ばれた。その子の良王親王は最終的に津島市に落ち延びた。それを支えた人々がいたのである。

『浪合記』の世界の終焉の地は愛知県津島市2022年12月18日

 津島市の良王神社に参拝に行った。

・津島神社神主始まりは良王親王の御子良新様、良新様御子無き故、中島郡(稲沢市)に領地を持つ定嗣が跡を継ぎ、代々氷室を名乗り、津島神社神主として明治初期まで続く。

https://ameblo.jp/mini1575a3/entry-11900653850.html
 津島の歴史を語る上で外すことが出来ないのが浪合記と言う書物です。
 この浪合記は南北朝時代、後醍醐天皇の皇子である宗良親王の子の尹良(ゆきよし)親王、尹良親王の嫡子である良王(よしたか)君が東国で奮戦し、信濃、三河を通り尾張の津島に来るまでを描いた書物です。
 浪合とは三河から伊那谷に至る三州街道(現在の国道153号線)の飯田市の手前にある小さな村の名前で、現在は隣の阿智村に併合されています。寒原峠と治部坂峠に挟まれた寒村で、標高は約一千メートル。寒原峠を下りきったところが昼神温泉です。

・宗良親王 (1311年~1385年)


 後醍醐天皇の皇子の一人で、母は和歌の家である二条氏の出であり、幼い頃から和歌に秀でていた。
 南北朝時代、1338年、北畠親房と共に伊勢、大湊から陸奥国府に渡る際に、乗船していた舟が遠江沖で座礁し、井伊谷(浜名湖の北側)の井伊道政の元に身を寄せる。しかし1340年、足利方の高師泰、仁木義長らに井伊谷を攻められ落城し、宗良親王は越後寺泊、越中放生津などに身を寄せる。
 信濃、伊那谷の豪族、香坂高宗に招かれ、伊那谷の東、大河原(大鹿村)に入る。大河原は信濃宮と呼ばれ、1373年までこの大河原を根拠地に上野、武蔵を転戦。一時期は鎌倉を占領し、1352年には征夷大将軍となる。しかし、足利方に攻められ、鎌倉を手放し大河原に戻る。
 1355年、諏訪氏、仁科氏と諏訪の桔梗ヶ原で信濃守護の小笠原長基と戦うが敗退し、以後諏訪氏、仁科氏も守護方に寝返られる。
 1369年、関東管領、上杉朝房に攻められる。そして勢力の挽回も出来ず、1374年に大河原を離れ吉野に戻る。吉野では南朝方の歌人の和歌を集め、新葉和歌集を編纂し、1381年に完成する。1385年に亡くなったと言われている。

・浪合記
 
 南北朝時代、応永4年、(1397年)上野(群馬県)の南朝方の武士団、世良田、桃川両氏が後醍醐天皇の皇子で、東国で奮戦した宗長親王の皇子である尹良(ゆきよし)親王を、吉野より迎えることになりました。このとき尹良親王と共に吉野から伴ったのが、後に津島四家七名字と呼ばれる武士団でした。
 四家とは新田系の大橋、恒川、岡本、山川氏。七名字とは公家庶流の堀田、平野、服部、光賀、鈴木、真野、河村氏です。
 吉野を発った尹良親王たちは、駿河、甲斐を通り応永5年(1398年)上野の寺尾城に入りました。しかし時と共に南朝方は劣勢となり、尹良親王たちは、信濃に向かい、諏訪の豪族、千野頼憲を頼ります。そして応永31年(1424年)、尹良親王は子の良王(よしたか)君を下野(栃木県)の落合城に行かせて、自らは三河の山里に隠棲している南朝方の武士団の応援を求め、三河の足助に向かいます。その途中、飯田を越え、浪合村にさしかかる大野という土地で、飯田太郎、駒場小次郎という盗賊団と遭遇、両者に間で戦になります。尹良親王方は多くの供の侍を失い、尹良親王は大河原まで落ち延びますが、そこで自害をしました。

・時代は10年ほど下り、永享5年(1433年)、下野落合城の良王君は信濃に入り、永享7年(1435年)12月に、尾張津島に向かうことになります。良王君の供として世良田政義、桃井貞綱と津島四家七名字が同行しました。
 飯田を通り三河に向かう途中の浪合村で飯田、駒場の山賊団と遭遇し合戦となりました。この戦いで世良田、桃井の両氏は命を落としましたが、良王君は津島四家七名字に付き添われ、無事三河を通り、永享7年12月29日に尾張津島に到着、津島四家七名字の長である大橋定省(さだみ)の城である、奴野(ぬのや)城に入りました。
 奴野城は津島の北西に隣接し、現在の西方寺辺りになります。このとき津島四家七名字の他に、宇佐見、宇都宮、開田、野々村の四家が随行。この四家を四姓と呼び、十一家合わせて、津島十五家と呼ばれています。
 良王君は永享8年(1436年)に信濃で自害した亡き父、尹良親王の菩提を弔うために大龍寺を建立しました。良王君には桜姫という娘がいるが、大橋定省に元に嫁ぎ、大橋修理亮貞元、大橋三河守信吉など、男子多数を産んでいます。
 そして明応元年(1492年)に七十八歳で亡くなられます。逆算すれば1414年(応永19年)生まれと言うことになります。瑞泉寺が良王君の菩提寺となっています。

・天王祭


 浪合記には、後の天王祭の起源となる出来事の、説話も書かれています。
 天王川の下流の佐屋に、台尻大隅守という豪族がいて、良王と敵対していました。
 天王祭の夜、台尻大隅守は一族のものを引き連れ、舟を出し天王祭を見物に天王川を上ってきました。
 津島十一党のうち大橋を除く十艘が津島に有り、大橋の舟が市江にありました。そして大橋の舟が来たのを合図に、大隅守の舟を討つという謀を企てました。
 何も知らない大隅守たちは、舟を飾り立て天王祭を見物していました。頃合いを見て大橋が舟を出し、津島にやってくると、待ち構えていた十艘の舟が大隅の舟を散る囲み、討ち沈めました。乗っていた大隅の一族はみな舟から落ち、おぼれ死ぬ者も多数いました。
 このとき、宇佐見、宇都宮、開田、野々村の四姓は陸にいて、這い上がってくる大隅の一族を討ち果たしました。このため、四姓から舟は出しません。
 6月14日の夜の出来事でした。それから毎年6月14日に祭が行われるようになったと言われています。

・ 浪合記というものは、後世の書物で、その真偽ははっきりしません。後醍醐天皇の皇子である、宗良親王は実在の人物ですが、その子供である尹良親王、孫の良王君は実在の人物かわからないようです。
 しかし津島四家七名字は実在し、彼らが津島を納めていたのは紛れもない事実です。
 浪合記からわかることは、津島が南朝と深く関わっていたことです。
 伊勢湾の入り口の南伊勢には、伊勢神宮の門前町である宇治や山田があり、伊勢湾岸で最大の街で大消費地でした。そして神宮の外港である伊勢大湊は、伊勢湾の水運の要でした。
 この辺りは南朝の名門、北畠氏が治めていました。南伊勢は吉野と隣り合わせで、南朝の影響力の強い土地です。
 尾張は足利一門である斯波氏が治めていました。もちろんこちらは北朝です。
 津島は南朝ということで、南伊勢の人々と深く繋がり、尾張の他の地域よりも商売を有利に持って行き、新興の湊町でありながら大きく発展したのではないでしょうか。

死因のデータ2022年12月04日

〇2022年の死因ランキングは?
-人口統計資料集(2022)-
表5-22 死亡率によってみた死因順位:1900~2020年
順位 死 因 死亡率
1 悪性新生物 295.5

2 心疾患    156.5

3 脳血管疾患 96.5

〇日本の1番多い死因は?
「死亡原因 ランキング」の画像検索結果
死因順位 平成18年の死亡数・死亡率(人口10万対)を死因順位別にみると、
第1位は悪性新生物で32万9198人、260.9、

第2位は心疾患17万2875人、137.0、

第3位は脳血管疾患12万8203人、101.6となっている(表7)。

〇第1位「がん」(26.5%)
2021年、がんで亡くなった人数は38万1,497人。
死亡率にすると26.5%です。
つまり、日本人の3〜4人に1人ががんが原因で亡くなっています。

もはやがんは誰がなってもおかしくないほど身近な病気となりました。また、男女別のがんにかかりやすい部位は以下のとおりです。

データを見ると、男女ともに「肺」と「大腸」はがんにかかりやすいということが分かります。
以上
・・・何に気を付けるのか、データを見ても分かりません。
 結局はバランスの良い食事と適度な運動と適切な人間関係の維持が健康を生み出しているんだと思います。

 病気とは健康管理上の弱点を突いてくるものです。

 何かが欠乏、不足しても発病するし、過剰でも発病する。

 何かの不調はこれらのサインです。

 適切な対応が健康長寿に結びつけるのだろう。

 医学知識よりも食い物の知識が大事。植物学は昔は本草学と言った。分類学よりも、
何に効くか・・・・・・・薬草学に発展
食えるか・・・・・・・・栽培種に発展
珍しいか・・・・・・・・・珍重は今でもある。
育てやすいか・・・・・園芸種に発展

たまきはるユダヤの命救いたる樋口季一郎像建つ見ゆ 拙作2022年11月22日

祖霊社に建つ樋口季一郎の銅像
 伊弉諾神宮参拝。その一角の祖霊社に10月11日、樋口理一郎の銅像が建立された。それを見て詠む。

「リトアニアの日本国総領事館に赴任していた杉原千畝がナチス・ドイツの迫害から逃れてきた多くのユダヤ難民を救出した逸話は、「東洋のシンドラー」として国内外に広く知られるようになった。
 その一方で、もう一人の「東洋のシンドラー」、樋口季一郎陸軍中将の史実は知られることが少ない。杉原が救ったとされるユダヤ人の数6000人を優に上回る2万人のユダヤ人を樋口中将が救ったことは、ユダヤ人社会で記録に留められているほどだが、今、彼の功績を広く世界に伝えるべく、日本、イスラエル、米国で連携の輪が広がろうとしている。
 ルトワック氏ら22人のユダヤ人が銅像建立の発起人に第二次世界大戦直前、ナチス・ドイツの迫害からユダヤ人難民を救い、ポツダム宣言受諾後、ソ連の北海道侵攻を阻止した樋口季一郎陸軍中将(1888-1970年)の史実に今、新たな光が当てられようとしている。」