山岳古道⑩2021年04月10日

 17時30分から、JACの古道調査事業のZOOMミーティングが始まった。東京本部、全国から関係者が59人に参加して、PTリーダーから説明、質疑応答などインターネットを介して会議をした。たった今、18時45分ごろ終了した。
 全部で200以上の古道が提案された。それから120を選定して記録として残す。2年余りあるがあっという間に過ぎるのでさっそく取り掛かることになる。
 どうしても関西周辺、東海周辺、中部山岳に偏在することになる。中国、四国、九州は少なく、長崎県、佐賀県がゼロ、和歌山県が1つしかないことに懸念が示された。しかし他県の会員でも良いので推薦することはできる。もっと集まると思う。
 調査にはGPSログを残すことが必須という方針が示された。ここが現代的です。アバウトではなく、明細に調べることになる。

悠々とユーラシアの夢九山忌 拙作2021年03月21日

 九山は深田久弥の俳号。

雑学ねた帳には「昭和時代の小説家・登山家である深田久弥(ふかだ きゅうや)の1971年(昭和46年)の忌日。

「九山忌(きゅうざんき)」の名称は、山をこよなく愛した深田の俳号「九山」に由来する。
 深田久弥について
1903年(明治36年)3月11日、石川県江沼郡大聖寺町(現:加賀市)に長男として生まれる。東京帝国大学文学部哲学科を中退。

在学中は改造社に勤務し、1930年(昭和5年)に『オロッコの娘』などの小説を発表。これらの作品が好評を得て、同年に大学を中退して作家生活に入る。その一方で各地の山を登山する。

1933年(昭和8年)に小林秀雄らと「文学界」を創刊。1935年(昭和10年)に日本山岳会に入会。小説『鎌倉夫人』(1937年)、『知と愛』『贋修道院』(1939年)、『親友』(1943年)などを刊行。

1944年(昭和19年)に応召し、中国各地を転戦。復員後は越後湯沢、金沢などを転々とし、のち東京に転居。山岳随筆やヒマラヤ研究に力を注ぐ。1965年(昭和39年)に『日本百名山』で第16回読売文学賞(評論・伝記賞)を受賞。

1968年(昭和43年)に日本山岳会副会長に就任。1971年(昭和46年)、登山中の茅ヶ岳(山梨県)頂上近くにて、脳卒中で急逝。68歳。その場所には「深田久弥先生終焉の地」と表記された石碑が建てられている。
著書には随筆紀行集『山岳展望』(1937年)、『山頂山麓』(1942年)、『わが山々』(1948年)、ヒマラヤ紀行文『ヒマラヤ 山と人』(1956年)、『雲の上の道 わがヒマラヤ紀行』(1959年)、『ヒマラヤの高峰』(全5巻と別巻 1964~1966年)など。没後に『山の文学全集』(全12巻 1974~1975年)、『九山句集』(1978年)などが刊行された。」

と解説があった。

虫よ虫 五ふし草の根を絶つな 絶たば己も共に枯れなん2021年03月19日

宮崎県北コミュニケーションペーパー
W+ing編集部のhpから

「敬天愛人」
西郷のリーダーシップ

 西郷隆盛を敬愛してやまない人は多い。それはナゼなのか。西郷に関する書物を読んでみると「南洲翁遺訓」に出会う。
 ここに西郷の西郷たる精神を、見出すことができる。それをたった一つの言葉に集約すれば「敬天愛人」だろう。 遺訓24条に「道は天地自然の物にして、人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とする。天は人も我も同一に愛し給うゆえ、我を愛する心を以って人を愛する也」とある。
 訳すると「道というのはこの天地のおのずからなるものであり、人はこれにのっとって行うべきものであるから何よりもまず、天を敬うことを目的とすべきである。天は他人も自分も平等に愛したもうから、自分を愛する心をもって人を愛することが肝要である」(西郷南洲翁遺訓=財団法人西郷南洲顕彰会編集発行より)延岡西南の役会の森永重哉会長は「西郷さん(17歳のころ)は、薩摩藩郡奉行・迫田利済(としなり)の下で郡方書役助(こおりかたかきやくすけ=年貢を徴収するときなどの書記補佐)として働いてたある年、米が不作になり、迫田さんは農民の年貢を軽くしてもらうため、藩に願い出ますが、聞き入れられず、辞職します。
 そのとき迫田さんは“虫よ 虫よ 五つ節し草の根を絶つな 絶たば 己も共に枯れなん”という言葉を残しています。これが西郷さんの生き方に大きな影響を与えています」迫田の言葉にある「虫よ」は役人のこと。
 「五つ節し草」は重い年貢(税金)に苦しめられている農民。つまり、「役人たちよ、農民に重い税金を課して苦しめ、農民がいなくなったら、自分たちも破滅の道を歩むことになりますよ」という意味である。
 京セラを「世界の京セラ」に育てあげた創業者・稲盛和夫さん(鹿児島出身)は、「敬天愛人」を社是とし、南洲翁遺訓を経営面に生かしてきた一人である。「西郷のおしえは、普遍的なものです。特にこれから社会的に重い責任を担うであろうリーダーの方々に、ぜひ勉強していただきたい。少しずつでもその思想を身につければ、リーダーとして大きく成長されるものと確信しています」
(PRESIDENT 2008.6.16より抜粋)といっている。


・・・・仁徳天皇の民の竈のエピソードにも似ている。民の竈から煙が上がるようにするべきだが・・・。
 自動車会社を救済するために始めた環境対策車への補助金が今は目的になってはいないか。或いは消費税はもともと車本体に20%の物品税を掛けていた。だからエアコン単体は物品税がかからないので別に取り付けると安くなった。それを消費税の課税で解消してしまったのである。10%になれば車が売れなくなるわけである。全体としては軽四にシフトしていった。自動車会社を助ける税制がかえってユーザーの首を絞めたのではないか。
 仁徳天皇のことは河村たかし市長が誕生して減税が争われた際に出て来た話だった。よく勉強していると思う。

山岳古道⑨北畠が陸奥へと赴任した東山道2021年02月22日

 『神皇正統記』の著者の北畠親房の足跡を追う。

https://1000ya.isis.ne.jp/0815.html
「 北畠親房が『神皇正統記』を書いたのは、常陸の筑波山麓にたつ小田城の板の間でのことだった。同じころ吉田兼好が『徒然草』を書いていた。二人の執筆の姿勢はまことに対極的で、親房は日の本を背負い、兼好は草の庵を背負っていた。14世紀になってしばらくのこと、内乱の時代の只中である。」

「 こうした親房が『神皇正統記』をなぜ陣中で急いで書いたのかというと、これは東国武士に南朝への参加を説得するための分厚い政治パンフレットだったのだ。かつては後村上天皇のために書いたとされていたのだが、いまでは関東の“童蒙”(かんぜない君主)、すなわち結城親朝の説得のために書いたというのが定説になっている。
 けれどもその効果は出ずに、説得工作は失敗をする。しかもその直後に後醍醐の崩御を聞いた。親房は傷心のまま吉野まで帰ってくることになる。まだ十代の後村上天皇はさすがに親房の労をねぎらい、准大臣として迎えるのだが、親房は静かに黙考して、動かない人になっていた。つまり『神皇正統記』は後醍醐存命中にこそ流布されるべきレジティマシーのための一書パンフレットだったのである。」

「浪岡氏(なみおかし)または浪岡北畠氏(なみおかきたばたけし)は、村上源氏の一族北畠家の流れを汲む陸奥の国司の一族とされる。

「後醍醐天皇の命により国司として奥州を支配した北畠顕家の時代には、2度までも足利尊氏を危機に追い込むほど強勢を誇ったものの、顕家が2度目の上洛戦で戦死し、勢力を引き継いだ弟の顕信も、傘下の武士の離反や幕府より奥州に派遣された吉良氏や斯波氏のために勢力を衰退させていったという。顕信の後半生ですら不詳であり、それ以後の歴代当主の事跡は、戦国期に登場した具永(後述)以前のものは判然としてはいない。

当初は南朝ゆかりの南部氏に保護されて、稗貫から閉伊船越にいたようであるが、やがて三戸南部氏が北朝方についたため、根城南部氏の庇護のもと、浪岡に入部した[2]ものと推測されている。[3]

現在の地に15世紀後半に浪岡城が築城されたとみる説[4]が多い。北畠氏は浪岡を拠点としたことから「浪岡御所」と呼ばれて、浪岡の位置する津軽田舎郡から外浜・西浜にかけて勢力を維持することとなった。」

 北畠氏は14世紀に日本史に登場する。三重県で一代勢力を拡大した時期もあったが、親房は長男とともに奥州統括のために多賀城へ赴任する。その時の通路は東山道であっただろう。京都から神坂峠を越えて陸奥までほぼ東日本を縦断する幹線であった。
 不思議なのは青森県の北畠氏の存在である。浪岡氏が復姓したのだろうか。どうやって調べるのか見当がつかない。
 それでも青森に北畠八穂が生まれたことは確かであり、錯綜した歴史の中で流れ流れて青森に定着したのである。

山岳古道⑧松浦武四郎が歩いた大台への道2021年02月21日

 晩年の松浦武四郎が歩いた道がある。大台ケ原と尾鷲を結ぶ古道である。この道を何度も往復している。ここ以外にも奈良県側からも入山している。古くから人が入っていたのである。

「小屋番の山日記」から
初冬の尾鷲道を歩き、マブシ嶺に登る
http://koyaban.asablo.jp/blog/2017/12/11/8746470

 身支度を整えて出発したのは7時56分。地蔵峠までは林道歩きである。軍手をはめても非常に寒い。峠からは山道に入るが、橡山に続く尾根を切通しされたために古い峠の趣はない。非常階段のような急登を強いられる。地元の篤志家らで転落防止のロープも張られている。尾根に届くと稜線歩きとなり山道も安定する。
 木立は落葉して見通しが良い。最初の道標は古和谷分岐である。ここからが古来からの尾鷲道である。下山路として今も歩けるのかどうかは不明だ。先へ進む。数分で又口辻だ。ここから山腹の水平道に入る。ふかふかの落葉の山道を歩く。北面には雪が積もっている。温暖なイメージの南紀の山にも寒波が来た。山腹の道、特に沢をまたぐ所は壊れやすく注意を要した。やがて新木組峠に着いた。ここは極端に寒かった。雪をかぶった大峰山脈が見渡せる。寒いはずである。峠の風下側に下ると若干寒さが和らぐ。少し食べたり飲んだりして休む。
 寒風に曝されながら落葉樹の冬木立の尾根を歩く。いかにも冬の山旅である。そうして木組峠に着いた。峠から破線路があるが尾鷲道は少し下る。先程ははげ山を越えたが山腹の尾鷲道は消失してしまったようだ。テープに導かれて山腹まで下ると再び道形を見出して歩いた。
 山腹を巻き終えると一本木の杭を見だした。あとは山頂までひと踏ん張りである。
 標高1216mの緩斜面に展開する雑木林は今は疎林となって平らかな別天地である。夏ならば緑濃き動物の楽園であろうか。
 山頂直下の疎林の中を歩く。北西からの寒風のせいか樹木はなべて矮小化している。余りの寒気に毛糸の手袋を出そう、雨合羽をはおろうと考えるうちに11時30分に三角点1411.0mに着いた。マブシ嶺である。
 紀勢線に名古屋から夜行列車がある頃から尾鷲道を歩いて見たかった。今回は三分の一くらいを歩いたことになった。大台ケ原山は高くはないが深い山域である。ヒマと交通の面で中々実行できなかった。伊勢道も久居ICまでしかなかった。R42を延々走ったものだ。名古屋から約230kmはあった。高速なら橋とトンネルでつないで180kmに短縮できる。
 大台の開拓を試みた松浦武四郎も奈良県側から入山し、下山は尾鷲道を下った。大杉谷を初遡行した大北聴彦と大西源一も下った歴史の道であった。

 以前はコブシ嶺(*1)と覚えていたが、このほど発刊の『分県登山ガイド 三重県の山』によれば松浦武四郎の紀行にマブシ嶺とあるのでそれに従ったという。私も松浦武四郎全集の中の絵図で確認した。どちらも由来までは言及はない。
 休憩の後、最高点まで行って12時30分に下山した。往きとは違い、寒気も和らぎ、陽光を一杯浴びて少し暑さも覚える日だまり山行の雰囲気になった。往路をそのまま戻り、15時10分ゲートに着いた。
 帰路はニホンジカ3頭に出会った。昨夜はタヌキ2匹を見た。けものが多い山域である。

*1コブシ嶺=この山だけを目指す登山ガイドは前掲の本が初めてだろう。過去のガイドブックを調べた。手持ちの書籍では
 ①昭和54(1979)年刊行の仲西政一郎編『近畿の山』(山と渓谷社)の大台の山と谷の地図に掲載。北の鞍部は雷峠になっている。点名は雷峠1である。雷峠から東の川へ本谷沿いに破線路が示されている。木組峠も木組谷をからむ山腹に破線路があり廃村木組がある。
 ②平成10(1998)年の小島誠孝『台高の山と谷』には尾鷲道が独立して章建てされている。ここでもコブシ嶺と書かれている。取材当時は伐採跡だったらしい。木組峠から古和谷へは猛烈なブッシュだったという。 
 ③『台高の沢』の見ひらき地図にもコブシ嶺とあったから関西岳人はコブシ嶺を踏襲しているのだろう。
 三重県の岳人らが調査して出来た書籍には
 ④平成21年(2008)年の津・ラ・ネージュ山岳会選『三重の百山』もコブシ嶺になっている上に大台ヶ原からの往復コースになっている。この当時は写真を見ると木立に囲まれて展望はないとある。今とはえらい違いである。以南は廃道化しつつあると案内してある。
 ⑤平成25(2013)年の伊勢山の会『宮川源流53山』には、大台ケ原からの往復ルートで紹介。まぶし嶺とある。この本では「展望360度の絶景の山である」と書いてある。写真にも高い樹木はない。
 
 コブシ嶺とマブシ嶺は2008年ころから変化したらしい。ネットの検索では以下が詳細である。最近ではマブシ嶺(コブシ嶺)と書いてあったりする。南から1411mのマブシ嶺に突き上げる光谷からか光山ともされる。(但し今の道標では1184mの山に当てられる。)

山岳古道⑦菅江真澄が歩いた道2021年02月20日

 みちのく・えぞのロングトレイルの創始者かと思う。
 単に物見遊山ではなく、知的な発見を求めての旅だからオデッセイだった。成果は『菅江真澄遊覧記』にまとめられている。

 『菅江真澄遊覧記』1の書き出しは「この日本国内のすべて古い神社を拝みめぐって、幣を奉りたい、」と旅に出て行った。信州にはかつて姥捨て山にも登ったことがあり、飯田の街に住む当時の友人からのお誘いもあったらしい。
 風越の山は名のみそ治まれる御代の春とて花の静けさ
を詠んでいる。

 真澄の脳裏には何があったのか。愛知県の豊橋市に白井英二後に秀雄の名前で生まれた。白井姓はたしかに東三河には少なくない。30歳で両親に別れを告げてあるかみちのくへと旅立ったのである。名古屋では本草学、国学を学んだという。
 その中に旅のヒントがあったのだろう。弥生文化の西端だった名古屋から豊橋地域から東は山岳を越えねばならなかった。伊那街道は山越えが続くので足助に回り込んで塩の道を歩き、愛知長野県境の杣路峠を越えた。いわゆる飯田街道である。それから治部坂峠を越えるともう難所はない。昼神から飯田へ。飯田の風越山のふもとの白山神社に詣でた。そこで道々採集していた薬草を小児科医に売って路銀を作っている。
 ここはもう東日本の縄文文化圏である。そこから北上しうとう(善知鳥)峠890mを越えて塩尻の洗馬へ。塩尻ではもてなしを受けたという。
 「信毎おでかけ」によると
「 塩尻市の本洗馬歴史の里資料館で7日、江戸時代の文人で紀行家の菅江真澄(すがえますみ)(1754〜1829年)の没後190年記念展「菅江真澄旅の始まり」が始まった=写真。県内に残る菅江の直筆作品全14点を初めて展示。地域の行事など菅江の絵画作品もあり、当時の暮らしぶりが分かる。

 菅江は1783(天明3)年から1年余、同館隣の県史跡「釜井庵(かまいあん)」を拠点に県内各地を訪ね歩いた。今回、県内で菅江の直筆作品を所蔵している個人らから借りた。

 須々岐水(すすきがわ)神社(松本市里山辺)所蔵の和歌の掛け軸「ぬさとれば」は初めて一般公開した作品で、菅江が同神社を訪れた際に詠んだ歌だ。菅江が県内滞在中に読んだ和歌133首をまとめた歌集「雄甫詠草(ゆうほえいそう)」などもあり、学芸員の中原文彦さん(67)は「これだけの直筆作品が一堂に並ぶ機会は貴重」と話す。

 菅江は短歌だけでなく、絵図も残している。拠点としていた洗馬の七夕や県内各地の風景など当時の様子も紹介している。」

 真澄は道中のスケッチや短歌を詠んだという。それらを一宿一飯のお礼に置いていったのだろう。松浦武四郎も篆刻の技があり、泊めてもらったお礼に置いていったらしい。泊める側の宿主は西日本の珍しい話をせびったのだろう、さあさ、もう一献などとやりながら情報交換したと思われる。
 宿主に残した絵は後々に研究家がまとめて『真澄遊覧記』と書籍化された。
本洗馬歴史の里資料館からのお知らせ
https://www.city.shiojiri.lg.jp/tanoshimu/hakubutukan/motosebarekisinosato/oshirase.html

菅江真澄『すわの海』から「御頭祭」 21.9.18
https://yatsu-genjin.jp/suwataisya/sinji/suwaumi.htm

菅江真澄が見た天明4年の上社本宮 21.10.18
http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/zatugaku/sugae.htm

名酒 真澄の由来は
「地元諏訪の諏訪大社の宝物「真澄の鏡」から由来
創業は1662年(350年超え)でとても由緒ある酒蔵さんなのです!
どうやらもともとは武家で、戦国時代に一度地元を追われて50年ほど静岡で過ごすことになったが、ようやく戻ってこれた時に刀を捨てて酒屋になったとのこと。」

 東洋文庫『菅江真澄遊覧記』1の年表を読むと、
1782年 29歳 5月 木曽路を歩く。三河から駿河ま、また京都へ行ってくる。

1783年 30歳
1月    伊勢神宮参宮
2月末  故郷三河(岡崎市)を出発
3月    信濃下伊那郡に入る(伊那の中路)
付録の旅の軌跡を見ると風越山に登った
5月24日 東筑摩郡洗馬村に至る
8月15日 姥捨山に登る(わがこころ)
11月末  亡母の三回忌を行う(手向け草)

1784年 31歳
1月    信濃諏訪地方を往復す(諏訪の海)(庵の春秋)
6月    越後を経て奥羽へ出発(くめじの橋)
9月    出羽へ入国す
10月   雄勝郡柳田(秋田県湯沢市)に至る(秋田のかりね)
・・・5月から翌年6月まで信濃に居た事になる。

名前の変遷
1754年  白井英二 青年になってから秀雄
1783年~1800年 津軽に居るころまで白井秀雄を名乗る
1801年  8月 弘前から西津軽郡鰺ヶ沢にくる 白井真澄になる
1808年  秋田県能代にて菅(すが)水斉を名乗る
1810年  以後、菅江真澄を名乗る

以下省略

・・・私は諏訪大社を参拝してから真澄を名乗ったかと思ったがずっと後だった。さらに菅江を名乗る前に菅を名乗ったという。
 脱線するが「略。 愛媛県・山形県・秋田県などに多く、読み方は愛媛では96%以上、山形では90%以上が「かん」で、秋田では99%以上が「すが」である。 ... 「菅」姓の人数は約4万人で全国順位は500位前後であるが、愛媛県今治市では7位、秋田県湯沢市では6位、山形県最上町では最も多い名字となっている。」(ウィキペディア)
 ちなみに菅(すが)義偉は秋田県、菅(かん)直人元総理は山口県である。

山岳古道③秋葉街道ー小川路峠を越えたアルピニスト2021年02月15日

松濤明の遺稿集『風雪のビバーク』の中の春の遠山入りの中にこの秋葉街道の紀行が名文で紹介される。深田久弥も南アルプスからの帰りに下っている。木地師の墓がある。三十三体の観音様の石仏がある。
 遠山側の歩道は踏査していないのでこの機会に歩きたい。遠山谷の民宿に泊まったら、かつての馬宿だった。庭には名古屋コーチンが飼ってあった。文化は関東圏、経済は名古屋圏らしい。飯田線が開通するとあっという間に寂れた。
 北には中央道から分岐した三遠南信道路が開通を待つ。今は秋葉街道の入り口付近が工事中で、先に矢筈峠の下にトンネルが開通させている。矢筈峠は深田久弥が遠山谷へ入る際に越えた。

森喜朗氏の辞任を考えるーヤマトタケルと言挙げ2021年02月12日

 結局、森氏は「言挙げ」してしまったのだ。マスコミの切り取りはあったにせよ、スキがあったのだ。以下の文に見る如く、ヤマトタケルも相手を軽く見たわけではないのに、自分の思いを正直に言葉にしてしまった。それが「言挙げ」であり、感受性の強い女性の神経にさわるのである。そしてマイナスに働き、屈強の神様も足が三重(三重県の由来)に曲がってしまった。鈴鹿市で力尽き、「大和は国のまほろば・・・」と詠って亡くなった。実に恐ろしきものは言挙げである。他人の癇に障る言葉は厳に慎まなくては。

 ブログ「和人」から
https://www.wabito.jp/ibukiyama-siroinosisi/
【古事記】倭建命(やまとたけるのみこと)「伊吹山(いぶきやま)の白猪」

 倭建命(やまとたけるのみこと)は、尾張国(愛知県)の美夜受比売(みやずひめ)と結婚された後、伊吹山(滋賀県と岐阜県の境にある山)の神を討ちに出かけますが、その時、御刀である草薙剣(くさなぎの剣)を、美夜受比売(みやずひめ)の元に置いて、「この山の神は、素手で倒してやる!」

といい、持たずに出発しました。そして、その山に登った時、山の麓(ふもと)で白い猪に遭遇しました。その大きさは牛ほどあります。

そこで、倭建命(やまとたけるのみこと)は、言挙(ことあげ)して「この白い猪に化けているのは、その神の使者だな。今殺さずとも帰る時に殺してやろう!」と言い、そのまま山を登って行きました。

*言挙:自分の意思をあらわにし宣言すること。古代では言挙しその内容が間違いであった時、効力を失い自分の力をも失うとされ、禁句とされていたようです。

 すると、突然激しい雹(ひょう)や雨が降って来て、倭建命(やまとたけるのみこと)はその雹と雨に打たれ意識を失ってしまいます。実は、その白い猪は神の使者ではなく、山の神そのものだったのです。

 しかし、倭建命(やまとたけるのみこと)は「山の神の使者」と言挙してしまったので、その怒りを買いこのようにして気を失わせたのでした。
倭建命(やまとたけるのみこと)は、意識が混濁(こんだく)する中、その山からなんとか帰り下り、玉倉部の清水(たまくらべにある泉:所在未詳(滋賀県坂田郡米原町の醒が井あるいは、岐阜県不破郡関ヶ原町玉とも言われています)に着き、休みになっていると少し意識が回復しました。それで、その清水を居寤清水(いさめのしみず)といいます。

 そして、そこから倭建命(やまとたけるのみこと)は出発し、当芸野(たぎの:岐阜県養老町)の辺りに着いた時こう言いました。「私の心は、常に空を飛び翔けて行けると思っていた。しかし今は、私の足は歩くことも出来なくなり、たぎたぎしく(腫れてぼこぼこに)なってしまった」

 それで、この地を当芸(たぎ)といいます。

 そこから少し進むが、とても疲れ、なんとか杖をついてそろそろと歩きました。そこで、その地を杖衝坂(つえつきざか:三重県四日市市)といいます。
以下略

物言えば唇寒し秋の風 松尾芭蕉2021年02月11日

 今は春だが社会ではとんでもない椿事が起きた。以下にアップした言葉が切り取られて女性蔑視というのである。言霊を信じてよく考えないとトラブルになる。
 
 句意ははっきりしている。コトバンクから

 「芭蕉の句で、貞享年間(一六八四‐八八)に成ったといわれる「座右の銘」、「人の短をいふ事なかれ 己が長をとく事なかれ」のあとに添えられているもの。人の短所を言った後には、なんとなくさびしい気持がする。転じて、なまじよけいなことを言えば、そのためにわざわいを招くということ。口は禍の門。
※滑稽本・七偏人(1857‐63)四「もの言(イヘ)ば唇さむし秋の風だ。何でも口数が多いと襤褸が出るから」

森会長の問題とされる発言は
 「これはテレビがあるからやりにくいんだが。女性理事を選ぶというのは、日本は文科省がうるさくいうんですよね。

 だけど、女性がたくさん入っている理事会は、理事会の会議は時間がかかります。これは、ラグビー協会、今までの倍時間がかかる。女性がなんと10人くらいいるのか? 5人いるのか? 女性っていうのは競争意識が強い。誰か1人が手をあげていうと、自分もいわなきゃいけないと思うんでしょうね。それでみんな発言されるんです。

 あまり言うと新聞に漏れると大変だな。また悪口を言ったと言われる。女性を増やしていく場合は、「発言の時間をある程度、規制を促しておかないと、なかなか終わらないので困る」と言っておられた。誰が言ったかは言わないけど。そんなこともあります。

 私どもの組織委員会にも女性は何人いたっけ? 7人くらいか。7人くらいおりますが、みんなわきまえておられて。みんな競技団体からのご出身であり、国際的に大きな場所を踏んでおられる方々ばかりです。ですから、お話もシュッとして、的を射た、そういう我々は非常に役立っておりますが。次は女性を選ぼうと、そういうわけであります。」

というわけで、マスコミに切り取られて大騒ぎになり、辞任に追い込まれてしまった。正に口は禍の元。否コロナウイルスも口から唾を飛ばして感染してます。

山岳古道①覚明行者の開拓した登拝道ー木曽越峠から白巣峠2021年02月10日

 山岳古道についての打ち合わせ会を持った。会として五か所をアップすることになるが、その組織づくりを始める。切り口をどうするか。これが古道だと取り上げても賛意が得られるか、興味を持たれるかが疑問である。そこであらまし歴史的な人物、食い物文化、古墳、信仰などのカテゴリーを考えてみる。
1 御嶽山の黒沢口の登拝道は春日井の覚明行者という。
「御嶽山を一般の人が登拝できるようにした覚明行者の誕生地ということで、春日井では江戸末期から明治時代にかけて、誕生講を中心に大部分の市域で御嶽講が結成され、下街道は御嶽参りの人々でにぎわった。そして、多くの先達が輩出し、市内各所に霊神碑が林立するお山が分布している。
現存する講を御嶽信仰の上部団体との関係でみると、御嶽教はなく、神道大教4、木曾御嶽本教3、地元完結型3である。(註6)」

「中央線が明治33年(1900)年多治見まで、同35年中津川まで、同43年木曾福島、翌年塩尻まで全通している。鉄道が開通するごとにその終点から御嶽をめざし、下街道から御嶽詣の人たちの姿は消えていった。
中津川まで開通してからは、付知―白巣峠―王滝村から頂上をめざすルートもにぎわい、付知には宿屋が5軒ほどあったという。(註2)」

http://s-i-n-o.cocolog-nifty.com/blog/2020/03/post-d1a749.html

「木曽越峠の名は、木曽義仲が越えたという伝承によるが、加子母から木曽越峠、信州王滝村に抜ける道は、江戸時代の寛政年間(1789-1801)に御嶽登山道として、御嶽行者の覚明によって開かれた。余談ながら、覚明は愛知県春日井市牛山町の出生で、名鉄小牧線間内駅前に覚明霊神の像があるので親しみがある。加子母村から木曽越峠を越えて渡合へ、さらに白巣峠を越えて滝越経由で、王滝へと至るルートだ。嘉永2年(1849)には、この御嶽登山道が荒れてきたため、加子母村と王滝村の人が中心になって、補修の寄付を募っている。文久2年(1863)には、加子母と付知の人が発起人になり、道に迷って命を失った人の菩提を弔い、道案内として登山者を守るため、加子母村を基点に王滝村まで33体の石仏の観音像が安置された。」