訃報 曽野綾子さん死去2025年03月04日

 曽野綾子さんが2/28に死去。
 知ったのは司馬遼太郎の『街道を行く 濃尾参州記』(朝日文庫)の中で藤田保健衛生大学(現藤田医科大学)のことにふれた文に曽野綾子『贈られた眼の記録』(朝日文庫 1986年)が引用されたことだった。この時馬嶋家は古い時代から続く眼科医と知った。
 早速取り寄せて読んだ。内容は「白内障、中心性網膜炎……失明を覚悟した著者が、奇跡的に視力を恢復するまでの感動の記録。」である。曽野綾子さんは51歳だった。入院先が同大学の付属病院だった。これを契機に作品も読み始めた。作品は小説ではなくエッセイのみだった。
謹んで曽野綾子さんの御冥福をお祈り申し上げます。

『伊東月草編 冬葉第一句集』受領2025年02月08日

 古書店に注文しておいた中津川市苗木出身の俳人・吉田冬葉の句集『伊東月草編 冬葉第一句集』(丸の内書店)が届いた。2200円余りした。ぼろぼろの体裁ではあるが古本ではなく価値のある古書というにふさわしい。奥付には大正11年出版。金壱圓とある。丸の内書店は東京市麹町區有樂三丁目四番地。
 大正11年は1922年。冬葉は1925年に大須賀乙字師系の俳句雑誌「獺祭」を創刊主宰となって発行し続けた。今年で2025-1925=100年の老舗である。

岐阜県図書館へ2025年02月01日

 吉田冬葉のことについて検索で分かることには限界がある。ので岐阜県図書館へ現物を見に行ってみた。午後一時過ぎなので、植田ICから高速を利用。1時間余りで着いた。
 館内に入るとまず喫茶店でコーヒーを飲む。名古屋ではたくさんある喫茶店だが岐阜市内では余りない。2時半前で3時閉店という。うまいコーヒーだった。水が違うのだろう。
 1Fの検索機で見ると句集以外に多数の資料が見つかった。2Fの郷土資料コーナーでそれらを請求し、前書き、跋、序とあとがき、季語、目次などをコピーして行った。句集では『故郷』『青嵐』『望郷』をコピーした。『冬葉第一句集』の原本もあった。前書き部分は俳句集成にも収録されていたから割愛した。それ以外に新聞記事、雑誌記事、地域誌のコラム、など結構多数の寄稿文が見つかった。
 新聞では朝日新聞の1981.11.5付「風雅の旅人たち・・・美濃俳句史37・・・が包括的に吉田冬葉を特集している。他岐阜合同新聞の「瓦石の中の珠玉」が寄稿されているがコピーが荒くて判読できない。中部日本新聞は訃報欄に昭和31年12月1日付けで11月28日に64歳で死亡した記事を掲載。
 まずまずの成果に満足して帰名できた。

渡辺恒雄逝去2024年12月20日

「渡辺恒雄・読売新聞グループ本社代表取締役主筆が死去、98歳」
https://news.yahoo.co.jp/articles/1bc6028bcbccebefd9081200350e7b7302740c20

 読売新聞グループ本社代表取締役主筆の渡辺恒雄(わたなべ・つねお)氏が19日午前2時、肺炎のため、都内の病院で死去した。98歳。葬儀は近親者のみで営まれる。喪主は長男、睦(むつみ)氏。後日、お別れの会が開かれる予定。

渡辺氏は11月末まで定期的に出社し、役員会や社論会議に出席して大所高所から本社の経営や社論を総覧していた。今月に入って体調を崩し、病院で治療を受けていたが、亡くなる数日前にも社説の原稿に目を通して点検するなど、最後まで主筆として執務を続けた。

 渡辺氏は東京都出身。東京大学を卒業後、1950年、読売新聞社に入社し、ワシントン支局長、編集局総務兼政治部長、専務取締役主筆兼論説委員長などを経て、91年に代表取締役社長・主筆に就任した。2002年の持ち株会社制移行に伴い、グループ本社代表取締役社長・主筆を2年近く務めた。その後、同会長・主筆を経て、16年から現職にあった。
以下略

腹黒い人の特長3選2024年12月10日

 リール動画から拾った話
◎腹黒い人が無意識にやっている行動3選

1:いい人の仮面をかぶっている。にじみ出る腹黒さを見抜く。

・他人をコントロールする。

・所有欲や競争心が強い。

・自己中心的で自分が正しい意識が強い。

・マウントを取って人を支配する。

2:お世話をすることの見返りを求める。

・与えるふりをして奪う。

・関わるとエネルギーを奪われる。

・小さな親切大きなお世話。

3:他人の気持ちを踏みにじる。

・他人の気持ちや立場が理解できない。

・人の事はどうでもいい。

河村たかしさん小選挙区で堂々トップ当選を果たす2024年10月27日

 愛知1区では日本保守党で立候補した河村たかし氏が早々と当選確実が伝えられてきた。下馬評通り安定の強さを発揮した。日本保守党の当選第一号。おめでとうございます。全国で5人の当選者が出てはじめて国政政党という。
 愛知7区の自民党鈴木じゅんじ氏は落選確実という。裏金問題で公認だが比例重複なしが響いた。トップは減税を標榜する国民民主の日野 紗里亜氏が当選。
 愛知11区の八木哲也氏は公認だが年齢制限で比例重複なしで落選。トヨタ労組が支援した国民民主の丹野みどり氏の当選が確実。
愛知2区では国民民主の古川元久氏が当選確実。
国民民主が強い。
 愛知3区では立憲の近藤昭一氏が安定的な強さで当選確実。
以上は23時30分現在です。
 追記
 日本保守党はその後比例で東海ブロックの竹上裕子氏、近畿ブロックで島田洋一氏が当選。全国で3名の国会議員を確保、得票率が2%を越えて国政政党の条件を満たした。

俳優の西田敏行さん逝去2024年10月17日

 俳優の西田敏行さんが10/17に逝去された。お悔やみ申し上げます。
西田さんは1947(昭和22)年生まれ。同じ団塊の世代とは知らなかった。長い間テレビも映画も観ていないので記憶に残る作品が思い出せない。
 映画で「植村直己物語」に出演していた記憶を頼りに検索したら予告編の動画がヒットした。1986(昭和61)年の作品で1984年にマッキンレーで消息を絶った植村直己を演じる。38年前ですからまだ38歳だった。西田敏行の若かった頃の精力的な風貌が植村直己の素顔とダブります。
 また海外ロケも惜しみなく挙行されている。かなり見どころのある作品です。当然本物の登山家もサポートしています。スタッフには群馬岳連の八木原國明さん、今は亡き名塚秀二の名前もある。
 一回は見た気がするが映画館で観たいものです。

国会議員の政治懇談会に出席2024年10月03日

 午後は古川元久衆院議員の懇談会で考えを拝聴した。大企業の労組に基盤を置く国民民主なのでほとんどなじみはありません。
私どもの業界の行政書士法の制定は議員立法と言うことでご尽力いただいています。
 話の中心は社会のデジタル化に対応することで生き残りを図ろうと言う事です。デジタル化も今は大混乱しています。デジタルに疎い情報弱者は確実に増えています。私もその一人です。
この前もマイカーのオーディオのブルートゥースの設定にオロオロさせられた。汗
 8年前のクルマでも電子機器の塊であり、半導体不足でメーカーのラインが止まるのも時代を反映した事件でした。
プロフィールを見ると旭丘高、東大法学部、大蔵官僚でした。昭和40年生ということは高度成長期と共に生きていた世代です。政治家として油が乗った年齢です。
 どうかカネまみれで失脚しない様に祈りたい。汚いカネに手を付けない政治家、正直者が馬鹿を見ない社会を目指すべく活動していただきたい。

第13回おばら杉田久女俳句大会に参加2024年09月14日

 ミニコミ誌の矢作新報は矢作川流域の市町の出来事を取材。地域密着型の毎週金曜日発刊の週報である。先週6日号でこの催事を知っていく事にした。というのも来賓の1人に杉田久女の孫の石太郎氏の名前があったからだ。母は杉田久女の一人娘の石昌子(旧姓は杉田)、父は石一郎。石一郎は戦前の日本山岳会会員で、ウインパーの『アルプス登攀記』の翻訳者だった。
 杉田久女も山歩きが大好きで「岳人」(中部日本新聞)に家族連れの随筆を寄稿した記憶がある。その中に石太郎氏も入っていたのではないか。
 又小島健氏の「杉田久女の俳句と時代」の講演も楽しみだった。主催者側、来賓の挨拶後に講演が始まった。久女の句を鑑賞しつつ時代の変遷も合わせて解説された。大体は頭に入っているが専門俳人だけに深掘りされて詳しい。
 質疑応答では私も挙手して、″あじさいに秋冷いたる信濃かな″の段で、句碑のある松本市の丘と父の赤堀家の分骨の事が省略されたので質した。小島氏は分骨の墓地は行けなかったらしい。確かに迷路の様な道をたどり着いた。
 後で石太郎氏は母の分骨の儀の際は一緒に行ったそうだ。くだんの俳句は父の分骨の際に久女が詠んだ。久女らしい骨太な大景である。その目には常念岳があったはずだ。句碑を訪ねたその奥に常念岳を見た。しかし山は詠まず足元のあじさいを詠んだ。
午後は句会になった。名古屋市から県道58、R419を走った。419は良い句と読める。9時過ぎ、会場の小原交流館に入って、即興の2句を投句、事前の募集句も2句を書いて投函した。即興だけに自信はないが腕試しのいい機会だ。
 参加者のほとんどは女性であった。勉強熱心な上に繊細な感性は文芸向きであろう。受賞も女性がさらっていかれた。山本主宰と石氏の講評を拝聴。これが参考になる。俳句は1人で詠むが発表して、全員で選句され、選者の句評を聞き、客観的に評価されて俳句になる。
すべてが終わって帰名した。
 豊田市小原町松名は旧小原村だった。杉田家に嫁いで来て地縁が生まれた。久女が病死、夫の宇内も死んで旧家跡に埋葬された。評伝も3冊発刊された。特に田辺聖子『花衣 脱ぐやまつわるーわが愛の杉田久女』で全国的に知名度が上がり、松名は女性俳人のメッカになりつつある。

宮坂静生『俳句表現 作者と風土・地貌を楽しむ』(平凡社)出版2024年08月01日

「俳句はキレ、精いっぱい生きて詠む 『俳句表現』を出版した本紙俳壇選者、宮坂静生さん」
https://www.sankei.com/article/20240713-WFWZGKGCJNPOBDGEGRBDYAPSPA/

 産経俳壇(木曜掲載)選者の俳人、宮坂静生さん(86)。俳句人生は70年を超えるが、「俳句というものは分からない。やればやるほど分からないねえ」というのが率直な思いだ。このほど出版した編著『俳句表現 作者と風土・地貌(ちぼう)を楽しむ』(平凡社、2970円)でも、出会った俳人や俳句を通して、俳句とは何かを模索し続けている。

 作者と作品、多様な視点で
「俳句表現 作者と風土・地貌を楽しむ」の表紙
「俳句表現 作者と風土・地貌を楽しむ」の表紙
本書は、俳句作者の生涯をたどり、いのちが煌(きら)めいた一瞬をとらえた俳句作品を紹介する「いのちの煌めき」、文学作品を通して日本風土の多様性や日本人の生き方を探る「詩歌のちから」、地域の暮らしに根差した多彩な季語の魅力をたずねる「わが産土、わが風土」など、多様な視点から俳句作者と俳句作品に迫った俳句の解説書だ。

 「いのちの煌めき」は、NHK・Eテレの俳句番組・雑誌の「NHK俳句」で平成19年から21年にかけて放送・連載したエッセーで、24人の俳句作品をその人生とともに取り上げている。がんと闘い、刻々と死期に近づく痛苦の世界を遊び心も交えて俳句にした演芸評論家・エッセイストの江國滋。からだのすべての筋肉が失われ、話すことも手足を動かすこともできない難病、筋萎縮性側索硬化症(ALS)と格闘する日々を俳句にしたためたジャーナリストの折笠美秋。鬼籍に入った俳人が残した俳句作品から、いのちとは、生きるとはどういうことかを考えさせられる。

 かつて勤務していた信州大学で医学・医療技術系の学生に死生観を教えていた。同書で人間の生や死にまつわる俳句作品を取り上げるのは、こうした経歴と無関係ではないだろう。

 「私が大学で教えていたのは、日本でまだ死生学という言葉も浸透していない頃。死生学は、メメントモリ(「死を想え」という意味を表すラテン語)が原点の学問。生から死を考えるのでなく、人間は死ぬということを前提としながら生を考える。昔と違って今はこうした考えが行きわたってきましたね。ただ、死生学的なことを表に出すと教条的になってしまう。俳句は自由ということが一番大事。俳句を作るときも選評するときも教条的に、つまり上から目線にならないように気を付けている」

 虐待死の女児を悲しみ
俳句は花鳥風月を詠むものと考えられがちだが、特別顧問を務める俳句団体「現代俳句協会」は「俳句自由」を掲げ、社会的なことも題材にしてさまざまことを詠む。

 「真冬日の結愛(ゆあ)ゆるしてくださいゆるしてください」は、平成30年に東京都目黒区で起きた虐待死事件の女児の死を悲しんで宮坂さんが詠んだ句だ。当時、亡くなった女児がノートに書いた哀切な叫びに胸が張り裂ける思いを抱いた人は多いだろう。宮坂さんは「私の俳句は、結愛ちゃんの哀切な叫びほどに読み手の心に届くものは一句もない」と打ち明け、女児が残した言葉の重みにうなだれる。

 また、「どの子にも涼しく風の吹く日かな」は、6歳の次女を急性小児麻痺で一夜にして亡くした俳人、飯田龍太の句。「明るい子供詠でありながら、一抹の寂しさが漂うのは、死の真実の前で生が『つかのまのいのち』を感じさせるからでしょうか」と読者に問いかける。俳句作品はそれだけで独立したものとはいえ、作者の背景を知ることで新たな作品の一面が浮き上がってくる例といえよう。

 自分から、普遍に
俳句鑑賞学を提唱し、作句と同時に優れた鑑賞力をつけることが俳句作者には必要と説く宮坂さん。現代の俳句の見本と評価する句は、飯田龍太の「一月の川一月の谷の中」。

 「1月の川が1月の谷の中を流れることを詠んだ句です。以前は、なんでそんな当たり前のことを詠むのかと思っていた。だけど、俳句をたくさん読んでいると、この句が永遠のことを詠んだ句ではないかと思うようになった。この世で出会った一月の川が、永遠の谷の中を流れる、自然の骨格を詠んでいる。いろいろな解釈があるけど、僕の解釈が一番いいと思うね(笑)」

 自身の代表作は「はらわたの熱きを恃(たの)み鳥渡る」。長野県高山村の山田牧場で詠んだ句で、菩提寺である同県千曲市の龍洞院に句碑が立つ。

 産経俳壇に寄せられるはがきの選句・選評に加え、主宰する俳句誌「岳」の運営、全国各地での講演・俳句指導、原稿執筆と忙しい日々を送る中、第14句集の『鑑真』(本阿弥書店)を7月に出す。

 「何年やってもこれが俳句だというのが分からない。ただ、人間が生きていくうえで分からないことを詠むのが俳句ともいえるかな。だからさまざまなことをファッションを楽しむように詠む。決まりはない。そして、始めはみんな自分が思っていることを俳句にするんだけど、やっているうちにだんだん自分というものが消えていく。窓口は自分だけど、普遍というか、誰にとっても共通したことになっていく」

 「俳句はキレが大事。嫌なことを鬱々と考えるのでなく、スパッと切るようにね。だって、誰もがいつ死ぬか分からないんだから、一日一日を粋よく生きなきゃ。毎日を精いっぱい生きて、それを俳句に詠む。そうすればおのずといい句ができるのではないでしょうか」(平沢裕子)

宮坂静生
みやさか・しずお 昭和12年、長野県松本市生まれ。俳人、俳文学者。信州大名誉教授。俳句誌「岳」主宰。「現代俳句協会」会長(平成24~30年)を経て、現在は特別顧問。19年読売文学賞、31年現代俳句大賞、令和3年詩歌文学館賞など。句集に『青胡桃』『草塊』、俳句評論集に『季語の誕生』『俳句必携1000句を楽しむ』など多数。
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金子兜太さん死去
現代俳句協会の宮坂静生会長「最後まで現役を貫いた」
2018/2/21 12:29
 現代俳句協会の宮坂静生会長の話 「戦後日本の俳句界を担い、最期まで現役を貫かれた金子さんは、俳人にとって光のような存在でした。現世をいかに生きるか、最期まで体を張って、粘り強く追求された。それは戦時中、トラック島で生死をさまようギリギリの体験をしたことが、背景にあったからだと思います。ほかの俳人が戦争体験から目をそらしてしまう中、金子さんはそれと真っ正面から向き合い、平和を求める俳句を作られた。金子さんの生き方そのものが、あの厳しい俳句を生んだと思います」
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宮坂静生(俳人) 金子兜太の優しさ
2018/4/8 09:53

現代俳句協会創立70周年記念大会での金子兜太さん(手前)と筆者=平成29年11月23日、東京・内幸町

 2月20日、金子兜太(とうた)さんが98歳で亡くなった。近年、兜太さんとの縁(えにし)を感じることが多かった。

 昨年11月23日、勤労感謝の日に帝国ホテルで開かれた現代俳句協会創立70周年記念大会は名誉会長・金子兜太さんの長寿のお祝いの会のようであった。

 兜太さんは17年間、協会の会長を務め、おのずからシンボル的存在であった。当日は特別功労者表彰状を差し上げた。兜太さん最良の日。そこで突如、唄(うた)うかといって、秩父音頭を唄われた。

 「秋蚕(あきご)仕舞うて麦まき終えて 秩父ナアー 秩父夜祭待つばかり」

 喉から声をしぼり出すように、懸命に唄われた。絶唱であった。

 記念大会のしばらく前に、私は『季語体系の背景 地貌季語(ちぼうきご)探訪』という本を出した。各地に残る季節のことばを「地貌季語」と名付けて蒐集(しゅうしゅう)し、大切さを喚起した本である。例えば、「どんぐい」(北海道での虎杖(いたどり)の呼称)や「桜隠し」(新潟県の地域での桜時の雪の方言)など。兜太さんに本の帯文を書いて貰(もら)った。

 産土(うぶすな)を見つめ愛着ある土地のことばを探ることで真実の日本がわかるとある。わが意を得たうれしいことばであったが、これは兜太さんの十八番(おはこ)の秩父音頭に通じる、ご自分が句作を通し求めている思いでもあったのであろう。
以下略
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やっぱり、宮坂静生と金子兜太は産土=地貌で通じ合っていた気がする。兜太が朝な夕なに眺めた両神山を産土と意識して句集名にも『両神』、『東国抄』と命名した。これが宮坂の言う地貌である。遡ると前田普羅の地貌論にもつながる。登山家の小島烏水も地貌を言うことがあった。