なにがうそでなにがほんとの寒さかな 久保田万太郎2023年01月31日

 愛知県知事選の投票日は2/5。そろそろ期日前投票に行きたい。しかし意中の候補者がいない。
 掲句のように何がホントで何が嘘なのか、見極め難い。

 愛知県知事選挙に立候補した6氏の経歴・政策まとめ
 https://news.yahoo.co.jp/articles/5e1a925be49074922ef4f306c8f588c9f9cc9d28

 任期満了に伴う愛知県知事選挙が1月19日告示、2月5日投開票の日程で実施されています。今回の愛知県知事選挙には届け出順に無所属新人の
 安江朗氏(55)、無所属新人の
 末永啓氏(37)、政治団体「起きる会。」新人の
 山下俊輔氏(60)、無所属新人の
 上原俊介氏(46)、共産党が推薦し社民党が支持する無所属新人の
 尾形慶子氏(65)、自民党愛知県連・立憲民主党・公明党・国民民主党が推薦する無所属現職の
 大村秀章氏(62)の6名が立候補しました。

1 安江氏は愛知県岩倉市出身、仏教大学中退。外資系企業や国際NGOボランティアを経て、現在は会社社長を務める
安江氏は愛知県岩倉市出身、仏教大学中退。外資系企業や国際NGOボランティアを経て、現在は会社社長を務める

安江氏は愛知県岩倉市出身、仏教大学社会学部中退。

外資系企業、国際NGOボランティア、トヨタ自動車等の勤務を経て、現在は医療コンサルタント会社社長を務めています。

2 末永氏は青山学院大学卒業。衆院議員秘書を経て、春日井市議を3期務める
末永氏は青山学院大学卒業。衆院議員秘書を経て、春日井市議を3期務める

末永氏は青山学院大学卒業。

衆議院議員秘書を経て、2011年から春日井市議会議員を3期務めました。

2022年には春日井市長選挙に立候補しました。

末永氏が掲げる政策とは
末永氏は以下の政策を公表しています。

・物価高への対応・賃金上昇対策として、最低賃金を引き上げることを目下の課題であり、現行986円から欧州並みの1.5~2倍にすることを労働経済政策の目標値とする。総合経済政策として、老朽化したインフラの再整備、フリーエネルギーへの設備投資等の公共事業、名古屋市と歩調を合わせた県民税減税、学生ローン返済免除など、国の緊縮財政とは真逆の積極財政に転換する。愛知県から通貨を発行して配布する。

・新型コロナウイルス感染症対策の抜本的な見直しを実施する。PCR検査やワクチン接種を即時中止する。

・産業振興・スタートアップ企業支援として、子どもが好きなことを見つけて続けられるように教育から改め、一人ひとりの生み出す力を伸ばす。コロナ関連予算を組み替え数千億円規模の若者スタートアップ基金を創設し、学生ローンの返済免除、賃金1.5~2倍ターゲット総合経済政策を実施する。現役世代の起業、伝統文化の継承、耕作放棄地の営農等の支援、生産拠点の国内回帰や首都圏からの本社機能移転を促進する。

・少子化対策・教育子育て支援に関して、子宮頸がん(HPV)ワクチンやコロナワクチンの接種、PCR検査を廃止しマスクも撤廃する。助産院を支援し自然分娩を促進する。教育委員会は委員を入れ替え抜本改革する。

・防災・減災対策として、エネルギー自給率アップに取り組む。老朽化するインフラの再整備をしつつ、タルタリア文明の建築を復興し、トヨタ自動車等と連携して電線の要らないフリーエネルギーを実用化し普及させる。

・共生社会の実現のため、教育や人づくりを抜本的に見直す。

3 山下氏は三重県朝日町出身、國士舘大学中退。現在は経営コンサルタント会社代表を務める
山下氏は三重県朝日町出身、國士舘大学中退。現在は経営コンサルタント会社代表を務める

山下氏は三重県朝日町出身、國士舘大学政経学部一部経営学科中退。

現在は経営コンサルタント会社代表、政治団体「起きる会。」代表を務めています。

4 上原氏は名城大学卒業。薬剤師として薬局に務める
上原氏は名城大学卒業。薬剤師として薬局に務める

上原氏は名城大学薬学部卒業。

製薬会社勤務を経て、現在は愛知県武豊町内の薬局で薬剤師として勤務しています。

上原氏が掲げる政策とは
上原氏は以下の政策を公表しています。

・物価高や賃金上昇対策として、間接的支援として自動車税の減税を行う。

・新型コロナはただの風邪と認識して感染症法の第2類相当から規制や警戒を緩和する方向に動くべき時だと考え、エビデンスに従い脱コロナを目指す国の施策に沿う。

・水、電力、道路等に関するインフラ整備により産業基盤の強化をはかり、防衛産業の支援により企業立地の促進、魅力的な観光資源を持つ知多半島を広報することにより観光産業の浮揚などにより産業振興をはかる。スタートアップ支援については、不必要な規制の改廃などにより後方支援する。

・少子化対策で成果を上げた明石市の政策を一部借用し、①18歳未満の医療費の無償化②第二子以降の保育料の無償化③保育士増員等の支援を実施する。また若い人が経済的に安定するよう景気・雇用対策を行い、間接的に少子化対策とする。

・田原市、豊橋市を念頭に、例えば夜間停電時を想定した津波避難訓練が必要である。常日頃から自衛隊との連携を確認し、被災時に速やかに救助要請する。また、被災地域では消防署員も警察官も被災者なので公助が十分に機能しないことが想定されるため、公助が機能するまでの間どのように緊急時に対処するかを避難訓練で確認する。

・共生社会の実現のためにはお互いに尊重しあうということにつきる。公共の福祉に反しなければどういう人にも寛容な愛知県であるようにする。共生社会を受け入れたくないという考えも尊重し、共生を強制しないのが良い社会だと考える。

5 尾形氏は三重県四日市市生まれ、大阪外国語大学卒業。通訳等を経て、環境問題や有機農業推進運動等に参加
尾形氏は三重県四日市市生まれ、大阪外国語大学卒業。通訳等を経て、環境問題や有機農業推進運動等に参加

尾形氏は1957年三重県四日市市生まれ、大阪外国語大学ロシア語科卒業。

流通大手企業に就職し、第1子妊娠で退職。夫の転勤に伴い4ヵ国(アメリカ・フランス・ベルギー・ブラジル)に暮らし、英語・フランス語の通訳として働きました。

福島原発事故後に緑の党グリーンズジャパン結党に参加し、環境問題、気候変動問題、気候危機対策を訴える若者の支援、有機農業・オーガニック給食の推進運動、性犯罪をなくすフラワーデモ、女性の貧困に立ち向かうSNAW(女性によるセーフティーネット愛知)などに参加しました。

6 大村氏は愛知県碧南市生まれ、東京大学卒業。農林水産省を経て、衆議院議員を5期連続で、愛知県知事を3期連続で務める
大村氏は愛知県碧南市生まれ、東京大学卒業。農林水産省を経て、衆議院議員を5期連続で、愛知県知事を3期連続で務める

大村氏は1960年愛知県碧南市生まれ、東京大学法学部卒業。農林水産省に入省し、徳島市部長、農協課、企画課課長補佐(総括)を歴任しました。

1996年の衆議院総選挙に初当選、以降5期連続当選しました。経済産業大臣政務官、内閣府大臣政務官、内閣府副大臣(経済財政政策、地方分権改革、金融、多重債務者対策、再チャレンジ担当)、厚生労働副大臣等を歴任。

2011年の愛知県知事選挙に初当選、以降3期連続当選しました。今回は4期目を目指しての立候補となります。

大村氏が掲げる政策とは
大村氏は自らのホームページにおいて以下の政策を公表しています。

新型コロナウイルス感染症を克服!!
・新型コロナウイルスの感染状況に応じた医療提供・検査体制の確保。
・ワクチン接種体制の整備。
・将来の新興感染症感染拡大に備えた体制確保。
・政府の経済対策に呼応、新型コロナウイルス感染症や物価高騰等の影響を受ける県民生活、事業活動への支援。

ふるさとや臍の緒に泣く年の暮 松尾芭蕉2022年12月29日

ソース:https://blog.goo.ne.jp/take10nbo/e/2718d482706a78563f8fa8711f425cdd
「竹とんぼ」から
 貞享四年(一六八七)芭蕉四十四歳の作。季語「年の暮」で冬。
『笈の小文』の旅で故郷伊賀上野に帰郷した折の歳暮吟。『千鳥掛』(知足編)に歳暮と題し、「代々の賢き人々も、古郷は忘れがたきものにおもほへ侍るよし。・・・」と芭蕉のその折りの感慨が収められている。
 臍の緒は子供の生誕の日付などを記し、大切に保存しておく風習がある。母親が死去したとき棺に納め葬るが、このとき兄松尾半左衛門から大切に保存されていた自らの臍の緒を見せられ、芭蕉の胸中には今は亡き父母を偲び慈愛の情が込みあげてきたのだろう。
 「古里や」に、今故郷の地を踏みしめている感慨が表れ、「臍のをに泣く」の語に、切実な親子の情を言い得ている感がする。なお、「臍」の読みは芭蕉真蹟懐紙のかな書き「へそ」に従う。句意は、「年の暮に年老いた兄妹のいる故郷の生家に帰り、自分のへその緒をふと手に取ってみた。
 今は亡き父母の面影が偲ばれ、懐旧の情に堪えかね涙にくれるばかりである。」

・・・かつて山岳会の忘年会で伊賀の山に登った際にこの句碑にも寄った。句碑は上野市の生家前と柘植の芭蕉公園の2つあり、柘植のを見たのである。

ちはやぶる神の御坂に幣奉り 斎ふいのちは母父がため2022年12月14日

20221210神坂峠遺跡
愛国百人一首
http://nagaraushi.g1.xrea.com/ai-kooshio.html

<歌意・鑑賞>
 「ちはやぶる」は「神」にかかる枕詞。「神の御坂」(かみのみさか)は、神を祭って行路の 平安を祈って越える坂のことで、いわゆる「峠」である。信濃国伊那郡から美濃国恵那郡に越え る現在の神坂峠と呼ばれる地であると言われている。「母父」は「おもちち」と読む。
 神を祀ってある山坂に、幣を捧げて平安を祈る命は私のためではなく、父母のためである。
<コメント>
 防人の歌。作者は信濃国の埴科郡の出身で、主張(ふみひと)という郡の書記職にあったといわ れる。しかし、郡の中でのそれだけの地位にある人物が防人になったのかという疑問もあり、 主張丁の「丁」の字が落ちたのではないかとも言われている。「主張丁」ならば、主張が差し 出した丁ということになる。正丁といえば成人男子をさす。その丁である。
 しかし、郡司の主張ではなく防人部領使に所属した主張があったも考えられる。そう考えれば 部領使の下で書記役を務めることができた防人とも考えられる。
 いずれにしても、これだけの歌を詠めたのであるから、書記をつとめられるくらいの素養が あったとしてもおかしくない人物であったのであろう。

http://agimura.net/index.php5/%E7%A5%9E%E5%9D%82%E5%B3%A0
歴史
神坂峠は遺跡の出土品から畿内と東国とをつなぐ道として古代からの通行の要所となっていた。

古事記 (712年/奈良) において日本武尊やまとたけるのみことの東方遠征で「科野の坂の神を言向けて尾張国に還り来て」とは東山道の神坂峠と言われている。
また 755年 (天平勝宝7年/奈良)、防人に立った信濃国埴科郡神人部子忍男かむとべのこおしおが

「ちはやぶる 神の御坂に幣奉り 斎ふ命は母父のため」

と旅の無事を祈った歌が「万葉集」(巻20) に納められている。

815年 (弘仁6年/平安) には天台宗の開祖である伝教大師 (最澄) が東国巡化の折に神坂峠を通行したが、このあまりの難所ぶりを目の当たりにし、通行人の難儀を救うために広済院 (中津川側) と広拯院 (阿智側) という布施屋を建てた。

秋山が好き2022年11月06日

 有名な額田王の和歌である。網掛山の黄葉を楽しんだ際はこの和歌が頭に浮かんだ。

冬ごもり 春さり來れば 鳴かざりし
鳥も來(き)鳴きぬ 咲かざりし
花も咲けれど 山を茂み
入りても取らず 草深み
取り手も見ず
秋山の木の葉を見ては 黄葉(もみち)をば
取りてそしのふ 青きをば 置きてそ歎く
そこし恨めし 秋山われは    額田王

歌意
冬が過ぎて春になると いままで鳴かなかった鳥も来て鳴きます 
咲かなかった花も咲きます でも山は茂りあっていて入って手にも取れないですよね 草も深く手折って見ることも出来ないですよね 
一方 秋の山は木の葉を見るに付け 黄葉を手に取っては賞賛し 
まだ青いまま落ちてしまった葉を手に取って 
また地面に置いては歎いてしまいます そんな一喜一憂する 
心ときめく秋山こそ 私は好きです

・・・・今もそうですが1400前の昔も錦秋の秋に軍配を上げたんだと思います。

湯豆腐や命の果ての薄明り 久保田万太郎2022年10月28日

 色んな人がいろいろに解釈をしている。背景を考えなければ平凡であるが、そこは作家の言葉の斡旋で読み過ごされないような心配りがある。命の果て、って何だろうと思わせる仕掛けがある。
 小林一茶もそうですね。
    露の世は露の世ながらさりながら
子供の儚い人生を詠んだ句です。
 名句の奥深さをじっくり味わいたいものです。

この道や行く人なしに秋の暮れ 芭蕉2022年10月27日

 俳諧の道を説いても弟子には理解されなかった。道を極めたトップに立つものであっても追随者がなくては継承は覚束ない。そんな寂しさではないか。
 世の中にはお金をいっぱい貯め込んでも友人を失ったり、家族に恵まれなかったりする人がいる。あるいは政家家や経営者としての成功者でもいったん地位を降りると弟子や支持者が雲散霧消する人もいる。
 やがて冬の季節に入る。寂寞を一層感じる秋の暮である。

老残のこと伝わらず業平忌 能村登四郎2022年08月29日

ソース:http://www.g-rexjapan.co.jp/blog1/archives/626
アメリカで80代以上の老人へアンケート(コピー)

質問 「人生で最も後悔していることはなんですか」
ダントツの一位は

「チャレンジしなかったこと」
色々なしがらみや、そして勇気を出して挑戦できなかった・・なぜあの時チャレンジしなかったのか・・・人生の終盤になっての後悔の一番です。

二位

他人がどう思おうが気にしなければよかった

人からの評価、噂、視線を気にしたことがとてももったいないと思った。

また、他人の意見を気にすればするほど行動も鈍くなり自分自身ができることがなかなかできなくなってしまう。

ホントの話、そんなことは気にしなくてよかった。

自分がそうすればよかったか、何をするべきか、どう進めればいいか。

そう考えて進めればよかったということです。

三位

幸せをもっと噛みしめたかった

不満を感じたり愚痴をいったり・・そんなことよりも今の幸せをもっと感じていたかった。

食事もできる、健康でいられる、住む場所もある・・それでも十分幸せだ・・

幸せの敷居を下げることがとっても大事だとおもった。

四位

もっと他人に尽くせばよかった

自分のことばかり考えていくことで、人間関係までも荒んだり、いつも間にか他人の悪口ばかり言うようになったり。。

もっとこの人のために何がでくるだろう。何か提供できるのではないか・・と考えることもあるそうです

五位

くよくよ悩まなければよかった

なんでうまくいかなかったのか、そして悩んだ挙句に行動もできなかった。悩む時間よりも、現実的な対策に時間をかければよかったと思ったそうです

六位

家族ともっと時間を過ごせばよかった

身近な人、家族を大事にできない人は仲間やお客さんを大切にはできません。身近な人、家族をもっと大事にしたかった。どんな家庭でも別れもあります。

年齢とともにそれは増えていくものです。

七位

もっと人に優しくすればよかった

人を批判したり、非難している人。そんな人がもし他人だったらその人と仲良くしたいと思うだろうか?否定的な言葉をかけるのではなくて、もっと他人に思うやりを持った言葉をかけれたのではないだろうか?という後悔です

八位

不安を抱えながら生きるべきではなかった

不安はお化けと一緒でいつ出るかわかりません。そんなことに不安を抱くよりも自分ができることに力いっぱいチャレンジすればよかった。

九位

もっと時間があれば。。。
年齢と共にできることは限られてきます。

十位

思い切ってチャレンジすればよかった。

挑戦したい、これもやりたい、そう思いながら人生を生きていつも間にか挑戦することができなくなっている自分がいる、人生後半戦で強く感じることで半面、頑張ろうとチャレンジしている青年をみると自分に置き換えて非常に熱心に応援したりする。

でも、自分もやっておけば。。。と後悔の念は付きまとってしまう。

一度の人生、挑戦していけばよかったという後悔は非常に多いですね。

その他

自分を大事にすればよかった。

自分で自分をなぜ責めたのか?もっと自分を褒めればよかった

他人の言葉よりも自分の直感を信じて行動すればよかった
もっと多くの旅をすればよかった
沢山の恋愛をしたかった
時間を大事に使えばよかった
子供たちに好きなことをさせて上げたかった
そのためにも経済力や哲学などしっかりつけておけばよかった

言い争いなどしなければよかった
(もっと相手を理解すればよかった)

自分の情熱に従っていきたかった
もっとがんばればよかった
本音を言っていきたかった
目標を達成したかった、そのために頑張りたかった
目標を設定し進んでいくことは素晴らしいことです。

自分にとっての目標は何だったんだろうか?

そしてそれを達成するために何かしただろうか?

いかがでしたでしょうか?

どれも重要なことだと思います。上記のことは人生の終盤戦で気づいても中々改善できないかもしれません。

このようなアンケートをみてどう感じるかは人それぞれだと思います。

だた、大事なことは

後悔しないこと
まとめると、今が幸せで、今に感謝し、そしてチャレンジし続ける。それが後悔が少なくなる生き方のようです。もちろん自分自身に問いかけてみれば答えは出るように思います。

どのような人生であっても後悔する生き方は誰しも望まず、

後悔しない生き方を望むと思います。そんなときに参考になるかもしれない内容と思い紹介しました。
以上

※後悔は先に立たず・・・という有名な言葉はある。誰しもやりたかったことがやれずに後悔するが、当時は熟慮した上で慎重策を選んだはずです。失敗したら丸裸になる。家族を路頭に迷わすことはできない、と深慮すると冒険はできない。
 冒険すると何万人かに1人は成功する。しかし冒険なれするといつかはやられる。

*けものを追う猟師山を見ず・・・山に精通したような猟師、山菜取りが山中で下山できずに死ぬことがある。

*リスクとは日常生活の糧を得る行為というアラビア語。昔は山へ芝刈りに行ったし、川に魚を捕りに行った。少なからずリスクを負っていた。今はギャンブル、相場、事業などに使うが由来は生活の糧を得る行為だった。

*華やかに活躍した在原業平を詠んだ俳句

老残のこと伝わらず業平忌   能村登四郎

高齢に生きることは老残の身をかみしめることである。

霧ふかき積石に触るるさびしさよ 石橋辰之助2022年08月12日

 山頂とか分岐点とかの要所に積まれた石の積まれた標をケルンという。霧のふかい山路を歩いてケルンに到達したが何も見えず、山路の一区切りはついたが景色が見えなくて寂しいというのである。


https://zatsuneta.com/archives/10821a2.html

 昭和時代の俳人・石橋辰之助(いしばし たつのすけ)の1948年(昭和23年)の忌日。

石橋辰之助について
1909年(明治42年)5月2日、東京市下谷区(したやく、現:東京都台東区)に生まれる。別号に竹秋子(ちくしゅうし)。東京・安田工業学校電気科を卒業。

学生時代から俳句雑誌『ホトトギス』に投句。卒業後は照明技師として帝国劇場、神田日活、新宿帝都座に勤め、戦後は日本映画社に勤務、制作課長となる。

1931年(昭和6年)に『ホトトギス』を離れ、水原秋桜子(みずはら しゅうおうし)の俳句雑誌『馬酔木(あしび)』に参加、1933年(昭和8年)に同誌同人。竹秋子の号を用い、山岳俳句において新境地を開く。

1937年(昭和12年)に『馬酔木』を離れ、新興俳句運動・プロレタリア俳句運動に参加。翌年に『京大俳句』に参加。1939年(昭和14年)には西東三鬼(さいとう さんき)・三谷昭(みたに あきら)らと『天香』を創刊するが、1940年(昭和15年)の「新興俳句弾圧事件(京大俳句事件)」に連座し検挙され、『天香』も終刊を余儀なくされる。

戦後、新俳句人連盟に参加し、委員長を務める。1948年(昭和23年)8月21日、急性結核により死去。39歳。句集に『山行』(1935年)、『家』(1940年)、『妻子』(1948年)、『山暦』(1951年)、『定本 石橋辰之助句集』(1969年)などがある。

夫のるす月さへ入れずとざしけり 夜雪庵金羅2022年03月28日

 藤田湘子の『実作俳句入門』(立風書房、1985年)のP43に月並俳句の事例として掲載されていた。江戸時代の女性の俳句である。
 今夜は夫が留守だから夫以外の男はもちろんのこと、名月の光さえ入れまいとして早々と閉ざしましたよ。という句意。これを俗臭といって嫌った。作者はたぶん町人の妻で貞女に成り代わって作句したのだろう。
 江戸時代の宗匠は俳句はその手本は芭蕉に倣え、と言い、俳句は人生を謳うものと指導したらしい。それはそうだが、俳句の中に持ち込んだ倫理感、道徳感、教訓、駄洒落、穿ち、謎解き、理屈、俗悪な風流ぶり、浪花節的人情、小主観、低劣な擬人法を批判した。
 明治時代になって、正岡子規は江戸市中の古書店から江戸徘徊の句集を集めて分析した結果が月並俳句の山と知った。そこで芭蕉のような人生を謳え、とした主観句は排除し、与謝蕪村の写生をたたえた。弟子の虚子、碧梧桐も後に続いた。
 虚子は客観写生を主導して今日に至る。
 ところが、秋櫻子らは虚子に反旗を翻した。弟子筋から再び、水原秋櫻子のような主観重視の俳人が出てきて虚子の元を去った。新しく「馬酔木」を立ち上げた。秋櫻子が死ぬと又は存命中でも「馬酔木」からは続々弟子が去っていった。そして、今に至るまで駄句の山を築いているという。
 秋櫻子の弟子の藤田湘子は「鷹」を立ち上げた。ここからも弟子が独立している。新たな中日俳壇の選者「鷹」の編集者である。どんな句を採用するのだろうか。

うらうらとかすむ春べになりぬれど山には雪ののこりて寒し 昭和天皇御製2022年03月27日

ソース:https://www.yamareco.com/modules/diary/1645-detail-24214

昭和天皇の山の歌(その2――心象風景の歌)

うらうらとかすむ春べになりぬれど 山には雪ののこりて寒し

でした。これが単なる叙景の歌でないことは、同じ題で作られた御製、

春たてど山には雪ののこるなり 国のすがたもいまはかくこそ

を見ればわかります。戦後2年半が経過し、復興の明るい兆しは見えるけれども、まだまだ雪や氷に閉ざされたところが残っている、というのは正直な実感だったのでしょう。

昭和27年4月28日、サンフランシスコ講和条約の発効は、日本の復興における大きな一歩でしたが、昭和天皇はその日2首の歌を詠まれています。

風さゆる み冬は過ぎてまちまちし 八重桜咲く春となりたり
国の春と 今こそはなれ霜こほる 冬に耐へこし民のちからに
以上