青崩峠へ2023年11月18日

11/18 浜松市天竜区は快晴
 名古屋の自宅を6時30分頃出発。R153を走って東名三好ICから新東名経由で浜松北ICで出た。1820円。西鹿島駅へ8時50分頃着。102km。
 9時過ぎ東京のPT7名と合流。青崩峠を目指しR152を北上。青崩トンネルの工事が真っ最中です。
 峠直下まで車道はあるが足神神社でデポ。そこから徒歩40分で峠へ。石畳の遊歩道でした。峠では寒気のために降雪があり、初冬の気候と冬黄葉の残る自然林がマッチして美しい。東京組は峠から信州側へ下山、私は青崩れの地層が見える四阿で別れた。
 車に戻って赤石山脈の兵越えを越えてR152に下った。下った辺りから先は青崩トンネル(2023年5月に貫通)の工事の真っ最中でした。ダンプが行きかうので一般車は立入禁止でしたが恐る恐る入っていくと東京組に出合えた。そこでピックアップして宿のある和田へ向かった。途中でも番所跡を見学したりして有意義なことでした。
 宿はかぐら山荘。飲み代込みで10000円位。宿の風呂が壊れていたので平岡駅まで走って温泉に入湯できました。往復20km。

秋葉街道踏査の計画2023年11月10日

 11/18~11/19の秋葉街道の踏査の計画がまとまった。東京の古道調査PTら7名と私で8名(男4名、女4名)の久々の大人数になった。浜名湖の北で落ち合い、青崩峠を越えて遠山谷で一泊。翌日は和田から小川路峠を越えて飯田市へ出る。
 小川路峠は過去に数回は行った。
①思い出深いのは飯田市と遠山谷の合同で峠まで登ってジンギスカンの焼肉を食わせてもらったこと。
②今は亡きU先生と小川温泉1泊で往復した。この時に松濤明『風雪のビバーク』の春の遠山入りに出てくる街道と知った。
③ある時は『岳人』の”本を片手に”という特集でこの本と街道を取り上げた。取材で登山した。
④また、『ひと味違う名古屋からの山旅』三十三山の1つで曽山1601mを取り上げて登った。
⑤ある時は小川路峠の南のピークである金森山1703mに登るために登山したこともある。
 途中にある木地師の墓が何とも哀れな気がしたものだった。供花一つなき小さな墓は供養する人もないまま時代の推移を見守ってきた。33観音は馬を引いて登る人、秋葉信仰の人への慰みになった。また登山者の安全を見守った。松濤明は登りに、深田久弥は下りに利用した。松濤明の頃はまだ宿があった。しかし、お客が少なくなったと嘆く宿のオーナーの言葉もあはれである。
 青崩峠は豊橋市に住んでいた頃に1回だけ行った。飯田線を利用したからフルに一日かかった。久々に地質学的に特異な地域の山へ行ける。楽しみなことである。

歴研の総会へ2023年07月15日

 今日は午後から開催の歴研の総会へ出席する。三連休の初日で、車の通行量が増えたので少し早めに出て、三好ICから高速に入った。案の定岡崎IC付近でつかまった。
 何とか渋滞を抜け出して豊川ICで出て新城市富岡ふるさと会館へ向かった。周辺は田園地帯で山の庭園のように美しい。12時30分過ぎには着いた。13時30分開催には余裕で臨める。
 総会では新しい役員提案と会計報告があった。会長の交代もあった。その後は14時から設楽原歴史資料館の湯浅氏を招いての講演である。テーマはやはり設楽原合戦における人間ドラマである。16時に解散。
 解散後は治部坂峠に向かう。ナビ任せにしたら豊川左岸を走り、新城市街地を回避してくれた。そして長篠城の手前で右岸に渡ったら鳥居強右衛門の磔のモニュメントを見学できた。それは良いのだが、明日の食料調達を忘れたことに気が付いた。R257のこの先のスーパーは設楽町の田口までない。新城総合公園を経てR151バイパス付近まで戻って買い物を済ませた。
 R151からR257、田口、名倉の大桑から右折して古町高山の南側を走るスーパー林道を経て旧津具村に入った。ナビは行人原から折本峠への旧道を指示する。走ったことはないが結果的に早く越えられた。檜原川沿いに根羽へ。途中ではキャンパーらで賑わうキャンプ場があった。3連休だもんな。
 矢作川の橋を渡って左折すると坂町の中心街に着いた。ここでも煌々と灯りが点いて何やら村のお祭りの雰囲気であった。坂町を右折するとR153へ。道の駅平谷では7時20分頃通過。Pは行楽客で埋まる。温泉を楽しんでいる人も多いだろう。休みたかったがパス。治部坂峠へ。やっと治部坂峠のPへ着いた。8時くらいだった。Pは3台から4台位で閑散としている。端っこに停めてニーモの新品のテントを設営した。封もそのままで慣れないが15分で張れた。食料やシュラフを持ち込んでやっと夕食だ。
 缶酎ハイのロング缶1つですぐに酔いが回りひと眠りした。起きたら12時だった。ここからが長い夜の時間である。おまけに準幹線登路なので結構車が走る音がうるさい。また出入りする車もあるので安眠はできずPを選んだのは失敗だった。
 翌朝起きて峠の登山口の手前に東屋とPがあったことに気が付いた。国道に近いのは同じだが東屋があるのは頼もしい。山やさんしか来ないから安心でもある。

飯田街道へ2023年06月25日

ユキヨシ親王の遺跡
 豊田市足助町を起点に飯田街道を歩いて見たい。豊田市、根羽村、平谷村から治部坂峠までが難しく、阿智村はR153と旧道の棲み分けが比較的シンプルである。中でも稲武までが錯綜している。人が住んでいる山里では町道、県道、国道、林道、旧街道などは交じり合い錯綜している。トイレもどこでもというわけにはいかない。ルートファインディングが大変困難であろう。そこで実地に車で走ってみた。
 稲武の郷土資料館「ちゅうま」にも寄ってみた。帰路は豊田市立図書館で資料を漁ったが満足できるものは得られなかった。
 阿智村の昼神に着いたら一応終点。ここが登山でいうエスケープルートになる。疲労を感じたら高速バスで帰名する。一泊して温泉に浸かるも良し。園原周辺の民宿を調べると一泊素泊まりで3000円というのもある。温泉付きは15000円以上で上は限がない。
 余力があれば網掛峠を経由して園原から東山道で神坂峠を越え、中央道神坂バス停、馬籠を経由してJR落合川駅で終点。足助から約100kmになる。
 完踏できれば世界遺産の大峰奥駈け道が視野に入る。吉野から熊野まで山中4泊5日の100kmのロングトレイルである。

豊橋市の連絡会に出席2023年06月12日

 歴研の支部の連絡会が豊橋市の市民会館で行われた。リアルな会合は3年ぶりのことになる。今後の方向、会費納付、7/15の本会、研究輯録10号発刊、新人は5名入会されてうち3名が出席、全員が自己紹介で締めくくった。
 会議は10時に間に合うように名古屋の自宅を午前7時50分に出発。天白区内も交通量が多く、名古屋ICは混雑することから県道57号、R153,県道520を経て三好ICから東名高速に入った。渋滞気味で時間がかかった。高速道路も豊田ICまではR23並みに交通量が多い。
 音羽蒲郡ICで出てR1へ。R1は意外にも空いていたので豊橋市入りは早かった。10分前に到着。1時間くらい早めについて喫茶店で休みたかったがギリギリである。
 会合が終わった後は、豊橋駅前の山の店のモンタニアに寄る。昭和50年代には松葉公園の前の小さな店だった。ニッカ―ボッカとかキスリングを買った覚えがある。何と47年前だ。今は3階建てで店舗は1Fと2Fで営業中。登山ブームで大きく発展したのだろう。
 次は精文館書店の郷土本コーナーに寄る。特に食指の動く本は無かった。昼食時間になったので近くのパスタやで腹を満たす。
 相変わらず雨が降るので旧作手村の長の山湿原に向かう。R301沿いにあるのでそのまま豊田市経由でR153に合流して帰名できた。

津島の歴史遺産2023年01月10日

 御醍醐天皇の皇子の宗良親王から孫の尹良親王、その皇子の良王親王の戦記物語である『浪合記』のことを調べたら津島市の良王親王の良王神社を知った。
 舞台は伊那谷の
①大鹿村の信濃宮
②浪合村の尹良親王の墓
③稲武の三河宮などにまたがる。
④良王親王の足跡を追って昨年は津島市を訪ねて街歩きしてみた。
 良王神社は探したが細い路地の中の狭い敷地に肩をすぼめて御座した。PAもない。路地が狭いから車で探索することはできない。おそらく空爆を受けたことがないからだろう。津島市が歴史的に古い面影を残していることを知った。余り知られていない良王親王のことで津島市のHPに問うと観光に活かすとの回答だった。
 この記事を読むと現状を地道に調査されたらしい。加えて歴史上の伝承でも良いから紹介に努めてに欲しいものだ。皇族を預かる津島市のレガシーはもっと知られて良い。
https://www.yomiuri.co.jp/local/aichi/news/20230109-OYTNT50139/?fbclid=IwAR2Zpw_udTgPcvrxPeVD4QlaG6kaEsko1WGdLopQ5pDH_kDj-wmTQNFGG9k

『浪合記』ノート②2022年12月19日

 津島市図書館で気になったのは『浪合記・桜雲記』という本だった。コピーに時間を取られて閲覧もできなかった。横断検索しても津島市にしかないのでまた再訪するか。
 ウィキペディアにもあった。
『桜雲記』(おううんき)は、南北朝時代における南朝の盛衰とその後胤(後南朝)を扱った史書・軍記。江戸時代前期の成立で、作者は書物奉行浅羽成儀と推測されている。書名は、南朝の舞台が吉野であることからして、雲かと見紛うばかりに咲き誇る吉野の桜花の叙景を念頭に置いて付けられたものと考えられる。

『南方紀伝』(なんぽうきでん)は、南北朝時代における南朝の盛衰とその後胤(後南朝)を扱った史書・軍記。江戸時代前期の成立とみられるが、作者は不詳である。書名に「紀伝」とあるとおり、あたかも天皇列伝の如き形態を採るが、内実は全て編年体の構成である。類書に『桜雲記』がある。南朝紀伝・南朝記とも。

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http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/namiai1.htm
南北朝動乱期の抹殺された宮将軍・尹良親王
              -『浪合記』の再検討-
                                   宝賀 寿男 

一 はじめに
 
 東大史料編纂所である系図史料を見ていたところ、南北朝動乱期に活動した人についての記事がかなり詳しくあり、それを見て、浪合合戦とそれを記す軍記『浪合記』について見直す必要を感じたので、種々検討のうえ、本稿を記した次第である。
 具体的には、その系図は『穂積姓井出氏系図前書』という駿河国富士郡の井出氏の江戸前期までの史料であり、そのなかの井出小源二郎重注(「注」は「経」のくずし字を誤読誤記したものではないかと推されるが、ここではそのママに記しておく)についての記事である。また、『浪合記』とは、南北朝末期ないし室町前期における後南朝の皇族尹良親王・良王親子二代の信濃国伊那郡浪合での遭難事件(「浪合合戦」と表示されることが多い)を中心にその前後の流浪の経緯や関係する南朝遺臣の後裔まで及ぶ軍記物である。
 
 『浪合記』のこれまでの取り扱われ方は、総じていうと、偽作か価値の乏しい史料とされ、浪合合戦自体も実際にあった事件のか疑問とされてきた。そうした評価をいくつかあげてみると、「現存本は、良王に従った者の子孫と称する天野信景が一七〇九年(宝永六)に書写したとされる本にもとづくが、史料としての信憑性には疑いがあり、史実または伝説をもとに信景が偽作したものと思われる。」(『日本史広辞典』山川出版社、1997年)、「本書は1488(長享二)年の著作となっており、1709(宝永六)年天野信景が美濃高須の松平家の本を写したというが、おそらくは信景が偽作したもので、その記事内容は信用できないというのが渡辺世祐の論文にみえる」(村田正志氏執筆。『日本歴史大辞典』河出書房新社、1985年)というのが代表的なところであろう。
 長野県の歴史研究者である小林計一郎氏は、多少トーンが違っていて、『浪合記』の根底に史実があったこと・南信濃・三河の国境地帯の各地に「ユキヨシ様」伝説が残っていることを認めつつも、同書の「記事は矛盾が多く信用できない。…(中略)…これらの伝説をもとにして、良王供奉の士の子孫と称する天野信景が偽作した可能性が強い」と記されており(『国史大辞典』)、偽作説ということではほぼ同様である。
 浪合村には戦死したと伝える地・宮の原に、尹良親王を祀る浪合神社が鎮座するが、その祭神の変遷過程などから、尹良親王の実在性については、『浪合記』等による作為・捏造だとみられている(平凡社『長野県の地名』463頁)。なお、神社の西に接して尹良親王陵(円墳)があり、現在、宮内庁書陵部の管理下にある。
 これらの事情のせいか、日本史の全集的な刊行物や『長野県史』など歴史学界の書物では、浪合合戦はまったくといってよいくらい取り上げられない。森茂暁氏の『闇の歴史、後南朝』でも言及がない事情にある。
 
 こうして『浪合記』とその研究状況について概観してみると、問題点は多少重複するが、次の四点ほどになってくると思われる。
 ① 『浪合記』の史料的価値はどのようなものか。天野信景の偽作か、たんなる写本か。
 ② 根底に史実があったのか、まったくの虚構か。
 ③ 浪合合戦があったとしたら、それは何時起きた事件だったのか、合戦は何度あったのか(『浪合記』では尹良親王親子が各々経験したとある)。
 ④ 事件関係者の具体的な名前は解明できるのか(尹良親王の実在性などの問題も絡む)。それらの後裔はどうなったのか(三河、尾張などに残って繁衍したのか)。
 こうした問題意識を持ちつつ、以下に具体的な検討を加えていきたい。上記の問題は、徳川家やその譜代家臣諸氏の起源問題とも深く絡んでおり、江戸期に新井白石も注目した書物であったのが、偽書説が広く知られるようになって、大正期の大著『建武中興を中心としたる信濃勤王史攷』(信濃教育会著、1939年)より後では、『浪合記』についても浪合合戦についても十分な検討がなされてこなかった事情にもある。従って、本稿でも『信濃勤王史攷』の記事を基礎に考えていきたい。
 
 最近、インターネットで『浪合記』がいくつか取り上げられ、同書の内容やこの関係の情報が提供されているので、注意をもたれる読者がおられるかもしれない。管見に入った代表的なHPをあげておくと、次のようなものがあり、適宜参照されたい(両HPのご教示等にも感謝申し上げます)。

 a 志岐専弘氏による「中世日本紀略」のなかの 「俗書類従」の「『浪合記』(原初本)」
     http://f25.aaa.livedoor.jp/~zflag/mirrors/kiryaku/namiaiindex.html

 b 芝蘭堂さんによる「軍記で読む南北朝・室町」のなかの「浪合記」
     http://homepage1.nifty.com/sira/

中略

(今後、さらに補記すべき点が出てきたときは、追加を考えたいと思っています)
 
   (06.8.14掲上。9.13追補修正)
 
 ウィキペディアによると
宝賀 寿男(寶賀 壽男、ほうが としお、1946年4月17日 - )は、日本及び北東アジアの古代史・系譜の研究者。日本家系図学会及び家系研究協議会の会長。元大蔵省(現財務省)の官僚。2003年から弁護士(第一東京弁護士会、第二東京弁護士会等)。正式な歴史学者ではなく、古代史のアマチュア研究者である。

※2006年は平成18年なので、廣瀬重見氏の平成27年の論考は2015年になるから9年間の研究の差がある。

『浪合記』ノート①2022年12月18日

良王神社に建っていた石碑
 2020年に津島神社へ自転車で参拝して以来2年ぶりに、尹良親王をめぐる歴史の調査で津島市へ行った。まづは良王神社へ参拝した。目的の神社がナビを使っても中々辿り着けなかった。津島市内は碁盤の目のような整然とした街づくりではない。人一人分の路地の道が錯綜していたからマイカーに乗ったままでは埒が明かない。そこで天王川公園の無料のPに止めて歩いて行って参拝を果たした。
 御醍醐天皇の子が宗良親王、その子が尹良(ゆきよし)親王、その子が良王(よしたか)親王である。参拝後は夕暮れの迫る中を津島図書館に急いだ。閉館は18時でまだ2時間はあるが目的物が見つかるか、探す時間がある。
 幸い司書さんの導きですぐに「『浪合記』天野信景偽作説弁駁」という薄い冊子が見つかった。ちょっと読むと平成27年というから『浪合記』の最新の情報である。
 著者は一宮市の元高校教員の廣瀬重見氏である。弁駁というように「他人の言論の誤りを攻撃すること。他人の説を言いやぶろうとして攻撃すること。」今も流布している偽作説、伝説に対する反論であった。内容的にアマチュアの域を出ている。ネットの検索で、昭和22年生まれ、岐阜県、皇學館大學文学部国史を卒業。福岡大学付属大濠高校、愛知県立一宮北高、江南高、一宮高の教諭を務めたとある。大川周明『列聖伝』の翻刻。
 天野信景とは尾張藩の学者である。この人の写本が出回ることで偽作説が広まったという。江戸時代の学者が南朝の時代の戦記を創作したとする説は東大の歴史学者から出ている。これへの弁駁である。天野信景は実証的な態度だからと擁護するように著者も実証的である。
 旧浪合村の宮の原の現存する尹良神社を見るととても偽作ではないと思う。これを書いた人は当時のことなので口承と記憶だけに頼ったのだ。言わば、『古事記』の成り立ちと同じである。

古事記(こじき)について
http://www15.plala.or.jp/kojiki/aboutkojiki.html

「古事記は、古代の日本人の先祖が、文字のない時代から口承(こうしょう)、つまり人から人へ語り継いで、頭の中に記憶してきた日本の神様たちの物語です。その豊かで大らかな想像力と日本人とはどういう民族が集まってできたのか(最初から、日本列島に日本という国があったわけではありません。)、また日本語という言葉や、現代まで伝えられている礼儀作法や生活習慣、宗教や道徳観などの日本人の伝統文化のルーツについての多くを知ることができます。」

 御醍醐天皇の皇子たち三代が遠州の井伊宮から始まり、伊那谷に出て大鹿村で信濃宮を陣取った。尹良親王は遠州の井伊で生まれた。三河の稲武で三河宮と呼ばれた。その子の良王親王は最終的に津島市に落ち延びた。それを支えた人々がいたのである。

『浪合記』の世界の終焉の地は愛知県津島市2022年12月18日

 津島市の良王神社に参拝に行った。

・津島神社神主始まりは良王親王の御子良新様、良新様御子無き故、中島郡(稲沢市)に領地を持つ定嗣が跡を継ぎ、代々氷室を名乗り、津島神社神主として明治初期まで続く。

https://ameblo.jp/mini1575a3/entry-11900653850.html
 津島の歴史を語る上で外すことが出来ないのが浪合記と言う書物です。
 この浪合記は南北朝時代、後醍醐天皇の皇子である宗良親王の子の尹良(ゆきよし)親王、尹良親王の嫡子である良王(よしたか)君が東国で奮戦し、信濃、三河を通り尾張の津島に来るまでを描いた書物です。
 浪合とは三河から伊那谷に至る三州街道(現在の国道153号線)の飯田市の手前にある小さな村の名前で、現在は隣の阿智村に併合されています。寒原峠と治部坂峠に挟まれた寒村で、標高は約一千メートル。寒原峠を下りきったところが昼神温泉です。

・宗良親王 (1311年~1385年)


 後醍醐天皇の皇子の一人で、母は和歌の家である二条氏の出であり、幼い頃から和歌に秀でていた。
 南北朝時代、1338年、北畠親房と共に伊勢、大湊から陸奥国府に渡る際に、乗船していた舟が遠江沖で座礁し、井伊谷(浜名湖の北側)の井伊道政の元に身を寄せる。しかし1340年、足利方の高師泰、仁木義長らに井伊谷を攻められ落城し、宗良親王は越後寺泊、越中放生津などに身を寄せる。
 信濃、伊那谷の豪族、香坂高宗に招かれ、伊那谷の東、大河原(大鹿村)に入る。大河原は信濃宮と呼ばれ、1373年までこの大河原を根拠地に上野、武蔵を転戦。一時期は鎌倉を占領し、1352年には征夷大将軍となる。しかし、足利方に攻められ、鎌倉を手放し大河原に戻る。
 1355年、諏訪氏、仁科氏と諏訪の桔梗ヶ原で信濃守護の小笠原長基と戦うが敗退し、以後諏訪氏、仁科氏も守護方に寝返られる。
 1369年、関東管領、上杉朝房に攻められる。そして勢力の挽回も出来ず、1374年に大河原を離れ吉野に戻る。吉野では南朝方の歌人の和歌を集め、新葉和歌集を編纂し、1381年に完成する。1385年に亡くなったと言われている。

・浪合記
 
 南北朝時代、応永4年、(1397年)上野(群馬県)の南朝方の武士団、世良田、桃川両氏が後醍醐天皇の皇子で、東国で奮戦した宗長親王の皇子である尹良(ゆきよし)親王を、吉野より迎えることになりました。このとき尹良親王と共に吉野から伴ったのが、後に津島四家七名字と呼ばれる武士団でした。
 四家とは新田系の大橋、恒川、岡本、山川氏。七名字とは公家庶流の堀田、平野、服部、光賀、鈴木、真野、河村氏です。
 吉野を発った尹良親王たちは、駿河、甲斐を通り応永5年(1398年)上野の寺尾城に入りました。しかし時と共に南朝方は劣勢となり、尹良親王たちは、信濃に向かい、諏訪の豪族、千野頼憲を頼ります。そして応永31年(1424年)、尹良親王は子の良王(よしたか)君を下野(栃木県)の落合城に行かせて、自らは三河の山里に隠棲している南朝方の武士団の応援を求め、三河の足助に向かいます。その途中、飯田を越え、浪合村にさしかかる大野という土地で、飯田太郎、駒場小次郎という盗賊団と遭遇、両者に間で戦になります。尹良親王方は多くの供の侍を失い、尹良親王は大河原まで落ち延びますが、そこで自害をしました。

・時代は10年ほど下り、永享5年(1433年)、下野落合城の良王君は信濃に入り、永享7年(1435年)12月に、尾張津島に向かうことになります。良王君の供として世良田政義、桃井貞綱と津島四家七名字が同行しました。
 飯田を通り三河に向かう途中の浪合村で飯田、駒場の山賊団と遭遇し合戦となりました。この戦いで世良田、桃井の両氏は命を落としましたが、良王君は津島四家七名字に付き添われ、無事三河を通り、永享7年12月29日に尾張津島に到着、津島四家七名字の長である大橋定省(さだみ)の城である、奴野(ぬのや)城に入りました。
 奴野城は津島の北西に隣接し、現在の西方寺辺りになります。このとき津島四家七名字の他に、宇佐見、宇都宮、開田、野々村の四家が随行。この四家を四姓と呼び、十一家合わせて、津島十五家と呼ばれています。
 良王君は永享8年(1436年)に信濃で自害した亡き父、尹良親王の菩提を弔うために大龍寺を建立しました。良王君には桜姫という娘がいるが、大橋定省に元に嫁ぎ、大橋修理亮貞元、大橋三河守信吉など、男子多数を産んでいます。
 そして明応元年(1492年)に七十八歳で亡くなられます。逆算すれば1414年(応永19年)生まれと言うことになります。瑞泉寺が良王君の菩提寺となっています。

・天王祭


 浪合記には、後の天王祭の起源となる出来事の、説話も書かれています。
 天王川の下流の佐屋に、台尻大隅守という豪族がいて、良王と敵対していました。
 天王祭の夜、台尻大隅守は一族のものを引き連れ、舟を出し天王祭を見物に天王川を上ってきました。
 津島十一党のうち大橋を除く十艘が津島に有り、大橋の舟が市江にありました。そして大橋の舟が来たのを合図に、大隅守の舟を討つという謀を企てました。
 何も知らない大隅守たちは、舟を飾り立て天王祭を見物していました。頃合いを見て大橋が舟を出し、津島にやってくると、待ち構えていた十艘の舟が大隅の舟を散る囲み、討ち沈めました。乗っていた大隅の一族はみな舟から落ち、おぼれ死ぬ者も多数いました。
 このとき、宇佐見、宇都宮、開田、野々村の四姓は陸にいて、這い上がってくる大隅の一族を討ち果たしました。このため、四姓から舟は出しません。
 6月14日の夜の出来事でした。それから毎年6月14日に祭が行われるようになったと言われています。

・ 浪合記というものは、後世の書物で、その真偽ははっきりしません。後醍醐天皇の皇子である、宗良親王は実在の人物ですが、その子供である尹良親王、孫の良王君は実在の人物かわからないようです。
 しかし津島四家七名字は実在し、彼らが津島を納めていたのは紛れもない事実です。
 浪合記からわかることは、津島が南朝と深く関わっていたことです。
 伊勢湾の入り口の南伊勢には、伊勢神宮の門前町である宇治や山田があり、伊勢湾岸で最大の街で大消費地でした。そして神宮の外港である伊勢大湊は、伊勢湾の水運の要でした。
 この辺りは南朝の名門、北畠氏が治めていました。南伊勢は吉野と隣り合わせで、南朝の影響力の強い土地です。
 尾張は足利一門である斯波氏が治めていました。もちろんこちらは北朝です。
 津島は南朝ということで、南伊勢の人々と深く繋がり、尾張の他の地域よりも商売を有利に持って行き、新興の湊町でありながら大きく発展したのではないでしょうか。

シラタマホシクサ群落を見る2022年09月24日

葦毛湿原にて
 台風一過で久々に秋晴れを見る。新城市の会合は午後からなので少し早めに出て葦毛湿原のシラタマホシクサの群落を見学した。結構多くの散策者がいた。人気のある草花である。

 今日はコロナで沈滞していたサンエンケンの総会を3年ぶりにリアルで開催することとなった。会場はいつもの新城市富岡のふるさと会館。
 13時30分開会。会長あいさつ、各スタッフのあいさつや方向などが活発に話し合われた。3年間の事業萎縮期間中に会員の退会、高齢者の役員辞退など深刻な議題もあったがそれほど深まらず、進行した。
 経済活動がこれだけ自粛させられては沈滞してしまったのも無理はない。今後どう盛り返すか、である。
 今回の講演のゲストスピーカーは『江戸藩邸へようこそ 三河吉田藩「江戸日記」 (インターナショナル新書)』の著者の久住祐一郎氏を招いて行われた。この種の研究家はけっこう根強いものがあるなと感じた。
 過去にも2003年に磯田道史『武士の家計簿―「加賀藩御算用者」の幕末維新』が出て話題になった。加賀 樹芝朗『朝日文左衛門『鸚鵡篭中記』 (江戸時代選書)』などがある。