小川路峠へ2023年11月19日

 遠山谷も昨夜は凍て雲が山にまとわりついて寒かったが朝から快晴でした。6時50分に和田の宿を出発。7時30分に清水地区にある秋葉街道登山口を出発。野生のシカの頭蓋骨が落ちていた。人工林の中の道は不明瞭でしばしばRFで渋滞気味になる。それでも石の地蔵があるのでかつての街道には違いない。一旦皆伐してしまうとイバラ、タラなどが繁茂し、いわゆるヤブ道になる。植林すると日陰になって雑草は枯れてしまう。この間に人が歩かないと廃道になる。現在は森林は密植されており、間伐を待っている。道も廃道状態に近い。一旦は林道に上がって横切る。再び人工林の中を登るがやはり不明瞭である。最終的に林道に上がった。1062.8mの三等三角点上村の尾根の先に地蔵などが設置されている。昔は建物でもあった跡である。
 ここから本格的な秋葉街道になった。15番の観音から始まる。しばらくは人工林だが疎林になっただけ、見通しが良く明るくなった。遠くに白い山も見える。観音様の番号が増えることで着実に登っていく実感がある。雪も出てきた。29番を過ぎると山抜けの沢の渡渉が待っていた。かつては桟橋もあったが朽ちている。虎ロープも切れて巻いてあった。リーダーがロープを出して女性らを確保して渡渉した。三点支持の基本技術があれば怖くない。そこから地蔵がずらっと並んだところにきてすぐ先に茶屋址と熊の檻があった。地形図では急な尾根だが九十九折れで優しく登って行ける。
 12時45分にうっすらと雪のある小川路峠に到着した。昼食後、体が冷えない内に1人で13時30分に来た道を引き返す。途中、4回足に痙攣が走った。都度68を飲んで対応した。下山後約2時間の15時25分に林道に着く。太陽は隣の山にかかってすぐに日没しそうだ。帰路は樹林帯は薄暗いので林道を歩き通した。約1時間でクルマのおいてある入口に着いた。
 小川路峠は上久堅からは5回も往復しているが遠山谷側は初見でしたので満足できた。秋葉街道は南西面に付けられているので西日が当たり午後も明るい。林道に下りた地点で3時30分位でしたが日が伊那山脈に沈んだ。山の中は飯田市の日没4時40分よりも1時間以上早い。
 残照があるので4時半までマイカーまでは明るかくヘッデンは点けずに済んだ。
 マイカーで矢筈トンネルを通過、下氏乗から中宮でR256に合流、左折して富士山之神社(スマホのナビの目標)へ向かうと5時20分ちょうど東京組と合流できた。後は飯田駅へ送って別れた。飯田から園原まで地道。20kmほど。中央道園原ICから帰名。2000円。102km。
 名古屋から周回の距離は約380km位でした。山間ドライブは正味150km位。極端なタイトなカーブが多いので山よりもドライブに疲れた。3ヶ月のブランクがあったので足腰が久々に痛んだ。
※すでに完成している矢筈トンネルと青崩トンネルが高規格の道路に生まれ変わると鳳来峡ICにつながる。観光客も増えて秘境のイメージも無くなるかも知れません。

青崩峠へ2023年11月18日

11/18 浜松市天竜区は快晴
 名古屋の自宅を6時30分頃出発。R153を走って東名三好ICから新東名経由で浜松北ICで出た。1820円。西鹿島駅へ8時50分頃着。102km。
 9時過ぎ東京のPT7名と合流。青崩峠を目指しR152を北上。青崩トンネルの工事が真っ最中です。
 峠直下まで車道はあるが足神神社でデポ。そこから徒歩40分で峠へ。石畳の遊歩道でした。峠では寒気のために降雪があり、初冬の気候と冬黄葉の残る自然林がマッチして美しい。東京組は峠から信州側へ下山、私は青崩れの地層が見える四阿で別れた。
 車に戻って赤石山脈の兵越えを越えてR152に下った。下った辺りから先は青崩トンネル(2023年5月に貫通)の工事の真っ最中でした。ダンプが行きかうので一般車は立入禁止でしたが恐る恐る入っていくと東京組に出合えた。そこでピックアップして宿のある和田へ向かった。途中でも番所跡を見学したりして有意義なことでした。
 宿はかぐら山荘。飲み代込みで10000円位。宿の風呂が壊れていたので平岡駅まで走って温泉に入湯できました。往復20km。

秋葉街道踏査の計画2023年11月10日

 11/18~11/19の秋葉街道の踏査の計画がまとまった。東京の古道調査PTら7名と私で8名(男4名、女4名)の久々の大人数になった。浜名湖の北で落ち合い、青崩峠を越えて遠山谷で一泊。翌日は和田から小川路峠を越えて飯田市へ出る。
 小川路峠は過去に数回は行った。
①思い出深いのは飯田市と遠山谷の合同で峠まで登ってジンギスカンの焼肉を食わせてもらったこと。
②今は亡きU先生と小川温泉1泊で往復した。この時に松濤明『風雪のビバーク』の春の遠山入りに出てくる街道と知った。
③ある時は『岳人』の”本を片手に”という特集でこの本と街道を取り上げた。取材で登山した。
④また、『ひと味違う名古屋からの山旅』三十三山の1つで曽山1601mを取り上げて登った。
⑤ある時は小川路峠の南のピークである金森山1703mに登るために登山したこともある。
 途中にある木地師の墓が何とも哀れな気がしたものだった。供花一つなき小さな墓は供養する人もないまま時代の推移を見守ってきた。33観音は馬を引いて登る人、秋葉信仰の人への慰みになった。また登山者の安全を見守った。松濤明は登りに、深田久弥は下りに利用した。松濤明の頃はまだ宿があった。しかし、お客が少なくなったと嘆く宿のオーナーの言葉もあはれである。
 青崩峠は豊橋市に住んでいた頃に1回だけ行った。飯田線を利用したからフルに一日かかった。久々に地質学的に特異な地域の山へ行ける。楽しみなことである。

三階峰と紅葉ドライブ2023年10月29日

 R153の寒原峠を左折、恩田から林道弓丿又線に右折すると頂上直下まで舗装された一本道である。軽く乗り越すと少し広めの道幅にクルマを停める。
 山頂への尾根には笹ヤブがかぶさるがわずかに切り開きがある。強引に笹を引っ張りながら登るとあっという間に山頂に着いた。6分。テレビのアンテナが立っているが意味不明。ヤブでさえぎられて展望はない。林道と平行する尾根にかすかな踏み跡があるので下って見た。林道との段差が縮まった辺りで林道に下る。マイカーに戻る。周回13分。散歩にもならないが2ヵ月のブランクの身にはにはこれで良い。
 せっかくなので紅葉を楽しむ林道ドライブにした。林道名が弓ノ又線という。弓ノ又川は恩田大川入山が源流で園原川の支流に当たる。新しく舗装されているので地形図にはないが園原方面につながっている見たい。12時前後は太陽が上にあり、ちょうど日光が当たり照り紅葉が素晴らしかった。
いつもと違う山が見える。最初は大川入山だろうと思った。大川入山は南西に右へ1900m前後の山なみのはずだ。北西に見えるし左右に均整がとれた山容は恵那山である。
 平谷村から根羽村は明るくなった気がする。多分全山カラマツ林でわずかに黄ばんできたからです。大川入山は全山黄葉に見えた。標高1400m前後が紅葉の真っ最中です。
 足助は来週以降ライトアップが始まる予定です。今日は天気が良かったせいか、車が多く、帰りは4時過ぎでもトンネル内から渋滞していました。

図書館の地形図2023年08月22日

東山道は今は尾根だが昔は園原川沿いにあったことが分かる
 愛知県図書館には愛知県の範囲と思われる地形図はある。但し、根羽は新旧ある。中津川などの地形図は無かった。続いて鶴舞図書館では新旧とも広範囲にあった。「中津川」も最新の版、昭和35年、明治44年があった。

五万図「根羽」の地形図2023年08月21日

 国地院に問い合わせていた大正時代の五万図「根羽」を閲覧できないかの回答があった。国地院のしかる窓口に申請すれば入手できると分かった。但し1枚2200円と結構する。どこかの図書館にないか、調べてなければ購入してみたい。

飯田街道の歴史と文化考2023年08月19日

 南北朝の時代には御醍醐天皇の皇子である宗長親王が浜松の井伊宮、大鹿村の信濃宮を拠点にした。その皇子の尹良親王(ゆきよし)は稲武に拠点を設けて三河宮とした。親王と家来が、伊那谷と三河の稲武、豊根村などを往来したであろう。そして浪合の地で襲われて自害。地形図にも印刷された立派な墳墓がある。戦記『浪合記』が残されている。大和政権がなぜ東国の南信州にまで進出したのか。大和政権は朝鮮半島からの襲来に備えて、防人の傭兵、年貢を納めさせて支配下にしたかったのではないか。東国で平和裏に暮らす山民にとっては迷惑な話で故に権力者への抵抗として襲ったのであろう。
 戦国時代には武田信玄が京都を目指して峠を越えた。蛇峠山には狼煙場を設けた。関所も作った。金山を求めて三河にも進出。杣路峠の近くに愛知県と長野県の県境があるが、尾根や沢ではなく、山腹にある。稲武の郷土史家によると根羽村は足助庄だったという。信玄に押されて信州になったという。金山だった設楽町の出来山の足助側には信玄沢の名が残る。近世末期には日本民俗学の草分けとなる『真澄遊覧記』を著す菅江真澄も峠を越えて故郷の豊橋市には帰ることもなく秋田県で死没。角館市には顕彰碑が建つ。塩の道の交易ルートになるのはその頃からであろう。
 3年位前に「山と溪谷」誌が山で食う団子の特集に協力した。愛知県の山なら当然五平餅になる。調べると飯田街道沿線は小判型、恵那地方は団子を串に刺すタイプだった。飯田市でも食える。一番遠方は四阿山の麓にある鳥居峠直下の売店でも五平餅を売っていた。ここは古東山道でもある。塩はたれになる味噌の発酵に欠かせない。
 サラリーマンのサラリーとは塩の事です。塩は身を養う栄養素のみならず、給料にもなった。俳人で東大の先生だった中村草田男は、学徒出陣する教え子に”勇気こそ地の塩なれや梅真白”と詠んだ。地味で目だたないが大切な働きを意味した。聖書に出てくる言葉でキリスト教徒らしい句です。

治部坂峠踏査2023年08月18日

 性懲りもなくまた治部坂峠を調査に行った。R153を走っていたら5時半、東郷町の交差点で反対車線で大事故があった。信号の柱はこっちがわに倒れ、エンジンルームは大破、ドライバーはタンカに乗せられた。どうなったやら。
 稲武まで快調、気温は23℃。以後も快適ドライブ。今日は治部坂峠のPから馬の背に登ったが微風快晴で50分の高原ハイク。さて下りは地形とGPSを見ながら平谷村と阿智村の境を探った。結果期待した成果無し。阿智村役場の図書館で資料に当たった。浪合村史によると治部坂峠は国道工事で13メートルも深く削られた。と分かった。
 万事休す、往時への郷愁はゼロ。調査完了。
 結果、平谷村の「中の土山」は清水沢と栄太沢の間にある別荘地から南下の地蔵二体の付近と断定した。峠から1kmと平谷村村誌の説明通り。恐らく林道の整備、拡幅で地形変更があった。その工事で消失したと思われる。
 『平谷村誌』の記述にも峠から1kmの場所が「中の土山」と指摘している。縮尺して定規で計測すると峠からぴったり1kmの位置にあるから間違いない。したがって『平谷村誌』には2ヶ所のミスがあった。峠川を清水沢とルビを振っている。別の絵図では別の位置に「中ノ山土」とあった。
 また場所は栄太沢の右岸側の台地とする点も間違っていた。只、未確認のままだが、「中の土山」の地蔵に続く塩の道はおそらく直下の林道工事で消失したと想像する。林道を歩いて見ると必要以上に広くなっているし、斜面が高いところまで削られている。もう一つは地蔵からV字形の清水沢をどう迂回したのか不明のままである。

平谷村へ古道探し2023年07月28日

 これで平谷村詣でも何回目になるのか。今日は靭から林道を歩き、栄太沢から送電鉄塔巡視路をたどって見た。急な階段をよじ登るとしばらくは痩せ尾根を歩く。左右ともすぱっと切れている。ほどな」平らな台地の一角に着いて笹の中の巡視路をたどった。すぐに地蔵が一体のみ建っていた。紛れもなく塩の道の痕跡である。地蔵から少し登ると高圧鉄塔が建っている。更に進むと別荘地との接点に着いて引き返した。地蔵付近をよく見ると左側に上に登ってゆく広めの踏み跡があった。先の方は笹の海に埋まるので行く気がしない。そのままやせ尾根を戻るが途中で左の林道へ獣道があり強引に下りた。林道を戻りながら取り付きがないか見ながら車に戻った。旧国道を少し入ると沢をまたぐ橋が架かる。沢の右岸側が塩の道の幅があるかに思える。旧道を横切って車道へうっすらと続く。車道側には一台分の駐車地に見えたが塩の道の痕跡かも知れない。
 今日は平日なので平谷村役場を訪ねた。先日電話でやりとりした職員と面接することができた。7/22の栄太沢と峠川の周回の話、別荘地から左折して清水沢を渡り、尾根を探ったら塩の道の痕跡があった話をした。
 彼もあの地蔵の存在は周知していたが他は進んでいない。R153に現在塩の道の看板を立てる計画だそうだ。村誌に書いてある「中の土山」の存在が気になる。
 いったん役場を出て浪合支所に行き、塩の道の資料を閲覧させてもらった。特にこれはという精緻なものは無かった。村人からも忘れられた古道である。しかし、そうではあるが、阿智村、平谷村、根羽村であのような案内板を建てているのは古道ブームが背景にあるのだろう。
 浪合支所を出てまた治部坂峠の蕎麦屋で天そばを食べた。食後、阿智村側の峠付近を探ったが何もない。平谷村の1163m付近を過ぎて栄太沢へ下り下降して見た。両岸とも切り立っているので左右につながる古道は見いだせなかった。上に送電線が見えるところで引き返した。
 左岸の斜面の緩やかなところからあの地蔵のあった一角の平な笹原を探った。ここは植林もなく何にするんだろうか。ひょっとして太陽光発電のパネルでも置くのだろうか。笹の海の中にはボサがあるのみである。沢に戻る際少し上に植林と笹の境目を見ると道の痕跡が見えた。幅は狭いがよく踏まれているので辿って見たら右のコブに回り込むように登って消えてしまった。
 消えた場所は別荘地の尾根と沢の中間に位置するので尾根に登って見た。尾根の1130mのコブには何もない。踏み跡は消えたが、想像すると塩の道ならこのコブの北の1120mの鞍部から等高線に沿うように清水沢を横断するラインを描いた。峠川の西尾根の1120m付近まで来て峠に登ってゆくのではないか。
 残るは地蔵と中の土山を結ぶラインが想像もつかない。再び栄太沢の左又に入って見るか、中々に手強い古道である。

熊鈴を注文2023年07月27日

 予備に熊鈴を注文した。塩の道の古道は山里に隣り合うことが多いが、平谷村最奥の靭の奥は人家もなく、熊の生息域と思われる。ので常に熊鈴を鳴らしながら歩く。紛失しやすいのでもう一個持つことにした。