嬬恋村スキー行①2023年01月24日

小野神社(信濃二之宮)
 朝4時40分出発。R153を走る。治部坂峠を越える。中央本線小野駅の近くにある小野神社に向かう。辰野町から塩尻市に越えてすぐだった。塩尻市にあって信州の二の宮というのに無人で閑散としている。

https://blog.nagano-ken.jp/matsuchi/culture/124.html
塩尻であって、塩尻でない場所~小野神社・矢彦神社~


 地形図を見ると何と霧訪山の山懐に抱かれたような小野神社でした。
目的を果たして満足。

 その後小野から諏訪に迂回する地方道を走りR20へ。すぐにR142に合流。和田峠を越える。R152になり上田市に向かった。昼食後坂城町に向かったら降雪が始まったので中止。R144に行き、降雪は本格的になる中鳥居峠を越えた。
 R144をどんどん下って近道の愛妻の丘ラインは通行止めなので別の道から宿に向かった。宿の寸前から雪道が深くなる。どこかで見た顔がいたので挨拶したら幹事のTさんだった。クルマがスタック。坂道でチェーンを装着しがたいので宿まで牽引した。
 1年ぶりか2年ぶりの顔合わせで豪華な夕食を楽しんだ。

南信の寂峰・丸山を歩く2022年12月31日

 12月31日。この山で山納めの積りだった。丸山の登山口の鈴ヶ沢へは当初は平谷村から五座小屋峠を越えていく道を走りました。人家が途絶えると途端に積雪が増えた。轍は続くものの引き返すポイントを探りながら走った。傾斜も出てきたため引き返した。平谷村の交差点からR418に左折。平谷峠を越えて売木村経由で行きました。迂回した林道もあちこちで凍結路になっている。
 丸山登山口のある鈴ヶ沢へは無住の村を走った。心強いのは宅配便と郵便車とすれ違ったことで人影は見ないが住んでいることは確認できた。
標高968mの鈴ヶ沢は一番奥の村になる。登山口はその手前の950m地点に大きな丸山高津神社の案内板とPがある。無雪期なら里宮まで車で行けるが地形図の神社までの車道は凍結路だった。
 大回りしたために時間ロスが大きいしモチベーションも下がった。NEXTか、行けるだけは行くか。まだ11時40分だからと重い足を向けた。Pから神社まで車で稼ぐ分も歩いたために2時間頑張ったが日没を考慮して比高5
0mまで迫ったが撤退し登頂はできず。(木曽山脈の東側よりは日足は長い)この時期の尾根は積雪もあるし落葉の水分も凍結している。(アイゼンなし)痩せた岩尾根には古びたフィックスロープもあった。引き返したポイントからは笹ヤブと雪がかぶさる。結構手強い山でした。踏み跡、赤テープはしっかりあるので道迷いはないだろう。

『浪合記』ノート②2022年12月19日

 津島市図書館で気になったのは『浪合記・桜雲記』という本だった。コピーに時間を取られて閲覧もできなかった。横断検索しても津島市にしかないのでまた再訪するか。
 ウィキペディアにもあった。
『桜雲記』(おううんき)は、南北朝時代における南朝の盛衰とその後胤(後南朝)を扱った史書・軍記。江戸時代前期の成立で、作者は書物奉行浅羽成儀と推測されている。書名は、南朝の舞台が吉野であることからして、雲かと見紛うばかりに咲き誇る吉野の桜花の叙景を念頭に置いて付けられたものと考えられる。

『南方紀伝』(なんぽうきでん)は、南北朝時代における南朝の盛衰とその後胤(後南朝)を扱った史書・軍記。江戸時代前期の成立とみられるが、作者は不詳である。書名に「紀伝」とあるとおり、あたかも天皇列伝の如き形態を採るが、内実は全て編年体の構成である。類書に『桜雲記』がある。南朝紀伝・南朝記とも。

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http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/namiai1.htm
南北朝動乱期の抹殺された宮将軍・尹良親王
              -『浪合記』の再検討-
                                   宝賀 寿男 

一 はじめに
 
 東大史料編纂所である系図史料を見ていたところ、南北朝動乱期に活動した人についての記事がかなり詳しくあり、それを見て、浪合合戦とそれを記す軍記『浪合記』について見直す必要を感じたので、種々検討のうえ、本稿を記した次第である。
 具体的には、その系図は『穂積姓井出氏系図前書』という駿河国富士郡の井出氏の江戸前期までの史料であり、そのなかの井出小源二郎重注(「注」は「経」のくずし字を誤読誤記したものではないかと推されるが、ここではそのママに記しておく)についての記事である。また、『浪合記』とは、南北朝末期ないし室町前期における後南朝の皇族尹良親王・良王親子二代の信濃国伊那郡浪合での遭難事件(「浪合合戦」と表示されることが多い)を中心にその前後の流浪の経緯や関係する南朝遺臣の後裔まで及ぶ軍記物である。
 
 『浪合記』のこれまでの取り扱われ方は、総じていうと、偽作か価値の乏しい史料とされ、浪合合戦自体も実際にあった事件のか疑問とされてきた。そうした評価をいくつかあげてみると、「現存本は、良王に従った者の子孫と称する天野信景が一七〇九年(宝永六)に書写したとされる本にもとづくが、史料としての信憑性には疑いがあり、史実または伝説をもとに信景が偽作したものと思われる。」(『日本史広辞典』山川出版社、1997年)、「本書は1488(長享二)年の著作となっており、1709(宝永六)年天野信景が美濃高須の松平家の本を写したというが、おそらくは信景が偽作したもので、その記事内容は信用できないというのが渡辺世祐の論文にみえる」(村田正志氏執筆。『日本歴史大辞典』河出書房新社、1985年)というのが代表的なところであろう。
 長野県の歴史研究者である小林計一郎氏は、多少トーンが違っていて、『浪合記』の根底に史実があったこと・南信濃・三河の国境地帯の各地に「ユキヨシ様」伝説が残っていることを認めつつも、同書の「記事は矛盾が多く信用できない。…(中略)…これらの伝説をもとにして、良王供奉の士の子孫と称する天野信景が偽作した可能性が強い」と記されており(『国史大辞典』)、偽作説ということではほぼ同様である。
 浪合村には戦死したと伝える地・宮の原に、尹良親王を祀る浪合神社が鎮座するが、その祭神の変遷過程などから、尹良親王の実在性については、『浪合記』等による作為・捏造だとみられている(平凡社『長野県の地名』463頁)。なお、神社の西に接して尹良親王陵(円墳)があり、現在、宮内庁書陵部の管理下にある。
 これらの事情のせいか、日本史の全集的な刊行物や『長野県史』など歴史学界の書物では、浪合合戦はまったくといってよいくらい取り上げられない。森茂暁氏の『闇の歴史、後南朝』でも言及がない事情にある。
 
 こうして『浪合記』とその研究状況について概観してみると、問題点は多少重複するが、次の四点ほどになってくると思われる。
 ① 『浪合記』の史料的価値はどのようなものか。天野信景の偽作か、たんなる写本か。
 ② 根底に史実があったのか、まったくの虚構か。
 ③ 浪合合戦があったとしたら、それは何時起きた事件だったのか、合戦は何度あったのか(『浪合記』では尹良親王親子が各々経験したとある)。
 ④ 事件関係者の具体的な名前は解明できるのか(尹良親王の実在性などの問題も絡む)。それらの後裔はどうなったのか(三河、尾張などに残って繁衍したのか)。
 こうした問題意識を持ちつつ、以下に具体的な検討を加えていきたい。上記の問題は、徳川家やその譜代家臣諸氏の起源問題とも深く絡んでおり、江戸期に新井白石も注目した書物であったのが、偽書説が広く知られるようになって、大正期の大著『建武中興を中心としたる信濃勤王史攷』(信濃教育会著、1939年)より後では、『浪合記』についても浪合合戦についても十分な検討がなされてこなかった事情にもある。従って、本稿でも『信濃勤王史攷』の記事を基礎に考えていきたい。
 
 最近、インターネットで『浪合記』がいくつか取り上げられ、同書の内容やこの関係の情報が提供されているので、注意をもたれる読者がおられるかもしれない。管見に入った代表的なHPをあげておくと、次のようなものがあり、適宜参照されたい(両HPのご教示等にも感謝申し上げます)。

 a 志岐専弘氏による「中世日本紀略」のなかの 「俗書類従」の「『浪合記』(原初本)」
     http://f25.aaa.livedoor.jp/~zflag/mirrors/kiryaku/namiaiindex.html

 b 芝蘭堂さんによる「軍記で読む南北朝・室町」のなかの「浪合記」
     http://homepage1.nifty.com/sira/

中略

(今後、さらに補記すべき点が出てきたときは、追加を考えたいと思っています)
 
   (06.8.14掲上。9.13追補修正)
 
 ウィキペディアによると
宝賀 寿男(寶賀 壽男、ほうが としお、1946年4月17日 - )は、日本及び北東アジアの古代史・系譜の研究者。日本家系図学会及び家系研究協議会の会長。元大蔵省(現財務省)の官僚。2003年から弁護士(第一東京弁護士会、第二東京弁護士会等)。正式な歴史学者ではなく、古代史のアマチュア研究者である。

※2006年は平成18年なので、廣瀬重見氏の平成27年の論考は2015年になるから9年間の研究の差がある。

ちはやぶる神の御坂に幣奉り 斎ふいのちは母父がため2022年12月14日

20221210神坂峠遺跡
愛国百人一首
http://nagaraushi.g1.xrea.com/ai-kooshio.html

<歌意・鑑賞>
 「ちはやぶる」は「神」にかかる枕詞。「神の御坂」(かみのみさか)は、神を祭って行路の 平安を祈って越える坂のことで、いわゆる「峠」である。信濃国伊那郡から美濃国恵那郡に越え る現在の神坂峠と呼ばれる地であると言われている。「母父」は「おもちち」と読む。
 神を祀ってある山坂に、幣を捧げて平安を祈る命は私のためではなく、父母のためである。
<コメント>
 防人の歌。作者は信濃国の埴科郡の出身で、主張(ふみひと)という郡の書記職にあったといわ れる。しかし、郡の中でのそれだけの地位にある人物が防人になったのかという疑問もあり、 主張丁の「丁」の字が落ちたのではないかとも言われている。「主張丁」ならば、主張が差し 出した丁ということになる。正丁といえば成人男子をさす。その丁である。
 しかし、郡司の主張ではなく防人部領使に所属した主張があったも考えられる。そう考えれば 部領使の下で書記役を務めることができた防人とも考えられる。
 いずれにしても、これだけの歌を詠めたのであるから、書記をつとめられるくらいの素養が あったとしてもおかしくない人物であったのであろう。

http://agimura.net/index.php5/%E7%A5%9E%E5%9D%82%E5%B3%A0
歴史
神坂峠は遺跡の出土品から畿内と東国とをつなぐ道として古代からの通行の要所となっていた。

古事記 (712年/奈良) において日本武尊やまとたけるのみことの東方遠征で「科野の坂の神を言向けて尾張国に還り来て」とは東山道の神坂峠と言われている。
また 755年 (天平勝宝7年/奈良)、防人に立った信濃国埴科郡神人部子忍男かむとべのこおしおが

「ちはやぶる 神の御坂に幣奉り 斎ふ命は母父のため」

と旅の無事を祈った歌が「万葉集」(巻20) に納められている。

815年 (弘仁6年/平安) には天台宗の開祖である伝教大師 (最澄) が東国巡化の折に神坂峠を通行したが、このあまりの難所ぶりを目の当たりにし、通行人の難儀を救うために広済院 (中津川側) と広拯院 (阿智側) という布施屋を建てた。

東山道を考える①2022年11月28日

 11/27の松沢山の下山後は気になっていた帚木館ビジターセンターを見学してきた。ここは園原と言い、東山道の拠点である。西から神坂峠を越えて信濃へ、と言うよりは東国への第一歩を踏み入れる土地である。
 ウィキペディアには「東山道は『日本書紀』の「東ノヤマノ道」あるいは『西宮紀』の「東ノ道」にあたると考えられている[2]。

 律令時代の東山道は、畿内から陸奥国へ至る東山道諸国の国府を結ぶ駅路で[3]、現在の東北地方へ至る政治・軍事面で重要な最短距離路だった[注釈 1][注釈 2]。」の記載がある。

 年代的には8世紀初め。

  又してもウィキペディアに「中央官制、税制と地方行政組織

 大宝律令の制定によって、律令制国家ができあがった。中央官制は、二官八省と弾正台と五衛府から構成されていた。地方の行政組織は、国・郡・里で統一された。里はのちに郷とされた。さらに道制として、畿内と東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道の七道に区分され、その内部は66国と壱岐嶋・対馬嶋の2嶋が配分された(令制国一覧参照)。軍団は各国に配置され、国司の管轄下におかれた。また田と民は国家のものとされる公地公民制を取り入れ、戸籍により班田が支給された。税は、租庸調と雑役から構成されていた。

 742年(天平14年)大宰府を廃止。翌年、筑紫に鎮西府を置いたが、745年(天平17年)には太宰府が復された。

 東北地方では多賀城、出羽柵等が設置され、蝦夷征討と開発、入植が進められた(既述)。

  農地拡大政策と律令国家

 律令国家は、高度に体系化された官僚組織を維持するため、安定した税収を必要とした。」

 東国とは
「「日本」という国号が定められる前、「ヤマト」がそのまま国全体を指す言葉として使われていた当時――7世紀中葉以前の古代日本においては、現在の東北地方北部はまだその領域に入っておらず、東北地方南部から新潟県の中越・下越地方及び九州南部は未だ完全に掌握できていない辺境であり、ヤマトの支配領域は関東地方・北陸地方から九州北部までであった。つまり、「アヅマ」とは、「ヤマト」の東側――特にその中心であった奈良盆地周辺より東にある地域を漠然と指した言葉であったと考えられている(ただし、初めから「アヅマ」を東の意味で用いていたものなのか、それとも元々は別の語源に由来する「アヅマ」と呼ばれる地名もしくは地域が存在しておりそれがヤマトの東方にあったために、後から東もしくは東方全体を指す意味が付け加えられたものなのか、については明らかではない)。

「アヅマ」や「アヅマノクニ」という語は元から漠然としたもので、確かな定義をもって用いられてきたわけではないため、時代が進むにつれてそれらを指す地理的範囲について様々な考え方が生じたのである。」
「坂東と区別して東北地方は蝦夷(えみし)あるいは陸奥(みちのく)と呼ばれる」

http://www2u.biglobe.ne.jp/~itou/yamatotakeru.htm
ヤマトタケルの東征

 「ヤマトタケルの東征物語は大和朝廷の東国への勢力拡大を象徴する四世紀頃の、ある程度事実を反映した物語である。
 『古事記』が和銅五年(712年)、『日本書紀』が養老四年(720年)に編纂され、ヤマトタケル伝承はそれより四百年もさかのぼる遠い昔の話であり、それも大和の側の視点で書かれた物語でありそのまま史実とはみなせないが、当時の情勢を推測することができる。
 ヤマトタケルは第12代景行天皇の子供であり天皇の命により、南九州の熊曾建くまそたけるや出雲の出雲建いずもたけるを討つ西征をした後、東国の蝦夷えみし征服の東征を行った。
 なお、ヤマトタケルは古事記では倭建命であり、日本書紀では日本武尊である。」

・・・・ざっと読めば神坂峠は東国への入り口だったのだ。東国の人々は天皇の支配に抵抗しして従わない人々である。だから東征と言う言葉にもなる。
 東国とは天皇が支配する大和の国とは違う異国であった。当然租税も納めなかった。そこで多賀城を拠点にみちのく支配が強まってゆく。この中には北畠一族がいた。北畠親房は御醍醐天皇に仕えて『神皇正統記』を著した。つまり日本は天皇の国とした。
 北畠の末裔は今も青森県に生きている。浪岡姓を名乗ることもある。文化は辺境に残るのである。
 
 木曽山脈は西日本と東日本の分水界だった。同時に文化も違った。木曽山脈を境に西は沢と言い、東は谷と言う。西に沢があるのは東国の人が入った証である。黒部川は西国だが薬師沢がある。谷もあるので混じっている。
 東は縄文遺跡の歴史が長い。約15000年前という。西は清洲の弥生遺跡でも2400年前という。明らかに縄文人の方が長い。弥生人は日本列島の新参者であろう。
 但し、金属を製錬する技があり武器や農機具を生産できたから農業は発展したであろう。西から次々に弥生人が縄文人と同化してきて最後の壁が木曽山脈だった。
 諏訪、八ヶ岳山麓の縄文遺跡からは胞衣が大切に扱われた。胞衣は境界の印。恵那山は実は東日本はここからは東国という印で胞衣を埋設したのではないか。
 西の湯舟沢は伊勢神宮の遷宮の用材の産地だった。だから伊勢神宮側の神話だと思われた。実際、アマテラスの赤ちゃんを洗った血洗い池がある。血洗神社もある。湯船沢川もアマテラスの湯船の伝承がある。てっきり伊勢神宮側の話と思われた。

伊那谷の松沢山を歩く2022年11月27日

 去る11/5に時間切れで登れなかった松沢山。又とない好天が来たから再度行ってみた。今回も日の短い時期なのと伊那谷は木曽山脈が高い分日暮れがはやいので中央道で早立ちしました。
 今日も瑞浪と神坂付近で対面通行でちょっと遅れたが渋滞はなかった。
 予定通り日の入峠から松沢山に登った。1時間45分。標高1300m付近までは植林内で急登を強いられる。余り面白味はないが、1400mに近くなるとなんと自然林が広がった。太平洋型のブナ、カンバ類、くぬぎなどの大木もあり原生林の雰囲気のあるいい山でした。但し樹林に囲まれて展望はない。落葉期なので遠くに白い山は見えた。
 登る際に左から2本の枝道があった。原生林と植林の境付近、山頂付近です。境付近の道は1177mの尾根を下る記録があったので明瞭でもあり時間もあるので下山してみた。北青見平という美しい地名の高原に無事下山できました。1177mからはやせ尾根であり傾斜がきつく踏み跡も不明瞭ですがピンクのテープを頼りに下れた。分岐も迷いそうなところが2ヶ所あった。
 下った北青見平は開拓の村、別荘もあるが南アルプスの眺めがすこぶる良かった。高原の標高800mから日の入峠へは比高100mの登り返しになる。
 山頂からの枝道は地形図を見ると谷に食い込む林道(終点は1000m位)に下れる気がする。ここから登っても面白そうです。(未確認)周回して6.8km、約4時間20分とほどほどの強度です。登りは1時間45分、下りは2時間半でした。

神の留守目に付く紙垂の白さかな 拙作2022年11月11日

 網掛山の麓にある鄙びた神社に参拝すると神の留守故に閑散としている。そんな雰囲気でも紙垂だけは新しいものかよく目に付いた。これがないと本当に寂れた感じがより強まる。紙垂が垂れていることで神域を意識させる。

目の前でごろりと寝るや秋の猫 拙作2022年11月09日

 11/5の網掛山の登山口にて。下山すると駐車場の前に地の猫が遊びに来た。車道で寝転んだり、歩いたりこちらへじわじわ近づいてきた。猫が好きな人は近づいてきたら撫でてやったりするんだろう。こちらは猫嫌いなので構わない。構わないからそっぽを向かれる。それでも猫も孤独なんだろうか。私の周りをふらふら歩いている。飼い猫はやっぱり人がすきなだろう。ちょっと相手をしてやりたかった。

網掛山2022年11月05日

 11/5は久々に紅葉を楽しんだ。山は網掛山である。
 紅葉シーズンは国道153号は足助を中心に渋滞があると思って中央道・園原ICから行くことにしました。11/4の夜、再度計画を見直した。松沢山は往復2時間程度なので、もう1山掛け持ちで登ることにした。園原のすぐ近くにある網掛山です。登り1時間30分、下り1時間くらいです。8時30分に出発できれば11時には下山できる。移動時間を考えても松沢山は12時から登れる。と再計画した。
 ところが走ってみると中央道は多治見から瑞浪付近で工事中と分かった。15分で通過できると電光掲示板にはあったが実際には30分以上の大渋滞にはまった。
 網掛山の登山口の中平には何とか着いたが、駐車場がない。仕方なく神社の駐車場に置かせてもらった。中平は干し柿の仕込みで柿を収穫中でした。渋柿をもぎ取り皮をむいて干す。白い粉を吹いて甘い市田柿になる。
 9時過ぎの出発になった。登山道は東山道という古道から網掛峠までが1時間、山頂までが30分で道標完備の素晴らしいハイキングでした。何にも増して感動させたのは山全体が紅葉していたことです。峠までは植林ですが峠付近から山頂までは写真撮りまくりでなかなか先に進めなかった。
 山頂には着いたが展望はなし。他には登山者なし。 
 下山は1100mの等高線が北東に伸びるゆるやかな尾根を下った。ここも疎林が広がり紅葉が素晴らしかった。1050m等高線まで来ると東の展望台があり南アルプス全山が見渡せた。今日は3000mの稜線は曇りであった。分かったのは奥茶臼山、双耳峰の池口岳です。ここから昼神温泉もばっちり俯瞰できた。
 展望台からは林も密になったが紅葉は続く。登山道は地形図には著されていないがジグザグの急斜面です。茸採りにあったがまだ早かったらしい。蛇も見た。この時期は穴惑いともいう。他の蛇は彼岸過ぎには穴に入り冬眠に入るがまだ外が良いわ、という蛇である。保護色のせいか茶色に見える。
 ぐんぐん下って地形図に無い林道に降り立つ。歩いてゆくと朝の神社の近くまで来た。Pまで来ると猫が迎えてくれた。
 12時が過ぎた。この山で充分秋山は楽しんだ。もう良いか、と前途を中止することも考えたが行って見た。R153を大野まで走る。ここから山里に入る地道に左折。迷路のような里道を右往左往しならがら松沢山の林道に入った。舗装はされているが両側の刈払いがないのでボディが枝でこすれてしまう。嫌な音がする。登山口の峠に着く。ここも地形図に無い林道がある。近くには駐車場もあるが登山口の案内はない。
 13時過ぎにとりあえず登山靴を履いて緩やかな尾根を登った。この登山道は南北に長いので午後1時30分というのにすでに日陰になっている。先ほどの明るさはなく薄暗い。太陽の位置を見ると今にも日没してしまいそうな気がする。飯田市の日没時間は16時49分なのでまだ十分往復は可能だが、網掛山の下りで太ももの筋肉を使ったせいで膝が上がらず、モチベーションの低下でUターンした。
 下ると14時前で明るい。もったいない気がするがまあこれで良いか。60代から80代の行方不明者も多いし事故は絶えない。当事者にはなりたくないから控えめにやろう。
 R153に戻って走ると交通量が多い。今日はたくさんの行楽のドライブが居たんだろう。ここでも工事中で2度信号待ちした。あちこちで工事だらけだ。11月は混むぞ。

杣路峠を越えた人々2022年06月29日

愛知県旧稲武町の野入町のR153にある案内板
1尹良親王・・・南朝時代の後醍醐天皇の孫

2菅江真澄・・・江戸時代後期の紀行家

3武田信玄・・・戦国時代の武将

4武田勝頼・・・信玄の子

6中馬街道(塩の道)・・・三河湾で製塩して川船で岡崎へ。足助で馬に積み込んで塩尻まで運んだ。

6善光寺・秋葉・伊勢参りの参詣客・・・伊勢神峠は伊勢を遥拝(拝む)する信仰の拠点だった。伊勢までは遠くここでUターンしたものかどうか。

7食い物・・・味噌醤油は大豆と塩から作る。塩の道で信州に販路が広がり、携帯に便利なファーストフードが開発された。即ち、五平餅である。

・三河ではご飯を杉の板につぶして小判型にまとめ、炭火で焼いて味噌だれを掛けたものを食う。

・稲武を美濃へ行くとだんご形の五平餅が多い。木曽街道はだんご形だ。ところが塩尻は小判型になる。混沌としている。

・飯田にも小判型の五平餅がある。

・最北は信州の鳥居峠の茶店だった。


根羽村のHPから

       歴史について
 古代・中世の根羽・月瀬村両村は三河の国に属していました。
 現在の愛知県東加茂郡全域と豊田市・西加茂郡・北設楽郡及び長野県の旧根羽村・月瀬両村を含む広大な区域は、古代の 平安時代(794~1.185)後半に高橋新荘が成立し、中世に入り鎌倉時代(1.185~1.331)には鎌倉御家人の荘官足助氏の 支配下に入ったと伝えられています。
 根羽の地は鎌倉時代は加茂郡名倉郷にあり、南北朝時代には加茂郡足助庄に属した とされています。 享禄年間(1.528~)には阿南町新野の関氏の勢力が三河に及び、天文十年(1.541)には旧根羽村・月瀬村に及んだと されています。 天文十三年八月十三日、下條氏によって関氏は滅ぼされ、下條氏の支配下に入ったのは、弘治ニ年(1.556)新野峠が 武田軍によって改修され、下條信氏が武節谷合戦で功を上げた頃と思われます。
 信玄南下作戦の一環として元亀二年(1.571)四月、足助松山城が攻略され、根羽・月瀬両村はこの時以降武田領となり 三河国から信濃国に編入となった。
 以後、天正十年(1.582)武田氏滅亡により、織田知行所に変わり、同年、織田信長の 自刃により徳川氏の天領となった。宮崎信州代官・飯島代官所支配などを経て、慶応四年(1.868)尾州取締所預かりとなり、 同年八月の廃藩置県により伊那県に編入となった。 明治四年(1.871)筑摩県、同九月に長野県となり、。
 明治8年(1875年)1月12日、根羽村と月瀬村が合併し、現在の根羽村 となり、今日に至っています。16世紀までは、三河国加茂郡に所属していた経緯もあり、隣接する豊田市、さらに西三河の刈谷 市・安城市とも交流がある。村内を流れ三河湾に注ぐ矢作川や、豊田市と通じる国道153号の影響で、愛知県西三河地域と の結びつきが強い。
以上

 HP「古い町並み」から
 東海地方より信濃・信州への入り口に位置し、古くより「塩の道」として三州(伊那)街道に沿う村落として開けたものと推測される。古くは三河国足助郷に属し、室町時代には関氏の、その後下条氏の、続いて武田氏の支配下にあった。
 伊那街道(現国道153号線)16宿の最南端に位置し、岡崎・名古屋に通じる足助道(現国道153号線)、南方の折元峠を経て新城方面に向かう新城道、その他、岩村・明智に向かう岩村道などが交わり、中馬の往来が盛んで問屋や馬宿多数が存在した。
 そこへ江戸中期より善光寺・秋葉・伊勢参りの参詣客が加わり、根羽宿は荷問屋・旅籠・馬宿・茶屋などが並び賑わった。
 中馬頭数は宝暦10年(1760)5戸20頭が天保13年(1842)には63戸250頭になり、農間余業から漸次専業化した。明治に入ると更に増加し、明治19年には飼育頭数426頭を数えた。
 明治14年の中馬宿は14軒で、半年間に泊まった中馬数は8,400頭に及んだ。
 今、根羽村の中心地、街道の交差する辺りを歩くと、旅籠屋の形態を残した家屋が多く見られる。只、私自身中馬宿を知らないので、旅籠屋形式の建物でも中馬宿だったかもしれない。交差点あたりにゴハンギョと呼ばれる明和8年(1771)の道標石がある。この辺りが宿の中心だったようだ。
以上
・・・稲武の後山は秋葉信仰の山だった。石碑も新しいのでまだ何らかの信仰の行事は継続しているだろう。「後山」のみを検索すると1344mの岡山県の最高峰のみヒットする。国地院のHPで「後山」を検索するとたくさんヒットする。トップが稲武の後山になる。順序の意味は不明。