沢始め・旧坂内村の沢を歩く②2024年05月26日

 26日は4時起床。バタバタと朝飯などを済ませてテント撤収。沢仕度を整えて出発。
 竹林の下に降りて殿又谷の遡行開始。最初の二股で尾根の先に上がると石垣が見える。右の滝谷本流から踏み跡が左へ行くので登って見たら草の生えた平地だった。何かの植栽地か隠し田か。はてまた木地師の小屋掛けでもあったのか。
 沢に戻る。入渓地から赤布などの目印は一切ない。流れに従いながら遡る。周囲は新緑の闊葉樹に覆われている。大きな七葉樹(栃)、欅、山毛欅が素晴らしい。その中を小さな滝の続く沢相が嬉しい。小滝を次々に突破する喜び。圧倒する大滝はないが遡行の喜びに違いはない。
 ふと夢を見た。所々にある平地でツエルトビバークしたらいいだろう。そして焚き火を囲む。肴は炙ったエイのひれでいい。持参の焼酎は沢水で割る。アマゴが釣れたら木の枝に刺して焼く。
 こんな沢旅こそ田部重治の世界だ。否、『樹林の山旅』を著した森本次男の世界である。森本は北アルプスに登れないから奥美濃に来たのではない、北アとは違う世界が良いと高評価した登山家だった。久々の野生的な登山を楽しめる自分を覚える。
 高巻きもした。リーダーは突破したがどうしても足場が滑るので左岸の尾根を小さく巻いて沢身に腹ばいで滑り降りた。巻けば安全と言うわけでもないが。
 水が絶えて源頭に到達。稜線に上がると爽やかな風が吹く。今日の最高点まで登って大休止。沢で死んでいた鹿の頭蓋骨を安置した。鹿の糞だらけの山頂である。いい供養になることだろう。
 下り気味に804mの三角点内谷に着く。埋まっているので掘り出すと三等の文字が見えた。点名の内谷は北へ流れる谷名らしい。
下降はそのまま南へ沢芯をたどる。最初は水が無いが段々水量が増えた。中流部は上から見ると足場が分からないから懸垂で下降した。滝の落差も長くなり、何度も懸垂下降を続ける。10回はやっただろう。本当は互いに撮影したかったが下降時はカメラを構える余裕もなかった。緊張感で喉がカラカラになる。
 それでも終わりはある。謎の平地が現れた。殿又谷もみおろせるがまだ高い。笹や木の枝、根っこ、蔓に捉まりながら下降をつづけ林道に戻った。スパッツを外すとヤマヒルがポトリ落ちた。血を吸って丸々太った奴だ。自宅に戻ったらTシャツの腹部にも血痕があった。2匹に献血した。

沢始め・旧坂内村の沢を歩く①2024年05月25日

 25日夕方発。奥美濃の山も久しぶりのことだ。旧坂内村の中心地の手前の坂本を左折。白川に沿う県道を走る。かつては揖斐高原スキー場へ走った道である。諸家で新穂谷に行くと新穂峠を越えて近江に行ける。言わば山岳古道であった。通りで路傍に石仏があったはずだ。
 今日はその手前の323m付近で白川をまたぐ橋を渡って殿又林道に入った。
 殿又林道で突然野生のシカが横切る。一応最終的なテンア場を探すために堰堤まで行って見たが少し戻って空き地に幕営。久々にテントで仮眠。

郡上の歴史調査行・・・岐阜県図書館へ行く②2024年05月05日

 郡上郡史は大正11年1月25日発行。昭和45年1月25日覆刻。P119から始まる
・相生村の項目のP128に

 一人娘は嫁にはやらぬ那比の宇留良や亀尾島へ

という俗謡があった。亀尾島はきびしまと読む。

那比ノ宇留良ヤ大字亀尾島ハ道路悪シク交通不便ナリ(宇留良ハ郡道ヨリ三里以上亀尾島ハ郡道ヨリ一里以上寺坂ヲ越セバ半里以上)社会生活ニ不便ナル意土地ノ悪シキヲ歌エルナリ然レ共今日ニテハソレ程ニモナシ

 那比の宇留良ものう亀尾島も住めば都じゃのやとのさ

前ノ歌ニ對シテ如何ニ土地ノ悪シキ處ニテモ自分ノ住所ト定ムレハ愉快アリ楽シミモアルヲ歌ヘリ

・崇田村(たけだむら)は「村名は、合併した三つの村の名前に由来し、山田村の「山」、高砂村の「高」、上田村の「田」をあわせた合成地名である。」
「歴史
江戸時代、この地域は郡上藩領であった。
1875年(明治8年) -
赤池村、杉原村、鬮本村(くじもとむら)、門福手村が合併し、山田村[1]となる。
高原村と粥川村が合併し、高砂村となる。
下田村、木尾村、繁在村、根村が合併し、上田村となる。
1889年(明治22年)7月1日 - 山田村、高砂村、上田村が合併し、嵩田村となる。
1954年(昭和29年)11月1日 - 下川村と合併し美並村が発足。同日嵩田村廃止。」

地勢
本村ノ西部一帯ノ高賀山脈ハ高地ニシテ瓢ヶ岳、根村ヶ岳ハ其ノ最モ高俊ナルモノナリ

とあるので瓢ヶ岳の南の1086mのコブは単に南岳とされるが根村ヶ岳と分る。ただし根村はすでに消えた地名であり、山名としても短期間だったから根付かなかったと思われる。

郡上の歴史調査行・・・岐阜県図書館へ行く①2024年05月04日

 午後1時を回ってからやはり行って置こうと走った。久々に岐阜市へ来た。気温が高いせいか遠望は霞んできかない。それでも立派な高い山は霞の中に堂々と聳えてみえる。
 遠くから高層ビルの岐阜県庁が見えた。あの一帯に図書館や美術館が集約している。Pを探すためにぐるっと回ってしまった。十分なスペースがあった。
 郷土資料コーナーで、長良川中流域の市町村の歴史書に一通り文献に目を通す。
1 郡上郡史
2 郡上八幡町史
3 美並村史
隣接の市町村も 
4 板取村史
5 武儀郡史
などを読んでみた。この中で琴線に触れる内容は美並村史だった。つまり郡上市になる前の地名である。
 スマホを忘れたのでメモのみしてきた。昔は郡上郡はなく、855年に武儀郡を割って郡上郡が置かれた。現在の美濃市と郡上市の市界が郡界でもある。
 須原から北の上河和は江戸時代から50年間は主要な街道だった。
・黒地峠から黒地へくだる道は東街道と言われた。もちろん西街道もある。
・長良川は昔は郡上川と言われた。
郡上市のHPから「八幡町から美濃市までは郡上川ともよばれています。このあたりは美濃古世層の中心地帯で、左岸から和良山脈の西部の山が張出しているため、川は峡谷状になっています。郡上峡谷といわれる、八幡町中山、美並町三戸(深戸)、白山(福野)、上田(八坂)付近は長い年月の間の侵食により、深いV字形の谷となっています。八幡町から下流の主な支流は、右岸から、大支流亀尾島川、うなぎで有名な粥川谷があり、左岸からは、千虎川、白谷川、羽佐古川があります。」

郡上・水晶山からナカザコを経て縦走2024年04月28日

 登山計画書では
2 行程
名古屋天白自宅5時~高速~美濃IC7:00~R156~母野駅前P8:00
・・・P・・・上河和9:00・・・水晶山12:30・・・ナガザコ三角点13:00・・・尾根通し又は林道歩き約2km・・・馬越峠14:00・・・県道325号約5km~長良川鉄道・大矢駅
大矢駅15:32~長良川鉄道乗車6.3km~15:43母野駅・・・P

 実際は1時間程度早く名古屋を出たので母野駅(はんのえき)に着いたのは7時前。近くの空き地にPして出発したのが7時でした。なので三等三角点州原から山稜歩きに変化の無さに冗長さを感じた。
 水晶山登頂は11時12分はかなり早かった。何となく早足になっていたのだろう。ナガザコは13時登頂でしたが実際は12時30分とここでも30分早い。ところが馬越峠到着は13時57分。ナガザコからの下りが、尾根は岩場が大きなギャップとなっていて、道の無い谷を下った。しかも間伐材を水平に配置してボサを作ろうとしてあった。なので乗り越しに手間取り、これまでの貯金を食いつぶしてしまった。
 県道325号も長いし、暑いしでペースダウンした。大矢駅に着いたのは15時26分ですが列車の発車時刻は15時32分なので5分前となりギリギリだった。しかし、偶然に観光列車に乗れたのはラッキーだった。大矢駅はホームが別々になり、昭和の風景を思う。
 今日は気温が日本各地で30℃と予想されていたように暑かった。このために後半はピッチが鈍った。周回ではなく、縦走の形式で遊んでみた。列車を下山口と登山口で結んで完成させたわけである。前回の大野三山縦走に続く2弾目である。

池田富士と春日井三山を歩く2024年04月07日

 自宅を1時間早めに出発。地下鉄鶴舞駅でJRに乗換。高蔵寺駅で30分の余裕が生まれ高蔵寺駅構内の喫茶店で香り高いコーヒーと軽い朝食を取りました。
 内々神社行バスの始発は8時ちょうど。内々神社バス停まで約30分。内々神社まで徒歩2分。トイレで用足し後、登山を開始。境内の右側に東海自然歩道が通じている。植生は見事な杉、照葉樹林の高木でした。ジグザグで東屋のあるピークに登る。もう一つ先の四等三角点の北山を踏んで下る。犬山へ行く道と別れて右へ周回後、春日井市と多治見市の境迄歩く。そこには春日井三山の一つ弥勒山437mの登山口がある。
 今日は池田富士370mを経めぐりたいので少し戻ってラブホテルの入り口の左のピンクのテープから植林内に入る。枝が落ちていたり、倒木も未整備であるが踏み跡はなんとか歩ける。左側の金網に沿って歩く。林内は迷いやすいが赤、ピンク、黄色のテープのマーキングがあるので心配はない。金網にどこまでも沿うと無名のコブに出て北の方面の眺めが良い。少し戻って赤テープが多数巻いてある処から東へ行く。踏み跡は頼りないがテープが多数あるので迷わない。
 小さなコブを2つ乗り越すと池田富士に登頂。小さな祠が2つあり、ベンチのある処からは樹木が切り払われて多治見市街地を見下ろせる。霞んでいるが恵那山、南アルプスも見えた。休んでいると八曽山からというトレランのハイカーが登ってきた。凄い肺活量だね。赤テープに導かれて廿原へ下る。途中に鳥居や池田富士への道標も在って地元の人らに愛された里山だと知った。廿原と書いてつづはらと読ませる。
由来はhttps://www.gifu-np.co.jp/articles/-/82703
 多治見市廿原の山里に下るといちご狩りのマイカー客が一杯来ていた。ちょうど12時になったのでその中のmontanaという喫茶店でカレーを食した。
 約30分後、弥勒山へ登山を再開。桧の植林内のしっかりした登山道を弥勒山まで登った。ここでもトレラン1人が追い越していった。トレランブームかな?山頂では改埋された二等三角点が埋まっている。ベンチもある。東屋もありハイカーに人気があるのもうなづける。山頂を辞して急な階段状の登山道を下るうちに膝に痛みが走った。そろそろ下る。大谷山、道樹山と一応三山は踏破できた。
 計画では定光寺駅まで縦走だったが暑いのとひざ痛がぶり返して来たので道樹山で下山した。細野町に下って車道を歩き、15時55分、石尾台東のバス停で登山活動を終えた。本当はキャンプ場から細野のバス停に歩けば車道歩きは少なくて済んだ。石尾台のバス停で2つ目だった。待ち時間の間にストック、カメラなどを仕舞い、パッキング。16時12分のバスに乗って高蔵寺駅まで乗車。16時47分の快速に乗れた。

小川路峠へ2023年11月19日

 遠山谷も昨夜は凍て雲が山にまとわりついて寒かったが朝から快晴でした。6時50分に和田の宿を出発。7時30分に清水地区にある秋葉街道登山口を出発。野生のシカの頭蓋骨が落ちていた。人工林の中の道は不明瞭でしばしばRFで渋滞気味になる。それでも石の地蔵があるのでかつての街道には違いない。一旦皆伐してしまうとイバラ、タラなどが繁茂し、いわゆるヤブ道になる。植林すると日陰になって雑草は枯れてしまう。この間に人が歩かないと廃道になる。現在は森林は密植されており、間伐を待っている。道も廃道状態に近い。一旦は林道に上がって横切る。再び人工林の中を登るがやはり不明瞭である。最終的に林道に上がった。1062.8mの三等三角点上村の尾根の先に地蔵などが設置されている。昔は建物でもあった跡である。
 ここから本格的な秋葉街道になった。15番の観音から始まる。しばらくは人工林だが疎林になっただけ、見通しが良く明るくなった。遠くに白い山も見える。観音様の番号が増えることで着実に登っていく実感がある。雪も出てきた。29番を過ぎると山抜けの沢の渡渉が待っていた。かつては桟橋もあったが朽ちている。虎ロープも切れて巻いてあった。リーダーがロープを出して女性らを確保して渡渉した。三点支持の基本技術があれば怖くない。そこから地蔵がずらっと並んだところにきてすぐ先に茶屋址と熊の檻があった。地形図では急な尾根だが九十九折れで優しく登って行ける。
 12時45分にうっすらと雪のある小川路峠に到着した。昼食後、体が冷えない内に1人で13時30分に来た道を引き返す。途中、4回足に痙攣が走った。都度68を飲んで対応した。下山後約2時間の15時25分に林道に着く。太陽は隣の山にかかってすぐに日没しそうだ。帰路は樹林帯は薄暗いので林道を歩き通した。約1時間でクルマのおいてある入口に着いた。
 小川路峠は上久堅からは5回も往復しているが遠山谷側は初見でしたので満足できた。秋葉街道は南西面に付けられているので西日が当たり午後も明るい。林道に下りた地点で3時30分位でしたが日が伊那山脈に沈んだ。山の中は飯田市の日没4時40分よりも1時間以上早い。
 残照があるので4時半までマイカーまでは明るかくヘッデンは点けずに済んだ。
 マイカーで矢筈トンネルを通過、下氏乗から中宮でR256に合流、左折して富士山之神社(スマホのナビの目標)へ向かうと5時20分ちょうど東京組と合流できた。後は飯田駅へ送って別れた。飯田から園原まで地道。20kmほど。中央道園原ICから帰名。2000円。102km。
 名古屋から周回の距離は約380km位でした。山間ドライブは正味150km位。極端なタイトなカーブが多いので山よりもドライブに疲れた。3ヶ月のブランクがあったので足腰が久々に痛んだ。
※すでに完成している矢筈トンネルと青崩トンネルが高規格の道路に生まれ変わると鳳来峡ICにつながる。観光客も増えて秘境のイメージも無くなるかも知れません。

青崩峠へ2023年11月18日

11/18 浜松市天竜区は快晴
 名古屋の自宅を6時30分頃出発。R153を走って東名三好ICから新東名経由で浜松北ICで出た。1820円。西鹿島駅へ8時50分頃着。102km。
 9時過ぎ東京のPT7名と合流。青崩峠を目指しR152を北上。青崩トンネルの工事が真っ最中です。
 峠直下まで車道はあるが足神神社でデポ。そこから徒歩40分で峠へ。石畳の遊歩道でした。峠では寒気のために降雪があり、初冬の気候と冬黄葉の残る自然林がマッチして美しい。東京組は峠から信州側へ下山、私は青崩れの地層が見える四阿で別れた。
 車に戻って赤石山脈の兵越えを越えてR152に下った。下った辺りから先は青崩トンネル(2023年5月に貫通)の工事の真っ最中でした。ダンプが行きかうので一般車は立入禁止でしたが恐る恐る入っていくと東京組に出合えた。そこでピックアップして宿のある和田へ向かった。途中でも番所跡を見学したりして有意義なことでした。
 宿はかぐら山荘。飲み代込みで10000円位。宿の風呂が壊れていたので平岡駅まで走って温泉に入湯できました。往復20km。

塩の道の入り口を発見!2023年10月01日

 今日は雨だった。出発も遅くなって12時30分に出た。いつものR153を快適に走る。小雨、曇天のせいかお出かけのクルマは少なくて助かった。根羽村では曇りまたは晴れていた。
 治部坂峠を越えて先ず行ったのは寒原峠を左折して恩田井水の取り入れ口である。恩田川本流では無くて、支流の長九郎沢にあった。弓ノ又谷林道を登れば三階峰に行けるが、途中の小さな建物の傍に用水路があり集水桝をあふれる水は長九郎沢に戻る。正しく井水の仕組みである。木曽山用水も同じ仕組みである。この先でサイフォンで大沢川に一旦水を落とし、改めて取り入れ口から同じ集水桝から取水する。先週に行きかけた大沢川右岸の壊れた橋の先に続く林道の終点にあるかも知れない。
 一方で村道に下ってHさん宅の前を通過すると左上に上がる道がある。R153に合流する。さらに先には細道があり石碑めくものがあったので登って見たら、手前に祠があるか判明できず、先にはH家やK家の墓だった。墓地の下には平があるがこれが尾根に開削された明治24年以前の旧道だろうか。
 今の村道は明治24(1891)年開通した塩の道でその後R153に格上げされて舗装された。昭和48年の地形図には新しいR153が印刷されているのでその時期までは利用された。
 今日の目的は村道の899m地点を探ることである。以前は入った途端に蜂が集団で飛んできてすぐに逃げた。気温が下がればもう良いか、と。少し左寄りに下ってみた。若干の藪があるのは132年前に役目を終えたので歴史の彼方に消えてしまったのである。すると人工的に建てられた棒の上に小さな屋根をかぶせてあったのであっと閃いた。これこそが歴史の彼方に埋もれ行く道の痕跡である。10m先で左折、初沢本流に下ってゆくところを確認できたので小さな尾根をよじ登って車に戻った。少し徒歩で歩いたが沢が深くて見えない。車で走りつつ探った。電灯線の保守路が3本発見できた。強引にヤブを分ければ大野へ行けるだろう。次は最初の899mから初沢に下って大沢川左岸の廃道を探る。

飯田街道の旧道踏査行②2023年09月25日

 阿智村図書館で結構時間をつぶした。長岳寺も回ったが17時を回って拝観はできず、また元の旧道ドライブになる。気になったのは曽山の集落の通過をパスしてしまった点。旧道の案内板が出ていたが村史を見るとやはりあれが旧道だったのである。あの奥に馬頭観音が建っているらしい。赤子石もこの前の通過では見落としたかも知れない。ここの旧道は完全な廃道である。今の車道はイコール旧道ではない。