松平郷から二等三角点松平村、城跡 ― 2026年05月06日
松平往還通いが続いたが今日で締めくくる。松平郷のR301に面したPに止める。
松平郷のおいでんバス停を経て旧国道が取り残された形の道路へ左折。すぐに農道のような市道に左折。仮に根引沢としている舗装路を左折。
ここで散歩中の人に出会って山の話をせがんだ。
私:松平往還の道を調べているんです、この奥の田圃は廃田で棚田になっていたから今の綺麗な田園は圃場整理されたんですかね。
山人:そうですよ、と相槌を打ってくれた。まだ最近のことです。
私:先だって下高ノ山の大橋家から裏山の鞍部を越えてここを歩いたばかりです。今日は3/15に引き返した地点からR301に抜けて六所山を目指しています。どん詰まりはとても険しいですね。
山人:トヨタが下田代町と蕪木町にかけて山の頂上を造成してテストコースを作っている。トヨタ下山三号館という。そのアクセスのために根引峠の急坂を改良するために現在のR301よりも南側に高架で根引峠直下に掘るトンネルにつなぐ工事がもうすぐ始まる。テストコースは世界中の坂道を集めているとか、地元民を招待して現地を見学した。
豊田章男が愛知県知事に早く着手する旨はっぱをかけた。
私:ほう、それが出来るとこの美しい田園風景が壊されてしまいそうだ。
と話を続けたいが時間もあるので打ち切って先を急いだ。先日車で来てチエックしてあるからスムーズに突破できた。この辺はグーグルマップを見ると「ソンデ、ソデ」という。柳田国男『地名の研究』に出て来る。ネットで見ると「ソデ・ソンデも同様に山の向こう側=二等地を意味する」とか。この辺は南向きの山里は沢連(そうれ)、林添(はやしぞれ)は焼き畑に由来する。ソンデは耕作に不向きだったのか。
この引き返したところから獣除けフェンスとガードレールの間をR301に出た。R301の端を歩いてこの前はパスした稲荷大神(廃止)の前を通過、山の家に下った。ここも表札がなく廃墟か。庭の前を通って松平往還に合流。再びR301に出て検証は終わった。
ここからは六所山に向かう。森下という古い山里を歩く。道祖神もある。どん詰まりへ行くと道が途絶えるとかいうので地形図を見ると左折する。最奥の家を通過して右に振ったがこの林道も途中までだった。家まで戻って左折すると車道が奥まで通じているが通せんぼしてある。左から隙間を通過して行くとゴミが散乱。その奥は枯れた竹林で道が埋まっている。否な感じだが、竹は短いので右端を跨いでいくうちに右手から下って来た尾根に明瞭な踏み跡があった。破線路はあるが前途は大きな岩で阻まれているので自然に尾根に振った。急斜面の踏み跡を辿るうちに乗り越して先ほどの沢の上部に出た。上から見ると右岸に道が見えるから竹の散乱地だけが障害だろう。
尾根の踏み跡はそのまま源流地点へと着いて水流と交わった。本来は右寄りだが、又も山の田圃にフェンスが見えたので一番低そうな山側へ登ってみた。倒木を渡して乗り越えて、再び松平への林道とのフェンスは強引に越えた。ここで降雨となり合羽を着る。
計画を見直し、381ポイントから二等三角点松平村に変更した。峠から右折、また小さな峠を越えて右折、松平村への林道に入る。二等三角点松平村は植林の中に埋まっていた。三角点以外に何もない。これが本来の山頂だ。と満足させた。
下山後は水子地蔵のある広大な墓苑に寄った。そのまま引き返す。381ポイントから松平城址へ行く農道を下る。さっきフェンスを越えたばかりだ。雨は止んだのでカッパを脱ぐ。この山田はまだ耕作されておらず廃田か。とぼとぼ下って行くと美しい棚田が見えて来た。背の高いフェンスで囲まれている。
松平城址へ寄り道して最初のPへ戻った。
松平郷のおいでんバス停を経て旧国道が取り残された形の道路へ左折。すぐに農道のような市道に左折。仮に根引沢としている舗装路を左折。
ここで散歩中の人に出会って山の話をせがんだ。
私:松平往還の道を調べているんです、この奥の田圃は廃田で棚田になっていたから今の綺麗な田園は圃場整理されたんですかね。
山人:そうですよ、と相槌を打ってくれた。まだ最近のことです。
私:先だって下高ノ山の大橋家から裏山の鞍部を越えてここを歩いたばかりです。今日は3/15に引き返した地点からR301に抜けて六所山を目指しています。どん詰まりはとても険しいですね。
山人:トヨタが下田代町と蕪木町にかけて山の頂上を造成してテストコースを作っている。トヨタ下山三号館という。そのアクセスのために根引峠の急坂を改良するために現在のR301よりも南側に高架で根引峠直下に掘るトンネルにつなぐ工事がもうすぐ始まる。テストコースは世界中の坂道を集めているとか、地元民を招待して現地を見学した。
豊田章男が愛知県知事に早く着手する旨はっぱをかけた。
私:ほう、それが出来るとこの美しい田園風景が壊されてしまいそうだ。
と話を続けたいが時間もあるので打ち切って先を急いだ。先日車で来てチエックしてあるからスムーズに突破できた。この辺はグーグルマップを見ると「ソンデ、ソデ」という。柳田国男『地名の研究』に出て来る。ネットで見ると「ソデ・ソンデも同様に山の向こう側=二等地を意味する」とか。この辺は南向きの山里は沢連(そうれ)、林添(はやしぞれ)は焼き畑に由来する。ソンデは耕作に不向きだったのか。
この引き返したところから獣除けフェンスとガードレールの間をR301に出た。R301の端を歩いてこの前はパスした稲荷大神(廃止)の前を通過、山の家に下った。ここも表札がなく廃墟か。庭の前を通って松平往還に合流。再びR301に出て検証は終わった。
ここからは六所山に向かう。森下という古い山里を歩く。道祖神もある。どん詰まりへ行くと道が途絶えるとかいうので地形図を見ると左折する。最奥の家を通過して右に振ったがこの林道も途中までだった。家まで戻って左折すると車道が奥まで通じているが通せんぼしてある。左から隙間を通過して行くとゴミが散乱。その奥は枯れた竹林で道が埋まっている。否な感じだが、竹は短いので右端を跨いでいくうちに右手から下って来た尾根に明瞭な踏み跡があった。破線路はあるが前途は大きな岩で阻まれているので自然に尾根に振った。急斜面の踏み跡を辿るうちに乗り越して先ほどの沢の上部に出た。上から見ると右岸に道が見えるから竹の散乱地だけが障害だろう。
尾根の踏み跡はそのまま源流地点へと着いて水流と交わった。本来は右寄りだが、又も山の田圃にフェンスが見えたので一番低そうな山側へ登ってみた。倒木を渡して乗り越えて、再び松平への林道とのフェンスは強引に越えた。ここで降雨となり合羽を着る。
計画を見直し、381ポイントから二等三角点松平村に変更した。峠から右折、また小さな峠を越えて右折、松平村への林道に入る。二等三角点松平村は植林の中に埋まっていた。三角点以外に何もない。これが本来の山頂だ。と満足させた。
下山後は水子地蔵のある広大な墓苑に寄った。そのまま引き返す。381ポイントから松平城址へ行く農道を下る。さっきフェンスを越えたばかりだ。雨は止んだのでカッパを脱ぐ。この山田はまだ耕作されておらず廃田か。とぼとぼ下って行くと美しい棚田が見えて来た。背の高いフェンスで囲まれている。
松平城址へ寄り道して最初のPへ戻った。
豊田市博物館へ ― 2026年05月04日
初めて入館する。1200円のところ、JAF割引で1100円になった。企画展は「教えて、千田先生! とよたの城も天下の城も」。会期2026年4月25日(土)〜2026年6月28日(日)。入場者は多数で中々の人気があるようだ。山城ブームもあるのだろう。
山歩きではちょくちょく古城に行くことがある。古城山という名前もある。美濃の口山には特に多い。戦国時代は群雄割拠で多数の山城が作られたのだろう。
常設展も意外に面白かった。昭和30年の国産初の乗用車のトヨペットクラウンの展示に目をくぎ付けにされた。今にも動きそうなくらいよく保存されている。
他には蚕の展示、ガラ紡の展示など拳母町、拳母市、豊田市と続く歴史の変遷がモノで分かりやすく展示されていた。
ネットから引用
「愛知県豊田市。トヨタ自動車が本社を置く、いわずと知れた企業城下町だ。この市は元々「挙母(ころも)市」という市名だったことをご存じだろうか?
「クルマのまち」ではなく、「マユのまち」だった
養蚕・製糸業を中心に栄えた挙母町。しかし、昭和の初めころからその需要が減り、当時の町長・中村寿一が町の繁栄を取り戻すために乗り出したのが、豊田自動織機製作所が新設した自動車製造部の工場誘致だった。
誘致成功後の1938年、トヨタの挙母工場が論地ヶ原(現豊田市トヨタ町)に完成。発展を遂げた拳母町は1951(昭和26)年、挙母市として市制を敷く。
たった8年で市名変更
そして1958(昭和33)年、商工会議所から市宛てに、市名を「豊田市」に変更してほしいという請願書が届く。理由は、挙母市が全国有数の「クルマのまち」に成長したことと、地名の「挙母」が読みにくいことから。元の地名に愛着を持つ市民も多く、一時は賛成派と反対派で市を二分するほどの論議が展開されたが、翌1959(昭和34)年には市名を「豊田市」に変更したのだ。」
1964(昭和39)年2月19日に市長に就任した佐藤 保はトヨタの社員だった人。
ネットから引用
「1964年(昭和39年)と年が改まり、豊田市長選挙が刻々と迫っていた。前回選で惜敗した市名変更反対派は次期選挙にすべてを賭けるとし、再度本多鋼治を擁立することを申し合わせていた。本多も日之出町の本多モータースに碁会所を設け、着々地歩を固めつつあった[13]。
保守派の間では現職の長坂貞一では勝算がないと見る向きがあり、田村重三助役や倉知桂太郎県議らが後継候補として取り沙汰された。同年1月、市議会はじめ各種団体で構成する代表者会議は「トヨタ労組を支援グループに引き込む以外に勝つ方法はない」との結論に達し、佐藤に出馬を要請。
関係者の多くは「『足を洗う』と言明した佐藤が受ける可能性は薄く、常識的に言って、2、3日考えさせてほしいと答えるだろう」と考えていたが、佐藤は即座に「お引き受けします」と答えた。
代表者らは呆然とし、のちに「トヨタ議員にしてやられた」と述懐する者もいた[13][14]。トヨタの労組は「我々は自民党支部と相携えて市長選を戦い抜く」と宣言[15]。2月15日に行われた市長選で佐藤は本多との一騎打ちを制し、初当選した(佐藤16,546票、本多12,672票)[16]。
在職中、近隣の町を次々と合併し豊田市の市域を広げた。1965年(昭和40年)9月1日に高岡町を編入、1967年(昭和42年)4月1日に猿投町を編入、1970年(昭和45年)4月1日に松平町を編入した。
猿投地区は豊富な地下資源に恵まれ、耐火粘土、珪砂などその埋蔵量は県下一を誇っていた。猿投町を編入したことにより、豊田市はより大きな発展を遂げることとなった[3]。
1975年(昭和50年)11月、健康上の理由により翌年の市長選への不出馬を表明[17]。佐藤は挙母町立青年学校教諭時代の教え子である助役の西山孝を強く推し[18]、民社党衆議院議員の渡辺武三もこれに賛同したことから、後継候補は西山に決まった(1976年2月の市長選で当選)。
1977年(昭和52年)3月1日、豊田市名誉市民に推挙される。1983年(昭和58年)11月3日、勲四等瑞宝章を受章[19]。
2004年(平成16年)8月1日、肺炎のため死去[2]。90歳没。」
博物館をでえてから、松平町へ向かう。仮称根引沢の奥地のチエックに行ってみた。案内書の「あおいの道」で×印になっている箇所だ。3/15はネットや鉄の獣除けのフェンスで引き返した。4/29の順路では高ノ山の大橋家から裏の鞍部への道を教えてもらった。が、田植えの真っ最中で農機が忙しく働いていたこともあって、そこへは行かず、農道から市道を歩いて高月院に到達した。だからここが気になっていた。
ふるい地形図では破線路になっているが今は市道で舗装路になった。一応の終点に車を止めてチエックする。少し戻って竹藪の谷合いへ踏み跡が続いている。これはR301の鈴木家への道だろう。しかし、鉄のフェンスに阻まれる。
戻って未舗装の林道を行くと、3/15に引き返したポイントでは細い笹薮があるが楽に突破できるだろう。次の奥にも笹薮の中に向こうへ行ける幅がある。どん詰まりでは急斜面で終わった。
奥の田園は北側だけが山と接していたために突破できなかった。この林道からならR301へ抜けられる。
加えて奥の奥は棚田の廃田と知った。下流の広大な田園は圃場整理の結果だ。農機が入りやすくなって合理化された。
後は松平支所の図書館へ立ち寄った。志満屋で柏餅を買った。
山歩きではちょくちょく古城に行くことがある。古城山という名前もある。美濃の口山には特に多い。戦国時代は群雄割拠で多数の山城が作られたのだろう。
常設展も意外に面白かった。昭和30年の国産初の乗用車のトヨペットクラウンの展示に目をくぎ付けにされた。今にも動きそうなくらいよく保存されている。
他には蚕の展示、ガラ紡の展示など拳母町、拳母市、豊田市と続く歴史の変遷がモノで分かりやすく展示されていた。
ネットから引用
「愛知県豊田市。トヨタ自動車が本社を置く、いわずと知れた企業城下町だ。この市は元々「挙母(ころも)市」という市名だったことをご存じだろうか?
「クルマのまち」ではなく、「マユのまち」だった
養蚕・製糸業を中心に栄えた挙母町。しかし、昭和の初めころからその需要が減り、当時の町長・中村寿一が町の繁栄を取り戻すために乗り出したのが、豊田自動織機製作所が新設した自動車製造部の工場誘致だった。
誘致成功後の1938年、トヨタの挙母工場が論地ヶ原(現豊田市トヨタ町)に完成。発展を遂げた拳母町は1951(昭和26)年、挙母市として市制を敷く。
たった8年で市名変更
そして1958(昭和33)年、商工会議所から市宛てに、市名を「豊田市」に変更してほしいという請願書が届く。理由は、挙母市が全国有数の「クルマのまち」に成長したことと、地名の「挙母」が読みにくいことから。元の地名に愛着を持つ市民も多く、一時は賛成派と反対派で市を二分するほどの論議が展開されたが、翌1959(昭和34)年には市名を「豊田市」に変更したのだ。」
1964(昭和39)年2月19日に市長に就任した佐藤 保はトヨタの社員だった人。
ネットから引用
「1964年(昭和39年)と年が改まり、豊田市長選挙が刻々と迫っていた。前回選で惜敗した市名変更反対派は次期選挙にすべてを賭けるとし、再度本多鋼治を擁立することを申し合わせていた。本多も日之出町の本多モータースに碁会所を設け、着々地歩を固めつつあった[13]。
保守派の間では現職の長坂貞一では勝算がないと見る向きがあり、田村重三助役や倉知桂太郎県議らが後継候補として取り沙汰された。同年1月、市議会はじめ各種団体で構成する代表者会議は「トヨタ労組を支援グループに引き込む以外に勝つ方法はない」との結論に達し、佐藤に出馬を要請。
関係者の多くは「『足を洗う』と言明した佐藤が受ける可能性は薄く、常識的に言って、2、3日考えさせてほしいと答えるだろう」と考えていたが、佐藤は即座に「お引き受けします」と答えた。
代表者らは呆然とし、のちに「トヨタ議員にしてやられた」と述懐する者もいた[13][14]。トヨタの労組は「我々は自民党支部と相携えて市長選を戦い抜く」と宣言[15]。2月15日に行われた市長選で佐藤は本多との一騎打ちを制し、初当選した(佐藤16,546票、本多12,672票)[16]。
在職中、近隣の町を次々と合併し豊田市の市域を広げた。1965年(昭和40年)9月1日に高岡町を編入、1967年(昭和42年)4月1日に猿投町を編入、1970年(昭和45年)4月1日に松平町を編入した。
猿投地区は豊富な地下資源に恵まれ、耐火粘土、珪砂などその埋蔵量は県下一を誇っていた。猿投町を編入したことにより、豊田市はより大きな発展を遂げることとなった[3]。
1975年(昭和50年)11月、健康上の理由により翌年の市長選への不出馬を表明[17]。佐藤は挙母町立青年学校教諭時代の教え子である助役の西山孝を強く推し[18]、民社党衆議院議員の渡辺武三もこれに賛同したことから、後継候補は西山に決まった(1976年2月の市長選で当選)。
1977年(昭和52年)3月1日、豊田市名誉市民に推挙される。1983年(昭和58年)11月3日、勲四等瑞宝章を受章[19]。
2004年(平成16年)8月1日、肺炎のため死去[2]。90歳没。」
博物館をでえてから、松平町へ向かう。仮称根引沢の奥地のチエックに行ってみた。案内書の「あおいの道」で×印になっている箇所だ。3/15はネットや鉄の獣除けのフェンスで引き返した。4/29の順路では高ノ山の大橋家から裏の鞍部への道を教えてもらった。が、田植えの真っ最中で農機が忙しく働いていたこともあって、そこへは行かず、農道から市道を歩いて高月院に到達した。だからここが気になっていた。
ふるい地形図では破線路になっているが今は市道で舗装路になった。一応の終点に車を止めてチエックする。少し戻って竹藪の谷合いへ踏み跡が続いている。これはR301の鈴木家への道だろう。しかし、鉄のフェンスに阻まれる。
戻って未舗装の林道を行くと、3/15に引き返したポイントでは細い笹薮があるが楽に突破できるだろう。次の奥にも笹薮の中に向こうへ行ける幅がある。どん詰まりでは急斜面で終わった。
奥の田園は北側だけが山と接していたために突破できなかった。この林道からならR301へ抜けられる。
加えて奥の奥は棚田の廃田と知った。下流の広大な田園は圃場整理の結果だ。農機が入りやすくなって合理化された。
後は松平支所の図書館へ立ち寄った。志満屋で柏餅を買った。
岡崎市図書館へ ― 2026年05月03日
松平往還、三河加茂一揆等の文献を求めて岡崎市図書館に来た。加茂一揆の研究書はあったがやや左翼的な視点が気になった。大学の学者だからだろうか。客観的な見方が知りたい。
この点、豊田市松平支所の図書館には松平中学や松平高校の生徒らが研究した結果をノートにまとめられていて良かった。自分らの先祖にも関係するから余計に真剣に取り組んだのだろう。
この点、豊田市松平支所の図書館には松平中学や松平高校の生徒らが研究した結果をノートにまとめられていて良かった。自分らの先祖にも関係するから余計に真剣に取り組んだのだろう。
松平往還の検証行1 ― 2026年05月02日
3/15の復路(南進)の反省をフィードバックして4/29の順路(北進)を実施した。磯谷栄一氏の案内書を読み返すと細部で気がかりなところが残った。特に「桜の道」「松の道」と市街地は多く残った。今日はその検証である。
まずは「竹の道」の出発地である米河内に来てみた。
14の東の滝山御神領標が発見できなかった。これは青木川左岸の近藤家の敷地内ということで見つからなかったわけだ。同時に開元通宝出土記念碑も見つかった。明治時代は青木川右岸にあったが昭和38年以後に近藤家に移設された。
15の松平往還と古大沼街道の分岐点が見えているのに認識できなかった。堂坂は1m幅しかなく、クルマは通れない。左側の車道も軽自動車か4ナンバーがやっとの狭い道だった。常夜灯の先の忠魂碑の前に路駐して、堂坂から登って見た。
P40に絵図で説明されているがこの変遷が分かりにくい。わずか200m位の距離である。八幡宮を経てヤゲ川沿いに下る道も同じくらい狭い。この時期は松平往還も大沼街道も同じでヤゲ川に下ってから分れた。
明治25年以前の昔は青木川に崖で落ちていた。このために堂坂を急登して行ったらしい。明治25年に大沼街道が青木川沿いに開通して常夜灯が設置された。岩窪みの馬頭観音もできた。
昭和38年以後は現在のヤゲ川沿いの大沼街道の旧道から左折して松平往還に行ける。4/29は岩窪みの観音を探しに行ったが見つけられず、変な軌跡になった。これで納得。竹の道は郡界川までほとんど正しくトレースできている。
松の道の8から14のうち、8の「魂場の道標」はドラッグストアに止めて、魂場の交差点の片隅に埋められていたのを確認できた。
次は名鉄バス停「老いの狭間」の向かいに緑風台という住宅団地があり、その南東面の実線を辿っていることが分かった。クルマで行って見ると通しでは走れなかった。1m幅の小径が残されている。石仏などのものはない。緑風台の公園とは背の高いネットで仕切があり、名札のある廃屋があった。
「桜の道」の2から3の道は知らずに通過、6から8の道も迷走した。これはこだわらずとも良いか。時間があれば竜泉寺と足立眼科の道標を見に行きたい。「松の道」の滝山寺から馬頭観音の間の細部もマニアックなので割愛した。
又、ヤマレコの記録では井田観音堂から真伝町のカフェデリプレッソという喫茶店の南に小川があり、橋のたもとに道標が残っている。ここを経由して大沼街道に合流すると後は同じである。
まずは「竹の道」の出発地である米河内に来てみた。
14の東の滝山御神領標が発見できなかった。これは青木川左岸の近藤家の敷地内ということで見つからなかったわけだ。同時に開元通宝出土記念碑も見つかった。明治時代は青木川右岸にあったが昭和38年以後に近藤家に移設された。
15の松平往還と古大沼街道の分岐点が見えているのに認識できなかった。堂坂は1m幅しかなく、クルマは通れない。左側の車道も軽自動車か4ナンバーがやっとの狭い道だった。常夜灯の先の忠魂碑の前に路駐して、堂坂から登って見た。
P40に絵図で説明されているがこの変遷が分かりにくい。わずか200m位の距離である。八幡宮を経てヤゲ川沿いに下る道も同じくらい狭い。この時期は松平往還も大沼街道も同じでヤゲ川に下ってから分れた。
明治25年以前の昔は青木川に崖で落ちていた。このために堂坂を急登して行ったらしい。明治25年に大沼街道が青木川沿いに開通して常夜灯が設置された。岩窪みの馬頭観音もできた。
昭和38年以後は現在のヤゲ川沿いの大沼街道の旧道から左折して松平往還に行ける。4/29は岩窪みの観音を探しに行ったが見つけられず、変な軌跡になった。これで納得。竹の道は郡界川までほとんど正しくトレースできている。
松の道の8から14のうち、8の「魂場の道標」はドラッグストアに止めて、魂場の交差点の片隅に埋められていたのを確認できた。
次は名鉄バス停「老いの狭間」の向かいに緑風台という住宅団地があり、その南東面の実線を辿っていることが分かった。クルマで行って見ると通しでは走れなかった。1m幅の小径が残されている。石仏などのものはない。緑風台の公園とは背の高いネットで仕切があり、名札のある廃屋があった。
「桜の道」の2から3の道は知らずに通過、6から8の道も迷走した。これはこだわらずとも良いか。時間があれば竜泉寺と足立眼科の道標を見に行きたい。「松の道」の滝山寺から馬頭観音の間の細部もマニアックなので割愛した。
又、ヤマレコの記録では井田観音堂から真伝町のカフェデリプレッソという喫茶店の南に小川があり、橋のたもとに道標が残っている。ここを経由して大沼街道に合流すると後は同じである。
岡崎城から大樹寺総門を経て松平往還を歩く(順路) ― 2026年04月29日
3/15は松平郷から大樹寺へ歩いた。廃道あり、消失あり、障害物ありの中々に手強い山岳古道であった。今回はその反省を元に順路を歩いて見た。
名古屋の自宅の最寄り駅は6時3分の始発に乗車、豊田市駅は定刻通りに着く。下車してペデストリアンデッキを急ぐと新豊田駅には6時37分発の電車に余裕で乗れる。中岡崎駅7時3分に到着。名古屋からは丁度1時間の車窓の旅だった。東側に席をとり、車窓から愛知高原の山々に見入る。天気は高曇りでぱっとしないが焙烙山と六所山の兄弟が並んでいる。
岡崎城信濃門跡から甲山に道草
岡崎城へはR248を通過して伊賀川を渡るとすぐに着く。乙川の流れに沿って県道39号線を左折。喫茶店に飛び込んでモーニングコーヒーとトーストを食べて出発。目指すは信濃門跡だがママさんは知らないそうだ。小ぶりの記念碑はすぐに見つかった。ここをヤマップの出発地にした。
前回はピークを一つも踏まなかったので今回は岡崎市内にポツンと隆起する甲山64.7mの2等三角点に道草した。但しヤマップは山と認めていないようだ。一座は一座なんだが。
大樹寺総門へ
下山後はまた39号線に戻る。目指したのは大樹寺総門である。AIは「総門(そうもん)は、寺院や邸宅の敷地外郭に位置する「第一の正門」や「表門」を指し、格式の高さを示す場所」と回答。前回は山門はチエックしたのになぜ総門があるのか、気になった。
別の回答は「総門と山門の主な違いは、寺院内での位置と役割(格式)です。総門(そうもん): 寺院の境内の一番外側にある正門。俗世と寺域の境界を示す入り口。山門(さんもん): 総門の先、仏殿の手前にある、寺を代表する格式高い門。修行の場へ入る心の準備を示す。一般的に、総門から入って山門へと進む構成になっており、山門の方が格式が上であることが多いです。」大樹寺小学校のグランドと校舎を隔てて山門が見えている。
ビスタラインを確認
南へは岡崎城の天守閣が見えるように障害物がない。ビスタラインという。「徳川三代将軍家光が、寛永18年(1641)、家康の十七回忌を機に、徳川家の祖先である松平家の菩提寺である大樹寺の伽藍の大造営を行う際に、「祖父生誕の地を望めるように」との想いを守るため、本堂から三門、総門(現在は大樹寺小学校南門)を通して、その真中に岡崎城が望めるように伽藍を配置したことに由来」。「歴代の岡崎城主は、天守閣から毎日ここに向かって拝礼した」そうだ。
ちょっと詳しくなった。矢作川流域は下流が沃野なので18松平家が遍在している。幸田町の深溝松平家は今も研究されている。松平家の歴史は岡崎市を中心に西三河の文化の底荷になっているのだ。
松平往還の順路を往く
さて、総門を拝見後は前回のルートを反対に歩く。磯谷栄一『消えゆく松平往還を歩く』の案内を具にチエックしたが取りこぼしがあった。大沼街道(県道335号線)は立派な県道で交通量が多い。脇道に留意をしたがうっかり通り過ぎた箇所もある。東名高速の下は北に反れる旧道を歩けた。石仏が二ヶ所あった。滝団地の北の旧道は今回も見逃した。交差点を過ぎてすぐ左下に灯籠があったのでチエックすると石仏もあって旧道を確認。南北の新道で道路の落差2mほどが埋まっているのである。青木川の橋を渡るとすぐ朱塗りの瀧山寺三門が建つ。瀧山東照宮を経てすぐ「N'ma cafe」というお洒落な喫茶店でアイスコーヒーを飲んだ。すぐ先に三界の滝があった。県道は477号線になって米河内町に着いた。
前回は忠魂碑があるところを旧道としていた。案内書でチエックすると実は松平往還は八幡宮を経由する。一歩手前で左折するようだ。今回は何となくヤゲ川沿いに歩けたがもっと北西から大きく迂回する旧道がある。後日クルマで再度行ってみたい。
山里を離れるとヤゲ川左林道、右は松平往還になり直進。ヤゲ川は小さな沢で余り清流でもない。セメント舗装だが荒れている。標高180mの小さな峠を越える。左に射撃場のゲート、右は幸果園の果樹園が広がり新東名が見える。幸果園の入り口手前にも石仏がある。すぐ新東名をくぐる。二岐は左折、松平往還の案内板がある。鉄塔が建っているところから地道と舗装路の二岐は右の地道を下ると舗装路と出合う。安戸町への車道は左折、すぐ二岐は右へ、民家の手前に句碑があるので右の地道を辿ると小さな峠を越えて本光寺の右の小径を下る。すると県道339号線(真福寺道)に出合う。ここが駒立町だ。大堰堤が見えるので直進して見ると金属の獣害除けのフェンスが見えて断念。案内書では✖になっている。
渡通津町への山越え
やむなく車道を経てマルタ園への道標がある道に入る。山側の田圃では代掻きが終わって苗を植えたばかりだった。6月ころには青田になっているだろう。マルタ園も果樹園である。観光バス用のPもあって団体客を集めている。延々硬い舗装路を歩いてきたが地形図で241ポイント辺りから右に松平往還が現れる。ここからはしばらくは土の道の上を歩ける。一旦は途切れて林道に出るが右に別れていく。車道は左に並行している。中間に細道があるので入る。すると右から来る道に出合う。松平往還は林道で削られたようだ。
しばらくは快適に歩ける。石の道標がある。下に車道が見える。そのまま山路を進んで下ると左へ曲がって車道に下る。渡津通町の山里が俯瞰できる。そのまま下って行くと十字路に着く。ここにも松平往還の説明板がある。また覚書みたいな帳面がビニールに包まれてあった。車道を北上すると廃屋、廃車が見えて寂れていく雰囲気がある。まもなくお堂があり、右の山路に誘導する道標がある。指示通り山路を登ってゆく。やや急だがすぐに平坦になる。やがて渡通津町と日影町の境の峠に着く。ここにも案内板がある。右へ行く踏み跡は鉄塔巡視路だ。301mの三角点日影に行ける。
日影町へは法面が狭い山路を慎重に行く。この先はカーブしながら下る。良い感じの自然の中にある。そして問題の県道への下り方が険しい所に来た。注意していると右に鉄塔巡視路の道標が二手に分かれている。これがポイントになる。念のために約数mも下ってみたが県道の拡幅工事で削られた斜面に出る。ここは雨で浸食されないために左下にセメントの溝が掘ってある。一段右下にもセメントの溝が見える。そこへ薄い踏み跡も続いて強引に下れないこともなさそうだ。しかし、さきほどの巡視路の道標迄戻って踏み跡を辿る。前はここを登ったから分かっている。谷まで下ると左折。右は谷間の廃田である。左は竹藪が枯れて鬱陶しい。ピンテープも二つあった。車道が近くなると先ほどのセメントの溝を跨ぐ。溝は落ち葉が詰まっている。そして県道へ下れる。日影町の山里を右に広い県道を歩くと最初の細い橋が見えたら渡る。旧道は山寄りに残っている。
豊田市瀧脇町へ
郡界川を渡ると豊田市瀧脇町になる。急な坂道を登り、専光寺の左側の道を行く。左へ反れていくと瀧脇陣屋跡の案内板がある。そのまま車道を直進すると行き止まりだが。民家との間に2m幅の山路が見えるので車道から離れる。これは地形図にも実線で表現されている。前回は降り口が分からず見逃した。県道338号線に合流。上に瀧脇小学校があるせいか、車道と歩道が分離されている。もちろん歩道を登り小学校のある峠を越える。ここに寅の径の道標がある。
石御堂へ
緩やかな坂を下って行くと石御堂のモニュメントが建っている。ググって見ると「加茂一揆(かもいっき)は,1836年(天保7)9月,九久平村(くぎゅうだいら:現豊田市)周辺の農民たちの動きを発端として,全松平地域と下山村南西部,足助町全域を巻き込み,さらに挙母(ころも)城下に押し出し,農民1万人以上が加わった三河地方最大の農民闘争であり,江戸幕府の天保の改革(1841年)の原因にもなった一揆である。
一揆の直接の原因は,「天保の大飢饉(だいききん)」による農民生活の極度の困窮であった。人望があった松平辰蔵(まつだいら たつぞう)は,この一揆の頭取としてかつがれた。辰蔵は強訴(ごうそ)により要求を通そうとして,酒屋・役人との交渉に臨んだ。しかし,足助(あすけ)の農民が加入したころから統制が乱れ,辰蔵の家が打ちこわしに遇う。
頭取を失った一揆は,打ちこわし本位の世直し一揆へ変化する。5日間にわたる一揆は247町村,13,000人の参加者をみたが,岡崎藩・吉田藩の加勢で鎮圧された。」(豊田市教育委員会 )
4/18の大給城址から岩谷山へ登った後、松平辰蔵の墓にも参拝してきました。質素な墓でした。世直しといえば31年後の1867年に「東海地方(三河・遠江・尾張)に発した「ええじゃないか」の乱舞が各地に広がる」とある。
七売(なのうり)の小村も今回は旧道へ回った。そして神明神社への階段を登って「寅の径」の道標を見て山路を歩いた。竹藪が枯れて乱れていたが尾根に登るとなんとか歩ける。尾根伝いに歩いて行くと目印で左折、踏み跡ははっきりしないが林道に降り立つ。大橋家一軒だけの下高ノ山の地名がある山里へ出た。右へ、そして左へ山際の踏み跡を辿ると湿地帯か廃田か。車道に出ると廃屋が一軒ある。クルマも置かれたままだが。右折すると大橋家に突き当たる。
松平郷への山路(寅の径)を問う
道標など無いので大橋家の玄関のボタンを押して路を聞いた。父子が応対して下さった。3/15にも七売への路を尋ねた。寅の径は息子さんが小学校へ通う道だったよ、と言うので驚いた。その息子さんが向かって右のヤブの中の踏み跡へ案内してくれた。きっかけを知れば後は大丈夫だ。謝礼を述べて別れた。枯れた竹の倒木が絡んで膝をついてくぐって踏み跡を辿る。昔は家があったのだろうか、お茶碗など家財が散乱した所があった。すぐ鞍部だった。下ると舗装路に降りた。後は水田の苗を植える仕事で忙しい農家の人を見ながら歩く。すべて鉄のフェンスが囲っている。本来の松平往還は三差路で右折、奥の水田記号の所からR301の旧道に上がって松平郷に行けたが鉄のフェンスで遮断されて、案内書でも✖になっている。前回はここで1時間のロスタイムがあった。
今回は農道からR301に出て松平郷へ歩いた。一休み後、高月院へと重い足を引きづった。家康お手植えと言う枝垂れ桜が今は新緑の噴水みたいにになっている。親氏の墓前にもお参りして下山。時に16時、松平郷のバス停へ歩いた。
16時50分発のおいでんバスを待った。
春更けておいでんバスを待つ独り 拙作
名古屋の自宅の最寄り駅は6時3分の始発に乗車、豊田市駅は定刻通りに着く。下車してペデストリアンデッキを急ぐと新豊田駅には6時37分発の電車に余裕で乗れる。中岡崎駅7時3分に到着。名古屋からは丁度1時間の車窓の旅だった。東側に席をとり、車窓から愛知高原の山々に見入る。天気は高曇りでぱっとしないが焙烙山と六所山の兄弟が並んでいる。
岡崎城信濃門跡から甲山に道草
岡崎城へはR248を通過して伊賀川を渡るとすぐに着く。乙川の流れに沿って県道39号線を左折。喫茶店に飛び込んでモーニングコーヒーとトーストを食べて出発。目指すは信濃門跡だがママさんは知らないそうだ。小ぶりの記念碑はすぐに見つかった。ここをヤマップの出発地にした。
前回はピークを一つも踏まなかったので今回は岡崎市内にポツンと隆起する甲山64.7mの2等三角点に道草した。但しヤマップは山と認めていないようだ。一座は一座なんだが。
大樹寺総門へ
下山後はまた39号線に戻る。目指したのは大樹寺総門である。AIは「総門(そうもん)は、寺院や邸宅の敷地外郭に位置する「第一の正門」や「表門」を指し、格式の高さを示す場所」と回答。前回は山門はチエックしたのになぜ総門があるのか、気になった。
別の回答は「総門と山門の主な違いは、寺院内での位置と役割(格式)です。総門(そうもん): 寺院の境内の一番外側にある正門。俗世と寺域の境界を示す入り口。山門(さんもん): 総門の先、仏殿の手前にある、寺を代表する格式高い門。修行の場へ入る心の準備を示す。一般的に、総門から入って山門へと進む構成になっており、山門の方が格式が上であることが多いです。」大樹寺小学校のグランドと校舎を隔てて山門が見えている。
ビスタラインを確認
南へは岡崎城の天守閣が見えるように障害物がない。ビスタラインという。「徳川三代将軍家光が、寛永18年(1641)、家康の十七回忌を機に、徳川家の祖先である松平家の菩提寺である大樹寺の伽藍の大造営を行う際に、「祖父生誕の地を望めるように」との想いを守るため、本堂から三門、総門(現在は大樹寺小学校南門)を通して、その真中に岡崎城が望めるように伽藍を配置したことに由来」。「歴代の岡崎城主は、天守閣から毎日ここに向かって拝礼した」そうだ。
ちょっと詳しくなった。矢作川流域は下流が沃野なので18松平家が遍在している。幸田町の深溝松平家は今も研究されている。松平家の歴史は岡崎市を中心に西三河の文化の底荷になっているのだ。
松平往還の順路を往く
さて、総門を拝見後は前回のルートを反対に歩く。磯谷栄一『消えゆく松平往還を歩く』の案内を具にチエックしたが取りこぼしがあった。大沼街道(県道335号線)は立派な県道で交通量が多い。脇道に留意をしたがうっかり通り過ぎた箇所もある。東名高速の下は北に反れる旧道を歩けた。石仏が二ヶ所あった。滝団地の北の旧道は今回も見逃した。交差点を過ぎてすぐ左下に灯籠があったのでチエックすると石仏もあって旧道を確認。南北の新道で道路の落差2mほどが埋まっているのである。青木川の橋を渡るとすぐ朱塗りの瀧山寺三門が建つ。瀧山東照宮を経てすぐ「N'ma cafe」というお洒落な喫茶店でアイスコーヒーを飲んだ。すぐ先に三界の滝があった。県道は477号線になって米河内町に着いた。
前回は忠魂碑があるところを旧道としていた。案内書でチエックすると実は松平往還は八幡宮を経由する。一歩手前で左折するようだ。今回は何となくヤゲ川沿いに歩けたがもっと北西から大きく迂回する旧道がある。後日クルマで再度行ってみたい。
山里を離れるとヤゲ川左林道、右は松平往還になり直進。ヤゲ川は小さな沢で余り清流でもない。セメント舗装だが荒れている。標高180mの小さな峠を越える。左に射撃場のゲート、右は幸果園の果樹園が広がり新東名が見える。幸果園の入り口手前にも石仏がある。すぐ新東名をくぐる。二岐は左折、松平往還の案内板がある。鉄塔が建っているところから地道と舗装路の二岐は右の地道を下ると舗装路と出合う。安戸町への車道は左折、すぐ二岐は右へ、民家の手前に句碑があるので右の地道を辿ると小さな峠を越えて本光寺の右の小径を下る。すると県道339号線(真福寺道)に出合う。ここが駒立町だ。大堰堤が見えるので直進して見ると金属の獣害除けのフェンスが見えて断念。案内書では✖になっている。
渡通津町への山越え
やむなく車道を経てマルタ園への道標がある道に入る。山側の田圃では代掻きが終わって苗を植えたばかりだった。6月ころには青田になっているだろう。マルタ園も果樹園である。観光バス用のPもあって団体客を集めている。延々硬い舗装路を歩いてきたが地形図で241ポイント辺りから右に松平往還が現れる。ここからはしばらくは土の道の上を歩ける。一旦は途切れて林道に出るが右に別れていく。車道は左に並行している。中間に細道があるので入る。すると右から来る道に出合う。松平往還は林道で削られたようだ。
しばらくは快適に歩ける。石の道標がある。下に車道が見える。そのまま山路を進んで下ると左へ曲がって車道に下る。渡津通町の山里が俯瞰できる。そのまま下って行くと十字路に着く。ここにも松平往還の説明板がある。また覚書みたいな帳面がビニールに包まれてあった。車道を北上すると廃屋、廃車が見えて寂れていく雰囲気がある。まもなくお堂があり、右の山路に誘導する道標がある。指示通り山路を登ってゆく。やや急だがすぐに平坦になる。やがて渡通津町と日影町の境の峠に着く。ここにも案内板がある。右へ行く踏み跡は鉄塔巡視路だ。301mの三角点日影に行ける。
日影町へは法面が狭い山路を慎重に行く。この先はカーブしながら下る。良い感じの自然の中にある。そして問題の県道への下り方が険しい所に来た。注意していると右に鉄塔巡視路の道標が二手に分かれている。これがポイントになる。念のために約数mも下ってみたが県道の拡幅工事で削られた斜面に出る。ここは雨で浸食されないために左下にセメントの溝が掘ってある。一段右下にもセメントの溝が見える。そこへ薄い踏み跡も続いて強引に下れないこともなさそうだ。しかし、さきほどの巡視路の道標迄戻って踏み跡を辿る。前はここを登ったから分かっている。谷まで下ると左折。右は谷間の廃田である。左は竹藪が枯れて鬱陶しい。ピンテープも二つあった。車道が近くなると先ほどのセメントの溝を跨ぐ。溝は落ち葉が詰まっている。そして県道へ下れる。日影町の山里を右に広い県道を歩くと最初の細い橋が見えたら渡る。旧道は山寄りに残っている。
豊田市瀧脇町へ
郡界川を渡ると豊田市瀧脇町になる。急な坂道を登り、専光寺の左側の道を行く。左へ反れていくと瀧脇陣屋跡の案内板がある。そのまま車道を直進すると行き止まりだが。民家との間に2m幅の山路が見えるので車道から離れる。これは地形図にも実線で表現されている。前回は降り口が分からず見逃した。県道338号線に合流。上に瀧脇小学校があるせいか、車道と歩道が分離されている。もちろん歩道を登り小学校のある峠を越える。ここに寅の径の道標がある。
石御堂へ
緩やかな坂を下って行くと石御堂のモニュメントが建っている。ググって見ると「加茂一揆(かもいっき)は,1836年(天保7)9月,九久平村(くぎゅうだいら:現豊田市)周辺の農民たちの動きを発端として,全松平地域と下山村南西部,足助町全域を巻き込み,さらに挙母(ころも)城下に押し出し,農民1万人以上が加わった三河地方最大の農民闘争であり,江戸幕府の天保の改革(1841年)の原因にもなった一揆である。
一揆の直接の原因は,「天保の大飢饉(だいききん)」による農民生活の極度の困窮であった。人望があった松平辰蔵(まつだいら たつぞう)は,この一揆の頭取としてかつがれた。辰蔵は強訴(ごうそ)により要求を通そうとして,酒屋・役人との交渉に臨んだ。しかし,足助(あすけ)の農民が加入したころから統制が乱れ,辰蔵の家が打ちこわしに遇う。
頭取を失った一揆は,打ちこわし本位の世直し一揆へ変化する。5日間にわたる一揆は247町村,13,000人の参加者をみたが,岡崎藩・吉田藩の加勢で鎮圧された。」(豊田市教育委員会 )
4/18の大給城址から岩谷山へ登った後、松平辰蔵の墓にも参拝してきました。質素な墓でした。世直しといえば31年後の1867年に「東海地方(三河・遠江・尾張)に発した「ええじゃないか」の乱舞が各地に広がる」とある。
七売(なのうり)の小村も今回は旧道へ回った。そして神明神社への階段を登って「寅の径」の道標を見て山路を歩いた。竹藪が枯れて乱れていたが尾根に登るとなんとか歩ける。尾根伝いに歩いて行くと目印で左折、踏み跡ははっきりしないが林道に降り立つ。大橋家一軒だけの下高ノ山の地名がある山里へ出た。右へ、そして左へ山際の踏み跡を辿ると湿地帯か廃田か。車道に出ると廃屋が一軒ある。クルマも置かれたままだが。右折すると大橋家に突き当たる。
松平郷への山路(寅の径)を問う
道標など無いので大橋家の玄関のボタンを押して路を聞いた。父子が応対して下さった。3/15にも七売への路を尋ねた。寅の径は息子さんが小学校へ通う道だったよ、と言うので驚いた。その息子さんが向かって右のヤブの中の踏み跡へ案内してくれた。きっかけを知れば後は大丈夫だ。謝礼を述べて別れた。枯れた竹の倒木が絡んで膝をついてくぐって踏み跡を辿る。昔は家があったのだろうか、お茶碗など家財が散乱した所があった。すぐ鞍部だった。下ると舗装路に降りた。後は水田の苗を植える仕事で忙しい農家の人を見ながら歩く。すべて鉄のフェンスが囲っている。本来の松平往還は三差路で右折、奥の水田記号の所からR301の旧道に上がって松平郷に行けたが鉄のフェンスで遮断されて、案内書でも✖になっている。前回はここで1時間のロスタイムがあった。
今回は農道からR301に出て松平郷へ歩いた。一休み後、高月院へと重い足を引きづった。家康お手植えと言う枝垂れ桜が今は新緑の噴水みたいにになっている。親氏の墓前にもお参りして下山。時に16時、松平郷のバス停へ歩いた。
16時50分発のおいでんバスを待った。
春更けておいでんバスを待つ独り 拙作
三遠研の総会 ― 2026年04月18日
午後からの三遠研の総会まえに岡崎市日影町の松平往還の寸断された現地を三度訪れた。前回は気が付かなかったが、セメントの山路を登って少し周囲を探ると、左の谷側は山田があったと思われる。石垣でパイプがあるので昔は水田耕作をしていた。右の尾根側は狭い平地になって山家が建っていたと思われた。意味不明の3m位の空の穴があった。これはきれいなので井戸の跡か、池か。竹が枯れて踏みしだく。
道路側を覘くとセメントの溝があった。登り口からセメントはすぐ終わる。右へセメントは続いていたが急で滑りやすいので先へ行くのは止めた。想像すると道路拡張工事で削り取った断面は崩壊しやすいので上部にセメントで固めた溝を作り、排水溝にしたのではないか。そして、真ん中辺りに流れるように傾斜をつけて、道路側へ排水路を作ってある。垂直に近い排水路の意味が分かった。また松平往還の上にあって移設された馬頭観音というものは実は普通の観音の石仏だった。
午後は新城市で総会の後、深溝松平家の歴史話の講演を拝聴。内容は予備知識がないので半値半壊で終わった。しかし深溝松平の日記は一般に文庫本になって売っているのでそんなにとっつきにくいことではない。講演者もまだ若いのでこれからだろう。地域史を深めると面白い。
総会後、豊川ICから岡崎ICまで高速を飛ばし、岡崎市図書館で松平往還と加茂一揆の史料に当たった。特に集められていることでもない。というのも徳川家康が政権をとると江戸に移って岡崎城の城主は徳川以外が守った。但し松平家の分家は三河一円に多く存在したから折々歩かれたであろう。
ネットから主要な松平分家(十八松平)の一覧
「十八松平」の数え方には諸説ありますが、代表的な分家は以下の通りです。
1 岩津松平家(いわづ):松平信光の長男・親長が祖。初期は一族の中で最も勢力があったとされる 。
2 竹谷松平家(たけや):信光の子・守家が祖。宝飯郡竹谷(蒲郡市)を拠点とした 。
3 形原松平家(かたのはら):信光の子・与副が祖。形原城(蒲郡市)を拠点とした。
4 大草松平家(おおくさ):信光の子・光重が祖。額田郡大草(幸田町)を拠点とした。
5 五井松平家(ごい):信光の子・元心が祖。宝飯郡五井(蒲郡市)を拠点とした。
6 深溝松平家(ふこうず):光重の子・忠定が祖。額田郡深溝(幸田町)を拠点とした。
7 能見松平家(のみ):信光の子・光親が祖。岡崎市能見付近を拠点とした。
8 長沢松平家(ながさわ):親忠(安祥家)の子・親則が祖。豊川市長沢付近を拠点とした。
9 大給松平家(おぎゅう):親忠の子・乗元が祖。豊田市大給城を拠点とした。
10 滝脇松平家(たきわき):親忠の子・乗清が祖。豊田市滝脇を拠点とした。
11 福釜松平家(ふかま):親忠の子・親盛が祖。安城市福釜を拠点とした。
12 桜井松平家(さくらい):親忠の子・信定が祖。安城市桜井を拠点とし、一時宗家と対立した。
13 藤井松平家(ふじい):親忠の子・利長が祖。安城市藤井を拠点とした。
その他の主な松平家
14 松平郷松平家:松平氏発祥の地(豊田市松平郷)を守り続けた家系 。
15 大河内松平家:名知恵・松平信綱を祖とする。三河吉田藩(豊橋市)などを治めた 。
16 久松松平家:家康の異父弟・定勝を祖とする家系(伊予松山藩や桑名藩など)
AIの概要は「岡崎城の歴代城主は、西郷氏の築城(1455年頃)から廃城(1871年)までに、主に松平・徳川氏や格式の高い譜代大名など26人が務めました。最大の特徴は徳川家康の生誕地であることで、家康以降は江戸幕府の神聖な場所として、本多氏、水野氏、松平氏の有力譜代大名が入れ替わりで城主を務めました。
主な歴代城主・関係者
西郷頼嗣(稠頼):初期の築城者
松平清康:1530年頃、城主となり松平氏の本拠地とする
徳川家康:1542年誕生、桶狭間の戦い後に独立し本拠とした
松平信康:1570年~(家康の長男)
ここから後は必ずしも先祖の墓参りの道としての意味は無くなった。(筆者注)
田中吉政:1590年~(家康の関東移封後)
本多康重:1601年~(本多氏系、譜代)
水野氏:1645年~(水野忠善など、譜代)
江戸時代は、本多氏や水野氏、松平(松井)氏など、徳川家に近い大名が転封を繰り返しながら守りました。」以上
当時は塩の道として発展した足助街道(現在の県道39号線)に重きが移ったと思われる。
道路側を覘くとセメントの溝があった。登り口からセメントはすぐ終わる。右へセメントは続いていたが急で滑りやすいので先へ行くのは止めた。想像すると道路拡張工事で削り取った断面は崩壊しやすいので上部にセメントで固めた溝を作り、排水溝にしたのではないか。そして、真ん中辺りに流れるように傾斜をつけて、道路側へ排水路を作ってある。垂直に近い排水路の意味が分かった。また松平往還の上にあって移設された馬頭観音というものは実は普通の観音の石仏だった。
午後は新城市で総会の後、深溝松平家の歴史話の講演を拝聴。内容は予備知識がないので半値半壊で終わった。しかし深溝松平の日記は一般に文庫本になって売っているのでそんなにとっつきにくいことではない。講演者もまだ若いのでこれからだろう。地域史を深めると面白い。
総会後、豊川ICから岡崎ICまで高速を飛ばし、岡崎市図書館で松平往還と加茂一揆の史料に当たった。特に集められていることでもない。というのも徳川家康が政権をとると江戸に移って岡崎城の城主は徳川以外が守った。但し松平家の分家は三河一円に多く存在したから折々歩かれたであろう。
ネットから主要な松平分家(十八松平)の一覧
「十八松平」の数え方には諸説ありますが、代表的な分家は以下の通りです。
1 岩津松平家(いわづ):松平信光の長男・親長が祖。初期は一族の中で最も勢力があったとされる 。
2 竹谷松平家(たけや):信光の子・守家が祖。宝飯郡竹谷(蒲郡市)を拠点とした 。
3 形原松平家(かたのはら):信光の子・与副が祖。形原城(蒲郡市)を拠点とした。
4 大草松平家(おおくさ):信光の子・光重が祖。額田郡大草(幸田町)を拠点とした。
5 五井松平家(ごい):信光の子・元心が祖。宝飯郡五井(蒲郡市)を拠点とした。
6 深溝松平家(ふこうず):光重の子・忠定が祖。額田郡深溝(幸田町)を拠点とした。
7 能見松平家(のみ):信光の子・光親が祖。岡崎市能見付近を拠点とした。
8 長沢松平家(ながさわ):親忠(安祥家)の子・親則が祖。豊川市長沢付近を拠点とした。
9 大給松平家(おぎゅう):親忠の子・乗元が祖。豊田市大給城を拠点とした。
10 滝脇松平家(たきわき):親忠の子・乗清が祖。豊田市滝脇を拠点とした。
11 福釜松平家(ふかま):親忠の子・親盛が祖。安城市福釜を拠点とした。
12 桜井松平家(さくらい):親忠の子・信定が祖。安城市桜井を拠点とし、一時宗家と対立した。
13 藤井松平家(ふじい):親忠の子・利長が祖。安城市藤井を拠点とした。
その他の主な松平家
14 松平郷松平家:松平氏発祥の地(豊田市松平郷)を守り続けた家系 。
15 大河内松平家:名知恵・松平信綱を祖とする。三河吉田藩(豊橋市)などを治めた 。
16 久松松平家:家康の異父弟・定勝を祖とする家系(伊予松山藩や桑名藩など)
AIの概要は「岡崎城の歴代城主は、西郷氏の築城(1455年頃)から廃城(1871年)までに、主に松平・徳川氏や格式の高い譜代大名など26人が務めました。最大の特徴は徳川家康の生誕地であることで、家康以降は江戸幕府の神聖な場所として、本多氏、水野氏、松平氏の有力譜代大名が入れ替わりで城主を務めました。
主な歴代城主・関係者
西郷頼嗣(稠頼):初期の築城者
松平清康:1530年頃、城主となり松平氏の本拠地とする
徳川家康:1542年誕生、桶狭間の戦い後に独立し本拠とした
松平信康:1570年~(家康の長男)
ここから後は必ずしも先祖の墓参りの道としての意味は無くなった。(筆者注)
田中吉政:1590年~(家康の関東移封後)
本多康重:1601年~(本多氏系、譜代)
水野氏:1645年~(水野忠善など、譜代)
江戸時代は、本多氏や水野氏、松平(松井)氏など、徳川家に近い大名が転封を繰り返しながら守りました。」以上
当時は塩の道として発展した足助街道(現在の県道39号線)に重きが移ったと思われる。
総会の監査 ― 2026年04月15日
法人化して3期目になる。6月の岳連の総会に向けて午後から監査を行う。理事長、財務の理事2名、監事2名の5名が事務所に集まってもらった。まずは理事長によるこの1年間の事業報告がある。続いて財務諸表の説明と中身の吟味がある。
ライブの理事会にはほぼ出ているので概略はつかめている。それでも小さな箇所で議論の余地はあるものだ。それにしても加盟団体が昔は100団体あったが50年後の今は30団体に激減したことは重い課題である。
昔あって今は無くなったのは職域山岳会、高校、大学の山岳部、若い人のサークル等。新たな山岳会は日本百名山を目指す会、トレイル、ボルダリング、ウォールクライミング等。中でも職域山岳会の退潮が著しい。レジャーの多様化が主因である。
全体的には今までコロナで渋滞気味だった事業も加速する時期に来ている。昔新名神ができるまで、東名阪の亀山料金所では長い渋滞が出来ていた。料金所を通過してもしばらくはノロノロ運転になった。高速道路の端には加速を促す警告板があった。高速では低速は危険なのである。
9/19からのアジア大会への協力が終われば本来の事業に戻れる。監査後の雑談で様々な個々のアイデアも出て来た。自分では取り組み中の山岳古道のテーマも振って置いた。ひたすら氷壁を登攀して山頂を目指すのが究極の登山であったが、ロングトレイルの考え方もアメリカで流行したことがある。
日本版ロングトレイルとして山岳古道は浸透しつつある。ハイキングは自然の風物に親しむスポーツだが古道歩きでは歴史、民俗の知識がないと楽しめない。そこをどう提供するのか工夫のしどころだ。
ライブの理事会にはほぼ出ているので概略はつかめている。それでも小さな箇所で議論の余地はあるものだ。それにしても加盟団体が昔は100団体あったが50年後の今は30団体に激減したことは重い課題である。
昔あって今は無くなったのは職域山岳会、高校、大学の山岳部、若い人のサークル等。新たな山岳会は日本百名山を目指す会、トレイル、ボルダリング、ウォールクライミング等。中でも職域山岳会の退潮が著しい。レジャーの多様化が主因である。
全体的には今までコロナで渋滞気味だった事業も加速する時期に来ている。昔新名神ができるまで、東名阪の亀山料金所では長い渋滞が出来ていた。料金所を通過してもしばらくはノロノロ運転になった。高速道路の端には加速を促す警告板があった。高速では低速は危険なのである。
9/19からのアジア大会への協力が終われば本来の事業に戻れる。監査後の雑談で様々な個々のアイデアも出て来た。自分では取り組み中の山岳古道のテーマも振って置いた。ひたすら氷壁を登攀して山頂を目指すのが究極の登山であったが、ロングトレイルの考え方もアメリカで流行したことがある。
日本版ロングトレイルとして山岳古道は浸透しつつある。ハイキングは自然の風物に親しむスポーツだが古道歩きでは歴史、民俗の知識がないと楽しめない。そこをどう提供するのか工夫のしどころだ。
三遠研役員会 ― 2026年04月02日
午前中は早めに出発。県道58号で岡崎市日影町に行く。松平往還の出入り口が不明瞭なので再度現地調査である。案内書を読みながら現地を観察。3/15は迷いながらもなんとか往還の道につながった。結局、よく読むと県道が拡幅されて削られてしまった。鍋蓋のような道路を山を削って直線的に切通しにしてある。見ただけでは分からないわけだ。
この際県道338の旧道も走って見た。郡界川沿いの一車線の細い道だった。二畳ヶ瀧も見えたが降水後で濁っていた。どこまでも行くと奥殿陣屋の三差路へ出た。一周したわけだ。また瀧脇を経て林夫添のR301の信号に出て新城に向かった。
午後から新城市民文化会館で役員会を開催。4/18の総会の段取りを話し合う。
この際県道338の旧道も走って見た。郡界川沿いの一車線の細い道だった。二畳ヶ瀧も見えたが降水後で濁っていた。どこまでも行くと奥殿陣屋の三差路へ出た。一周したわけだ。また瀧脇を経て林夫添のR301の信号に出て新城に向かった。
午後から新城市民文化会館で役員会を開催。4/18の総会の段取りを話し合う。
歴史街道・松平往還を行く ― 2026年03月15日
徳川家発祥の地である豊田市松平郷から菩提寺の大樹寺を結ぶ古道を松平往還という。墓参に利用されたらしい。平成30年に磯貝榮一氏が『消えゆく松平往還を歩く』という案内書にまとめて発刊された。奥殿陣屋で入手して読んでみてトレースを試みた。日本版ロングトレイルである。
ピークは目指さず山里から山里へ歩く。順路は岡崎城または大樹寺から松平郷が終点になる。名鉄東岡崎駅から歩くと街歩きになることと時間の都合で名古屋からは標高270mの松平郷から同18mの大樹寺へ下る形の山旅になった。
3月半ばになると午前5時半というのに明るくなった。地下鉄鶴舞線・豊田線の始発に乗車、豊田市駅には約30分の6時47分に着いた。豊田市駅はリニューアル工事でごった返していた。駅員に聞いてバス乗り場を教えてもらった。午前7時8分発の下山行きおいでんバスに乗車、R301を走って松平郷に7時38分に着いた。バス停から5分ほど歩いて松平東照宮と松平親氏像を拝観。本当は高月院に詣でたいが割愛してバス停へ戻った。
松平往還の古道の入り口を迷走
当初は林添(はやしぞれ)を経由して南下とイメージしていた。案内書の地図にR301を少しもどって稲荷大神を裾を経由して地形図では無名の高ノ山の山里を経由する赤線があった。しかも✖がある。稲荷大神の界隈へ戻って地図通りに行ってみたが沢筋までは古道を下れた。水田に当たって1mの鉄線のフェンスと2m以上ありそうなネットが張ってあり隙間はなく、戻るしかなかった。✖の意味は進めないということだった。
R301から実線の車道に入った。舗装路ということで民家があるのだろう。狭い谷沿いの道はパッと開けて小さな中山間地に着いた。
鶯の初鳴きが聞こえてきた。土場の先にマイカーを止めた家が一軒あったが無住という感じだ。さらに奥のどん詰まりに若い人がいて聞くと家人に伝えてくれた。地形図で数戸の人家の記号がある高ノ山は1戸のみだった。家人に聞くとここから松平郷までは歩道があり、また七売は子供の通学路だというのである。家人曰く東海自然歩道の道というが、調べると松平ウォーク「寅の径」というコースに絡んでいると分かった。
高ノ山から古道を歩いて七売の里へ
家人に教えてもらった道をたどると行き過ぎたので戻って水田記号との境の林道をたどるとまもなく尾根に登ってゆく印があった。ここが子供の通学路だったというのだ。踏み跡は消え入りそうだったが樹林下なので下草ややぶは茂っていない。すぐに神社記号の元神明神社に着いた。お堂は古びて倒壊しそうな気がした。石段を下ると七売の里だ。下る途中に寅の径の道標があった。これが松平自然歩道の独自のに設定された径だった。
舗装路を歩いて滝脇へ(ここまでは豊田市)
一旦は車道に下って淡々と歩く。石御堂、滝脇小学校は見聞したが、豊田市と岡崎市の市境の郡界川を渡る。下流に二畳が滝があるが割愛。案内書ではここまでがあおいの道であるがバスを下車してかなりのロスタイムがあった。
渡通津町の山里へ松平往還の核心部を歩く
郡界川からは岡崎市に入る。案内書の竹の道である。読みにくい難読地名だが「松平五代長親の歌の一部即ち「・・・渡り通い津・・・」から家康が名付けた地名」という。
市道のどこかに渡通津町(わつづ)へ越える山道があるはずと思ったが何も目印はない。GPSの記号が示す所に多分送電線の巡視路と思われるセメントの道が登ってゆくのでそこに入ってみた。足元は荒廃しているが何とか登ってゆける。落ち葉の道について行くと広い巡視路に交わった。鉄塔巡視路の道標がある。下って見たが道路へ下る明瞭な山道は不明。この道を渡通津へ行くと確かに自然がよく残されていて新緑の頃は良いだろう。動画で見たのもこの辺だろう。地形図の実線の道が全コースを通じて自然度が高いという。やがて渡通津の中心地に下る。とはいえ、有人無人の数戸あるだけの過疎の山里である。
新東名をくぐって米河内へ
ここで少し腹ごしらえ。車道の急坂を歩いてマルタ園(レジャー施設)に向かう。途中から山の中へ入ってゆく。松平往還の案内板がある。この車道は中間地点で鎖がかかって車は通れない。駒立町に下り、また登り返す。唯生句碑が目印だったが見落とした。幸果園への目印を見落としてまた戻る。新東名の下を通過、幸香園を左に見てゆるり登ると射撃場へのゲートか。左の旧道(実線)へ行く。米河内までは荒廃しているがほぼセメントの道だった。
大樹寺から愛環鉄道・大門駅へ
米河内からは大樹寺まで立派な2車線の県道を歩く。今回は登山靴でもなく、スニーカーでもないがビブラム底の固い靴底で車道を歩いたから足裏が痛くなった。案内書では19kmとあるがヤマップの記録では喫茶店での休憩と道間違いの往復、道迷いのロスタイムを含めて、22.4km、8時間21分かかった。登山の原則である早立ち早着きを守って良かった。
喫茶店で一服したりして無事に大樹寺に着いた。五平餅で小腹を満たし、愛環鉄道大門駅発16時17分の電車に乗れた。車窓からは愛知高原の山並みの突起である焙烙山と六所山が目立った。
ピークは目指さず山里から山里へ歩く。順路は岡崎城または大樹寺から松平郷が終点になる。名鉄東岡崎駅から歩くと街歩きになることと時間の都合で名古屋からは標高270mの松平郷から同18mの大樹寺へ下る形の山旅になった。
3月半ばになると午前5時半というのに明るくなった。地下鉄鶴舞線・豊田線の始発に乗車、豊田市駅には約30分の6時47分に着いた。豊田市駅はリニューアル工事でごった返していた。駅員に聞いてバス乗り場を教えてもらった。午前7時8分発の下山行きおいでんバスに乗車、R301を走って松平郷に7時38分に着いた。バス停から5分ほど歩いて松平東照宮と松平親氏像を拝観。本当は高月院に詣でたいが割愛してバス停へ戻った。
松平往還の古道の入り口を迷走
当初は林添(はやしぞれ)を経由して南下とイメージしていた。案内書の地図にR301を少しもどって稲荷大神を裾を経由して地形図では無名の高ノ山の山里を経由する赤線があった。しかも✖がある。稲荷大神の界隈へ戻って地図通りに行ってみたが沢筋までは古道を下れた。水田に当たって1mの鉄線のフェンスと2m以上ありそうなネットが張ってあり隙間はなく、戻るしかなかった。✖の意味は進めないということだった。
R301から実線の車道に入った。舗装路ということで民家があるのだろう。狭い谷沿いの道はパッと開けて小さな中山間地に着いた。
鶯の初鳴きが聞こえてきた。土場の先にマイカーを止めた家が一軒あったが無住という感じだ。さらに奥のどん詰まりに若い人がいて聞くと家人に伝えてくれた。地形図で数戸の人家の記号がある高ノ山は1戸のみだった。家人に聞くとここから松平郷までは歩道があり、また七売は子供の通学路だというのである。家人曰く東海自然歩道の道というが、調べると松平ウォーク「寅の径」というコースに絡んでいると分かった。
高ノ山から古道を歩いて七売の里へ
家人に教えてもらった道をたどると行き過ぎたので戻って水田記号との境の林道をたどるとまもなく尾根に登ってゆく印があった。ここが子供の通学路だったというのだ。踏み跡は消え入りそうだったが樹林下なので下草ややぶは茂っていない。すぐに神社記号の元神明神社に着いた。お堂は古びて倒壊しそうな気がした。石段を下ると七売の里だ。下る途中に寅の径の道標があった。これが松平自然歩道の独自のに設定された径だった。
舗装路を歩いて滝脇へ(ここまでは豊田市)
一旦は車道に下って淡々と歩く。石御堂、滝脇小学校は見聞したが、豊田市と岡崎市の市境の郡界川を渡る。下流に二畳が滝があるが割愛。案内書ではここまでがあおいの道であるがバスを下車してかなりのロスタイムがあった。
渡通津町の山里へ松平往還の核心部を歩く
郡界川からは岡崎市に入る。案内書の竹の道である。読みにくい難読地名だが「松平五代長親の歌の一部即ち「・・・渡り通い津・・・」から家康が名付けた地名」という。
市道のどこかに渡通津町(わつづ)へ越える山道があるはずと思ったが何も目印はない。GPSの記号が示す所に多分送電線の巡視路と思われるセメントの道が登ってゆくのでそこに入ってみた。足元は荒廃しているが何とか登ってゆける。落ち葉の道について行くと広い巡視路に交わった。鉄塔巡視路の道標がある。下って見たが道路へ下る明瞭な山道は不明。この道を渡通津へ行くと確かに自然がよく残されていて新緑の頃は良いだろう。動画で見たのもこの辺だろう。地形図の実線の道が全コースを通じて自然度が高いという。やがて渡通津の中心地に下る。とはいえ、有人無人の数戸あるだけの過疎の山里である。
新東名をくぐって米河内へ
ここで少し腹ごしらえ。車道の急坂を歩いてマルタ園(レジャー施設)に向かう。途中から山の中へ入ってゆく。松平往還の案内板がある。この車道は中間地点で鎖がかかって車は通れない。駒立町に下り、また登り返す。唯生句碑が目印だったが見落とした。幸果園への目印を見落としてまた戻る。新東名の下を通過、幸香園を左に見てゆるり登ると射撃場へのゲートか。左の旧道(実線)へ行く。米河内までは荒廃しているがほぼセメントの道だった。
大樹寺から愛環鉄道・大門駅へ
米河内からは大樹寺まで立派な2車線の県道を歩く。今回は登山靴でもなく、スニーカーでもないがビブラム底の固い靴底で車道を歩いたから足裏が痛くなった。案内書では19kmとあるがヤマップの記録では喫茶店での休憩と道間違いの往復、道迷いのロスタイムを含めて、22.4km、8時間21分かかった。登山の原則である早立ち早着きを守って良かった。
喫茶店で一服したりして無事に大樹寺に着いた。五平餅で小腹を満たし、愛環鉄道大門駅発16時17分の電車に乗れた。車窓からは愛知高原の山並みの突起である焙烙山と六所山が目立った。
与良木を走る ― 2026年02月26日
午後から新城市文化会館で会合。早めに出て、R153、R473、R420、R257から道の駅したらへ行く。天神山を歩いて見たかったがゆっくりもできないので又与良木トンネルを越えて与良木を走った。前回は急な左折をパスしたためにR257へ出る市道を走ったが古道の面影はなかった。
今回は一旦パスして、やや広いところでUターン、やっと与良木の村落に入れた。赤い梅が満開だった。但し道路幅は4ナンバーでも一杯、しかも急坂だった。地形図の実線の道に入ろうとしたが、登りが急すぎて元の道にバック。すると後輪が空回りする。4駆に入れて脱出。その先でもヘアピンがあり一回では通過できなかった。
後日下の道に車を置いて歩いて見たい。今回は後期伊那街道、先回は前期伊那街道になる。いずれも田口で合流する。一般道の崖にはかつての塩の道の馬頭観音がいくつも組み込まれて面影を残している。
R257に出て新城市文化会館へ。4/18の総会へ向けて会の大綱を話し合った。新役員、規約の見直し等。帰路はR301.県道20.R1.県道39、同56を経て帰名。
今回は一旦パスして、やや広いところでUターン、やっと与良木の村落に入れた。赤い梅が満開だった。但し道路幅は4ナンバーでも一杯、しかも急坂だった。地形図の実線の道に入ろうとしたが、登りが急すぎて元の道にバック。すると後輪が空回りする。4駆に入れて脱出。その先でもヘアピンがあり一回では通過できなかった。
後日下の道に車を置いて歩いて見たい。今回は後期伊那街道、先回は前期伊那街道になる。いずれも田口で合流する。一般道の崖にはかつての塩の道の馬頭観音がいくつも組み込まれて面影を残している。
R257に出て新城市文化会館へ。4/18の総会へ向けて会の大綱を話し合った。新役員、規約の見直し等。帰路はR301.県道20.R1.県道39、同56を経て帰名。
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