じねんじょ列車に乗る2025年03月06日

 山岳会の友人Wさんが明知鉄道企画の「じねんじょ列車」に乗ろうという話を持ち掛けて来た。明知鉄道は一度くらいは乗ったのか一部か記憶がない。モノは試しに計画に乗った。
 3/5の例会後にWさんの車に便乗して中津川市のビジネスホテルに一泊。朝早くは午前中は余裕があるので木曽川右岸の飯地高原の秋葉山にハイキングの予定でいた。朝食バイキングを食べた後出発。登山口に着いたがナビが下山口にガイド。おかしいと正規の登山口に着いたが時間的に遅いので止めた。ところがメンバーのSさんが行くと言いだして一人すたすたと登って行った。約30分くらいなのでそのうち戻るだろうと待機。
ぶつぶつ言いながら下って来た。今日は雲が厚いので展望はなかっただろう。結局計画通り登ったのはSさんだけだった。
 その後恵那駅に行ってPに駐車。明知鉄道の恵那駅に行くと時間が迫るにつれて予約客が続々集まって来た。中には着物姿のグループもいた。一列車27名、三両編成と聞いたので60名くらいは乗ったのであろう。
 我々は先頭車両に座った。机には折箱が並んでいた。ゆっくり動き出すと麦ごはんにじねんじょを掛けてくれる。お茶のサービスもある。地元の食材の寒天なども使った料理屋の仕出し弁当プラスじねんじょであった。
 東濃の約浜井場の標高350mから飯沼駅の標高450mまでで約100mもの登る。ゆっくり50分かけて明智駅に着いた。HPには「岐阜県恵那市大井町(中央線恵那駅)を起点に、日本大正村で有名になった恵那市明智町に至る東美濃地方の高原地帯を縫って南下する全長25.1kmの路線」とある。通常運行は始発から終点まで各駅停車で約50分かかるが12:25発の急行仕立てはビュッフェ形式なので駅を4ヶ所パスして54分で運行している。
 料理は運賃含みの5000円と高め。味は美味しかったが、昨夜は夜食の牛丼で食いながら深夜まで雑談していた。朝も6時に起こされてバイキングの朝食を楽しんでしまったのであまり食欲はなかった。それでも残すわけにはいかないので完食した。
 下車後は自由時間になり、初めて大正村を歩き、歴史を楽しんだ。明治村のような囲い込んだ博物館と違って、一般人が生活する場も含めて歴史を振り返る拠点を設けてある。私の実家を髣髴させる古い家屋もあった。春寒し大正は遠くなりにけり、である。
 大正ロマン館では懐かしい名前を二つ見た。一つは大正村創設の提案者の写真家・澤田正春と尾上 隆治((おのえ たかはる、1914年11月14日 - 2005年1月5日)は、株式会社尾上機械の3代目経営者。また様々なコレクターとしても有名である。)元日本山岳会会長の尾上昇の父である。
 駅前の土産物店で熱いコーヒーを飲んでまた列車で恵那駅へ。PからはR19、県道33、R363と走って瀬戸市経由で帰名。

苗木城址から浅間山を周遊2025年01月25日

 東濃の未踏の里山を探して見た。既登の山の前衛とか、隠れたところに意外な山がある。今回は高峰山(945m)の南西に位置する浅間山(551m)が良さげと思った。等高線が山頂に向かって絞り込まれて尖峰に見える。記録は古くからありヤマップでも城山(苗木城址)とセットで歩かれている。直線距離も約2kmだから周回もできる。
 中央道を恵那山に向かって走る。うっすら雪化粧している。全山黒木で覆われるから真っ白にはならない。むしろ左の方に真っ白な山々が見えている。
 中津川ICを出て、10時過ぎに市街地を走るが遅いついでにコンビニではなく、スーパーで食料と飲み物を買いだした。R257で木曽川に架かる城山大橋を渡るとすぐ右折して苗木城址である。一度は来ているが記憶はない。
 東濃は尾張藩の所領だがここは苗木藩が治めていた。
「苗木藩 財源」の検索でAIは「苗木藩の財源には、藩札や御用金、領地からの収入などがありました。」との回答。藩札は今では県債、公債である。他に山林からの収益があった。小藩といえども城を経営することができたのだろう。決して楽な経営ではなかっただろう。
 恵那山を仰ぐPに停めて天守閣に向かって歩き出した。天守閣に立つと好展望が広がった。恵那山、木曽山脈、周囲には笠置山、二ッ森山などが取り囲む。木曽川、付知川とその支流が無数に流れている。中津川市苗木に生まれた俳人の吉田冬葉は
   岳雪のあざやかなるに麦を踏む 冬葉第一句集 吉田冬葉
と詠んでいる。岳雪とは恵那山の雪であろう。
 城から大手門跡へ四十八曲がりの急坂を下山。地道に出て山の田川にかかる上地橋に行くと右岸沿いに飛騨街道(南北街道)への道標があった。上には旧北恵那鉄道の鉄橋が錆びて冬空に晒されたままだ。
 12時30分、飛騨街道に進んだ。両側ともきれいに刈られて歩き易い。やや登り気味にお化け岩なるところを過ぎると車道に出て案内板は終わった。・374の民家を見て、右折。実線の道を歩いて新谷の里へ行く。やや広い道へ左折、また実線の私道のような道から民家の横を通過して二車線の市道苗木205号線へ出た。浅間山の破線路の登山口へたどるために新谷の田園地帯と・342の民家の私道も通らせてもらって車道に出た。ここから右折、工場のような建物から左折、やっとクランク状の登山口に着いた。
 地形図に破線路は示されているがきちんと整備はされていないいわゆる廃道状態であった。踏み跡へおもむくまま登って行った。先へ踏み跡が続いていたが岩尾根を攀じ登って行ったら「せんげの森」の四阿に付いてGPSを見ると破線路から外れていた。しかし良くしたもので本来の旧遊歩道への連絡路が残っていた。ここからは藪が覆う廃道をRFしながら登った。
 大手門跡を12時30分に出発して約2時間の14時36分に登頂できた。小休止後は北へ踏み跡を追う。雑木林の疎林の中で見失いそうになるとGPSで位置確認。先蹤者の付けた白っぽくなった荷造りひものマーキングが見つかる。510mのコブまで来ると良い道の跡が出て来た。
たどると15時17分、舗装路へ飛び出した。苗木城址のPまで約1時間のウォーキングが待っていた。浅間山だけなら山頂をかすめるだけだが城山と合わせて5時間とはかからない結構ハードなハイキングになった。

上州三山を巡る山岳ドライブ2025年01月17日

 朝から風が強く天気が悪いので午前中のゲレンデスキーの予定は中止。たった1日だったけど満足感のうちに終わった。群馬県へスキー行の続きは群馬県の浅間山、妙義山、榛名山を経めぐる観光ドライブで締めくくった。
 このまま名古屋へすぐに帰りたくない。観光ドライブした。四阿山の山懐にある宿から利根川の支流である吾妻川に沿うR144を下る。途中八ッ場ダムを通って来た。どこかで見たと思ったら民主党政権時代、脱ダムで八ッ場ダムが脚光を浴びたが結局は完成していた。中之条町へ着く。ここから南東へR353を走って、R17へ合流。「道の駅こもち」で休憩。未踏の候補に入れてある子持山(1296m)の登山口のある子持村だった。
 R17で渋川市から吉岡町を経て熊谷市まで行って奥秩父の両神山を眺めたかった。しかし、午後になりR17のバイパスも南下するにつれて渋滞気味。帰名する時間と体力も考慮して、結局前途をカット、伊勢崎市からR354を西進した。すると富士山のような雪山が見えてきた。富士山が見える?にしては前衛峰や衛星峰も従えてみえるから何だろう。R18に移ると遅い昼飯を食うためにラーメン屋に入ってスマホで見た。高崎市の北に富士山の形をした山は、との検索に「榛名山」(1449m)と回答。地形図には榛名富士の別名もある。
 R18は古代の東山道であり後の中山道ですが小諸市軽井沢町まで妙義山と榛名山を眺めるドライブでした。上州三山だけあって目立つ。R18は安中市になると登り気味になりギザギザの妙義山も終始見えている。長野県境の碓氷峠までS字カーブの連続する山岳路です。軽井沢町に着くと景色はいつしか浅間山に変わった。東御市に来ると左折して名古屋から来たルートで帰名。

『新撰美濃志』に描かれた大湫(村)2025年01月13日

 『新撰美濃志』は尾張藩士の岡田文園(啓)が約30年の歳月を要して編纂した地誌である。期間は天保(てんぽう)の時代(1830年から1844年)から万延(1860年から1861年)の期間になる。江戸時代は1603年に始まり、1867年に終わるから、幕末の美濃の社会を記録している。
 復刻版(本書)の緒言に「尾張藩は十二万八千八百石を美濃に領知し、どの領主よりも最大であった。」という。
注:P557から。漢字は基本的に旧字体だが変換可能な限り変換し、出来ないものは出て来る字体にした。行替えは筆者による。

 大湫村は半原の北にありて遠山荘とも亦稲村荘ともいふ。中山道の宿驛にて京の方細久手宿より一里半餘、江戸の方大井宿より三里半の馬つぎなり。「尾張御領九十石」(略)名古屋まで十六里あり。

 「十三嶺」は宿の東大井宿との間にあり。中山道筋登り下り多き故しか名づく、されども坂道やすらかにて険阻ならず。

 「小牧山」は驛の南にあり。さのみ高からねど諸山に秀でて見るに足れり。

 「野田嶺」は驛の北にあり。千村氏毎年草餅を製して献上する地なり。

 「琵琶坂」は細久手に到る大道の坂をいふ。岩石多く道さがしく登り下り十町ばかりもあり。坂の上より互寅の方に木曽の御嶽見え、北には加賀の白山、飛騨山の間より見ゆ、白山は大山なる故麓まで雪あり。西に伊吹山も見えて好景なり。

 烏丸光栄卿の打出濱記に「大久手という所より琵琶坂といふをこゆ、けふの道すべて山の尾なり、たうげよりかなたこなたを見渡すに、こしの白山峰越に山の腰わづかに見ゆ、見るがうちに雲へだたりぬ(みこしぢのしらねいづくと白雲をふりさけ見れば雲に消えつつ)伊吹山のはるかなれどさだかに見ゆ」と見えたり。
以下略。

・十三嶺は十三峠のこと
・小牧山は稲荷山のこと
・野田嶺は本陣山のこと
・琵琶坂は琵琶峠のこと

東濃の里山・氷結した氷餅の池を眺めつ歩いた本陣山2025年01月12日

氷結した氷餅の池
 1/12(日)朝の出発が遅くなった。中央高速の瑞浪ICを出て半原や足又など聞きなれない山間の小村を縫うように良い道が整備されている。登山口の大湫には12時少し前に着いた。クルマに乗っている最中に降雪もあってモチベーションが下がってしまうが現地では止んだ。
 11時58分にスタート、山頂は12時20分登頂。標高が633mと猿投山よりは高いが大湫が500mのために比高130mしかないので楽に登れた。落葉に雪がうっすら乗っていて急なために滑りやすい。滑落に留意しながら慎重に登った。氷餅池という天然の池がある。昔は餅をここに沈めて凍らせてたという。二ッ森山にもあった。「氷餅とは、ついた餅を寒中にさらして凍らせ、それを乾燥させて粉末にしたもの」という。餅はすぐにカビが生えるから昔の知恵である。
 やがて二等三角点のある本陣山の山頂に着く。続・ぎふ百山の一つである。周囲は樹木で囲まれて展望は皆無だった。西へゆるやかに下ると展望台がある。北に開けているが今日はあいにくの天気で何も見えない。もう少し下って登り返すと609mの独立標高点に東屋も建っている。ここは南に開けているが何も見えないのは同じ。少しバックして山路を下る。雪にまみれた落葉の上をゆっくり下ると石畳の続く中仙道に降り立った。地形図に記載のない琵琶峠はう少し西へ行くが、そのまま南東へ下る。県道に出るとここが中山道や本陣山の登山口にもなっている。
 県道を東へ歩いて行くと大湫の宿に着く。江戸末期に徳川家茂との結婚で江戸へ下った皇女和宮の一行が泊ったというので歌碑も建っている。昔は宿屋だった名残りの号が残っている。大湫コミュニティセンターという丸森家の旧家を改造した観光案内所に入ると二人の当番の女性が昆布茶でおもてなししてくれた。大湫に着いた途端にだだっ広い冬田が広がった。その田圃が昔は湿地帯だった。灌漑で水稲の田圃にしたんだそうだ。大湫の地名の由来である。湫は湿地、水はけの悪い土地を言う。細久手、長久手、作手など多数ある。その話の飛び火で、春にはシデコブシが咲くでしょう、というと、ええと相槌を打たれて話が弾む。リニアも湿地帯の地下にトンネルを掘るので工事も予想外の水対策でストップしているそうだ。キリが無いので辞した。大方50分くらいは雑談していた。
 その後Pへ戻り十三峠の案内のある所へも行ってみたが峠らしいところはなく引き返した。
 帰路は釜戸駅への県道を走った。途中、雄白稲荷神社への車道が目に付いたので車で登って見た。Pから2分で稲荷神社に着いた。境内の片隅に568.3mの四等三角点足又が埋まっていた。東屋からの展望が良さげであるが視界不良で残念。そのままに下ると竜吟ダムへ別れる道があった。その先はかなり細い県道だった。R19に出て帰名。

殿様街道の歩き方2025年01月09日

 殿様街道をどう歩くか。起点は名古屋城。定光寺迄24km。今の県道61号なので大曾根から尾張旭までは瀬戸街道を歩く。しかし市街地なので割愛。名鉄瀬戸線で旭前で下車、砂川(すがわ)の交差点から東に瀬戸街道から殿様街道が分かれて行く。つんぼ石という。ここからが始まりになる。ここから定光寺迄13kmというから大した距離ではない。
 なるだけ資料で示される旧道を辿りながら森林公園口の柏井坂を上り、瀬戸市へ越える。瀬戸市もはっきり残っているわけではない。東光寺から先の道を左折すると石坂峠への山路の入り口になる。峠に着いたら定光寺自然休養林内の歩道を歩いて見るのも良い。丸根山を経て定光寺山門前で終点だ。そこから引き返し、221mの三角点玉ヶ峰を経て中水野駅から高蔵寺駅乗り換えで帰名する。
 ざっとこんなプランニングである。令和7年3月31日で定光寺の義直公の廟が竣工する。昨年12月には工事中で入れなかった。この機会に廟へ行くことも意味はある。

殿様街道下調べ②2025年01月07日

 鶴舞図書館の検索機で木下信二著『殿様街私考』があると分かった。郷土資料コーナーで見ると、「昭和61年発行、孔版私家版限定65/冊子P54、 愛知県尾張旭市 樹下文庫第25冊」であった。日本の古本屋では5000円の希少価値が付いている。
 中身を見ると、実際に現地を歩いて、地元の精通者や古老などに聞きいて実証する姿勢である。また古文献、瀬戸市史などにも当たって調査は緻密と思える。それでも私考としたのは謙遜だろう。
 中でも、東光寺から石坂峠までの石畳の検証では、江戸時代以来のものではなく、電話線の保護のためと分かった。尾鷲の熊野古道の石畳は多雨地帯ゆえに道を保護する目的で多方面に亘って敷き詰められている。ここでは部分的というところに著者の注意深さが伺える。
 今となっては約400年の歴史の変遷で改修されたり破壊されて道の形は部分的にしか残っていない。それでも古きを訪ねるのはノスタルジアであろうか。

殿様街道下調べ①2025年01月04日

 元旦の山歩きで偶然に知った殿様街道をネットで調べると殿様とは徳川義直が鷹狩で出かけた定光寺の豊かな自然が気に入ってここに墓を作れと作らせた。山路だが生活道路でもあったという。
 今日は1/2に行ったばかりの尾張旭市の一角に残る殿様街道の案内板を見に行った。その後、森林公園を通りながら瀬戸市へ越えて、中水野の東光寺からの山岳古道への道筋を調べた。奥が行き止まりで入り口までは行けなかった。この先が入り口で石畳の道へ続く。そして石坂峠に登る。そこからは丸根山を経て、東海自然歩道に合流し定光寺へ良い道があるはずである。
 別の機会に『瀬戸市史』や『尾張旭市史』などをチエックしてみたい。

初旅は定光寺から東谷山へ2025年01月01日

庄内川から眺めた東谷山
       <JR中央線で定光寺へ>
 JR鶴舞駅は9:38発の普通に乗車。10:06の定刻通りJR定光寺駅に到着。庄内川の右岸から城嶺橋を渡り、定光寺に向かって歩き始める。県道205号線に進むと谷川の左岸側に東海自然歩道が通じているので移る。やや薄暗いが静かで安全だ。まもなく正伝池に着く。ここで東海自然歩道と別れ、県道を進る。定光寺の参道入口は昨年12月に車で定光寺へ行ったので割愛。まもなく喫茶店が営業していたのでふらふら入ってコーヒーを飲む。すでに11時を回った。
      <定光寺から東海自然歩道の宮刈峠へ> 
 店を出てしばらく山里を歩くと交差点の角に西山自然史博物館なる看板がある。その方向へ進むが博物館に寄る時間はない。林道を緩やかに登ると宮刈池(トンボ池)を右に見て、東海自然歩道の宮刈峠(279m)と出合う。立派なトイレとベンチもある。ここからは再び東海自然歩道を歩く。327.6mの山星山(基準点:山星)を越える。やがて大洞峠を過ぎる。中小企業大学校瀬戸校(労働者研修センター)の敷地に上がった。車道と交差するが東海自然歩道を行くと高根山(290m)を越えて森林交流館に下る。正式には「愛知森林管理事務所 森林交流館」という。
       <定光寺自然休養林>  
 この一帯が林野庁管轄の定光寺自然休養林である。丸根山とも言うらしいがピークは不明。ここからは車道と遊歩道が交錯しているので車道優先、時々遊歩道を下った。車道で石坂峠を越える。
観光案内図の看板にはここから「殿様街道」が東光寺へと南下している。付近には名城大学演習林もあり細道が下るが前途不案内なので引き返す。
    <初代名古屋城主・徳川義直が歩いた殿様街道とは>
 ちょっと長いが検索で得た「瀬戸市歴史文化基本構想を活用した観光拠点形成のための協議会」のサイトから「尾張藩主の行列が通ったことから名づけられた。
 尾張藩初代藩主徳川義直が葬られた定光寺への墓参りの道として、また、水野で行われた狩りのために通う道でもあった。初代尾張藩主義直は、藩主として領国内の民情を把握するために鹿狩や鷹狩を盛んに行った。
 特に水野には元和8年(1622)以降20回以上訪れており、その際に訪れた定光寺の景色に感銘を受け、自らの墓所に定めたとされている。名古屋城から定光寺までは、約6里(24Km)の行程で、瀬戸市内では「中水野」交差点から水野大橋を渡って東光寺、そこから丘陵地帯に入って石坂峠までの区間が道として残っている。」とある。
 つまり江戸時代以来の山岳古道である。一度は歩いて見たい。愛環の中水野駅から定光寺へのルートも良い。
 三角点221.1mの基準点名は玉ヶ峰と言う。今回は割愛。下部では基本的に山路の方を歩いた。そして車道に降り立った。地形図では内田町の一角である。愛環の中水野駅には14時10分頃着いた。これならまだ東谷山を明るいうちに乗り越えられると、続行した。 
       <東谷山へ登拝の参道を登る>
 国道と県道を歩き、住宅の並ぶ十軒町に行くと県道の交差点に案内板があった。地形図には東谷山から真東に石段を表わす記号から実線が伸びている。ここへ誘導されて鳥居をくぐるともう境内の一角である。長い参道の石段を登ると待望の東谷山(198m)の頂上に建つ尾張戸神社である。名古屋市の最高峰である。
 平地を歩く参拝ではなく、登って拝むから登拝である。遠くを眺める場合は遥拝という。苦労した末の登拝が初詣になった。500mlの水を飲みほした。これで今日の目的は果たしたので高蔵寺駅へ下山である。神社の横を通って社務所の管理用の車道へ出た。住宅地からR155、庄内川を渡ると高蔵寺駅だ。16:10の電車に乗れた。正味6時間の初旅になった。

巻機山の米子沢に挑む①2024年09月07日

 9/6の夜発で、先日ファンベルトとテンショナーを交換したNV350に乗って遠出である。
       9/7 南魚沼市へ
 目的地は新潟県南魚沼市の巻機山の登山口のある清水。約400kmもあるので夜出てR19の道の駅「木祖村」で車中泊。直前に購入した窓に貼るシェードを設置すると外からの光が入らず快適だ。標高900m以上あるから気温は19℃と涼しい。翌朝は早朝出発、松本市のよしのやで朝定を食べる。梓川に沿うこの道も松本市街を抜けると快適に走れる。安曇野を過ぎて長野盆地を経由、豊野から信州中野で千曲川に沿うR117に入る。これまでに何度も走った。
津南町、十日町市からR253で南魚野へ山越え。
    南魚沼市の鈴木牧之記念館へ
 時間的に早いので塩沢の鈴木牧之の記念館を見学した。著書『北越雪譜』で江戸時代の読者に越後で豪雪に埋もれた人生を送る人間の暮らしを紹介して人気を得た。都会人にサプライズを与えた古典の著者であった。この本は明治時代の『遠野物語』にヒントを与えた気がする。原作者は現地の人がいるがそのままでは二番煎じなので、柳田国男が文語文で編集。これも都会人に山の怖さを知らせ、サプライズを与えた。川端康成の『雪国』の中にも一節が引用されている。
 記念館を辞して、軽油を20リットル給油、道の駅で昼食、スーパーで夜食、行動食を買い出し。汗でべとつくので「金城の里」で入湯してさっぱりした。450円と安い。その後、清水へ。
      三国街道(R291)から清水へ
 R291は昔は三国街道といって上州と越後の国境の清水峠を越えた古道である。日本山岳会が120周年を迎える2025年の記念事業として120本の山岳古道を調査中であるがこの街道もその一つである。
 今も車道は通じていない。街道筋の最奥の清水は狭い山里である。民宿やバス停もある。巻機山登山で賑わっているのだろう。九十九折れの山路を奥まで走ると桜坂駐車場があり、近代的なトイレも整備されていた。P料金500円を払う。トイレの横に停めて車中泊の準備を済ます。16時頃とて下山者が続々降りてきた。帰ってゆくと18時頃には自分独りになる。さすがに心細い。しかも車の中はマフラーの熱がこもって暑い。標高も750m位なのでそんなに涼しくもない。前の車はサイドの窓を開放できたが今度はまったく隙間もないのでバックのドアを少し開けて冷気を入れる。缶ビール一缶と夜食を食うとすることがない。ここはインターネットも通じないからだ。