能登爽秋2016年10月12日

さわやかや独り占めせる三角点(高坂山)

頂上や汗引いてゆく秋の風

登頂をすればいが栗落ちてゐる

頂に一本の山栗が立つ

山里の穭田の段々にあり

平なる里の廃屋秋の風

平なる氷見最北の刈田かな

山頂は白山宮や秋の山(石動山)

境内を浄める婦人秋の声

虻ガ島彼方を隠す秋の雲(灘浦海岸)

秋雲の中に隠れし剱岳

立山の川迸る秋の雨(小見)

秋冷や朽ちし狛犬里帰り(亀谷)

有峰の狛犬朽ちて秋深し

俳句と越の小さな山旅2016年10月11日

 10月9日。所属結社「辛夷」のイベントに参加するため、早朝2時に自宅を出た。今年も天気の良くない連休になった。東海北陸自動車道の長良川沿いの道になると降雨が激しくなった。しかもトンネルが連続するのでワイパーの操作が面倒なほど。白鳥ICの手前では豪雨となった。時速60kmに減速し、4WDにONしておく。路面の水量次第で4WDでもハイドロプレーニング現象が起きる。対策は低速で走るしかない。高鷲ICからやや大人しくなる。ひるがのSAで仮眠。飛騨清見から高山ICまで走りR41へ。交通量は多め。
     大山歴史民俗資料館へ
 富山市内に入り立山方面へ右折、旧大山町から常願寺川を渡ると立山町だ。常願寺川はいつも見る氾濫河原が隠れるほどの濁流である。両岸の堤防はここから始まっている。両岸一杯に広がって海まで突進するようだ。
 下流の雷鳥大橋の河川内の標高は115m、左岸(西)の富山地鉄・月岡駅付近の三角点は86、9mですでに天井川になっている。右岸(東)の立山町側は123mで少し余裕がある。つまり、富山平野の東部は常願寺川の氾濫がもたらした。夥しい土砂は五色が原の鳶山の大崩が原因らしい。旧立山温泉は立ち入り禁止になり多くの砂防堰堤が建設されている。
 いつもの道の駅兼コンビニへは7時半に到着。9時まで時間をつぶす。目的地は亀谷温泉の大山歴史民俗資料館だが、小止みになったので雄山神社に寄る。境内を歩く。隣には富山県立山博物館がある。9時過ぎたので大山歴史民俗資料館に向かった。道を少し戻る。山猿が数匹民家の屋根に上ったり道路に下りて何かやっている。常願寺川にかかる小見への橋を渡る。砂防堰堤が滝のようになって奔流する。地響きが聞こえるようだ。小見から亀谷温泉へ右折。九十九折れの道を登りきると有峰林道ゲートの手前が目指す資料館だ。
 今まで登山の帰りに温泉に入湯することは度々あってもここへ寄ることはなかった。時刻少し前だが入館を許された。いきなり伊藤孝一が有峰がダムに沈む前に買い上げた狛犬を見たいと来観の意思を告げた。奥に展示してあるが順路と言うものがある。右回りに説明を聞きながら色々質疑応答して学ばせてもらった。
 想像した以上の山や向きの資料館だった。
 第一展示室では宇治長次郎、金山穆韶(ぼくしょう)、播隆上人が大山町の三賢人として顕彰されている。
 第二展示室は常願寺川の治水と発電、
 第三展示室は有峰、大山地域の鉱山・恐竜となっている。念願だった狛犬は全部で八体展示。太めの犬くらいの大きさで木質系の荒削りな造形である。円空仏のイメージにそっくりである。すると有峰の住民の先祖は単なる農民ではなく、落ち武者だろうか。円空は木地師とされているが、流れ者の木地師に彫らせたものか。
 放射性炭素年代測定という科学的検査で古いものは大体1300年頃と判明したらしい。いずれもひびが入り朽ち始めていることは確かである。パンフレットには
サル 2体 1334年鎌倉末 ヒノキ科
シシ  2体 1452年室町前 軟松類
ヌエ  2体 1531年戦国期 軟松類
クマ  2体 1814~1879年 江戸後~明治初  モクレン科
とあった。
 これを大正9年にダムに沈む前に名古屋のお金持ちで登山家の伊藤孝一が購入したという。一旦は名古屋に持ち出され、疎開で長野県の赤沼家へ一家とともに狛犬も移転した。これを赤沼氏が買い取って松本市民俗資料館に寄贈したという話。それを松本市から富山市は返還を希望して里帰り(有峰は水没したのでJターンというべきか)を果たしたのが平成になってからのことだった。
中々に存在感のある狛犬であった。結構長々と話をした。次の目的地の富山市電気ビルに走った。
      富山市俳句会へ
 13時から年次大会に入った。結社賞などの発表、投句の選評、その後の懇親会、句会など順調に運行された。40歳で入会したころは初代主宰の前田普羅から直接指導を受けた俳人もいた。年々鬼籍に入り、来賓席にならぶ古参俳人は当時の数名から2名にまで減った。1人は2代目主宰の中島正文(俳号:杏子、日本山岳会会員で山岳史家)の直系の俳人である。3代目の福永鳴風を支えた俳人たちが基盤を守って、4代目の現主宰・中坪達哉を支える。俳誌も現在は1080号を数える。来年は主宰継承後10周年となる。
 この10年間には東京のS女を病死で失い、続いて片腕というべきY氏の急死という波乱にも見舞われた。いずれも結社を支える実力は互角の有力俳人だった。3代目の福永鳴風は昭和55年「花辛夷守らせたまへ普羅杏子」と詠んで、指導者に徹する意味でレッスンプロを自認し、継承の決意を示した。鳴風が育てた若手4名のうち2名を失った。将来の発展のための布石を打つ時期が来たと言える。句会後は散会となる。
       氷見市/七尾市・蔵王山(点名:高坂山)へ
 10月10日。本当は7日から8日は毛勝三山の猫又山に登山の予定だった。天気不良、膝の痛みを警戒して大人しくした。10日は降雨は逃れそうなので昨年と同じ能登半島の1等三角点の山・高坂山507mを予定した。
 ホテルを出たのは寝過ごして8時40分となった。R8からR415へ行き、氷見市に向かう。なるだけ富山湾沿いにドライブした。氷見市の北部の阿尾から県道306号平阿尾線に入り七尾市との境界に近い平に向かった。平は氷見市最北の山村であった。つまり富山県最北でもある。入善町や朝日町とほぼ同じ。
 平とは名ばかりで傾斜地に山家が建つ。地形図では20戸を数えるが人の姿は殆どない。こんな僻村でも人が住んでいた。富山県知事選挙の公報があるからだ。どこにも登山口を見いだせないまま石川県まで走ってしまった。林道からは富山湾を見下ろす。雪の立山連峰など素晴らしいだろう。
 平へ戻って古老に山の話を聞くと意外なことを言う。三角点か、有名らしいなあ、大阪や京都からも大勢来る、この前は80歳の老婦人も来たよ、と言うではないか。同好の士である。この山はねえ、1等三角点という希少価値があるんです、と言うとおおそれだ、と答える。歯はほとんどないがはっきりしている。道はなあ、笹を刈ったと聞いている、剣主神社に車を置いて行けや、と教えてくれた。どうやら登れるらしい。
 神社の境内に駐車。12時10分。舗装された農道を登る。舗装が切れた辺りからは棚田の風景が広がったが休耕田もある。登山口の表示を探すがない。農道から山に通じそうな刈り払いがあったがなぜか足が進まなかった。
 高坂山は目前にあり、東尾根が伸びている。農道から草深い踏み跡に分け入り、尾根の根っこまで近づいて地形図にある破線路(用水路沿いの踏み跡)を歩きながら尾根と落差が縮まったところで杉の植林の中を尾根に這い上がった。12時28分。尾根には微かな踏み跡があった。但し倒木もあり度々道を外した。ヤブっぽくなると道に戻る。すると七尾市側の良い道と合流した。広くて浅い沢のようないわば街道を歩いた。山頂が近づくと再び細道になる。13時登頂。3m四方が刈り払われているきれいな山頂である。1等三角点本点である。周囲は雑木林で眺望はほとんどない。25分滞在後、平へ30分とある道標のある良い道を下った。最初は南尾根の樹林の道から山腹を横切り、芒の生い茂る湿地帯を行くとさっきの農道へ出た。何だ、この道か。印は何もない。Pへ着いたのは14時過ぎ。2時間ほどのハイキングだった。
     石動山(せきどうさん)を散策
 まだ時間があるので石動山へも行って見た。そこは山岳信仰の拠点だったという。最高点の564mの大御前に登拝してみた。小さなお社があった。白山宮という。そこから城跡を経て下山した。樹林の隙間から富山湾が見下ろせた。結局医王山、宝達山と来て本当は石動山に置くはずだったが先に神社があって三角点設置はならず、高坂山になったのだろう。資料館のスタッフは白山宮ははくさんぐうで良いが、白山をしらやまと言った。昔は加賀能登も越の国であった。だから越の白山(こしのしらやま)と呼んだ。相当古い歴史の山のようだ。
 さて、思いは果たした。県道306号を戻ってまた富山湾沿いに走った。虻ヶ島からの立山連峰の眺めが素晴らしいと宣伝する表示があった。
http://www.info-toyama.com/image/index.cfm?action=detail&id=1124
このサイトを見ると確かに素晴らしい眺めだ。剱岳を中心に左に毛勝三山、右に立山が見える。湾に浮かぶ島が前景で立山連峰が借景になっている。こんな時期に来たいものである。今日はあいにく厚い雲の中だ。
 R160をひたすら走る。いろいろな観光施設が新しい。R160からR415を走り高岡市に着いた。R156から砺波ICで北陸道へ。今回は米原経由で帰名。
 これで『一等三角点全国ガイド 改訂版』(ナカニシヤ出版)に収録された1等は愛知県、岐阜県、奈良県、富山県、福井県は完全踏破、石川県は穴水の河内岳、輪島の下山村(三蛇山)と鉢伏山、七尾の天元寺(遍照岳)、宇出津の沖波山、小松の清水山が未踏。離島の1等3座は行かない。三重県は大平尾村4.5mのみ未踏。長野県は大物では四方原山、長倉山、八風山、が残る。

能登半島は秋時雨2015年10月12日

 10/11(日)は毎年恒例の所属俳句結社(本部・富山市)の年次大会である。その前後に登山を組み込む。天気予報ではあいにく、よろしくない空模様になっている。それで本格的なピークハントは止めて、10/12のみ能登半島の1等三角点のピークハントとした。殆ど車で登るからドライブ登山になる。

       神岡町はノーベル賞受賞で祝賀ムード
 10/11は朝から雨。高速道路も速度制限ありなので小牧からR41で北上する。ついでに神岡町の道の駅に寄った。小さな谷間の町はノーベル物理学賞を受賞した梶田隆章氏の祝賀ムードで一杯だった。狭い商店街の間には高く祝賀の看板を挙げ、商店の入り口にも受賞を祝う張り紙が目立った。道の駅のPは朝早い時間にもかかわらず、お祝いの観光客のマイカーで埋まっていた。梶田氏の功績は人類の生活にどんな利益をもたらしたものか、何度読んでも理解できない。交通量は多めなので会場へ急ぐ。

       富山市の電気ビルへ  
 13時過ぎ、大会が始まる。40歳で入会したからこれで26年目になる。毎年のように出席してきた。多くが高齢者なので将来が心配になるが、それはどこでも同じこと。山岳会も高齢化を心配しているが決め手はないのが現状だ。それにしても、顔ぶれは5年単位ですっかり入れ替わる気がする。知っている人は亡くなったり、退会されたか。知らない人が増えているからだ。
 辛夷賞などを発表。その後の主宰の心ばかりの講評は恒例になっているがこれがあればこそ会員の帰属意識を繋ぎとめられる。拙作は珍しく一句が佳作に入った。

 淡白なただそれだけの鱧の味

主宰の講評・趣旨・・・京都を代表する味覚として余りにも有名。裏話的に言えば、京都は食材が豊かではないから骨きりのワザで売っているんだとか。富山湾は魚介類の生簀というほど豊富なのでわざわ高いカネをだしてありがたがる人はいない。名古屋でもそれほどの人気ではない。京都人には見せられない俳句。

 大会後は懇親会になる。横浜市、横須賀市、前橋市、八王子市など関東圏からの参加者が多かったのは北陸新幹線効果だろうか。それぞれミニスピーチを披露。最後は地元俳人の恒例の八尾の風の盆の踊りでしめる。その後も残心句会があり、終わったのは8時過ぎ?だったか。
 山の句材は高齢女性には縁が無いために得点は殆ど入ったためしはない。今回は2点もらった。沢登りでは焚き火がありがたいので目に見えるかぎり流木や枯木をかき集める。そして燃やし尽くす。パンツも濡れるので尻も当てて乾かす。それを詠んだ。但し、枯木は冬の季語なので木切れか木っ端がよろしいとの講評があった。

 あるだけの枯木を燃やし夜長かな

       能登半島は秋時雨
 10/12は雨か、と思いきや晴れている。しめしめと思いながら、6時30分に富山市のビジネスホテルを出る。R8から北高岡ICを経て、能登半島へ行く高速道路に入る。ところが能登半島の道は縦横に迷走気味でナビの必要を感じる。地理勘がないので道路地図と首っ引きとなった。その上に時雨模様で大雨が降ったり止んだりする。日本海に突き出した半島の気象は変化しやすいようだ。11時にようやく、宝立山トンネルまで来れた。

        宝探しのような三角点探し
 そこから宝立山469mの1等三角点までは地道に入る。舗装道路だったが電波塔への分岐に間違った道標があり、未舗装の道だが、ぬかるみもあって、4WDでもスリップしてヤバイ感じ。やっと高みに行くがあるはずが無い。道標は全く反対を示していたのだ。結局、地形図をよくみれば簡単だった。分岐からわずか2分で登頂した。展望はない。しかし、能登半島最北端の1等三角点に来れて満足する。大降りになったので輪島市の鉢伏山、氷見市の高坂山は断念した。成果は1座で終わった。
 帰路も迷走した。徳田大津JCTから南の幹線道路は金沢市系統と富山県系統に別れているからだろう。北ではのと里山海道と能登自動車道が重なるのにここから南はのと里山海道は金沢市へ行く。うっかり、のと里山海道を行くと金沢市に行くと分かって、R415から氷見市へ迂回し、能登自動車道へ戻った。
 迷走気味だったが、雲に隠れがちな立山連峰らしい山なみも見えた。半島から眺めるのも素晴らしいだろう。次は立山に雪がある頃が良いだろう。

恵贈!安藤忠夫著『底本 笈ヶ岳を行く』2015年09月07日

 9/6に山から帰宅すると、郵便受けに分厚い本が投函されていた。開封すると表記の本だった。
 著者の安藤氏は県立春日井工業高校の教員を長く勤められた。私家版だが、自製でもある。自分で製本を趣味としてやっている。近頃珍しい箱入りの布張りの美本に仕上げてある。日本山岳会、日本山書の会を通じても、山書の収集家は居るが製本にまで乗り出すような人は居るまい。
 笈ヶ岳は飛騨・越中・加賀の三国境に位置する1840m級の低い山に過ぎない。隣の一等三角点の大笠山の方が山容でも立派に見えるのになぜか、登山者の熱い視線を浴びてきた山だ。それは深田久弥の『日本百名』のあとがきの40座の中の1座に入ったからであろう。登っておれば日本百名山の1つに入れたほどの名山というわけだ。
 安藤氏は笈ヶ岳に1986年5月11日が初登であった。以来、2004年までの19年間にわたって研究的に各尾根ルートをトレースしてきた。その度に記録を残した。もちろん文献収集と研究は安藤氏の本来の志向である。本書はその集成である。
 山は数多あるのになぜこんなにも打込んだのか。名山なのに登山道や避難小屋もないことで、未知の探求心を満足させてくれたのである。元々、安藤氏は冬の北アルプスの単独登攀をエリアにしてきたが、何分、北アは困難であるが登山者が多い。情報も過多でもある。だから北アルプスに登る力がないから1000mも低い笈ヶ岳で代償として登山しているわけじゃないのだ。

 安藤先生との本を介した交友は長きに亘る。『名古屋からの山なみ』、『名古屋周辺山旅徹底ガイド』の正続では編集者になり、私も委員としてお手伝いした。平成7年に拙書『ひと味違う名古屋からの山旅』を共著で企画した際、安藤氏も高峰山、銚子ヶ峰、今淵ヶ岳、鑓ヶ先、横山岳、続編では、虎子山、権現山、平成山(へなりやま)などを引き受けていただいた。本書を読んだ友人等に感想を聞くと安藤先生の文が一番人気だった。登ること、書く事、製本すること。今西錦司、深田久弥、串田孫一ら先達もびっくりの山道楽を極められたのだ。
 こんなに優れた本なのに一般刊行されないのが惜しい。一山だけに絞ったいわゆる笈ヶ岳オタクにしか需要がないから商業ベースには乗らないのだろう。登ったらもう終わりで、次の山へと心変わりしてゆくのが一般的登山者というもの。
 『日本百名山』朝日文庫版の解説者として今西錦司が良い山だと知っても、秘すべきが山と私の約束だ、という登山家もいる。先輩の故・上田正さんは、知られざる良い山を本で紹介するのは手塩にかけて育てた娘を嫁にやる心境だとも表現した。山屋とはかくも複雑な心情である。すると安藤氏も箱入り娘を嫁に出す父親といったところか。大切にしたい。

http://koyaban.asablo.jp/blog/2011/09/05/6089703

http://koyaban.asablo.jp/blog/2012/10/01/6589916

http://koyaban.asablo.jp/blog/2013/10/15/7009823

敦賀の歴史と俳句紀行2015年03月09日

これが敦賀富士でしょうか
  敦賀市のシンボル

野坂岳高みに残る雪多(さは)に

春雲(しゅんうん)に隠されてゐる野坂岳

  野坂岳を借景として設計された江戸時代の柴田氏庭園を訪ねる

庭園の彼方に聳ゆ斑雪山(はだれやま)

春の池水面に跳ねて波紋かな

  水戸天狗党は尊王攘夷の大義を掲げて、八百余名が大砲
  などを持ち臨戦態勢で上京。1864年、水戸市から48日間
  をかけて、清内路峠、蠅帽子峠をも越えて越前を経由して
  大雪の敦賀に着くも幕府方に降伏。1865年3月、
  来迎寺(らいこうじ)の処刑場で353名が斬首された。
  2年後の1867年に大政奉還、王政復古、明治維新となった。
  五万図にも武田耕雲斎等墓と印刷され人々の脳裏に
  永遠に刻まれた。夜明け前の日本を思い、命をかけた
  ロングトレイルだった。
  (な忘れそは忘れないで下さいの意。てふはと言うの意)

春浅し水戸な忘れそてふ烈士塚

  水戸烈士の篤い思いを大切にする梅の名所水戸市からの
  献木の梅が境内に植えられている。

日本を見守りたまへ水戸の梅

深田久弥山の文化館2014年10月16日

加賀温泉駅に近いスーパーの屋上から富士写ヶ岳を眺める
 北陸の山と俳句の旅も今日で終わる。中々行けない加賀市を回って帰名することにした。以前にも再び三度訪れたことはある。

 『日本百名山』ですっかり有名になった深田久弥は石川県加賀市の紙屋の生まれだった。長男だったが文学に目覚めたために家業は継がず作家になった。
 昭和21年、43歳で神奈川県浦賀港に復員船に乗って帰国。船内では田端義夫の「かえり船」が流されただろう。

  みな大き袋を負えり雁渡る    西東三鬼

文学上の同志として、児童文学者の北畠八穂との出逢いと別れ、初恋の志げ子との再会から八穂を捨てて志げ子と結婚。昭和22年、離婚届けと結婚届けを出す。そんな人生でもっとも波乱のあった昭和の戦前戦後を生きた。

一家が水入らずで過ごしたのは「湯沢の1年」かも知れない。湯沢には志げ子夫人が疎開していた。復員するとすぐに湯沢に向かったという。八穂を裏切ったことで鎌倉文壇から追われるという痛切な出来事があった。もう普通に作家としては生きて生きない。但し、深田には山があった。山の文を書いて生きていく。湯沢の1年はそう決断せしめただろう。

 http://koyaban.asablo.jp/blog/2013/05/21/6817509

 湯沢に疎開中、朝日新聞から小説の注文があった。それで郷里の加賀市へ帰った。そして昭和39年、『日本百名山』が刊行される。何度かの名山ブームを起こして名著になった。今年は刊行後50周年の年回りという。ベストセラーかつロングセラーになったのだ。
 富士写ヶ岳は深田久弥の初登山の山だった。942mと標高も低く、マイナー山であるが、富士形の姿は美しい。文化館で教えてもらったJR加賀温泉駅からのパノラマ写真を参考に撮影ポイントを探ったが、駅の隣のスーパーの屋上がもっとも均整が取れて富士に似た形に見えた。台風前で天気が今一だったのが残念だ。

北陸・負釣山に登る2014年10月16日

 10/11(土)に登山する予定だったが、名古屋から早朝に出ても負釣山の登山口には相当時間がかかる。登っても午後遅くになりガスが出て展望も良くないだろう。というので、美濃の母袋烏帽子を行きがけの駄賃として登った。それで10/12(日)の午前中となった。実は午後から俳句結社の年次大会への参加を控えているのであまりゆっくりもして居れない。
 入善駅前の宿は6時半に朝食を済ませた。同宿の若い男性は黒部峡谷に行くために午前5時に出て行ったとか。宿を出て県道60、63を走る。ついでに「水の小径」にも寄る。入善町出身の歌手・津村謙のヒット曲「上海帰りのリル」の歌碑があるところだ。37歳で夭折したため今では忘れられた人であるが、昭和歌謡の一角に燦然と輝く。
 道草を食いながら登山口へ走ると、温泉施設があった。バーデン明日(あけび)という。そこを過ぎるともう人家はなく、狭隘な谷間の山道に入る。猿の大群が日向ぼこをしていたらしく、ぞろぞろと山奥に逃げていった。この山は野生に満ちた予感がする。
 登山口まで舗装路で順調に走れた。余り時間がないので、ザックの中身はおやつ、水、雨具の上着のみに絞って軽くした。普段は持たない軽ピッケルを携行して、音の出る道具を兼ねた。7時半に出発できた。登りは90分、下山は60分の予定とした。登山口からしばらくは林道だがすぐに尾根の山道になった。急峻な尾根だがよく踏まれており歩きやすい。ピッケルで樹幹を叩き、岩を叩いて音を出した。熊よけになるかどうかは知らないが不安を消すためだ。
 1合目、2合目と早いピッチで登山道の指標があったが休むことなく登り続けた。登るにつれて尾根が立って来た。7合目でベンチがあり、ついに小休止した。北アルプスから日本海までのいい眺めを見ながら水を飲んだ。少し下って再び急な登りが続く。
 8合目、9合目を越すとついに山頂に到達。午前9時5分だった。この達成感があるから止められない。
 山頂からの眺望は7合目の比ではなかった。剱岳、鹿島槍、など黒部川の深い山々まで見えた。日本海側の眺めも素晴らしい。
 黒部川の沖積平野が広がる。ここは典型的な扇状地である。その大半は入善町のためにあるような形である。入善町には高い建物は見られない。殆どが水田であろう。穀倉地帯なのだ。通りでご飯が美味いわけだ。
 昨日の園家山(点名は 岨之景(そばのけい) )も視野に入っている。黒部川の夥しい土砂が海浜を形成し、対馬海流で北へ打ち寄せられて、且つ風もあってこのような砂丘になったものか。
 山頂滞在は約15分。水を飲んだだけで下山する。慌しいが仕方ない。約1時間で下山。下山中にも多くの登山者とすれ違った。Pでは女性の単独行が準備中だった。
 登山口を後に黒部ICを目指す。途中に蕎麦の白い畑を見つけたので撮影した。多分水田からの転作だろう。
 それでもまだ11時なのでバーデン明日に入湯した。ここも急いで汗を流してさっぱりしただけである。登山スタイルからワイシャツスタイルに着替えしていよいよ年次大会会場の電気ビルへ急ぐ。高速を飛ばし、駅前の投宿のホテルに車を預けた。
 年次大会は長老級の古参会員がめっきり減って淋しいものだった。その上に中堅会員も病死してしまった。反面新しい人もいるので新陳代謝があったということだろう。女性が非常に増えて男性が極端に少なく感じた。これも時代だろうか。予定通り粛々と進行し無事終えた。

入善町の砂丘の1等三角点・園家山に立つ2014年10月11日

 郡上市の白鳥ICから北上。高鷲村付近でやや渋滞した。その後も断続的に渋滞気味になったのは3連休ということだろう。天気もすこぶる良い。次の目的地は入善町の1等三角点の園家山17mである。
 国地院の地形図で示すと
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 入善町の南の外れなので、黒部ICから出るつもりが一つ手前の魚津ICから出てしまった。後の祭りだがR8を走って黒部大橋手前の西小路から黒部港に向かう。YKKの大きな工場が忽然と現れる。アルミ精錬には大量の電気を使うから電気の缶詰とか電気の塊とも言う。電源に近い土地に立地するのも故無しとしないのである。
 海岸に近い県道を走って下黒部橋を渡るとすぐに園家山だった。ここも以前に1度だけ来た。1等三角点があるゆえにこんな丘の三角点にまで見逃せないのである。
 標高17.3mの園家山は砂丘の頂点にあった。Pから徒歩3分の森の中の砂地の道を辿るだけだ。そこからは松に囲まれて高い山は見えにくい。少し移動すると隙間から北アルプスが見える。
 地形図の縮尺を20万にして、南東に位置する1等三角点の白馬岳との距離は約37km、北東の1等三角点の青海黒姫山とは約35km。約40kmに一個とされる三角点網の範囲に入る。
 園家山は数ある候補地の中から砂丘という不安定な場所にもかかわらず、1等三角点の栄誉をもらったのは実に三角測量の好位置にあったという他ない。だから、入善町や黒部市からは北アルプスの後立山連峰がほしいままなのである。富山市ならば立山、剱岳岳、薬師岳が並ぶが、こちらは向こう側が信州というので格別な気分がする。
 山岳史家の中島正文(先祖が黒部奥山廻り役、JAC会員、俳人)をして白馬岳の異称たる両界岳を探し当てたのはむべなるかなということか。また、所属の俳句結社「辛夷」の入善町や黒部市の作者から山岳詠の佳作が続出するのも納得したのである。
 園家山の海岸よりは松林の中の砂地の上にキャンプ場が開設されている。ちゃんと水場、トイレの設備もある。親子風のキャンパーが楽しんでいた。海岸に出ると日本海に沈む夕日が印象的だった。明るいうちに、と入善駅に近い宿に急いだ。

黒部の山旅Ⅴ2013年08月22日

祖父岳から雲の平を前景にした薬師岳!
 8/17、薬師沢小屋は少な目の宿泊客で快適だった。8/14の夜は2人のスペースに3人が寝た。昨夜は悠々と寝られた。朝食後は5時40分に出発。7時40分には太郎平小屋へ登り返す。そして8時10分、折立へのロングトレイルの下りが始まる。今日も多くの登山客とすれ違う。鷲羽岳登頂の満足感と黒部源流は完全に踏破できなかったが、祖父沢に迷い込んでの遡行もひと味違う思い出になる。
 10時50分折立に到着。登山口で早速ドリンクを買って飲む。体にしみこむ美味さである。重い足でマイカーに向かう。たちまち炎暑に戻った。残暑なんてものでなく、炎昼そのものである。着替えして、折立林道を走り、ゲートの近くにある亀谷温泉に入湯して汗と汚れを落とした。髭も剃って山賊みたいな顔をリフレッシュする。
 温泉旅館内で法事が行われていた。掲示された氏名に覚えがあるので少し目をやると知人のY氏だった。取り込み中とはいえ、少し挨拶して立ち話もした。亡母の一周忌だった。
 その後は富山市内で食事を済まして、富山県立図書館に向かった。鷲羽岳の山名に疑義を訴えた中島正文はかつては津沢町郵便局長にして、私立図書館を持つほどの富裕な家柄だった。後に県立図書館長にもなった。死後、蔵書が寄付されて中島文庫として整理されており、その目録を拝読するのが目的で来館したのである。
 深田久弥が『日本百名山』にこのエピソードを取り上げなかったら、中島は地方の一名士、山岳史家として埋もれてしまったのではないか。同じ北陸人、同じ俳人、山の話が好きであり、文献渉猟が好きな深田久弥には放って置けなかっただろう。
 図書館の庭の一角には句碑も建立されている。実は中島は戦前からの日本山岳会会員であると同時に前田普羅に師事した山岳俳人でもあった。戦前戦後は普羅の生活の援助もしていたようだ。死後は俳句雑誌「辛夷」の発行を継承した。
 句碑は「夏山や地獄を抱きて紺青に 杏子」。杏子は中島正文の俳号で「きょうし」と読む。立山の地獄谷辺りの嘱目吟だろう。夏山というのは当然立山のことで、紺青というほどに澄み切った空の色と地獄谷との対比のすごさを味わう。「地獄を抱きて」の表現が秀逸。

 帰路は高速は渋滞必至なのでR156経由にした。白山の山ふところを窓全開で快適に走れた。白鳥から高速に入り帰名。一宮JCTで若干詰まったが後は順調に走る。登山もロングドライブも無事に終えた。

黒部の山旅Ⅳ2013年08月21日

鷲羽への途中から見える槍穂高連峰と鷲羽の池
 8/16も快晴である。三俣山荘はよく眠れた。快適な小屋だった。槍ヶ岳がよく見える。今頃は多くの登山者が行列を作っているだろう。5時22分に小屋を出発し、鷲羽岳に向かう。最初は背丈ほどあるハイマツの海の中を歩く。鷲羽乗越に下り、鷲羽岳への登りが始まる。風衝地の所為か、もはや草木は生えず、ガレの上のジグザグの登山道である。急速に高度を上げて、6時50分、約1時間半で登頂である。
 山頂は360度の大展望である。鹿島槍の双耳峰は良くわかる。薬師は朝日を浴びて雄大な山容を誇る。黒岳は存在感がある。黒部五郎岳はバランスのとれた山容がいい。笠ヶ岳は端正な姿である。槍穂高連峰は北アルプスのシンボルであり、鷲羽もかなわない風格がある。北アルプスを睥睨する山である。遠く北は白馬岳が霞み、黒岳の肩越しに立山剱岳、南は御岳も見えた。北アルプスの中心に立つ気がした。越中側から登れば黒部の最奥の山であった。
 遙々と黒部川を遡行してきた。眼下に広がる黒部源流と草原の台地、黒木の森林がある。きらめく水の流れを溯ってきた。
 7時45分山頂を辞す。ワリモ岳を経て、ワリモ分岐、岩苔乗越へは8時22分着。2009年の読売新道縦走では風雨のために、ここで鷲羽往復を断念した。祖父岳に登り、雲の平山荘へは10時半着。この山荘は天水に頼ると言う。500円のコーヒーを注文して大休止する。雲の平を辞して、木道を足早に歩く。雨が降らないために折角の高層湿原の風情が失われていた。湿地がひび割れていた。
 13時25分に薬師沢小屋に到着。これで一周したことになる。今日の内に太郎小屋を経て折立に行くにはきついのでもう一泊とする。

  山名夜話ー鷲羽岳と三俣蓮華岳の山名談義

 戦前の『山と溪谷』六七号(昭和一六年)に山岳史家の中島正文は「二つの鷲羽嶽」という論考を投稿した。要旨は鷲羽の池のある二九四二mの鷲羽嶽と飛騨、信濃、越中の三国境にある二八四一mの鷲羽嶽、そして「少々遠慮して三俣蓮華嶽といふ小さい別名を添付して居る」と指摘した。
 彼は黒部奥山廻り役の研究家であったからこんなことを見逃すわけにはいかない。実は三百年も前の史料に「鷲ノ羽ヶ岳、三国のからみ」と明記されているというのだ。現在の鷲羽嶽は東鷲羽嶽と呼び、鷲羽の池も単に池と呼ばれ、のちに龍池となり、東鷲羽嶽も龍池ヶ岳と命名される変遷を説いた。
 明治四十三年に日本山岳会の小島烏水らが信州側の猟師を伴って近代登山の時代が来るまでは三国境は鷲羽嶽、現在の鷲羽嶽は東鷲羽嶽で定着していたのであった。
 大正四年の地形図には正しい山名が記載されたが上条嘉門次の説明をもって陸地測量部に間違いだとして攻撃したことがあったという。日本山岳会の大御所からの攻撃を受けて昭和五年には現在の山名になり、そのまま定着したのである。おさまらないのは富山県側の役所であった。公文書には三俣蓮華嶽の山を鷲羽嶽とせねばならない。括弧書きは苦し紛れの処置だった。そこで池のある鷲羽嶽は認めてしまった結果地形図の中に二つの鷲羽嶽が記載されたという顛末である。現在はその括弧書きもとれて、三俣蓮華岳になった。
 後年深田久弥は『日本百名山』の鷲羽岳にこのエピソードを紹介している。目分量で、60%から70%は山名のエピソードに割いているから如何に紹介したがっていたことか分かろう。
 中島正文の母は黒部奥山廻り役の古文書を読解して息子に聞かせたという。根っからの山岳史家だったのだ。