八事裏山から八事富士見の志賀山へ歩く2023年01月20日

 今日は八事裏山を経めぐるウォーキングで八事裏山と志賀山の二つの三角点をつないで歩いた。

 15時13分自宅付近の音聞橋からGPSをONして歩き出す。昨日と同じ植田川に沿って歩く。北大坪の交差点から左折、車道から入口を探りながら三角点「裏山」へ入る。落ち葉がふわふわ溜まる山道を行くと三河辺りの踏みならされた低山より新鮮である。
 三差路を右に振り新しい民家が建つ辺りから地形図の破線路を探る。道が無い。
 三差路に戻って左折。直ぐに右へ踏跡が登って行く。そこを辿ると三角点「裏山」はすぐだった。西へ振り急斜面の道を下った。親切にもフィックスロープが掛かっている。又三差路に出た。右へ振り登ると小さな池がある。昔は谷を堰き止めたため池だったのだろう。
 これが愛知県に多い杁(いり)だろうか。水量を調整するものは底に埋まっているので見えない。下流で溝になったところがあった。名古屋市にはもう田圃はないので名残りである。
http://www.asahi.com/special/080804/NGY201107040009.html
 そのまま登り上がると分岐に着く。小さな峠を越えると湿地がある方へ行ってみた。なるほど、"八事裏山の尾瀬"とでも言いたいような開けたところである。弁当を食うにも良い。緑なす時期、花が咲く時期に再訪したい。道標の"人間地獄"の方へ行くと尾根になり、崩れやすい地形になった。危険なのでこんな地名にしたのか。
 先でまた元の峠に戻った。GPSの軌跡を見ると裏山を周回した訳だ。ユーカリの畑に行くと車道に出た。東山テニスコートの前を通り、下って登り返し八事富士見の3等三角点「志賀山」をチエック。八事経由で地下鉄に乗らず徒歩で帰還。10km,3時間以上かかった。

阿智村の東山道から富士見台へ2022年12月10日

 日照時間が1年で一番短い時期なので出発は予定より1時間半早めました。阿智村の園原は恵那山の東の谷底の村なので日没も早いという計算です。5時起き、現地は7時30分着。すでに10台の先着者がいました。
 7時36分出発。神坂神社の標高は1050m。右手の登山道を歩き、ブナの木コースとの分岐を右にとる。カラマツコースは急登に次ぐ急登でした。ふうふう言いながら登り終えると1471mの平坦な山に着く。標高1400m付近のから5㎝程度の積雪。日当たりの良い所は無雪でした。気温は高く凍結はなかった。スリーシーズン用の登山靴でもOK。まだアイゼンは要らない。
 1471mの平坦なコブを過ぎて鞍部の分岐に着いた。地形図で確認すると三角点を見てない。また登り返した。登山道に露出しているわけではなく、隣の笹薮の盛り上がりが臭いとにらんだが行きがけなので藪の中の三角点探しはパスした。
 鞍部の標高1450mからゆっくりと標高をあげながら1600mの万岳荘まで登る。1570m付近は沢をまたぐので水も得られる。植生も中央アルプスの一角らしく針葉樹も出てくる。針葉樹林の向こうに建物が見えた。万岳荘だ。閉鎖中で静まり返っている。
万岳荘まではマイカー登山者も来ていました。
神坂山は登山口が分からずパス。実は万岳荘の手前にありましたが道標はなし。
 11時20分、富士見台へ登頂。既登の山ですが初めて登った気がする。登山者も思いがけないほど多数いた。360度の大展望でした。
 白山から御嶽、乗鞍、穂高、美ヶ原、八ヶ岳、中ア、南アと名山がずらりと並んだが壮観の一言。11/27の松沢山からは真っ白な南アルプスでしたが雪が解けて黒っぽい。しかし白山は文字通り真っ白で喜ばせた。
 富士見台から1720mのコブの西を巻く道から神坂峠に下り、神坂峠の遺跡を見学。ここにも8台くらいのクルマがあった。
 万岳荘には車道の東山道を歩いて戻り、園原へ下山。帰路はブナの木コースを下った。登りはカラマツコースだったがこっちの方が半分くらいで短い。それにブナの木コースは東山道ではない。
 15時頃に神坂神社のPに戻った。まだ明るかったが日は西に傾いている。予定より1時間30分早めに出て30分早く下山した。早出早着。お陰で時間の余裕ができて、阿智村村営の「湯ったりーな昼神」に入湯。800円。その後R153で帰る予定だったが長時間の登山で疲労したので園原ICから帰名。

例会~来年の干支の山2022年12月08日

 12/7は山岳会の例会でした。11月に入って山行回数が増えて山行報告もしっかり聞くことができた。まだあんまり本格的な登山は少ない。来年こそは再開されるだろう。
 来月の予定は1例しか書き込まれなかった。1月ということもある。今年は雪が遅いので雪山の話も出てこない。例年なら年末は八ヶ岳の小屋で年越しもあった。しかしそれも声が上がらなくなったのは高齢化もある。
 低山、里山でも無数にあるので山には不自由はない。そういえば来年の干支の兎年に因んだハイキングの話も出た。岐阜の金華山の近くに兎走山があるという。卯辰山も候補になる。川上山の別名は兎番場ともいう。昔はオサンババと言っていた山は中山の正式名称が定まった。しかし別名は兎馬場(うさんばば)がなまったという。
 手応えのある山としては、奥越の赤兎山、南アルプスの兎岳(赤石岳と聖岳の中間)も良い。長い尾根が登路に使える。
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 遠くの東北に行くと、光兎山、屹兎屋山などいずれもいずれも1三角点の山だからストックにある。

金華山の事故多発2022年11月26日

 岐阜市の名山である金華山で事故が多発している。昨日も「警察によりますと25日午後4時ごろ、岐阜市にある金華山の登山道「めい想の小径(こみち)」の山頂付近」で死んでいたという。
 
https://www.gifu-np.co.jp/articles/-/114886
 岐阜新聞によると「県警がまとめた統計によると、昨年金華山では14件の山岳事故が発生した(前年比5件増)。今年に入ってからは、3日までに9件発生し、6人が重軽傷を負った。重傷者は全員が下山中に事故に遭っており、「めい想の小径(こみち)」と「百曲りコース」が中心。つまずきやスリップによる転倒が目立つという。

 今月2日には、名古屋市から訪れた大学生らがめい想の小径付近を下山中、岩場で足を滑らせ、約10メートル滑落、重軽傷を負った。大学生らは軽装で、登山道ではない垂直に近い谷のような地形の岩場を下っていた。」
 コロナ禍で長い間のブランクで体幹が狂っている可能性は高い。石の階段、木の根っこなど滑りやすい箇所はゆっくり慎重に下りたい。

③四国の山旅~小島烏井祭に参加2022年11月19日

 近代登山のパイオニアで知られる小島烏水は登山家であり文化人でもあった。当時のベストセラーである志賀重昂『日本風景論』6版を読んで登山に目覚めた。植物採集(山菜取り、薬草取りなど)鉱山師、宗教登山などの目的を持った山登りから純粋に登ることだけを目的に遊びとしてスポーツとして近代登山は発展してきた。その嚆矢の1人である。
 槍ヶ岳に登山するために沢登りで霞沢岳に登頂後、上高地に下って登った。その後、スタンダード石油に勤務していた友人はW・ウェストン『日本アルプス 登山と探検』の原書の槍ヶ岳の写真を見て驚きます。ウェストンらは島島谷を歩いて徳本峠を越えて上高地入りしている。今でいう英国と日本のインテリジェンスの格差に愕然とするわけです。その秘密を探りたいと交流が始まる。


「第3章 山岳会の設立と登山の普及」から

https://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/18/3.html

「日本最初の山岳団体「日本山岳会」(初期は単に「山岳会」という名称でした)は、明治38(1905)年に小島烏水らの手により設立されました。 
 烏水は、横浜正金銀行に勤めながら余暇を利用して登山を楽しみ、多くの紀行文や評論を残すとともに、浮世絵等の美術品のコレクターとしても知られる多才な人物でした。
 明治35(1902)年、『日本風景論』【45-67】に感化された烏水は、友人と二人で槍ヶ岳の登山を試みました。未知の険路をやっとの思いで登頂し「登山の気風」に先鞭をつけたと大きな達成感を得ます。
 ところがその翌年、第2章で紹介したウェストンの著作Mountaineering and exploration in the Japanese Alpsを偶然目の当たりにし、自分たちに先んじて槍ヶ岳に登った西洋人の存在が明らかとなります。
 さらにはその人物が思いもかけず横浜に滞在中であることまで分かりました。烏水は友人と連れ立ってウェストンを訪ね、世界各地に山岳会という登山愛好家のクラブがあることを知ります。
 2年後には、帰国数日前のウェストンからホテルに招かれて山岳会の設立を熱心に勧められ、また、後日ウェストンの仲立ちで英国山岳会からも山岳会設立を激励する書簡が届きました。この後押しを受けて「紙裂けて電火発するを覚えたりき」と奮い立った烏水は、山岳会の設立に精力的に取り組みました。」

 とまあこんな人物を顕彰するために「小島烏水祭」は10年前に尾上昇日本山岳会会長(当時)と地元の会員らが顕彰碑の建立のために動いた。場所は高松市内の峰山公園の一角でした。
 主催者の尾野益大四国支部長、尾上昇元会長、神崎元会長、建立に尽力した地元県議、市議、高松市長代理、小島家の子孫、らの関係者が祝辞を述べた。
 小島烏水には9人の子供がいたが今は孫、玄孫の世代に移っている。小島誠さんは詩吟を披露された。何と正岡子規の「柿食えば鐘がなるなり法隆寺」を得意の喉で吟じた。様々なエピソードが語られたが記録までできなかった。
 散会後は高松市では一級の宴会場である「花樹海」に移動。夜6時から9時近くまで延々語られて盛会の裡に終えた。
 高松城祉の近くのホテルに投宿できたのは夜10時近かった。

陋巷をぶらり散歩や秋の昼2022年10月13日

 昨日はお休みでしたのでまた円頓寺に引っ越した駅前アルプスに行って来ました。三の丸のから徒歩20分程度でした。意外に近かった。円頓寺界隈はお寺が多い。円頓寺というお寺が地名にもなっている。通りすがりに見えた。名古屋市にまだ下町というか陋巷の雰囲気を味わえる街が残っていた。夜に来るとまた違った雰囲気があるだろう。
 駅前アルプスは二階の狭いスペースで店を構えていた。剱嶽の蟹の縦這いのような急傾斜の階段を上る。スペースは狭く品ぞろえは十分とは言えず、まだこれから充実させて行く、と若いオーナーさん。来年春にはと意気込みを聞かせてくれた。ツエルトを買おうと思ったが店には在庫がないのでまた次回にと出た。

秋の日や川の向うに円頓寺2022年10月12日

 仕事に集中できず気晴らしに円頓寺に散歩に行く。スマホでは22分と意外に近い。駅前アルプスが3度目の引っ越しになり、大須から円頓寺を店を構えた。
 丸の内のビジネス街から歩くと円頓寺は江戸時代の面影をささやかに残す気がする。それは古寺かも知れない。ここには3つの寺があった。高田本山派、円頓寺とある。丸の内2丁目、那古野の地図では堀川をはさんで6ヶ所も集中している。
 今日は駅前アルプスはお休みだったのでまた出直そう。

神風の伊勢路に来れば懐かしき伊勢三山の黒き山なみ2022年10月08日

 10/6の出張の折に見た伊勢路の風景は秋の刈り取りが終わり一面の刈田が広がっていた。農家の安堵の見えるような気がした。


・三重県は見渡す限り刈田跡美し国なり御食つ国なり

・神風の伊勢三山は魚獲る船頭達の陸の灯台

・ピラミダルな局ヶ岳に目を惹かれ白猪の山に堀坂の山

鈴鹿の雨乞岳で行方不明2022年09月15日

捜索範囲
 FBのタイムラインにFBF父親が鈴鹿の雨乞岳で行方不明になっていることを伝えるコメントが流れてきた。アカウントは行方不明の父親だが発信者は息子さんである。現在までにネットのメディアにはアップされていない。
 9/12(月)に入山した。15時に東雨乞岳の写真を受信、18時30分頃「少し帰りが遅れます」の受信が最後になった。13日から警察、消防が捜索に入ったが15日現在までに発見されていない。それでFBFに発信されたのだろう。
 雨乞岳は鈴鹿山脈から離れているが第二位の標高ということもあり人気が高い。登山者が多いこともあり遭難者も多いのは仕方がない。多くは武平峠からの往復である。ところが道迷いの事故も多い。また稲ヶ谷では2021年5月に死亡事故があったばかりだし、2020年には雨乞岳で行方不明とされながら御在所岳に突き上げる黒谷で遺体で発見されている。
 往復だけでは物足りなくなった登山者は御在所岳をタッチして下山するのだろう。ヤマップにはそんな周回登山の記録も多数ある。今回の行方不明の人も御在所山への尾根か沢に取り付いて事故ったのか。滑落すると骨折、動けない、谷の中は電波が通じないとの想像から谷のどこかで遭難し救助を待っている。

青嵐八風峠風止まず 拙作2022年05月14日

 朝7時金山駅前に集合。8人で2台に分乗して出発。往きは東名阪が工事中で混むので伊勢湾岸経由で行く。1台は菰野ICから田光を経て八風峠登山口へ、もう1台は大安ICから石榑トンネルを経て近江側の登山口へ向かった。
 私は伊勢側の旧知の街道を歩いた。田光川に沿う山道を行くと新緑の今は山が一番美しい季節に思う。キャンプ場を過ぎると、小鳥が叫び、飛び交う山奥に入る。全山生命力にあふれている。登山口まで乗り入れるて、準備を終え、ヤマップのGPSを作動させてからゆっくりと歩き出す。
 当面は林道の廃道のような広いが石ころが多い道が続く。後続があさっそくヤマヒルが出てきたと騒いでいる。広い山路にふさわしくない鳥居もある。今までなら無関心で通り過ぎたが今回は古道調査なので写真を撮影しておく。結構いくつもの被写体があった。お旅所旧跡なんて今まであったのかと思う。
 左手の栗木谷を見ながら歩くがいくつもの砂防堰堤が見える。580m付近で大きな堰堤は終り、そこから右岸に渡り細い山路に入った。この細道にも旧跡があり、撮影していった。何よりも喜ばせたのはシロヤシオの花盛りだったことだ。少しだがシャクナゲの花も見える。足元には岩鏡の小花が咲き乱れている。
 天気予報では午前6時からは20%の降雨率で晴れる見込みだったが、登山口から峠までずっと曇りであり、山霧が風に吹かれて流れていく。少し寒いから北からの風であろうか。南に梅雨前線が並び、中国大陸の高気圧が張り出し、北には低気圧がある。鈴鹿山脈は低気圧圏内にあるから北から風が吹き込みやすいのだろう。
 久々の八風峠だ。20年ぶりだろうか。記憶にない新しい鳥居が建っている。昔、友人と登ったとき、友人が足元で古銭を拾った。江戸時代のものだったと記憶している。
 滋賀県との県境稜線に立つと日本海側の低気圧からの強風で小さな嵐だった。俳句歳時記では青嵐に相当する。登山口から約2時間後の11時に登頂だ。
 近江側のパーティを待った。霧と強風で安楽な気がしない。それでも軽い中食と飲み物を飲んで休んだ。峠周辺はシロヤシオの林であった。待っても中々来ないから大声でコールして見た。くる気配はしなかった。1時間後に道中で会うことにして下山を開始した。
 県境から鞍部に下ると八風谷の道標があった。ここはもの凄く寒かった。こここそ本当の峠(鞍部)なので風を集めるからだ。合羽を着こんで置いて良かった。誰かが低体温症になるぞ、と警告している。本当だ。こんなところで60歳代から70歳代のおじさんおばさんが低温で倒れたら、だから言わんこっちゃない、と散々叩かれるだろう。
 少し下った辺りで近江側と合流できた。ほっとした。伊勢側の運転者は戻り、近江側の運転者も八風峠は初めてゆえに頂上を踏みに行った。
 近江側も伊勢側と同様の風化花崗岩の崩れやすい地質だった。崩れやすく滑りやすい路肩に留意しながらゆっくり下った。ある程度まで来たら運転者が戻ってきた。下るにつれて渓相も安定し、沢登りしたくなるような美しい渓谷になった。
 杉の植林帯に入ると踏み跡も安定してきた。道も平坦になり、歩きやすくなる。旧跡というものは見当たらなかった。広い氾濫川原が見えた。砂防堰堤で河原が広がったらしい。対岸へ渡渉するところがあったが、右岸の破線路が街道だろうと、廃道同然の破線路にしたがった。踏み跡は殆どないが迷うと現れるから不思議だ。路肩が崩壊しているところもあるし、倒木もあるしで難路である。とかく谷沿いの山道は壊れやすい。
 舗装道路へ出た時はほっとした。確かにこの辺りは分かりにくい。歴史の古道として整備することはないのだろう。八風谷橋でR421のPに着いた。石榑トンネルはすぐ右だ。峠を越えていた時代には想像もつかないくらいのクルマが往来している。しかもすごいスピードである。
 八風街道はわずかに残された歴史の断片である。