尾鷲道研究②~古川崇とは~2022年07月01日

 多くの信仰を集める古川崇(かさむ)とはどんな宗教者だったのか。研究書は以下の通り出版されている。


①大台ヶ原開山記―古川嵩伝記 単行本 – 2001/7/1
豊かな自然を持つが故に、昔から「魔の山」「迷いの山」と恐れられた大台ケ原を開いた古川嵩。自然界と人間の融合による環境保護に警鐘を鳴らした、彼の生涯と開山の足跡をたどる。
鈴木/林
1926年三重県津市生。1943年白子海軍航空隊学徒動員。1945年陸軍通信兵現役入隊。1946年電気通信省勤務。1985年日本電信電話公社退職(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

②大台ヶ原山 知られざる謎
内容説明
奈良県吉野郡と三重県多気郡の境にある、山域「大台ヶ原山」に息づく“日本の文化の原風景”を明らかにする。

目次
1 松浦武四郎と大台ヶ原山(大台ヶ原山の神秘;大台ヶ原山の開発;霊山と怪性の住居;自然への敬意;自然観と宗教観)
2 古川嵩と大台教会(嵩の目指す宗教;大台ヶ原山での修行;大台教会と神習教)
3 大台ヶ原山の隠れた背景(大峰の修行者が立ち入らない大台ヶ原山;江戸時代から明治にかけて大台ヶ原山に入っていた人々)
4 大台ヶ原山で語り継がれる伝承(大台教会第二代故田垣内政一教長の夜話;大台ヶ原山に関わる伝承と言い伝え)

著者等紹介
大川吉崇[オオカワヨシタカ]
1941年生。高野山大学文学部仏教学科卒業。三重高等学校で日本史を4年間担当、のち大川学園に移籍。現在、学校法人大川学園理事長・社会福祉法人自由学苑福祉会理事長。三重県山岳連盟顧問・三重県レクリエーション協会会長・三重県私立幼稚園協会常任相談役。加盟学会は、日本民俗学会・日本環境教育学会・日本調理科学会(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
※書籍に掲載されている著者及び編者、訳者、監修者、イラストレーターなどの紹介情報です。
http://ohkawa-a.cocolog-nifty.com/blog/cat36483120/index.html

③癒しの山 大台ヶ原 : 開山行者の生涯 Kindle版
開拓者精神!! 

現在社会で死語になっている言葉。

「俺も助かる、世間の人々も助かる」
これが人間究極の人生だ!
この本の主人公、若き行者、古川嵩が己の命をかけて魔の山「大台ヶ原」に立ち向かう姿は、やれストレスや・うつ病やなどと悩み苦しむ現代人に強烈なパンチをくらわす。人生の唯一無二の生き様を我が身をもってしめした希有のストーリーだ。

並外れた彼の精神力と不動の信念。彼を取り巻く人々の驚嘆もさることながら、大台の王と呼ばれ恐れられた日本オオカミでさえ彼の心を射止めた。
「若き行者と二頭のオオカミ」の交流も見所だ。

彼は、うつ病に取り憑かれた。その治療のため父の主導で御嶽山修行した。過酷な修行のある日、不動明王やその他の神々に出会う。修行を終えた時には病は消滅。

「俺の人生目的は大台ヶ原開山だ」

 最愛の妻や家族と今生の別れ。金剛杖で力強く大地をはたき、単身大台へ。二頭の日本オオカミと共に完全燃焼した古川嵩行者の壮絶なる生き様。

大願成就の暁に「神武天皇銅像」を建立したことはあまりにも有名だ。時節柄、銅像撤去に来た進駐軍の上官が
「これぞフロンティアスピリッツだと感激し、後生に残し置こう」」と言い放ったことは知る人ぞ知る史実。現在も牛石ヶ原に聳え立つ神武銅像は光彩を放っている。

今は「日本百名山」という名誉を頂き、多くの登山者の訪れる関西では否世界中の登山家の「心を癒やす山」として賑わっている。

この本は、克明な史実をもとに書かれた原書、郷土史家、鈴木林著の大台ヶ原開山記【古川嵩伝記】を氏の承諾を得て、三重熊野市在住の郷土史家、杉岡昇氏がリライト、よしいふみとが編集したもので。今後二度と世に出ることの無い貴重本である。

(もくじ)
はじめに
プロローグ、梅雨の一夜
古川嵩行者の生涯
厄年の児、商人の道へ、 大台ヶ原開山への旅立ち、信頼、池峰明神参籠、大台ヶ原入山、単独行動、再会としばしの別れ、教会設立活動、越冬の修行、教会建設、気象観測、有線電話架設、神武天皇銅像建立、自然崇拝と自然破壊、旅立ち
今、発行元の山の辺書房自分史編集室では、より多くの人に膾炙するため英語版「FRONTIER SPIRITS」を制作中。
​日本語版はAmazon電子書籍本サイト。
杉岡昇
杉岡昇プロフイール

 一九六一年、和歌山県立新宮高等学校卒。日本国有鉄道OB・新宮山の会OB。 日本百名山の一つ、大台ヶ原に魅せられ登山を続けるうち、稀有の大自然を多くの人に知ってもらいたいという思いから『大台ヶ原・開山行者、古川嵩の生涯』と、続編「大台ヶ原、妖怪一本足たたら伝説」を、乏しい資料を求めて数年がかりで纏め上げ、自伝出版専門の山の辺書房自分史編集室から出版。
現在紙本第三刷となり、さらに電子書籍としてアマゾンで販売している。これは、ロングセラー作品となった。

 二〇一一年、和歌山県南部を襲った台風十二号で住み慣れた我が家を喪失。失意の避難生活の末、終の住み家を求めて奔走。苦難の末三重の山峡に移住する。自然植物研究家・ラン愛好家・登山家・執筆家・陶芸など多彩な趣味の持ち主。

 平成二十七年秋、思いもよらぬ膀胱ガン発症。三度の手術を受け快癒。現在経過観察中。度々の人生の節目に遭いながらも、著者の人生哲学的思考――災難のどん底に居ても常に生き甲斐を見つける――事を本分とし、日々著述や多くの趣味に意識を移しポジティブに力強く生を満喫している

[主な著作] 「大台ヶ原・開山行者、古川嵩の生涯」「続編大台ヶ原、妖怪一本足たたら伝説」「平成の大洪水」これは…NHKで放映され反響を呼ぶ。その後矢継ぎ早に「膀胱ガン闘病記」「熊野の里山今昔噺、第一巻、第二巻を出版(アマゾン電子書籍)。

奥飛騨の木地屋渓谷を歩く2022年07月02日

 連日40℃を越える猛暑にうだる。そんな名古屋から約180km3時間ほどで飛騨高山市の奥座敷のような木地屋渓谷に着く。
 「飛騨山脈ジオパーク構想」のHPには木地屋渓谷を次のように紹介する。
「丹生川町折敷地、丹生川ダムの上流域にある渓流です。
ダムをのせている五味原文象斑岩は、およそ6600万年前に活動した大雨見山火山のもとになったマグマが上昇してきたものと考えられ大雨見山層群との複合岩体です。
水平に近い節理面があるため、河床は滑らかに水を流し川遊びの好適地となっています。」
「高山市丹生川町の北部、荒城川流域は飛騨地方の地質を特徴づける大陸棚のようなところで堆積した飛騨外縁帯の森部層、荒城川層を土台としています。大雨見山を中心に活動した火山の大雨見山層群が広く分布していて、さらにその上を槍穂高カルデラ火山の丹生川火砕流堆積物、上宝火砕流堆積物が覆っています。
上流域には大雨見山火山のもとになったマグマが地下深いいところで冷え固まった、五味原文象斑岩とよばれる大きな岩盤が上昇しています。
丹生川ダムはこの岩盤を土台にしてつくられています。
秋には紅葉が水面に映え、別天地の風情が感じられます。」
「丹生川ダムの堤頂部を渡り、五味原湖のほとりを進むと木地屋渓谷の入り口に着きます。
橋を渡り右手の細い道へ入ってゆくと、右側に美しい渓流を眺めながら散策することができます。
河床は平らなナメになっていて、夏場の川あそびにも好適の場所です。」

・・・というわけで、沢登りファンにはよく知られている。
 7/1の午前6時過ぎに金山駅前を出発。約180kmでダム湖に着く。先行の2人の男女が出発して行った。
 落葉広葉樹林の覆うナメの美しい溪谷である。ところどころの滝も右岸左岸から登れて困難さはない。
 途中で冷や麦を作る。左岸から湧水がありとても冷たい。冷や麦向きの水である。Wさんがガソリンストーブを出し、コッヘルで冷や麦をゆでる。ゆであがると熱湯ごとネットでゆで汁を濾す。冷水を通して出来上がり。運動後なので舌触りもよく美味しい。
 食事中、蛇が這い上がって岩を登っていた。水をかけて追い返そうとしたら落ちた。瞬間にこちらに向かってきてびっくりしたが、岩の下に潜り込んで行った。なんだったのだろう。
 岩のごろごろした渓相になると途端に快適さはなくなる。しばらくで再びナメに戻った。足を滑らせておれば良いので楽である。ナメにも飽きたころ二股になり、木地師の道具類を収めた小屋の前で沢から上がった。後は林道を歩いて車に戻った。
 帰路は恵比寿の湯で一風呂浴びた。これも快適である。さらにおまけでメンバーの一人が味付きのアブラ揚げが美味しいので買って帰りたいという。R158沿いの農協で物色するとあった。5人がそれぞれ買い求めた。今日は良く売れたであろう。
 後はまた高速で帰路につく。車の温度計は34℃である。名古屋は蒸し暑いだろうな。

戻り梅雨2022年07月03日

tenki.jpから
 日本の東に中心を持つ高気圧があって、本州付近には湿った空気が流れ込んでいます。
 また、台風第4号が東シナ海を北上しています。
 東海地方は、おおむね雨で雷を伴って非常に激しく降っている所があります。
 3日の東海地方は、湿った空気や上空の寒気の影響で雨または曇りとなり、雷を伴った激しい雨や非常に激しい雨の降る所があるでしょう。
 4日の東海地方は、湿った空気や上空の寒気の影響で曇りまたは雨となり、雷を伴った激しい雨の降る所がある見込みです。
以上
・・・というわけで朝から激しい降雨があった。天白川も濁りのある流れになった。小牧の方では激雨が降ったらしい。これからまだ10日以上は降雨が続くらしい。梅雨末期の大暴れもある。

オイル交換2022年07月04日

 今日はマイカーのオイル交換を済ませた。昨年12月末以来だった。約5000kmと少し走り過ぎた。4000km位で交換したい。カー用品店の係りもオイルパンの底に油が滲んでいたというから油圧でオイルシールが劣化してしみ出してしまうのだろう。
 車検は6/30に終わったがついでにオイル交換もやってもらうべきだったかな。オイル漏れがひどくなるとオイル量が減ってしまうから警告灯が点くかも知れない。
 しかし、エンジンの調子、タイヤ周りの調子など車検後は快調である。1年毎の車検は面倒だが車のメンテナンスは行き届くから長持ちするであろう。メーターを見ると266000kmになった。マイカーを楽しめるのもこの車で終りか。ちょっと寂しいが高齢になれば手放す時期が迫ってくるだろう。
 あと少しきままに操れるマイカー生活を楽しみたい。

続 『今西錦司 初期山岳著作集 初登山』の補遺2022年07月05日

6/20の続き
  尾鷲道を調べていたら今西錦司が戦前に縦走していたことをしった。それで記録の掲載された斎藤清明編『今西錦司 初期山岳著作集 初登山』を取り寄せた。古書が届いたのでさっそくひもとくと、1922(大正11)年10月に3泊4日で登っていた。20歳の時だから京大生だった。京都を出発し柏木で一泊。入之波の大台辻から入山し、大台教会に一泊。面白いのは三日目の行程だ。なんと、牛石ヶ原からトロッコに乗せてもらっている。
トロッコの行き先は樫山958m三角点まで便乗し、不動谷と岩井谷の合流点に下山した。溪谷でもトロッコ道を歩き便ノ山に出て、馬越峠を越えて、夜10時半尾鷲港に下った。尾鷲港から船で荒波の中を鳥羽まで行き、汽車で帰京。
紀州は木材生産が盛んだがもうそんな時代からトロッコが行き交いしていたことに驚いた。8月には大台ケ原からマブシ領往復の計画なので堂倉山辺りをよく観察してみたい。トロッコ道が残っているはずだ。検索すると「堂倉山山頂を南側に下り立ったところは「シラサコ(白カケ)」と呼ばれており、小さな平地に陽光がよく通っている。この付近は、大蛇嵓の方から伸びてきたトロッコ道跡があり、時に尾鷲道と重なっている。枕木やレールの取り除かれた線路跡をイメージしてもらうとわかりやすいが、登山道としては贅沢な1~2m幅の道が緩やかな傾斜で伸びている。ただ、このトロッコ道はいつまでも尾鷲道に寄り添っているわけではなく、巨岩帯を通り抜けたあたりからやがて森林の中に埋もれ視認できなくなる。」とあった。
「「白崩(しらくえ)」と呼ばれている岩礁で、その下の谷が「白崩谷」である。三度にわたって大台ヶ原に入山した松浦武四郎は、木津(三重県)に下りているため、ほとんど尾鷲道を使っていないが、3回目の入山時には、大蛇嵓から堂倉山西側をまいてこの白崩谷を使って東ノ川まで下りている。」
 「「尾鷲道」は、尾鷲の林業家・土井 與八郎が大台教会開殿後、. 紀州の信者の参詣道として1915(大正4)年に寄進され、 大台ヶ原. への登山路として尾鷲」の人々に利用された。という。
  今西が歩いた時代は大台教会の信者も登拝に来ていただろう。
因みに大杉谷の初遡行は「遡行は明治45(1912)年5月。大西源一は櫛田川河口に近い多気町弟国の出身。大北聡彦は松阪市。桃の木小屋は昭和15年完成というから、鍋、米、味噌を携えて、焚き火を起こし炊飯する野営の旅だった。」
 松浦武四郎が入山したのは67歳(明治18年)というから如何に探検的な登山だったか。大川嵩の入山は武四郎没後に1891年62歳でした。

例会2022年07月06日

 先月は出張で欠席したがずいぶん長く休んでいた気がする。一日は一年の気がすると言えば大げさだが1日居ないと2ヶ月は会わないから大きい。今月は3ヶ月ぶりに会報も発行された。
 盛夏を迎えて山行報告並びに山行計画も活発に発表された。北アルプス縦走、南アルプス、中央アルプス、中でもジャンダルム登攀計画もあった。その意気や良である。
 加えて、最近見なかった若手2名も出席してくれた。さっそく伊豆の方へクライミングに行く計画が出てきた。今はクライミングも近場ではなく遠征するようになった。
 週末は個人的には豊橋自然歩道の調査行、中アの黒川山などが挙がった。体も絞れてきたから何とかなるだろう。8月末の山岳古道とあわせて山も忙しくなってきた。

尾鷲旧道研究①~木組と木津を結んだ生活道路~2022年07月07日

左古和谷? 右きぐみ?
 きくみ(木組)とは木組峠の西を流れる東の川の山懐にあった木組村のことだ。地蔵峠の道標に「きくみ」と彫ってあった。きとみははっきりしている。くはみを囲むような表示だが、「木組」のことだろう。地名は濁らない表記もある。左は古和谷だろうか。古の字は行書体である。後が判明しがたい。
①豊川 
川のの読み方はとよがわ、
地名はとよかわ
②豊田
地名はとよたし
人名はとよだ
③豊橋
橋の名前はとよばし
地名はとよはし
④松阪
人名はまつざか
地名はまつさか

悲報 安倍元首相銃撃 41歳男“殺そうと思って狙った”【速報中】 2022年7月8日 15時57分2022年07月08日

NHKのニュースから
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220708/k10013707601000.html

 きょう午前11時半ごろ、奈良市で演説をしていた安倍元総理大臣が男に銃で撃たれました。心肺停止の状態だということです。殺人未遂の疑いで逮捕された41歳の容疑者は「安倍元総理大臣に対して不満があり、殺そうと思って狙った」という趣旨の供述をしている一方で、「政治信条への恨みではない」とも供述しているということです。

 きょう午前11時半頃、奈良市の大和西大寺駅近くで演説をしていた安倍元総理大臣が背後から男に銃で撃たれました。安倍元総理大臣は現場から救急車で搬送されたあと、ドクターヘリで橿原市にある奈良県立医科大学附属病院に移されて治療を受けています。消防によりますと安倍元総理大臣は首の右側に傷や出血があり、左胸に皮下出血があり、心肺停止の状態だということです。

 現地で取材していたNHKの記者によりますと当時、銃声のような音が2回聞こえて、安倍元総理大臣は血を流して倒れていたということです。警察は現場にいた奈良市に住む職業不詳の山上徹也 容疑者(41)を殺人未遂の疑いでその場で逮捕しました。

 押収された銃は手製の銃だとみられ、防衛省関係者によりますと容疑者は2005年ごろまで3年間、海上自衛隊で勤務していたということです。警察によりますと、調べに対し「安倍元総理大臣に対して不満があり、殺そうと思って狙った」という趣旨の供述をしている一方で、「政治信条への恨みではない」とも供述しているということです。警察は、現在、奈良西警察署で容疑者から事情を聞いて詳しい状況を調べています。

 政府関係者はNHKの取材に対し「意識はなく容態はかなり悪いという報告を現場から受けている」と話しています。

演説を聞いていた関係者によりますと、安倍元総理大臣の演説が始まってから1分から2分ほどたったあとに2発の銃声が聞こえたということです。
そのあと安倍元総理大臣が倒れ、意識がない様子だったということです。

 総務省消防庁に午後1時半の時点で寄せられている情報によりますと安倍元総理大臣は心肺停止とみられ、右のけい部に銃創や出血があり、左胸に皮下出血があるということです。

消防庁のまとめでは、
▽奈良市消防局に通報があったのは午前11時31分で、
▽救急隊などは1分後の午前11時32分に出動し、
▽午前11時36分にドクターヘリを要請しました。

そして、▽午前11時37分に救急隊などが現場に到着し、
▽到着から17分後の午前11時54分に現場から安倍元総理大臣を搬送しました。
その後▽午後0時9分にドクターヘリに引き継ぎ、
▽午後0時20分にドクターヘリは搬送先の医療機関に到着したということです。

現場には▽指揮隊2隊と▽消防隊2隊、▽救助隊1隊、▽救急隊1隊が出動していました。

以下略
・・・大変なことが起こってしまった。しかも7/10の参院選前の演説活動の駆け込みの時に起こった。テロリズムは許されない行為である。
 安倍元総理のご無事を祈る。

哀悼 安倍晋三元首相死亡 奈良県で演説中に銃で撃たれる 2022年7月8日 19時16分2022年07月08日

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220708/k10013707681000.html
演説中に銃で撃たれた安倍晋三元総理大臣は、治療を受けていた奈良県橿原市内の病院で亡くなりました。67歳でした。

安倍晋三元総理大臣は東京都出身で、祖父は日米安全保障条約を改定した岸信介元総理大臣、父は自民党幹事長や外務大臣を歴任した安倍晋太郎氏という政治家一家に育ちました。

成蹊大学を卒業後、アメリカ留学を経て鉄鋼メーカーの神戸製鋼所に入社し、その後、父、晋太郎氏の外務大臣就任を機に、大臣秘書官となります。

晋太郎氏の死去を受けて、地盤を引き継ぎ、平成5年の衆議院選挙に旧山口1区から立候補して初当選しました。

総理・総裁の登竜門とも言われる党の青年局長や、社会保障を担当する党の社会部会長などを歴任し、第2次森内閣と小泉内閣で官房副長官を務めました。

北朝鮮による拉致問題に早くから取り組んでいた安倍氏は、小泉総理大臣とともに北朝鮮を訪れ、キム・ジョンイル(金正日)総書記との首脳会談に立ち会いました。

そして、平成15年には閣僚や党の執行部ポストを経験しないまま、小泉総理大臣から49歳の若さで党の幹事長に抜てきされ、平成17年の第3次小泉内閣では官房長官として初入閣します。

長期政権を築いた小泉総理大臣の後継を選ぶ平成18年の自民党総裁選挙に立候補して、初めての挑戦で総裁に選出され、戦後最年少の52歳で総理大臣に就任しました。

在任中は、小泉氏の靖国神社参拝問題で関係が冷え込んでいた中国や韓国を訪問して、関係改善に努力する一方、「戦後体制からの脱却」を掲げて改正教育基本法や憲法改正の手続きを定める国民投票法などを成立させました。

しかし、公的年金の加入記録のずさんな管理が明らかになったほか、閣僚の辞任が相次ぎ、平成19年の参議院選挙で大敗して、いわゆる「ねじれ国会」を招きました。

そして、みずからの健康状態の悪化もあって、就任からおよそ1年で退陣しました。

退陣後は、超党派の保守系の国会議員による政策グループ「創生日本」の会長として、拉致問題の解決などに取り組んでいましたが、自民党が野党時代の平成24年に再び総裁選挙に立候補します。

決選投票で総裁に選出され、その後の衆議院選挙で政権を奪還して、総理大臣の座に返り咲きました。

第2次政権では、デフレからの脱却に向けて、「経済再生」を最優先に掲げ、大胆な金融政策、機動的な財政政策、民間投資を喚起する成長戦略の「三本の矢」による「アベノミクス」を推進し、経済の活性化に取り組みました。

また、消費税をめぐっては、平成26年に税率を5%から8%に引き上げたのに続き、令和元年には、食料品などの税率を8%に据え置く軽減税率を初めて導入したうえで、10%に引き上げました。

また、上皇さまから天皇陛下への皇位継承にあたっては、一代かぎりの退位を可能とする特例法の整備やそれに伴う改元にも取り組みました。

総理大臣就任の翌年には、東京オリンピック・パラリンピックの招致の先頭に立ち、東京開催を勝ち取りました。

外交面では、「地球儀を俯瞰する外交」を掲げ、在任中に延べ176の国と地域を訪問し、平成28年にはG7伊勢志摩サミット、令和元年には日本で初めてのG20大阪サミットを開催しました。

伊勢志摩サミットの終了後には、現職の大統領として初めて、当時のアメリカのオバマ大統領の被爆地・広島への訪問を実現させる一方、安倍氏自身も、現職の総理大臣として初めてハワイの真珠湾を訪れ、真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊しました。

オバマ氏の後任のトランプ氏とは、大統領就任前に各国の首脳の中でいち早く会談して個人的な信頼関係を構築し、電話での会談を含めると、首脳会談は50回を数えました。

また、経済外交では、TPP=環太平洋パートナーシップ協定の交渉を進め、アメリカが離脱したものの、11か国が参加する形での発効にこぎつけました。

さらに、安全保障分野では、従来の憲法解釈を変更して集団的自衛権の行使を限定的に容認する閣議決定をしたうえで、安全保障関連法を成立させ、戦後日本の安全保障政策を大きく転換しました。

また、憲法改正の実現を目指して具体的な改正項目の取りまとめを指示し、安倍政権のもとで自民党は自衛隊の明記など4項目の改正案をまとめました。

この間、安倍総理大臣は、衆・参合わせて6回の国政選挙で勝利したほか、平成30年の自民党総裁選挙では党則の改正で可能となった3選を果たすなど、「安倍1強」とも言われる政治情勢が続きました。

一方、森友学園をめぐる財務省の決裁文書の改ざん問題や加計学園の問題、それに「桜を見る会」の対応などについて国会で野党から追及が続き、自民党内からも「長期政権によるおごりやゆがみの象徴だ」との指摘も出ていました。

そして、令和2年には、新型コロナウイルスの感染が世界的に拡大し、特別措置法に基づく「緊急事態宣言」を初めて発出するなど対応にあたりましたが、持病の潰瘍性大腸炎が再発し、8月に総理大臣を辞任しました。

総理大臣としての連続の在任期間は7年8か月、第1次政権と合わせた通算の在任期間は8年8か月に達し、いずれも歴代最長です。

安倍氏は、総理大臣退任後、しばらく無派閥で活動していましたが、去年秋に9年ぶりに出身派閥に復帰して、党内最大派閥の「安倍派」の会長に就任し外交・安全保障政策や積極財政の必要性などについて活発に発言していました。

安倍氏は、8日午前11時半ごろ、奈良市内で演説中に銃で撃たれ、橿原市内の病院に運ばれ治療を受けていましたが、亡くなりました。

67歳でした。

安倍氏の経済・財政対策
安倍元総理大臣は、2012年12月に発足した第2次安倍政権で「アベノミクス」と呼ばれる一連の経済政策を打ち出し、デフレからの脱却と持続的な経済成長を目指しました。

政策の柱は、「大胆な金融政策」、「機動的な財政政策」、「成長戦略」の3つで、これらの政策は3本の矢とも言われました。

金融政策では、2013年1月に政府と日銀が異例の共同声明を発表し、日銀が「2年程度で2%の物価上昇率を達成する」という明確な目標を掲げました。

そして日銀は、黒田総裁のもとで、2013年4月から「異次元」と称する大規模な金融緩和に踏み切りました。

これに金融市場は反応し、2011年に1ドル=75円台の最高値を記録した超がつくほどの円高は、急速に円安方向に動き始めます。

2015年には、1ドル=125円台まで円安が進みました。

株式市場も急速に回復し、政権発足前日の2012年12月25日に1万80円12銭だった日経平均株価は、2018年10月2日には2万4270円62銭となり、当時としておよそ27年ぶりの高値をつけました。

企業業績も回復し、これに伴って有効求人倍率は、2018年8月にはおよそ45年ぶりの高い水準まで改善しました。

一方で、政権発足直後の2013年度は、GDP=国内総生産の伸び率が2.7%に高まったものの、ほとんどの年度で伸び率は0%台から1%台にとどまり、「景気回復の実感が乏しい」という指摘も出ていました。

また、目標に掲げた2%の物価上昇率も達成できませんでした。

安倍氏は、在任中、2度にわたって消費税率を引き上げました。

高齢化が進み、増え続ける社会保障費などを税収だけでは賄えず、第2次安倍政権で、社会保障費の財源を確保し、財政の健全化も進めるため、2014年4月に消費税率を5%から8%に引き上げました。

増税後に個人消費が落ち込んだことなどから、税率の10%への引き上げは2度、延期しましたが、2019年10月には10%に引き上げ、食料品などの税率を8%のままで据え置く軽減税率を導入しました。

増税による税収は、幼児教育や保育の無償化の財源に充てることにして、社会保障制度を全世代型に転換することを目指しました。

通商政策では、自由貿易の推進を成長戦略の柱に掲げ、TPP=環太平洋パートナーシップ協定や日本とEU=ヨーロッパ連合のEPA=経済連携協定など、大型の貿易協定の発効につなげました。
安倍元首相と東京オリンピック・パラリンピックとスポーツ界
安倍元総理大臣は、去年、57年ぶりに東京で開催された東京オリンピック・パラリンピックに招致の段階から先頭に立って関わるなどスポーツ界にも大きな功績を残しました。

2013年9月にアルゼンチンのブエノスアイレスで開かれたIOC=国際オリンピック委員会の総会で当時の安倍総理大臣は最終プレゼンテーションに立ち、東京電力福島第一原発の汚染水の問題について、「コントロールされている」と説明しました。

そして、東京は財政基盤が安定していて世界で最も安全な都市であることをアピールし、1964年以来となる、東京オリンピックの開催が決まりました。

2016年のリオデジャネイロオリンピックの閉会式ではゲームキャラクターの「マリオ」の姿で登場し、東京大会のPRに貢献しました。

新型コロナウイルスの感染が世界で拡大する中で迎えたオリンピックイヤーの2020年3月には、安倍元総理大臣はIOCのバッハ会長と電話会談し大会の1年程度の延期を提案しました。

これによって、東京オリンピック・パラリンピックは史上初めて延期されることが決まりました。

すでにギリシャから日本に聖火が運ばれ、聖火リレーがスタートする直前でした。

その年の9月に総理大臣を退任したあとにはオリンピックの普及や発展に貢献したとして、IOCから「オリンピック・オーダー」と呼ばれる功労章の金章が贈られ、その後も大会組織委員会の名誉最高顧問を務めて、東京オリンピック・パラリンピックの開催に尽力しました。

また、大学時代にアーチェリー部に所属していたこともあり、長年にわたって全日本アーチェリー連盟の会長を務めていました。

日本を取り戻せないまま安倍元総理凶弾に倒れる2022年07月09日

 第一次安倍内閣で「日本を取り戻す」「戦後レジュームからの脱却」などの言葉を発して登場した安倍晋三氏。その後病臥になり退陣、民主党政権で散々な目に遭った有権者は再び第二次安倍内閣を待望した。民主党を抑えて見事な復活を遂げた。株価は大きく上がり日本経済も持ち直した。アベノミクスと言われた。
 その後2%のインフレ目標、財界への賃上げ要請を掲げた。反対に1000万人の移民導入、消費増税は1回は延期したが2回目には10%にアップさせてしまった。毀誉褒貶があるのは政治家なら致し方ない。
 憲法改正も視野に入れていたが敵わず。トランプ・アメリカとの外交に成功、プーチン・ロシアとの外交にもうまくいった。外交についてはほとんど失敗がない。北朝鮮拉致被害は未だ未解決、韓国との不可逆的な慰安婦問題もいまだにくすぶる。これは日本の不始末よりも相手側の意地の悪さによる。岸田総理の次は安倍再登場も期待されたが空しく終わった。