今西錦司の言葉2010年10月10日

登山家・今西錦司の言葉 座右の銘

 私の山登りはごく卑近な京都の北山から始まったものである。けれどもそこで私はなにから習ったであろうか。一言にして言えば、それはドライブウェイと木樵の通う山道との相違である。そこにまた私たちに最も親しいワンダリングなる言葉が生き生きしてくる。だから、ハイキングとワンダリングとの相違いは、第一に道の良し悪しということに帰着せしめてもよいであろう。(山岳省察ー登山の実証的一断面)

 地図にも載っていない、か細い道を辿りつつあるとき、この道がどこかの炭焼きで行き詰まりになっているのでなかろうかと心配しつつ歩んでいくとき、そしてそれが果たせるかな行き詰まりになっていて、黄昏時にヤブを漕ぎ分けている寂しいひと時、もはやすっかり月明かりの夜に変って、笹の葉末に光る露の玉に濡れそぼちながら、ひたすら山麓における安らかな憩いを願いつつ山を下りているとき、私にはそれらの情趣をハイキングと結びつけるべく、あまりに隔たったものがあるように思われるのである。中略。
 行き暮れて一夜の宿りを憂うる気持ちには、じっさい服装の華美をてらい、流行を追うゆとりがない。「旅なれば椎の葉に盛る」食事に我慢し、どこかの岩角の陰に、携帯天幕を引っかむって一人寝る夜に、谷川のせせらぎのみが遠く近く、星は自らに運行していたならば、私はただ早く朝とならんことを願うばかりである。中略。山の理論は低きより高きへと教えるけれども、小屋の設備の整った日本アルプスへ、案内人や人夫を雇って出かけるのでは、私はもはや十分満足できなくなっている。中略。
 私にとってその山が人里遠く離れていて、その頂を得るためには、谷をうがち、尾根を越えて、道を離れてからもまだ野宿を必要としなければならないような山であればいいと思う。世にあまり知られず、森が深く、谷が深ければ深いほどよい。幸いその頂には立木がなくて、暖かい日光を浴びながら展望を欲しいままにすることができ、見渡す限り山また山の中にあって、遥かの山あいからほんのちょっぴりと平原が覘いているといったような山頂を得られたら、そのときはどんなに喜ばしいことであろうか。
 
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 掲題の言葉はまずハイキングということへの批判である。そのころ関西人のハイキングといえば六甲のドライブウェイを闊歩して歩くことだったらしい。それは近代的な朗らかな社会生活の山の上にまでの延長である、と斬っている。そして嫌っていた。
 珍しく万葉集の歌を部分的に引用もしてひたすら深山漂泊の魅力を説くのである。関西(特に京都)の岳人の源流はまさに北山にあり、と思う。この文は1934年に発表された。
 1938年には森本次男が『京都北山と丹波高原』を出版している。学校の教員として後進の指導に当たり、北山の父とまで呼ばれたらしい。後に『樹林の山旅』へと展開していく。
 1938年には『鈴鹿の山と谷』の西尾寿一氏が生まれている。そして西尾氏も20歳で北山クラブに入会してヤブ山漂泊の洗礼を受けた。「第二巻を終えて」の文中で筆者はハイカーと登山者を区別して考える立場をとっている、と書く。更に続けて、道がない場合も、あっても迷い易い場合も、藪や滝や岩場があっても目的とするところを完登できる力があれば本物の自然は喜んで迎えてくれる、と。然りである。
 今西さんは北山の主というべきであろうか。別のところで北山の経立(ふったち)と呼ばれたい云々、のうろ覚えがある。経立なる言葉は柳田國男の『遠野物語』に出てくる。これも愛読書の一つであった。とまれ、京都北山に登山の原点を学んだ。それに続く人たちも北山を歩いた。北山が自在に山野を跋渉する登山者を育てたのだ。 



 技術的登山というのは、先にも記したように、我国においては従来の、より浪漫的な一般登山から派生した変り種の一種であるとも考えられるが、その側からいえば革新的な気持ちもあり、その自己集中的、技術的な性質からでも、これを一般登山から独立したものとみなしたいために、自らをスポーツ的、技術的登山であると認めるのに対して、従来の一般登山はこれを俳諧趣味的、あるいは低山趣味的登山と称し、あるいは動的登山に対する静的登山をもって区別しようとした傾向があった。(山岳省察ー山・登山・登山者の相互関係)

 このいわゆる低山趣味的登山の内容が、現今流行のハイキングなどを意味するものならば、あまり大人気なくて問題ではないが、一般登山なるものがはたしてこのようにいわゆるスポーツ的、技術的登山と対立的なものであったかどうか。日本アルプスの開拓者はおそらく岩登りを求めて山へ行ったのではあるまい。しかし、小島(烏水=日本山岳会初代会長))さんが霞沢を越えて上高地に入り、槍や穂高に登ったときのことを考えると、これを俳諧趣味とか、低山趣味的登山とかいってすましておれるだろうか。木暮さんや冠さんが辛酸を舐めて黒部の秘密を探った、ああいう登山を静的登山と称しうるだろうか。中略。しかし遠心的、浪漫的な開拓者たちといえどもかならずしも岩を避け、雪を恐れていたのではない。かれらにとって未知の山岳の不安が大きければ大きいほど、その心は高鳴り、そのためには障壁のいよいよ高く、裂谷のいよいよ深きをつねに求めていたであろう。中略。登山中岩に出くわして岩に登ればそれがすなわち岩登りである。だから一般登山の側に立って考えれば、あえて静的、動的の区別などはなく、いわゆるスポーツ的技術登山もその一つの一表現として、もともとその中に胚胎され、包含されていたので、異端視する必要などさらにないのであるが、近頃のように一般登山のなんたるかを解しないで、いたずらに形式にとらわれ、いたずらに技術の末に走るものの続出するにおいては、我国の登山の健全なる発達の為に、特殊スポーツ的、技術登山的に対して、いささかきつく当たったかもしれない。
 このように一般登山をスポーツとして解する上は、流れを伝い、森を穿って登るのもよく、岩に攀じ、雪に足場を刻んで登るのもまたよく、人それぞれ自分の登山を楽しむことが出来るならば、いずれもみな登山の本義に適ったものと思われる。

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 山岳界を見渡したとき、それを「岳人」という雑誌の編集傾向に観察した場合、またかつての時代つまり本論が書かれた戦前の頃に逆流している気がする。あるクライミングの本を読んでも一般登山をレベルの低いものとし、クライミングをレベルの高いものとみなす傾向がある。戦前でも氏は「芦屋のロックガーデンあたりで発達したアクロバチークな岩登りを邪道視して」していた。今はアクロバチークなクライミングが独立した分野になったかに思える。
 それはロッククライミングがロックを離れてウォールクライミングの分野が新しく出現したことである。愛好する読者からの強い要望があるからであろう。フリークライミング、クリーンクライミングなど理解できない用語がでてきてしばらくは戸惑ったものである。その半面で「岩と雪」が休刊に追い込まれたのはなぜであろうか。戦前に比べると確かに細分化した。三点支持は岩登りの基本中の基本であるが現代では4点支持といえまいか。ハーネスによる確保が当たり前になってきた。鈴鹿あたりの沢でも以前はヘルメットなし、ゼルプスト(ハーネス)なしで遊んだが今では完全装備で物々しい限りである。これをとってもフリークライミングの影響の大なることを考えざるを得ない。日長、一日中、オーバーハングした岩にぶら下がっていても楽しいのであればそれもいい。かつて前穂の頂上で見たクライマーはいわゆる大量のガチャ物をぶら下げてこれではとても縦走はできないと思い、明らかに一般登山とは違う分野とみなさざるをえなかった。しかし、これも彼らがスポーツ的技術的登山で穂高の一般登山道を縦走するものは俳諧的趣味登山とはいえないであろう。掲題の通りである。我々登山者(クライマーを含めて)としてはいたずらに形式主義に陥らないようにしたい。
 もし対立する時代があったとすればそれはなぜであったか。簡単に答えなど見つかるはずもない。二極分化は登山だけの世界ではない。本論では後半になって二つの型が一旦否定され、複合して遠征登山へと展開している。
 



客観的実在としての山に、孤立的な火山もあり、長大な連嶺もあり、松の木に掩(おお)われた、なだらかな低い里山から、岩と氷のアルペンの高峰まで、形にも高さにもいろいろあるように、こんどは登山者の側においても、その個性は人々によってちがう。しからば同じく登山といっても、その山が違い、その登山者が異なるにしたがって、その内容は相違してくるであろう。そしてここに異なる登山の型、もしくは登山形式が生まれ、またこれからも生まれるであろう。(山岳省察-山・登山・登山者の相互関係)

 第一の型の登山者は、一つの山に登っても、その山を、つねにより広い山塊、あるいは山群の部分と見て、その全体的関係を把握しようということに興味を持ち、第二の型の登山者は一つの山に登れば、それを直ちに全体と見て、その部分的関係に興味を感ずる。一つは遠心的であり、他は求心的であり、一つは自己開放的、浪漫的であり、他は自己集中的、技術的である。中略。自分のまだ登らない山を求めて歩く遠心的、浪漫的な登山者は、どちらかといえば山の選り好みがないのに対して、求心的、技術的な登山者のほうは、もっぱら自分の好みを守るのに忠実であって、岩登りが好きならば、谷川岳、穂高、鹿島槍というふうに、自然とその登る山の決まってくる傾向がある。これは逆に考えれば、こういう山があったからこそ、こうした型の登山者が、その個性を発揮することが出来、またそれが登山型として認められるに至ったと見ることができるのである。

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 この論考は1938年の発表であるから昭和13年である。75年も前のことである。1902年生まれであるから36歳であった。
 氏自身はもちろん第一の型である。初登山を目指して一時的に第二の型の登山にしたこともあった。すぐに自分の型に戻っている。それにしても当時すでにこんな分析を為しうる多様な登山形式があったことが興味深い。
 浦和浪漫山岳会という会には浪漫が入るが前代表の高桑氏はどちらかといえば求道者的な臭いがする。地域研究を熱心に行っていたのも集中的であった。これは第二の型であろう。
 八ヶ岳を例にとれば赤岳を中心にこれでもこれでもかというほど細部にわたって尾根、谷が登攀対象になって開拓されている。穂高、剣岳も同じである。しかし、氏は第二の型の特に技術的登山に対して疑問を投げかける。以下に再び引用する。
 
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 西欧の登山技術が伝えられ、その技術的興味と近代人のスポーツ嗜好性との間に一致を見出しえたとしても、氷河は我国には一つも存在しないのであり、頂上まで這松の生えうるような高さでは、岩登りらしい岩登りを味わいうる山も、いきおい数えるほどしかない。つまりこういった彼我の客観的相違が問題となるならば、岩登りなどという登山型は、我国において岩登りに適する山が、数多くの山の中での、いわば変り種に相当するごとく、かかる登山型もまた我国における登山の発達を考えるとき、同じように一種の変り種とみなしえられないだろうか。
 しかるに一般には登山といえば、技術的登山でなくてはならないように考えられ、またそれに適ったような山ばかりが求められる傾向が、今日もなお認められるのは、どうしたわけであろうか。中略。歴史的に見れば、今日の技術的登山は我国において、なるほど比較的新しく発生し、勃興したものであり、その発生にも勃興にもそれぞれの歴史的な意義をわれわれは確かに認めるのであるが、そうかといって技術的登山が従来の登山型よりも次元の高いものであり、技術的登山でなくてはもはや登山の意義を見出しがたいとする理論にはただちに賛成しがたいのである。登山型は要するに登山者の個性の問題であり、その型の問題であると解するならば、現在の学生中にだって、浪漫型になるものもあり、技術型になるものもあっていいと思う。それを一つの型に嵌め込もうというのが形式主義だということになる。
 
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 今日的に見れば当然のことと認識されていそうである。ところがまだ岳界では岩登り技術優位論者が圧倒的に多い気がする。若いころに岩登りでならしたいわゆるアルピニストたちが仕事や家庭を理由に一旦登山界から身を引いていた人たちが定年を迎えて指導者として復帰している。中高年登山者の遭難が多いのはいわゆる岩登り技術がないからだ云々、と。こんな論調で一時中高年の間でも岩登りがブームになった。遭難対策特集号まで出して啓蒙にこれ努めた。ところが遭難は依然として増え続けている。中高年登山者のほとんどは第一の型である。最近発表された分析では道迷い、滑落、転倒が三大原因である。それに気づいて今度はルートファインディングの方法を指導し始めた。かつてアルピニストでならした人ほど細分化、理論化が好きな傾向にある。それは岩登りの級が念頭にあるからである。私の知るある指導者はヤブ山をボサ山とかいって極端に嫌っていた。馬鹿にしていた。それが突然、ヤブ山の登り方を指導する方向に変ってしまった。教えることは学ぶことというが本当だ。
 遅まきながら登山の真髄が岩登りだけでなくヤブ山登山にもあることを自ら体得したからに他ならない。気の緩みがなければ転倒も考えられない。登山する前と最中に地図を読み、地形を把握することに真剣に取り組んでおれば自ずと体、心、技が三位一体となって道迷いで下山できないなんてことは考えられないのである。 



 春山といっても日本アルプスの三、四月はまだよほど冬に近い。余り大胆な真似は禁物であろうし、またそう暢気な気持ちにもなれない。日本アルプスなら、五月の声を聞いてからだ。中略。この季節はむしろ他の山に譲りたい。(山の随筆ー春の山に登る)

 それは1000m、2000m級の連山である。いわゆるヤブ山とか申すもので、関西ならさしずめ、美濃や中国の山がこれに当たる。これらの山はヤブ山の名に背かず、ブッシュももちろん多いが、また執拗な熊笹の密生が、頂上いたるところまではなはだ盛んである。冬はヤブも隠れず、熊笹もまだ寝ていないから、変なところへはまり込めば、それこそ抜き差しならぬ辛い目を舐めねばならぬし、それかといって夏道があるわけでもない。それだからといって、何も他のシーズンには、絶対に登れないという山でもない。別段テクニカルな困難があるわけでないから、根気よく笹を分け、ヤブをくぐっていけばよいので、それが愉快な人はそうすればよい。ただ強いて困難を求めることが山登りとは思われない。また穂高や剣の岩登りや、雪中登山だけがアルピニズムでは決して無い。こういうヤブ山に、最もたやすくまた愉快に登れるときを選び、その方法を講ずるのも、一つの登山術として数えられるべきものではなかろうか。中略。こういった山に登るためには、三、四月の候が、ほとんど唯一のシーズンであるとまで推奨して惜しまないのである。中略。日本アルプスのよさを低く評価したり、日本アルプス信者をくさしたりするものでは決して無いが、日本アルプスが国立公園に指定されたのも、それが日本の山岳の代表的なものであるからというよりは、要するところ、日本では比較的珍しい風景に属するからというためではありはしないか。それにスポーツとしての登山を輸入して、これを当てはめて見るためには、日本アルプス以上にかっこうな山はなかったであろう。けれども登山が本当にスポーツとして、この国においても受け入れられ、この国のものになってしまうためには、他に類型の少ない日本アルプスの登山、その登山術、そのスペシャリストの発展のみを求めるべきではなく、これからはもっとどこへいってもあるような山、昔からその存在は知られていながら、登山の対象とはならなかった山に、もっとドシドシと、みんなで愉快に登れるようにするべきではないかと思われる。それには春山こそ、それらのヤブ山跋渉に、最もいい時期であり、また深山にスキーを馳せて、気儘にさまよい、気儘に寝て、その淡彩な東洋的な風景を賞し、あるいは杣小屋を訪ねて、その人たちと暖かい太陽を浴びて、喜びを交わすところにも、春山は十分楽しめるものであるということをここにもう一度繰り返し提言しておくことにしよう。

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 藤木久三は岩登りは『雪・岩・アルプス』の中で登山の技術の真髄といい、跡部昌三も岩登りの目的の中で登山の真髄といった。このような登山思想はおそらくヨーロッパから本場アルプスの思想を輸入されたものをそのまま日本に当てはめたものであったろう。したがって日本アルプスに登るなら登山道があっても初歩的な岩登りはマスターしておきたい。
 しかし、日本に五万とある日本的な山、いわゆる樹林で覆い尽くされた山には応用がきかない。かつて富士山で雪上技術を指導してくれた指導員が鈴鹿あたりの山で迷って山中ビバークを強いられ関係者で遭難騒ぎとなった。あの当時雪、氷、岩に通じたアルピニズムを至上最高のものと考えていたけれどもこの事件をきっかけに考えを改めた。その後も何人もスーパーアルピニストが遭難したりして技術至上主義は引っ込めた。岩登りが登山の真髄というのは日本では言いすぎである。
 振り返ってみると私自身『ぎふ百山』のうち特に美濃のヤブ山を踏破していく過程でこの文章の真実を目の当たりにした。虎子山も無雪期に登ると確かに藪山で面白い山ではない。残雪期にスキーで登り、滑降してみるとこんな愉快な登山はないとまで歓喜するのである。特に五六豪雪の年は快適であった。(被害の甚大な地域の方には申し訳ないが)
 今でも上谷山、笹ヶ峰、美濃俣丸、鳥ヶ東、烏帽子岳、といった錚々たるヤブ山には道が無く残雪期が唯一の快適な登山の好適期であろう。上谷山は一度はツボ足で登ったがある程度の高さまで登ると信じられないほどの残雪に驚き、感動して2度目に登る機会があったときはスキーを携えてヤブ尾根を登り、雪が一面に広がるところからはシールをつけて登った。つぼ足より遥かに早く確かに。そして滑降も快適であった。ヤブのところだけは閉口させられたけれどしつこいまでにスキーを使わせてもらった。
 岐阜県白鳥町の石徹白も残雪期に真価を発揮する地域である。桧峠まではもう雪が消えていても峠から先は残雪に巡りあえるのである。野伏岳、小白山、丸山など何度登っても飽きない春の山が近くにあることの幸せを思う。
 近年スキーが復活しているという。カービングスキーも普及してきた。まずは冬の間はゲレンデで基礎的なスキー術を練習しておきたい。登山の真髄とまでは言わないが近郊の低山から日本アルプスまで応用がきくので基本技術といっても言い過ぎではないだろう。3月末ともなればスキー場は閉鎖されるが山スキーはそれからがシーズンとなる。待ち遠しい春山である。



冬山のようにいつ吹雪いてくるか心配はなし、それに日が長くなったのが何よりけっこう、近いところなら思い切りスロー・テンポで登ってもいいし、遠い山まで日帰りが楽になる。山から山へとトラバースして歩くにも、夏山より遥かに時間が短縮される。春山は心も、足も軽快だ。(山の随筆ー春の山に登る)

深いラッセル、寒さ、ヤブ、短い昼間と数えただけでも、冬山に登るにはある程度の戦闘的精神を奮い起こさねばならないことが分る。そしてようやく頂上らしいところまで登りつめたところで、吹雪く日なら展望はもちろんなし、三角点の石は埋まっている。そこを頂上ということにしてエッホーを残して降りてゆく気持ちには何だか物足りなさを感ずる。

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 立春を過ぎるとさすがに日が長くなったことを実感する。それでも山に登ってみると冷たい季節風が吹いて山はまだ冬の最中であることを感得するのである。立春後の2月6日には久々に美濃と近江の境のブンゲンに出向いた。今回も登山口を揖斐高原側にした。ピークをとるだけなら奥伊吹側の方がアプローチが楽で早く登れたにも関わらず、揖斐にしたのは奥深さと雪深さを味わうためであった。
 揖斐からはリフト1本も乗らず、いきなり林道を歩く。そして江美国境が近づくにつれて次第に雪が深くなってくる。休憩時に用足しのためにスキーを外すとずぼーっと潜ってあわてることがある。今回もそんなことがあった。年末から大雪がもたらされたのである。出発は遅れたけれど日が長くなった分は気が楽である。若干の晴れ間も見て心も軽い。タイトルの文の通りである。
 国境の峠を越えて奥伊吹スキー場に入るとここはまだ冬である。何分寒い。今までは谷の中を来たから風の影響が無かった。むしろ雪も暖かい日照りで湿気を帯びて重かった。ここは吹きさらしである。ヤッケで頭の部分を覆い、帽子の耳当てで耳を保護する。捨てられたスキーリフトの寂しい風景の中で一層寒さを感じさせる。標高が1200mにもなろうというところにリフト終点がある。雪庇の陰で風をよけて休憩をとり食べ物をとる。一瞬風が緩んでまた歩き出す。スキー場から出て岐阜県との境を辿りながら粉雪の稜線を歩く。春と冬の過渡期にあっていくばくかは遠望もきく。
 出発から約4時間半もたって山頂に王手をかけたが午後1時では時間切れである。同行者ともども金を持ってくるのを忘れた。金があれば登頂を果たしてから奥伊吹スキー場の下部まで一旦は滑り降りてまた峠までリフトで戻れば時間短縮になったものを。こんなキセル登山みたいなことを考えながら早春の伊吹山地を楽しんだのである。



雪崩といえばすぐ針ノ木とか、剣沢とかの遭難が思い浮かんでくる。これは我々としてはやむをえないことかも知れぬが、しかし越後あたりの山奥で、その土地の人たちが何百年かの間にはらってきた犠牲のいかに大きいかを忘れぬようにしたい。その何百年かの経験に微しても、雪崩はいまなお避けえられるものではなかった。(山の随筆ー雪崩)

 われわれはしばしばスキーの愉快さばかりを考えて出かけた。そこが日本海に注ぐある河の源流地帯であることも、地図の上からだけ知っていたに過ぎなかった。略。
 もちろん森も家も一なめにしてしまうような大きな塵雪崩はめったにでないものかも知れぬ。津波や地震を恐れていては、この国には生活できないのと同じように、われわれは何もいたずらに雪崩を恐れるものではないが、恐ろしいものであることを十分知っていて、これに対して十分警戒して、それでもやられたならばどうか。略。
 出て行ったまま帰らぬ人を諦めるのもつらいであろうが、現にいままでいっしょにいた友達が、この雪の下に埋まっているということが分っていながら、それを捜し当てることが出来ずに、諦めて帰るときほど辛いのも、またなかろうと思う。略。雪の中では、雪の上に捜索隊の来ていることもその話し声までが手にとるように分るという。略。ここだ、ここだといくら大声でどなっても、上にいる者にはまた少しも聞こえないのだから、さぞや歯がゆいことだろう。(注1)
 けれども私は山に入って雪崩の音を聴き、そのデブリを見るごとに、自然に対する感覚のつねに新たなる興奮を感ずる。

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 登山技術は登攀用具の発展とともに進歩してきた。アイゼンをとっても古い時代には悪魔の爪と呼ばれたらしい。今では12本爪のものが主流である。山用スキーの板も締め具も格段の進歩を遂げた。このような道具を利用し習熟すれば登攀能力は大いに高まろう。にもかかわらず相変わらず雪崩だけは打つ手がない。どんな屈強のアルピニストも雪崩は征服の対象になりえなかった。南岸低気圧が通過すると太平洋側の山に大雪をもたらし、南アルプスなどの高山ではしばしば雪崩事故が起きた。2004年12月31日は北も南も大雪となった。事故が無ければいいがと思っていたら北岳で雪崩が発生し遭難事故になっていた。過去にもあった山だ。雪崩を恐れていては登山はできないのであろうか。注1のことは今ではビーコンなる道具が普及して徐々に浸透しつつあるからすでに恩恵を受けた人もいるであろう。ビーコンは雪崩を予知したりするための道具ではない。しかし、デブリの下で生きていることを知らずに諦めて下山し本当に死なせてしまう無念なことは避けられるのである。 
 著者が本当に言いたいことはなんであろうか。それは最後に掲げた言葉に表れている。私も先年、ゴールデンウィークに新潟の山へ登りに行って雪崩の音を聞いたことがある。鉾ヶ岳なる山であった。 新潟県能生町柵口にある山だ。ここは昭和61年に大規模な雪崩で死者13人という天災に遭っている。すごい雪崩防護柵を見た。これを見て表題の言葉にある”越後あたりの山奥で・・・”というのはここではないか、と思ったものである。 自然のエネルギーの偉大なことである。自然は常に畏怖の対象であれ、ということだ。子供の頃台風で川が増水するとこわごわ見に行った。今にも倒壊しそうな橋の上に立ってすごいスピードで流れる濁流に一種の興奮を覚えたものである。



なにしろ私は山の高低大小を問わず、1000mでも500mでも、そこに山らしい、私の登ってみたい山があれば、北は北海道から南は九州の果までまで、山に差別をつけないのと同じように、地域にも差別をつけないで、どこもかしこも満遍なく訪ね歩こうというのだから、山から山を経巡り歩くこの巡礼は、もともと何山登ろうという目標も、これでおしまいという終着駅もない。(自然学の提唱ー名山考)

 巡礼は名山であろうとなかろうと、お構いなしに山を登り続けていく。しかし、巡礼は人一倍多感だから、数多く登った山の中には、好きな山もあり、好きでない山もあってよいであろう。好き嫌いは個人の趣味である。以下略。
 深田は文人的な茶目っ気から、百名山を選んだといった。しかしいったん選ばれてそれが世間に広がると、こんどはこの百名山に登ることを目的とした人達が続出する。いわゆる深田宗で、あと何山で満願だなどといっている。そうした連中が年々歳々おおぜい山を訪れたとしたら、どういうことになるだろう。山頂の草も花も生身だから、たちまち彼らの登山靴に踏みにじられて、その姿を消してしまうに違いない。すると、深田は彼の百名山を犠牲にすることによって、他のもろもろの山を救うことになるのかもしれない。百名山の選にもれたもろもろの山も安心できない。山の雑誌や案内書が、追い討ちをかけているから、このようなご時勢を考えると、迂闊に口をすべらせて私の好きな山を発表できるであろうか。口を割らないというのが、私と山との約束である。

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 元々は朝日文庫の深田久弥 山の文庫1の『日本百名山』の解説に書かれた。文末に1982年(昭和57年)とあり、三重県の総門山で1300山を達成したころに書かれたようである。深田さんの死後11年たってはいるがかなり批判的な解説である。名著の解説だからちょうちんを持ちたいところであるが余人はいざ知らず、「私には百名山の選定などということに少しも興味がわかない」という。「1500m以上という規格を設けた深田百名山は、われわれ関西人からみると、結果として関東びいきということ」、と全体を通じて名山選定に批判的である。それではご自身はどうかといえば表題のように巡礼とかわす。山城30山は高さの順だから名山選定とは関係ない、といいそもそも京都周辺には名山が少ない。
 この本の解説としては適格ではなかったから出版社側の人選ミスであろう。『日本百名山』の解説欄として読むとどうも居心地が悪い。『私の自然観』に移されて独立した文としてなら居場所を得た感じである。こんなにはっきりした主張はなかなか書けるものではないし書ける人も今西さんをおいて他にはないであろう。
 余談であるが『ぎふ百山』のリストを今西さんに見てもらい序文をお願いしたところいくつもの山を指摘され「岐阜にはまだこんなええ山がいくつもある。こんな山が抜けているようではあかんな」といって断られたという。確かに御前岳、夕森山、白尾山、美濃平家など正続共に漏れたままである。それをまたはっきりいわれるところがいかにも今西さんらしい。然らば氏の言われるように山に差別をつけずに網羅的に登るしかあるまい。



頂き、頂きとはなんであるか。頂が山ではなくて、全体が山である。われわれが山を、山そのものとして見ているときには、たぶんこの全体としての山を見ているのであろう。しかるに山を登山行為の対象として眺めるとき、われわれは往々にして、頂が山であるという錯覚に陥ってしまう。頂に登る事が山登りである。(山)

 だから登山家は、まず頂の恰好で山をおぼえる。一枚の写真を見せられても、頂の部分が隠してあったら、そして樹林の茂った山腹に、同じように山ひだが並んでいるだけであったら、それがなに山か言い当てることは、とほうもなく難しいことになってしまうが、頂さえ出ていたら、それぐらいの芸当は問題ではない。登山家が頂で山をおぼえ、山を見分けるのは、われわれが顔で人を覚え、人を見分けるようなものだ。頂はつまり山の顔である。頂が山ではないが、頂によってある程度まで、山が代表されているといってもよい。

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 この言葉には思い当たる節がある人も多いだろう。しばしば登山口や登山道の様子を地元の人にうかがう際に、この山に登りたいが登山道はどこか、と聞くと中々話がかみ合わないことがある。何しに行くか、山菜か、車では登れんぞ、水晶でも探しに来たのか、あんたら学校の先生か、などと逆に聞かれて困惑する体験をもった方は少なくないだろう。そこで真意を察してもらおうと山頂へ行きたい、三角点のあるところへ行きたいんです、というとたちどころに理解を示してくれるのである。この事からも山住まいの人にとっては山は生活の場であることが分かろう。だから普段は山頂なんてまず意識することはない。
 頂が隠れていると富士山とか御岳山のような独立峰であればまだしも連山ならば相当年季を重ねた人でも同定は難しい。初めて登る山域が新鮮に感じるのはまだ目に焼きついた頂が記憶にないからである。かつて飯豊連峰に登った際に前日まで霧の中を歩いていたので周辺の景観はまったく分からなかった。御西小屋から出発の直前にぱっと晴れ間が出ると形のいい頂がまず目に入る。それははじめて見る飯豊本山(2015m)であった。そして名山とは何といってもいい形の頂を以って人々に膾炙されるのだと知る。深田久弥は『日本百名山』の後記に選定基準としてその第一は山の品格である、といい誰が見ても立派な山だと感嘆するものでなければならない、という。山域中の最高峰・大日岳(2128m)が別にあるにもかかわらず飯豊本山が中心となったのはその頂の形ではなかったかと今でも思う。



山では、ここを渡渉すれば押し流されそうだとか、この斜面を横断すれば雪崩がでそうだとかいう心配に先立って、水のざわめきや積雪のたたずまいに、なにか不快なものが感ぜられ、それで前進をひかえる事がよくあるが、いつまでも勘に頼っていないで、そんなときには、流速なり、積雪の密度なりを計って、危険の有無を確かめたらよいではないか、というのは、山を知らないもののたわごとである。(私の自然観ー山)

 私は科学の価値を認める上では、人後におちないつもりであるが、山登りもスポーツである限り、それは、われわれの身に備わった、本来の能力を開発するという、スポーツ一般の目的に、沿うものでなければならないと思う。そうとすれば、我々の祖先が、科学以前の何十万年かを、それによって生きながらえてきた、この勘というありがたいものを、もっと大切にし、これを開発するよう心がけるべきではなかろうか。

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 勘というのは当たらないこともあるし当たることもある。はなはだ不安定なものである。天気が悪い休日でああー、きっと全国的に遭難が多発しているだろうなあー、と思うときは実際そうなっている。反対に天気が悪くても何も起きないことがある。そもそも勘とはなんであろう。恐怖心、慎重さ、臆病いやいや経験知とでもいえるだろうか。辞書には理屈を越えて働く直感、とある。
 年末年始、南岸低気圧の通過は太平洋側の高山に降雪をもたらすことが知られている。これまでしばしば遭難事故が多かったこともある。湿った雪を大量に降らせると雪崩を誘発するからだ。年末に雪が少ないと思って入山したものの登山中に降雪を見て下山する際に登ってきた斜面を横断するとてきめんにやられている。北岳にしろ千畳敷にせよこのパターンにはまっている。同じ日に北アルプスの山でも素手で雪を掴めるほど暖かかった、という。気持ちが悪いなあ、遠回りだが稜線通しで行こう、とベテランでも勘を働かすことができなかったのである。何日までに自宅に帰らねばならない、などという山に関係ない心理が働くと折角の勘も利かない。お客さんの日程の都合で雪が落ち着くまで待機が出来なかったプロガイドもいたであろう。ガイド、お客ともども数名が雪崩に埋まって死んだ。
 企業の経営においても勘を働かせて成功に導いたり、暴落から損失を食い止めた例がある。それはいずれも何がしかの継続的な観察の結果である。ロシアに進出したある企業は店の品物の価格を調べていた。3年で2倍になりこれでは通貨が暴落すると読んだ。ロシアの国債を売って暴落の損失を避けることが出来た。アメリカの喜劇王といわれたチャプリンは靴磨きまで株式投資に及んでいることを知って持ち株を全部売った。一年後にはニューヨーク大暴落であった。これは数値の観察でなく人間と社会の観察であった。
 登山者としては山の隅々まで無意識に観察しておるが沢なら岸辺のゴミの付着に気をつける。増水した際の目安である。冬山であれば例えば伊吹山なら名神高速道路の関ヶ原附近でてい断走行していたら雪崩の恐れあり、とみる。北陸道の木之元IC以北がチエーン規制なら山は吹雪であろう。路上ですら雪崩の恐れがある。勘を働かすといってもあてずっぽではないはずである。何らかの変化の兆しを感じ取ることが大切だろう。熊が人里に出没することが多い今年、ああ、台風が多かったからどんぐりの実が不作だったのね、というのは後講釈である。これだけ台風が多いとどんぐりの実が不作になる、だから熊が人里に出てくるぞ、気をつけろ、というなら立派に勘が働いているといえる。
 



ほんとうの登山家とは山のことをよく知っている人であり、それゆえに登山家になろうと思えばまず山を知ることからはじめねばならぬ。(山への作法)

 山登りなどはどうせ普通の身体でさえありさえすればだれにだってできることで、とくにむつかしい登山術などという術を修練しなければならぬほどのものでもなく、むしろ登山家の間に山の登り方というものがあるとすれば、それは山を知ることによっておのずから体得されるところの、山登りの一種の礼儀作法のようなものはなかろうかとさえ、私は考えるのである。・・・・だから山登りは簡単なようであっても、自分の一挙一動がつねにぴったりとその山にあてはまって、そこにいささかの無理も無ければまた無駄も無いといったようになるまでには、一朝一夕の経験ではとうていダメなのであって、またそこまで行かねば、できあがった登山家とは申しがたいのである。以下略。
 そんなわけで、立派な登山家の薫陶を受ける機会の無い初心者は、あえて老猟師とはかぎらずとも、郷に入っては郷に従えで、その山をよく知った土地の人に教えを乞うて・・・・・・・。そして経験者といえども、都会生活を送るものが、わずかの暇を盗んで得たぐらいの経験はどうせ大したものではない。われわれは山に対してはいつになっても初心者であるという謙譲な気持ちを、つねに持っていたいものである。

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 山を知るとはどういうことか。山に登るというが我々は頂を目指して登る。頂は山ではなく一部である。山は全体を指す。しかし、山に登って山を見渡すとき頂の形をしっかり目に焼き付ける。だから頂を隠して山体だけを見せられてもどの山か見当がつかない。頂を見れば見当がつく。言わば頂は山の顔である・・・と。実はこれも今西氏の見解である。この前銚子洞の遡行に失敗して道の無い稜線に追い上げられた際に役に立ったのは正しく頂の顔(特長)であった。目に見える山々のどれか一つでも正確に同定できればあとは地形図と照合していけば自分の位置が判明し、他の山も分かろう。山を知るということは大変に広範囲な知識だけではなく尾根、谷、樹木の有様に加えて言葉にならないことも含むであろう。奥美濃の花房山に登る前に谷の近くの民家に教えを乞うたがこの谷のあそこが特に悪い、注意して行け、とアドバイスを受けた。行ってみると地元でダイラと呼んでいるところで伏流して小広くなっていた。下山の際にあれっと思ったのはこんなところを通ったのかなあ、という疑問であった。多分道迷いを心配してくれたであろう。山の隅々まで特徴を把握している(頭の中に血肉化して刻まれている)即ちこれが山を知ることであろう。



しからばこのような山を選んで、これが踏破完了を試みるということの意義ははたしてどこにあるか。(山城三十山)

 数を決めるからそこに完了ということが意味されてくるのである。つぎに山名よりも山頂であり、また山頂における三角点存在の必要性がやはりここに関連してくる。三角点を発見する・・・・その登高行為の完了が意味される。この計画の遂行とか、完了にまで努力することが必要・・・・登高精神の基礎をなすものである。こうして三角点を求めて歩いているうちに、おのずから山がわかってくるようになるのである。

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 今西氏は自力で比叡山に登ったのが最初である。京都一中時代に京都北山の山から山城三十山を選定し旧制三高時代を含めて5年で完了したらしい。登山家・今西氏のゆりかご時代であった。当時は登山の対象としてあったわけではなく、炭焼き、山住まい、そま人、猟師らの道を歩いて地図を読み、ルートファインディングして、ヤブ山登山の洗礼を受けた。後に登山を対象とする日本アルプスにも行くが満足できなかった。「私はどうしても人の通らぬところ、だれも行ったことのないところへ行こうと願った。」(初登山に寄す)という。しかし日本ではこの念願は果たしえなかった。ヒマラヤ遠征も戦争や年齢が許さなかった。晩年になって日本の各地の山を遍歴する。「まあいうたら巡礼やな、少々のカネとヒマがあったらええねん」(雑誌諸君の中にあった文だが記憶不確か)といいながら。
 大垣山岳協会でも奥美濃30山A、Bというリストを作っていた記憶がある。山城三十山のひそみに倣ったのであろう。JAC東海支部でも創立40年を記念して40山ラリーが行われて好評を博した。その後を受けて今は100周年を記念した100山ラリーが進行中である。かつて岩にハーケンを打ち込み雪にピッケルを振るっていた老アルピニストまでもが嬉々として参加を楽しんでいる。それに驚くべきはもうすでに100山を済ませてしまった人が続出しているのである。私はこの企画に反対した。3年で100山をやるのは容易ではない、ゆえに賛同を得られない。山の選定が窮屈過ぎるなどと。押し切られて私も参加したがやっと65山である。それに東海20山も私の原案がそのまま承認されてしまった。 
 ふたを開けてみれば何のことは無い。おおむね60歳以上の人の中には毎日が山登りという人もいるようである。選定についてはかなり広げられてはいるが私は多くの山を報告できなかった。からたきの峰なんていうのは塩尻市の最高峰であるがリストには無いからだ。どこかに無理が生ずるのである。しかし、古手の会員にはいい刺激を与えたと見る。かつてこんなにも愛知県を始めとする東海地方の低山が東海支部の会員によって跋渉されたことがあっただろうか。
 100山を完了したら終りではなく始まりだということになれば楽しくもありこの企画の意義もあろう。



登山家・今西錦司の言葉

数ある著作の中から含蓄の深い言葉を選んで私の言葉で理解を試みました。これまで度々手にする回数の多かった点で抜きん出ているのも今西氏の本でした。紐解くたびに文に思索の後が見られる。他人の本からの引用もなく読者をして背筋をしゃんとさせる。自分の頭と言葉で本質に向かって推敲の重ねられた文の魅力にはまってしまうのである。
M氏 西山君、『山の随筆』という本が文庫本になったよ、読んでおきなさい。柳田國男の『山の人生』や『遠野物語』くらいは読んでおけと書いてあるよ。学者の書く文は堅いがさすがだと思う。(役に立った本)
U氏 今西さんはさすがに学者だなあ。
S氏 今西先生は困難に当たったとき的確なアドバイスがポンと出てくるんだ。
私の数少ない交流から今西像は中々見えるものではない。群盲巨象を撫でる、とはこのことであろう。

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