中央アルプス・アザミ岳に登る2010年10月10日

中央アルプス南部の縦走路が開削されたのは比較的新しい。

 「岳人」101号(昭和31年9月号)によれば昭和29年の愛知岳連による国体登山部門愛知予選が摺古木山を中心として行われて以来注目され登山路開発の要望が高まったことに端を発すると言う。飯田市は地元山岳会「飯田スキ-山岳倶楽部」に踏査を依頼しその記録が101号に掲載された。この時点でもアザミ岳の名は無い。昭和34年9月号No137になって初めて登場する。この年越百山以南の山に2m幅の縦走路が開通する。松川乗り越しにはブロック建ての避難小屋が完成。摺古木山~大平峠間は4時間半のコ-スタイムで紹介されている。これにより全山縦走が可能になった。中ア登山史上記念すべき年だった。年月が流れ11年後の昭和45年12月10日に大平が集団離村し飯田市と三留野(南木曾)を結んでいた1日2本のバスも廃線となった。摺古木山まで南下してきた登山者は昭和52年版のガイドブックでは2本の選択が出来たが両方とも難儀を極めた。大平へ下山すれば飯田市への長い車道歩きが大変なアルバイトとなった。またアザミ岳を経て木曽見茶屋に下ろうとすれば手入れされないままヤブに帰っていた縦走路をル-トファイディングしながらビバ-クも覚悟の上で挑まねばならなかった。無事茶屋についてもまだ6キロ車道を歩き人里にでてやっとバスに乗って南木曾駅に出られた。下山後の不便さを嫌ってか越百山以南は再び静寂を取り戻し縦走路は荒れるに任せ荒廃した。1983年版のガイドブック以来摺古木山から大平峠間はさらっと記述するにとどめ地図からは破線路を消してある。マイカ-登山の普及と林道開発のお陰で摺古木山は日帰り出来る2000m峰として人気が高い。一方でアザミ岳は忘れられた。東沢林道終点の休憩舎から見るアザミ岳に見入って何年かたつ。近そうで遠い山になったアザミ岳に何とか立ちたい。中ア最南端の2000m峰である。登る価値はある。大平から床浪林道から摺古木からと挑戦してあっけ無くはねつけられてきた。この山に弱点は無かった。今回は4回目。

 5月6日、休憩舎で一夜を明かす。6時40分出発。いきなりの急登。しばらく歩くともう雪が現れた。春遅くになって降った雪は柔らかく潜りやすい。分岐点でトレ-スのない左へ行く。ますます雪は深くなり歩行は難渋した。夏道も一部分かりにくくしばしば立ち止まった。最後の谷の登りでは雪も締まり歩きやすくなった。南のこぶとのコルに出た。右は本峰だが前方のアザミへの尾根へショ-トカットする事にした。雪の詰まった谷を下り尾根へ2~3分で登り返す。コルまでは雪に泣かされたがコルからは雪を利用して楽が出来た。以前に下って引き返した所迄は簡単に行けた。斜めになった白骨林から笹の海を下った。残雪が所々にあり大回りしてもつなぎながら歩いた。大方は残雪の上を歩けた。1995mPから下ると湿原らしい平地にでた。また雪の上を拾って歩いた。いよいよアザミが目前に迫った。右へ回り込んで行く尾根に取り付いて登った。北面の所為か雪が多くしかもよく締まってキックステップが快い。山頂へは灌木を抜けて行く。するとピンク(元は赤か)のテ-プがあった。ほぼ昔の登山道をトレ-スしているらしい。山頂部は矮小化した灌木林だった。風が強い所為で育ちが悪く背が高くない木ばかり。シャクナゲが割りと多い。等高線が緩い地図のとうり平坦な山頂からの展望は無い。東にでて見ると休憩舎が見えた。南に目を転ずると長々と稜線が続く。が踏み跡はない。何本かの尾根が東沢に下って行く。凝視してみたが切り分けらしいものは無かった。南下は諦めざるを得なかった。山頂に戻ると志水さんが正田さんに携帯電話をかけた。つながった。緑さんが出た。今東北の岩手山と言う。地域外で聞き取りにくいが通信に関する限り日本は狭くなった。昼食を済ませてどう下山するか話し合った。北東尾根を下ろうかと偵察を試みたが雪が緩んで歩きにくくヤブもひどい。尾根の突端にすら近づけず元のル-トを下山した。1995mPまで戻ると往きには見落とした古い指導標に気づいた。これは昭和34年以来のものか!?朽ちて字は読めなかったが厚みがあってしっかりしたものだ。鞍部まで下り再び摺古木山への登りとなった。登山靴は水分をふくんで重いが通い慣れた登山道に戻ると安堵感が出た。休憩舎から再びアザミ岳を仰いだ。やはり遠い山だと思った。感慨に耽っていると続々2パ-ティの登山者が下山してきた。越百山からだと言う。山慣れた強者という感じだった。2年前の夏私も越百山へ逆縦走したがたった1パ-ティしかいなかった。GWというのに静かな山域である。

同行者 志水、甲村、横田

記録 休憩舎 6:40~山頂10:30-11:30~休憩舎14:20

中央アルプス・濃ヶ池川を溯る2010年10月10日

 知ることは喜びである。霧が晴れるように未知のことが明らかになると心まで晴れる。反面途中で引き返したり中止したりした山やル-トがあるといつまでも気になる。「みなかみは川の秘密である。川の心臓である。」又「行ってごらん、行ってごらん、そこに何があるか、行って探ってごらん」とは森本次男の「樹林の山旅」の一節である。この名著の名文に引かれて私は川旅に出た。 

 2000.6.9の夜。梅雨入り前夜と言う出発となった。出原、水野、西山は恵那SAに向かう。志水さんと合流し2台に分かれた。 R19の深夜はトラックが多く所々のPも仮眠中のクルマが多かった。我々も南木曾町で仮眠した。木曽川右岸に渡りR19から離れた公園で休んだ。午前4:30霧雨の中を発つ。日義村に着く。北に来る程に明るく雨は止み大雨の心配は無くなる。濃ヶ池林道を走ると終点で朝食。6:40出発した。踏み跡を谷に下り右岸へ渡渉した。いい道が登っている。これからは以前に来た道を辿る。右の沢はやがて伏流となり広い氾濫河原を延々遡る。「岳人」No137(昭和34年9月)の中央アルプス特集中にある将棋頭山以北の概念図には濃ヶ池から先は"シシ岩の沢"の名が印刷されている。現在の2.5万図では全流路が濃ヶ池川と印刷してある。執筆者は濃ヶ池(記事はノウガ池とカタカナで表記)を右に見て茶臼岳への尾根へ登るル-トを紹介しているがノウガ池はもう分からない。S34年当時でもすでに草原と書く。そしてコガラスキ-場からの道と合流して茶臼山への登ったらしい。(今回はこのル-トを下山する予定)。たびたびは水の流れが復活する所為か草は生えていない。上流まで来て伏流の原因が分かる。実は伏流ではなく右岸側の山崩れの土砂で川がせき止められていた。そして左岸に新しい流路を造っていたのだった。どうりで左岸から水の音が聞こえて来たはずである。支流では無く本流だった。しばらくで地図上の二股につく。滝が見える。奧にも落差の大きい滝が見えた。あれが地図上の滝マ-クの滝か。ここで写真を撮ったりした。川は急速に狭まった。沢足袋に履き替える。気合いも入れた。いよいよ本番だ。沢に入る。小滝を連続して越える。雪渓が現れる。登山靴に履き替えた。雪渓が途切れてまた沢足袋に履き替える。また雪渓が続く。それも急である。キックステップで足場をけり込む。柔らかい雪質に安心する。試みに登山靴で滑ってみたが滑らない。川から沢に入ってからぐんぐん高まる。遠方の雲が途切れてまず御岳が見える。乗鞍岳が見えた。そして穂高連峰、槍も見える。梅雨始めなのについている。最後は雪渓の詰めで終わる。山頂へはシャクナゲと這い松漕ぎが待っていた。私は直登したが後続は右の雪渓へトラバ-スしたらしい。15:05登頂。ほぼどんぴしゃだった。河原歩きと雪渓歩きが大半と言う川旅であった。三度目の山頂からの展望は広闊だった。出原さん達を待った。全員が揃ったところで記念写真。至福に浸る時間的余裕がない。スキ-場への尾根を下山した。先年の台風による倒木の処理が行われていた。以前よりは歩きやすい。スキ-場への分岐では本来濃ヶ池川へヤブを下る予定だったが時間切れでスキ-場側へ下山した。ひょっとして丸木橋でも新設されているとの期待も空しく壊れたままの吊り橋だった。ワイヤ-だけのレンジャ-まがいの渡渉に苦労した。一時間もかかりうす暗くなった。ランプをつけて歩いた。山家の灯がやけに恋しい。私達はすっかり疲れ切っていた。テントまでの道のりは遠い。ふと思いついてスキ-場外れの山宿に一夜の宿を乞うた。夜7:30なのに泊めてくれた。老寡婦が一人切り盛りする。まるで敗残兵みたいな登山者風情をよく泊めてくれたものだ。ビ-ルをよく飲んだ。すぐ寝込んだ。疲労困憊だった。志水君の体調が悪く夕食もとらず寝込んでしまった。岩登りの道具までかついで荷が重かったのだろう。水野さんとタクシ-でマイカ-を回収にいった。歩けばへとへとになりそうな距離だった。遭難の一歩手前だったかも。惨めな締めくくりだったがお助け宿が救ってくれた。

 11日は雨だった。宿で休めて改めてほっとした。マスの唐揚げが朝食にでた。またビ-ルを飲みたくなった。看板料理の岩魚は全部イタチに盗られたらしい。マスはそのままだそうな。イタチも何が美味しいか知っているのだ。しかし人間はマスの淡泊な身に味をつけて食べる。マスだって美味しいのだ。イタチめ。今度は岩魚料理を食べに来てと女主人が言う。また仲間を連れて来るよ、と約束した。親戚の人らしい老人と山の話しになった。やはりあの橋は修復がされないらしい。水量の少ない時に渡渉するしかないようだ。昨日の判断を聞くといい判断だったじゃないかと言った。渡れなかったらツエルトビバ-クして登り返しヤブル-トを突破して濃ヶ池川へ下るしかない。私はそれを覚悟していた。昨日は水野さんの勇気?あるワイヤ-渡りがすべてだったと言える。一人渡れたら続いていくだけだ。それにいざと言う時はスキ-場側なら携帯電話が使えるのもこころ強い。いろいろな思いが早送りの映画のようによぎった。

 またまた大棚入山が残ったなあ。日義村とはまだしばらく縁が続きそうである。宿を辞して雨の中を開田高原のドライブに向かった。

               参考記録

地形図 2.5万分ノ1 宮ノ越、木曽駒ヶ岳

宿   旅館 駒石荘-岩魚料理と山菜の宿  木曽駒高原スキ-場付近

    0264-23-7642   Fax 0264-23-7688

    2食付き 7500円 

*駒石とは木曽福島町から木曽駒ヶ岳に登る登山道の途中にあるピ-ク名。最近は麦草岳の名が使われるが上松町で言う名前。駒石は福島町側の名前。岡崎市出身の志賀重昂「日本風景論」の中の挿し絵「駒ヶ岳」には麦草岳、三ノ沢岳、木曽前岳が描かれている。古くから知られた名山である。駒石荘はその登山口にある。スキ-場の上部が高く開発されて低い位置になってしまったように見えるが標高1300mはある。駒石へは昨年登山道が整備された。再訪したいいい山である。

               参考文献

1.中央アルプスの山と谷「木曽の渓谷」編 中央アルパインクラブ 私家版

 これが一番詳しい。概念図もあって利用しやすい。名古屋市立つるまい中央図書館Or愛 知県立図書館に所蔵。

2.日本登山体系8.「八ヶ岳・奥秩父・中央アルプス」      白水社

 1.の主要な谷を簡略化して収めてある。濃ヶ池川は簡単に書いてある。図はなし。

3.岳人NO137「中央アルプス」特集         中部日本新聞社

 将棋頭山以北の山についてガイド紀行。濃ヶ池川の紹介はない。

4.岳人NO198「木曽」特集-郷愁と忘却の山々         東京中日新聞

 木曽駒以北の登山道の紹介。3.を踏襲している。沢についてはない。

5.信州山岳百科Ⅱ 中央アルプス北部の項            信濃毎日新聞社

 水沢山、大棚入山についての紹介記事あり。なぜか茶臼岳は省略されている。

中アルプス・北部稜線縦走(大棚入山から木曽駒へ)2010年10月10日

大棚入山に登る  

2001年8/11~8/14      8/11(土) 晴れ後曇り山は霧

 午前7時半きっかり平針駅前で永田良治氏と合流し車を水野二郎氏宅に置く。恵那で水野二郎氏と合流しやっとメンバーが揃う。昨年の御在所岳集中登山以来のパーティである。

 木曽の日義村はいつもは国道19号で通り過ぎるだけの村だが今日は奥深く野上まで入る。宮ノ越の南宮神社のある交差点を右折してすぐにまた右折するとこんな山奥に!と思うほどの立派な二車線の舗装路を行く。やがて右から来る旧道と出会い一車線になる。程なくで野上である。水沢山の北の緩斜面に広がる木曽東古道沿いの取り残されたような山里である。かの南宮神社は鉱山の神様を祀るとか。かつては山奥にマンガン鉱山があったし地形図には桑畑や牧草の記号がある。養蚕の神様と書く本もある。いずれにせよ浮世離れした静かな標高1000mの高原の村である。家構えはしっかりしていて堅実な生活ぶりと察する。村を突き抜けて左右に分かれる。右折してぐんぐん高度を稼ぐとまた分岐で右折する。

 標高点1220mとの切通しに車を停めた。以前は未舗装で法面はなかったのですぐに山中に分け入ることが出来た。午後1時半、少し戻って唐松の林内に分け入り潅木や笹を漕いで登ることになった。20Kgはあるザックがずしりと重く急登がこたえる。道は最初からないのでどこを歩いてもいいのだが幸い踏み跡(獣道)が続くところはそれに従うほうが楽だ。やがて上に向かっていく確かなルートがはっきりしてきたのでRFからも解放される。記憶のある右からの踏み跡をみて左折する。高い桧林の中の笹に覆われた尾根が登って来る所で右折して水沢山の尾根に入る。といってもここも道がある訳ではない。傾斜が緩くなった所でビバークとした。標高1650mの地点である。午後2時半だった。

 立ち木の中でツエルトをタープのように張った。風は通るが広く使える。ガスコンロで湯を沸かしレトルトを温めて食べた。水場がない所では炊事は簡単なものにならざるをえない。夜中には雨が降った。



8/12(日) 霧    水沢山、大棚入山を越えて

 午前6時、うっとうしい霧の中での出発となった。細々続く踏み跡を追って倒木や藪をやり過ごしながら登る。7時20分、開かれた山頂に着いた。最高点を過ぎても三角点を確認出来ずまた戻って確認する。ここから倒木の連続する山稜が続いた。くぐったり跨いだり回り込んだりしながらの難行苦行である。疲れて休むたびにアブやブユに悩まされた。倒木は古い朽ちたものもあれば根っこの新しいものもあった。4合目の栂平はどこかと詮索する余裕もなく過ぎてしまった。たぶん倒木で埋まったあの辺りかと推察するしかない。岳人No137の紀行案内文では巻き道が紹介されているが見当もつかない。標高点2143mからはこぶに達するたびに地形図と高度計で確認する神経質なRFを繰り返す。霧の中で見通しが悪いからだ。岩混じりのやせ尾根となる。山頂は近いぞとピッチを上げるが標高点2320mだった。ようやく日本分水嶺の稜線の一角に到達した。気を取り直して山頂を目指す。腰くらいの笹原と白骨林の中をゆっくり歩くと三角点のある山頂だった。午後12時半。この時点でもう今日中に茶臼山を超えて西駒山荘さえ到達は絶望的となった。気力も失せていた。笹に囲まれて簡単な休憩をとり次のビバーク地である2100mの鞍部を目掛けて下った。これまでよりは倒木は激減して下り易かった。それでも笹に隠れた倒木には悩まされた。しばらくは尾根らしいが傾斜が緩くなると広くなり右よりに振って尾根を外さない様に歩いた。最後の小さなこぶで右の獣道に入ってしまい2100mより下らない筈が高度計を見ると2000mを切っている。木の間越しに東の方を見ると地図に表現されているガレが見えた。すぐに間違いと分かり登り直して正しい尾根を下った。2100mの鞍部は狭いが美しい草原と笹原で落葉樹林の疎林の雰囲気のよい所だった。ここで二日目のビバークとなった。

 草と笹の上にまたがってツエルトを張った。今度はきちんと張った。風もあり2100mの高度も考えると冷えると思われたからだった。一日中霧だった。雨は降らなかったのが幸いだった。午後2時半。出発地から実に10時間余り。岳人No137の紀行ではおよそ7時間20分で茶臼に達しているのだ。大棚入山を巻いているのでそれを加味してもプラス3時間程度だから大変なアルバイトだったことが分かる。倒木を避けるアルバイトと道があるかないかでほぼ2倍違うのだ。疲れた体を横たえていると下界とは違う静寂、涼しい気温で自然な眠りにつけた。



8/13(月)     茶臼を越えて

 またも霧の朝だった。空が明るく雲が切れると周囲の山も見えたがすっきりはしなかった。鞍部を少し戻り偵察した。古い巻き道や鳥屋場小屋の跡がないか見たかった。巻き道には"たから水"という水場があるらしい。そこが5合目でもあるらしい。また濃ヶ池川から登って来る道も気をつけてみたがもう跡形もない。2100mの鞍部からはすぐに急登が始まった。登りきると明るいガレの上縁に出た。草地には花が咲いていた。再び暗い森に入った。平坦なこの2260m峰は例の岳人の紀行にある略図には"村チ10号"とある。山頂は静寂そのものだった。足元は苔むしてふわふわして私たちがまるで初登頂かと思えた。再びコンパスを出して方向を定めた。登山道の跡らしいよく踏まれた道が下っていくが倒木が邪魔でそのとおりには歩けない。鞍部は露を含んだ草が朝日に照り輝き実に美しい。白樺やシラビソの生える緩やかな高原状の山をアップダウンした。余りに美しい草原では足を進めるのが惜しいくらいだった。幾度か休んで写真を撮った。今朝のビバーク地からはハイピッチで歩ける。倒木の少ないことは幸いである。標高点2283mの傍らの 朽ちた倒木には"區劃班界"(区画班界)の旧字体の看板が打ちつけられていた。そんな字にも国有林の歴史を垣間見る。最後の小さなこぶから再び鞍部に下るとき方角の確認を怠り奈良井川の源流に下りかけた。油断大敵である。2210mの鞍部に向けてトラバースしてルートに戻れた。ここでも高度計が役に立った。鞍部から茶臼山に向かって最後のアルバイトが待っていた。

 鞍部がまず倒木地帯だった。続いて岳樺の林は倒木だらけだ。やれやれまた難行苦行が始まる。また地図を確認した。早めに尾根へ上がろう。楽になろう。そう考えて右よりにとったが尾根は這い松と石楠花が阻んだ。仕方なく左へ疎林を求めて行き再び踏み跡を見出した。やはりこれがかつての登山道らしい。徹底してこの踏み跡を追うことになった。やがて樹林が低くなった。その分密集したが探せばあるものだ。めづらしく赤テープまで見つかった。コース中2回目位だろう。何のことはない稜線の這い松を避けてその下をかいくぐって来たのだ。岩が混じりだすともう逃げられなかった。這い松を踏み岩を飛びして登った。這い松の間に踏み跡が顕著になってくるともう山頂は目前に迫った。白砂青松は海浜の美観だが山上の這い松と風化花崗岩のコントラストも美しい。しかし私の手も腕ももうやにだらけになっていた。一杯擦り傷もついていた。見慣れた茶臼山頂へは12時25分着。携帯のスイッチを入れるが早いか清水さんから連絡が入った。「今やっと茶臼に着きました。這い松の藪こぎで悪戦苦闘し時間が大幅にかかりました云々」と現状を伝えた。続いて志水君には残念だが計画の変更を伝えた。合流を断念し木曽駒ヶ岳で前途を打ち切ったことを伝えた。 

 茶臼で充分に休憩をして西駒に向かった。行者岩を過ぎ胸突きの頭が屹立している。その右を巻いて小屋に着いた。今夜は布団の上か。安堵した。ビールを飲みつつ談話を楽しんだ。小屋の客も至って少ない。今夜はカレーに舌鼓を打った。一枚の布団にゆっくり寝られた。

8/14(火)    木曽駒ヶ岳を越えて

 午前6時、今日は良く晴れた。周囲の景色が欲しいままである。6時半。小屋を出発。馬の背コースを歩き登頂。雑多な登山客で混雑していた。玉の窪小屋を経て木曽駒高原スキー場に下山した。



メンバー 西山秀夫、永田良治、水野二郎

地形図 宮ノ越、木曽駒ヶ岳 



2001年07月13日

中ア・三ノ沢岳(2846m)2001.7.13-15    三ノ沢を遡る

 7/14

 三ノ沢へは滑川のゴーロ歩きで始まる。昨年は雑然としていた堰堤工事現場も片付けられて整然としている。上手の堰堤から滑川に入りゴーロの中を歩く。二の沢は知らぬ間に過ぎ、はっきり分かる三ノ沢に入る。谷幅からすれば同格の大きな沢である。少しばかり歩くと両岸の狭まったゴルジュに入り沢歩きに来た気分がしてくる。土砂崩れで荒れていた昨年より落ち着いた感じの滑滝群を通過。小滝の連続する所へ来た。昨年夕立にあって撤退した滝は右岸を高巻きした。するとまた、滝となり息もつかせない。谷幅一杯に広がった雪渓を登る。沢足袋では滑落の不安があり慎重に登った。すぐに分岐へきた。左俣に入ると滝の連続するゴルジュになる。この1年にクライミングの腕をあげた志水君のトップで息もつかせぬ滝を次々越える。ザイル、ハーケン、アイスバイル、スリンゲを活用し時には肩も貸して突破。遂に連続した滝群を突破し終えた。今夜のビバーク用の小台地を探す。不整地だがオアシスのような草地のビバーク地が見つかった。すぐにツエルトを設営し夕食の準備にとりかかった。レトルトカレーとは寂しいが不便な沢の中では致し方ない。石が背中に当たって寝にくいのを寝返りをうって一夜を過ごした。

7/15 

 ビバーク地からもいきなり滝が始まる。ここでもザイルを出して万一に備えた。が気分的にはもう安全圏に来ているので心は軽い。若干の雪渓が残る源流部に来た。崩壊寸前の不安定な雪渓で左岸をそろりと歩いた。いよいよ細流となり水がなくなる。最後の水の少ない小滝で初めて残置ハーケンを見た。周囲はいよいよ高まり、草地は至る所お花畑、白い花、たぶんハクサンイチゲの群落か。信濃金梅も咲く。草つきをよじ登ると陶山尾根の支尾根に着く。這い松を踏みつけながら陶山尾根に合流した。するとかすかなふみ跡があった。尚も尾根の這い松をこぐとついに三ノ沢岳に登頂、ハイカーの多い山頂だった。

 休憩後、つり尾根を歩くが疲労困憊で困難を感じた。ついに宝剣岳の途中で大休みしていると布目、角谷氏らにばったり会う。半ズボン姿の軽装に赤いザック、とても70歳とは思えない身のこなしだ。やっとの思いで宝剣小屋に達する。志水君の重いザイルを北折さんが交代で持ち後半戦に入った。巻き道を歩き玉の窪沢の小屋に行く午後3時となる。突然通り雨が降る。本来ならこの小屋でもう一泊して下山したい。そんな思いを断ち切って上松尾根への巻き道を行く。ここも途中にお花畑があった。俄然少なくなった登山者は木曽側のよさでもある。単独の若い登山者、ロシア人らしい2人連れだけだった。7合目からは体力気力の勝負、ついに闇夜の道を歩く。敬神の滝に到着してほっとする。マイカーに戻ったのは午後9時すぎだった。星空の元を名古屋へと帰る。

私の地域研究「中央アルプスを登り尽くせ知り尽くせ」既報編

中央アルプスと木曽の山 概説

    同上      実践編 以前の記録

中央アルプスの文献ノート

中央アルプスデータベース

Ⅰ念願の念丈ヶ岳に登る00.5.4-5

Ⅱ忘れられた山・アザミ岳に登る00.5.6

Ⅲ廃村大平ノート

Ⅳ濃ヶ池川を遡る00.6.10

Ⅴ安平路山麓の廃村松川入ノート00.6.4

Ⅵ坊主岳00.7.9

Ⅶ-1三ノ沢岳左俣遡行-15mの滝まで00.8.5

 -2三ノ沢岳左俣遡行ー完全遡行01.7.13-15

Ⅷ赤林山と麦草岳00.9.9-10

メンバー 西山、志水、水野、北折



中央アルプスを登り尽くせ知り尽くせ14 02.7.12~14 13日 曇りのち雨  14日 曇り時々雨

 今回の目的は中央アルプス唯一の日本海側からの沢の遡行である。奈良井川は犀川の支流で最後は信濃川に合流する。加えて日本分水嶺を辿って権兵衛峠まで足を伸ばしたいと企てた。天気図には台風がちらつき気がかりではあった。それでも出発したのは御岳の牧尾ダムの貯水量が変わらなかったとの報道が決め手になった。

 金山を出たのが夜9時20分で東別院から伊那ICまでの2時間は高速の恩恵をフルに利用した。伊那からは典型的な山岳路となる。権兵衛峠を越えて奈良井川林道の車止めに着いたのは12時を回っていた。テントに入ってすぐ宴会なしで寝た。翌朝5時15分出発。長い林道歩きが始まった。乗り入れを木曽森林管理所に掛け合ったが登山者にはNOだった。道々の草花に気を紛らした。ホタルブクロがやたら多かった。黒川と分れ、すぐに左へ支線が別れるが右の白川に沿う林道に入る。ややジグザグを繰り返して行くと駒への登山口があった。道は草深い感じで余り利用されていない。ここを見送ってすぐに林道終点となる。さらに細い道が奥へ伸びており水路が横切る。水路に沿って管理用の道があり右折。水路の取り入れ口で終点となり白川に流れに面した。身支度を整えていざ出発。最初は流木や岩で荒れ気味の歩き難い中を遡行してゆく。川原の中にトロッコのレールが埋まっていた。川が広くなって程なく南沢との出合であった。南沢への誘惑を断ち切るように白川へ進んだ。意外に早い進捗は古いデータではもっと早いところで入渓しているから当然と受け止めた。水量はほぼ同じ。出合の3mの小滝を越えた。しばらくは川原歩きが続く。左岸から1本沢が出合う。先に行くと右岸の高いところから大規模に山抜けしたところに来た。新しい砕石で沢床が荒れていたのはこのせいだった。先へ進んで左折すると両岸の山が迫ってゴルジュとなる。最初の滝が現れた。F1、約5m。残念だが流木が詰まり台無しだ。流木を足場にして越すとF2、4mの斜め滝。簡単に越す。ゴルジュを過ぎるとふいに空が開けて明るい。右岸から山崩れで沢が埋まる。すぐ先の3mの滝F3は垂直に落ちている。一旦進んだが直登出来ずに戻って左岸の岩を登る。滝上で左折する。すぐにF4滑滝が続く。難なく進みF5、5mの滝があるが左を登る。4名の女性参加者も慣れてきたのかいつしか先頭をリードしていた。更に空が明るくなり周囲のまだ明るい緑色と相俟って美しい渓谷美に満足する。「初心者向きのいい沢だね」と北折さん。F6F7とすべて自力で遡行していける。しばらくは花崗岩の滑が広がって楽しい気分に浸った。爪で引っ掻いたような沢床にフエルトがよくきく。遠方には稜線が見え始めた。緑の只中にあって雪渓とすぐ上の15mの大滝がかかるのが見える。見ている最中に雪渓が緩んでどんという音と共に崩壊した様を見た。危険だなあ。と一瞬緊張が走る。雪橋はくぐっていけるが後は分からない。ここで北折さんが先頭にたった。一人一人不安定な雪橋を刺激しないように潜った。また雪橋があった。その先は川幅一杯に広がるF8、5mの滑滝であった。そしてF9、10mの滝が落ちる。左を攀じ登る。ついに今回の難場であるF10,15mの滝に来た。悪いことに雷が鳴っている。雨も降ってきた。トップは北折さんが努めてくれた。左岸から滝で落ち合っている支流の滝の水を浴びながら横切って本流の上にでた。ザイルをだしてもらいプルージックで渡りきった。最後尾以外はカラビナの方が早かったかも知れない。これで滝は終わった。あとは傾斜を増した滑が続いた。伏流した沢から草つきの斜面を登り岳樺の林の中を歩いて登山道に出た。高山特有の這い松の藪漕ぎもなく快適であった。この辺りの秋の黄葉がすばらしいだろう。11時半だった。小休止して茶臼山に向った。霧の山稜を行く。行者岩を過ぎ茶臼山へはすぐだった。一昨年の6月には濃ヶ池川を遡行して又昨年の盆休みは水沢山からこの茶臼山までの縦走で精根を費やした思い出の山頂である。中央アルプスの北部は南部以上に忘れられた山域であった。戻って西駒山荘に向った。14時半の到着だった。悪天の割りに早かったのは沢が優しかったからか。林道の出発地から約9時間の沢旅であった。標高差約1400mの堂々とした日本アルプスの沢登りである。

 「昨年もお世話になりました」と管理人にあいさつした。「あああの名古屋からの変わったルートの人ですね」と覚えていた。全員到着を待って濡れ物を干した。小屋の存在はほんとにありがたい。今夜はキャンセルが相次ぎ我々のパーティーだけの貸切となった。夕食は名物のカレーである。食が進んで御代わり続出した。酒と少々のウイスキーが回ったのか疲労からか早めの就寝となった。夜半は風の音が凄かった。

 翌朝は快晴とはならなかった。梅雨空に戻っただけである。盛り沢山の朝食を摂って満足した。今日はピークを踏まないので将棋頭山の登頂を提案した。雨具を着けて出発した。ガスの中では何も見えない。山荘に戻って分水嶺からは胸突き八丁の尾根を下った。左側が昨日の沢である。どおりで沢の傾斜もきついはずである。どんどん下る。大樽小屋を経て分岐から権兵衛峠を目指したが笹が繁茂した辺りで前途を見限った。戻って白川へ下った。林道にはトラックが入っていた。この用水路はトンネルを通って伊那へ供給されていた。天竜の水は落差の関係で利用出来ず木曽から引いていた。伊那の米は木曽の水で育ったものであった。権兵衛峠を越えて木曽へ運ぶ米は伊那の余り米・・・と俗謡に唄われた時代から相互に補完しあう時代になっていたのだ。終点に着いて帰り支度した。帰路、萱ヶ平に寄った。世に忘れられたような山村である。話をした主婦も松本に住んで今日だけ畑仕事らしい。グミの実がたわわになっていたのが印象的であった。今回は凄い滝の登攀こそ無かったがピークも踏み静かな山小屋に一泊して満ち足りた気分で終わった。

参加者 北折、木下、寺東、安藤、横田、西山(記)

2004年09月18日

中央アルプス・玉の窪沢遡行

  山行報告  04.9.18-9.20  小雨後曇り
目覚めてみると雨であった。テント内でグズグズしているうちに6時出発の目標は頓挫。計画もガラガラと音を立てて半壊する気がした。それでも今回は気合を入れ直してせめて岩小屋まででも、と9時50分に出発した。茶臼山までの登山道を歩き、吊橋を見送って正沢川に入る。この感触はいいものである。
 正沢川のゴーロが若干広がった感じがする。今年は何度も豪雨があった。上流からの土砂で沢身が盛り上がっている。水晶沢、悪沢とやり過ごして岩小屋に着く。午後を回っておりここからまだ3時間の遡行でやっとツエルトビバークに入れるがF2の難関の突破が待ち構える。沢の中での日没の早さを考慮して岩小屋でのビバークにした。いくらも行動していないが余裕をもって焚き火の準備にとりかかる。あちこちに転がっている流木を集めると山のようになった。前回は腐葉土の湿った上で何度か試みたが失敗。今回は砂地の上で成功した。瞬く間に燃え上がり薪が減っていくので再び遠くのものも集めた。若干勢いを止めて長持ちさせることにした。熾き火でコッヘルの具を煮た。ガソリンを節約できる。本来、沢では焚き火を活用すれば火器は不要と思うくらいであるがいざということもある。メニューは鍋物である。小寒い9月の沢では最適であろう。渡辺さんが永田さんから伝授されたサトイモをチンしておき、野菜も刻んでおく、とアドバイスしたとおり準備された。そして今回鍋当番の横田さんの離れ技は生肉をキッチンペーパーで包んで冷凍保存したことである。こうしておくと肉汁が解け出て味を損なわないばかりか、痛みにくいという。そんな薀蓄を聞きながら一回、二回と鍋をつつく。沢で冷やしたビール、梅酒も入って薄明るい空の下で夕餉がすすむ。
 焚き火の火勢が衰え始めたと同時にすっかり夜の帳が下りた。岩小屋に戻って寝る支度に入った。といっても特別にすることはない。只ヘッドランプだけでは不便なので1本30分は持つ小さめのローソクを灯した。砂地なので簡単に立つ。奥に3本、入り口に2本立てた。中々にムードが出た。ビバークを楽しくするばかりか、結構な明かりを提供するので貴重な物のである。渡辺さんも最後に岩小屋に来てローソクが灯っているのを見て何枚か写真を撮った。後始末ご苦労さんでしたという、最後の人への歓迎ムードのサインを感じ取ったのであろうか。
 ローソクの灯っている間は会話が途切れなかった。かなり暖かい岩小屋の夜である。
 朝を迎えた。雨は降っていない。昨夜の鍋に残した汁にうどんを6玉放り込んで食う。ほどんど平らげてコーヒーも飲むと体も目覚めてくる。さっさと片付けて6時40分、出発。沢の傾斜が急になる。沢身は土砂と流木が絡み合ってあまり美しい景ではない。沢が落ち着いてくると遡行の喜びも湧いてくる。多くの滝は土砂で埋まったようだ。高巻きする場面は殆どない。所々滑があり美しい。沢が十字のようになったところで難場か、と思われたが意外にするっと抜けられた。ホントにゴルジュ(喉元)という用語のとおりのイメージである。水量が多いと難儀するであろう。
 しばらくで玉の窪沢最大の滝F2が遠く視野に入り始めた。高さ約30mで直登は無理。左岸のルンゼに入り高巻く。虎ロープが切れて残っており利用させてもらった。かなり痛んでいるので信用しないほうがいいだろう。フィックスしてあった幹も志水君が乗ったらぼきっと音がして折れた。ぎょっとさせられた。だましだまし、体重を乗せるでもなく乗せて最大の厭らしい場面を切り抜けた。
 滝の上はまた広くなりゴーロ状で沢身が盛り上がっている。かなり荒れた印象である。難しいところはなく段々高度を上げるにしたがい沢も細くなる。RFは志水、渡辺両氏に任せ切りである。
 源流部は夢のような"さまよい"が待っていた。右か左か、コンパスを出し、地図を広げて検討する。沢は細切れのように分かれている。前方遠くに断崖が見える。あの辺りが木曽駒登山道と出会う最適地と見当をつけていく。けもの道か沢を歩いた先人の踏み跡か、このさすらいに至上の味わいがある。渡辺さんがあの滝を登りたい、と見出した辺りに向かってすっかり細くなった沢を遡る。最後の滝は右岸を巻いた。しばらく歩くと突然水が絶えた。水の音は聞こえている。伏流になったのである。モレーン(堆石)という氷河期の名残であろう。氷河が削った後がカール、カールの底に集まった石がモレーンという地形。石の堆石した下を水が流れている。登山道に出会う手前では水が流れとなっていた。知っているものだけのいい水場である。さまよい始めた辺りから紅葉も源流部では最高に達していた。いずれもナナカマドである。草紅葉もある。夢中でデジカメに納めた。こんな地形も湿原と同様微妙なバランスで成り立っている自然である。7合目の小屋があんな不便なところに建っていてどうしてこんなロケーションのいい水場もあり、平地もあるところに建てなかったか、おそらく自然破壊を考慮した、と考えるのは深読みであろうか。
 登山道に出ると安堵した。夢のようなさまよいから抜け出して広々した空間に出た。ここは麦草岳と牙岩の北のピークから下りてくる尾根にはさまれた開豁な平地であった。今まで何も知らずに歩いていた福島登山道。ただただ木曽駒の山頂を目指すためにだけ歩いた道であった。それがちょっと奥深く入ると豊かな自然の別天地であった。ケモノたちのパラダイスであった。こうして谷底の岩小屋に夢を結び、水と戯れながら遡ってきたことにより木曽駒のもつ魅力の奥深さを知った。
 玉の窪沢の遡行は無事終わった。中央の沢の中では記録が少なく、となりの細尾沢に比べるとマイナーなせいであろう。それでもやはり中央アルプスだけのことはある。スケール、水の清澄さなど中央アの特長は持っている。心残りは木曽駒の山頂を時間切れで断念したことである。しかし、源流部の紅葉は大きな収穫だったし、何より当面の計画を実行できたことが嬉しい。今年の夏は台風や大気の不安定で沢は全然やれず、山頂を踏む山行も躊躇することが多かった。
 新しく買ったデジカメは順調に撮影できPCへの取り込みも成功して、早速HPにアップできた。
参加者 L志水、渡辺、横田、西山・記 
滑を遡行する渡辺さん               玉の窪沢最大の滝 30m  

2006年08月15日

中央アルプス・小黒川本谷遡行(天竜川水系) 

 中央アルプスの将棋頭山に突き上げる小黒川本谷を遡行した。
 12日に入山予定だったが雷雨が激しくて13日入山、14、15日行動と変更した。瀬戸市のKさんと合流してR153を飯田市に向う。天竜川の左岸にある農免道路に渡り松川を目指す。再び天竜川を渡り、松川からは右岸の農免道路を走る。概ね快適である。伊那市に着いて小黒川を溯ると小黒川キャンプ場に着く。既に大勢の家族客で賑わっているのを傍目に更に奥の桂小場を目指した。桂小場は標高1250mあり御在所岳よりも高い。かつてはバスが狭い道を登山客を乗せて走っていたが今はロータリーの跡と待合所が残っている。
 奥まで車を乗り入れてテン場を探したが適地はない。止む無く東屋風のバス待合所跡に寝ることにした。天井もあり急な雨が来ても安心である。
 翌14日。7時20分に車道を奥まで歩き平成13年に完成した大堰堤を高巻いて入渓し信大ルートと別れる。但しゴーロが多く歩きにくい。最初の滝に遭遇するが左岸を巻く。しばらくゴーロが続く。赤ペンキのマーキングがあり、信大ルートと勘違いして登山道に入りゴーロを迂回することにした。二の沢出合いで再び入渓。(後でこのルートは長尾根の頭からのルートと判明)いよいよ本格的な谷の風貌が見えてきた。
 いきなり2m7m8mの連瀑に遭遇。非力な我々の肝試しのような迫力のある滝である。最初右岸を試みるが岩が濡れてスリップし易い。おまけに今日は山中ビバークの用意もあってザックの重さがこたえる。登攀力が一段落ちたみたいで適当な足場を見出せず左岸に移る。流木を利用してガレを慎重に登り木の根を足場に後続をザイルで確保して引き上げる。よく見ると幹に針金が巻いてあり、左岸から巻くのが正解だった。谷に下りるとき信大の高巻き云々の目印を発見した。高巻いてからあっても意味はないが?
 三の沢の出合いからは小滝が続いたが皆直登できる。その後も数mから10mの滝が現れるが高巻きで突破。2段10mの滝は左岸のガレ谷を溯り倒木を避けながら森に入ると踏み跡を見て谷に戻る。枝谷を通過する度に水量が減ってナメ滝が多くなる。技術的には三の沢出合い直後の連瀑以外は皆優しい印象であった。
 二時半、二股に到着。今日のビバークサイトの予定地であるが先行者らが造成したらしい台地がありツエルトを張った。沢に近いところで焚き木を集めて焚き火を試みたが失敗の連続であった。諦めて炊飯の支度にかかったがYが場所を移して試みると最初弱いながらもメラメラと燃え上がる火勢にヤッターと歓声。太い流木も次々投げ入れて焚き火を完成させた。標高はおよそ2000mくらいだから涼しいよりは小寒い。だから焚き火のありがたさが身に沁みる。
 標高の高いところでの炊飯は難しいがふっくらご飯が炊き上がった。ビール、ウイスキー、焼酎で一杯やりながら一日を振り返りかえる。今日は雷雨の心配はなくよく晴れた。眼下には伊那市街が見下ろせた。夕食を済ますと暗くならないうちに就寝の準備。7時前には寝てしまった。用足しに起きた人の話では伊那市の夜景が見えたそうだ。
 15日、段々明るくなる。熟睡はできた。朝食は昨夜のご飯の残りを味噌汁で雑炊とした。ちょっとした惣菜もプラス。さっさと済ましてツエルトを片付ける。夜に降雨がなくて幸いだった。軽量コンパクト化のためにフライシート、マット、ポール、ペグの類は持たない。支柱はストックと適当な細幹の木を切ってポール代用とした。ペグは石で代用する。最近はタープを利用するパーティーが多いようだ。これも理に適っている。
 右股か左股か迷ったが左股にした。右は200mの長い急なナメ滝があるとの記録があって安全を配慮した。水量は極端に減って足を濡らすことも少ない。すべてが滝のような谷を溯る。上部では左右から木の枝が絡むようになる。水もなくなるとルートも見出しにくい。前方が段々明るくなって近づいた気がするが前途には這い松が絡んできた。足で枝を押さえて後続に押さえてもらう間に次の枝を押さえる、そんなことを延々繰り返しながらついに砂礫を見出して這松地獄から脱出した。
 西駒山荘へは10時半着。2時間半かかった。昨日は7時間半だから10時間を要した。2年ぶりに管理人の宮下さんに挨拶。宿泊客を送り出したばかりで外で休憩中だった。毎年小屋開きの案内をもらっている。毎回変なルートから登ってくる、との印象は有るようだ。宮下さんの話では右股が正解だそうだ。コーヒーを頼んでしばし休憩する。
 その後遭難碑と将棋頭山を経巡る。再び宮下さんと談笑して下山の途についた。馬返しからは私も未知のルートであった。途中に山抜けの跡があり登山道が改修されていた。谷のゴーロの供給源はここであったか。唐松林の静かな登山道で水場も豊富だ。特にぶどうの泉は美味い水だった。水場からしばらくで桂小場であった。
 体を拭いて着替え、また農免道路を走った。駒ヶ根高原の一角にあるこぶしの湯という地味な看板を見つけて入湯した。いいお湯であった。(600円)その後園原ICから帰宅の途についた。

06.8.14 二股のビバークサイトで焚き火に成功! 最初に現れた難関の滝で右岸は諦めて左岸を高巻く

下の滝は右岸を行き上部は左岸を巻く 聖職の碑の平から伊那前岳宝剣、中岳、木曽駒を見る

右端に昨年遡行した細尾沢の源流部が見える。 ビバークサイトから左股を遡行開始。





2005年08月16日

中央アルプスの沢旅 細尾沢から伊奈川下降  2泊3日

痛快な沢と沢をつなぐ山旅であった。2.5万図 木曽駒ヶ岳と空木岳。
 8/12夜はKさんの職場近くで合流し、木曽駒高原スキー場へ。ひっそりとしている別荘にも明りがが点され、車が横付けされている。人の気配がする別荘はやはりいいものである。私達は捨てられた消防車のあるいつものところで車中泊。
 8/13朝、空はどんより曇り、今にも落ちてきそうな気配。一旦、6時出発を見合わせた。休業中のスキー場のレストラン前まで行く。ここからは山の様子が良く見えるので朝飯を作りながら稜線を観天望気する。カーラジオで天気予報を聞く限りは余り芳しくない。それでも1時間近く同じところを眺めているとガスが徐々に揚がっていくのが観察できる。こりゃ行くべきだ、と登山口まで戻って出発。7時10分であった。正沢川へ入渓。これで3度目の訪問になる。昨年遡行した玉の窪沢出合を通過。いよいよ細尾沢出合に着く。明るく広いが細尾沢の方が水量が少ないので分流で島になっている、と思ったがKさんが地形図で確認した。
 

正沢川の入渓地付近 左:正沢川本谷 右:細尾沢

細尾沢への途上にある滝 滝の右岸を攀じるKさん

細尾沢は40mの大滝まではやや荒れている感じであった。遠くからでも40mの滝は良く分る。右の枝沢に入り小高く登ってから草付を巻いて滝の方へ風化花崗岩の砂礫の涸れ沢をトラバースしていく。念のためザイルを出してもらった。樹林帯では高く上がり、右に回り込みながら、左に上がると右に涸れ沢を見る崖っぷちに明瞭な踏み跡があり、行きかけたが姿勢が不自然になるので引き返した。左に薄いが踏み跡があり、進んで見ると踏み跡が明瞭になり、細尾沢の落ち口に下れた。1時間近くはかかった。沢の中で緊張感をほぐすためにお茶を沸かした。

細尾沢に近づく 正面からの細尾沢

 ここからは明るい渓相になる。それにいつしか天気が持ち直して遠景もきく様になった。茶臼山と行者岩が間近に見える。滑、小滝が連続して飽きることがない。すべてが直登でき、気持ちがいい。すだれ状に落ちる滝のところで左岸から来る小沢と本流が互いに土砂を押し合って出来たらしい3段の台地があり、焚き火の跡もある。午後2時過ぎ、ここで早めのビバークと決めた。ビバークはツエルトが便利で未だに20年も前のものを愛用している。雨が来たのでKさんの1人用ツエルトをフライに代用したらピッタリ収まった。流木を集めて焚き火の準備をしたが殆どが湿っているためか着火しなかった。着火材が貧弱ではだめなようである。(牛乳パックがかなり有効とネットで知った。)焚き火は諦めて今夜の食事の準備にかかる。今回初めて使う丸型飯盒はレトルト食品の調理に便利であった。ようするに吊るせる取っ手のある深型鍋である。カレーとパックご飯の簡素な夕食を済ました。7時頃にはもう疲れで寝入った。かなり冷え込んできたので雨具を上下着用し、羽毛のベストも着込んだ。シュラフカバーも薄手のナイロンの通気性のいい物だったせいで保温力はないに等しい。軽量化のため快適装備を随分削ったが8時間以上も使用するなら良いものを持って来るべきであった。



8/14 朝はやはり曇りであった。夕べは雨も降った。山頂まであと数時間もかからない地点にいるはず。4時半過ぎ、起床して朝食を作る。朝はやはりお茶とみそ汁がいい。みそ汁は岡崎の某味噌メーカーのフリーズドライ製品を初めて利用したが中々いいお味であった。お湯を注ぐだけの簡便なこと、軽くてゴミが少ない。風味がある。ツエルトを片付けていざ出発。午前6時半であった。
 冷たい沢水に入るとはっと目覚める。いきなりすだれ状の滝を登る。あとは地形図を見ながら延々沢を遡って行く。そのうち、山頂付近が晴れてきた。扇形に広がる源流部に到達した。高山植物の種類も増えてKさんは喜んでいる。沢の細かい分岐が出てきた。細尾の尾根側に近づきすぎないように左に振ったがこれは失敗であった。かなりの高度感があるところまで来て俯瞰すると目指すガレははるか右に見えた。このままでは山頂に直登してしまう。岩場や極端なガレは危険なので予定のガレに向ってトラバースを開始した。低潅木の木や這松をくぐり、またいだりして(Kさんは本格的な藪漕ぎを体験したいらしい)草地に出た。はるか下には草の台地が見えた。本来はそんなところでビバークしたいものである。このミニ藪漕ぎはKさんの期待に応えただろうか。
 滑りやすい草地の急斜面を攀じ登っていくと左から「おーい」とコール。2人のパーティーからであった。彼らはわざと左のルートをとるのであろう。ガレの上に出ると美しい視界が広がった。前岳と麦草岳が並んで見えた。玉の窪小屋も見える。ここから登山道へは低い這松や岩の間を縫って登りながら木曽頂上小屋辺りに出ることが出来た。私達の風体を見て「沢登りか」と小屋の人。
軽く会釈してすぐ近くの山頂を目指す。 
 頂上は沢山の人で賑わっていた。記念写真を撮影し、簡単に腹を満たして、中岳に向う。中岳を越えて難関の宝剣岳である。岩ばかりの道で山頂には憩いの場所さえない。パスして極楽平まで下った。鎖ってこんなに多かったかな、と思うほど難コースである。岩場を終えると極楽平の一角で信じられないほど緩やかな砂礫の稜線である。三ノ沢岳がガスが晴れて三角錐の美しい山容を見せる。行ってみたい誘惑があるが今回はパスする。伊奈川の長い下りに初挑戦するからである。
 14時、三ノ沢岳への登山道を下る。最低鞍部は14時半。お花畑の中に草むらに隠れた踏み跡があり、足でより分け確かめながら下る。旧登山道であろうか。昭和10年、倉本から中八丁峠を越える登山道が御料によって整備された。昭和24年乃至25年に手入れされた古い道である。この当時の紀行ガイドでも桟橋は落ち、倒木が多くて困難、云々とある。
 この一帯は西千畳敷と呼ばれるカール地形である。山の中の草地は別天地の趣きがある。ここに営業小屋ができたら賑わうが自然保護の立場からは反対されるだろう。オーバーユースで荒れるからと木道が整備された尾瀬のようになって欲しくない。一部の知る人ぞ知る秘境を保って欲しい。草地が尽きると同時にあちこちから集まる沢の水も増えてくる。樹林が多くなり、滝場の段差も大きくなってくる。潅木を分けて沢を下っていくと突然前方に遡行者と鉢合わせしてびっくりする。こんなところで人に会うなんて。
 登るには優しいが下るには無理するまいと一箇所のみ懸垂で下降した以外は難場はなかった。三ノ沢岳に突き上げる四の沢は明瞭な沢である。ここから更に段差を下げて下っていく。右岸には断崖も露頭している。ここでなんとか保っていた空模様が怪しくなる。雨具を着た。非常に大きな岩が目立つようになる。左の稜線の方はガスがかかり、地形が把握しにくい。七曲沢が左から合流するはず。そこまで行けば沖積平野があるんではないか。今夜のビバーク地を探しながらの下降が続く。降雨の中、薄暗くなった沢は不安にかられる。
 午後4時半、七曲沢手前で左岸に沢から若干高くなった樹林帯に草地を見出す。岩室もあるが焚き火とか生活の痕跡のない岩室は不安である。もっといい草地はないか、と探したが水から離れることは安全だが不便でもあり、最初の場所に二回目のツエルトを張った。よく見ると草地にかすかな道の跡を見出す。行ってみるとすぐに倒木で塞がれる。かつては小屋でも建っていたいたような小広い緩斜面である。
 昨日は初めての予定されたビバークを体験したKさんももう2回目となるとテキパキとしている。これまでは管理された場所でのテント山行は当然経験済みであるが自分達でテントサイトを探すことまで含めるのは新鮮な発見に満ちたものであろう。沢歩きに関しては絞りに絞り込んだ装備と食料で2泊は私も初体験であった。今夜は白菜とウドンにはんぺんを加えたもの。残りの焼酎を傾けながら深山の不安な夜が更けていく。夜中にフライを叩くのは雨か樹雨か、雨ならば増水が心配だ。下流に行けば行くほど枝沢を集めるから水量が増える。地形的にも倉本道の交差地点は萩原沢岳からの稜線と熊沢岳からの尾根がもっとも接近するところである。おそらくゴルジュに近い渓相と釜、淵が連続するであろう。



 8/15、午前4時。曇りである。それでも朝になれば明るくはなる。雨でなく幸いであった。小鳥が鳴き始めた。今日も悪くはならない、と期待した。みそ汁とお茶は必ず飲んだ。昨夜の残りのウドンと野菜の煮物。5時半出発。すぐ沢に入って下降する。七曲沢らしいところを確認。でたらめに下降するわけにも行かない。左岸右岸の下降しやすいラインを描きながら下る。見込み違いと知れば渡渉で修正する。深いところで腰まで浸かる。左岸側のおお崩れが沢に押し出し、巨岩が散乱している。右岸はへつりにくい岩場である。腰まで浸かるのは不用意に不安定な岩に乗ってバランスを崩さないため。
 地図を出す回数が頻繁になる。右岸の二の沢、三の沢を確認。右岸側の高いところに岩の屹立したキバニ岩、蕎麦粒岳が青空に並ぶ。ここでデジカメの容量が不足で撮影不可能になる。今日最初のお茶を沸かした。一番景色のいいところで過ぎていくには惜しい。川幅が広くなる。倒木流木が多くなる。更に下流に近づくとついに恐れていた淵、釜に遭遇し行き詰る。左岸は急な斜面であるが獣道が見える。地図の林道めがけて獣道を這い上がったが林道は見出せず。 戻って対岸を良く見ると渡渉していけそう。右岸に上がってみると何だ、笹の中に踏み跡があった。これで釜、淵はパスした。基本的には左岸か右岸に上がって巻くことが多くなった。川幅は再び広くなり突然、砂防堰堤が出てきた。右岸を木にぶら下がって下る。次は取水用の堰堤が現れる。左岸の笹の中を行くと堰堤につながる林道に出た。ついに沢から上がった。林道から地図にあるヘアピンカーブの最初のカーブ手前に出たようだ。すると伊奈川の遡行者は林道終点まで行って沢に強引に下りているのであろうか。涸れ沢の橋でまた休憩し、お茶を沸かした。今山行でガスボンベ2個を消費したよ、とKさん。よく沸かしたからね。
 午後2時。林道を下ると約6分で倉本道の道標に出合う。再び伊奈川を渡って倉本道の急な登山道を登りはじめた。疲れた足には負担の多い急登である。八丁清水という湧き水を過ぎると美しい落葉樹の林の中を行く。登りも幾分楽になるころ峠に着いた。午後2時40分。心地よい涼風を満喫する。登ってすぐに下るから八丁か。鎖のあるところも過ぎて急に高度を下げていく。落葉樹の中の美しい笹が一面に繁茂して目に優しい。倉本道は空木岳のメインルートである。ゆえに笹や草を刈って整備するであろう。刈り払われた気持ちの良い登山道を下っていくと林道に下りた。すぐに登山道に続くはずであるが草深い。そのまま林道を歩いた。道々の草花に慰められる。山路ノほととぎす、釣舟草、節黒仙翁など。特に仙翁が多かった。これらの花には初秋の趣きが漂う。鬱蒼とした林からは蝉の鳴き声がけたたましい。「みんみーん」と。突然、林の梢に動くものが見えた。最初は猿とおもったが熊であった。初めて見た。途端に木から下って行った。襲われることもないが自然に足が速くなった。Kさんは早足になった、と笑う。いやはや。
 抜け道を行くとJR倉本駅に近づいた。サイレンが鳴った。午後5時であった。五時五分に駅着。もう歩かないでいい。体の汗を拭き、着替えて5時27分の電車を待った。冷房の効いた列車に乗る。木曽福島駅で下車。ビールで乾杯。タクシーで木曽駒高原スキー場に行く。車に戻り、ようやく終わった気がした。
 山麓の秀山荘で鉄分の多い温泉に入湯。3日分の汗を流した。Kさんにはおまけが付いていた。笹ダニであった。離そうとするが食いついて離れない。正にダニである。強引に離して帰ってから医者に診てもらっては、と提案した。ツツガムシ病の恐れもあるからだ。
 明日は友人を御岳に連れて行くというKさん。若さに脱帽。3日間の同行ありがとうございました。

センジュガンピ 伊奈川から見た蕎麦粒岳周辺

今西錦司の言葉2010年10月10日

登山家・今西錦司の言葉 座右の銘

 私の山登りはごく卑近な京都の北山から始まったものである。けれどもそこで私はなにから習ったであろうか。一言にして言えば、それはドライブウェイと木樵の通う山道との相違である。そこにまた私たちに最も親しいワンダリングなる言葉が生き生きしてくる。だから、ハイキングとワンダリングとの相違いは、第一に道の良し悪しということに帰着せしめてもよいであろう。(山岳省察ー登山の実証的一断面)

 地図にも載っていない、か細い道を辿りつつあるとき、この道がどこかの炭焼きで行き詰まりになっているのでなかろうかと心配しつつ歩んでいくとき、そしてそれが果たせるかな行き詰まりになっていて、黄昏時にヤブを漕ぎ分けている寂しいひと時、もはやすっかり月明かりの夜に変って、笹の葉末に光る露の玉に濡れそぼちながら、ひたすら山麓における安らかな憩いを願いつつ山を下りているとき、私にはそれらの情趣をハイキングと結びつけるべく、あまりに隔たったものがあるように思われるのである。中略。
 行き暮れて一夜の宿りを憂うる気持ちには、じっさい服装の華美をてらい、流行を追うゆとりがない。「旅なれば椎の葉に盛る」食事に我慢し、どこかの岩角の陰に、携帯天幕を引っかむって一人寝る夜に、谷川のせせらぎのみが遠く近く、星は自らに運行していたならば、私はただ早く朝とならんことを願うばかりである。中略。山の理論は低きより高きへと教えるけれども、小屋の設備の整った日本アルプスへ、案内人や人夫を雇って出かけるのでは、私はもはや十分満足できなくなっている。中略。
 私にとってその山が人里遠く離れていて、その頂を得るためには、谷をうがち、尾根を越えて、道を離れてからもまだ野宿を必要としなければならないような山であればいいと思う。世にあまり知られず、森が深く、谷が深ければ深いほどよい。幸いその頂には立木がなくて、暖かい日光を浴びながら展望を欲しいままにすることができ、見渡す限り山また山の中にあって、遥かの山あいからほんのちょっぴりと平原が覘いているといったような山頂を得られたら、そのときはどんなに喜ばしいことであろうか。
 
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 掲題の言葉はまずハイキングということへの批判である。そのころ関西人のハイキングといえば六甲のドライブウェイを闊歩して歩くことだったらしい。それは近代的な朗らかな社会生活の山の上にまでの延長である、と斬っている。そして嫌っていた。
 珍しく万葉集の歌を部分的に引用もしてひたすら深山漂泊の魅力を説くのである。関西(特に京都)の岳人の源流はまさに北山にあり、と思う。この文は1934年に発表された。
 1938年には森本次男が『京都北山と丹波高原』を出版している。学校の教員として後進の指導に当たり、北山の父とまで呼ばれたらしい。後に『樹林の山旅』へと展開していく。
 1938年には『鈴鹿の山と谷』の西尾寿一氏が生まれている。そして西尾氏も20歳で北山クラブに入会してヤブ山漂泊の洗礼を受けた。「第二巻を終えて」の文中で筆者はハイカーと登山者を区別して考える立場をとっている、と書く。更に続けて、道がない場合も、あっても迷い易い場合も、藪や滝や岩場があっても目的とするところを完登できる力があれば本物の自然は喜んで迎えてくれる、と。然りである。
 今西さんは北山の主というべきであろうか。別のところで北山の経立(ふったち)と呼ばれたい云々、のうろ覚えがある。経立なる言葉は柳田國男の『遠野物語』に出てくる。これも愛読書の一つであった。とまれ、京都北山に登山の原点を学んだ。それに続く人たちも北山を歩いた。北山が自在に山野を跋渉する登山者を育てたのだ。 



 技術的登山というのは、先にも記したように、我国においては従来の、より浪漫的な一般登山から派生した変り種の一種であるとも考えられるが、その側からいえば革新的な気持ちもあり、その自己集中的、技術的な性質からでも、これを一般登山から独立したものとみなしたいために、自らをスポーツ的、技術的登山であると認めるのに対して、従来の一般登山はこれを俳諧趣味的、あるいは低山趣味的登山と称し、あるいは動的登山に対する静的登山をもって区別しようとした傾向があった。(山岳省察ー山・登山・登山者の相互関係)

 このいわゆる低山趣味的登山の内容が、現今流行のハイキングなどを意味するものならば、あまり大人気なくて問題ではないが、一般登山なるものがはたしてこのようにいわゆるスポーツ的、技術的登山と対立的なものであったかどうか。日本アルプスの開拓者はおそらく岩登りを求めて山へ行ったのではあるまい。しかし、小島(烏水=日本山岳会初代会長))さんが霞沢を越えて上高地に入り、槍や穂高に登ったときのことを考えると、これを俳諧趣味とか、低山趣味的登山とかいってすましておれるだろうか。木暮さんや冠さんが辛酸を舐めて黒部の秘密を探った、ああいう登山を静的登山と称しうるだろうか。中略。しかし遠心的、浪漫的な開拓者たちといえどもかならずしも岩を避け、雪を恐れていたのではない。かれらにとって未知の山岳の不安が大きければ大きいほど、その心は高鳴り、そのためには障壁のいよいよ高く、裂谷のいよいよ深きをつねに求めていたであろう。中略。登山中岩に出くわして岩に登ればそれがすなわち岩登りである。だから一般登山の側に立って考えれば、あえて静的、動的の区別などはなく、いわゆるスポーツ的技術登山もその一つの一表現として、もともとその中に胚胎され、包含されていたので、異端視する必要などさらにないのであるが、近頃のように一般登山のなんたるかを解しないで、いたずらに形式にとらわれ、いたずらに技術の末に走るものの続出するにおいては、我国の登山の健全なる発達の為に、特殊スポーツ的、技術登山的に対して、いささかきつく当たったかもしれない。
 このように一般登山をスポーツとして解する上は、流れを伝い、森を穿って登るのもよく、岩に攀じ、雪に足場を刻んで登るのもまたよく、人それぞれ自分の登山を楽しむことが出来るならば、いずれもみな登山の本義に適ったものと思われる。

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 山岳界を見渡したとき、それを「岳人」という雑誌の編集傾向に観察した場合、またかつての時代つまり本論が書かれた戦前の頃に逆流している気がする。あるクライミングの本を読んでも一般登山をレベルの低いものとし、クライミングをレベルの高いものとみなす傾向がある。戦前でも氏は「芦屋のロックガーデンあたりで発達したアクロバチークな岩登りを邪道視して」していた。今はアクロバチークなクライミングが独立した分野になったかに思える。
 それはロッククライミングがロックを離れてウォールクライミングの分野が新しく出現したことである。愛好する読者からの強い要望があるからであろう。フリークライミング、クリーンクライミングなど理解できない用語がでてきてしばらくは戸惑ったものである。その半面で「岩と雪」が休刊に追い込まれたのはなぜであろうか。戦前に比べると確かに細分化した。三点支持は岩登りの基本中の基本であるが現代では4点支持といえまいか。ハーネスによる確保が当たり前になってきた。鈴鹿あたりの沢でも以前はヘルメットなし、ゼルプスト(ハーネス)なしで遊んだが今では完全装備で物々しい限りである。これをとってもフリークライミングの影響の大なることを考えざるを得ない。日長、一日中、オーバーハングした岩にぶら下がっていても楽しいのであればそれもいい。かつて前穂の頂上で見たクライマーはいわゆる大量のガチャ物をぶら下げてこれではとても縦走はできないと思い、明らかに一般登山とは違う分野とみなさざるをえなかった。しかし、これも彼らがスポーツ的技術的登山で穂高の一般登山道を縦走するものは俳諧的趣味登山とはいえないであろう。掲題の通りである。我々登山者(クライマーを含めて)としてはいたずらに形式主義に陥らないようにしたい。
 もし対立する時代があったとすればそれはなぜであったか。簡単に答えなど見つかるはずもない。二極分化は登山だけの世界ではない。本論では後半になって二つの型が一旦否定され、複合して遠征登山へと展開している。
 



客観的実在としての山に、孤立的な火山もあり、長大な連嶺もあり、松の木に掩(おお)われた、なだらかな低い里山から、岩と氷のアルペンの高峰まで、形にも高さにもいろいろあるように、こんどは登山者の側においても、その個性は人々によってちがう。しからば同じく登山といっても、その山が違い、その登山者が異なるにしたがって、その内容は相違してくるであろう。そしてここに異なる登山の型、もしくは登山形式が生まれ、またこれからも生まれるであろう。(山岳省察-山・登山・登山者の相互関係)

 第一の型の登山者は、一つの山に登っても、その山を、つねにより広い山塊、あるいは山群の部分と見て、その全体的関係を把握しようということに興味を持ち、第二の型の登山者は一つの山に登れば、それを直ちに全体と見て、その部分的関係に興味を感ずる。一つは遠心的であり、他は求心的であり、一つは自己開放的、浪漫的であり、他は自己集中的、技術的である。中略。自分のまだ登らない山を求めて歩く遠心的、浪漫的な登山者は、どちらかといえば山の選り好みがないのに対して、求心的、技術的な登山者のほうは、もっぱら自分の好みを守るのに忠実であって、岩登りが好きならば、谷川岳、穂高、鹿島槍というふうに、自然とその登る山の決まってくる傾向がある。これは逆に考えれば、こういう山があったからこそ、こうした型の登山者が、その個性を発揮することが出来、またそれが登山型として認められるに至ったと見ることができるのである。

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 この論考は1938年の発表であるから昭和13年である。75年も前のことである。1902年生まれであるから36歳であった。
 氏自身はもちろん第一の型である。初登山を目指して一時的に第二の型の登山にしたこともあった。すぐに自分の型に戻っている。それにしても当時すでにこんな分析を為しうる多様な登山形式があったことが興味深い。
 浦和浪漫山岳会という会には浪漫が入るが前代表の高桑氏はどちらかといえば求道者的な臭いがする。地域研究を熱心に行っていたのも集中的であった。これは第二の型であろう。
 八ヶ岳を例にとれば赤岳を中心にこれでもこれでもかというほど細部にわたって尾根、谷が登攀対象になって開拓されている。穂高、剣岳も同じである。しかし、氏は第二の型の特に技術的登山に対して疑問を投げかける。以下に再び引用する。
 
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 西欧の登山技術が伝えられ、その技術的興味と近代人のスポーツ嗜好性との間に一致を見出しえたとしても、氷河は我国には一つも存在しないのであり、頂上まで這松の生えうるような高さでは、岩登りらしい岩登りを味わいうる山も、いきおい数えるほどしかない。つまりこういった彼我の客観的相違が問題となるならば、岩登りなどという登山型は、我国において岩登りに適する山が、数多くの山の中での、いわば変り種に相当するごとく、かかる登山型もまた我国における登山の発達を考えるとき、同じように一種の変り種とみなしえられないだろうか。
 しかるに一般には登山といえば、技術的登山でなくてはならないように考えられ、またそれに適ったような山ばかりが求められる傾向が、今日もなお認められるのは、どうしたわけであろうか。中略。歴史的に見れば、今日の技術的登山は我国において、なるほど比較的新しく発生し、勃興したものであり、その発生にも勃興にもそれぞれの歴史的な意義をわれわれは確かに認めるのであるが、そうかといって技術的登山が従来の登山型よりも次元の高いものであり、技術的登山でなくてはもはや登山の意義を見出しがたいとする理論にはただちに賛成しがたいのである。登山型は要するに登山者の個性の問題であり、その型の問題であると解するならば、現在の学生中にだって、浪漫型になるものもあり、技術型になるものもあっていいと思う。それを一つの型に嵌め込もうというのが形式主義だということになる。
 
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 今日的に見れば当然のことと認識されていそうである。ところがまだ岳界では岩登り技術優位論者が圧倒的に多い気がする。若いころに岩登りでならしたいわゆるアルピニストたちが仕事や家庭を理由に一旦登山界から身を引いていた人たちが定年を迎えて指導者として復帰している。中高年登山者の遭難が多いのはいわゆる岩登り技術がないからだ云々、と。こんな論調で一時中高年の間でも岩登りがブームになった。遭難対策特集号まで出して啓蒙にこれ努めた。ところが遭難は依然として増え続けている。中高年登山者のほとんどは第一の型である。最近発表された分析では道迷い、滑落、転倒が三大原因である。それに気づいて今度はルートファインディングの方法を指導し始めた。かつてアルピニストでならした人ほど細分化、理論化が好きな傾向にある。それは岩登りの級が念頭にあるからである。私の知るある指導者はヤブ山をボサ山とかいって極端に嫌っていた。馬鹿にしていた。それが突然、ヤブ山の登り方を指導する方向に変ってしまった。教えることは学ぶことというが本当だ。
 遅まきながら登山の真髄が岩登りだけでなくヤブ山登山にもあることを自ら体得したからに他ならない。気の緩みがなければ転倒も考えられない。登山する前と最中に地図を読み、地形を把握することに真剣に取り組んでおれば自ずと体、心、技が三位一体となって道迷いで下山できないなんてことは考えられないのである。 



 春山といっても日本アルプスの三、四月はまだよほど冬に近い。余り大胆な真似は禁物であろうし、またそう暢気な気持ちにもなれない。日本アルプスなら、五月の声を聞いてからだ。中略。この季節はむしろ他の山に譲りたい。(山の随筆ー春の山に登る)

 それは1000m、2000m級の連山である。いわゆるヤブ山とか申すもので、関西ならさしずめ、美濃や中国の山がこれに当たる。これらの山はヤブ山の名に背かず、ブッシュももちろん多いが、また執拗な熊笹の密生が、頂上いたるところまではなはだ盛んである。冬はヤブも隠れず、熊笹もまだ寝ていないから、変なところへはまり込めば、それこそ抜き差しならぬ辛い目を舐めねばならぬし、それかといって夏道があるわけでもない。それだからといって、何も他のシーズンには、絶対に登れないという山でもない。別段テクニカルな困難があるわけでないから、根気よく笹を分け、ヤブをくぐっていけばよいので、それが愉快な人はそうすればよい。ただ強いて困難を求めることが山登りとは思われない。また穂高や剣の岩登りや、雪中登山だけがアルピニズムでは決して無い。こういうヤブ山に、最もたやすくまた愉快に登れるときを選び、その方法を講ずるのも、一つの登山術として数えられるべきものではなかろうか。中略。こういった山に登るためには、三、四月の候が、ほとんど唯一のシーズンであるとまで推奨して惜しまないのである。中略。日本アルプスのよさを低く評価したり、日本アルプス信者をくさしたりするものでは決して無いが、日本アルプスが国立公園に指定されたのも、それが日本の山岳の代表的なものであるからというよりは、要するところ、日本では比較的珍しい風景に属するからというためではありはしないか。それにスポーツとしての登山を輸入して、これを当てはめて見るためには、日本アルプス以上にかっこうな山はなかったであろう。けれども登山が本当にスポーツとして、この国においても受け入れられ、この国のものになってしまうためには、他に類型の少ない日本アルプスの登山、その登山術、そのスペシャリストの発展のみを求めるべきではなく、これからはもっとどこへいってもあるような山、昔からその存在は知られていながら、登山の対象とはならなかった山に、もっとドシドシと、みんなで愉快に登れるようにするべきではないかと思われる。それには春山こそ、それらのヤブ山跋渉に、最もいい時期であり、また深山にスキーを馳せて、気儘にさまよい、気儘に寝て、その淡彩な東洋的な風景を賞し、あるいは杣小屋を訪ねて、その人たちと暖かい太陽を浴びて、喜びを交わすところにも、春山は十分楽しめるものであるということをここにもう一度繰り返し提言しておくことにしよう。

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 藤木久三は岩登りは『雪・岩・アルプス』の中で登山の技術の真髄といい、跡部昌三も岩登りの目的の中で登山の真髄といった。このような登山思想はおそらくヨーロッパから本場アルプスの思想を輸入されたものをそのまま日本に当てはめたものであったろう。したがって日本アルプスに登るなら登山道があっても初歩的な岩登りはマスターしておきたい。
 しかし、日本に五万とある日本的な山、いわゆる樹林で覆い尽くされた山には応用がきかない。かつて富士山で雪上技術を指導してくれた指導員が鈴鹿あたりの山で迷って山中ビバークを強いられ関係者で遭難騒ぎとなった。あの当時雪、氷、岩に通じたアルピニズムを至上最高のものと考えていたけれどもこの事件をきっかけに考えを改めた。その後も何人もスーパーアルピニストが遭難したりして技術至上主義は引っ込めた。岩登りが登山の真髄というのは日本では言いすぎである。
 振り返ってみると私自身『ぎふ百山』のうち特に美濃のヤブ山を踏破していく過程でこの文章の真実を目の当たりにした。虎子山も無雪期に登ると確かに藪山で面白い山ではない。残雪期にスキーで登り、滑降してみるとこんな愉快な登山はないとまで歓喜するのである。特に五六豪雪の年は快適であった。(被害の甚大な地域の方には申し訳ないが)
 今でも上谷山、笹ヶ峰、美濃俣丸、鳥ヶ東、烏帽子岳、といった錚々たるヤブ山には道が無く残雪期が唯一の快適な登山の好適期であろう。上谷山は一度はツボ足で登ったがある程度の高さまで登ると信じられないほどの残雪に驚き、感動して2度目に登る機会があったときはスキーを携えてヤブ尾根を登り、雪が一面に広がるところからはシールをつけて登った。つぼ足より遥かに早く確かに。そして滑降も快適であった。ヤブのところだけは閉口させられたけれどしつこいまでにスキーを使わせてもらった。
 岐阜県白鳥町の石徹白も残雪期に真価を発揮する地域である。桧峠まではもう雪が消えていても峠から先は残雪に巡りあえるのである。野伏岳、小白山、丸山など何度登っても飽きない春の山が近くにあることの幸せを思う。
 近年スキーが復活しているという。カービングスキーも普及してきた。まずは冬の間はゲレンデで基礎的なスキー術を練習しておきたい。登山の真髄とまでは言わないが近郊の低山から日本アルプスまで応用がきくので基本技術といっても言い過ぎではないだろう。3月末ともなればスキー場は閉鎖されるが山スキーはそれからがシーズンとなる。待ち遠しい春山である。



冬山のようにいつ吹雪いてくるか心配はなし、それに日が長くなったのが何よりけっこう、近いところなら思い切りスロー・テンポで登ってもいいし、遠い山まで日帰りが楽になる。山から山へとトラバースして歩くにも、夏山より遥かに時間が短縮される。春山は心も、足も軽快だ。(山の随筆ー春の山に登る)

深いラッセル、寒さ、ヤブ、短い昼間と数えただけでも、冬山に登るにはある程度の戦闘的精神を奮い起こさねばならないことが分る。そしてようやく頂上らしいところまで登りつめたところで、吹雪く日なら展望はもちろんなし、三角点の石は埋まっている。そこを頂上ということにしてエッホーを残して降りてゆく気持ちには何だか物足りなさを感ずる。

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 立春を過ぎるとさすがに日が長くなったことを実感する。それでも山に登ってみると冷たい季節風が吹いて山はまだ冬の最中であることを感得するのである。立春後の2月6日には久々に美濃と近江の境のブンゲンに出向いた。今回も登山口を揖斐高原側にした。ピークをとるだけなら奥伊吹側の方がアプローチが楽で早く登れたにも関わらず、揖斐にしたのは奥深さと雪深さを味わうためであった。
 揖斐からはリフト1本も乗らず、いきなり林道を歩く。そして江美国境が近づくにつれて次第に雪が深くなってくる。休憩時に用足しのためにスキーを外すとずぼーっと潜ってあわてることがある。今回もそんなことがあった。年末から大雪がもたらされたのである。出発は遅れたけれど日が長くなった分は気が楽である。若干の晴れ間も見て心も軽い。タイトルの文の通りである。
 国境の峠を越えて奥伊吹スキー場に入るとここはまだ冬である。何分寒い。今までは谷の中を来たから風の影響が無かった。むしろ雪も暖かい日照りで湿気を帯びて重かった。ここは吹きさらしである。ヤッケで頭の部分を覆い、帽子の耳当てで耳を保護する。捨てられたスキーリフトの寂しい風景の中で一層寒さを感じさせる。標高が1200mにもなろうというところにリフト終点がある。雪庇の陰で風をよけて休憩をとり食べ物をとる。一瞬風が緩んでまた歩き出す。スキー場から出て岐阜県との境を辿りながら粉雪の稜線を歩く。春と冬の過渡期にあっていくばくかは遠望もきく。
 出発から約4時間半もたって山頂に王手をかけたが午後1時では時間切れである。同行者ともども金を持ってくるのを忘れた。金があれば登頂を果たしてから奥伊吹スキー場の下部まで一旦は滑り降りてまた峠までリフトで戻れば時間短縮になったものを。こんなキセル登山みたいなことを考えながら早春の伊吹山地を楽しんだのである。



雪崩といえばすぐ針ノ木とか、剣沢とかの遭難が思い浮かんでくる。これは我々としてはやむをえないことかも知れぬが、しかし越後あたりの山奥で、その土地の人たちが何百年かの間にはらってきた犠牲のいかに大きいかを忘れぬようにしたい。その何百年かの経験に微しても、雪崩はいまなお避けえられるものではなかった。(山の随筆ー雪崩)

 われわれはしばしばスキーの愉快さばかりを考えて出かけた。そこが日本海に注ぐある河の源流地帯であることも、地図の上からだけ知っていたに過ぎなかった。略。
 もちろん森も家も一なめにしてしまうような大きな塵雪崩はめったにでないものかも知れぬ。津波や地震を恐れていては、この国には生活できないのと同じように、われわれは何もいたずらに雪崩を恐れるものではないが、恐ろしいものであることを十分知っていて、これに対して十分警戒して、それでもやられたならばどうか。略。
 出て行ったまま帰らぬ人を諦めるのもつらいであろうが、現にいままでいっしょにいた友達が、この雪の下に埋まっているということが分っていながら、それを捜し当てることが出来ずに、諦めて帰るときほど辛いのも、またなかろうと思う。略。雪の中では、雪の上に捜索隊の来ていることもその話し声までが手にとるように分るという。略。ここだ、ここだといくら大声でどなっても、上にいる者にはまた少しも聞こえないのだから、さぞや歯がゆいことだろう。(注1)
 けれども私は山に入って雪崩の音を聴き、そのデブリを見るごとに、自然に対する感覚のつねに新たなる興奮を感ずる。

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 登山技術は登攀用具の発展とともに進歩してきた。アイゼンをとっても古い時代には悪魔の爪と呼ばれたらしい。今では12本爪のものが主流である。山用スキーの板も締め具も格段の進歩を遂げた。このような道具を利用し習熟すれば登攀能力は大いに高まろう。にもかかわらず相変わらず雪崩だけは打つ手がない。どんな屈強のアルピニストも雪崩は征服の対象になりえなかった。南岸低気圧が通過すると太平洋側の山に大雪をもたらし、南アルプスなどの高山ではしばしば雪崩事故が起きた。2004年12月31日は北も南も大雪となった。事故が無ければいいがと思っていたら北岳で雪崩が発生し遭難事故になっていた。過去にもあった山だ。雪崩を恐れていては登山はできないのであろうか。注1のことは今ではビーコンなる道具が普及して徐々に浸透しつつあるからすでに恩恵を受けた人もいるであろう。ビーコンは雪崩を予知したりするための道具ではない。しかし、デブリの下で生きていることを知らずに諦めて下山し本当に死なせてしまう無念なことは避けられるのである。 
 著者が本当に言いたいことはなんであろうか。それは最後に掲げた言葉に表れている。私も先年、ゴールデンウィークに新潟の山へ登りに行って雪崩の音を聞いたことがある。鉾ヶ岳なる山であった。 新潟県能生町柵口にある山だ。ここは昭和61年に大規模な雪崩で死者13人という天災に遭っている。すごい雪崩防護柵を見た。これを見て表題の言葉にある”越後あたりの山奥で・・・”というのはここではないか、と思ったものである。 自然のエネルギーの偉大なことである。自然は常に畏怖の対象であれ、ということだ。子供の頃台風で川が増水するとこわごわ見に行った。今にも倒壊しそうな橋の上に立ってすごいスピードで流れる濁流に一種の興奮を覚えたものである。



なにしろ私は山の高低大小を問わず、1000mでも500mでも、そこに山らしい、私の登ってみたい山があれば、北は北海道から南は九州の果までまで、山に差別をつけないのと同じように、地域にも差別をつけないで、どこもかしこも満遍なく訪ね歩こうというのだから、山から山を経巡り歩くこの巡礼は、もともと何山登ろうという目標も、これでおしまいという終着駅もない。(自然学の提唱ー名山考)

 巡礼は名山であろうとなかろうと、お構いなしに山を登り続けていく。しかし、巡礼は人一倍多感だから、数多く登った山の中には、好きな山もあり、好きでない山もあってよいであろう。好き嫌いは個人の趣味である。以下略。
 深田は文人的な茶目っ気から、百名山を選んだといった。しかしいったん選ばれてそれが世間に広がると、こんどはこの百名山に登ることを目的とした人達が続出する。いわゆる深田宗で、あと何山で満願だなどといっている。そうした連中が年々歳々おおぜい山を訪れたとしたら、どういうことになるだろう。山頂の草も花も生身だから、たちまち彼らの登山靴に踏みにじられて、その姿を消してしまうに違いない。すると、深田は彼の百名山を犠牲にすることによって、他のもろもろの山を救うことになるのかもしれない。百名山の選にもれたもろもろの山も安心できない。山の雑誌や案内書が、追い討ちをかけているから、このようなご時勢を考えると、迂闊に口をすべらせて私の好きな山を発表できるであろうか。口を割らないというのが、私と山との約束である。

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 元々は朝日文庫の深田久弥 山の文庫1の『日本百名山』の解説に書かれた。文末に1982年(昭和57年)とあり、三重県の総門山で1300山を達成したころに書かれたようである。深田さんの死後11年たってはいるがかなり批判的な解説である。名著の解説だからちょうちんを持ちたいところであるが余人はいざ知らず、「私には百名山の選定などということに少しも興味がわかない」という。「1500m以上という規格を設けた深田百名山は、われわれ関西人からみると、結果として関東びいきということ」、と全体を通じて名山選定に批判的である。それではご自身はどうかといえば表題のように巡礼とかわす。山城30山は高さの順だから名山選定とは関係ない、といいそもそも京都周辺には名山が少ない。
 この本の解説としては適格ではなかったから出版社側の人選ミスであろう。『日本百名山』の解説欄として読むとどうも居心地が悪い。『私の自然観』に移されて独立した文としてなら居場所を得た感じである。こんなにはっきりした主張はなかなか書けるものではないし書ける人も今西さんをおいて他にはないであろう。
 余談であるが『ぎふ百山』のリストを今西さんに見てもらい序文をお願いしたところいくつもの山を指摘され「岐阜にはまだこんなええ山がいくつもある。こんな山が抜けているようではあかんな」といって断られたという。確かに御前岳、夕森山、白尾山、美濃平家など正続共に漏れたままである。それをまたはっきりいわれるところがいかにも今西さんらしい。然らば氏の言われるように山に差別をつけずに網羅的に登るしかあるまい。



頂き、頂きとはなんであるか。頂が山ではなくて、全体が山である。われわれが山を、山そのものとして見ているときには、たぶんこの全体としての山を見ているのであろう。しかるに山を登山行為の対象として眺めるとき、われわれは往々にして、頂が山であるという錯覚に陥ってしまう。頂に登る事が山登りである。(山)

 だから登山家は、まず頂の恰好で山をおぼえる。一枚の写真を見せられても、頂の部分が隠してあったら、そして樹林の茂った山腹に、同じように山ひだが並んでいるだけであったら、それがなに山か言い当てることは、とほうもなく難しいことになってしまうが、頂さえ出ていたら、それぐらいの芸当は問題ではない。登山家が頂で山をおぼえ、山を見分けるのは、われわれが顔で人を覚え、人を見分けるようなものだ。頂はつまり山の顔である。頂が山ではないが、頂によってある程度まで、山が代表されているといってもよい。

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 この言葉には思い当たる節がある人も多いだろう。しばしば登山口や登山道の様子を地元の人にうかがう際に、この山に登りたいが登山道はどこか、と聞くと中々話がかみ合わないことがある。何しに行くか、山菜か、車では登れんぞ、水晶でも探しに来たのか、あんたら学校の先生か、などと逆に聞かれて困惑する体験をもった方は少なくないだろう。そこで真意を察してもらおうと山頂へ行きたい、三角点のあるところへ行きたいんです、というとたちどころに理解を示してくれるのである。この事からも山住まいの人にとっては山は生活の場であることが分かろう。だから普段は山頂なんてまず意識することはない。
 頂が隠れていると富士山とか御岳山のような独立峰であればまだしも連山ならば相当年季を重ねた人でも同定は難しい。初めて登る山域が新鮮に感じるのはまだ目に焼きついた頂が記憶にないからである。かつて飯豊連峰に登った際に前日まで霧の中を歩いていたので周辺の景観はまったく分からなかった。御西小屋から出発の直前にぱっと晴れ間が出ると形のいい頂がまず目に入る。それははじめて見る飯豊本山(2015m)であった。そして名山とは何といってもいい形の頂を以って人々に膾炙されるのだと知る。深田久弥は『日本百名山』の後記に選定基準としてその第一は山の品格である、といい誰が見ても立派な山だと感嘆するものでなければならない、という。山域中の最高峰・大日岳(2128m)が別にあるにもかかわらず飯豊本山が中心となったのはその頂の形ではなかったかと今でも思う。



山では、ここを渡渉すれば押し流されそうだとか、この斜面を横断すれば雪崩がでそうだとかいう心配に先立って、水のざわめきや積雪のたたずまいに、なにか不快なものが感ぜられ、それで前進をひかえる事がよくあるが、いつまでも勘に頼っていないで、そんなときには、流速なり、積雪の密度なりを計って、危険の有無を確かめたらよいではないか、というのは、山を知らないもののたわごとである。(私の自然観ー山)

 私は科学の価値を認める上では、人後におちないつもりであるが、山登りもスポーツである限り、それは、われわれの身に備わった、本来の能力を開発するという、スポーツ一般の目的に、沿うものでなければならないと思う。そうとすれば、我々の祖先が、科学以前の何十万年かを、それによって生きながらえてきた、この勘というありがたいものを、もっと大切にし、これを開発するよう心がけるべきではなかろうか。

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 勘というのは当たらないこともあるし当たることもある。はなはだ不安定なものである。天気が悪い休日でああー、きっと全国的に遭難が多発しているだろうなあー、と思うときは実際そうなっている。反対に天気が悪くても何も起きないことがある。そもそも勘とはなんであろう。恐怖心、慎重さ、臆病いやいや経験知とでもいえるだろうか。辞書には理屈を越えて働く直感、とある。
 年末年始、南岸低気圧の通過は太平洋側の高山に降雪をもたらすことが知られている。これまでしばしば遭難事故が多かったこともある。湿った雪を大量に降らせると雪崩を誘発するからだ。年末に雪が少ないと思って入山したものの登山中に降雪を見て下山する際に登ってきた斜面を横断するとてきめんにやられている。北岳にしろ千畳敷にせよこのパターンにはまっている。同じ日に北アルプスの山でも素手で雪を掴めるほど暖かかった、という。気持ちが悪いなあ、遠回りだが稜線通しで行こう、とベテランでも勘を働かすことができなかったのである。何日までに自宅に帰らねばならない、などという山に関係ない心理が働くと折角の勘も利かない。お客さんの日程の都合で雪が落ち着くまで待機が出来なかったプロガイドもいたであろう。ガイド、お客ともども数名が雪崩に埋まって死んだ。
 企業の経営においても勘を働かせて成功に導いたり、暴落から損失を食い止めた例がある。それはいずれも何がしかの継続的な観察の結果である。ロシアに進出したある企業は店の品物の価格を調べていた。3年で2倍になりこれでは通貨が暴落すると読んだ。ロシアの国債を売って暴落の損失を避けることが出来た。アメリカの喜劇王といわれたチャプリンは靴磨きまで株式投資に及んでいることを知って持ち株を全部売った。一年後にはニューヨーク大暴落であった。これは数値の観察でなく人間と社会の観察であった。
 登山者としては山の隅々まで無意識に観察しておるが沢なら岸辺のゴミの付着に気をつける。増水した際の目安である。冬山であれば例えば伊吹山なら名神高速道路の関ヶ原附近でてい断走行していたら雪崩の恐れあり、とみる。北陸道の木之元IC以北がチエーン規制なら山は吹雪であろう。路上ですら雪崩の恐れがある。勘を働かすといってもあてずっぽではないはずである。何らかの変化の兆しを感じ取ることが大切だろう。熊が人里に出没することが多い今年、ああ、台風が多かったからどんぐりの実が不作だったのね、というのは後講釈である。これだけ台風が多いとどんぐりの実が不作になる、だから熊が人里に出てくるぞ、気をつけろ、というなら立派に勘が働いているといえる。
 



ほんとうの登山家とは山のことをよく知っている人であり、それゆえに登山家になろうと思えばまず山を知ることからはじめねばならぬ。(山への作法)

 山登りなどはどうせ普通の身体でさえありさえすればだれにだってできることで、とくにむつかしい登山術などという術を修練しなければならぬほどのものでもなく、むしろ登山家の間に山の登り方というものがあるとすれば、それは山を知ることによっておのずから体得されるところの、山登りの一種の礼儀作法のようなものはなかろうかとさえ、私は考えるのである。・・・・だから山登りは簡単なようであっても、自分の一挙一動がつねにぴったりとその山にあてはまって、そこにいささかの無理も無ければまた無駄も無いといったようになるまでには、一朝一夕の経験ではとうていダメなのであって、またそこまで行かねば、できあがった登山家とは申しがたいのである。以下略。
 そんなわけで、立派な登山家の薫陶を受ける機会の無い初心者は、あえて老猟師とはかぎらずとも、郷に入っては郷に従えで、その山をよく知った土地の人に教えを乞うて・・・・・・・。そして経験者といえども、都会生活を送るものが、わずかの暇を盗んで得たぐらいの経験はどうせ大したものではない。われわれは山に対してはいつになっても初心者であるという謙譲な気持ちを、つねに持っていたいものである。

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 山を知るとはどういうことか。山に登るというが我々は頂を目指して登る。頂は山ではなく一部である。山は全体を指す。しかし、山に登って山を見渡すとき頂の形をしっかり目に焼き付ける。だから頂を隠して山体だけを見せられてもどの山か見当がつかない。頂を見れば見当がつく。言わば頂は山の顔である・・・と。実はこれも今西氏の見解である。この前銚子洞の遡行に失敗して道の無い稜線に追い上げられた際に役に立ったのは正しく頂の顔(特長)であった。目に見える山々のどれか一つでも正確に同定できればあとは地形図と照合していけば自分の位置が判明し、他の山も分かろう。山を知るということは大変に広範囲な知識だけではなく尾根、谷、樹木の有様に加えて言葉にならないことも含むであろう。奥美濃の花房山に登る前に谷の近くの民家に教えを乞うたがこの谷のあそこが特に悪い、注意して行け、とアドバイスを受けた。行ってみると地元でダイラと呼んでいるところで伏流して小広くなっていた。下山の際にあれっと思ったのはこんなところを通ったのかなあ、という疑問であった。多分道迷いを心配してくれたであろう。山の隅々まで特徴を把握している(頭の中に血肉化して刻まれている)即ちこれが山を知ることであろう。



しからばこのような山を選んで、これが踏破完了を試みるということの意義ははたしてどこにあるか。(山城三十山)

 数を決めるからそこに完了ということが意味されてくるのである。つぎに山名よりも山頂であり、また山頂における三角点存在の必要性がやはりここに関連してくる。三角点を発見する・・・・その登高行為の完了が意味される。この計画の遂行とか、完了にまで努力することが必要・・・・登高精神の基礎をなすものである。こうして三角点を求めて歩いているうちに、おのずから山がわかってくるようになるのである。

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 今西氏は自力で比叡山に登ったのが最初である。京都一中時代に京都北山の山から山城三十山を選定し旧制三高時代を含めて5年で完了したらしい。登山家・今西氏のゆりかご時代であった。当時は登山の対象としてあったわけではなく、炭焼き、山住まい、そま人、猟師らの道を歩いて地図を読み、ルートファインディングして、ヤブ山登山の洗礼を受けた。後に登山を対象とする日本アルプスにも行くが満足できなかった。「私はどうしても人の通らぬところ、だれも行ったことのないところへ行こうと願った。」(初登山に寄す)という。しかし日本ではこの念願は果たしえなかった。ヒマラヤ遠征も戦争や年齢が許さなかった。晩年になって日本の各地の山を遍歴する。「まあいうたら巡礼やな、少々のカネとヒマがあったらええねん」(雑誌諸君の中にあった文だが記憶不確か)といいながら。
 大垣山岳協会でも奥美濃30山A、Bというリストを作っていた記憶がある。山城三十山のひそみに倣ったのであろう。JAC東海支部でも創立40年を記念して40山ラリーが行われて好評を博した。その後を受けて今は100周年を記念した100山ラリーが進行中である。かつて岩にハーケンを打ち込み雪にピッケルを振るっていた老アルピニストまでもが嬉々として参加を楽しんでいる。それに驚くべきはもうすでに100山を済ませてしまった人が続出しているのである。私はこの企画に反対した。3年で100山をやるのは容易ではない、ゆえに賛同を得られない。山の選定が窮屈過ぎるなどと。押し切られて私も参加したがやっと65山である。それに東海20山も私の原案がそのまま承認されてしまった。 
 ふたを開けてみれば何のことは無い。おおむね60歳以上の人の中には毎日が山登りという人もいるようである。選定についてはかなり広げられてはいるが私は多くの山を報告できなかった。からたきの峰なんていうのは塩尻市の最高峰であるがリストには無いからだ。どこかに無理が生ずるのである。しかし、古手の会員にはいい刺激を与えたと見る。かつてこんなにも愛知県を始めとする東海地方の低山が東海支部の会員によって跋渉されたことがあっただろうか。
 100山を完了したら終りではなく始まりだということになれば楽しくもありこの企画の意義もあろう。



登山家・今西錦司の言葉

数ある著作の中から含蓄の深い言葉を選んで私の言葉で理解を試みました。これまで度々手にする回数の多かった点で抜きん出ているのも今西氏の本でした。紐解くたびに文に思索の後が見られる。他人の本からの引用もなく読者をして背筋をしゃんとさせる。自分の頭と言葉で本質に向かって推敲の重ねられた文の魅力にはまってしまうのである。
M氏 西山君、『山の随筆』という本が文庫本になったよ、読んでおきなさい。柳田國男の『山の人生』や『遠野物語』くらいは読んでおけと書いてあるよ。学者の書く文は堅いがさすがだと思う。(役に立った本)
U氏 今西さんはさすがに学者だなあ。
S氏 今西先生は困難に当たったとき的確なアドバイスがポンと出てくるんだ。
私の数少ない交流から今西像は中々見えるものではない。群盲巨象を撫でる、とはこのことであろう。

跡部省三語録2010年10月10日

 朋文堂昭和24年10月号「山」P77  跡部昌三執筆 ”岩登りの目的”の全文

 いまごろ、岩登りの目的などどと持ち出すととんだ物笑いを招くかもしれない。

 しかし、岩登りの目的は、といわれてすぐに答えられる人はあまりなさそうである。岩登り の技術書をひっくり繰り返してみても、そんな項目は見当たらない。だが、その答えができ ない人はおそらくない筈だ。こんな問題はその人その人によって、適当に考え処置されて、 いまさら持ち出すことまでもないことのようである。

 現在、岩登りの目的を定義ずけることはさして難事なことではないが、今の私が問題とし たいのはこのことではない。

 岩登りの技術と経験とをもってまだ人の息のかからぬ壁に挑み、未知の岩峯に若さをか けてみようと念願してしている人もあろう。このような人は、いわば天才型であって、まった く恵まれた人といえる。しかし、このようなタイプを、一般に求めることは無理であるし、まず 通用しないことである。また、岩登りの天才を養成することも、至難に近いと思う。

 職業も、年齢も、環境も、気質も違っている人達のあつまりである山岳会などで、天才型 を育成しようなどと考えることは、とんでもないことである。かりにこのような天才が輩出さ れたとしても、それはなんだか宙に浮いた存在のように考えられ、時には単なる看板に過 ぎないように思われる。天才型は、むしろ会から離れて、信頼できる仲間とともに、みっち り磨きをかけて、ぐんぐん伸びてゆくことを考えるべきで、新人の養成とか、会の存在意義 など云々していることは邪魔こそなれ、なんのたしにもならぬ。

 私のいいたいことは、山が好きというものの、多種多様な人の集まりである山岳会として どこに岩登りの目的を持ってゆくかである。出来れば精鋭主義もよいが、一般山岳会では 谷歩きの好きな会員もあれば、藪山で充分だと思っているものもあって、会としては一部 の特定のものだけにかかわっていられるものでもなく、つねに全体のことを考えていなけれ ばならぬ。これがわずらわしいようなれば、あっさり会なんか解消した方がさっぱりしてい い。

 会としてなりたっている以上、その行くべき道がある。その一つとしてまったき(注1)登山者 への育成の問題がある。岩登りは、その技術は、登山の、技術のエッセンスのように考え られるし、そこに登山の真髄といったものをみだすのである。したがって、好むと好まざると にかかわらず、ある一定のところまでは、必ずやってもらわなくはならぬ。でないことには、 会として心細くて一人歩きもしてもらえないことになる。岩登りと、その技術は登山する上に おいて、基礎技術として修得することが登山者の先決条件としての必須科目であり、捷路 (注2)であることをはっきり認識して欲しいのである。   (筆者は名古屋山岳会会長)



注1 まったき:古語の全し=またしの形クを促音化して”まったし”となり、その連体形と思われる。

    完全な、欠けたところがない、の意味。

注2 しょうろ=近道
  

  昭和25年10月号「岳人」No30 P22 「鈴鹿の山」の全文再録

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 遠い祖先からの生活にしみこみ、共に明け暮れしてきた西の山。濃尾平野の彼方に西の 山が現われて天気は上がり、隠されて雨となり、雪が懸かって襟を合わせ、雪が消えて春 を向かえ、日々の暮らしに間近に見てきた西の山の連なりこそ鈴鹿山脈である。

 この山脈は関東と関西を振り分ける一つの目標であると言われてきた。またこの峠越え は古くは間道として旅する人を悩まし、難所とうたわれていたし、東西定期航空路のあった 頃はエアー・ポケットとしてもよく知られていたところである。

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 白山火山脈が南下して関ヶ原で一旦くびれ、再び霊仙山を起こして始まり、南へ岐阜と滋 賀の県境から、更に三重と滋賀との境に移り、標高千米を上下しつつ南部では次第に高度 を落とし、鈴鹿峠に至って終わる七十五㎞に及ぶ連峰が鈴鹿山脈であって、その頂上部に は褶曲を受けた古生層を切ってなる平坦がカルスト地形をなし、周囲には殆ど断崖層を持 つ完全な地塁である。

 この山脈の特徴としては伊勢側の東面断崖層は急峻なのに対し、西面の近江側は緩傾 斜をもって琵琶湖盆地にのびている。

 ここを水上にもつ谷川、近江側にあっては犬上川、愛知川、野洲川となって琵琶湖に流 れ、伊勢側は町屋川、朝明川、三滝川となって伊勢湾にそそぐ。

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 登山する立場からこの山脈を藤原岳以北、御池岳、霊仙山、などを北部、鎌ヶ岳以南を 南部といい、鎌ヶ岳以北、藤原岳までの竜ヶ岳、釈迦ヶ岳、雨乞岳、御在所岳などを含む 一帯を、私達は一口に中部鈴鹿と簡単にいっている。

 中部鈴鹿では雨乞岳(1238m)が最高であり、次は御在所岳(1208.7m)で1等三角 点がある。これらの山頂附近は笹や木は矮小となり、カルスト地形のゆるい起伏の高原状 で、廣濶な展望の及ぼすところ琵琶湖は絵画でも見るように光り、伊勢平野と伊勢の海は 箱庭のように広がっている。

 よく晴れた空気の澄んだ日には御岳、乗鞍岳、中央アルプスの山々が見え、もし早春で 遠望のきく日であったなら、白山から北アルプス、南アルプスの南部、その左に富士山まで も望見することが出来る。

 山腹は一部檜、杉などの植林が見られるが、大部分は薪炭林である雑木が鬱蒼としげ り、その下を道が細々と続き、水は深い緑をくぐり、緩やかに右、左と縫いながら流れてい る。

 だが伊勢側の登路は急であり朝明川や三滝川の各支流は必然的に滝も多く、それに反 して近江側の地勢緩慢から谷谷も滝といえるものはまったく少ない。

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 中部鈴鹿の山々へは交通の便も悪くなく、三重交通の湯ノ山線やバスがあり、山懐には 冷泉であるが湯ノ山温泉があって街の人達を多く迎えているが、その上の一の谷には近鉄 山の家があって管理人が常住しているし湯ノ山温泉を出外れた大石橋の上手に、湯ノ山山 荘が登山者向きに開放されているのと、谷北には大分荒れてきたが中部岳連の管理する 北谷小屋もあってこの方面の登山の中心となっている。

 一般的にみて、鈴鹿には登山道といえるものはまことに少ないが釈迦ヶ岳、御在所岳、 鎌ヶ岳などには登山者のための登山道もあり、また嘗て私達のグループによって、御在所 岳の岩場として開拓されてきた藤内壁も次第に認識されて、次の時代を担う若い人達のよ いゲレンデもあり、山と谷を繞(めぐ)って登山的変化と興味もまたこの方面に多い。

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 ここを舞台に国体登山はA,B,Cの三つのコースが、主な山と谷に各々がもつ鈴鹿のよ さをとりいれて選ばれている。各コースとも鈴鹿の中心部をなしている愛知川源流がはいっ ているが、ここは近江側でもあり国境線に平行しているため落差が少なく、唯一の天狗滝も 5米ほどで滝というより寧ろ淵を取り上げなくてはならぬほどである。水は飽くまで美しく、淀 んでは淵となり、流れては瀬となり、岩壁を洗い、花崗岩を白く磨き緑を鎔(溶)かして行く。  

 新緑の鈴鹿は水水しく溌剌としているが、秋すれば満山紅と黄の錦によって彩られ、人も またそれに染まりはしないかと思うほどの恍惚境を現出する。

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 鈴鹿の山は炭焼を除いては考えられない。途絶えがちの道の傍らにも竃(かま)の跡が 点々とあり、今煙を揚げているものもある。現在では伏木谷方面と、愛知川水晶谷、クラシ 谷附近で焼いているが、働いている人は殆ど伊勢側の千種村の人達である。

 山へ登るにも炭焼道が多く利用されているし、また小屋は羽根を休める憩いの場として、 或いは簡単な塒(ねぐら、とや)として私達には馴染み深いものである。

 一部を除いて登山道としては手入れされず、雑草やすず竹がおい繁るにまかせているが 炭焼きが始まると道が復活したり、新しく出来て楽をするが、元々登山道でないからうっか りつり込まれて馬鹿を見ることもある。仕事が終わればいつの間にか小屋は潰れ、道には また草の時代がくる。

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 鈴鹿の山はたかが千米程の藪山に過ぎず、そうむきになって登る山ではない。心静かに 山を楽しむところであり、闘ったかつて登攀を振り返ってみて、そっと山に話しかけてみると ころである。

 沢をただ草鞋の感触に耳をかたむけ、藪を漕いで山頂に立つと、折柄の斜陽がやわらか く草々をなで、そよ吹く風に紫煙がたゆたに流れるとき、また谷間に夕暮れが漂うころ、馴 染みの炭焼小屋の戸を押して小屋の主人と久し振りに積もる話を夜更けるのも知らずに話 し込むとき、本当に鈴鹿のよさをしみじみと感ずる時である。        

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  岳人No126(昭和33年10月)の「山岳会」特集「入会ということ」抄録
 
「入会したい人に、どうして入りたいか聞いてみると山登りを教えてもらいたいから、という のが多い。中略。しかし果たして山岳会はこういう人たちの希望を満たすことが出来るであ ろうか。はっきりいって山岳会はそういう体制をもってはいない。現在の山岳会は教える機 関ではなく、山へ登ることの好きな連中の集まりで、より効果的に山を楽しむために会を持 っているのであって、教える義務も無ければ、会員とても教えを受ける権利をもっていな い。会費を集めたりするがそれは会の運営のためであって、月謝の意味が含まれてはいな い。会長や幹部にしても、一人分の会費を払わされているいようし、役付手当てをもらうど ころか、逆にせびられるのがおちである。中略。もう一つはできるだけ先輩と接して見、聞 き、そして学ぶことになる。結局は会を仲介として、個人的関係に依存することになるから、 教えを受けようとするものの積極的な意欲が無ければ成績を勝ち取るわけにはいかぬ。」