近江・元富士と長命寺山を歩く2010年11月06日

 久々の名神高速を走る。新名神へ多くが流れたせいか通行量は少な目。快適なドライブである。八日市ICから山麓のムラを目指す。
 小春日和で温暖な気候が素敵だ。刈田にはヒツジが生えている。二毛作も可能ではないかと思う。水郷地帯を抜けると山麓に着いた。
 遠望すると湖南アルプスとも姨綺耶(いきや)山系とも言われる低い山なみの右端に端正な三角錐の元富士が見えた。奥津山が一般的なようだが地元では権現山で親しまれている。ムラの左端の神社に車を置かせてもらった。
 10時少し前、ムラの老人に山の様子を伺うとはっきり「権現山か」という。自分の庭のような気分で手に取るように教えてくれた。山際で再び確認。少しばかりの間は蜘蛛の巣と足元の竹の散乱に手を焼いたが上に行くに連れて良くなった。帰宅後にこの山を検索するとマムシが多いと知った。小さな蛇はマムシだったのだ。色が枯れ木色でそっくり。
 周囲は手入れのない雑木で南国風のシダ類の繁茂する急斜面の参道を登る。およそ20分も歩いただろうか。巨石に抱かれた権現様が見えた。これは検索すると「愛知県知立市の知立(ちりゅう)神社から勧請されたとみられる「池鯉鮒(ちりふ)権現」が祀られた一間社」という。なんと愛知県に縁ある神社だったとは。
 右へ適当に薮や枯れ木を避けながら登ると山頂だった。展望はない。途中には巨石が何箇所かあった。この山はどうやら巨石信仰の山のようだ。
 戻って途中から分かれる横断の山道を歩いて見たが谷の奥で林道に下れた。薮虱が一杯着いた。下っていく方向に下ったが途中で終り谷筋に沿って下って見ると竹林に着き、元の登山口に戻れた。周回できてよかった。
 車に戻って隣の長命寺へ向かった。山懐のお寺のその上の山である。お寺までは車で登れる。なぜかお寺からは直接の登山道はない。Pから少し戻って湖南アルプスのハイキングルートに入った。終始樹林帯で琵琶湖の絶景は見ることもなかった。この山も周囲は樹林帯で展望はない。
  下山途中では「ぶひゅ」という声に仰天した。野生の小型猪が上に向かってそれこそ猪突猛進していった。向かって来られたらたまったもんじゃない。
 Pに戻ってもまだお昼過ぎ。近江八幡市街で有名な酒屋を改造した食事処で昼食とした。

 白洲正子が絶賛したという長命寺あたりの風景はついに俯瞰できなかった。それを書いた『近江山河抄』(講談社文芸文庫)は昭和47年に「芸術新潮」に連載したものをまとめた。62歳だった。低山とはいえ周辺の山をも登っているから大したものだ。奥島山も含めて。
 彼女が愛した水郷地帯の美はもう今は多くを干拓で失われてしまったようだ。大中の干拓地がそれでこのいきさつは司馬遼太郎が『街道を行く』24近江・奈良散歩(朝日文庫)に書いている。読むと再び行って安土山も登りたい気分がする。晩春から初夏にかけては美しいだろうという想像はできる。
 私達が渡った橋も水門になっていてゲートが昇降する仕掛けである。昔は奥津島という琵琶湖最大の島だったそうだ。大中干拓によって陸地化してしまった。ゲートの役割は干拓地が湖水面よりも3mも低いから大水で琵琶湖の湖水が逆流しないためのもの。西の湖に溜まった水はポンプで琵琶湖に排水する。日本の中のオランダになっている。

近江里山吟2010年11月08日

穭(ひつじ)田や近江の里の山歩き

元富士の山懐のイノコズチ

竹林の小道や秋の蝮の子

猪を驚かしたる山の尾根

干拓の見渡す限り刈田原

境内に往来の子は七五三

山梨/長野・横尾山を歩く2010年11月14日

11/13早朝5時30分過ぎKiとKoさんの2人が来て出発。まだ薄暗い。本郷駅で待ち合わせのKuさんもちょうどグッドタイミングで合流できた。6時過ぎ、東名中央道の通行量は早朝にも関わらず随分多い。今頃がおそらく1年で一番いい行楽日和であろう。
 駒ケ岳SAで休憩のために降車するとひんやりする。涼しさを越して小寒い。一枚はおった。9時20分、須玉ICで出て信州峠に向かう。昨年の学習効果で比較的スムーズに行ける。
 峠には先着車が数台あった。10時20分、すぐに仕度して落葉したカラマツ(=落葉松と書く)林の尾根を歩く。晩秋から初冬にかけての山は落葉してすっきりした森林の広がりがいい。やや急な山道を登りきると周囲の展望が広がる一角に着いた。11時10分、もう少しでカヤトの展望丘に着くはずだが私たちはその一歩手前の岩場で休んでしまった。
 富士山は北面に少しだけ冠雪している。八ヶ岳は普段見る機会の少ない東側からの眺望に見入られる。奥秩父のみずがき山はもう前山でしかない。金峰山以外はすべて無個性の山なみに没している。みずがき山は山麓から仰いだ姿こそ素晴らしく見える。
 また歩くとカヤトの展望丘に着いた。ここはホントに素晴らしい眺望である。しかし休むには寒い気がする。再び360度の眺望をカメラに納めた。さっきと違って南アルプス、中央アルプス、白山、乗鞍岳が加わる。八ヶ岳は益々雄大に聳える。

 冬の靄が甲府盆地の上空を覆う。
 
 丘を辞して山頂に向かうと再び樹林帯に入る。多少の岩場もあって歩きづらい道である。約30分ほどで山頂に着いた。評判どおり眺望は南アルプスに開けているいるのみ。黄砂の影響もあるのか高曇りながら遠望は効かない。寒いので余り長居もできず、往路を下った。
 信州峠からは信州側に下った。まだ2時前なのでコーヒータイムをすることになった。一旦R141に出た。途中で何やらカメラマンがずらっと並んでいる。後で知ったが小海線を走るイベント列車のトロッコ列車を撮影しようと待ち構えていた鉄ちゃん達だった。
 目指す喫茶店は演歌歌手”藤あや子”が経営する「ギャラリー彩(あや)」だ。紅葉に染まる八ヶ岳高原を走り回って大泉駅の南にやっと見つけた。
 彼女の手作りコロッケが乗ったカレー(1000円、コロッケ1つ1300円、コロッケ2つ1500円也)を食べたかったが山頂で昼飯を済ませているので満腹だった。400円也のコーヒーだけにした。今日は他に客2名だけだが14日には熱狂的なファンが全国から80名集って彼女の快気祝いのイベントになるらしい。このお客さんも大阪から駆けつけたファンだった。一しきり彼女の話題で盛り上がって店を辞した。(彼女は6月頃突発性難聴という病気で入院。一時は歌手生命危うしと書かれていたが完治して10/5にステージに復帰済み)
 R141を北上して宿のある北相木村を目指した。

佐久・茂来山は眺望絶佳!2010年11月15日

 宿は長野県北相木村にある旅館・相木荘。標高は900mの谷間にある。釣宿として知られているようで居間には尺もの岩魚の魚拓が飾られていた。高原の村の宿は寒くてすでに炬燵が入り石油ストーブも焚かれた。宿はお婆さん、夫婦、息子さんで切り盛りしているようだ。
 昨夜は地元青年団の寄り合いで宴会でにぎわっていた。夕食は鯉の旨煮が出て満足でした。佐久は鯉の名産地で我々に供するために長時間かけて煮込んだとか。たっぷりの副食にご飯も美味しかった。
 朝は5時半ころに起きてしまった。まだ暗いのでまた寝た。7時までTVに見入った。朝食を食べると出発だ。山間地を走ってR141に戻る。佐久市へ向かって走ると右手に茂来山らしい山容が見えてきた。十国峠の標識を見てR299へ右折する。
 田園地帯を走るともう山麓に着いて槙沢登山口の案内標識、続いてバス専用の案内が見えたがパス、本来の霧久保沢登山口の案内で右折した。さっきの道とも橋で合流した。ゲートのある広場は大きなバスも駐車可能な広いスペースで人気のほどがわかる。
 8時40分出発。案内に従っての安気な林道歩きである。分かれ目からはしばらく廃林道を行くが渡渉すると本格的な急な山道になった。こぶ太郎という大木までは整備された遊歩道が続いた。
 こぶ太郎は樹齢250年のトチノキで巨木であり、古木でもあった。周囲を踏みつけないよう見学用の木製園地に整備されていた。9時20分、そのベンチに座って休憩。するとふわふわ雪虫(綿虫)が浮遊していた。冬の到来近し、と告げる風物詩である。
 こぶ太郎を辞して一気に斜度も急になるし、狭くなった山道を辿る。するともう一段登った辺りでまたトチノキの巨木にであった。完全な姿の炭焼き窯跡もあった。沢の水は絶えて石がごろごろする源流の様相となった小さなカール状の急峻な地形をジグザグに登りあがる。胸突き八丁といったところであろうか。周囲の樹相もよろしい。今は裸木であるが最盛期の黄葉が美しいだろう。
 尾根にたどり着くと槙沢からのルートと合流する。ここから山頂はあっけないほどすぐに着いた。地元の青年風の単独行の人が先着していた。月に一回は登るとか。眺望は広大無辺で非凡としか言いようがない。彼からは色々話を聞かせてもらった。おらが自慢のふる里の山なのである。
 ここからは佐久市が盆地だということが良くわかる。背後には名峰浅間山を従えて山すそがせまる。左からは八ヶ岳のこれまた長い山すそが引いて佐久に流れる。そこへ千曲川が北流する。沖積平野なのだった。今日は冬の靄が佐久盆地の上空を覆う。
 山岳同定をしてみよう。主峰赤岳を抱く八ヶ岳連峰、浅間山を盟主とする上信国境の山々、その間にはかすかに北アルプスが見える。荒船山、西上州の低山群、奥秩父の山々。標高は100mほど低いのだが昨日の横尾山とはまた違った角度を楽しんだ。
 そのうちに槙沢からという関東かららしい17人の団体さんが着いた。立錐の余地がない狭い山頂はすぐ満員になった。眺望を堪能した後は我々も下山することにした。
 下山後もこぶ太郎に寄って休んだ。雪虫はまだいた。高曇り、無風を条件に現れる。数日後には降雪を見ると言い伝えられる。
 登山口に戻るとマイクロバスが2台。山頂で会ったパーティが下山は霧久保沢口と言っていた1台だな。途中で会った人も20人近かったから彼らのバスかな。
 R299へ戻った。いったんR141に重なる。佐久穂町の奥村土牛の記念美術館に寄る。奥村土牛(おくむらとぎゅう)は日本画家で1889から1990まで生きた。お目当ての富士山の画はなかった。
 R299は麦草峠を越える。小淵沢を経由するよりは茅野市へ近道になるのでR141から分かれる。素晴らしい山岳道路だった。白樺林の美しいところがあったし峠には初雪があった。11/18からは冬の通行止めに入る。茅野市側に超えて諏訪ICへ。

遭難を考える2010年11月26日

 2010年は日本山岳協会50周年。愛知岳連でも山岳映画3本と講演会が催された。東京から副会長の神崎氏が来名された。
 映画の部は午後2時からで仕事のある会社員らは来れないから参加者はまばらだった。以下の映画が上映された。
 1マナスルに立つ
 2エベレスト南西壁
 3谷川岳の遭難
 いずれもドキュメントタッチの迫力ある画像が感動を呼ぶ。
 特に『マナスルに立つ』は愛知岳連会長の石川富康氏が少年時代に見て感動し、後年『50歳からのヒマラヤ』を志すきっかけになった映画であった。この映画は見る人が見れば懐かしさが溢れるだろう。ウッドシャフトのピッケル、プラブーツがない時代は皮製登山靴の上にオーバーシューズを履いて更にアイゼンを装着した。ザックもナイロン製ではなくキスリングだった。戦後の日本人が世界的な自信を取り戻したとさえ評価されたマナスル初登頂だった。
 『エベレスト南西壁』は今年ヒマラヤで雪崩で行方不明のまま遭難した田辺治氏が撮影されていた。また名塚秀二氏も今は亡き登山家であった。あんな恐い壁を突破しておればちょっとした傾斜へは不感症になる気がした。ひょっとすると生きて帰れないと知りつつもどんどん危険領域に近づいて行く登山家の宿命である。そんな思いを起させた。
 『谷川岳の遭難』は以前に見た記憶が呼び戻された。山岳版「悲しみの記録」映画であった。あの当時は若者が谷川岳に溢れていた。東京から近くて駅を降りてすぐに登山を開始できる山だった。登山ブームを反映して若い人の遭難が多発した時代でもあった。
 後半は7時からで90%くらい席が埋まった。広島の弁護士で自身も登山家の溝手康史氏の講演「登山の法律学」があった。法的な観点から一般の山岳会の仲間同士では過失は問われない。プロの引率登山には過失が問われる、という。
 事実認定は裁判官の仕事(溝手氏)なのでわれわれリーダーをする機会があるものは自己責任とはいえ過失が問われないようにやることはやらねばならない。従わない人はパーティから外す強い意思も必要であろう。もし亡くなったら遺族との関係になるからだ。

バス旅行-飯田・貧乏神神社-昼神温泉-妻籠の旅2010年11月27日

 今日は愛知県行政書士会中央支部の懇親旅行。新人は付き合いが大事と参加した。集合はTV塔近くのP。大型バスに乗り込むとほぼ満席。後席では早くも左党が固まって気勢を発している。
 バスは中央道を経て飯田ICへ。郊外の貧乏神神社が最初の観光地?。御神体を棒で叩いて更に砂粒を投げる。一種のストレス発散のような神社である。白装束の神官がちょいとうるさく胡散臭い。しかしご利益はあると見えて有名な人も来るようだ。私には白い南アルプスの山並みを眺める方がご利益があるように思う。
 次は昼神温泉で会食と入湯。ご馳走が出るわ出るわ。しかし体を使うこともないからビールも食も進まない。一汗かくような運動を取り入れてほしいな。昼間からの飲酒はなんとなく後ろめたくまた良く回る。入浴はさら湯で気持ちがいい。
 次はR256で峠を越えて妻籠に走った。Pから旧宿場を散策するという時間だ。しかしここでもあまり気が進まず、早めに戻って対岸の伊勢山を眺めた。ここが最後で後は名古屋へ帰るのみ。後席の左党は次々アルコールを召し上がり出来上がっていた。帰りは大丈夫かな。

南紀の山旅2010年11月30日

 11/28、朝金山駅前に集合。全部で9名。2台に分乗して東別院ICから入る。今日のメンバーはUクラブでこれが最後の集会になろう。当主は昨年他界して奥さんを特別ゲストに迎えての慰安と追悼の旅行である。人のあまり行かない土地それが南紀の山だった。
 思えば1985年に当主の紹介でJACに入会、その3年くらい前からの交流であった。かれこれ30年近い付き合いになる。
 尾鷲市までは高速のおかげで早いものだ。最近できたらしい回転寿司で昼食にした。熊野市、御浜町と来て花の磐や神社に寄る。簡素だが曰くありげな神社である。白っぽい大きな磐が御神体という。海浜が近いから熊野灘を通過する船の灯台代わりになったのではないか。目立つ磐は昔から信仰の対象になった。石蕗(ツワ)の花が境内に咲く。
 R42から瀞流荘への看板を見て右折。昨年12月に登った妙見山の山麓を通過して丸山千枚田へ行く。ここで少し時間をかけて休んだ。投句箱があるので2句作って投函した。
   父祖の地の天につながる冬田かな   拙作
 今夜の宿は昨年と同じ瀞流荘。一休み後トロッコに乗って湯の口温泉に行く。かつては鉱石を積載したトロッコと鉱夫を乗せた小さな客車を牽引した電気機関車に引かれてガタゴト揺られて坑内に下りてゆく。台車に緩衝装置がないためにレールのゆがみをそのまま拾うから非常にうるさく話もできない。およそ2Kくらいだろうか。やっと鄙びた湯の口温泉に着く。ここは実はクルマでも来れるのだが。
 湯量の豊富な天然のかけ流しだ。ゆったり入湯した。再びトロッコに乗って宿に戻った。早速宴会である。まさに山海の珍味が出て人気のほどが分かる。日曜の夜なのに半分は埋まっている。明日は北海道から30名の団体が来るとか。あそこにもいい湯がたくさんあるのに。人はつくづくないものねだりをしたがる。
 11/29、午前6時過ぎ、起き抜けに宿の内湯に入湯した。たっぷりの量の朝食を摂る。クルマのところにいくとフロントガラスに霜が降りていた。放射冷却だろう。宿を出て再び丸山千枚田を所望する人が居たので周回した。違った角度から眺めたかったらしい。
 国道に戻って昨年も買った村里の露店でみかんを探したが1ヶ月早いせいか品物薄だった。それでも一袋100円で買えた。今日の山は長尾山にした。地形図とガイドブック『三重の百山』を参考にしながら道を探しながら行く。
 山麓の少年自然の家を通る。後は一車線分の狭い道だ。札立峠に行く道が分からない。ガイドでは札立トンネルの手前を右折、となっているが道は廃道だった。地形図にも確かに車道があることになっている。そんなところへハンターが現れて事情を聞くとトンネルの向こうに出て右折するようだ。
 何のことはない。ここに来て道標まであるじゃないか。簡易舗装の狭い道だが落石はない。旧札立峠に着くと向こう側はススキの生い茂る廃道だった。それでスイッチバックで方向転換していくと山頂直下まで来てしまった。こんな道があるのは数多建つTV電波の中継アンテナの管理用であった。
 登り1分で2等三角点の長尾山である。山頂は芝に覆われて開放的な雰囲気だ。眼下には美浜七里が見える。太平洋に浮かぶ鯨のホエールウォッチングができそうな気がした。ここでしばらくは歓談した。近くには熊野灘の彼方に富士山が見える旨の立て札があった。そんな記事を新聞で読んだ記憶もある。車で登っても一座は一座である。
 高齢者には優しい山歩きだった。帰路は少年自然の家に寄る。ここは大人でも宿泊可能らしい。眺めもいい。御浜町の道の駅で昼食。あとはR42をひた走る。高速ではトンネル事故で火災が発生し全面通行止めになっていた。しかし大した渋滞もなく帰れて良かった。