映画「近松物語」鑑賞2007年11月10日

 1954年制作。大映の社名が今は懐かしい。監督は溝口健二である。10/8に中津川映画祭で観た「滝の白糸」と同じ監督である。主演は長谷川一夫(1908-84)と香川京子(1931-)、南田洋子(1933-)ら。
 観たきっかけは香川京子の若い頃の作品であることと溝口作品ということであった。この映画を観る前に黒沢明監督の「赤ひげ」を観たがここでも香川は狂女役で出ていた。脇役だが凄みのあるメーキャップは印象に残る。しかし香川の清潔感のある美人のイメージを大きく損ねる役にがっかりする。何もあそこまで狂った顔にメーキャップしなくてもいいのに。
 黒沢映画のドラマチックな映画作りは世界で高い評価を得ているが小津、溝口、成瀬らの作品を観てきた目には黒沢明の映画ってなんだったの?と疑問符が付いてしまった。 
 そんな口直しの意味もあって観たが面白い映画だった。長谷川一夫は劇場映画、TVでもよく観てきた。香川は当時22,23歳、長谷川は45歳くらいであった。香川の実年齢が商人の妻おさん役に少し若すぎた感じはある。進藤英太郎扮する主人はこんなきれいな若妻がいながら南田洋子扮する女中にもちょっかいを出す。茂兵衛を片思いする南田の役は伏線を張っていく感じで重要なポイントである。
 ドラマの設定は江戸時代。若妻おさんと手代の茂兵衛の逃避行なのであるがもちろん面白おかしく織り交ぜてある。特に峠茶屋までほうほうの体で辿り着いたが長谷川が香川の足首辺りにキスする場面はドキッとさせられる。口づけより愛情が深い。これが溝口流か。
 どこかの川端で長谷川が香川をおんぶする場面もいい。「雪国」では田舎芸者役の岸恵子が着物の裾をガバッと割って池部良の背中におんぶしてもらう。最初は岸恵子も膝を揃えて上品におんぶする演技だったが豊田四郎監督が新橋の芸者みたい、といって気に入らない。ここでは逆に膝を揃えて上品に着物を着たままおんぶする場面があって印象に残る。
 そして香川京子そのものという主張が台詞にある。もう本家にも実家にも帰るのはいやだ、という。封建的な束縛から自立して自由に生きたい、と主張するのである。手代の茂兵衛はなだめる。死ぬ心算だった舟の上で茂兵衛から恋心を打ち明けられて尚二人の感情は高ぶっていき観客も同調し引き込まれていく。時代設定を超えて現代人の心に響く。
 最後は町人大衆の前で縄に縛られて刑場に引かれてゆく二人はしっかり手を握り合っているところがクローズアップされていた。「滝の白糸」同様に恋愛は成就したものの死と引き換えであった。悲恋で締めくくるところが溝口監督の手練手管なのだなあ。
 10/8に観た香川京子主演の最新の映画「赤い鯨と白い蛇」から遡ること半世紀を越える。50年を越える女優業にすごいなあ、と思う。世界の巨匠の作品に出演した女優は少ない。早くからフリーになり出たい映画だけ出るというのも自立した女性のイメージを確立した。おさんの台詞も香川京子を考慮して作られた気がした。時代劇でありながら同時代で受け入れられる所以である。

映画「残菊物語」鑑賞2007年11月10日

1939年制作。松竹。143分という大作である。登場人物はみな知らない俳優ばかりでなじみがないから楽しめるか不安があったが最後はお涙頂戴の新派悲劇にうまく乗せられて落涙してしまった。つまり良かった。「滝の白糸」も新派悲劇であったが美男美女の活躍に助けられている気がする。本作は歌舞伎役者の出世物語で一般的な題材ではない。歌舞伎を知らない観客にも最後まで飽きさせないのは溝口監督の手腕というものである。
 主役の花柳章太郎(1894-1965)は本物の新派の女形役者だった。「滝の白糸」も演じたという本流を行く新派の役者だったようだ。演じた歌舞伎役者の尾上菊之助は2代目で代々受け継がれていく名前である。今は富司純子(1945-。4代目尾上菊之助と結婚、今は7代目尾上菊五郎の夫人)の息子が5代目尾上菊之助(1977-)を襲名している。ここでは5代目尾上菊五郎の養子の役を担う。同じ尾上といっても血の繋がりはない。
 芸の裏付けのない人気に自信を失いかけていた菊之助に森赫子扮する乳母のお徳に真実の芸のありようと人の評判の裏表を諭される。名前先行の人気と知ってお徳に芸に打ち込む心のよりどころを求めて愛が生まれる。お徳も菊之助が立派な役者になるように励ます。森赫子という女優はそんなに美人でもないが声が高くてよく通る。
 しかしお徳と菊之助の間柄が尋常でないと知った親はお徳を暇を与えて追い出す。ここから物語の核心に入っていく。親元を出てまず大阪で芝居をする。1年後にお徳が訪ねて行く。そこで見たのは貧しい生活ぶりであった。それでも二人は一緒に暮らし始めるが頼りにした人が亡くなる。再び流浪の芸人となって落ちていく。旅回りの貧しい芸人生活で心まで荒んでいく。お徳の機転で新聞で見た古巣の役者が興行に来ている機会に訪ねていき菊之助を再び親元に帰したい、と懇願する。 
 受け入れられて菊五郎と和解を果たすがお徳とは別れたままであった。お徳は自ら身を引いたのである。東京での復帰興行は人気を呼んで大阪に興行にでた。お徳は大阪に潜んで暮らしていたが家主が健康が優れないことを知ってそっと知らせた。菊五郎は「女房に会ってきてやれ」と結婚も認めた。菊五郎がいい台詞をいう。名場面である。
 病床のお徳は死ぬ寸前であった。再会して菊五郎は結婚を認められたと報告する。そうと知ってまた世話女房口調で役者の仕事を果たすように諭す。気にしつつもお徳と別れる。舟乗り込みで挨拶する菊之助のアップシーンと死の床にあるお徳が繰り返し出る。お徳の死んだことを知って付き添いが極端なくらい驚く。最後は死を知らないまま挨拶を続ける菊之助の場面で終る。
 歌舞伎を旧派というのに対して新派は明治になって起こった演劇運動をいうらしい。安易な涙をそそりやすい家庭悲劇と書いた本もある。「滝の白糸」などはそのいい例であろう。「雪国」でも「いやらしいそんな新派芝居みたいな・・・」という台詞がある。通俗的と低くみられているようだ。最近でも劇場は涙にあふれている?とかいう映画の宣伝があった。ハッピーエンドでは客を呼ぶ映画にならないのであろう。この残菊物語も花柳章太郎の身のこなしの洗練さと森赫子の熱演が功を奏してヒットした。森赫子ははじめは松竹の女優となったが後に新派の役者に転じた人。台詞の言い回しががなんとなくメリハリがあって新派悲劇の役者らしい。

天白八事散策2007年11月11日

 11/3に紛失した鍵が今日夕方になって郵便受けに投函されていた。誰が拾得したか分からないが戻ったことは善意と受けたい。この1週間心の片隅でくすぶっていた問題が解決した。やれやれだ。新しい鍵を注文したがキャンセルした。遺失物届けも却下した。
 先週も今週も合計4日も山に行かれなかったのはこの鍵のことが大きかった。心に気になることがあると忘れたい半面かえって気になるのである。気になってそれどころじゃない、と思う。井上ヨウスイの歌を歌いたくなった。
 新聞でマークした新刊書を見に行ったが近くの書店では未入荷。八事の坂を越えて杁中の三洋堂まで徒歩でウォーキングした。運動不足を解消したい気分も手伝っていた。約4Kmはあるだろうか。
 塩釜口を越えると途端に歩道を歩く人が多い。車も多い。何だろうと思いながら登って行くと名城大学で行政書士の国家試験が行われたようだ。この群れは受験者であった。校門の近くで行政書士試験の受験指導の問題集を配布しているバイトがいて分かった。
 この試験は近年非常に難関になっているらしい。合格率は約5%という。平成14年に代理権が付与されたことで業容が広がった。つまり弁護士が手がけない数百万円以下の民事事件はこれまで法律のサービスを受けることが難しかった。代理権が付与されたことで交通事故、権利金の返還事件など庶民の法的なトラブルを行政書士がやれるようになったのである。それと共に法律知識も高度に求められるようになったことは必然であろう。数の上では無数といってもいいこの種のトラブルは減ることはない。泣き寝入りしなくても良くなれば依頼者も増えるだろう。
 一方で狭き門だった司法研修所のいわゆる司法試験は新制度への過渡期である。朝刊にも慶大法科大学院の教授が試験問題漏洩の責任を問われている問題が再報道された。これも司法行政の一部民営化である。司法研修所でやっていた理論的な机上学習は法科大学院に移し、院生が自弁で学習することになった。新司法試験合格者は現行制度の1年半から1年の実務研修に短縮。半年分の税金つまり研修生への給料、教官の人件費などが節約されたことになる。
 今後、裁判に持ち込むでもない低額の法的トラブルは行政書士が担い、高額の訴訟案件は弁護士が担う。新たな需要は企業内弁護士としての活躍であるがこれは未知数であろう。苦労して突破した試験に加えて入社試験、サラリーマンとしての処遇の問題などがまだ見えない。
 英国では法廷に立たない(事務)弁護士と法廷に立つ弁護士に分かれる制度らしい。日本では税理士、社会保険労務士、行政書士、司法書士などと細分化されているがすべて弁護士がやれる仕事である。米国の行政事情を述べた本はまだ読んでいない。英語ではLowerなのである。
 そんなことを考えながら坂を越えた。マイカーだと立寄れない飲食店からいいにおいがしてくる。久々の三洋堂に入るが立ち読みしてみると興ざめな本だった。人生経験のない人の本は軽薄である。
 再び同じ道を越えて帰宅した。坂の途中で寿司屋に寄った。回転でない店だ。〆て1600円也とはちと割高なお値段。すっかり暗くなった。街灯が少ないせいで夜道が不安だ。八事界隈には闇がまだある。

映画「東京暮色」鑑賞2007年11月12日

1957年制作。松竹作品。小津安二郎監督。
 早春、晩春、麦秋、秋日和、彼岸花、秋刀魚の味、小早川家の秋と季節感を表したタイトルがあるが夏と冬はない。映画の内容から強いて言えば「東京物語」は「今日は暑うなるぞ」とか夏帯、団扇などが出てくるから夏の映画であろう。「浮草」も浴衣姿がでてくるからやはり夏の映画である。「東京暮色」を見終わってこれが唯一冬の映画だなあ、と思った。映画の中も冬であるが物語り自体が人生の厳冬期を暗示していた。
 扱われているテーマは山田五十鈴扮する母親が笠智衆扮する夫が海外の支店に単身赴任している間に3人の子供を置いたまま別の男と蒸発してしまった事、長女は幸福に結婚して一女をもうけたが夫婦仲が悪くて父親宅に別居中、次女はボーイフレンドと愛のない妊娠をしてしまい堕胎したこと、そして死んだこと、蒸発した母親が帰京したにも関わらず円満な再会をはたせないこと、母親とは和解できぬまま再び別離したことなどがこれでもかこれでもかと展開されて見続けるのに忍耐が要った。
 暗い内容がテーマのせいか評論家筋でも高い評価が得られていない作品だった。しかし人生はむしろ苦難の方が多いと思えば一作くらい冬の映画があってもいい。不幸な話をかき集めたような内容だが不幸は連鎖反応しやすいもの。小津さんもそう考えたと思う。感じやすい娘盛りの有馬稲子扮する明子を中心に母親の無念を描いた秀作と思う。
 人生は待つことが90%、待っても幸福が来るとは限らない。妻は夫が単身赴任から帰ってくるのが待てなかった。ちょっとした別の男の優しさにほだされて走っていったのだろう。夫も子供も捨てて。そして見事に成人した娘を見て後悔の念に陥るがもう取り返せない。明子も結局は死に至らしめたのも母親である。だから霊前への供花すら断る原節子扮する姉の厳しい顔ったらなかった。本当は母だもの許してあげたい、だけど許せない自分に泣くしかなかった。
 山田五十鈴扮する母親は北海道へ旅立つ汽車の時刻を教えておいたにも関わらず誰も来ない。それでも諦めきれずにそわそわと車窓を開けて娘らの見送りを期待するが来ない。淋しい結末は覚悟の上とはいえ胸を締め付ける。ただし不思議と落涙はなかった。
 「さよならだけが人生さ」という誰かの言葉がふと脳裏をかすめた。

映画「ある映画監督の生涯」鑑賞2007年11月14日

1975年、新藤兼人監督63歳の作品。近代映画協会は新藤さんの映画製作の拠点。溝口健二を証言する39人の記録、私家版と副題がある貴重な映像である。
 39人中には高橋治「絢爛たる影絵」で知った小津安二郎が仕えた牛原虚彦監督、最近観たばかりの「滝の白糸」の入江たか子、「残菊物語」の森赫子(1914-)、「近松物語」の香川京子、多数に出演した田中絹代らがインタビューに応える形で登場する。
 森赫子は1914年生まれであるから1939年の映画製作時は25歳だったことになる。1975年のこの映画出演時は61歳でサングラス姿で出演。おやっと思ってネットで検索すると42歳のときに病気で失明されたそうだ。明るい声を聞くと失明とは気がつかなかった。花柳章太郎が銀幕を通して主役ではあったが溝口監督の描きたかった女性像はお徳であった。菊之助が勘当後、潜んでいた雑司ヶ谷にまで会いに来てくれた。「女房にするつもりだ」と愛を宣言。その嬉しさを後姿で演技するなど名演は脳裏に刻まれる。
 入江たか子は1911年生まれ。1975年時点では64歳だった。「滝の白糸」は彼女にとってもはじめての明治女の役つまり和服姿だったという。戦中戦後を生き抜いた美人女優入江たか子がしゃべっている、という奇跡のような映像と思ったことである。

映画「娘・妻・母」鑑賞2007年11月17日

1960年、東宝制作。成瀬巳喜男監督。17人の人気スター出演の豪華なホームドラマとして公開された。成瀬監督は元は松竹であったが松竹に小津は二人要らないと東宝に出されたというエピソードがある。
 一見したところ1941年の「戸田家の兄妹」と1953年の「東京物語」をあわせたような映画であった。いずれも小津監督で松竹の作品である。この映画も結婚から出産、学生時代、成人までの人生の盛りは省略し、家族の母を中心に子供らのそれぞれの人生に光を当てて家族の崩壊が描かれた。  主役の一人の原節子は「東京物語」では次男の戦争未亡人として義理の両親を大切にもてなす役であったがここでは旧家に嫁いだものの倦怠期にあって実家に帰っていたところ夫が交通事故で死亡。未亡人となったが婚家を出されて出戻りの娘として登場している。
 実家は三益愛子扮する母を高峰秀子扮する長男の嫁、森雅之扮する長男が面倒を見ていた。1955年の「浮雲」は高峰秀子と森雅之コンビによる成瀬監督の大ヒット作で「おや、またいいコンビを組んでいるな」と思った。
 老いた母の面倒を誰が見るか、という問題は世界中で悩んでいる普遍的な家庭問題であろう。それゆえに「東京物語」は世界で観られているし人気も高い。
 成瀬監督は長男が実家の不動産を担保に金を借りて妻の叔父に貸していたが叔父は事業に失敗して破産した、というカネの問題を絡ませている。長男には負債だけが残った。だから不動産を処分して借金を清算したいという家族会議からドラマの核心に入っていく。家を処分すると長男も狭い家になり面倒を見るのが難しくなる。母の面倒を見るのは誰か、という問いかけが映画のテーマとして突きつけられる。
 「戸田家の兄妹」では保証の弁済のため遺産は骨董品しかなかった。富裕層であったがたんまり遺産を相続したわけではない。最初は長男が見ていたが嫁との折り合いが悪く長女や次女夫婦の間をたらい回しになる。1周忌で帰っていた佐分利信扮する次男がそれをしって憤慨する。「親子の間ってもっと暖かいものじゃないか」といって自分が任地の中国へ引き取ってゆく。この映画でも原節子が母と共に再婚するという筋書きであったが母が直前になって辞退する。
 成瀬監督は明快な答えを観客に預ける形で映画を終らせた。高峰秀子が偶然見た母あての手紙には老人ホームからのがあったからだ。母にとって一番の気がかりは原節子の再婚だった。それが片付いたのであるから自分一人老人ホームの世話になり家を出る検討をしたかのようである。
 子供達は一人前になって独立し家庭を持ち、働いて各自の人生を歩んでいる。余裕があればともかくなければ仕方ない。誰しも自分が生きてゆくことだけで精一杯なのである。そのことを母はよく知っているのである。「東京物語」でも同じ設定であった。町の医院、美容院、国鉄勤務、小学校教員、OLと世間より少しはいい、という程度の人生である。
 三益愛子の娘の一人草笛光子の夫の母は杉村春子が好演。いわゆるマザコンの夫は母に頭が上がらない。当然母と妻は折り合いがよろしくない。一人息子の夫には兄妹で分かち合うという選択肢がないから母にいやおうなくべったりにならざるを得ない。アパートを借りて母と別居したいという妻をとりなす夫の姿も描いて家族のありようを対極的に問いかけたのである。「こんな場合あなたならどうする」と。
 「戸田家の兄妹」で母に扮した葛城文子も良かったがこの映画の中心であった三益愛子も良かった。共通することはどちらも当時の人気俳優が多勢で盛り上げたことで興行成績もよかったという。やはり成瀬監督は小津監督と同じ松竹に居られなかったはずである。

名古屋暮色2007年11月18日

 土曜日の夜から明け方にかけて何本か映画を観た。健さんの「新幹線大爆破」、市川雷蔵の「陸軍中野学校」とシリーズ、「娘・妻・母」など。そのためか起きるのが遅くなった。久々の市川雷蔵の映画であった。かつて「破戒」を劇場で観た記憶がある。それ以来であろう。
 遅い朝食兼昼食を摂ってからまた一休みしていたら外は夕方の気配。風が強そうだ。桜並木も冬紅葉となってきれいだ。友人からのメールで案内された山岳写真展へ行く。ドニチ切符を買って伏見へ向った。一回りしてからまた地下鉄で久屋大通りへ向う。名古屋に新しくオープンしたパドルクラブなる店に行く。
 北海道発のスキーとアウトドア専門店と謳う店である。店内はこじんまりしていて一見すると普通のスキーの店であるが品揃えが深雪滑降に適した板を中心に充実した感じである。いわゆるプロショップであろう。だが北海道をイメージした品物は殆どない。最近も札幌の秀岳荘から尻皮を取り寄せたばかりである。北海道を知る私には物足りない店造りであった。札幌に行ったら必ず寄りたい秀岳荘はこんなものまで売っているのか、というサプライズが楽しい。売れ筋ばかりの店はつまらない。
 しかし利点は同じビル内に立体駐車場があることだろう。無料サービスは3000円以上の買い物が条件であるが。車高2m以内も可能。繁華街ではこれは無理。名古屋駅前に開業して1年で撤退した大阪の登山用品店も駐車場が盲点だったと思う。東海地方のスキーヤー、登山者は殆どがマイカー族である。マイカーで乗り付けできない店は厳しい。郊外の店が少なくなった現在人気を集めるだろう。
 風が強い。まるで冬本番である。熱いラーメンが恋しい。今日は山も厳しかろうと止めておいてよかった。丸善に立寄るが目当ての本がない。隣のマナハウスにもない。この店も年内には閉店という。栄の紀伊国屋が撤退、マナハウスも撤退する。近場の駐車場付きの大型書店も撤退してしまった。本が売れない状況はまだ続くだろう。
 立ち読みで面白い本があった。上野千鶴子(1948-)の「おひとりさまの老後」。前夜観た映画「娘・妻・母」の続きが本になったようにしばらく読んでしまった。切実な内容であるがどこか浮世ばなれした気もする。著者の経歴が立派過ぎていけない。ウイットとユーモアのある著者ではあるが富裕層の贅沢な老後観でもある。先立つものはカネという現実と視点がない。映画の中の原節子も今更人に使用されて給料を得て生活できるスキルがないので就職は結婚しか選択できなかったのである。
 独身女性が増えたのも働いて生活費を得るスキルを身につけたからである。就職先として結婚した人も夫に先立たれたら結局おひとりさまになる覚悟で、と著者はいう。待ちきれない人は熟年離婚しているとも指摘する。果たして現実を正確に把握しているのであろうか疑問だ。
 私が理想とするおひとり様は上坂冬子(1930-)さんである。トヨタ本社の高卒事務員から文筆活動に転じた人。「何とかしなくちゃ」という本を読んだきりであるが著作歴をみると敬服にあたいする。ずっと独身のはずだ。辛くても好きなことをして人生を全うする点が凄い。印税で生活することが凄い。京都大卒で東大教授という立派なご身分に上坂さんのような野生は感じられない。

四国の山を歩く(工石山、天狗森、旭ヶ丸)2007年11月25日

      四国への旅
 11/22夜8時50分名古屋ICから東名高速に入る。行く先は四国の山である。関西までは日本海側の低気圧の影響で小雨である。11/23午前0時30分、名塩SAに着いて車中泊を決めた。商用車キャラバンはこんなとき広大なスペースを提供してくれる。快適な仮眠であった。
 11/23午前4時半、3時間の仮眠で再び本線に入る。山陽道に入り、岡山JCTから瀬戸大橋方面に向う。本四架橋を渡るのは初体験。今まで連絡線かフェリーであった。あっけなく渡ってしまう。本土を離れるときに一旦ETCを通過し精算すると3874円を表示。
       高知・工石山1176mに登る
 高知道の高知ICを出る。料金は6550円也。520kmの走行距離で合計10424円だった。今日の予定の工石山登山口赤良木峠に向う。工石山は高知市民に親しまれた低山である。登ってみてよく分かった。自然が豊富で眺めがいい。位置的に四国山脈を東西に眺められるから広大である。剣山から石鎚山まで眺めることが出来た。しかもわずか1時間30分ほどでだ。一等三角点の山らしい風格と展望を兼ね備えた名山である。玉石混交の中では当然玉である。古くは信仰の山でもあった。
 山頂は北峰と三角点のあるピークの二つあるが展望盤は北峰にある。四国の山岳展望は北峰で楽しめる。但し憩えるような設備はないの少し下って三角点に向う。三角点のあるピークは展望台が設置されている。土佐湾を俯瞰できて素晴らしい。ベンチもあり広く初冬でも温かい小春日和が嬉しい。登山者が来ては去っていく。
 我々も充分な展望と昼食を楽しんだ後、賽の河原を経由して登山口に下るコースを下った。イヌブナ、ヒメシャラなど自然の植生が保存されている。登ってきた登山道には全国の県の木が植えてあった。もちろん愛知県のハナノキもあった。下山にとったコースは反対に元からの自然であろう。ヒメシャラの別名にアカラギとあったから登山口の赤良木峠はヒメシャラの群生でもあったかと思う。
      土佐の高知の名所に遊ぶ
 下山後は高知市内に向った。ペギー葉山が歌って大ヒットした「南国土佐を後にして」に出てくる土佐の名所を訪ねたかった。まず「はりまや橋」続いて「桂浜」とドライブした。途中大雪山の1峰に桂月岳と名を残す大町桂月がここ土佐の出身と知った。渋滞気味の道を次の馬路村の魚梁瀬に向った。
       秘境・馬路村へ向う
 馬路村の魚梁瀬はR55の安田町から左折、一路奥へと走る。安田町がかなり奥深く感じる。それにこの対向車の多いこと。人家が途切れても結構な車とすれ違った。馬路村は山間部の空間の中に明るくあった。馬路温泉が観光資源であり、さっきの車は日帰り入浴の客だったかもしれない。
 馬路温泉からY字路を右へ入ると暗く、羊腸の道が尚も続いた。傾斜がましてダムの堰堤に登って行く感じがした。闇で分からない。山の案内人という大きな看板を見ると下っている。ダム湖の水面に近づいていくようだ。近代的な吊橋が見えた。左は明日の予定の天狗森の案内があった。橋を渡ってしばらくで宿・満木荘への道を聞いた。すぐそこだった。名古屋から約670Kmのドライブだった。
 桂浜を4時に出て6時半に宿に着いた。すぐに外湯のやなせ温泉に入湯しに行く。ぬるぬるしていいお湯だった。何より他の客が居ないのでゆっくり出来る。地元以外の人がここまでわざわざ日帰りで入湯目的で来ることはない。だから秘湯といってもいい。
 お湯をでてすぐに宿に戻り夕食となった。イタドリの煮物、あめごの塩焼き、てんぷらなど地物で彩られたメニューは家庭的で温かい感じがした。ビールもぐいぐい入っていく。酒も2本追加した。ふとんにもぐるとばたんキューだった。
         天狗森1295mに登る  
 11/24、朝からいい天気である。外に出ると天狗森が朝日を浴びている。ダム湖は修理中で水を抜いているために殺風景であった。魚梁瀬は周囲を山に囲まれた秘境であった。古くは平家の落人伝説が残る。落ち延びてきた人が魚を捕るために簗を仕掛けたことが地名の由来という。おそらく豊富な魚が飢えた人々に希望を与えたであろう。時代は移って林業が盛んになり豊富な森林が村の経済を潤した。かつては森林鉄道が人々の足だったという。この宿も盛んなりし頃に増築を重ねて立派な外観を保つが林業が途絶えた今は閑古鳥がなく。たまにはアウトドア目的のキャンパー、渓流釣り、登山者も来るのであろう。約30年前には今西錦司一行が投宿して天狗森に登山している。
 朝7時半、宿を出て登山口に向った。橋を渡り、林道に入る。整備はされているらしく極端な悪路ではない。行けるところまで走って路肩の崩壊した所でデポ。8時過ぎ、林道を歩き始めるが朝日を浴びた紅葉がまことに美しい。全体は植林山であるが林道近辺は紅葉する落葉樹が多い。
 9時過ぎ、尾根の登山口に着いて登山道に入る。この尾根は中々急であった。ジグザグを繰り返しながら登って行くと山腹に突然原生林と見られる大径木が林立する。おそらく木材の用途として価値がない栂の類であろうか。登山道は整備されていないが赤テープもあって迷うことなく登れる。伐採中で倒木地帯の所を通過すると尾根に戻る。
 緩やかになった尾根の上はススキが繁る。これも陽光を浴びて美しい。ここからはダム湖と丸山台地が俯瞰できた。ネットに沿って登り切ると1102の独立標高点のある台地に着く。檜の株があって休むにはいい。
 台地から標高差にしてもう200m弱となった。アセビの群落の間を通過して再び森の中を登る。ここも原生林が残る素晴らしい自然景観である。山頂へはあっけなく着いた。笹の間を抜けるとぽっかり山頂が開かれている。いつもながらの満足感に浸る。1等三角点がひときわ大きく見える。後続も登ってきた。皆満足そうだ。展望は南の装束森が山頂のアンテナ設備のためはっきり同定できた。土佐湾に面した安芸市の目高森、剣山などはともかく他の知らない山々の同定に忙しい。
 約30分の滞在で下山した。Nさんがいつの間にか赤い布を付けていた。これがあると迷わず早く下れる。林道を下り車に戻るとほっとする。魚梁瀬の橋まで戻って右折。昨夜は闇で分からなかったダム湖を見ながら走る。展望台に寄り道して写真撮影もした。ここから見ると丸山台地の背後には名山の千本山がどっしりと座っていた。宿の人たちから「展望台に寄ったか」と聞かれた理由はこの景色を自慢したかったのだと話し合った。
 山間に潜んで暮すような陸の孤島=魚梁瀬よさらば!
      徳島県・小松島市に向う
 ダムを後に下ると左折して馬路温泉へは行かず、徳島県に向った。途中には野根山街道の旧跡があって再び来ることを誓った。装束森の登山口にもなる。古い官道であった。四郎ヶ野峠を下りきると平野部に辿り着く。広大な太平洋が広がった。左折してR55を走る。今日は小松島市で泊まる。宿まではまだ長いドライブである。
 小松島市に入ったのはいいがR55はバイパスに変り、旧R55は県道120に変更されていた。旅館までは中らずとも遠からずのところで道を聞いて何とか着いた。馬路村から約130Kmは走った。今夜は打ち上げということでまたビールで酒宴となった。
     旭ヶ丸1020mに登る
 11/25 今日も早めの出発にした。最後は旭ヶ丸1020mに登るが頂上直下までは牧場のための車道が開通しているから往復約1時間もかからない。ただし自然景観は著しく破壊されている。展望のよさだけが魅力の山である。下山後はNさんが四国八十八箇所順拝のお寺さんに行きたいというので一箇所だけ行った。満山寺である。結構沢山の巡礼者がいたのは流石であった。寺を辞してようやく徳島フェリー港へ向った。淡路島経由の高速道路も選択肢にあったがわざわざ渋滞に飲まれにいくのも芸がないので体が休まるし渋滞の少ない和歌山道、西名阪、東名阪経由にした。フェリーを利用するのは非常に贅沢な旅情気分が出る気がする。
 和歌山港を出てすぐに和歌山ICにはいる。むしろ事故で加太トンネル付近から四日市付近が渋滞した。しかし伊勢湾岸道を過ぎると激減して西名古屋料金所はガラガラであった。西名古屋料金所が大渋滞するというのは昔がたりとなった。

北海道・上ホロカメットク山で雪崩遭難2007年11月27日

 11/23の夜、宿のTVが北海道の十勝連峰で起きた雪崩遭難を報道していた。雪山技術訓練のための入山だったという。もうそんなに降雪があったのかと驚いた。亡くなられた方のご冥福を祈る。
 かつてこの山域には正月休みに3度渡道して行ったことがあった。一度目は単独で富良野岳にスキー登山できて満足して帰った。別の所で雪崩が一件発生した記憶がある。二度目は同行1名で行ったが雪が多すぎてヒュッテに閉じ込められてしまった。このときも沢で一件と今回と同じ場所で自衛隊員2名が雪崩に埋まる事故が発生していた。標高1000mの宿に置いた車の屋根には毎日20センチから30センチは積もった。4WD車でも除雪が不十分な所に突っ込むと亀の子状態つまりスタックしたこともあった。三度目は同行1名を伴い三段山にスキー登山できた。成功したときはいずれも比較的雪が少ないときであった。雪が多く降るときは確実に雪崩が発生する事故が起きる。一気の降雪は危険である。
 過去を思い出しながらTVの報道に見入った。かつて「山の安全対策」というサイトにあった問題集は示唆にとんだもので再掲したい。
●設問1 遭難者を救助しても、喜ばれないのは、どのような場合か?

●設問2 登山者に、さまざまな注意やアドバイスをしても、ほとんど効果がないのはなぜか?

●設問3 危険を冒してまで、人はなぜ山登りを行うのか?
(危険であればあるほど、近づきたがるのはなぜか?)

●設問4 遭難から生還した人が、再び同じ場所へやって来て、本当に遭難死してしまう例が多いのはなぜか?
(遭難者は現場に戻る)

●設問5 遭難してパートナーを失った人が、短期間の内に再び遭難して死亡してしまう例が多いのはなぜか?

●設問6 大きな課題を前にして、比較的やさしい場所(核心部以外)で遭難してしまう例が多いのはなぜか?

●設問7 連続した目標(七大陸の…、8000m峰…、100名山…)を持った人が遭難しやすいのはなぜか?

●設問8 新たな会に所属した直後に、事故が発生しやすいのはなぜか?

●設問9 遭難現場で、過去の遭難者や別の遭難者を同時に発見する例が多いのはなぜか?
(同じ遭難現場で立て続けに、連続して遭難事故が発生しやすいのはなぜか?)

●設問10 二重・三重遭難、救助活動や講習会に伴う事故がわりと発生しやすいのはなぜか?
(大勢いるほど、事故が発生しやすいのはなぜか?)

●設問11 パーティーの内でも、リーダーが比較的事故を起こしやすいのはなぜか?

●設問12 遭難することが、ほぼ分かっていても、止められないのはなぜか?
 特に設問9と10、12が今回に当てはまる。古い話であるがこの時期の愛知岳連の冬富士の氷雪技術講習会に参加した際、他の山岳会で4名が滑落で死んだ。全国から約2000名以上が氷雪を求めて集結。その中には北海道の登山者もいた。この時期北海道でも雪が少ないという話を聞いた。死亡事故多発を理由に山梨県警は冬富士での訓練の中止を申し入れてきた。当然であろう。
 以上を勘案すると今回の事故は思いがけない降雪に恵まれて地元の山で訓練できるチャンスととらえたれたふしがある。Lは引き返すかどうか思案しながら微妙なところで雪崩に遭遇してしまったようだ。ここは雪崩の常襲地帯と知りつつも遠い本州の山でなく近くでやれる、という気安さが落し穴にはまったといえる。
 気心の知れた参加者が多いと楽しいし、警戒心も緩む。雪崩の恐さは遭遇しないとホントは分からない。しかし遭った時はもう手遅れで死んでしまうこともある。短期間に大量の降雪があった時は行かないことに限る。しかし雪山への誘惑は絶ちがたい。多くの犠牲者を心に刻みながらも雪山に向うのだろうか。