映画「出来心」鑑賞2007年12月03日

1933年制作の無声映画。松竹蒲田作品。昭和8年度 キネマ旬報ベストテン第1位 小津安二郎30歳のときの作品。
監督 小津安二郎、出演=坂本武、大日方傳、飯田蝶子・伏見信子、突貫小僧など。
 素晴らしいサイレント作品に弁士歴35周年という活動弁士・澤登翠の台詞が入って大変面白かった。10月にも溝口映画「滝の白糸」を初めて観たが今回は小津作品ということであり期待以上の内容であった。満足した。
 12/1-12/2の第13回オーヅ先生を偲ぶ集いは松阪市の奥飯高町のスメールで行われた。名古屋からはかなりあるので土曜日に休暇をとって出かけた。土曜日は迷岳に登山したが名古屋を7時過ぎ出発でも登山口に立ったのは11時であった。おまけに庵の谷林道を奥まで利用するつもりが鉄骨製のゲートで車幅、車高とも一杯で通過できずにそこから歩いた。林道歩きは約1時間20分、ジャンクションピーク12時過ぎ。大きなピークを一つ越えて山頂直前の柚子の木平のピークまで頑張ったが14時となり日没の早いこの時期を考えて引き返した。登山道は未整備であるがルート自体は自然林が豊富で大変良かった。新緑期、黄葉期ともいいだろう。野うさぎ、カモシカを見た。きっと野生動物も多そうだ。
 夕方5時頃スメール入り。埼玉県から来たという同宿の方ともすぐ意気投合して映画談義、小津談義の話が弾んだ。温泉を楽しみ、宴会も広島、埼玉、東京、長野各地から遠来の小津ファンが集い文字通り偲ぶ会になった。
 12/2の10時半から上映開始。滑らかな口調の弁士の語りが画面を生き生きとさせる。ホテルの宴会場なのでスクリーン自体は小さめであるがやはり小さなTVの画面で観るのとは迫力が違う。
 昭和8年という時代を反映してか、台詞の内容には「蟹工船」という小林多喜二の小説にもなった言葉がポンポン出てくる。折りしも昭和8年の2月に小林多喜二は獄中死している。この作品は下町の人情物で解説されるが登場人物に語らせることで社会派リアリズムを悟られないように挿入したと思う。
 昭和8年は4年前のニューヨーク大暴落(世界大恐慌)の後遺症のいえぬ時代である。紡績工場を解雇された身寄りのない若い娘がふらふらと主人公の坂本武の住む長屋に現れるところから物語が始まる。娘は竹久夢二の美人画に出てきそうな弱々しい感じである。小津さんはそんな流行も取り込んだに違いない。夢二は翌年に50歳で死んだから封切り時にはまだ生きていた。
 坂本は若いきれいな娘に惚れるが息子のいるやもめ暮らしである。娘はやもめよりも友人の次郎という隣の若い男に惚れる。この構図は後々の男はつらいよの寅さんの原型であろう。男はつらいよシリーズにも寅さんが労働者諸君!といってアパートの住民に叫ぶシーンがあったがまったくずれていた。分かっていないなあ、と観客に思わせるのである。そこがコメディなのである。喜劇は悲しいのである。
 プロレタリア文学、大正ロマン、経済不況、社会不安などの時代背景を断片的に巧みに映像に忍ばせてやたらに人がいい喜八という男と下町の人情を描いた。食堂の女将さん役の飯田蝶子もいい演技であった。春江役の伏見信子は大正15年生まれというから当時18歳と適役であった。
 映画が終ってからも弁士と藤田明氏とのトークショーがあった。スメールを辞して松阪に向ったが宮前の小津資料室に立寄った。また同宿のFさんに便乗してもらって青春館も訪ねた。それでも終らず、ホテルの喫茶ルームで弁士とO氏を囲む談話会も設けられた。より深く掘り下げた映画論が展開されて飽きることがない。小津映画はただ観ているだけでもいいが見過ごせないものが一杯あると感じたことであった。

映画「植村直己物語」鑑賞2007年12月08日

 日本人として初めてエベレストの山頂に立った植村直己の登山と冒険の軌跡を現地ロケと日本での生活を織り交ぜながら描いた映画であった。BGM,ロケーションは素晴らしいショットの連続で緊迫感も出ていてよかったが今一植村の人間を描ききれていない気がした。
 かつて兵庫県にある植村の墓に行ったことがある。「蘇武ヶ岳の見える墓」と題して小文をJACの会報に投稿した記憶がある。映画ではいきなり大学山岳部から始まるがやっぱり少年時代のことも描かないと人間性が出ない。登山と冒険の成功物語になる。最後は遭難するのであるが。
 また山岳遭難も北米大陸の最高峰であったから彼は世界の五大大陸の最高峰登頂のハシリであろう。これを達成して生き残っているのは(知っている人では)やはり世界で始めて女性でエベレストに立った田部井淳子(35)だけである。
 この種の登山は目標達成感と次はもうやらない、これで終り、後はゆっくり国内登山を楽しむ、妻または夫や子供と安全に登るという気があると遭難し易い。植村もマッキンレー登山を終えたら北海道で子供向けの野外学校を開校する計画があったそうだ。なぜだろうか。そんな例は心当たりが多い。
 主役の賠償千恵子扮する公子はまあまあ、しかし植村役の西田敏行はどうかなと思った。どうしても映画「釣りバカ日誌」のキャラクターが出てしまうのである。たしかにサラリーマンに向かない性格で好きなことしか打ち込めないという人物造形の設定は全く同じである。しかしコメディではないし少し腹のでた西田の体では違和感が払拭できなかった。極寒のロケ地での熱演であったことはいいとして。山岳映画は難しいですね。

映画「浪華悲歌」鑑賞2007年12月09日

1936年の浪華悲歌 、1953年の雨月物語、1953年の祇園囃子などの溝口作品の世界をDVDで観た。中でも掲題の浪華悲歌は良かった。以前観た祇園の姉妹とともに代表作と並び賞賛される。1954年の山椒大夫を見た際は特に心を動かすものはなかった。原作を読んでいたので比べてしまうからであろう。田中絹代の演技力だけでは心もとない。雨月物語は原作を知らなかったが絵空事の感が強い。ただ一人森雅之の演技が光る。しかし、外国では高い評価を得ている。祇園の世界など所詮は殆ど縁のない世界だから悲劇的な女性の生き様を垣間見ただけの感想しかなかった。
 浪華悲歌は主役・山田五十鈴19歳のときの作品。今風に言えばOLの転落の物語である。父親は会社のカネを横領して株に投資するも失敗。その返済に追われる身、兄は大学生で学資が要る、妹も学校に通う身。
 ざっとこんな家庭環境の中に山田五十鈴扮するアヤ子はいた。まず父親の窮地を救うために勤務先の社長の妾になる。大金を得て父親は救われる。これは社長夫人にばれてしまう。このときの社長夫婦のやり取りは漫才みたいでおかしい。次に妹から兄が学資に困っていると聞いて勤務先に通ってくる株屋をそそのかしてカネを巻き上げる。このカネも父親に送った。
 勤務先で知り合った恋人と結婚するつもりでアパートに引き込むがそこへ株屋がカネを返せと迫って来た。急遽恋人を用心棒に立てて追い返す。これは犯罪とされて警察に引っ張られる。新聞にも掲載されてしまった。自宅に戻ったアヤ子は父や兄、妹に冷たくされる。夕飯のメニューはすきやきであった。その生活費もアヤ子から送られたカネであったが妹はすきやきを分けてくれない。兄は罵倒する。父親は黙してかばうこともしない。救いようのない場面である。本来なら温かく迎えるはずが厄介者扱いされている。
 自分を犠牲にして家族を窮地から救ったのに親兄妹は助け合うこともなかった。見切りをつけてアヤは家を飛び出す。あてどない町を彷徨う。知り合いの医者と会うが「病気と違うか」といわれて「不良少女ちう立派な病気やわ」と応える。彼女の行く末は、と気になるがそこで終る。これまでの涙を流させる映画と違って徹底したリアリズムで進行していく。現実にあったかのように。大阪弁だけが救いの映画でした。
 山田五十鈴は当時一女をもうけていたがこの作品で女優開眼したという。家庭婦人になる決意を翻して名女優へのステップを登る道を選んだという。小津監督の「東京暮色」でも山田五十鈴の役は流浪する女であった。家庭にいつかない女性である。小津さんの脳裏にはこの作品のイメージもあったと思う。ただし東京弁で喜劇の俳優がいなかったから救いがなかった。女房に逃げられた夫・笠さんを描きたかったらしいが霞んでいた。

大掃除2007年12月09日

 今日は溜まりに溜まった未整理の書類、本、雑誌、ダイレクトメール、メモ類など整理した。大掃除で深夜までかかった。
 今年は6月までは先ず先ずの進行具合だった。7月初めに雑誌の寄稿依頼を引き受けてから9月までが何かと多忙感に追われた。おまけに異常に暑かったし長引いた。こうなるとだらけて資料、参考書、メモ、プリント、地形図が出しっ放しになったまま重なって放置したままであった。
 封を開けないまま捨てるダイレクトメールや雑誌なども結構多い。溜まると面倒なものである。捨てるとまずいものもあるから一応溜めておくからだ。山行の方は程ほどであったが仕事が多忙であった。とにかくこれが一番の原因である。
 そんな中を休日毎に予定をこなすことが出来た。但し10月末で鍵当番は交代となった。やれやれである。朝早く夜遅い日常がこの3年間続いた。淋しい気もするが何とも清清しい気分が優る。11月に入って時間は余裕が出来た。但し、マイカーの鍵を一時紛失したことで気分が落ち込んだ。これも丁度1週間後に解決した。出てきたのである。誰か知らないが届けてあった。初旬の予定は皆キャンセルであった。
 11月後半は取り戻すかのように四国の山をドライブ登山してきた。快晴に恵まれて良かった。12月初めは最後の映画祭に参席。このように日程を消化してもう一年が終ろうとしている。早いものである。
 愛用のオイルヒーターを出して寒い夜に備えた。18Lで数百円だった灯油が今は1700円もする。マイカーのタイヤもスタッドレスに交換しなければならない。登山の衣類や道具も冬のものに切り替えておこう。来年の手帳も用意したい。忘年会、山行、年末年始の山、年を越えて来年早々にスキー行ETC.
 昨年の今頃からメタボ対策で徒歩通勤、肉食を止めるなどで始めたがノロウイルスに罹患し、年末から1月一杯はこじらせた風邪に悩んだ。肉を止めると免疫力が落ちて病気にかかりやすい、と知って肉食を再開し、2月から体力を回復した。しかし、時間を持て余したお陰で映画の楽しみを知ったのも事実である。怪我の功名というべしか。

菊地敏之「ハイグレード登山技術」2007年12月12日

 東京新聞出版局刊。2007.7.16.「岳人」に連載されたシリーズを単行本化した。連載中から単行本化されるといいな、と思っていた。毎号購読する熱心な読者ではなかったから。
 著者の菊地氏は1960年生まれの現役の山岳ガイド。過去に「最新クライミング技術」を出して好評の内に版を重ねた。私も買った。よく整理されて読み易かった。こんな一見取り付きにくいテーマの本がよく売れることは異例のことだと思う。多分著者の薀蓄が入っていることが大きいだろう。いい指導者に恵まれないのも原因かと思う。
 ベテラン登山家が書いた技術本は少なくないが類書と単純比較は出来ない。山岳ガイドとなって山岳会を離れ、登山技術も客観的に批評できるし指導する立場でもかなりの蓄積があったかに想像するのである。そんなバックボーンがある著者の本だから多分よく売れると思う。
 本書の類書にない特長はむしろP158以降である。登山の取り組み方の項で「安全な登山のためには山を知ること」という文は何もこの人だけが発見した真理ではない。すでに今西錦司の著書にもあることだから一定のレベルに達した登山家ならいやおうなく気づく真理である。それを知らないから山岳遭難が絶えないのである。
 P164のステップアップの仕方は従来は山岳会の中で先輩にもまれながら教わったことである。こんにちはこうした過程を経ずに簡単に冬山に行けるから思いがけない遭難が起きる。
 本書の題は「ハイグレード」と謳っているが適切とはいえない。むしろ「基本の」とか「5合目からの登山技術」とかしたらいかがでしょうか。全くの初心者はまだ恐さを知っているからいいとしても中級者が危ない。危ない経験をいくつも経験して切り抜けて初めて中級者足り得る。
 春山、沢登り、山スキーといったジャンルには触れられていないのは惜しい。ヤブ山ではガイドで稼ぐことは出来ないがそれだって登山の基本がある。ないものねだりかも知れないがそれでこそ「ハイグレード」の称号を与えてもいいと思う。

映画「淑女と髯」鑑賞2007年12月12日

1931年松竹制作。小津安二郎が28歳の頃の作品。サイレント映画です。
 これで1931「東京の合唱」1931「生まれては見たけれど」1929「大学は出たけれど」1930「落第はしたけれど」1933「出来ごころ」と観てきたがどれも可笑しい。健康な笑いに満ちている。サイレントは台詞がないから身振り手振りで諧謔性を表現する。アメリカ風に言えばギャグである。語韻も似ている。
 この映画は岡田時彦が主演で顔を覆う髯面のバンカラ風大学生の役。なぜ髯を生やすかという質問にリンカーンの写真が出て説明されるのが可笑しい。過去の偉い人は髯を生やしていたというのであるが。対する女優は3人が主役で中の川崎弘子は田中絹代ばりの日本的な可愛い顔でそっくり。当時はあれが美人の標準だったのであろうか。
 弘子に髯を剃りなさいと諭されて剃るとホテルにも入社決定。馬鹿にしていた他の女性まで惚れているという変り様。それは岡田時彦が当代きっての美男俳優だったからでした。
 わずか1時間15分でした。1903年12月12日に誕生。1963年12月12日に首に癌を患って死去した。命日であり誕生日でもあるという。「豆腐屋には豆腐しか作れない、そんなに色々作れるわけがない」といっていた小津さん。病床でも見舞い客に「ガンモドキが出来た」といって笑わせていたそうだ。わずか60年の命でしたが素敵な映画を沢山残してくれてどうもありがとうございました。
    小津安二郎の映画観て居る忌日なり    拙作

映画の中の時代と風景2007年12月16日

 この所続けて見る映画は独立プロ制作のものが多かった。レンタル店の棚を隅々まで眺め回したがもう見たくなる映画のタイトルは見つかりにくくなった。名作中心の鑑賞は限界に近づいたのかも知れない。
 最近では、山本薩夫監督の「人間の壁」、「荷車の歌」、今村昌平監督の「豚と軍艦」、娯楽中心の「男はつらいよ」シリーズ、「釣りバカ日誌」のシリーズ、「サラリーマン忠臣蔵」の正続編などだ。
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 「人間の壁」は日教組という教職員の労働組合の巨大組織と香川京子扮する女教師を中心に組織と人間の葛藤を描いた。原作は石川達三の名作。昭和34年の制作であるから日教組も昭和22年の発足以来25年は経過していたころだ。検索でWIKを見ると昭和33年の組織率は86%、48年後の平成18年では28.8%と低迷。日本社会党が民主党に吸収されたことも響いているだろう。先生はかなり以前から待遇改善が図られて今は新富裕層といわれる。したがって今はもう体制と闘う労組のイメージはない。先生の給料が良くなり、日教組に加入する先生が減った。支持する社会党が弱体化した。国鉄も電電公社も民営化されて益々社会党の弱体化が促進。ついに社民党と民主党に股裂きの格好で分裂した。
 しかし日教組が弱まるとまたぞろ道徳教育とか国旗掲揚問題が頭をもたげる。反面で日教組が強かったころは教科書に自虐史観が刷り込まれた。これは是正しなければなるまい。巨大で強すぎる労組は本来の目的を離れて政治にも参画して行く。今の日本はバラバラになってしまった。相対的に政府も弱くなったからだろう。
 そんなことを考えさせた映画であった。
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 「豚と軍艦」は横須賀に寄港する米軍の放出する残飯で豚を飼育するというヤクザの話であった。終始違和感がぬぐえないストーリー展開のまま終った。しかし、画像に閉じ込められたものは時代を反映していて懐かしい。オート三輪車、裸電球、大らかなアメリカ車、若き日の長門裕之、南田洋子、丹波哲郎も元気はつらつと輝いている。WIKを見ると重喜劇が今村監督のカラーという。確かに珍にして奇怪なりだ。何だか落ち着かない。
 最新の「日本の100人」(デアゴスティーニ・ジャパン)の「NO087小津安二郎」の中で「東京物語」などの助監督の経歴もある今村監督は小津さんの影響を強く受けたという。しかし徹底して小津さんの影響を消し去る猥雑な世界の映画を制作した人であった。
 恋人でチンピラの長門裕之扮する欽ちゃんの子供を堕胎したり、捨てられても、米兵に集団暴行されてもオンリーにもならず、新興の工業都市川崎にいって働こうとたくましく生きる若い女役を新人の吉村実子が演じた。重苦しい時代背景を背負いつつも好感が持てた。時代や状況に流されない人間像を描いた点が或いは小津さんの影響かも知れない。男達にズタズタにされても自立的に生きようとする女性に対する優しいまなざしは今村監督のものであろう。

続・映画の中の時代と風景2007年12月19日

 黒澤明の「七人の侍」を観た。劇場で観て以来何十年ぶりか。
 改めて観るととにかく面白い。黒澤監督は非常に面白い映画を撮ってきた人だった。この作品に由来する評価は世界的に高い。模倣した外国映画もあるというほどだ。
 昭和29年公開。以降はビデオで一般家庭に普及したと思う。更にDVD版が出てPCで観られるゆえに若い人たちも楽しめるようになった。益々観られてゆくだろう。とにかく躍動的で面白いのだから。
 ちょっとだけ疑問や注文をつけるとすれば、山に囲まれた農村にしては阿弥陀堂、神社・・・たとえ山の神でもいい・・・の類が欲しい。どんな時代でも人々は信仰を忘れなかったと思う。
 野武士から守るため橋を解体していたが丸太がよく加工されて立派な構造に見えた。ところが家はみすぼらしい。その落差が疑問であった。
 馬はアラブかサラブレッドであろうか。当時あんなスマートな馬がいたであろうか。農耕馬はもっと足が太い気がした。時代劇全般に言える疑問であるが。
 三船敏郎が飲んでいた酒はどぶろくというものであろう。当時は清酒の普及期でまだ一般人は濁った酒であったからよく時代考証されている。ただし飲み方が豪快であった。あんなにごくごく飲めるものか。過剰演出である。
 最後の場面で田植えをしながら歌を歌っていた。京都の山奥に田歌(とうた)という地名がある。田植え歌というのも昔はあった。芭蕉にも
  風流の初めや奥の田植え歌
がある。農民出の一茶にも
  もたいなや昼寝して聞く田植え歌
があった。あの風景は中々時代考証が行き届いていると感じた。
 気の弱そうな農民が立派な槍や武具を持っていたので改めるとかつて落ち武者から奪ったものと分かった。落ち武者を殺して持ち物、着るものを奪うのは奥三河の山村の例がある。検索で望月峠の名前の由来を探ると
設楽ヶ原というサイトからコピーする。
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 望 月 様

  天正3年5月,長篠の戦いに甲州軍敗れ望月右近太夫義勝(勝頼の伯父という)逃れて22日に御園村に来る。空腹に堪えず一民家に入りて食を求む。老婆あり曰く「貧家にして供すべき物なし,唯大豆あるのみ」と炊りて出せしに義勝小柄を以って皮を剥きて食し,後信濃に至る道を問ふ。老婆窮に思へらく,必ず名ある落人なるべし討取りて恩賞に預らんと深山中に迷ひ入らしめ,直ちに村人に告ぐ。村人竹槍を以て之を囲む。義勝遁るべからざるを知り大喝一番「汝等竹槍を以て我を斬るべし。我は信濃の産,死後は信州風の吹来る所に葬れ。左あらば仇せじ」と言ひ,『仇なれや名を長篠に留めはせで御園の草の露と消ゆとは』と辞世し,自ら腹を切り自若として死につけり。死骸を右百姓の家の側なる溝に埋め,大小其他小遣金等を奪へり。其の後寛永に至りその子孫に大いに崇りあり。之に依りて信州風吹く園裏峠(字真地御園峠の麓旧別所街道を隔つる数十間)に小石祠を建てたり。
 又刀は無銘にして何人の作なるかを知らざるを頗る名刀なるといひ,亦祟りありとなし,氏神熊の神社に奉納せり。後年義勝夫人甲州より夫を尋ねて長篠附近に至りしが,當地に死せしと聞き墓を訪はんて振草村神田に来りし時亦殺されしと傳ふ。
 (東栄町文化財保護委員会発行   昭和37年)より
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 文中に「村人竹槍を以って之を囲む」とあるから映画の中の場面そのものである。雇われた7人の侍のリーダー格の志村喬も農民に追われたことがある、と語る。竹槍戦法は第2次世界大戦でも使われたことがあるというが本当だろうか。
 侍が7人というのも何か意味ありげである。奥三河の古戸山で七人塚というものを見たことがある。これも落ち武者の墓であろうか。
 リアリズムと何か。
 農家の間を吹き抜ける強風と舞い上がる砂埃、ドロドロの地面などは真に迫る。しかし、あの場面には送風機を使ってわざとらしく風を作るという。泥には墨汁を混ぜたという。つまりそれは演出である。知らなければいいが知ってしまうとやり過ぎ、と思う。
 山岳写真家の中にも上高地あたりの冬景色を撮影するにわざと風を起こしていかにもブリザード風の演出をするそうである。写真は真に迫るだろう。プロはより厳しさを強調するものであるが・・・。
 ここまで書いて有名な秋桜子の「自然上の真」と「文芸上の真」の論争を思い出した。俳句にあっては「文芸上の真」であれという。単なるありのままでは文芸ではないというものであった。映画も芸術であるから演出も許されるのであろうか。
 山岳写真においては被写体の真、ではなく、撮影する写真家の足元、息吹き、心臓の鼓動、緊張感、感動、視線が伝わればいいと思う。演出は無用である。だが商業用に何かを強調したいプロの山岳写真はそういう要望に応えなくてはいけないだろう。単なるシュカブラでなく風雪が舞い上がる瞬間をとらえたいもの。難しいところである。
 俳句革新をした子規は写生を主張した。それは余計なことを嫌ったからである。写生なら駄句を作る確率が減る、秀句は中々作れないけれど。この頃血を流すシーンをリアルに見せるからカラーの暴力シーンは観たくない。真に迫らなくてもいい場面もある。
 リアリズムも人間次第内容次第というのが結論です。

映画「不毛地帯」鑑賞2007年12月20日

1976年制作。山本薩夫監督。山崎豊子原作。今から約30年前に起きたロッキード事件があった。1976年は田中角栄首相が逮捕された年でもあった。そんな時代にこの映画は公開された。
 物語は戦前の大本営参謀だった瀬島龍三がモデルといわれる。終戦後ソ連軍の捕虜となり、シベリアに抑留された。題名の不毛地帯とはツンドラ地帯を示唆する。11年のシベリヤ抑留を終えて帰国後商社に入社し頭角を現していく物語。折も折、ロッキードをもじったラッキード社とか、岸信介にそっくりな俳優を出してリアルである。主役は仲代達矢であるが脇役にも大物が勢ぞろいの見ごたえのある映画であった。
 映画の内容は自衛隊の戦闘機購入にからむものであった。今マスコミに出ない日はないほどの事件となった守屋次官の接待事件。自衛隊の装備品の購入に関して商社山田洋行の接待を受けたというもの。構造的には酷似している。あれだけ騒がれたロッキード事件であったが何も改善されていない。それだけに映画はリアリティーがあって3時間もかかる大作であったが最後まで観た。時計は深夜1時30分、ぐったりして布団に潜り込んだ。
 モデルとされる瀬島龍三はWIKIによると1911年生まれで今年9月4日に逝去。享年95歳だった。陸軍大学校を主席で卒業。戦後は政商、武器商人と呼ばれた伊藤忠商事会長、と紹介。映画の近畿商事とは伊藤忠のことか、と思われる。

夏沢鉱泉から根石岳に登る2007年12月24日

 名古屋は午前9時と遅めの出発だった。岡崎市や半田市、可児市など周辺都市からの参加者が多かったし夏沢鉱泉の送迎サービスもあって一日をゆっくりアプローチに使った。
 諏訪SAで昼食をとったが八ヶ岳も諏訪湖すらも見えなかった。天気予報はよろしくない。鉱泉宿で骨休みもいいか、と期待はしなかった。茅野市周辺はまだ雪景色ではないが奥へと行くに従い道路脇に雪が見られた。唐沢鉱泉との分岐からは舗装路と別れて雪道となった。
 夏沢鉱泉は初めていくところである。S君に誘われなかったら行かなかっただろう。私が良く使った昭和53年版「八ヶ岳」と51年版「蓼科山」の5万図の地形図にも夏沢鉱泉の記載はない。昭和50年発行のブルーガイド「八ヶ岳」にもあるのはオーレン小屋、根石山荘、硫黄岳石室(現在は山荘と改称)、夏沢峠の山彦荘、(かつてはこまくさヒュッテといった?)ヒュッテ夏沢だけで夏沢鉱泉は家の記号すらないしガイドでも夏沢峠からの下山コースとして紹介されているだけ。長い山麓歩きを楽しもう、という余裕派、と郷愁派向けだった。このコースはかつては諏訪と佐久を結んだ古い峠道であった。昭和50年当時から今までは小渋の湯か美濃戸口が主流であり、忘れられたルートであった。
 もう一つ忘れられないのは山岳名著『単独行』や新田次郎『孤高の人』に登場するということだ。それは昭和3年12月31日に茅野市から一日がかりで夏沢鉱泉に到着している。当時は無人。近くの農民らが利用する湯治宿であっただろうか。ここで昭和4年の元旦を迎えた時の手記は名文として多くの岳人の記憶になるところである。Googleで「加藤文太郎 夏沢鉱泉」を検索しても8件しかヒットしない。秘湯と呼ぶにふさわしい。
 HPによると2005年の冬から通年営業になったと案内されているからまだ3年目である。通りで手荒い送迎ぶりだったわけである。一般客なら驚いて二度とこないだろう。
 宿は近代的な設備で山小屋の雰囲気ではない。快適そのものである。夏なら一般客でも喜ばれるだろう。何分標高は2060mもある。冷涼であろう。送迎車の運転手さんいわく1年で12月と1月は宿で太陽を見ることがないそうだ。この時期の太陽は南を掠めていくため高い尾根に閉ざされしまうのである。だから底冷えするはずだが今回はマイナス3度程度と温かい。
 宿に着くとすぐにお茶をサービスされて3人用の個室に案内された。しばらく休んでお湯に入ったが意外と狭い。柚子やミカンが浮かんでいて冬至にふさわしい配慮だ。石鹸は使わず温まるだけで出た。やがて夕食となったが素晴らしいご馳走に舌鼓を打った。鍋物が中心で木曽で獲れたというイノシシの肉が少し乗っていた。他にはキノコ、野菜、豆腐など味噌仕立てであった。皿には多彩な料理が並び、野沢菜の漬物、ホウレン草のおしたしなど盛り沢山であった。本当に腹いっぱいになった。ただでさえメタボリックを気にしているのに誘惑には勝てない。
 食後は東京から呼んだというテノール歌手の絹川文仁氏とソプラノ歌手の市川尚子氏の本格的な歌声を満喫しました。みんなで歌った山の歌も昔を思い出してとてもよかった。司会、歌手、演奏と忙しくこなし、何曲も披露されてお疲れでした。話術も上手い。とくにギャグが多かった。わが会のK氏にはとても及ばないが・・・。エンターテイナーとして優れた才能ありのアーチストなんでしょうな。しかし彼はれっきとした大学の教授であるから本当は先生と呼ぶんでしょう。うろ覚えですが『キャッツ』という氏のオペラは圧巻でした。市川氏は愛知県立芸大音楽部同大学院を出てフランスに音楽修業。その美声に圧倒されました。山へ来たと言うのに随分逸脱したイベントですがオーナーの浦野さんはきっと驚かすことが好きなんですね。
 ミニコンサート、サービスで飲む銘酒八海山、ワインなど、費用もかかるが10500円で大丈夫ですか、と思った。
 11/23は予報どおり天気は悪いが撤退するほどではない。前夜からの降雪で雪景色は素晴らしい。オーレン小屋、夏沢峠と登ったが自身の体調は今一優れず。やはり運動不足即メタボなんでしょう。峠からは一時的にはれて箕冠山まではもった。遠くに浅間山らしい山を見た。が再び降雪とガスに見舞われた。根石岳ではガスの中だった。天気が悪くなる前に一時的に晴れる現象を偽の晴れ間という。山でも俗界でも偽はよろしくない。下山は往路を戻った。宿でラーメンを食べて下山した。駐車場までは雪上車で送ってくれた。下界は晴れ間があった。
 別荘地を通り抜けて途中、縄文の湯で汗を流した。近くのJAでは地酒ダイヤ菊を買って土産とした。映画監督の小津安二郎は晩年、蓼科にある脚本家野田高梧の別荘で共同で脚本を書いたがこの酒を愛飲したという。小津映画ファンとしても一度は飲みたかった酒であった。