豊田市中央図書館へ ― 2026年05月01日
1 鴨の騒立
2 松平町誌
3 豊田市史
4 三河加茂一揆の地をゆく
5 加茂郡村々百姓騒立諸事日記
6 渡辺守綱公顕彰会叢書第十二集
以上を閲覧できた。
2 松平町誌
3 豊田市史
4 三河加茂一揆の地をゆく
5 加茂郡村々百姓騒立諸事日記
6 渡辺守綱公顕彰会叢書第十二集
以上を閲覧できた。
松平往還の検証行1 ― 2026年05月02日
3/15の復路(南進)の反省をフィードバックして4/29の順路(北進)を実施した。磯谷栄一氏の案内書を読み返すと細部で気がかりなところが残った。特に「桜の道」「松の道」と市街地は多く残った。今日はその検証である。
まずは「竹の道」の出発地である米河内に来てみた。
14の東の滝山御神領標が発見できなかった。これは青木川左岸の近藤家の敷地内ということで見つからなかったわけだ。同時に開元通宝出土記念碑も見つかった。明治時代は青木川右岸にあったが昭和38年以後に近藤家に移設された。
15の松平往還と古大沼街道の分岐点が見えているのに認識できなかった。堂坂は1m幅しかなく、クルマは通れない。左側の車道も軽自動車か4ナンバーがやっとの狭い道だった。常夜灯の先の忠魂碑の前に路駐して、堂坂から登って見た。
P40に絵図で説明されているがこの変遷が分かりにくい。わずか200m位の距離である。八幡宮を経てヤゲ川沿いに下る道も同じくらい狭い。この時期は松平往還も大沼街道も同じでヤゲ川に下ってから分れた。
明治25年以前の昔は青木川に崖で落ちていた。このために堂坂を急登して行ったらしい。明治25年に大沼街道が青木川沿いに開通して常夜灯が設置された。岩窪みの馬頭観音もできた。
昭和38年以後は現在のヤゲ川沿いの大沼街道の旧道から左折して松平往還に行ける。4/29は岩窪みの観音を探しに行ったが見つけられず、変な軌跡になった。これで納得。竹の道は郡界川までほとんど正しくトレースできている。
松の道の8から14のうち、8の「魂場の道標」はドラッグストアに止めて、魂場の交差点の片隅に埋められていたのを確認できた。
次は名鉄バス停「老いの狭間」の向かいに緑風台という住宅団地があり、その南東面の実線を辿っていることが分かった。クルマで行って見ると通しでは走れなかった。1m幅の小径が残されている。石仏などのものはない。緑風台の公園とは背の高いネットで仕切があり、名札のある廃屋があった。
「桜の道」の2から3の道は知らずに通過、6から8の道も迷走した。これはこだわらずとも良いか。時間があれば竜泉寺と足立眼科の道標を見に行きたい。「松の道」の滝山寺から馬頭観音の間の細部もマニアックなので割愛した。
又、ヤマレコの記録では井田観音堂から真伝町のカフェデリプレッソという喫茶店の南に小川があり、橋のたもとに道標が残っている。ここを経由して大沼街道に合流すると後は同じである。
まずは「竹の道」の出発地である米河内に来てみた。
14の東の滝山御神領標が発見できなかった。これは青木川左岸の近藤家の敷地内ということで見つからなかったわけだ。同時に開元通宝出土記念碑も見つかった。明治時代は青木川右岸にあったが昭和38年以後に近藤家に移設された。
15の松平往還と古大沼街道の分岐点が見えているのに認識できなかった。堂坂は1m幅しかなく、クルマは通れない。左側の車道も軽自動車か4ナンバーがやっとの狭い道だった。常夜灯の先の忠魂碑の前に路駐して、堂坂から登って見た。
P40に絵図で説明されているがこの変遷が分かりにくい。わずか200m位の距離である。八幡宮を経てヤゲ川沿いに下る道も同じくらい狭い。この時期は松平往還も大沼街道も同じでヤゲ川に下ってから分れた。
明治25年以前の昔は青木川に崖で落ちていた。このために堂坂を急登して行ったらしい。明治25年に大沼街道が青木川沿いに開通して常夜灯が設置された。岩窪みの馬頭観音もできた。
昭和38年以後は現在のヤゲ川沿いの大沼街道の旧道から左折して松平往還に行ける。4/29は岩窪みの観音を探しに行ったが見つけられず、変な軌跡になった。これで納得。竹の道は郡界川までほとんど正しくトレースできている。
松の道の8から14のうち、8の「魂場の道標」はドラッグストアに止めて、魂場の交差点の片隅に埋められていたのを確認できた。
次は名鉄バス停「老いの狭間」の向かいに緑風台という住宅団地があり、その南東面の実線を辿っていることが分かった。クルマで行って見ると通しでは走れなかった。1m幅の小径が残されている。石仏などのものはない。緑風台の公園とは背の高いネットで仕切があり、名札のある廃屋があった。
「桜の道」の2から3の道は知らずに通過、6から8の道も迷走した。これはこだわらずとも良いか。時間があれば竜泉寺と足立眼科の道標を見に行きたい。「松の道」の滝山寺から馬頭観音の間の細部もマニアックなので割愛した。
又、ヤマレコの記録では井田観音堂から真伝町のカフェデリプレッソという喫茶店の南に小川があり、橋のたもとに道標が残っている。ここを経由して大沼街道に合流すると後は同じである。
岡崎市図書館へ ― 2026年05月03日
松平往還、三河加茂一揆等の文献を求めて岡崎市図書館に来た。加茂一揆の研究書はあったがやや左翼的な視点が気になった。大学の学者だからだろうか。客観的な見方が知りたい。
この点、豊田市松平支所の図書館には松平中学や松平高校の生徒らが研究した結果をノートにまとめられていて良かった。自分らの先祖にも関係するから余計に真剣に取り組んだのだろう。
この点、豊田市松平支所の図書館には松平中学や松平高校の生徒らが研究した結果をノートにまとめられていて良かった。自分らの先祖にも関係するから余計に真剣に取り組んだのだろう。
豊田市博物館へ ― 2026年05月04日
初めて入館する。1200円のところ、JAF割引で1100円になった。企画展は「教えて、千田先生! とよたの城も天下の城も」。会期2026年4月25日(土)〜2026年6月28日(日)。入場者は多数で中々の人気があるようだ。山城ブームもあるのだろう。
山歩きではちょくちょく古城に行くことがある。古城山という名前もある。美濃の口山には特に多い。戦国時代は群雄割拠で多数の山城が作られたのだろう。
常設展も意外に面白かった。昭和30年の国産初の乗用車のトヨペットクラウンの展示に目をくぎ付けにされた。今にも動きそうなくらいよく保存されている。
他には蚕の展示、ガラ紡の展示など拳母町、拳母市、豊田市と続く歴史の変遷がモノで分かりやすく展示されていた。
ネットから引用
「愛知県豊田市。トヨタ自動車が本社を置く、いわずと知れた企業城下町だ。この市は元々「挙母(ころも)市」という市名だったことをご存じだろうか?
「クルマのまち」ではなく、「マユのまち」だった
養蚕・製糸業を中心に栄えた挙母町。しかし、昭和の初めころからその需要が減り、当時の町長・中村寿一が町の繁栄を取り戻すために乗り出したのが、豊田自動織機製作所が新設した自動車製造部の工場誘致だった。
誘致成功後の1938年、トヨタの挙母工場が論地ヶ原(現豊田市トヨタ町)に完成。発展を遂げた拳母町は1951(昭和26)年、挙母市として市制を敷く。
たった8年で市名変更
そして1958(昭和33)年、商工会議所から市宛てに、市名を「豊田市」に変更してほしいという請願書が届く。理由は、挙母市が全国有数の「クルマのまち」に成長したことと、地名の「挙母」が読みにくいことから。元の地名に愛着を持つ市民も多く、一時は賛成派と反対派で市を二分するほどの論議が展開されたが、翌1959(昭和34)年には市名を「豊田市」に変更したのだ。」
1964(昭和39)年2月19日に市長に就任した佐藤 保はトヨタの社員だった人。
ネットから引用
「1964年(昭和39年)と年が改まり、豊田市長選挙が刻々と迫っていた。前回選で惜敗した市名変更反対派は次期選挙にすべてを賭けるとし、再度本多鋼治を擁立することを申し合わせていた。本多も日之出町の本多モータースに碁会所を設け、着々地歩を固めつつあった[13]。
保守派の間では現職の長坂貞一では勝算がないと見る向きがあり、田村重三助役や倉知桂太郎県議らが後継候補として取り沙汰された。同年1月、市議会はじめ各種団体で構成する代表者会議は「トヨタ労組を支援グループに引き込む以外に勝つ方法はない」との結論に達し、佐藤に出馬を要請。
関係者の多くは「『足を洗う』と言明した佐藤が受ける可能性は薄く、常識的に言って、2、3日考えさせてほしいと答えるだろう」と考えていたが、佐藤は即座に「お引き受けします」と答えた。
代表者らは呆然とし、のちに「トヨタ議員にしてやられた」と述懐する者もいた[13][14]。トヨタの労組は「我々は自民党支部と相携えて市長選を戦い抜く」と宣言[15]。2月15日に行われた市長選で佐藤は本多との一騎打ちを制し、初当選した(佐藤16,546票、本多12,672票)[16]。
在職中、近隣の町を次々と合併し豊田市の市域を広げた。1965年(昭和40年)9月1日に高岡町を編入、1967年(昭和42年)4月1日に猿投町を編入、1970年(昭和45年)4月1日に松平町を編入した。
猿投地区は豊富な地下資源に恵まれ、耐火粘土、珪砂などその埋蔵量は県下一を誇っていた。猿投町を編入したことにより、豊田市はより大きな発展を遂げることとなった[3]。
1975年(昭和50年)11月、健康上の理由により翌年の市長選への不出馬を表明[17]。佐藤は挙母町立青年学校教諭時代の教え子である助役の西山孝を強く推し[18]、民社党衆議院議員の渡辺武三もこれに賛同したことから、後継候補は西山に決まった(1976年2月の市長選で当選)。
1977年(昭和52年)3月1日、豊田市名誉市民に推挙される。1983年(昭和58年)11月3日、勲四等瑞宝章を受章[19]。
2004年(平成16年)8月1日、肺炎のため死去[2]。90歳没。」
博物館をでえてから、松平町へ向かう。仮称根引沢の奥地のチエックに行ってみた。案内書の「あおいの道」で×印になっている箇所だ。3/15はネットや鉄の獣除けのフェンスで引き返した。4/29の順路では高ノ山の大橋家から裏の鞍部への道を教えてもらった。が、田植えの真っ最中で農機が忙しく働いていたこともあって、そこへは行かず、農道から市道を歩いて高月院に到達した。だからここが気になっていた。
ふるい地形図では破線路になっているが今は市道で舗装路になった。一応の終点に車を止めてチエックする。少し戻って竹藪の谷合いへ踏み跡が続いている。これはR301の鈴木家への道だろう。しかし、鉄のフェンスに阻まれる。
戻って未舗装の林道を行くと、3/15に引き返したポイントでは細い笹薮があるが楽に突破できるだろう。次の奥にも笹薮の中に向こうへ行ける幅がある。どん詰まりでは急斜面で終わった。
奥の田園は北側だけが山と接していたために突破できなかった。この林道からならR301へ抜けられる。
加えて奥の奥は棚田の廃田と知った。下流の広大な田園は圃場整理の結果だ。農機が入りやすくなって合理化された。
後は松平支所の図書館へ立ち寄った。志満屋で柏餅を買った。
山歩きではちょくちょく古城に行くことがある。古城山という名前もある。美濃の口山には特に多い。戦国時代は群雄割拠で多数の山城が作られたのだろう。
常設展も意外に面白かった。昭和30年の国産初の乗用車のトヨペットクラウンの展示に目をくぎ付けにされた。今にも動きそうなくらいよく保存されている。
他には蚕の展示、ガラ紡の展示など拳母町、拳母市、豊田市と続く歴史の変遷がモノで分かりやすく展示されていた。
ネットから引用
「愛知県豊田市。トヨタ自動車が本社を置く、いわずと知れた企業城下町だ。この市は元々「挙母(ころも)市」という市名だったことをご存じだろうか?
「クルマのまち」ではなく、「マユのまち」だった
養蚕・製糸業を中心に栄えた挙母町。しかし、昭和の初めころからその需要が減り、当時の町長・中村寿一が町の繁栄を取り戻すために乗り出したのが、豊田自動織機製作所が新設した自動車製造部の工場誘致だった。
誘致成功後の1938年、トヨタの挙母工場が論地ヶ原(現豊田市トヨタ町)に完成。発展を遂げた拳母町は1951(昭和26)年、挙母市として市制を敷く。
たった8年で市名変更
そして1958(昭和33)年、商工会議所から市宛てに、市名を「豊田市」に変更してほしいという請願書が届く。理由は、挙母市が全国有数の「クルマのまち」に成長したことと、地名の「挙母」が読みにくいことから。元の地名に愛着を持つ市民も多く、一時は賛成派と反対派で市を二分するほどの論議が展開されたが、翌1959(昭和34)年には市名を「豊田市」に変更したのだ。」
1964(昭和39)年2月19日に市長に就任した佐藤 保はトヨタの社員だった人。
ネットから引用
「1964年(昭和39年)と年が改まり、豊田市長選挙が刻々と迫っていた。前回選で惜敗した市名変更反対派は次期選挙にすべてを賭けるとし、再度本多鋼治を擁立することを申し合わせていた。本多も日之出町の本多モータースに碁会所を設け、着々地歩を固めつつあった[13]。
保守派の間では現職の長坂貞一では勝算がないと見る向きがあり、田村重三助役や倉知桂太郎県議らが後継候補として取り沙汰された。同年1月、市議会はじめ各種団体で構成する代表者会議は「トヨタ労組を支援グループに引き込む以外に勝つ方法はない」との結論に達し、佐藤に出馬を要請。
関係者の多くは「『足を洗う』と言明した佐藤が受ける可能性は薄く、常識的に言って、2、3日考えさせてほしいと答えるだろう」と考えていたが、佐藤は即座に「お引き受けします」と答えた。
代表者らは呆然とし、のちに「トヨタ議員にしてやられた」と述懐する者もいた[13][14]。トヨタの労組は「我々は自民党支部と相携えて市長選を戦い抜く」と宣言[15]。2月15日に行われた市長選で佐藤は本多との一騎打ちを制し、初当選した(佐藤16,546票、本多12,672票)[16]。
在職中、近隣の町を次々と合併し豊田市の市域を広げた。1965年(昭和40年)9月1日に高岡町を編入、1967年(昭和42年)4月1日に猿投町を編入、1970年(昭和45年)4月1日に松平町を編入した。
猿投地区は豊富な地下資源に恵まれ、耐火粘土、珪砂などその埋蔵量は県下一を誇っていた。猿投町を編入したことにより、豊田市はより大きな発展を遂げることとなった[3]。
1975年(昭和50年)11月、健康上の理由により翌年の市長選への不出馬を表明[17]。佐藤は挙母町立青年学校教諭時代の教え子である助役の西山孝を強く推し[18]、民社党衆議院議員の渡辺武三もこれに賛同したことから、後継候補は西山に決まった(1976年2月の市長選で当選)。
1977年(昭和52年)3月1日、豊田市名誉市民に推挙される。1983年(昭和58年)11月3日、勲四等瑞宝章を受章[19]。
2004年(平成16年)8月1日、肺炎のため死去[2]。90歳没。」
博物館をでえてから、松平町へ向かう。仮称根引沢の奥地のチエックに行ってみた。案内書の「あおいの道」で×印になっている箇所だ。3/15はネットや鉄の獣除けのフェンスで引き返した。4/29の順路では高ノ山の大橋家から裏の鞍部への道を教えてもらった。が、田植えの真っ最中で農機が忙しく働いていたこともあって、そこへは行かず、農道から市道を歩いて高月院に到達した。だからここが気になっていた。
ふるい地形図では破線路になっているが今は市道で舗装路になった。一応の終点に車を止めてチエックする。少し戻って竹藪の谷合いへ踏み跡が続いている。これはR301の鈴木家への道だろう。しかし、鉄のフェンスに阻まれる。
戻って未舗装の林道を行くと、3/15に引き返したポイントでは細い笹薮があるが楽に突破できるだろう。次の奥にも笹薮の中に向こうへ行ける幅がある。どん詰まりでは急斜面で終わった。
奥の田園は北側だけが山と接していたために突破できなかった。この林道からならR301へ抜けられる。
加えて奥の奥は棚田の廃田と知った。下流の広大な田園は圃場整理の結果だ。農機が入りやすくなって合理化された。
後は松平支所の図書館へ立ち寄った。志満屋で柏餅を買った。
事務所へ ― 2026年05月05日
しばらく事務所へ行っていない。郵便物やファックスをチエックするために出向いた。中央支部の総会の出欠のはがきはまだ投函していなかったので記入した。さすがにGW中はファックスも来ていない。
松平郷から二等三角点松平村、城跡 ― 2026年05月06日
松平往還通いが続いたが今日で締めくくる。松平郷のR301に面したPに止める。
松平郷のおいでんバス停を経て旧国道が取り残された形の道路へ左折。すぐに農道のような市道に左折。仮に根引沢としている舗装路を左折。
ここで散歩中の人に出会って山の話をせがんだ。
私:松平往還の道を調べているんです、この奥の田圃は廃田で棚田になっていたから今の綺麗な田園は圃場整理されたんですかね。
山人:そうですよ、と相槌を打ってくれた。まだ最近のことです。
私:先だって下高ノ山の大橋家から裏山の鞍部を越えてここを歩いたばかりです。今日は3/15に引き返した地点からR301に抜けて六所山を目指しています。どん詰まりはとても険しいですね。
山人:トヨタが下田代町と蕪木町にかけて山の頂上を造成してテストコースを作っている。トヨタ下山三号館という。そのアクセスのために根引峠の急坂を改良するために現在のR301よりも南側に高架で根引峠直下に掘るトンネルにつなぐ工事がもうすぐ始まる。テストコースは世界中の坂道を集めているとか、地元民を招待して現地を見学した。
豊田章男が愛知県知事に早く着手する旨はっぱをかけた。
私:ほう、それが出来るとこの美しい田園風景が壊されてしまいそうだ。
と話を続けたいが時間もあるので打ち切って先を急いだ。先日車で来てチエックしてあるからスムーズに突破できた。この辺はグーグルマップを見ると「ソンデ、ソデ」という。柳田国男『地名の研究』に出て来る。ネットで見ると「ソデ・ソンデも同様に山の向こう側=二等地を意味する」とか。この辺は南向きの山里は沢連(そうれ)、林添(はやしぞれ)は焼き畑に由来する。ソンデは耕作に不向きだったのか。
この引き返したところから獣除けフェンスとガードレールの間をR301に出た。R301の端を歩いてこの前はパスした稲荷大神(廃止)の前を通過、山の家に下った。ここも表札がなく廃墟か。庭の前を通って松平往還に合流。再びR301に出て検証は終わった。
ここからは六所山に向かう。森下という古い山里を歩く。道祖神もある。どん詰まりへ行くと道が途絶えるとかいうので地形図を見ると左折する。最奥の家を通過して右に振ったがこの林道も途中までだった。家まで戻って左折すると車道が奥まで通じているが通せんぼしてある。左から隙間を通過して行くとゴミが散乱。その奥は枯れた竹林で道が埋まっている。否な感じだが、竹は短いので右端を跨いでいくうちに右手から下って来た尾根に明瞭な踏み跡があった。破線路はあるが前途は大きな岩で阻まれているので自然に尾根に振った。急斜面の踏み跡を辿るうちに乗り越して先ほどの沢の上部に出た。上から見ると右岸に道が見えるから竹の散乱地だけが障害だろう。
尾根の踏み跡はそのまま源流地点へと着いて水流と交わった。本来は右寄りだが、又も山の田圃にフェンスが見えたので一番低そうな山側へ登ってみた。倒木を渡して乗り越えて、再び松平への林道とのフェンスは強引に越えた。ここで降雨となり合羽を着る。
計画を見直し、381ポイントから二等三角点松平村に変更した。峠から右折、また小さな峠を越えて右折、松平村への林道に入る。二等三角点松平村は植林の中に埋まっていた。三角点以外に何もない。これが本来の山頂だ。と満足させた。
下山後は水子地蔵のある広大な墓苑に寄った。そのまま引き返す。381ポイントから松平城址へ行く農道を下る。さっきフェンスを越えたばかりだ。雨は止んだのでカッパを脱ぐ。この山田はまだ耕作されておらず廃田か。とぼとぼ下って行くと美しい棚田が見えて来た。背の高いフェンスで囲まれている。
松平城址へ寄り道して最初のPへ戻った。
松平郷のおいでんバス停を経て旧国道が取り残された形の道路へ左折。すぐに農道のような市道に左折。仮に根引沢としている舗装路を左折。
ここで散歩中の人に出会って山の話をせがんだ。
私:松平往還の道を調べているんです、この奥の田圃は廃田で棚田になっていたから今の綺麗な田園は圃場整理されたんですかね。
山人:そうですよ、と相槌を打ってくれた。まだ最近のことです。
私:先だって下高ノ山の大橋家から裏山の鞍部を越えてここを歩いたばかりです。今日は3/15に引き返した地点からR301に抜けて六所山を目指しています。どん詰まりはとても険しいですね。
山人:トヨタが下田代町と蕪木町にかけて山の頂上を造成してテストコースを作っている。トヨタ下山三号館という。そのアクセスのために根引峠の急坂を改良するために現在のR301よりも南側に高架で根引峠直下に掘るトンネルにつなぐ工事がもうすぐ始まる。テストコースは世界中の坂道を集めているとか、地元民を招待して現地を見学した。
豊田章男が愛知県知事に早く着手する旨はっぱをかけた。
私:ほう、それが出来るとこの美しい田園風景が壊されてしまいそうだ。
と話を続けたいが時間もあるので打ち切って先を急いだ。先日車で来てチエックしてあるからスムーズに突破できた。この辺はグーグルマップを見ると「ソンデ、ソデ」という。柳田国男『地名の研究』に出て来る。ネットで見ると「ソデ・ソンデも同様に山の向こう側=二等地を意味する」とか。この辺は南向きの山里は沢連(そうれ)、林添(はやしぞれ)は焼き畑に由来する。ソンデは耕作に不向きだったのか。
この引き返したところから獣除けフェンスとガードレールの間をR301に出た。R301の端を歩いてこの前はパスした稲荷大神(廃止)の前を通過、山の家に下った。ここも表札がなく廃墟か。庭の前を通って松平往還に合流。再びR301に出て検証は終わった。
ここからは六所山に向かう。森下という古い山里を歩く。道祖神もある。どん詰まりへ行くと道が途絶えるとかいうので地形図を見ると左折する。最奥の家を通過して右に振ったがこの林道も途中までだった。家まで戻って左折すると車道が奥まで通じているが通せんぼしてある。左から隙間を通過して行くとゴミが散乱。その奥は枯れた竹林で道が埋まっている。否な感じだが、竹は短いので右端を跨いでいくうちに右手から下って来た尾根に明瞭な踏み跡があった。破線路はあるが前途は大きな岩で阻まれているので自然に尾根に振った。急斜面の踏み跡を辿るうちに乗り越して先ほどの沢の上部に出た。上から見ると右岸に道が見えるから竹の散乱地だけが障害だろう。
尾根の踏み跡はそのまま源流地点へと着いて水流と交わった。本来は右寄りだが、又も山の田圃にフェンスが見えたので一番低そうな山側へ登ってみた。倒木を渡して乗り越えて、再び松平への林道とのフェンスは強引に越えた。ここで降雨となり合羽を着る。
計画を見直し、381ポイントから二等三角点松平村に変更した。峠から右折、また小さな峠を越えて右折、松平村への林道に入る。二等三角点松平村は植林の中に埋まっていた。三角点以外に何もない。これが本来の山頂だ。と満足させた。
下山後は水子地蔵のある広大な墓苑に寄った。そのまま引き返す。381ポイントから松平城址へ行く農道を下る。さっきフェンスを越えたばかりだ。雨は止んだのでカッパを脱ぐ。この山田はまだ耕作されておらず廃田か。とぼとぼ下って行くと美しい棚田が見えて来た。背の高いフェンスで囲まれている。
松平城址へ寄り道して最初のPへ戻った。
洗濯日和 ― 2026年05月07日
5/6の山行の後なので洗濯物が溜まっている。入浴後のお湯も残っているので洗濯機にバケツで汲んだ。大体6杯も汲んだだろうか。浴槽の分量は約半分程度になる。相当な水の節約になっている。
汚れたシャツ、ズボンなど3回は洗った。濯ぎ洗い後絞って干すが生地の厚いTシャツはハンガーに掛けて吊るす。バスタオルはロープに掛ける。
洗濯をやりながら写真をカメラからパソコンにデータを転送しての整理、文章も書き終えた。
GWの期間中は5/5を除いてすべて外出した。自炊優先だったが外食も結構食べて、結果作り過ぎて食べきれず、パックに詰めてあった。これらを見るとみな青カビが生えているのですべて廃棄した。もったいないが健康の為である。
今日は残りの食材を使って新たにおかずを作り置きする。なるだけ早めに食べ切りたい。
汚れたシャツ、ズボンなど3回は洗った。濯ぎ洗い後絞って干すが生地の厚いTシャツはハンガーに掛けて吊るす。バスタオルはロープに掛ける。
洗濯をやりながら写真をカメラからパソコンにデータを転送しての整理、文章も書き終えた。
GWの期間中は5/5を除いてすべて外出した。自炊優先だったが外食も結構食べて、結果作り過ぎて食べきれず、パックに詰めてあった。これらを見るとみな青カビが生えているのですべて廃棄した。もったいないが健康の為である。
今日は残りの食材を使って新たにおかずを作り置きする。なるだけ早めに食べ切りたい。
アサヒネットの更新 ― 2026年05月08日
今年の2月に事務所のインターネット開通を機に、3月は事務所の買い置きのPCを使えるようにしてきた。サブに取りおきしてあった中古PCも使えるようにした。これで事務所の通信手段は整備できた。
自宅では2024年9月からインターネットの契約をアサヒネットからニューロと並行で利用していた。同時期にアサヒネットを解約するべきだったが様子見で並行していた。ダブって料金を払ったから実際は一年半の無駄だったかも知れない。
事務所で確保できたので自宅は無くても良いようになったのでこの3月に解約したわけだ。するとアサヒネットのサービスも終わりになるのでブログやメールアドレスをどうするという契約更新の話である。
ブログは継続することになった。また、メールのウイルスチエックのサービスは外した。これはとんでもないくらい時間がかかり、今ではGメール一辺倒だ。それでも古い文書にあるメールアドレスを使う人のことも考慮してメールは残した。
チャイナウイルスの期間にはずいぶん停滞してしまったが徐々に正常化して行きたい。
自宅では2024年9月からインターネットの契約をアサヒネットからニューロと並行で利用していた。同時期にアサヒネットを解約するべきだったが様子見で並行していた。ダブって料金を払ったから実際は一年半の無駄だったかも知れない。
事務所で確保できたので自宅は無くても良いようになったのでこの3月に解約したわけだ。するとアサヒネットのサービスも終わりになるのでブログやメールアドレスをどうするという契約更新の話である。
ブログは継続することになった。また、メールのウイルスチエックのサービスは外した。これはとんでもないくらい時間がかかり、今ではGメール一辺倒だ。それでも古い文書にあるメールアドレスを使う人のことも考慮してメールは残した。
チャイナウイルスの期間にはずいぶん停滞してしまったが徐々に正常化して行きたい。
マダニの治療 ― 2026年05月09日
昨年は6月28日に滋賀県と福井県の県境の山でマダニに食われた。気が付いたのは7/2のことであった。テントウムシ位の大きさなので触るとすぐ取れてしまった。嘴が皮膚内に残ると厄介なのですぐ皮膚科へ行った。
今回はたぶん5/6の豊田市松平町の六所山山麓の廃道歩きだろう、と推察した。5/8の夜に右足の太ももに違和感があるので触ると出来物みたいに黒っぽく膨らんで周囲は赤味を帯びていた。あっ、マダニだ、と5/9に皮膚科へ行った。土曜日午後は休診が多く、探すのに苦労した。幸い14時まで診てくれる皮膚科があった。
12時半ごろ受診。先生もすぐマダニと診断、麻酔を打って皮膚に食い込んで潜っているマダニを除去してもらった。結構出血があった。軟膏と抗生物質、消化剤を処方してもらった。
これからのシーズンはスパッツ、ヤマビル、マダニ除けのスプレー噴射を心掛けたい。鈴鹿山脈や最近は奥三河一帯でもヤマビルが多いので低山は止めて1500m以上の中級山岳が良いだろう。
今回はたぶん5/6の豊田市松平町の六所山山麓の廃道歩きだろう、と推察した。5/8の夜に右足の太ももに違和感があるので触ると出来物みたいに黒っぽく膨らんで周囲は赤味を帯びていた。あっ、マダニだ、と5/9に皮膚科へ行った。土曜日午後は休診が多く、探すのに苦労した。幸い14時まで診てくれる皮膚科があった。
12時半ごろ受診。先生もすぐマダニと診断、麻酔を打って皮膚に食い込んで潜っているマダニを除去してもらった。結構出血があった。軟膏と抗生物質、消化剤を処方してもらった。
これからのシーズンはスパッツ、ヤマビル、マダニ除けのスプレー噴射を心掛けたい。鈴鹿山脈や最近は奥三河一帯でもヤマビルが多いので低山は止めて1500m以上の中級山岳が良いだろう。
山岳会の総会 ― 2026年05月10日
所属の山岳会の総会が5月10日(日)の午後3時からOMCビルで42名の出席者を得て開催、無事閉会した。その後、登山家を招いて講演会を開催。今日の講師は池田功氏。渡された資料にはフリークライミングの世界で知られた存在らしい。
クライミングは自分にはまったく知らないジャンルなのでググってみた。
・岩場にハーケン、ボルトを打ち込んで登攀するジャンルが人工登攀と言われる。
・そういう人工の支点を確保として使わず登攀するスタイルを開拓したのが池田功氏である。
1959年生まれで、今は引退されて高所作業を伴う庭師の実業に取り組んでいるそうです。しかし、総会前に若い人らと各務原の伊木山に行って来た人らの感想はマシラのごとく攀じ登って行った、とか。
メディアへの露出度はないので一般には知られていない。それでも知る人ぞ知る存在で講演後は若い人を中心に質疑が相次いだ。後進の指導に当たられると良い。
総会後、恒例の懇親会は中華料理屋へ。こんな機会でないとお目にかかれない人も多い。何年ぶりかで会った人もいる。旧交を温める感じがする。
クライミングは自分にはまったく知らないジャンルなのでググってみた。
・岩場にハーケン、ボルトを打ち込んで登攀するジャンルが人工登攀と言われる。
・そういう人工の支点を確保として使わず登攀するスタイルを開拓したのが池田功氏である。
1959年生まれで、今は引退されて高所作業を伴う庭師の実業に取り組んでいるそうです。しかし、総会前に若い人らと各務原の伊木山に行って来た人らの感想はマシラのごとく攀じ登って行った、とか。
メディアへの露出度はないので一般には知られていない。それでも知る人ぞ知る存在で講演後は若い人を中心に質疑が相次いだ。後進の指導に当たられると良い。
総会後、恒例の懇親会は中華料理屋へ。こんな機会でないとお目にかかれない人も多い。何年ぶりかで会った人もいる。旧交を温める感じがする。
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