映画「スーパーの女」鑑賞2007年10月06日

 先日、新聞で地鶏の老舗「名古屋コーチン」の20%はどうも偽肉という報道がでて驚いた。いや驚く方がおかしいかも知れない。
 昔から羊頭狗肉という言葉があるように和牛と外国産牛の偽装事件はあった。この映画は1996年に公開された伊丹十三監督+脚本の作品である。その偽装の手口を公開して当時は話題になったし食品スーパーでもこの映画で止めたところもあったそうだ。
 しかしながらつい最近でも偽の和牛ミンチ、北の恋人のリパック、魚のリパックなど今は偽名古屋コーチンまでも出回り始めた。映画で訴えた賞味期限の張替え即ちリパックや牛肉の偽モノ販売などの不正は相変わらずまかり通っている。廃棄処分はもったいないのであるが。古いものは結局まずいから買っても自宅で捨ててしまうことになろう。
 映画は娯楽的な出来栄えであるが訴えるものは尚今日的であるといえる。伊丹監督は残念ながら自殺してしまったがもっと生きて続編を制作するべきであった。映画の中の台詞「商売は曲がらないと旨みがない云々」でしたか、今も「消費者なんて裏を知らずにあんなもんでもだまされて買っていくんだ」などとほくそ笑んでいる経営者がいるはずである。
 売る方は全知全能をかけてだまして来よう。買う方もだまされないように注意したいもの。金融商品に関してはいかにだますか、投資家をいかにかもにするか、そんな世界だからもっと悪質である。次は金融のDVDを観よう。

中津川映画祭に遊ぶ2007年10月07日

 第1回は2002年に開催し今年で6回目となった。日本映画の灯を絶やすまじ、と有志が立ち上がり実行委員会のボランティアで運営されてきたそうだ。中日新聞社が後援。今日は岐阜県の古田知事もSPに守られて「北辰斜めさすところ」を観た。大の映画ファンらしい。
 10/3の中日朝刊で三国連太郎(1923-)のインタビュー記事が掲載されてたまたま読んだのがきっかけである。HPで検索するとこれまでに聞いたたこともない日本映画が目白押しで上映される。また澤登翠の弁士で戦前のサイレント映画「滝の白糸」が上映されることに注目した。いっそ二日間映画にどっぷり浸かろうと参加してみた。
 朝は7時半のJRに乗り中津川へ。すぐにシャトルバスで会場の東美濃ふれあいセンターの歌舞伎劇場へ行く。朝は9時過ぎから主演の三国連太郎と神山征二郎監督の舞台挨拶で始まった。まだ封切り前の「北辰斜めにさすところ」が上映された。変った題名だ。
 全寮制の熊本五高と鹿児島七高の旧制高校時代の野球部の話である。それに太平洋戦争で戦死した同窓生の話が絡めてある。脇役陣も懐かしい俳優が固めて涙なくしては見られない内容であった。要するに伏線としては反戦の意思が潜ませてあるのだった。反戦を声高に叫ばずに二度と戦争はしませんという意思表示である。
 前前夜自宅で観た映画「決戦の大空へ」は土浦海軍航空隊の予科練の生活を描いた国策映画であったが争いごとは一切ないきれいごとの世界であった。原節子(1920-)の若い頃の出演作としての興味で観たのであるが同じ全寮制でも大きな違いがある。しかしどちらも戦場へ向い帰って来なかった若者が多数居た。今日的には戦前の若い人らはこんな風に戦争へと導かれたんだ、という反面教師ではある。
 午後からは香川京子(1931-)主演の「赤い鯨と白い蛇」であった。監督は長くTVで活躍したせんぼんよしこ(1928-)さんであった。舞台は千葉県である。この映画には女性しか出ない。香川京子の世代(70歳台)、樹木希林、浅田美代子、他若い世代の女優、子役の5人。
 少女時代、かつて住んでいた古い民家を舞台に戦前の記憶を少し取り戻す香川京子扮する保江。珍しい白い蛇を見たが教えは自分に正直に、という。古民家周辺にあった防空壕に隠した遺品。過去を置いてけぼりにしたような人生を歩む中でふと見出した戦争の陰。ホームドラマではないがじっくり反戦に取り組んだ映画でした。樹木希林のコメディがないと詰まらない、と思うほど重要な脇役でした。
 更にシンポジュウムも開催された。「映画で伝えたいこと」がテーマ。少し深刻な話に陥りそうであった。2作とも反戦が隠れテーマというので三国が従軍慰安婦にまで言及。三国の体験談として朝鮮人慰安婦は現実に居た、という。以前観た新藤兼人監督の映画「墨東綺譚」でも音羽信子扮する女郎屋の女将の台詞に御上から強制的に慰安婦を提供させられる云々」があった。これは新藤さんの体験であろう。更に以前の「暁の脱走」も原作は朝鮮人従軍慰安婦の話であった。やはり居たのであろう。国家に都合の悪いことは隠蔽されるものだ。
 終了後は会場をホテルに移動。交流パーティーとなった。10名のテーブルが15あるので約150人前後のファンと監督、俳優らが一同に集まって色々話をする機会であった。近くで見る香川京子は映画では年相応のメーキャップで老けていたが実物は逆に若く見えてきれいなままである。特によく通る声は「東京物語」(1953年)の末娘・平山京子の声と変わりない気がした。川本三郎の「君美しく」の最後に白いブラウスの似合う先生という副題があったがその通りであった。三国連太郎は髯を蓄えて威厳のある顔立ちであったから近づきがたい気がした。映画の世界にいる雰囲気そのままである。神山監督とは少し話す機会があった。映画「ふるさと」の渓流の場面は金ヶ丸谷の長者平の実景をロケしたらしい。ビデオが欲しい。
 他、いろいろな人が挨拶に立って盛会の裡に午後9時に近づいたところでお開きとなった。

中津川映画祭を楽しむ2007年10月08日

 今朝は大雨といってもいいほどよく降っている。地理勘ができたので今日は車で行く。朝8時過ぎというのに中央道は結構通行量が多い。平日の祝日ということでもう働く人がいるからだろう。
 中津川ICから会場へ向うとPはもう大方埋まっていた。朝から大入りである。9時半から「パッチギ! LOVE&PEACE」が始まる。井筒和幸監督作品。2007年5月公開。題名は韓国語で頭突きの意味。映画は1974年のクレジットが入り、時代を設定する。国鉄の争議を表現した車体の落書きにそれは現れている。乱闘騒ぎがあるがなぜなのか意味不明。
 佐藤栄作首相がノーベル平和賞を受賞した新聞記事も出てなぜあんな人物がノーベル平和賞なの、という疑問が呈される。沖縄返還を果たし、非核三原則を貫く、などが評価されての受賞であったと思う。戦争で奪われた領土を返還してもらうことは異例のこと。旧ソ連、ロシアは未だに北方領土の返還に応じないことを考えても明らか。逆にアメリカは対中政策上、日本を取り込み、日本とロシアとの紛争の火種を残す政治的意味があろう。これは監督の思想的立場が反日、親韓ということからきているのであろう。
 在日韓国人に対する優しいまなざしで描かれている。これも監督の出身地が奈良県であり被差別という人権問題に敏感な土地柄で育ったこともあるように思う。だが在日韓国人がなぜ在日するのかの訳は描かれなかった。済州島から日本軍の拘束から逃げてパラオに行った。あの戦闘シーンは凄みがあった。彼らは韓国には戻らずなぜ日本に流れてきたのか。爆撃を受けてアメリカの戦闘機を睨んだ朝鮮人はアメリカへの憎しみに変ったのか。在日にならない運命を選択できたはずであった。
 終戦後本来は本国に戻る手続きがとられたはずが大阪市のある在日朝鮮人は息子に向って「日本は戦争に負けたがすぐにアメリカに追いつく、本国に帰るより日本に居よう」、と在日を選んだ人が多かったらしい。中国も朝鮮も何分儒教の国である。この縛りが強い内は本国の発展もないだろう。かくして在日の読みは当たって世界第二位の経済大国になった。
 歴史的に文化伝来の誇り高い朝鮮民族に対して名前を変えさせたりしたのはいたく傷ついたであろう。強制的な労働、従軍慰安婦問題など未だに尾を引く。一つは福沢諭吉の対アジア蔑視、欧米を模範とする思想の啓蒙もあって当時の日本人の偏りが今日まで続いて来ていると思う。要するに中国人、朝鮮人は付き合いにくい、といっているのである。個人的に親密になれば大切にしてくれると思うが。
 映画を観終わったとき曰く云いがたい複雑な感情が残った。私は初めて知ったが監督自身は以前から結構人気があるようだ。こんな映画を知ったことも映画祭ならではの効用である。
 さて第二幕は待望の「滝の白糸」である。1933年の制作。サイレント映画を女性の弁士がしゃべりながら展開して行く。今時珍しい映画である。映画祭でなければ観られない気がした。もちろん初めての体験。
 主演の入江たか子(1911-1995)は華族出身の美人女優で当時22歳と美しさの絶頂期。対する岡田時彦(1903-1934)は30歳で美男の俳優として人気が高かった。肺を病んで死ぬ前年であった。物語は泉鏡花原作の「義血侠血」を脚色。監督は有名な溝口健二。当時大ヒットしたそうである。
 明治文学の香り高い上質の映画でした。70年を経てなお上映されるのも観客の心をうつ感動があるからである。およそ100分弱の間退屈することなしにドラマチックに展開していく。(原作の文語文のリズムもここちよさそうである。一度朗読のCDを手に入れて聴いてみたい。)
 観終わった後の澤登さんのファンサービスのトークも面白い。映画祭ならではの催しである。午後4時外は雨が止んでいた。山には厚い雲がかかりまだふりそうだ。高速でなくR19で帰った。

加賀・口三方岳に登る2007年10月15日

 今年になって3月、4月、10月、11月の第2第4土曜日も休みが追加された。これまで黄葉の山歩きは近場以外は中々出来なかった。14日は富山県の会合に出る予定があるので行きがけに黄葉の山を味わうべく計画した。
 12日、名古屋を夜遅く出発。名神、北陸道の南条SAで車中泊した。夜が深まるとかなり寒い。さぞや山々は紅葉が進んでいるだろうと期待した。明けて13日の朝再び走って旧河内村を目指す。間違って一つ手前で降りたために道をうろうろしてロスしたがR157に合流できた。
 鶴来を過ぎて金沢セイモアスキー場の看板の方に入った。河内千丈温泉へは橋を渡るが口三方へは直進する。クルマが4台見えたところが登山口であった。
 登山口からはいきなり急な道が続く。一歩一歩慎重に登る。10分で尾根に出て傾斜も緩んだ。いい道が続いている。周囲はほぼ雑木林である。杉の木が茂ったところをしばらく通過するとまた雑木林を登る。しかし期待に反して黄葉はまだまだの感がある。
 登山道は適度な傾斜と時々は急なところもあっていいリズムである。汗が噴出す。尾根歩きで汗をかくのは久々のことである。地形図で見ると終始尾根は痩せているが緩斜面ではかなりの広がりもある。変化にとんだ尾根である。
 やがてミズナラの大木が見えたと思ったら水場であった。左に沢の音がするのでつい立寄った。流水で夏でも枯れないだろう。こんな所にある水場はまったくオアシスだ。水場を去ってまた登る。高度感が出てきた。木々が低くなり細くなった。おそらく豪雪地帯であるから長い間雪に押されて成長を抑えられるのだろう。
 遠くから熊よけのらしい鈴の音が聞こえてきた。下山の登山者にであった。これまでにも2名とすれ違ったから3人目だ。皆単独行ゆえか朝の出発が早い。
 小高いピークを越えるとこんな山の中に池が見えた。景清池という。ちょっと降りてみた。広くかつ深そうな池であった。わずかに黄色を帯びた落ち葉が水面を彩る。池から一登りで山頂であった。11時15分登頂。約2時間半であった。
 山頂は広くて360度の展望が得られた。但し今日は白山北方稜線は雲がかかり見えたり見えなかったりする。大門山、赤魔木古山、奈良岳、大笠山、笈ヶ岳と続く山並みである。いつぞやのGWに雪の北方稜線をスキーで駆けた思い出がよみがえる。赤魔木古山でテントビバークした。金沢市の夜景が素晴らしかった。夜空の星も降るように思えた。同行してくれたTさんは穂高で無念の遭難死であった。しばし思い出にふける。
 その中で大笠山と笈ヶ岳は素晴らしい。存在感がある。残念ながらここから見渡しても黄葉には10日以上は早い気がした。遠くには医王山が見えた。この山も1000mに満たないが存在感がある。いつかは登りたい。
 昼食には若干早く梨をかじって食べた。お団子とお茶で済ました。まだ12時前というのに誰も登ってくる気配がない。静かな山である。12時5分前に下山。急な尾根だっただけに下山は早い。しかし沢登りで傷めた膝痛がぶり返してきたのでそろそろ下る。また鈴の音が聞こえた。登山者が登ってきた。下りも3名の登山者とすれ違った。約1時間40分で登山口だった。
 ここまで来たら折角だ。千丈温泉に入湯して行きたい。350円であった。今までで一番安い。ふもとの内尾(うつお)は平家の落人伝説があるらしい。しかしかやぶきの家が建ち並んでいるわけではない。地形がいかにも隠れ里に適した閉鎖的な空間ではある。
 河内村(現白山市)を後にして金沢に向った。駅前旅館に泊まるまでには若干時間があるので卯辰山の2等三角点(141m)を探した。ガイドブック頼みでないと分かりにくい。すっかり薄暗くなった。旅館は駅まで3分と至便の距離にある。Pも完備。料金も格安であった。他に素泊まりの外人、親子が居た。北陸最大の観光地である金沢にしてはひっそりした感じがした。
 14日は医王山の予定であったが富山市の会合もあるので観光だけにした。10/8に観た映画「滝の白糸」の原作を書いた泉鏡花の記念館を見学したり、句碑、白糸の像、浅野川沿いの茶屋街などを散策するにとどめてから富山市に向った。また来てみたい奥深い魅力を感じた。

リーダー研修の座学事始め「真の登山者を目指す」2007年10月18日

 17日の夜は支部ルームでリーダー研修として座学を担当した。昨年依頼されてから考えたテーマは「先人に学ぶ」ということであった。昨今は登山歴の長いベテランリーダーでも遭難事故を起こすことからかねてから考えていたことをまとめるためにも引き受けた。
 主に今西錦司の著書から引用した要点をもって金言とした。
①本当の登山家とは山のことをよく知っている人であり、それゆえ登山家になろうと思えばまず山を知ることから始めなければならぬ。(今西錦司「山への作法」から)
②経験者といえども都会生活を送る者が、わずかの暇を盗んで得たぐらいの経験はどうせ大したものではない。われわれは山に対してはいつになっても初心者であるという謙譲な気持ちを、つねに持っていたいものである。(今西錦司「山岳省察」から)
③道がない場合も、あっても迷い易い場合も、藪や滝や岩場の記号があっても目的とするところを完登できる力があれば本物の自然は喜んで迎えてくれる。(西尾寿一「鈴鹿の山と谷」から)
④出来るだけ先輩と接して見、聞き、そして学ぶことになる。結局は会を仲介として、個人的関係に依存することになるから、教えを受けようとするものの積極的な意欲がなければ成績を勝ち取るわけにはいかぬ。(岳人No126「山岳会」特集の跡部昌三「入会ということ」から)
⑤会として成り立っている以上、その行くべき道がある。その一つとして完全な(真の)登山者への育成の問題がある。(登山靴を履いての)岩登りはその技術は登山の技術のエッセンスのように考えられるし、そこに登山の真髄を見出す。従って好むと好まざるとに関わらずある一定のところまでは必ずやってもらわなくてはならぬ。(跡部昌三「岩登りの目的」から)
以上のことを経験をまじえながら1時間ほど話した。
 山を知るには本から得られる細切れで矮小化された知識や技術では理解が難しい。登ってみることである。登ってみてどんな山か知ることによって登山術ではなく登るための作法が身につく、というのである。
 遭難事故が報道されると必ずや海外遠征の経験のあるベテラン、登山歴20年の熟練者などの形容で語られる。それでも事故を起こした事実は完全な真の登山者ではなかったことになる。常に初心者であると思いなさい、という言葉には重みがある。
 山に住む人は雲の動き、肌に感じる湿気や気温、風の動きなどをいやおうなく毎日観察している。それゆえこれからどうなる、という予測も可能になる。遊びで山に行く人には到底及ばないわけである。
 真の登山者への道は永遠ということである。うなぎやでさえ割き何年、串打ち何年、焼きは一生、という。うなぎを焼くにあたってはちょっとした油断も出来ないということだろう。もうこれでいい、ということがない。

秋思(愁思)2007年10月21日

 今日は小寒い朝を迎えた。天気は上々でやっとこさ秋日和を見た思いがする。山も紅葉が進むだろう。
 特に予定を定めてなかった。まどろんでいたら朝方から細かい振動がする。何だろうと不審に思っていたら火災報知機の取り付けの日であった。自宅にも電話があり今なら取り付けられるから・・・と勧められたが煩わしい思いがして断った。各戸の判断はない点がおかしい。しかしこれは2006年6月に改正消防法で設置が義務化された。来年5月までに設置の義務がある。管理組合でいち早く対応したものらしい。機器だけはまとめて購入したそうだ。
 老人の単身生活者が激増することからボケて火災も増えると見込んでいるのであろうか。しかし朝日新聞の日曜版で読んだ老人ホームの経営者の話では至れり尽くせりの老人ホームに住んでいる人よりも単身生活者の方が生き生きしている、との談話が印象的であった。危機感をもち知恵をめぐらすのは単身生活者である。スキーの大家三浦敬三さんは長男の雄一郎宅に一時身を寄せたが読書以外することがなくまた元の単身生活に戻り、自炊したり雑用もこなした。100歳迄ボケずに全うされた。
 何はともあれ火災は恐い。すべてを灰にしてしまう。地震も火災がなければ倒壊だけで済む。火災が伴うから震災となる。しかしそれでも各戸に設置するだけで有効な対策になるのだろうか。
 先週は20日も締切日ゆえにフルに働き疲労が溜まっていた。昼近くまで寝てから近くの喫茶店でゆっくりコーヒーを味わう。新聞も斜め読みしただけであったから古い新聞を読み返した。なんとも残念なのは赤福のリパック問題であった。連日の報道で当初の発覚から次第に悪質な再利用まで分かってきた。あの菓子だけは有るまいと信じていたが・・・。
 有名人では黒川紀章さんが亡くなった。若いころ「ホモ・モーベンス」という変った本を読んだことを思い出す。ホモ・ルーデンス(=遊ぶ人)をもじったのである。現代人は動く人の意味であろう。木原美知子さんが亡くなった。59歳、クモ膜下とあるのは身にしむ。昨年秋も定年退職直後の元上司が60歳で同病で急死した。
 他に富山県で起きた冤罪事件も長く尾を引きそうだ。昔豊橋市でも母子を殺し家を焼き払った事件が起きてそこにかつて住んでいた若者が犯人にされた冤罪事件があった。これは真犯人が分からないままであるが富山県の場合は真犯人が名乗り出た点が異例であった。
 国選弁護人の対応が被疑者の立場にたっていない点が問題視されている。無罪の判決を下した裁判長も被疑者に対してはあっけないくらいで誠意ある謝罪はなかったらしい。
 富山県は日本一単身赴任者が多い県として知られる。国家公務員の裁判官、検察官、警察署の署長などみな任期であちこち回るから任期中に片付けたい意思が働くことは察しられる。30%くらいは地元県の人を配置すべきであろう。地元に長く住んで精通した人材を配置することで防止できないだろうか。
 被疑者の立場よりも自分の立場で早く自供をとり、迅速に裁判で有罪を勝ち取りたい。弁護人も(自供に持ち込むために)早く真実を述べれば罪が軽くなる、などと持ちかけていたらしい。これでは三者三様仕事とはいえない。まるでルーチンワークの事務員の仕事である。刑事訴訟法という権力を行使するものは書類上の手続きではない。罪なき服役で2年間の人生を棒に振った柳原氏の心痛を思い猛省すべきである。

何とかもどきの山とは2007年10月25日

 ある人から電話があって山の雑誌からの原稿依頼を受けた。何でも何とかもどきの山を取材しているとか。それである山のガイドを依頼されたが友人に割り振った。
 最初はピンとこなかったが時間の経過と共にいろいろ思い出した。曰く。

全国に数多ある何とか富士を筆頭に
何とかアルプスも多い。沼津アルプスを筆頭に住まいの近くの丘陵にも高針アルプス、八事アルプスとか名付けて楽しむのである。

東洋のマッターホルンとは
上越のマッターホルンとは
山梨県のマッターホルンとは
北海道のマッターホルンとは
よく通う地域にも多数あるのを思い出した。
奥美濃のジャンダルムまたはマッターホルンとは
奥美濃の黒部とは
鈴鹿の秋吉台とは
鈴鹿の上高地とは
伊勢の槍ヶ岳とは
東海の尾瀬とは
三河富士は本宮山はじめ複数あるが
三河妙義とは最近の三河通では分からないだろう。

そういえば加藤文太郎は名著『単独行』の中で兵庫槍、兵庫立山、兵庫御岳などともどきの別名をつけて楽しんだらしい。赤石岳の御料局三角点にまで触れている。三角点探しの嚆矢だったかも知れない。山をあらゆる視点から楽しめる天才だったと思う。

越後・不動山錦秋の山旅2007年10月28日

 10/27朝、台風20号の襲来を気にしつつ新潟県に向う。終始雨模様は変らず。今日は予定した青田南葉山登山はキャンセルした。傘をさしても行ける1等三角点を2座選定しておいたので先ずは名立谷浜ICまで行く。ICを出てからシーサイドパーク名立を目指す。ボブスレーや風力発電設備があるレジャー施設である。晴れておれば日本海の海原を見渡せるが今日は雨。車止めから舗装路を歩き約20分で長者原313mの1等三角点であった。次は直江津の黒井にある標高5mの1等三角点に行った。黒井神社の境内にあった。
 高田の宿へ行くにはまだ時間があるので金谷山に向った。オーストリアのレルヒ少佐の銅像が目当てであった。ここ上越市は日本に初めてスキーが伝わった発祥の地であった。銅像を見た後記念館も見学した。残り30分しかなかったが有意義な時間を過ごせた。今は廃れてしまったが1本杖の格好は膝を揃えるのに役立つ。私も時々2本のストックを束ねて1本杖の様ににして使用する。深雪、新雪等ではバランスを保つのにいい。
 薄暗くなってようやく宿に行った。宿は清潔で静かであった。近所に高田城址があり広大な公園となっている。散策もまたいいだろう。こんないい環境にあっても2食付6500円であった。夕食は栗ご飯に舌鼓を打った。日本海産の刺身、小鉢のもので美味であった。
 10/28は昨夜から天気予報を気にかけていたが予定通り不動山に向った。台風が去っても新潟は降雨率50%と出ていた。次の気圧の谷が来ていたからだった。宿は7時40分と遅めの出発。再び高速で名立谷浜ICに行く。R8に出てからすぐ名立川に沿って県道を溯る。最奥の里を過ぎると林道南葉山線である。不動山キャンプ場を過ぎたところで工事中で通行止め。ここが事実上の登山口であった。9時出発。
 約20分林道を歩き不動山への大きな登山口の道標で支線に入る。約1.5Kmの林道を30分下る。前方には霞んでいるが三角錐のすっきりした山容の不動山が見える。周囲は全山黄葉で赤、緑も混じる。まさに錦秋である。今年初めて黄葉の山に出会った。
 大きな堰堤を左に見て沢を横切ると林道は終点である。登山道はそこから始まる。遠望しながら尾根の中に今入っていく。ブナを中心にカエデ、ケヤキ、ミズナラなどの落葉樹ばかりの森の中は黄葉に染まりそうであった。登山道が中々に急であった。高齢の同行者が遅れ勝ちであったが喜々の声をあげて写真を撮りまくっている。
 車止めから約1時間10分で芭蕉ヶ池の分岐だ。不動山へは2時間と書いてある。ここからトラバースの道であった。左からの稜線の鞍部に着いた。ここから40分と道標に励まされたが実際にはもっとかかった。尾根道は益々急登になった。霧もからむ。フィックスロープも取り付けられて急に輪をかける。
 12時40分登頂。上越市最高峰という看板が目に付いた。主三角点、三等三角点、祠のある山頂だった。霧の山頂にがっかりするも一時は諦めかけた山に登れたんだと思えば嬉しい。先着の1パーティは数人もいたか。単独もいたから10名にも満たない。皆はやばやと下山していくと我々だけになった。先ほどまでは火打山などが見えていたらしい。
 ゆっくりと時を過ごす。宿で握ってくれた栗ご飯のおにぎり、Kさんの昔の社員からの差し入れのちまきで腹が一杯になった。とくにおにぎりが美味い。
  海苔で味閉じ込めし栗御飯   拙作

 時間が来て13時15分下山。急な尾根を下るのも疲れる。分岐からは下山様と道標にある芭蕉ヶ池のコースに入った。素晴らしい黄葉に感嘆の声をあげながら登り返すと源流の窪地を3箇所過ぎる。あれが池の名残だろうと思ったが芭蕉ヶ池は意外にも最初の分岐から少しの所までくだってから見つかった。名前があるだけに立派な池であった。
 分岐からはひたすら下った。林道の登り返しはきつかった。目の前をちらちら白い虫がふわふわ飛んでいる。綿虫であった。雪蛍、雪虫ともいう。秋深しのころ曇った日に多く見る。これをみると10日以内くらいに雪が降るという。もう秋の黄葉も見納めであった。
 車に戻った。着替えて17時名古屋に向ってドライブが始まった。名古屋ICには22時ジャスト着。