三ノ沢岳残照2022年01月28日

バラ色の残照に輝く三ノ沢岳
 1/24の朝は木曽路を急ぐでもないドライブで見た雪の三ノ沢岳だった。撮影したいと思いながら後ろからのクルマに押されて走った。帰路はやはり止って撮影した。何と夕照でバラ色に見えたからだった。道の駅「大桑村」に入り、徒歩で少し戻って撮影した。

上松尾根を歩く②~三角点「金懸」まで2020年07月31日

三等三角点「金懸」は登山道から離れている
 7/30の7時過ぎにマイシュラフを持ち込んで就寝。小用で2回起きたが、3時に起きた人が外は大雨と告げた。うわっ、登山はダメかと思ったが明るくなると雨は上がった。朝食を済ませ、パッキングをすると6時に出発。
 登山道は森林の中を縫うように続く。雨上がりの森は湿潤で風がなく暑いので汗がたらたら出る。ついに合羽も脱いで軽装にしたがまだ暑い。よろよろと登りながら高度を稼ぐ。4合目、4合目半などと目安を数えながら大休みする。
 そして金懸小屋の手前のがけ崩れに遭遇し、慎重に突破すると小屋だった。やれやれである。地形図を見ると登山道はわざわざ尾根を外してがけのある沢の横断をするように設計してある。これは水を確保するためだろう。水を得た沢の近くに避難小屋を作った。長大な尾根道ではどうしても水が不足するから危険だが必要なことだった。
 10時になり、木曽前岳の予定は大幅カットして、せめて三角点「金懸」だけでもタッチして行こうと、ふたたび重い腰を上げた。三角点はこれまで何度も通過したが見たことはないので少し離れた場所と見当し、GPSでもっとも近いところから登山道を離れて探ると5分ほどで見つかった。展望はないが樹林越しに麦草岳は見えた。ここで上松尾根の三分の一くらいになり切り上げて下山した。
 2時前に小屋に着いた。小屋からは滑川を隔てて、風越山、2339m(萩原沢岳)、2368m(蕎麦粒岳)などの曾遊の山々を眺めた。
 出会った登山者は行きがけに3人パーティ、帰りがけに単独の2パーティのみで4人だけだった。夏山シーズンだがここは森閑として三密の心配はない。
 下山後は寝覚めのホテルで一浴びした。JAF割引で450円也。入浴後体重計に乗ると77kg台を指した。2回の登山で約3kg減量。
     老残の身を案じつつ登山する   拙作

上松尾根を歩く①~敬神の滝小屋まで2020年07月30日

まったり寛ぐ登山者
 7/30午後から7/31にかけて木曽駒登山道のクラシックルートである上松尾根に遊んだ。
 明治24(1891)年にはW・ウェストン一行も上松尾根を登り、伊那谷へ横断したと『日本アルプス 登山と探検』(平凡社ライブラリー)にある。上松の旅館の主にはその遠征は失敗すると予言されたそうだが、成功するようにいろいろ世話をしてくれたとも書いてある。恵那山にもウェストン碑が建立された。ここにも是非上松町の山岳観光振興のためにもウェストン碑を建立すると良い。
 山岳会に入会したばかりの30歳くらいのころ、先輩に連れて来られてテントを張り、登山口の敬神の滝小屋を4時に出発、登頂は11時。今思うと鍛えてやろうとの親心だったかも知れない。
 あれから40年経過して私も古希を越えてしまった。当時は体重60kg、今はホームステイのせいもあるが5月下旬で80kg。20kgの重荷を負うて再び上松尾根に来た。
 名古屋は昼過ぎに出発、中津川で買い出しを済ませて寝覚ノ床で豊田市から来るメンバーと合流。アルプス山荘を経て砂防公園に向かった。この先が工事中で平日なので大型ダンプが行きかう。17時前にダンプの運転手さんに敬神の滝小屋まで行くのでと断って現場の道路を走った。
 敬神の滝小屋は以前のままの姿で建っていた。かつては木曽駒のみならず、風越山、萩原沢岳、曽麦粒岳、三ノ沢を遡行して三ノ沢岳、滑川を遡行して宝剣岳、麦草岳周遊の拠点としてここを出発した。だから懐かしくもある。
 小屋の玄関扉は施錠されていなかった。テント泊と車中泊で一晩を過ごすはずが、小屋泊まりになり喜んだ。夕食は簡素に弁当で済ませる。薄暗くなるまで話してまったりした山小屋の時間を楽しむ。

中央アルプスの登山の予定は実施2020年07月29日

 明日出発予定の中央アルプスの木曽駒は上松町観光協会に問い合わせると6月の豪雨で流出した橋も復旧したとの情報を得たので実施することとした。上松尾根は今シーズンはだれも利用者がないとのことで登山道の様子までは聞けなかった。
 しかし登山道は大抵はしっかりしている。むしろアクセス道路の方が不安定である。工事車両も入っているとのことらしいので遅めに行くほうが良いかも知れません。
 気がかりは天候である。降雨率50%くらいなので山の上は雲の中であり、霧雨か小雨には見舞われるだろう。歩ければ好としたい。

中ア・正沢川支流幸ノ川遡行2019年07月15日

 朝4時起床。未明の中、朝食、テント撤収、パッキングを手早くやっても出発は6時になれば良い方だ。今日は事前の打ち合わせが良くて5時50分の出発になった。福島Bコースの林道を約1時間歩いて渡渉地即ち入渓地へ着く。濁りもなく、澄んでいる。水位は心配していた程ではない。渡渉の際の石は水面下にあるので増水は平水時に比して約10センチか。
 7時過ぎ出発、約5時間で突破、12時前後に避難小屋の予定を確認。
 身支度して入渓するとすぐに堰堤を越える。ここから記憶できないほどの小滝が現れる。有名な沢またぎの滝は取りつく前の釜が深く、Rが試みると胸の下までの水位があり、進むと水勢も強く足が着かないようなので巻くことにする。
 その後は順調に滝を突破するが、基本的には高巻きを強いられる。左又の滑滝で落ち合う二股まで来たが、右又の滝が突破できない。左又から巻いて、右又の上から懸垂下降で本流に戻る。最後の二又では直登も高巻きもできず、午前12時を過ぎたので前途を中止して撤退を決める。とはいえ、どこを見ても藪ばかりだ。
 地形図の避難小屋の印刷文字の避難がかかる尾根の末端に取りつく。見た目には藪で分からないが踏み跡がある。この踏み跡はすぐに樹林帯に入る。時々消えるが尾根の中心をたどれば戻ってくる。下部は胸を突く急登だったが上部ではやや緩んだ。
 谷歩きといっていた古い時代、あの滝の登攀を諦めた多数の登山者がこの尾根をたどったのであろう。多かったからこんな踏み跡になった。今は沢登りの技術に岩登りが導入されて、撤退する場合は懸垂下降を繰り返すのだろう。実はそれも提案したが、古典的ながら尾根を登ることにした。
 とはいえ、こちらは69歳の老登山者であり、昨夜の缶酎ハイ2本が祟ったのか、力がでないので遅れることしきり。しんがりを務める若いI君がザイルやハーネスを持ちますと申し出があり、情けないが温情に縋る。標高1850mから2400mまでの比高550mは忍の一字。
 遅々とした歩みながら福島AとBの連絡路の水平「登山道にたどり着いた」、との先頭の声が谺した。この声を聴きたかった。ようやく遭難の2文字から解放される思いだ。年寄の冷や水の非難轟轟は大変辛いからなあ。崩壊現場をやり過ごすと赤い屋根の7合目避難小屋が見えた。大休止。
 ここは2年前、ひざ痛克服記念登山として、単独でキビオ登山口からAコースを登り、水平道を経てBコースを下りキビオ登山口まで周回した。
 後は福島Bコースを下るのみ。渡渉地まで戻るとほっと一息。車は我々1台のみになった。久々に駒の湯で汗を流す。
 増水で天候不順の荒っぽい沢登りだったが参加者は面白かったと感想を述べてくれてほっとした。

久々に木曽駒高原へ2019年07月14日

 これまで天気図を連続してチエックしてきた。名古屋は毎日不順な天気だが、前日になって木曽町の天気は14日は午前中は降雨率50%、15日は30%まで改善してきた。これなら実行できそうだ。特に大雨の日があったわけではない。全山花崗岩の岩山なので、大雨で水位はすぐ上昇するが、降らなければ水位はすぐ下がる。平水よりは大目と推測する。
 名古屋市内の集合場所で5名が落ち合う。中央道は久々である。最近は地道を走って高速代をけちることが多いのでかえって新鮮味がある。いつも利用すると何だか仕事に行くみたいだからこれも良い。
 中津川からはR19へ。木曽の良いところは江戸時代から変わらないところであった。ちょっと奥へ入ると昔ながらの風物が残っている。郷愁の木曽路である。
 木曽福島で今夜の買い物を済ませる。地場のスーパーはイオンになった。道の駅「日義木曽駒高原の手前で右折して、木曽駒高原に行く。雨ならスキー場の廃屋の軒先でテントを張る予定だったが、10年前の記憶ではテラスに見えたところは床板が腐って落ちていた。窓ガラスは開いているので中を覗くとドラマーが練習中だった。先ほどのペンションに多数の車があったが晩夏ならぬ梅雨時のジャズ祭でもあるのか。
 福島Bコースの林道も走ったがテント適地はなく、駐車場の脇に張った。霧のションベンといわれる小雨が降る中をテント設営。BQのために炭を起こし、肉、ウインナなど焼きながら一杯やる。沢登りのために自制気味ながら缶酎ハイ2本、ビール1本を開けてしまった。明日は大丈夫か。

木曽の御嶽山登山規制が解除された2019年07月01日

 2014年9月の噴火事件で58名が死亡、5名が行方不明という惨事を招いた。以来、山頂へは立ち入り禁止が続いていたが、7/1に解禁となり、遺族らが慰霊の登山をした。不思議なことに名古屋市の医師がその前に道迷いとかで遭難している。山頂へは行く前に迷ったのか。
 動画などを見るとヘルメットを着用して物々しい雰囲気だった。しかも濃霧の中で楽しい登山ではなかったと思われる。登山者のコメントには日本百名山が目標で登山したかったとあった。登る動機は様々だが、目標達成のために危険を冒すことだけは止めるべきだろう。
 登山は晴れた日か、強風、降雨、濃霧でもなければそんなに危険ではない。山の機嫌のいい日に登って欲しい。そしてできれば、集団では登らないことである。
 あの日、生還できたガイドさんの体験談を聞くと、多くの登山者が避難の態勢をとらず、動画、撮影をするなどして様子見していたらしい。自然の猛威にあまりにも鈍感過ぎる。それが58名もの大量遭難につながった。
 7/1にはやはりツアー登山で登った人もいたらしい。60歳代の登山者の中には7合目で体調を崩して救助されたという。
 高齢者が濃霧か小雨の中を強行登山するのはそれだけで遭難予備軍に思える。しかし、新聞各紙はそうは書かず、悪天候にも関わらず、慰霊の登山をした健気さを讃えるかの論調であった。メディアは遭難があろうとなかろうと記事になればいいのである。

恵那山の胞伝説考2018年12月25日

 柳田國男全集 7 の伝説に関する著述を読む。
 伝説と昔話の違い

民俗資料を三部に分類
 ①有形文化  行為伝承  芸能、踊り、

 ②言語芸術  口頭伝承  昔話
                    
 中間に位置する        伝説

 ③信仰伝承  内部伝承  祭、講

伝説と昔話の特徴
1 伝説は人がこれを信じているのに対し、昔話には責任を負わない

2 伝説の中心には必ず記念物があるのに対し、昔話には記念物がない

3 伝説は語るときに定まった形式がないのに対し、昔話には定まった形式がある

 12/22は岐阜県立図書館で恵那山関係の文献を漁った。コピーしたのは『中津川市史』、神宮司廳編『神宮御杣山記録』昭和51年史料、
である。
 第1回式年遷宮は持統天皇の690年。1335年の第35回式年遷宮は三河の設楽山になったが山は特定できない。
 1709年(宝永6年)の第47回式年遷宮から、尾張藩の領地である木曽谷、裏木曽に御杣山は移動。徳川幕府成立から約100年後の元禄時代の後になる。
 恵那山の由来を漢文で著した松平 君山(まつだいら くんざん、元禄10年3月27日(1697年5月17日) - 天明3年4月18日(1783年5月18日))が出たのもこの頃である。
 

 御杣山とは

神宮のHPから
 「宮域林は、内宮のご鎮座当時から神路山・天照山・神垣山などと呼ばれ、大御神の山として崇められていました。天武(てんむ)天皇の御代に式年遷宮の制度が確立され、第1回式年遷宮(690)が行われた際、宮域林は御造営用材を伐り出す「御杣山(みそまやま)」として定められました。その後、御用材の欠乏により御杣山は他の場所に移りましたが、今でも式年遷宮の最初のお祭りである山口祭やまぐちさい・木本祭このもとさいは宮域林で行われており最も神聖な「心御柱しんのみはしら」もここから伐り出しています。

 このように宮域林は、古くから神宮の境内地として管理されてきた由緒のある森林です。」

 神宮備林のウィキぺディアから
「伊勢神宮で20年毎に行なわれる式年遷宮は、大量のヒノキが必要である。その用材を伐りだす山(御杣山・みそまやま)は、第34回式年遷宮までは、3回ほど周辺地域に移動したことはあるものの、すべて神路山、高倉山という内宮・外宮背後の山(神宮林)であった。
しかし、1回の遷宮で使用されるヒノキは1万本以上になり、神宮林のヒノキでは不足しだす。その為、内宮用材は第35回式年遷宮から三河国に、外宮用材は第36回式年遷宮から美濃国に移り、第41回式年遷宮から第46回式年遷宮までは、伊勢国大杉谷に移る。
しかしながら、原木の枯渇による伐り出しの困難さから、1709年(宝永6年)の第47回式年遷宮から、尾張藩の領地である木曽谷、裏木曽に御杣山は移動する。この地域は尾張藩により木材(木曽五木)が保護され、許可の無い伐採が禁じられていた。
正式に指定、伐採が始まったのは、1798年(寛政10年)からである。
現在でも式年遷宮用の用材は、この旧神宮備林から調達されている。」

「歴史
1380年(天授6年・康暦2年):第36回式年遷宮で美濃国のヒノキが使用される。
1709年(宝永6年):第47回式年遷宮で、尾張藩領木曽のヒノキが使用される。
1798年(寛政10年):伊勢神宮により御杣山に指定される。
1843年(天保12年):守護神として護山神社が創建される。
1868年(明治元年):尾張藩から明治政府に移管される。御料林となる。
1906年(明治39年):帝室林野局により「神宮御造営材備林制度」が制定され、この地域の御料林が神宮備林に指定される。この後、大正時代にかけてその地域を拡大する。
1921年(大正10年):ダム建設の影響で、木曽川、付知川などを使用した筏による材木運搬が中止。森林鉄道による運搬が始まる。
1947年(昭和22年):帝室林野局は農林省林野庁となる。神宮備林は廃止され、国有林の一部となる。」

「式年遷宮は続く」から
https://www.sengukan.jp/wp/wp-content/themes/sengukan/media/pdf/record/h29/20170630-zuroku.pdf

「しかし内宮の第35回式年遷宮の準備を進めていた延元(えんげん)4年( 暦(りゃく)応(おう)2 年、1339)江馬山から御用材を運ぶ宮川流域が武装勢力の支配下に置かれたため供給が止まります。
 朝廷は御杣山を伊勢国外に求めるか、式年遷宮を延期するか議論の末、軒廊御卜が行われて三河国・設楽(しだら)山(やま)(現在の愛知県北設楽郡設楽町付近)に移動する事が決まりました。選ばれた理由は、山間を流れる豊川水系の河口部には老津(おいつ)・大津という良港があったこと、大津には平安時代後期から伊勢神宮の神(かん)戸(べ)が置かれていたこと、伊勢国大(おお)湊(みなと)との海上輸送が行われており安定した供給が行えたことが挙げられます。緊急の措置であったため三河国から御用材を得たのはこの一度限りです。」

恵那山のウィキペディアから
「信仰対象としての恵那山

山頂部にある恵那神社奥宮
恵那山周辺地域ではこの山に天照大神が産まれた時の胞衣 (えな) を納めたという伝説が残っており、この山の名前の由来ともなっている。また古事記で日本武尊が科野峠 (神坂峠) で拝したのも恵那山の神である。」

・木曽の湯舟沢はアマテラスの産湯をつかった伝説
・美濃の血洗池はアマテラスの胞を洗った伝説

 湯舟沢川から右岸(木曽側)は御杣山として伐採された。すると湯舟沢川の左岸から阿木川にかけては、伐採はされず、昔は神域だったのだろうか。現在の恵那山の美濃側に当たる地域は今でこそ国有林として奥深く林道が開通している。登山道は前宮にあった。

 阿木川の源流の焼山は木地師の煮炊きの煙、山中で焼き畑農業をする際の煙から由来と想像する。ロクロ天井の山の名前もあり、木地師の墓もある。
 血洗池の伝説は木地師が広めた可能性が高い。木地師のルーツは皇族にさかのぼる。その点で無理がない。

 湯船沢の伝説も木地師が広めた可能性はある。南沢山の周辺の山中には木地師は入っていた。中でも大平峠の夏焼山は木地師の焼き畑農業に関係する。今でも南木曽町には木地師が営業を続けている。

 恵那山周辺の山村は木地師が遍在していたのは事実である。売木村も木地師が活躍していた。

 恵那山をアマテラスの記念物としての胞を埋めたという伝説を付して胞山、恵那山と名付けたのは皇室につながる木地師ではなかったか。ご綸旨を根拠に木地師は山中でほとんど一生を過ごす。山中での死亡は各地で墓を見たのでわかる。おそらく出産にも立ちあった。その際の胞は家の周りの地中に埋めた。山中の湧水で溜まる小池は便利な洗い場になった。また湯船沢川の右又の温川(ぬるかわ)の源流は恵那山の頂上に近く湧く。文字通り温泉が混じるのだろう。
 山上にアマテラスの胞を埋めた伝説を広めることで、木地師は自分らの権益(木地原木の落葉広葉樹)と尾張藩が担う木曽山林(桧、翌檜などの針葉樹の木曽五木)の伐採権との棲み分けを実現させたのではないか。
 伝説の流布によって棲み分けに成功すると式年遷宮の切り出しもスムーズに行ったであろう。原木の良材を求めて木曽にたどり着いた神宮と尾張藩は木曽川を運搬路につかって木材資源を開発して行った。
江戸時代中期以降人口の増加で木地製品の需要も伸びた。住宅建築の需要も盛んになったと思われる。両者が利益を得たのである。
 その頃、松平君山は得意の漢文で恵那山の伝説を書き残した。『新撰美濃志』の編者にも明らかに重要な伝説であった。

これまでの記事
http://koyaban.asablo.jp/blog/2018/11/27/9003915
『新撰美濃志』の中の恵那山

http://koyaban.asablo.jp/blog/2017/08/06/8641325
中津川市阿木の旧跡・(アマテラスの)血洗池~血洗神社~恵那神社~根の上高原へドライブ

http://koyaban.asablo.jp/blog/2017/10/18/8708216
「埋甕」を見に弥富市の愛知県埋蔵文化センターへ行く

http://koyaban.asablo.jp/blog/2017/08/19/8650783
奥三河・須山御岳山

『新撰美濃志』の中の恵那山2018年11月27日

 『新撰美濃志』の成立は江戸時代末期。一信社版(訂正版)は昭和6年の刊行、復刻版は昭和47年に岐阜市の大衆書房から刊行された。
 緒言には尾張藩の岡田啓の遺稿という。天保初年頃から彼の晩年に到るまで前後実に三十年の星霜を閲して出来上がったのが、この『新撰美濃志』三十巻である。」と。
 その中の恵那山に関する歴史民俗の記事を抜粋した。

阿木村は冨田の北にあり。和名類聚抄に「惠奈郡安岐」とある旧郷、また美濃神名記に「惠奈那從四位上阿岐明神」としるしたるもここなり。「岩村領千五百八十九石六斗四升」「阿木川」は当村の山より出でて大井宿の方へ流る。
 「阿木風穴」阿木山にあり。「血洗社」は阿木山の麓大野平にあり。神代のむかしある御神ここにて御子を産み給ひ、胞衣を洗ひ給ひし跡なりといひ傳へ、血洗池という古跡ものこり、また惠奈山の名もそれより興りしより里老いへり。

・・・・ウィキペディアによると「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)は、平安時代中期に作られた辞書である。承平年間(931年 - 938年)、勤子内親王の求めに応じて源順(みなもとのしたごう)が編纂した。略称は和名抄(わみょうしょう)。」だから古い。
 恵那は平安時代からあった古い地名である。阿木山は現在の地形図からは特定できない。

 検索にヒットした「安岐郷誌」によれば「あぎやまとは阿木の生活域から東方向に見られる山の総称。焼山付近までを含む阿木の山岳地域一帯を示す言葉として使われることが多い。ただし正確な定義はなく、狭義には天狗森山や橋ヶ谷山、あるいは焼山などを示す場合にも使われ、その意味する所は人や世代によって様々である。阿木の生活や歴史に深く関わってきた山である。」さらに焼山は「やけやまは上矢作・長野との境界近くに位置する山の名前。全国にある他の焼山と区別するために美濃焼山と呼ばれる事もある。焼山という名は山のあちこちで炭焼きの煙が立ち上っていた事に由来している[1]。」という。

ソース:「安岐郷誌」http://agimura.net/index.php5/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8

 個人的には、焼山ではないか、と思っている。agiyamaとyaki(ke)yamaの耳から入る地名の違いか。焼山の南西の無名の三角点は通称ロクロ天井といい、点名は阿木である。麓に木地師の墓がある。
 安岐郷誌は炭焼きの煙と書くが、木地師の炊飯の煙とも言えるし、彼らの食料になった蕎麦、粟、稗などを生産するために山を焼いたから、その煙ともいえる。春に山焼きをして種を蒔き、夏に刈り取る。夏になっても焼いて採れる山は夏焼の地名が残る(稲武町など)。木曽峠にはずばり夏焼山がある。

 R363のキャンプ場(現在は廃止された)の近くの三角点の点名が血洗という。
 血洗は当然エナを洗ったことに因む。明治時代以前のエナは何かに包んで、素焼きの底なしの壷に入れて埋設されていた。これは埋甕といった。
 ウィキペディアによると「埋甕(うめがめ)は、縄文時代の深鉢形土器を土中に埋納した施設。
 縄文中期から後期にかけて関東平野や中央高地で見られる習俗で、縄文後期には中央高地では衰退し、関東平野では継続した。
 埋甕は住居の内部(出入口部)に営まれる住居内埋甕と住居外に営まれる住居外埋甕があり、複数営まれる場合もある。土器は煤などが付着されていることから日常的に使用されているものが転用され、特に口縁部が平なものが選ばれる。正位または逆位で配置され、正位の場合は石蓋があることもあり、口縁部や底部が破損または底部が意図的に穿孔されている。
 住居内埋甕は民俗事例などから乳幼児の埋葬施設や、幼児の健やかな成長を祈念し胎盤(胞衣)を埋納した胞衣壺であると考えられている(木下忠による)。内部の埋納物は例外的に土器や石器が含まれることがあるか明確に確認された例がなく、残留脂肪酸分析も行われているが胞衣が含まれているかは不確定である。以下略」
 実は設楽ダム建設の現場に近いところでも愛知県埋蔵文化センターの発掘事業が行われていて、素焼きの甕が発掘された。意外なところにも縄文文化の遺跡があったものである。
 エナの埋蔵は非常に普遍的な文化の所産だった。
 その文化がアマテラスのエナを山頂に埋蔵する伝説にまで発展させたのは一体なぜなんだろう。

南信州・アテビ平散策2018年07月22日

 名古屋を6時半に出発、足助からR153、稲武からR257,稲武で28℃なので天狗棚のある面ノ木峠へ登る県道80号線から茶臼山へは窓を開けて冷涼な高原ドライブになった。
 地形図を眺めると、木曽山脈の蛇峠山から南に派生する支脈が、一旦、売木峠で1150mまで高度を下げて再び高度をあげて聳えるのが茶臼山である。茶臼山の東の長野県側から流れる谷は矢作川(実は根羽川)の源流にもなっている。
 売木峠からすぐに軒川に沿う県道が、根羽村と売木村の境に沿って右へ登って行くので右折するとしばらくで休憩小屋に着く。
 アテビ平小鳥の森の入り口へは8時半着。1218mの所にある休憩小屋のおばさんも店開きに登って来た。と同時に常連客らも続々登って来た。ここでも24℃とかなり涼しい。
 ハイキングの姿で、入り口からしばらくは谷に下る広い遊歩道を歩く。谷をまたぐと登り返し、アテビ平の一角に着く。湿原ではなく、準平原でせせらぎが流れ、小鳥がさえずる。ミズゴケがびっしり生える。
 地形図で精査すると、軒川の源流に当たる。比高20m下って20m登り返すとまた1200m級のアテビ平である。アテビとはクロベの別名という。ここから4方向に交差している。とりあえず、湿潤な道を歩きながら馬の背を目指す。
 馬の背へ歩き、尾根を下った。一旦、標高1120mの県道の入り口を往復後、県道に並行する沢沿いの道を登る。バイケイソウの花が多い。比高100mほどをゆっくり登り返すと休憩小屋の手前で遊歩道に合流。再び同じ道を下って、次はアテビ島へ周回する。軒川の源流部を迂回するイメージである。ここから、ザゼンソウのある湿地を経て、休憩小屋へ戻る。
 五平餅を食べて休憩後、また遊歩道を下り、アテビ平に登ると、今度は左折(北へ)して、馬の丞へ行ってみる。8の字形の遊歩道であるが、樹林帯を歩く以外、特に特長のある景色は無い。アテビ平に戻った後、休憩小屋に帰るともう12時半になった。
 今回はここに咲くと言うレンゲショウマの花を探しに来たのだが、蕾すら見つからなかった。ここにはないかも知れない。
 今から茶臼山と萩太郎を登るのは暑くてやりきれないので売木村に下った。そこでうるぎ温泉こまどりの湯に入湯した。ぬめっとした良いお湯である。R418から平湯峠を越え、R153で帰名した。国道153号でも気温28℃なので名古屋へ帰りたくなかった。