宮本常一『忘れられた日本人』より 「対馬にて」2020年02月01日

 対馬に関していろいろな本を読んでみたが、「忘れられた日本人」の中の以下の文は対馬は純然たる日本の村の風景と思える。沖縄はまだ行ってみたことはないが伝えられる写真など見てもいかにも中国風なのである。だから朝鮮に近い対馬は日本の中の異質な風景か、との先入観は実際に行ってみて打ち砕かれた。そしてこんな民俗学の走りのような文にもそれは伺える。防人の万葉歌に見る如く1400年もの昔から日本はこの島を死守してきたのだった。
 それが今、韓国人にちょっと土地を買われたからといって大騒ぎするまでもない。韓国が南下したらそれこそ日韓戦争になるだろう。あの美しい島を何とか守ってゆくにはどうするのか、考える時期が来たのである。
 ちなみに5万図の地形図を読んでも谷名になっている。沢名は一つもないので明らかに西日本の地名である。縄文時代からここは日本だったのである。大陸の文明を受容しながら例えば稲作、精錬などの技術を取り込んだ地域から弥生文化になったのではないか。そしてそれはほぼ愛知県でぴたりと止まった。対馬のように弥生文化になじまなかった地域が残った。
 対馬の緯度は東へ移すとほぼ東海地方で止まる。ここらが照葉樹林文化の東限だった。実際伊勢志摩などは対馬の植生の風景と似ている。伊勢といえば対馬には必要以上に神社が多かった。神道の島ともいえる。仏教は外来、神道は日本古来の信仰である。対馬は古代のままの日本の原風景なのかも知れません。

ソース:http://www1.ttcn.ne.jp/makime/mypage/1306/0630/tusimanite.html

            寄りあい

 伊奈の村は対馬も北端に近い西海岸にあって、古くはクジラのとれたところである。私はその村に三日いた。二目目の朝早くホラ貝の鳴る音で目がさめた。村の寄りあいがあるのだという。朝出がけにお宮のそばを通ると、森の中に大ぜい人があつまっていた。私はそれから、村の旧家をたずねていろいろ話をきき、昼すぎまたお宮のそばを通ると、まだ人々がはなしあっていた。昼飯もたべないではなしているのだろうかと思って、いったい何が協議せられているかに興をおぼえたが、その場できいても見ないで宿へかえり、午後区長の家をたずねた。区長はまだ若い人で寄りあいの席に出ており、家にはその父にあたる老人がいた。この村で区長をつとめるのは郷士の家の戸主にかぎられており、老人も若いときには区長をつとめていた。明治以前には下知役(げちやく)とよばれる役目であった。百姓は農中とか公役人とかいい、その代表は江戸時代には肝煎(きもいり)とよばれていたが、明治以後は総代といった。区長と総代がコンビになって村のいろいろの事をきめていくのである。

 さて私は老人からいろいろ話をきいている間に、この村には古くから伝えられている帳籍があり、その中に区有文書がはいっていることを知った。そこでそれを見せてくれないかとたのんでみると、自分の一存ではいかぬという。帳箱には鍵(かぎ)がかかっており、その鍵は区長が保管しているが、総代立ち会いでないとあけられないという。それでは二人立ち会いの上で見せていただけないかとたのむと老人は人をやって寄りあいの席から二人をよんで来た。事情をはなすと開けて見せる位ならよかろうと、あけてくれた。その夜は宿で徹夜でその主要なものをうつしたが、実は旅のつかれがひどいので能率はあがらない。翌朝になって、
「この古文書をしぱらく拝借ねがえまいか」
と老人の家へいってたのむと、老人は息子にきいてみねばという。きけば今日も寄りあいのつづきがおこなわれていて息子はその席へ出ているとのことである。そしてまた人をやってよんで来てくれた。すると息子はそういう間題は寄りあいにかけて皆の意見をきかなければいけないから、借用したい分だけ会場へもっていって皆の意見をきいてくるといって、古文書をもって出かけていった。しかし昼になってもかえって来ない。午後三時をすぎてもかえって来ない。
「いったい何の協議をしているのでしょう」
ときくと、
「いろいろとりきめる事がありまして……」
という。その日のうちに三里ほど北の佐護まで行きたいと思っていた私はいささかジリジリして来て、寄りあいの場へいってみることにした。老人もついていってくれる事になった。

 いってみると会場の中には板間に二十人ほどすわっており、外の樹の下に三人五人とかたまってうずくまったまま話しあっている。雑談をしているように見えたがそうではない。事情をきいてみると、村でとりきめをおこなう場合には、みんなの納得のいくまで何日でもはなしあう。はじめには一同があつまって区長からの話をきくと、それぞれの地域組でいろいろに話しあって区長のところへその結論をもっていく。もし折り合いがつかねばまた自分のグループヘもどってはなしあう。用事のある者は家へかえることもある。ただ区長・総代はきき役・まとめ役としてそこにいなければならない。とにかくこうして二日も協議がつづけられている。この人たちにとっては夜もなく昼もない。ゆうべも暁方近くまではなしあっていたそうであるが、眠たくなり、いうことがなくなればかえってもいいのである。

 ところで私の借りたい古文書についての話しあいも、朝話題に出されたそうであるが、私のいったときまだ結論は出ていなかった。朝から午後三時まで古文書の話をしていたのではない。ほかの話もしていたのであるが、そのうち古文書についての話も何人かによって、会場で話題にのぼった。私はそのときそこにいたのでないから、後から概要だけきいた話は、
「九学会連合の対馬の調査に来た先生が、伊奈の事をしらべるためにやって来て、伊奈の古い事を知るには古い証文類が是非とも必要だというのだが、貸していいものだろうかどうだろうか」
と区長からきり出すと、
「いままで貸し出したことは一度もないし、村の大事な証拠書類だからみんなでよく話しあおう」
ということになって、話題は他の協議事項にうつった。そのうち昔のことをよく知っている老人が、
「昔この村一番の旧家であり身分も高い給人(郷士)の家の主人が死んで、その子のまだ幼いのがあとをついだ。するとその親戚にあたる老人が来て、旧家に伝わる御判物(ごはんもの)を見せてくれといって持っていった。そしてどのように返してくれとたのんでも老人はかえさず、やがて自分の家を村一番の旧家のようにしてしまった」
という話をした。それについて、それと関連あるような話がみんなの間にひとわたりせられてそのまま話題は他にうつった。しばらくしてからまた、古文書の話になり、
「村の帳箱の中に古い書き付けがはいっているという話はきいていたが、われわれは中味を見たのは今が初めであり、この書き付けがあるのでよいことをしたという話もきかない。そういうものを他人に見せて役に立つものなら見せてはどうだろう」
というものがあった。するとまたひとしきり、家にしまってあるものを見る眼のある人に見せたらたいへんよいことがあったといういろいろの世間話がつづいてまた別の話になった。


 そういうところへ私はでかけていった。区長がいままでの経過をかいつまんでひととおりはなしてくれて、なるほどそういう調子なら容易に結論はでないだろう。とにかくみんなが思い思いの事をいってみたあと、会場の中にいた老人の一人が
「見ればこの人はわるい人でもなさそうだし、話をきめようではないか」
とかなり大きい声でいうと外ではなしていた人たちも窓のところへ寄って来て、みんな私の顔を見た。私が古文書の中にかかれていることについて説明し、昔はクジラがとれると若い女たちが美しい着物を着、お化粧して見にいくので、そういうことをしてはいけないと、とめた書きつけがあるなどとはなすと、またそれについて、クジラをとったころの話がしばらくつづいた。いかにものんびりしているように見えるが、それでいて話は次第に展開して来る。一時間あまりもはなしあっていると、私を案内してくれた老人が
「どうであろう、せっかくだから貸してあげては……」
と一同にはかった。
「あんたが、そういわれるなら、もう誰も異存はなかろう」
と一人が答え、区長が
「それでは私が責任をおいますから」
といい、私がその場で借用証をかくと、区長はそれをよみあげて
「これでようございますか」
といった。
「はァそれで結構でございます」
と座の中から声があると、区長は区長のまえの板敷の上に朝からおかれたままになっている古文書を手にとって私に渡してくれた。私はそれをうけとってお礼をいって外へ出たが、案内の老人はそのままあとにのこった。協議はそれからいつまでつづいたことであろう。

 私にはこの寄りあいの情景が眼の底にしみついた。この寄りあい方式は近頃はじまったものではない。村の申し合せ記録の古いものは二百年近いまえのものもある。それはのこっているものだけれどもそれ以前からも寄りあいはあったはずである。七十をこした老人の話ではその老人の子供の頃もやはりいまと同じようになされていたという。ただちがうところは、昔は腹がへったら家へたべにかえるというのでなく、家から誰かが弁当をもって来たものだそうで、それをたべて話をつづけ、夜になって話がきれないとその場へ寝る者もあり、おきて話して夜を明かす者もあり、結論がでるまでそれがつづいたそうである。といっても三日でたいていのむずかしい話もかたがついたという。気の長い話だが、とにかく無理はしなかった。みんなが納得のいくまではなしあった。だから結諭が出ると、それはキチンと守らねばならなかった。話といっても理窟をいうのではない。一つの事柄について自分の知っているかぎりの関係ある事例をあげていくのである。話に花がさくというのはこういう事なのであろう。

 このような協議の形式はひとり伊奈の村ばかりでなく、それから十日ばかりの後おとずれた対馬の東岸の千尋藻(ちろも)でも、やはり古文書を見せてもらうのに千尋藻湾内四ヵ浦の総代にあつまってもらったことがあり、会議がどれほど大切なものであるかをしみじみ知らされたのである。この四カ浦総代会は四百年以上もまえからつづいているとのことであった。それは四ヵ浦が共同して湾内でイルカをとるようになって以来のことである。四ヵ浦共有の文書を見たいと私がいい出したら、千尋藻の総代が、
「それでは四カ浦総代に使いを立てましょう」
といってくれたので、のんきにかまえて、ただ
「どうもありがとう」
ですましてしまった。ところが使いは小舟にのって湾奥の村の総代の家まで行かねばならない。片道一里はある。申しこんでから三時間ほどたって使いがかえり、他の三カ浦の総代に連絡がついたと知らせてくれた。地図をひろげて見て大へんな迷惑をかけたことに気がついた。

 一時間ほどたって三人の総代が舟できた。それぞれきちんと羽織を着て扇子をもっている。夏のことだから暑いのだが、総代会というのは厳重なものであるらしい。しばらくの間協議がしたいというので、私はその間別の家へ話をききにいっていたら、夜九時頃総代の宅まで来てくれという。いってみると表の間に四人があつまっていて夕はんもたべずに協議していた。さて、
「持ちかえることはゆるされないが丸一日だけお目にかけようということに話がきまりました」
と千尋藻の総代から話があった。その理由は帳面の中には四ヵ浦共有の網での魚のとれ高もしるされており、そういうものが外にもれるといけないからというのである。まことにもっともなことで、
「それで結構です」
と答えると、千尋藻の総代が、帳箱にしるしてある封印をきって蓋(ふた)をあけ、中の冊数をしらべて私に渡してくれた。それからお膳が出て夕飯になった。私もまだだったのでお相伴(しょうばん)にあずかった。折敷膳の漆塗(うるしぬり)の古びたもので、お膳の上には、ご飯に、ズイキの茎の煮たものとナスのつけものがのっている。こういうあつまりには昔からこの程度のふるまいがあるという。さて、食べながら四人からひとしきり昔のイルカとりの話が出たのであるが、おそらく五時から九時までの間の協議というのも、こうした話がつづけられたのであろう。その席にいたとしたら一々書きとめておきたいような話ばかりであったらしい。

 私はその夜もまた徹夜で帳面を写したのだが……そして私にはいささかの悲痛感があったのだが、外はよい月夜で、家のまえは入海(いりうみ)、海の向うは低い山がくっきりと黒く、海は風がわたって、月光が波に千々(ちぢ)にくだけていた。その渚(なぎさ)のほとりで、宿の老婆は夜もすがら夜なべの糸つむぎをしていた。
「月がよいので……」
と月の光をたのしみ、夜風のすずしさをたのしんで仕事をしていた。私は昼間も写しものに追われ、夕方やっと仕事をおえて総代の家へかえしに行き、夜はまた旧家をおとずれて話をきいた。その夜三人の総代はまた千尋藻の総代の家へあつまり、帳簿を帳箱に入れて封印し、夜十二時頃それぞれの浦へかえっていった。私が聞書を終えて、宿へもどると、渚の方で人声がして松火(たいまつ)のもえるのが見えるので、渚まで出てみると、ちょうど総代たちが家へかえるため船にのるところであった。私のために二日ほどたいへん迷惑なめにあわされたわけで、ほんとうに申しわけないことをしたが、総代たちに会食の酒代をといって包んだ金も、
「これは役目ですから」
といってどうしても受け取りもしなかったのだった。船が出るとき
「ご迷惑をかけてどうもありがとうございました」
とお礼をいうと、
「いや、これで私の役目も無事にすみました」
といって月夜の海の彼方へ船をこいでいった。

 こうした話を細々と書いたのは、昔の村の姿がどのようなものであったか、村の伝承がどのような場で、どんな時に必要であったか、昔のしきたりを語りあうということがどういう意味をもっていたかということを具体的に知っていただきたいためであった。

 日本中の村がこのようであったとはいわぬ。がすくなくも京都、大阪から西の村々には、こうした村寄りあいが古くからおこなわれて来ており、そういう会合では郷士も百姓も区別はなかったようである。領主-藩士-百姓という系列の中へおかれると、百姓の身分は低いものになるが、村落共同体の一員ということになると発言は互角であったようである。
 同じ対馬の北端に近いところで、古文書を見ていたら、三百年近いまえの文書に宗(そう)氏の一族にあたる郷士の家が寄りあいに下男ばかり出すのはけしからぬと非難した文書があった。するとそういう会合に普通なら郷士の旦那(だんな)も出ていって一人まえの顔をして話しもし人の言い分もきかなければならなかったものと思われる。郷士が被官や卒士(そし)を持っておれば、それらの従属者にはずいぶん威張りもしたであろうが、一般村人となれば、別に主従関係はないのだし、寄りあいをサボれば村人から苦惜の出るのはあたりまえである。
 といって郷士と百姓は通婚できなかったり、盆踊りに歌舞伎芝居の一齣(ひとこま)のできるのは郷士に限られていたり、両者にいろいろの差別は見られたのである。差別だけからみると、階級制度がつよかったようだが、村里内の生活からみると郷士が百姓の家の小作をしている例もすくなくなかったのである。そしてそれは決して対馬だけのことではなかった。

 そうなると村里の中にはまた村里としての生活があったことがわかる。そしてそういう場での話しあいは今日のように論理づくめでは収拾のつかぬことになっていく場合が多かったと想像される。そういうところではたとえ話、すなわち自分たちのあるいて来、体験したことに事よせて話すのが、他人にも理解してもらいやすかったし、話す方もはなしやすかったに違いない。
 そして話の中にも冷却の時間をおいて、反対の意見が出れば出たで、しばらくそのままにしておき、そのうち賛成意見が出ると、また出たままにしておき、それについてみんなが考えあい、最後に最高責任者に決をとらせるのである。これならせまい村の中で毎日顔をつきあわせていても気まずい思いをすることはすくないであろう。と同時に寄りあいというものに権威のあったことがよくわかる。

 対馬ではどの村にも帳箱があり、その中に申し合せ覚えが入っていた。こうして村の伝承に支えられながら自治が成り立っていたのである。このようにすべての人が体験や見聞を語り、発言する機会を持つということはたしかに村里生活を秩序あらしめ結束かたくするために役立ったが、同時に村の前進にはいくつかの障碍(しょうがい)を与えていた。

雪崩死亡事故相次ぐ2020年02月02日

 このところバックカントリースキーヤーの雪崩による死亡事故が相次いでいる。1/31の北海道のトマムスキー場の場外での事故で外人が死亡したばかりだった。今朝ニュースを見ていたらまた北海道のピンネシリ岳703mで外人が死亡していた。
 さらに驚いたのは乗鞍岳でも雪崩に起因する死亡事故があったことである。しかも名古屋市の人であった。乗鞍岳は若いころからよく通った山であるが雪崩なんて聞いたことがない。北東斜面ってどこだろう。
 寡雪が伝えられていたがこのところ高い山では降っている。また緯度の北の方でも積雪があった。しかしどこでもここ最近急に降り出した感がある。加えてバックカントリースキーは粉雪を楽しむ趣向なので雪崩と背中合わせになる。
 雪崩だけはどれだけスキーの経験を重ねても予知の能力を高めることはできまい。降雪期はたとえ好天でも絶好のパウダーゾーンである沢筋に入らないことだ。特に尾根の風下の雪庇が出るような斜面は雪崩れる危険がある。これまでに何人ものベテラン登山家の命を奪ってきた。
 どかっと降ってまだ不安定な雪山の怖さを教えてくれた。他山の石と心得て行くことになる。

近江・清滝山を歩く2020年02月03日

 2/2の朝はあまりにも天気が良いので思い付きで行ける山として清滝山に行った。朝の出発も遅く、登山口の清滝を出発したのは11時を回った。但し清滝神社から急登にあえぐまもなく尾根に着いてしまい、少し緩やかになった尾根を歩くともう山頂に着いた。
 NHKと琵琶湖放送の電波塔がたっていて少し広くなっている。とはいえ、車道は通じていない点が良い。今は枯れた芝生の丸くなった気持ちのいい頂上である。片隅には三角点、杉の木立、石仏がある。その近くに松明のために火口のように掘り下げた穴に枯れ枝が山積していた。杉の木立にあった2リットルのペットボトルの水は消火用らしい。毎年8月14日と15日に行事としてやる。この時は女人禁制、地元民以外は入山も禁止という。
 山頂からの展望は意外なほど秀逸である。南北には伊吹山、霊仙山がどかっと座る。霊仙山の前に重なるのは昨年苦労させられた阿弥陀ヶ峰である。濃尾平野の方向は中央アルプス、恵那山が見える。湖北は曾遊の七尾山、金糞岳と白倉岳が白い。肝心の伊吹山は5合目から上は雲の中だった。
 ハイカーも多数登ってきた。50分粘っても伊吹山は晴れず下山した。山の神への尾根を下ったがよく整備されている。30分もかからず登山口に近づいた。スマホで写真を撮ろうとすると無い。しまったな、山頂付近に忘れた。と空身で戻って心当たりを2時間近く探したが見つからず。3時になったので下山し出直すことにした。
 そして、今日、早朝発で同じ山に登った。言わば行方不明のスマホの捜索である。友人に時刻を定めて電話してもらうことにしたが、山頂から一段下がったところにあった。昨日はもう一段下がった所のみをさがしたからないはずだ。やれやれだった。いつもと違う持ち方をしたためにころっと忘れたのだった。それにしても30分で登れる山で良かった。今日はもう霞がかかって昨日の大展望はなかった。その代わりに伊吹山は見えた。良かったなあ、と微笑んでいるかに思えた。
 昨日は境内で節分会だったらしい。徳源院のPはバス用に閉鎖されていた。団体さんが来訪したのだろう。そして明日は立春である。私のチョンボに伊吹山も笑ったのだ。
   忘れ物見つかり伊吹山笑う  拙作

スズキのクロスビーを見る2020年02月04日

 今朝から少し先の飲食店へ自転車で行ってみた。寒さはもとより例年よりは和らいではいるが何せ冬である。スキーも一度も行けず、体が寒さ慣れしていない。それで少しづつ寒さ慣れである。太り気味の体も絞るために清滝山も足慣らしといったところである。
 ポタリングは風を切って走るのでやはり寒い。ちょっと寄り道しながら道草をしながら周辺を走った。寄ったのは愛知県警天白署の近くにあるスズキのお店である。目当てはクロスビー。実車が展示してあったからだ。1000ccの小型SUVである。2018年のデビュー当時から注目していた。2018年度は3万台、2019年度は24000台を売った。月販平均2000台と少しダウンしたがニッチな市場としては健闘している。これに目を付けたのがトヨタ+ダイハツのライズとロッキーコンビである。クロスビーの堅調な売れ方を見て追いかけ始めた気がする。
 セールス氏が来たので、運転席の奥行を測ってもらったりしたら48センチだった。この数値は長距離ドライブでの疲労軽減に配慮している。後のサスはトーションバーらしいが耐久性はどうか、というと改善されているらしい。
 最後はトヨタ+ダイハツのライズとロッキーのCVTと6ATとの比較を問うとメンテナンス性でATに軍配が上がるという。故障があれば部品交換可能。CVTは丸ごと交換というから消耗品の感じがする。日産のエルグランド3500CCもCVTだが故障すると50万円も出して交換という。パックされた変速機だからまだまだ未完成の技術といえる。高速走行や山岳路など負荷のかかる使い方をする車には不向きであろう。
 私のキャララバン3000CCディーゼルは消耗品以外はノントラブルで24万km走ってきた。4速ATだが何ら違和感はない。トルクが大きなエンジンは多段変速でなくても使いやすい。
 クロスビーかライズ乃至ロッキーかと言えば、クロスビーである。フロントガラスも傾斜が強くなく、車両感覚をつかみやすい。ライズはスポーツカー並みに傾斜が強く恰好は良いが車両感覚がつかみにくい。実用性に欠ける。ライズは5ナンバーサイズとはいえ、モニター無ではバックでの車庫入れも困難だろう。
 本格的5ナンバーで両車が競えば、軽かなんちゃって3ナンバーを仕方なく選択したユーザーが戻ってくるだろう。最新のクルマ事情を入手して自宅に戻った。

乗鞍岳の雪崩事故2020年02月05日

乗鞍岳・地形図(国土地理院)
 2/1に起きた乗鞍岳の雪崩事故の報告がアップされた。

乗鞍岳で雪崩 1人死亡 スノボ中に巻き込まれる
https://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20200202/KT200201FTI090010000.php

【調査速報】200201乗鞍岳・雪崩事故
https://www.nadare.jp/announces/6
●補記●
「降雨によって雪面が凍り、その上の新雪が滑るようにして雪崩れる」という表現はよくある間違いです。今回の雪崩は、再結晶化した雪(※)が歩く刺激で破壊され、発生しました。また、雪崩のすべり面は1月7日~8日にかけてのまとまった降雨あるいはその後の降雨によるものと推定しており、雪崩の原因となった弱層は、一定期間、積雪内に潜んでいたことになります。(※水蒸気が積雪内の温度差によって移動することで、雪粒子に霜が付き、雪粒子同士の結合力が低下)

再結晶化した雪の不安定性は、最初の刺激(今回は滑落)では雪崩を起こさず、複数人が滑走した後、その斜面全体が崩落する、といった事例が多々あります。積雪テストの結果もバラつくことが多く、雪崩対策の現場で働く実務者にとっても、取り扱いが厄介な雪崩です。

注:降雨について地元ガイドより指摘あり、一部表現を修正しました(2/4)
・・・乗鞍岳は若いころから通ってきた。これまでに雪崩で遭難した話は聞いたことがなかった。今年は雪が少なく、高山でも雨が降るような異常気象である。再結晶化という事象が報告されて新たな知識が提供された。元々スキーは雪を切るし、ボーダーはより深く強く切る傾向がある。原因は不明だが、降雪直後の不安定な雪であることには違いない。これはもう不運としか言いようがない。

オーバーズボンを探す2020年02月06日

 今日は一日中風が強かった。良く晴れて猿投山も良く見えた。多分山も冬日和になったことだろう。朝方は読書三昧、山と俳句の原稿の構想を練る。遅めの朝食兼中食を食べる。
 午後は喫茶店に寄り買い物に行く。新聞の広告に葉酸の本が紹介されていた。ブロッコリーやホウレンソウなどに含まれる栄養価の高い野菜類を買う。後、牛肉、牡蠣、生和布が豊富にあった。和布は塩蔵でもしないと冷蔵でもすぐ腐敗するので小分けして冷凍した。しまったにんにくを買い忘れた。
 12月と1月は新聞の購読を休んでいた。年末年始は長期旅行もある。新聞の速報性はネットで十分である。今や旧聞になった。それでも昨年来の古新聞と2月から再開した新聞購読が溜まり始めたので整理整頓する。
 週末の山スキーの服装や道具の準備、さらに雪中での車中泊に備えて車内を整理した。ごちゃごちゃと物置代わりにしてあるから登山口に着いてすぐ眠れるように不要なものを出した。
 ディーゼルエンジン車の対策として、灯油を10ℓほど石油缶に移す。名古屋の灯油は凍結するので現地で軽油に灯油を混合しておくと凍結を防止できる。
 不用品を出した後は、シュラフ、シュラフカバー、象足、山スキー板、シール、ストック、ワカン、ピッケル、雪用スコップ、アイゼン等を収納した。服装は赤のオーバーヤッケ、羽毛服、羽毛ズボンを収納するがオーバーズボンがない。
 押入れや段ボール箱を探してもない。車内にもなかった。昨年3月でスキー仕舞いした際にどこかへ忘れたか。否、そんなことはあるまいと、ワイシャツ類を仮に掛けてある鴨居を探すとあった。今時は薄手のワイシャツ類は着ないから埋もれていた。やれやれだ。これで山スキーの準備は済んだ。天気を祈る。

対馬市の市長選挙2020年02月07日

 アゴラに「対馬を学園都市にしてはどうか 〜 対馬市長選に想う --- 吉岡 研一」という論考があったので読んだ。行ってきたばかりの対馬市なので関心はある。厳原町の目抜き通りに民団長崎の事務所もあったからこの島でも在日韓国人が住民として何らかの権利確保を目指して活動中だろう。

http://agora-web.jp/archives/2044179.html
 これは日本第一党が対馬市長選挙に立候補する動きから出てきたものだろうと思われる。余りに唐突な荒巻氏の公約に対する論者の反論である。

緊急生放送 1/24】 日本第一党 対馬市長選挙への挑戦!
https://www.youtube.com/watch?v=8CQb8UaxGgg

https://blog.goo.ne.jp/88-64/e/86a0dd82e4ce9a3d945470b02934a159

良識ある日本人のみなさんこんにちは荒巻靖彦です。
日本第一党推薦候補者として長崎県対馬市長選挙へ立候補予定です。
https://aramaki-yasuhiko.osaka-firstjp.com/

 歴史的に対馬市は防人の島であった。島の至るところ、山地に朝鮮からの襲来に備えた城跡、日露戦争に備えた砲台遺跡があった。歴史的に見れば日本第一党の主張は唐突ではなく正論である。そこへ国の予算をつぎ込み、雇用も生まれるからいいアイデアには違いない。
 但し、時代は変わった。すぐ否定したくなるのは特アからのミサイルの標的になりやすいのではないか、ということである。島民はどんな投票活動を示すだろう。多分変革を好まないだろう。しかし今のままでは更なる人口減は避けられないことも確かである。日本全体の縮図でもある。
 えっ、私ならどうするか、うーん、例えば文学の島として売り込むことを提案する。万葉集にも歌われた長い伝統がある。島を観光や仕事で訪れた人が一首、または一句詠んで投稿する仕組みを作れないか。或いは村おこし的に対馬を詠んだ短歌と俳句を30首(句)投稿して1年に1回の対馬市内のイベントに招待するのも良い。
 例えば、短歌なら万葉歌人の名を冠する、俳句なら「河野静雲賞」、小説部門なら「吉田絃二郎賞」を創設して100枚以内の短編小説、ドキュメントを公募しても良い。高齢の歌人、俳人の旅にはちょうどいい規模の島である。

厳冬の神岡町山之村へ2020年02月08日

 午後3時30分に名古屋市を出発。一宮ICから清見ICへ。奥飛騨の冬は久々に訪れる。古川町から神岡町へR41を走っても雪は見ない。今年は本当に雪が降らない。途中流葉スキー場を通過、ここも山頂部だけが営業中とかいう。神岡町に着いてバローの店で夕食や行動食などを購入する。ここは午後9時閉店と思っていたが最近は7時になった。30分ほどの時間でパッパッと買い物を済ませる。次は道の駅で冬山の服装に着替えた。コンビニではおにぎりを調達。これで神岡町の街から県道484に入り伊西トンネルまでの羊腸の山岳路を登る。上部では圧雪路になった。
 トンネルを抜けると標高900m以上の高原の山之村に着いた。家もほとんどない。一面真っ白な雪道を疾駆する。そして高原の駅「天の夕顔」に着いた。かつて天蓋山や桑崎山に登りに来た登山口である。
 ロードクリアランスが170センチの愛車もギリギリのラッセルに耐えて到着だ。今時はだれもいない。この一角でテントを設営だ。雪は一晩中降り続いた。

大鼠山は登頂ならず2020年02月09日

 朝5時に起きて湯を沸かす。昨日神岡町のバローで買ったアルミ鍋の白菜と豚肉入りうどんを食べる。お茶を飲んだりしているとすぐ時間がたつ。てきぱきとやって出発できたのは7時10分ごろか。
 クルマの天井には約30センチの積雪がある。道路もそれだけ降ったであろう。シールを付けて車道を歩く。実は入り口を行き過ぎて桑崎山の方へ行ってしまい戻る。林道奥深く歩いたところで空腹を覚えたので行動食を食べる。そこへなんと山スキーのグループがやってきた。男女3人から4人であるが1人は下山した。
 しばらくラッセルで先行していたが交代すると申し入れがありありがたく合同で林道のラッセルをした。助かったなあ。聞けば神岡町在住のバックカントリーの愛好者グループだった。この山域にも精通しているので様々な情報もいただいた。
 結局この思いがけない降雪で林道のラッセルは1502m地点で深さ50センチにもなり前途を諦めることになった。それでもここまで来れたのは貴方たちのお陰だ、と双方がたたえて別れた。我々はもう少しとラッセルしたものの下ってゆくのでやはり下山することにした。1502m地点はブナの原生林が林立しており芽吹きから青葉の頃も楽しいだろう。
 シールをはがす。林道のラッセル跡は中々滑らない。それでもなんとか車道に出て高原の駅まで下山した。
 帰路は流葉温泉に入湯して帰名する。体が冷えているせいもあってか、やや熱めのアルカリ性単純泉のいお湯だった。

会計指導の話2020年02月10日

 午後から市外の企業に面談に行く。高速料金をけちってR23で行こうとしたら車がノロノロと分かり、高速へ。それでもギリギリになった。今日は何だ、というほど車が多かった。
 話は経営者の現状認識と要望を根底から問い質して探ってみた。要は顧問税理士の税金を納めるための会計帳簿から脱したい、と悟った。業績は好調なので更なる設備投資も構想している。聞くと発生主義ではなさそうだし、貸倒引当金なども計上しているのかな、と思わせる。税金は少なく、手元に現金を多く残したい願望だ。それは必ずしも欲張りではなく、法の範囲内で可能である。貸倒などはまだ不良債権化したわけではないのに予め利益から差し引きするから節税になる。しかし現金の支出があるわけではない。
 大企業などはこうした税制の特典をフルに活用しているのである。別の企業では別会社への移転価格の指導を求められた。これをちょっと調整するだけで利益を増減できる。この会社は破談になった。それで基本のキから指導することになった。受け皿の身内の人とは面談できなかったが後日日を改めて面談することとした。