宮本常一『忘れられた日本人』より 「対馬にて」2020年02月01日

 対馬に関していろいろな本を読んでみたが、「忘れられた日本人」の中の以下の文は対馬は純然たる日本の村の風景と思える。沖縄はまだ行ってみたことはないが伝えられる写真など見てもいかにも中国風なのである。だから朝鮮に近い対馬は日本の中の異質な風景か、との先入観は実際に行ってみて打ち砕かれた。そしてこんな民俗学の走りのような文にもそれは伺える。防人の万葉歌に見る如く1400年もの昔から日本はこの島を死守してきたのだった。
 それが今、韓国人にちょっと土地を買われたからといって大騒ぎするまでもない。韓国が南下したらそれこそ日韓戦争になるだろう。あの美しい島を何とか守ってゆくにはどうするのか、考える時期が来たのである。
 ちなみに5万図の地形図を読んでも谷名になっている。沢名は一つもないので明らかに西日本の地名である。縄文時代からここは日本だったのである。大陸の文明を受容しながら例えば稲作、精錬などの技術を取り込んだ地域から弥生文化になったのではないか。そしてそれはほぼ愛知県でぴたりと止まった。対馬のように弥生文化になじまなかった地域が残った。
 対馬の緯度は東へ移すとほぼ東海地方で止まる。ここらが照葉樹林文化の東限だった。実際伊勢志摩などは対馬の植生の風景と似ている。伊勢といえば対馬には必要以上に神社が多かった。神道の島ともいえる。仏教は外来、神道は日本古来の信仰である。対馬は古代のままの日本の原風景なのかも知れません。

ソース:http://www1.ttcn.ne.jp/makime/mypage/1306/0630/tusimanite.html

            寄りあい

 伊奈の村は対馬も北端に近い西海岸にあって、古くはクジラのとれたところである。私はその村に三日いた。二目目の朝早くホラ貝の鳴る音で目がさめた。村の寄りあいがあるのだという。朝出がけにお宮のそばを通ると、森の中に大ぜい人があつまっていた。私はそれから、村の旧家をたずねていろいろ話をきき、昼すぎまたお宮のそばを通ると、まだ人々がはなしあっていた。昼飯もたべないではなしているのだろうかと思って、いったい何が協議せられているかに興をおぼえたが、その場できいても見ないで宿へかえり、午後区長の家をたずねた。区長はまだ若い人で寄りあいの席に出ており、家にはその父にあたる老人がいた。この村で区長をつとめるのは郷士の家の戸主にかぎられており、老人も若いときには区長をつとめていた。明治以前には下知役(げちやく)とよばれる役目であった。百姓は農中とか公役人とかいい、その代表は江戸時代には肝煎(きもいり)とよばれていたが、明治以後は総代といった。区長と総代がコンビになって村のいろいろの事をきめていくのである。

 さて私は老人からいろいろ話をきいている間に、この村には古くから伝えられている帳籍があり、その中に区有文書がはいっていることを知った。そこでそれを見せてくれないかとたのんでみると、自分の一存ではいかぬという。帳箱には鍵(かぎ)がかかっており、その鍵は区長が保管しているが、総代立ち会いでないとあけられないという。それでは二人立ち会いの上で見せていただけないかとたのむと老人は人をやって寄りあいの席から二人をよんで来た。事情をはなすと開けて見せる位ならよかろうと、あけてくれた。その夜は宿で徹夜でその主要なものをうつしたが、実は旅のつかれがひどいので能率はあがらない。翌朝になって、
「この古文書をしぱらく拝借ねがえまいか」
と老人の家へいってたのむと、老人は息子にきいてみねばという。きけば今日も寄りあいのつづきがおこなわれていて息子はその席へ出ているとのことである。そしてまた人をやってよんで来てくれた。すると息子はそういう間題は寄りあいにかけて皆の意見をきかなければいけないから、借用したい分だけ会場へもっていって皆の意見をきいてくるといって、古文書をもって出かけていった。しかし昼になってもかえって来ない。午後三時をすぎてもかえって来ない。
「いったい何の協議をしているのでしょう」
ときくと、
「いろいろとりきめる事がありまして……」
という。その日のうちに三里ほど北の佐護まで行きたいと思っていた私はいささかジリジリして来て、寄りあいの場へいってみることにした。老人もついていってくれる事になった。

 いってみると会場の中には板間に二十人ほどすわっており、外の樹の下に三人五人とかたまってうずくまったまま話しあっている。雑談をしているように見えたがそうではない。事情をきいてみると、村でとりきめをおこなう場合には、みんなの納得のいくまで何日でもはなしあう。はじめには一同があつまって区長からの話をきくと、それぞれの地域組でいろいろに話しあって区長のところへその結論をもっていく。もし折り合いがつかねばまた自分のグループヘもどってはなしあう。用事のある者は家へかえることもある。ただ区長・総代はきき役・まとめ役としてそこにいなければならない。とにかくこうして二日も協議がつづけられている。この人たちにとっては夜もなく昼もない。ゆうべも暁方近くまではなしあっていたそうであるが、眠たくなり、いうことがなくなればかえってもいいのである。

 ところで私の借りたい古文書についての話しあいも、朝話題に出されたそうであるが、私のいったときまだ結論は出ていなかった。朝から午後三時まで古文書の話をしていたのではない。ほかの話もしていたのであるが、そのうち古文書についての話も何人かによって、会場で話題にのぼった。私はそのときそこにいたのでないから、後から概要だけきいた話は、
「九学会連合の対馬の調査に来た先生が、伊奈の事をしらべるためにやって来て、伊奈の古い事を知るには古い証文類が是非とも必要だというのだが、貸していいものだろうかどうだろうか」
と区長からきり出すと、
「いままで貸し出したことは一度もないし、村の大事な証拠書類だからみんなでよく話しあおう」
ということになって、話題は他の協議事項にうつった。そのうち昔のことをよく知っている老人が、
「昔この村一番の旧家であり身分も高い給人(郷士)の家の主人が死んで、その子のまだ幼いのがあとをついだ。するとその親戚にあたる老人が来て、旧家に伝わる御判物(ごはんもの)を見せてくれといって持っていった。そしてどのように返してくれとたのんでも老人はかえさず、やがて自分の家を村一番の旧家のようにしてしまった」
という話をした。それについて、それと関連あるような話がみんなの間にひとわたりせられてそのまま話題は他にうつった。しばらくしてからまた、古文書の話になり、
「村の帳箱の中に古い書き付けがはいっているという話はきいていたが、われわれは中味を見たのは今が初めであり、この書き付けがあるのでよいことをしたという話もきかない。そういうものを他人に見せて役に立つものなら見せてはどうだろう」
というものがあった。するとまたひとしきり、家にしまってあるものを見る眼のある人に見せたらたいへんよいことがあったといういろいろの世間話がつづいてまた別の話になった。


 そういうところへ私はでかけていった。区長がいままでの経過をかいつまんでひととおりはなしてくれて、なるほどそういう調子なら容易に結論はでないだろう。とにかくみんなが思い思いの事をいってみたあと、会場の中にいた老人の一人が
「見ればこの人はわるい人でもなさそうだし、話をきめようではないか」
とかなり大きい声でいうと外ではなしていた人たちも窓のところへ寄って来て、みんな私の顔を見た。私が古文書の中にかかれていることについて説明し、昔はクジラがとれると若い女たちが美しい着物を着、お化粧して見にいくので、そういうことをしてはいけないと、とめた書きつけがあるなどとはなすと、またそれについて、クジラをとったころの話がしばらくつづいた。いかにものんびりしているように見えるが、それでいて話は次第に展開して来る。一時間あまりもはなしあっていると、私を案内してくれた老人が
「どうであろう、せっかくだから貸してあげては……」
と一同にはかった。
「あんたが、そういわれるなら、もう誰も異存はなかろう」
と一人が答え、区長が
「それでは私が責任をおいますから」
といい、私がその場で借用証をかくと、区長はそれをよみあげて
「これでようございますか」
といった。
「はァそれで結構でございます」
と座の中から声があると、区長は区長のまえの板敷の上に朝からおかれたままになっている古文書を手にとって私に渡してくれた。私はそれをうけとってお礼をいって外へ出たが、案内の老人はそのままあとにのこった。協議はそれからいつまでつづいたことであろう。

 私にはこの寄りあいの情景が眼の底にしみついた。この寄りあい方式は近頃はじまったものではない。村の申し合せ記録の古いものは二百年近いまえのものもある。それはのこっているものだけれどもそれ以前からも寄りあいはあったはずである。七十をこした老人の話ではその老人の子供の頃もやはりいまと同じようになされていたという。ただちがうところは、昔は腹がへったら家へたべにかえるというのでなく、家から誰かが弁当をもって来たものだそうで、それをたべて話をつづけ、夜になって話がきれないとその場へ寝る者もあり、おきて話して夜を明かす者もあり、結論がでるまでそれがつづいたそうである。といっても三日でたいていのむずかしい話もかたがついたという。気の長い話だが、とにかく無理はしなかった。みんなが納得のいくまではなしあった。だから結諭が出ると、それはキチンと守らねばならなかった。話といっても理窟をいうのではない。一つの事柄について自分の知っているかぎりの関係ある事例をあげていくのである。話に花がさくというのはこういう事なのであろう。

 このような協議の形式はひとり伊奈の村ばかりでなく、それから十日ばかりの後おとずれた対馬の東岸の千尋藻(ちろも)でも、やはり古文書を見せてもらうのに千尋藻湾内四ヵ浦の総代にあつまってもらったことがあり、会議がどれほど大切なものであるかをしみじみ知らされたのである。この四カ浦総代会は四百年以上もまえからつづいているとのことであった。それは四ヵ浦が共同して湾内でイルカをとるようになって以来のことである。四ヵ浦共有の文書を見たいと私がいい出したら、千尋藻の総代が、
「それでは四カ浦総代に使いを立てましょう」
といってくれたので、のんきにかまえて、ただ
「どうもありがとう」
ですましてしまった。ところが使いは小舟にのって湾奥の村の総代の家まで行かねばならない。片道一里はある。申しこんでから三時間ほどたって使いがかえり、他の三カ浦の総代に連絡がついたと知らせてくれた。地図をひろげて見て大へんな迷惑をかけたことに気がついた。

 一時間ほどたって三人の総代が舟できた。それぞれきちんと羽織を着て扇子をもっている。夏のことだから暑いのだが、総代会というのは厳重なものであるらしい。しばらくの間協議がしたいというので、私はその間別の家へ話をききにいっていたら、夜九時頃総代の宅まで来てくれという。いってみると表の間に四人があつまっていて夕はんもたべずに協議していた。さて、
「持ちかえることはゆるされないが丸一日だけお目にかけようということに話がきまりました」
と千尋藻の総代から話があった。その理由は帳面の中には四ヵ浦共有の網での魚のとれ高もしるされており、そういうものが外にもれるといけないからというのである。まことにもっともなことで、
「それで結構です」
と答えると、千尋藻の総代が、帳箱にしるしてある封印をきって蓋(ふた)をあけ、中の冊数をしらべて私に渡してくれた。それからお膳が出て夕飯になった。私もまだだったのでお相伴(しょうばん)にあずかった。折敷膳の漆塗(うるしぬり)の古びたもので、お膳の上には、ご飯に、ズイキの茎の煮たものとナスのつけものがのっている。こういうあつまりには昔からこの程度のふるまいがあるという。さて、食べながら四人からひとしきり昔のイルカとりの話が出たのであるが、おそらく五時から九時までの間の協議というのも、こうした話がつづけられたのであろう。その席にいたとしたら一々書きとめておきたいような話ばかりであったらしい。

 私はその夜もまた徹夜で帳面を写したのだが……そして私にはいささかの悲痛感があったのだが、外はよい月夜で、家のまえは入海(いりうみ)、海の向うは低い山がくっきりと黒く、海は風がわたって、月光が波に千々(ちぢ)にくだけていた。その渚(なぎさ)のほとりで、宿の老婆は夜もすがら夜なべの糸つむぎをしていた。
「月がよいので……」
と月の光をたのしみ、夜風のすずしさをたのしんで仕事をしていた。私は昼間も写しものに追われ、夕方やっと仕事をおえて総代の家へかえしに行き、夜はまた旧家をおとずれて話をきいた。その夜三人の総代はまた千尋藻の総代の家へあつまり、帳簿を帳箱に入れて封印し、夜十二時頃それぞれの浦へかえっていった。私が聞書を終えて、宿へもどると、渚の方で人声がして松火(たいまつ)のもえるのが見えるので、渚まで出てみると、ちょうど総代たちが家へかえるため船にのるところであった。私のために二日ほどたいへん迷惑なめにあわされたわけで、ほんとうに申しわけないことをしたが、総代たちに会食の酒代をといって包んだ金も、
「これは役目ですから」
といってどうしても受け取りもしなかったのだった。船が出るとき
「ご迷惑をかけてどうもありがとうございました」
とお礼をいうと、
「いや、これで私の役目も無事にすみました」
といって月夜の海の彼方へ船をこいでいった。

 こうした話を細々と書いたのは、昔の村の姿がどのようなものであったか、村の伝承がどのような場で、どんな時に必要であったか、昔のしきたりを語りあうということがどういう意味をもっていたかということを具体的に知っていただきたいためであった。

 日本中の村がこのようであったとはいわぬ。がすくなくも京都、大阪から西の村々には、こうした村寄りあいが古くからおこなわれて来ており、そういう会合では郷士も百姓も区別はなかったようである。領主-藩士-百姓という系列の中へおかれると、百姓の身分は低いものになるが、村落共同体の一員ということになると発言は互角であったようである。
 同じ対馬の北端に近いところで、古文書を見ていたら、三百年近いまえの文書に宗(そう)氏の一族にあたる郷士の家が寄りあいに下男ばかり出すのはけしからぬと非難した文書があった。するとそういう会合に普通なら郷士の旦那(だんな)も出ていって一人まえの顔をして話しもし人の言い分もきかなければならなかったものと思われる。郷士が被官や卒士(そし)を持っておれば、それらの従属者にはずいぶん威張りもしたであろうが、一般村人となれば、別に主従関係はないのだし、寄りあいをサボれば村人から苦惜の出るのはあたりまえである。
 といって郷士と百姓は通婚できなかったり、盆踊りに歌舞伎芝居の一齣(ひとこま)のできるのは郷士に限られていたり、両者にいろいろの差別は見られたのである。差別だけからみると、階級制度がつよかったようだが、村里内の生活からみると郷士が百姓の家の小作をしている例もすくなくなかったのである。そしてそれは決して対馬だけのことではなかった。

 そうなると村里の中にはまた村里としての生活があったことがわかる。そしてそういう場での話しあいは今日のように論理づくめでは収拾のつかぬことになっていく場合が多かったと想像される。そういうところではたとえ話、すなわち自分たちのあるいて来、体験したことに事よせて話すのが、他人にも理解してもらいやすかったし、話す方もはなしやすかったに違いない。
 そして話の中にも冷却の時間をおいて、反対の意見が出れば出たで、しばらくそのままにしておき、そのうち賛成意見が出ると、また出たままにしておき、それについてみんなが考えあい、最後に最高責任者に決をとらせるのである。これならせまい村の中で毎日顔をつきあわせていても気まずい思いをすることはすくないであろう。と同時に寄りあいというものに権威のあったことがよくわかる。

 対馬ではどの村にも帳箱があり、その中に申し合せ覚えが入っていた。こうして村の伝承に支えられながら自治が成り立っていたのである。このようにすべての人が体験や見聞を語り、発言する機会を持つということはたしかに村里生活を秩序あらしめ結束かたくするために役立ったが、同時に村の前進にはいくつかの障碍(しょうがい)を与えていた。

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