黒部の山旅Ⅳ2013年08月21日

鷲羽への途中から見える槍穂高連峰と鷲羽の池
 8/16も快晴である。三俣山荘はよく眠れた。快適な小屋だった。槍ヶ岳がよく見える。今頃は多くの登山者が行列を作っているだろう。5時22分に小屋を出発し、鷲羽岳に向かう。最初は背丈ほどあるハイマツの海の中を歩く。鷲羽乗越に下り、鷲羽岳への登りが始まる。風衝地の所為か、もはや草木は生えず、ガレの上のジグザグの登山道である。急速に高度を上げて、6時50分、約1時間半で登頂である。
 山頂は360度の大展望である。鹿島槍の双耳峰は良くわかる。薬師は朝日を浴びて雄大な山容を誇る。黒岳は存在感がある。黒部五郎岳はバランスのとれた山容がいい。笠ヶ岳は端正な姿である。槍穂高連峰は北アルプスのシンボルであり、鷲羽もかなわない風格がある。北アルプスを睥睨する山である。遠く北は白馬岳が霞み、黒岳の肩越しに立山剱岳、南は御岳も見えた。北アルプスの中心に立つ気がした。越中側から登れば黒部の最奥の山であった。
 遙々と黒部川を遡行してきた。眼下に広がる黒部源流と草原の台地、黒木の森林がある。きらめく水の流れを溯ってきた。
 7時45分山頂を辞す。ワリモ岳を経て、ワリモ分岐、岩苔乗越へは8時22分着。2009年の読売新道縦走では風雨のために、ここで鷲羽往復を断念した。祖父岳に登り、雲の平山荘へは10時半着。この山荘は天水に頼ると言う。500円のコーヒーを注文して大休止する。雲の平を辞して、木道を足早に歩く。雨が降らないために折角の高層湿原の風情が失われていた。湿地がひび割れていた。
 13時25分に薬師沢小屋に到着。これで一周したことになる。今日の内に太郎小屋を経て折立に行くにはきついのでもう一泊とする。

  山名夜話ー鷲羽岳と三俣蓮華岳の山名談義

 戦前の『山と溪谷』六七号(昭和一六年)に山岳史家の中島正文は「二つの鷲羽嶽」という論考を投稿した。要旨は鷲羽の池のある二九四二mの鷲羽嶽と飛騨、信濃、越中の三国境にある二八四一mの鷲羽嶽、そして「少々遠慮して三俣蓮華嶽といふ小さい別名を添付して居る」と指摘した。
 彼は黒部奥山廻り役の研究家であったからこんなことを見逃すわけにはいかない。実は三百年も前の史料に「鷲ノ羽ヶ岳、三国のからみ」と明記されているというのだ。現在の鷲羽嶽は東鷲羽嶽と呼び、鷲羽の池も単に池と呼ばれ、のちに龍池となり、東鷲羽嶽も龍池ヶ岳と命名される変遷を説いた。
 明治四十三年に日本山岳会の小島烏水らが信州側の猟師を伴って近代登山の時代が来るまでは三国境は鷲羽嶽、現在の鷲羽嶽は東鷲羽嶽で定着していたのであった。
 大正四年の地形図には正しい山名が記載されたが上条嘉門次の説明をもって陸地測量部に間違いだとして攻撃したことがあったという。日本山岳会の大御所からの攻撃を受けて昭和五年には現在の山名になり、そのまま定着したのである。おさまらないのは富山県側の役所であった。公文書には三俣蓮華嶽の山を鷲羽嶽とせねばならない。括弧書きは苦し紛れの処置だった。そこで池のある鷲羽嶽は認めてしまった結果地形図の中に二つの鷲羽嶽が記載されたという顛末である。現在はその括弧書きもとれて、三俣蓮華岳になった。
 後年深田久弥は『日本百名山』の鷲羽岳にこのエピソードを紹介している。目分量で、60%から70%は山名のエピソードに割いているから如何に紹介したがっていたことか分かろう。
 中島正文の母は黒部奥山廻り役の古文書を読解して息子に聞かせたという。根っからの山岳史家だったのだ。