黒部の山旅Ⅲ2013年08月20日

祖父岳の麓をトラバースして黒部川源流に下るところから三俣小屋が見えた
 思わぬ柳絮の饗宴に見とれて時の過ぎるのも忘れていた。パンを一個食べ、バナナを1本食べた。空腹を覚える前にカロリー補給だ。さて腰をあげて、出発である。祖母沢の入り口はやや薮っぽい感じがした。次は二俣に分かれたが、右を源流と見て入渓する。するとぐんぐん高まって、左の祖父平が目下に見える。源流だから当然であろうが、予め地形図でシュミレーションした目には不安が募る。源流といえども祖父沢とは同じ位の高度で登ってゆくはず、だったからだ。つまり祖父平の蛇行をイメージしていた。その後に分流すると。
 それで、9時30分、出合いまで戻って祖父沢に入渓してみた。イメージ通り蛇行しながら溯ってゆく。よし、と奥まで行くと急に立ち上がり、休憩を兼ねて地形図と地形をチエックすると、向うには黒部五郎岳から張り出すギザギザの支稜が見えた。 そして周囲を見回すと、なんと赤茶けたがけ崩れになっている。この崖は地形図にも表現されていた。地形図で祖父沢と印刷された辺りである。
 どうやら間違いなく、(本当は間違って)祖父沢に入ったのだ。源流に戻って遡行し直すか。迷ったが、体力の消耗を考慮してそのまま遡行を続けた。沢は狭まり、周囲の黒い針葉樹から明るい緑の岳樺の中を溯る。すると、段々、視界が開けてきて、草原になり、いよいよ水脈(みお)細る感じになった。沢にはビールの空き缶、ビニールのゴミがあり、上流は間違いなく雲の平キャンプ場との確信を得た。ゴミも道標とは悲しい。
 明るく開放的な草原に咲く風露草が美しい。かつてはキャンプ場全体が緑の草地に覆われていたはずである。今は人の干渉を受けて裸地になっている。これを傷だらけの、とか、自然破壊とは言うまい。
 水脈は絶えることもなく、キャンプ場にはロープが張られて、区切られていた。そこを跨いで突っ切り、キャンプ場上部の登山道と迂回する登山道との合流地(標高2500m)に着いた。溝は残雪の解けた水で潤っている。
 合流地からしばらくで岩苔分岐に着く。左折すると祖父岳を経て岩苔乗越だ。直進すると、祖父岳の等高線通りに平坦地を歩く。少しづつ緩斜面になり、最後は急転直下で源流に下る。約2400mの源流を渡る。源流には残雪が一杯詰まっていた。ここにはロープが張ってあり、増水時には捕まって渡れ、というのだろうか。
 渡ると美しい草地が何処までも続く。左の鷲羽の山腹から残雪の融水がとめどなく流れて沢になっている。黒部源流の碑を見て、しばらくは水平に歩くと、鞍部からの沢を渡り、左岸側の道を登っていく。三俣蓮華岳と鷲羽岳の鞍部は単なる鞍部ではなかった。全体が箱庭的な高原になっていた。三俣蓮華の北面には相当な残雪がある。その融水が美しい緑の平坦な高原を形成していた。
 キャンプ場は三俣蓮華側にあり、三俣山荘は鷲羽よりに建っていた。その向うには槍穂高連峰が惜しげなく聳えている。北アルプスのシンボルというにふさわしい。キャンプ場は若い男女で賑わっていた。まるでマイカーで駆けつけてきた感じの華やいだ雰囲気がある。
 天上の恋のカップルが幾組みもうまれそうな予感である。
 三俣小屋には15時35分着。三俣小屋は食堂が2階にあり、瀟洒な山荘であった。宿泊の手続きをすると棚の2段上を宛がわれた。二日目の夜を迎えた。

   山の民俗余話ー奥黒部の地名・山名談義

 祖父沢を最初は知らなかったからソフ(ブ)サワと読んだ。太郎平小屋オーナーの五十嶋博文氏は黒部に精通した人である。彼はヂヂサワと言われた。とすると祖父岳はヂヂダケである。ウィキペディアでは「じいだけ」という。

 愛用の語源辞典『地名の語源』にはヂヂはない。但し、ババはある。(1)崖、(3)広場、(4)山上の平坦地とある。用例としては馬場を当てる。祖母平はババタ(ダ)イラか。竜ヶ馬場、猿ヶ馬場など。雲ノ平の一角に祖母岳があるが、ババダケだろう。祖父岳があるから対抗して祖母岳になったわけではなく、ちゃんとした意味があったのだ。これもウィキペディアでは「ばあだけ」と呼ぶ。

 日本百名山で有名な祖母山(ソボサン)は「信仰の山で豊玉姫命の祠を祀ってある。豊玉姫命は、神武天皇の祖母にあたるので「祖母山」の山名になった。」という。

 祖父の話に戻る。意味は(1)水さび、サビ、シブと同類。鉄分で濁っている所。用例として、祖父江(ソブエ)、赤祖父川、祖父岳、蘇夫岳など。
 通りで、祖父沢の崖が赤茶けていたわけだ。あれは鉄分の色だったのか。赤木沢の赤も鉄分の意味かな。他に赤牛岳、南アには赤石岳がある。赤牛岳は確かに赤茶けた色で分かりやすい山名である。

 シブというと長野県伊那谷に小渋川がある。川沿いには温泉があった。八ヶ岳には渋の湯もある。兵庫丹波に蘇武岳があったが、あれはどうか。

 黒部川には金作谷、岩苔小谷というように谷名があるが少数派だ。谷は西日本の呼び方である。東日本に多いといわれる沢名が多く見られる。これは関東の人間が入り込んだともいう。東沢谷は一体どっち側がつけたのだろうか。
 信州の狩人や漁師あるいは樵は信州側から黒部川の奥に入り、岩魚を獲り、木材を盗伐したのだろうか。それを防ぐために世襲制で黒部奥山廻りを編成して見回ったらしい。いわば信越の地名交雑のルツボになったのだろう。