役員会に出席 ― 2026年07月22日
暑熱に焼かれそうな名古屋を後にR153からR301へ来た。旧下山村まででも34℃の高温だが40℃に比べるとマイナス6℃とかなり低い。標高差で1000m分の温度差になる。100mに付き0.6℃下がるという理論値からの推測である。
試みに窓を開けて走ったが外の気温はやはり高く窓を閉めてエアコンを効かせながらの走行になった。ほとんどゴーストップがないから効率は良い。作手村の道の駅で一休みするともうそんなに余裕はない。
R301から新城市のR155の手前で県道21号に右折。しばらく本宮山山麓を走って登山口に近いところから一宮生涯学習センターへ向かう。13時20分とぎりぎりだった。
地元の役員らはすでに着席していた。当面の予定の事業に付いて話し合った。8/30の研究発表会では新人の壁谷善吉氏が城跡の石の研究成果を発表される。中日新聞等にも取り上げられて地味な研究が脚光を浴びつつある。
東日新聞の記事から「吉田城石垣は蒲郡産
25年にわたる調査名古屋城残石説に壁谷善吉さん異論/西浦半島などから切り出し船で直接運搬か」
「名古屋城や吉田城の石垣について長年調査している蒲郡市元職員の壁谷善吉さん(75)は、吉田城(豊橋市)の石垣の一部は蒲郡市の西浦半島などから切り出され、船で直接運ばれたものだとする説を発表した。吉田城の石垣は名古屋城の築城に使われた石の残り...」
2021.12.26
中日新聞の記事から「岩に池田輝政の刻印? 蒲郡で発見、吉田城に運んだか」2026.5.21
「城郭に使われた石を研究している蒲郡市西浦町の郷土史家壁谷善吉さん(79)が、西浦温泉近くの海岸で豊橋市の吉田城主だった池田輝政とみられる印が刻まれた岩を見つけた。
ノミで岩を削った跡をたどり、海岸から少し高い場所にあった花こう閃緑岩に「池田三左門 慶長16(1611)年3月」と読める刻印を確認した。「三左門」は池田輝政の通称「三左衛門」を示すとみられる。2012年にも近くで「三左」の刻印が見つかっている。
豊橋市教委によると、1622(元和8)年に完成した吉田城の本丸御殿では、石垣に西浦町の石が使われたことが分かっている。壁谷さんは西浦半島の海岸部や山間部で多くの刻印を発見しており、「池田輝...
」
引用以上
帰路はR1で帰名する予定で、豊川市の赤坂陣屋跡に寄ったが暑いのでちらっと見ただけである。涼しくなったらまた来たい。R1の交通量はかなり減って随分通行がスムーズになった。多分R23の全通の効果だろう。
試みに窓を開けて走ったが外の気温はやはり高く窓を閉めてエアコンを効かせながらの走行になった。ほとんどゴーストップがないから効率は良い。作手村の道の駅で一休みするともうそんなに余裕はない。
R301から新城市のR155の手前で県道21号に右折。しばらく本宮山山麓を走って登山口に近いところから一宮生涯学習センターへ向かう。13時20分とぎりぎりだった。
地元の役員らはすでに着席していた。当面の予定の事業に付いて話し合った。8/30の研究発表会では新人の壁谷善吉氏が城跡の石の研究成果を発表される。中日新聞等にも取り上げられて地味な研究が脚光を浴びつつある。
東日新聞の記事から「吉田城石垣は蒲郡産
25年にわたる調査名古屋城残石説に壁谷善吉さん異論/西浦半島などから切り出し船で直接運搬か」
「名古屋城や吉田城の石垣について長年調査している蒲郡市元職員の壁谷善吉さん(75)は、吉田城(豊橋市)の石垣の一部は蒲郡市の西浦半島などから切り出され、船で直接運ばれたものだとする説を発表した。吉田城の石垣は名古屋城の築城に使われた石の残り...」
2021.12.26
中日新聞の記事から「岩に池田輝政の刻印? 蒲郡で発見、吉田城に運んだか」2026.5.21
「城郭に使われた石を研究している蒲郡市西浦町の郷土史家壁谷善吉さん(79)が、西浦温泉近くの海岸で豊橋市の吉田城主だった池田輝政とみられる印が刻まれた岩を見つけた。
ノミで岩を削った跡をたどり、海岸から少し高い場所にあった花こう閃緑岩に「池田三左門 慶長16(1611)年3月」と読める刻印を確認した。「三左門」は池田輝政の通称「三左衛門」を示すとみられる。2012年にも近くで「三左」の刻印が見つかっている。
豊橋市教委によると、1622(元和8)年に完成した吉田城の本丸御殿では、石垣に西浦町の石が使われたことが分かっている。壁谷さんは西浦半島の海岸部や山間部で多くの刻印を発見しており、「池田輝...
」
引用以上
帰路はR1で帰名する予定で、豊川市の赤坂陣屋跡に寄ったが暑いのでちらっと見ただけである。涼しくなったらまた来たい。R1の交通量はかなり減って随分通行がスムーズになった。多分R23の全通の効果だろう。
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