愛知県知事選2019期日前投票に行く2019年02月02日

 うらうらと冬晴れの1日、このところの読書疲れで飽きたこともあり、午後から期日前投票に出かけた。外に出るとけっこう風が強くて寒い。ビル風というやつで高層ビル群の間を巻き込むように吹きつける。とっくりセーターにジャンパー、防風衣に雨具を着用し、自転車にまたがる。投票所の天白区役所はすぐである。

 区役所の3Fまで徒歩で上がり、投票のしらせを渡す。意中の候補者の名前を書いて投函。現役と日本共産党候補なので、勝利はもう決まったようなものでだが、投票率を気にする報道もあり、やはり権利行使をしておこうと行った。

 期日前投票にはかなりの人が来ている。並ぶほどではないが切れ目なく有権者が続く。報道が効いているかに思う。40%は無理としても35%くらいに達するか。

 愛知県には目下、政争といえる政治難題はないに等しい。大村知事の行政手腕は可も無く不可もない。しかし、投じないと低迷に終わる。

 かつて中日新聞の小出社長(今は主筆)が失言したことを思い出す。

 以下、ハフィトンポストWEBから
 「中日新聞社前社長で現主筆の小出宣昭氏(73)が、名古屋市千種区で13日に開かれたシンポジウムで愛知県三河地方出身の大村秀章知事について語る際、「三河に行くと時々、大村さんのような保守かリベラルか、性同一性障害ぐらいの知事が出ます」と発言した。終了後、小出氏は記者団に対し「言葉が滑った」と述べ、発言を撤回した。

 小出氏は、立憲、民進、希望の3党幹部をパネリストにしたシンポジウムにコメンテーターとして参加。発言は、愛知県の政治風土を解説する中で出た。会場には大村氏も姿を見せていたが、この発言の前に退席していた。

 小出氏は「三河は保守的な風土が強い所だが、大村さんは非自民の態勢を貫きつつ、自民党的な発想も大事にしていることを言った。(性同一性障害という)表現は不適切だった」と説明した。(黄澈)

 小出氏は東海高校から早稲田大へと名古屋人のエリートコースを行ったから三河人気質が分からない。三河を保守と断定するから失言するのである。
 三河人気質とは
1 一刻者
2 忠君愛国
3 薩長藩閥政府に対するコンプレックスがある。など。
 1は頑固者という意味。
 2は殿様や上司によく仕える風土がある。
 特に3は岡崎が生んだ偉人・志賀重昂はジャーナリストの草分けであり政治評論にも健筆をふるった。時の愛知県人をみて「三河男児の歌」を著したほどだった。確かに八高も名古屋帝大も一番最後に設立されて割を食っている。
 
 大村知事は三河で生れた久々の逸材であろう。東大卒、官僚経験、政治家(国政、県政)の道は、志賀の期待した三河男児を彷彿させる。一期目のころ、トヨタ自動車のために「汗をかいた」ともコメントした記憶がある。トヨタの業績低迷は愛知県の財政にももろに響くからだ。ここは自民党的体質である。
 それでいて、リベラルの面もある。朝鮮人学校への補助金助成でも知事は人権重視として支給する。河村市長は徐々に減額する姿勢とは一線を画す。
 また昨年は杉原千畝の顕彰碑を県立瑞稜高校に設置した。ナチから逃れるユダヤ人へのビザを命令に背いて発給したというもの。日本国挙げてユダヤ人を逃がしてあげたのだから杉原1人の功績ではないのだが、裏で時の日本政府の東条英樹首相を悪者にしたい政治勢力があると思う。つまり東京裁判史観である。
 こんな所がメディア側からは把握し難いのである。突っ込みどころのない全方位行政である。
 一方で、対立候補の榑松佐一氏は政策はリベラル一辺倒であり県の発展につながる夢がない。何分、日本共産党であるから、2600年の伝統のある皇室否定、一党独裁、など日本崩壊につながる。県政を委ねるわけにはいかない。
 共産主義は所詮、ユダヤ人のマルクスが考えた思想に過ぎない。これにユダヤ人とモンゴル人の血が混じったレーニンが結びついて暴力革命の思想になった。ロシア革命は実はユダヤ・クーデターというのが現在の見方である。プーチンがたたかって来たのはロシア内のユダヤ人であった。
 ユダヤ人は両建てといって、資本主義も共産主義又はグローバリズムもカネ儲けの道具に過ぎない。日本共産党も深層ではアメリカのユダヤ金融資本の掌に乗っているのではないかと思っている。しかし、日本共産党のようなカネに清潔な政党がないのもまた困ったことである。と言うわけで今回は??。

恵方巻きの収支2019年02月03日

 今日は節分である。愛知県知事選挙は午後8時過ぎ、下馬評通り大村氏が当選のニュースが報じられた。
 事務所の暖房器具が壊れたので石油ストーブに戻る。灯油を買い足す。電化製品は寿命が短い上に、壊れても修理ができず、いつしか粗大ゴミとなってたまる。布団乾燥機、セラミックヒーター、電話機その他。結果修理や補修ができる石油ストーブがスマートとなった。
 スーパーで食料品を買う。惣菜コーナーで、売れ残った恵方巻きが、780円の50%引きで売られていた。よし買った。大量廃棄が問題というが、モノの値段は半値、八掛け、二割引と来たもんだ。
 (780円×50%)×80%=312円が製造原価か仕入値になる。50%OFFの390円で買っても78円が儲けが出る。すべてが50%OFFではなく。ほとんどは正価で売られているので、充分利益はある。食品廃棄の点ではもったいないが、赤字と言うわけではない。

烏帽子岳スキー登山はヤブで撤退2019年02月05日

 2/5の朝、未明の6時過ぎに出発。しかし、予想以上にクルマが多い。そうか、今日は平日なんだ、多分通勤の車である。高速道路が普通に通勤に利用されている。名二環の松川を過ぎてようやく東の空から日が昇った。一宮JCTを経て東海北陸へ。まだクルマは多い。
 郡上八幡ICを出てまた渋滞、トンネルを出て左折したが、道間違いと遅れた。本当は2つ目のトンネルだ。通いなれたはずの奥美濃ではあったがもう記憶から遠くなった。途中でリーダーのYさんに遅刻の連絡。スキー場に向うのに雪がほとんどない。やれるのかな。
 10分遅れでめいほうスキー場に着いた。すぐに着替えて、結局出発は30分遅れてしまった。リフト2本を乗りついで頂上へ。スキー場トップは幸い雪晴れの好天である。御嶽、中ア、乗鞍、北ア、白山、三方崩山、ほぼ360度雪山で囲まれる。
 シールを貼っているとスキー場の係りの人が近寄って来た。登山届を出せ、という。岐阜県警には届けてあるとYリーダー。計画書のコピーを渡して届けた。オフピステ否スキー場外滑走禁止の立て札はないが、どこのスキー場でも粉雪を求めるスキーヤーの事故が多く、苦慮されているのだろう。
 男性はYリーダー、IS、KI、IT、私の5人。最年少、紅一点のSさんが山スキ―に染まっていたとは知らなかった。計6人で笹やぶの隙間をぬう林間を歩き始める。周囲は細幹の岳樺や大き目のブナなどが生い茂る高原である。緩斜面を行き、オサンババにつながるポイントから別れると大きく下降する。最初の鞍部に到達する。またゆるやかに1553mのコブに登り、下降する。2つ目の鞍部までは笹やぶの密度が濃くなり難渋する。鞍部でYリーダーが口火を切って鳩首協議する。4等三角点「床辺山」へはもっとブッシュが濃くなり、雪もはげている感じに見えた。烏帽子岳ははるかなる高みに見える。結果、全行程の5分の1も消化しないで撤退を決めた。天気は良いのだが。
 ふたたび笹やぶを分けて登り返す。スキー場トップ(4等三角点で点名は山中峠)へはゆるやかな登りである。つまりはじめて登った。トップに戻ってシールを剥がし、ゲレンデを滑降。雪質は硬く、アイスバーンの状態であった。多分、暖かいから雪も解けるので、夜間はスノーマシンで雪を確保しているのだろう。
 センターに戻り、Pへ。帰路は久々に名宝温泉に入湯した。R472,R156を美濃ICまで走り高速に入る。大した渋滞も無く帰宅。土日と違い、絶望的な渋滞はないのでスキーは平日が良い。但し、高速料金の割引がない。
 帰宅後は庫内で解凍のラム肉をジンギスカン鍋で焼いての焼き肉で空腹を満たす。山中ではパン2個をかじっただけであった。行動中はのんびりと食べて居れず、また腹筋がしまるせいか、空腹を感じにくいので飲み物だけになった。

ジンギスカンあれこれ~ラム肉の効用2019年02月06日

2014.10.26小川路峠の頂上で食うジンギスカン
 かつて山岳会の会員に北海道出身者がいた。彼は秋口になるとサンマとマトン(羊肉)を大量に食うんですと言ってた。寒い冬を乗り切るためだそうだ。
 昨夜、庫内で解凍しておいた冷凍のラムの肉をジンギスカン鍋で焼いて食べた。今朝見ると、油脂が少ないことに気がついた。豚、牛、鶏はフライパンで焼いてそのままにしておくと残った油脂がパンの底に白く浮いている。
 ラム肉はヘルシーという。ググって見ると、
https://www.themeatguy.jp/ja/cookingstudio/recipe/07_about_lamb
「実は意外と知らない! ラム肉の栄養素が健康的な体を作る理由」からコピペ

  他のお肉とは栄養素が違う! ラム肉が健康的である理由

 ラム肉は、北海道では比較的よく食べられている肉ですが、全国的には牛・豚・鶏肉に比べてまだまだ身近な食品とはいえません。しかし、ラム肉は他の肉に比べて健康効果が高く、健康に対する意識が高い層やダイエッターの注目を集めている食品です。
 それでは、ラム肉に多く含まれている栄養素について詳しくご紹介します。

  必須アミノ酸
 ラム肉には必須アミノ酸が多く含まれています。例えば、免疫力をアップさせるリシン、アレルギーを和らげるメチオニン、食欲を抑えてくれるフェニルアラニンなどです。
 ラム肉には、体内で合成することのできない必須アミノ酸がバランス良く含まれており、健康づくりに役立つ良質なたんぱく質といえるでしょう。
  不飽和脂肪酸
 油脂にはいくつかの種類があり、それぞれ体への影響が異なります。良い油、悪い油という言葉を聞いたことがあると思いますが、ラム肉に多く含まれているのは、良い油とされる不飽和脂肪酸です。
 不飽和脂肪酸は、魚や植物性食品に多く含まれており、動脈硬化や血栓予防、血圧を下げる、悪玉コレステロールを減らす作用があるといわれています。
  ビタミン
 ラム肉に多く含まれているビタミンは、ビタミンB1、ビタミンB2、ビタミンEです。
 肉類には意外と多くビタミンが含まれているのですが、ラム肉には特に肌に良いビタミンが含まれているので、美容効果も期待できます。
 また、ラム肉に含まれるビタミンは、摂取した栄養素がスムーズにエネルギーに変換されるのを助け、脂肪の蓄積を防ぐことができます。このことからも、ラム肉はダイエットをしている人にもおすすめの肉であるといえるでしょう。
(ビタミンB1・ビタミンB2…栄養素の代謝をサポートする、皮膚や粘膜を健康に保つ)
(ビタミンE…細胞を若返らせる、悪玉コレステロールによる血管の老化から守る、生活習慣病予防)

 低カロリーで脂肪燃焼効果が高い!ラム肉はダイエットにも最適!
 ラム肉の大きな特徴として、L-カルニチンが含まれていることが挙げられます。L-カルニチンが脂肪細胞と結合してミトコンドリア内に取り込まれることによって脂肪燃焼が起こります。ラム肉には、このL-カルニチンが多く含まれているので、脂肪燃焼が促進されることが期待されています。

 また、L-カルニチンは加齢とともに減少していく傾向にあります。年齢を重ねるとともに太りやすくなったという人は、L-カルニチンを摂ることで体質改善ができるかもしれないですね。

 「肉=高カロリー」と考えてしまう方もいるかと思いますが、ラム肉は全体的に低カロリーでヘルシーなため、ダイエット中にもおすすめです。
 例えば、牛肉100gあたりのカロリーは259kcalですが、ラム肉の100gあたりのカロリーは198kcalとなっています。割とヘルシーとされる鶏肉は204kcalなので、それよりも低いとは驚きますよね。
 そのためラム肉は、カロリーを抑えながら量はしっかりと確保したいという人におすすめの肉といえるでしょう。また、脂肪燃焼効果のあるL-カルニチン、不飽和脂肪酸と一緒に摂ることができる点もメリットのひとつです。
以上
・・・・良い事づくめである。但し手に入りにくい。良く行く関西系のスーパーの精肉売り場で店員に尋ねると、マトン肉はちょっと、と言って口をつぐんだ。それで西友ストアに行くと冷凍品で売っていた。一袋買ったのである。
 これまでは北海道へ登山に行って、現地のごちそうとして食べたことはある。鳥取県でも大山山麓で食べたことがある。R19を走ると長野市へ行く際に信州新町を通過するが、あそこは「ジンギスカン街道」と言うそうだ。スーパーに寄ってマトンのパックを買ったことがある。
http://shin-machi.com/jingisukanroad/jingisukanstory.html
ジンギスカン物語JINGISUKAN STORY

 また、長野県南部の伊那谷でも良く食べられている。伊那といえば、鯉、馬肉とかダチョウの肉が有名であるが、マトンもある。
 かつては地元主催で、小川路峠のハイキングに参加した。峠の頂上で食べたジンギスカンの焼き肉が美味しかった。肉は遠山側の人らが背負ってきて焼いて食べさせてくれた。伊那の農協に寄ってパックを買ったこともある。
 名古屋市では土産に買ったパック以外はまあ食べた記憶がない。FBでジンギスカン鍋を見て、また前述した栄養を考えると、高齢者の日常食にしても良さげに思えるので買った。はじめての試みである。

訃報 堺屋太一さん死去2019年02月11日

 報道によれば、作家の堺屋太一さんが死去された。功績はいろいろあるが、小説『団塊の世代』で余りにも有名な人だった。後講釈が多い中で、未来を先取りする内容は斬新だった。
 個人的には『組織の盛衰―何が企業の命運を決めるのか (PHP文庫) 』を愛読してきた。アマゾンのレビューでも31件と最も多いから多くの読者を獲得しているらしい。
 簡にして要を得たコメントから
「前半のケーススタディー部分は、散々学んできたはずの日本の戦国時代の話が、組織論的観点で見つめなおしてみると、全く新たな面白さがあることを教えてくれる。
 安定した組織をつくるためには、成長を徹底的に否定すること。
組織とは成長すべきものだという考えが芯からしみついていた自分には衝撃的な内容だった。
 全体として、新たな発見に満ちた良書であると思う。」

・・・経験的に振り返っても、良い会社ほど社員や取引先を安住させない。経営者が自ら自己否定している。

・・・組織がしっかりしている、組織力がある、という評価は、マイノリティーである。選挙に強いのは日本共産党、公明党であったことを考えると納得。

・・・山岳会においても、また俳句結社、俳句の団体を観察してみても、共同体組織の中で、機能体を求めると分裂、独立することが多い。インセンティブのない組織においてもそうなのだからインセンティブがある政治、経済、経営等の組織が離合集散を繰り返すのは「世の倣い」というわけである。

・・・山岳会において、公務員や元公務員らは民主的な運営を求める。しかし、そうすると山岳遭難が多発する。結果として衰退する。命の懸かる登山においては役の押し付け合い(即ち民主的)はいくら命があっても足りない。仲良しクラブでは命を守れない。
 転じて国家運営も同じ。

奥川並から湖北・神又峰(点名:大岳)を目指すが撤退2019年02月11日

         夜の余呉湖畔
 2/9夜9時、名古屋を発つ。名神で一宮ICから関ヶ原ICを経て、R365を走ると今夜の宿の予定地の余呉湖には近い。2月というのに雪のかけらも見ない。R365から左折して余呉湖畔のビジターセンターへ着く。11時半。トイレと広いPがあり、テントビバークにはもってこいだが、すでに数台は止まっているし、路面が濡れている。
 そこで別の場所を探す湖畔のドライブになった。余呉湖あじさい園は先着車があった。次はバンガロー風の廃屋があったが、大きな熊の檻に仰天して退散。賎ヶ岳ハイキングマップのトイレマークらしい所に落ち着く。照明はないがトイレがあるし、水も出る。しかも路面が乾いていた。さっさとテント設営してビバークする。往来するクルマは1台限だった。
         高時川水系の山村へ
 2/10の朝5時、夜中は強風にあおられて固定を忘れたフライが飛ばされた。時折はフレームがしなるほど強い風が吹いた。また雪が飛んできたから非常に寒い夜を過ごす。
 熱いお湯でカップ麺を胃にそそぐ。体温が少しは温まる。すばやく撤収。また周回の道を行くと、昨夜の閑散が信じられないほど公魚(ワカサギ)釣りで車も人も多かった。
 R365から上丹生に行く県道を走る。七々頭ヶ岳を仰ぎみて高時川奥へと良い道を走る。人家のある最奥の村の菅並に着く。良い道に誘われてうっかり洞寿院に入ってしまった。戻ると北海道(多分きたかいどう)トンネルがあるが???。Uターンして、神社のある寂れたような細道に入るとこれが目的地の田戸(たど)への県道であった。ところどころ通行止めの表示はあるが、横は通過できる幅があり、注意して行けよ、事故っても自己責任だぞ、とのサインか。
     雪解けの水を集めて流れる高時川中流の廃村田戸へ
 高時川は水量も豊かに蛇行しながら滔々と流れている。寡雪とはいえ、県境は相当な降雪があり、すでに雪解けが始まっているのだろう。上谷山、三国ヶ岳、左千方などの融雪を集めて雪解川となって琵琶湖に注ぐ。
 目的地の田戸へは意外に早く着いた。途中での路面の凍結や落石もなくスム―ズに走れた。ここから中河内までは走ったことがある。かつては安蔵山へ登りにも来たことがある。自分のブログをググってもヒットしないから15年前になるだろう。こんなマニアックな山に登れたのは何と言っても、1985(昭和60)年の山本武人『近江 湖北の山』のガイドがあればこそだった。
      廃村奥川並へ
 奥川並へは橋を渡り、歩くこと約2時間はあると、先行者の記録にある。山の尾根を眺めても雪は少ない。この時点で、スキー登山は断念した。奥まで行けば雪はあるが、2時間も重いスキーをかつぐのは愚かなことだ。というわけだがわかんを忘れたのでつぼ足覚悟で歩くことになった。相方は夏山用の登山靴もなく、スキー登山靴になった。
 安蔵山の南尾根を巻くように奥川並川沿いの林道を延々歩いた。林道は徐々に雪が現れた。山腹の電話線の垂れたのを見ると廃村も近いだろう。杉の林の中に各戸の墓の共同の碑を見た。廃村奥川並はすぐだった。今は石垣だけが残っている。検索すると「ブログこの道往けば」の「滋賀県道285号中河内木之本線 忘らるる村編」によれば、田戸は平成7年に、奥川並は1969(昭和44)年に離村した、と記載。
 廃村になって今は地形図にも奥川並の名前はない。段々雪深くなり、約20センチから30センチはある。0.7kmも歩くとリッカ谷と中津谷の出合に着く。ここまでで10時。
       中津谷林道を行く
 当初の計画ではリッカ谷林道を歩く予定だったが、相談で中津谷林道を上がることに変更。出合を左折。西尾根の末端を目で探ると踏み跡が登っている。しかしパス。中津谷と足ノ又の落合の蛇行する沖積平野を雪が覆って美しい。積雪がどんどん増えた。夏山用登山靴は雪で湿りはじめた。雨具のズボンを履くが靴下が濡れてきた。この辺が限界である。
 標高550m付近から積雪はどんどん増えた。ついに600m付近で林道は終点になり、谷奥には堰堤が見えた。ネットの記録には谷の奥の稜線に中尾峠があったが今は廃道。ここからヤブを分けて西尾根に合い、神又峰へ登山している。そして西尾根に踏み跡があったそうだ。その登り口は多分、大栃の辺か。或いは落合付近か。
      神又峰(大岳)は撤退
 11時を過ぎて、標高差450mの山頂往復は約4時間もかかるので撤退を決めた。足元の準備不足もある。奥川並に入ってから空が曇ったり晴れたり、雪が舞ったりする。中津谷でもリーダーが素っ頓狂な声を挙げた。ほらほら雪の結晶だ、と。六角形のあの雪印そのものを見せてくれた。標高があがると気温がグンと下がり結晶のままを見られるのだ。
      雪の結晶は六花という
 さて、リッカ谷出合に戻った。そこで昼食とした。カタカナのこの地名も六花(リッカで雪の結晶の意味)に由来するのだろう。横山岳にぶつかったマイナス30℃から50℃の寒気団が雪を降らせるのではないか。だとしたら美しい地名である。
 又しても撤退に意気消沈してしまう。延延林道を歩いて廃村田戸に戻った。この少し下流の小原で締め切って丹生ダムが予定されていたが今は中止となった。世が世なら湖底に沈むはずだった。前回来た時に家があったかどうか。もう記憶はない。
      公魚(わかさぎ)の天ぷらに舌鼓を打つ 
 再びR365に出て、余呉湖に寄った。何と昨夜ビバークを予定していたPは公魚(わかさぎ)釣りの車で満杯だった。釣り場にもひとだかりが見えた。近くの民宿「文右衛門」に入って、わかさきの天ぷらを頼んだ。これは美味かった。ヒマラヤの岩塩もよく効いた。白味噌のしじみ汁も味噌の香りが臓腑を刺激した。これで800円だった。撤退を慰めてくれた。ここはマガモ料理も食べさせてくれる。アイガモ(アヒル)か、と聞いたら内は使わない、マガモだと反論されたので本物だろう。値ははるが食べてみたい。帰路はあねがわ温泉で一と風呂浴びた。湖北は温泉施設が少ないので大繁盛していた。
 長浜市のR365を走ると、鈴鹿の霊仙山の前衛にある阿弥陀山が均整の取れた山容を見せる。見えなくなると岐阜県は近い。浅春の湖北の山旅を終えた。

池江璃花子さんが白血病と公表2019年02月12日

 池江璃花子さんはまだ18歳の若さで将来がある身。ショッキングなニュースです。それに美人でもあり性格も良さそうです。佳人薄命という言葉を思いつきます。
 あの美人女優だった夏目雅子も27歳で白血病で亡くなっています。でも今は治療が出来るそうなので是非復活して欲しいものです。
 ネットでさまざまなコメントを読んでいたら活性酸素という言葉がありました。白血病は血液のガンですが、これの原因になるそうです。
 スポーツ選手は短命といわれます。激しい運動を続けると活性酸素が生れやすいとか。池江選手クラスになると、しかも水泳なので有酸素運動の典型ですから超激しいトレーニングだったかも知れません。
 ともあれ、日本水泳界の宝です。治癒に専念されて復帰されますように。

ヤマケイ文庫 伊藤正一『底本 黒部の山賊 アルプスの怪』を読む2019年02月14日

 先日、丸善で購入。帰宅時に地下鉄車内で読み始めたら面白くて、一と駅先まで乗り越した。徒歩圏で良かった。夕食後、寝床に入ってからも一気に読み込んだ。最近にない面白い本であった。
 ヤマケイ文庫 2019.2.14刊行
 
 定本というのはこれまでに刊行された本があって、再編集されているということ。それは良く売れた本の証拠でもある。

①1964年 初版 黒部の山賊 アルプスの怪 実業の日本社

②1994年 新版 黒部の山賊 アルプスの怪 実業の日本社

③2014年 定本 黒部の山賊 アルプスの怪 山と渓谷社
内容紹介
 北アルプスの最奥部・黒部原流域のフロンティアとして、長く山小屋(三俣山荘、雲ノ平山荘、水晶小屋、湯俣山荘)の経営に携わってきた伊藤正一と、遠山富士弥、遠山林平、鬼窪善一郎、倉繁勝太郎ら「山賊」と称された仲間たちによる、北アルプス登山黎明期、驚天動地の昔話。
 また、埋蔵金伝説、山のバケモノ、山岳遭難、山小屋暮らしのあれこれなど、幅の広い「山の話題」が盛り込まれていて、読む者をして、まるで黒部の奥地にいるような気持ちにさせてくれる山岳名著の一書です。
 1964年に実業之日本社から初版が刊行されたときは、多くの読者からの好評を得ました。
 近年は、山小屋でのみ購入できたこの幻の名作が、『定本 黒部の山賊』として、山と溪谷社から刊行されることになりました。
新規原稿も一話加え、底本未掲載の貴重な写真も盛り込んでいます。
巻末には、高桑信一氏と高橋庄太郎氏による『黒部の山賊』へのオマージュも掲載。 以上はコピペ。

④2019年 ヤマケイ文庫 黒部の山賊 アルプスの怪 山と渓谷社

・・・・特に③はよく売れたようです。アマゾンのコメント90件は山岳書としては多い。しかも、③では①②で採用された畦地梅太郎の版画の表紙を変えています。多くの読者を獲得した勢いで、今年は早くも文庫化されています。しかし文庫化にあたっては初版の表紙にもどされました。

 著者の伊藤正一(1923~2016)さんは三俣小屋の利権を林野庁と争っていた記憶しかなかった。本書を読んで、松本深志高校卒(旧制)で物理学者を目指していたこと、日本勤労者山岳連盟の創立者であることも知った。
 社会の仕組みをよく知っていて、権力にただ盲従、服従しない点は岩波茂雄と同郷の人だけはあると思った。信州人は反骨の精神が強い。したがって左翼のシンパになったり、日本共産党の支援もあったかに思われる。

 今度の読書で何でこんなに面白く読めたのか。山を始めた当初は折立から太郎平を経て黒部五郎岳へ縦走、折立から薬師岳を経て立山へ縦走、薬師岳往復くらいしか山歴はなかった。鷲羽岳は遠い山であった。
 本書に書いてあるような黒部源流に奥深く入ったのは2009年の盆休みに雲の平を経て読売新道を歩いたことだ。同年の9月には上の廊下を突破した。2010年8月には赤木沢を遡行、2013年の8月にはついに黒部源流を遡行する。
 そして三俣山荘に宿泊した。この時はすでに同書が置いてあり販売もしていたように記憶するが、購入にまでは至らなかった。伊藤さんは2016年に死去されたからこの年はまだ存命だったことになる。
 要するに雲の平に象徴するような別天地を知ったら黒部の魅力は忘れえないものになる。伊藤さんは黒部の語り部たらんと本書を著したのだ。非日常の世界を平易な文章でわれわれ都会人に知らしめた。
 そうか、柳田國男の『遠野物語』『山の人生』も怪異な話だった。黒部源流に人生を送った山男・山賊らの物語なのである。

新刊『タ―プの張り方火の熾し方 私の道具と野外生活技術』 ヤマケイ文庫2019年02月16日

 2018年7月刊行。著者は沢登りで、ヤマケイや岳人、釣り雑誌に多数の寄稿をして有名な高桑信一。タイトルには沢登りと謳っていないが、基本的には沢登りの本である。そのジャンルの中の道具に特化して、43の項目にわたって著者の蘊蓄が傾けられている。そんなハウツーなら知っているよ、と思うこともあるが、沢の入門書には形式的に列挙してあるだけのことも多い。
 単に沢を登るだけでなく書ける人なんだと思う。しかも沢歴が長い。
必ずしも新しい装備を紹介しているわけではなく、古い装備でも大切に工夫して利用する。しかも調達先は登山道具店だけではなく、ホームセンターからも見つけて紹介する。そんな所に高桑信一のやり方考え方を叩き台にして沢を楽しんでください、というメッセージが伝わってくる。
高桑信一の哲学とはプラグマティズム。哲学とは知ることを愛するという意味。本書にはそんな著者の実践的な沢の道具のプラグマティズムを読みとりたい。道具の使い方揃え方に人となり、経験の濃さが現れている。ハウツウだけなら山の雑誌の新製品紹介を参考にすればよい。
 第四章「溪から溪へ」は秀逸なエッセイを3本を置いてある。
1 「おじさんたちの夏東北の秀渓にて」は若かりし頃へのノスタルジアである。
2 「秋の浦和浪漫OB山行」は沢登りの拠点としていた山岳会へのレクイエムか。
3 「昔の溪から今の溪へ」は著者の真骨頂。
日本の伝統的な登山家としての立ち位置の表明だ。
写真が多いが、実は名うての写真家としても知られている。
著者にとって、沢登りは創造であった。フィールドワークの対象になった。そして沢登りを遡行と置き換えた。
沢登りは「より険しい未知」を求めるアルピニズムに隷属という。つまりアルピニズム以下であるということ。
 ここまで読んで見ると、高桑信一は田部重治につらなる登山家になったのだと思う。田部重治『山と渓谷』の中の「遡行の喜び」の一節にかさなるからだ。沢登りを文学にした冠松次郎、田部重治につらなる1人。
 古来、旅の記録を残して文学となった例がある。
1菅江真澄(1754~1829)は愛知県豊橋市の武士。28歳で故郷を出て、東北を旅し、菅江真澄遊覧記を残した。平凡社ライブラリーに収録されている。76歳の時、秋田県角館で没した。旅がフィールドワークになった。
2真澄遊覧記を読んだ柳田国男は農林官僚で詩人だったが、後に有名な『遠野物語』を私家版で出版。反響を呼んだ。旅から得られる見聞と知見を文に発表、柳田学と言われた。日本民俗学になった。旅は学問だと書く。
 以上の例をみても秋田県出身の高桑信一が直接間接に影響を受けていることはまちがいないだろう。『山の仕事 山の暮らし』は立派な山村民俗の一書である。遡行で訪れる山村の人々のフィールドワークである。

神楽峰へのバックカントリースキーで遭難か?2019年02月17日

 このところ毎年のようにバックカントリースキーヤ―の遭難騒ぎと遭難が報じられるようになった。ゲレンデに飽き足らないスキーヤ―は冬山登山の装備に身を固めて自然の雪山に登山し、パウダースキーを楽しもうという人々である。 
 多分スキー技術は完全、体力もあるし、装備もしっかりしているだろう。情報だって、今じゃスマホで自分の位置が分かる仕掛けがある。それじゃ何で行方不明になるのか。
 やはり豪雪のほどを舐めているとしか思えない。一晩で1m近く降る雪の怖さを知らないんだろう。思えば、友人のI君は北アの遠見尾根の1月の枝沢に粉雪を求めたが雪崩に死んだ。4月以降から捜索を続けたが、遺体が見つかったのは初夏になってからだった。沢の出合の出ブリに埋まっていたそうだ。行方不明が伝わった日も一晩で1mも降った。
 関西学院大パーティーは大長山で下山不能と伝えられたニュースに驚いたが、地元の人は大学生らに入山を引きとめていた。大学の監督はあんな1600m級の山の雪で何で下山出来ないのか、と学生らをなじった。
 ある年の年末、東京の山岳ガイドが数名のお客を連れて、飛騨の北ノ又岳を目指した。しかし、大雪で進めなくなり、かつ下山も出来なくなって救助を求めてきた。これも豪雪の山を舐めた結果である。
 他にも例はある。ほとんどは都会に住む登山者であり、登山ガイドである。日ごろぬくぬくと過ごしていて、登山技術、体力、知識、経験はあるはずだが、それでも遭難するのは一晩で1mも降る豪雪への警戒心がないからだろう。
 先月も妙高山麓にゲレンデオンリーでスキーを楽しんだ。宿のペンションのオーナーは一晩で80センチも降ったと宿周辺の除雪に大わらわであった。マイカーの屋根も3日間で1mは積もっていた。コース外滑走禁止とあちこちに警告板があったにもかかわらず、シュプールだらけだった。しかも外人が多かった。
 今、上越の神楽峰へバックカントリースキーに行った東京のパーティーが帰還できないと報じられている。やはり当日は70センチの降雪だったらしい。吹雪の中をどうして山に向うのか。
 妙高の杉の原スキー場のトップは標高1500mくらいだが、隣の三田原山ゲレンデのトップは1855mだった。リフトを降りるなり、吹雪いていた。しかも寒い。
 神楽峰のスキー場でもリフトのトップでは何とかなる視界であっただろう。進むにつれて、先行者のシュプールも無くなるし、あっても風が強くなれば消えてしまう。スマホはあくまでも位置だけの情報である。方向、雪の深さ、風の強さまでは知らせてくれない。そこは判断力しかない。