訃報 堺屋太一さん死去2019年02月11日

 報道によれば、作家の堺屋太一さんが死去された。功績はいろいろあるが、小説『団塊の世代』で余りにも有名な人だった。後講釈が多い中で、未来を先取りする内容は斬新だった。
 個人的には『組織の盛衰―何が企業の命運を決めるのか (PHP文庫) 』を愛読してきた。アマゾンのレビューでも31件と最も多いから多くの読者を獲得しているらしい。
 簡にして要を得たコメントから
「前半のケーススタディー部分は、散々学んできたはずの日本の戦国時代の話が、組織論的観点で見つめなおしてみると、全く新たな面白さがあることを教えてくれる。
 安定した組織をつくるためには、成長を徹底的に否定すること。
組織とは成長すべきものだという考えが芯からしみついていた自分には衝撃的な内容だった。
 全体として、新たな発見に満ちた良書であると思う。」

・・・経験的に振り返っても、良い会社ほど社員や取引先を安住させない。経営者が自ら自己否定している。

・・・組織がしっかりしている、組織力がある、という評価は、マイノリティーである。選挙に強いのは日本共産党、公明党であったことを考えると納得。

・・・山岳会においても、また俳句結社、俳句の団体を観察してみても、共同体組織の中で、機能体を求めると分裂、独立することが多い。インセンティブのない組織においてもそうなのだからインセンティブがある政治、経済、経営等の組織が離合集散を繰り返すのは「世の倣い」というわけである。

・・・山岳会において、公務員や元公務員らは民主的な運営を求める。しかし、そうすると山岳遭難が多発する。結果として衰退する。命の懸かる登山においては役の押し付け合い(即ち民主的)はいくら命があっても足りない。仲良しクラブでは命を守れない。
 転じて国家運営も同じ。

奥川並から湖北・神又峰(点名:大岳)を目指すが撤退2019年02月11日

         夜の余呉湖畔
 2/9夜9時、名古屋を発つ。名神で一宮ICから関ヶ原ICを経て、R365を走ると今夜の宿の予定地の余呉湖には近い。2月というのに雪のかけらも見ない。R365から左折して余呉湖畔のビジターセンターへ着く。11時半。トイレと広いPがあり、テントビバークにはもってこいだが、すでに数台は止まっているし、路面が濡れている。
 そこで別の場所を探す湖畔のドライブになった。余呉湖あじさい園は先着車があった。次はバンガロー風の廃屋があったが、大きな熊の檻に仰天して退散。賎ヶ岳ハイキングマップのトイレマークらしい所に落ち着く。照明はないがトイレがあるし、水も出る。しかも路面が乾いていた。さっさとテント設営してビバークする。往来するクルマは1台限だった。
         高時川水系の山村へ
 2/10の朝5時、夜中は強風にあおられて固定を忘れたフライが飛ばされた。時折はフレームがしなるほど強い風が吹いた。また雪が飛んできたから非常に寒い夜を過ごす。
 熱いお湯でカップ麺を胃にそそぐ。体温が少しは温まる。すばやく撤収。また周回の道を行くと、昨夜の閑散が信じられないほど公魚(ワカサギ)釣りで車も人も多かった。
 R365から上丹生に行く県道を走る。七々頭ヶ岳を仰ぎみて高時川奥へと良い道を走る。人家のある最奥の村の菅並に着く。良い道に誘われてうっかり洞寿院に入ってしまった。戻ると北海道(多分きたかいどう)トンネルがあるが???。Uターンして、神社のある寂れたような細道に入るとこれが目的地の田戸(たど)への県道であった。ところどころ通行止めの表示はあるが、横は通過できる幅があり、注意して行けよ、事故っても自己責任だぞ、とのサインか。
     雪解けの水を集めて流れる高時川中流の廃村田戸へ
 高時川は水量も豊かに蛇行しながら滔々と流れている。寡雪とはいえ、県境は相当な降雪があり、すでに雪解けが始まっているのだろう。上谷山、三国ヶ岳、左千方などの融雪を集めて雪解川となって琵琶湖に注ぐ。
 目的地の田戸へは意外に早く着いた。途中での路面の凍結や落石もなくスム―ズに走れた。ここから中河内までは走ったことがある。かつては安蔵山へ登りにも来たことがある。自分のブログをググってもヒットしないから15年前になるだろう。こんなマニアックな山に登れたのは何と言っても、1985(昭和60)年の山本武人『近江 湖北の山』のガイドがあればこそだった。
      廃村奥川並へ
 奥川並へは橋を渡り、歩くこと約2時間はあると、先行者の記録にある。山の尾根を眺めても雪は少ない。この時点で、スキー登山は断念した。奥まで行けば雪はあるが、2時間も重いスキーをかつぐのは愚かなことだ。というわけだがわかんを忘れたのでつぼ足覚悟で歩くことになった。相方は夏山用の登山靴もなく、スキー登山靴になった。
 安蔵山の南尾根を巻くように奥川並川沿いの林道を延々歩いた。林道は徐々に雪が現れた。山腹の電話線の垂れたのを見ると廃村も近いだろう。杉の林の中に各戸の墓の共同の碑を見た。廃村奥川並はすぐだった。今は石垣だけが残っている。検索すると「ブログこの道往けば」の「滋賀県道285号中河内木之本線 忘らるる村編」によれば、田戸は平成7年に、奥川並は1969(昭和44)年に離村した、と記載。
 廃村になって今は地形図にも奥川並の名前はない。段々雪深くなり、約20センチから30センチはある。0.7kmも歩くとリッカ谷と中津谷の出合に着く。ここまでで10時。
       中津谷林道を行く
 当初の計画ではリッカ谷林道を歩く予定だったが、相談で中津谷林道を上がることに変更。出合を左折。西尾根の末端を目で探ると踏み跡が登っている。しかしパス。中津谷と足ノ又の落合の蛇行する沖積平野を雪が覆って美しい。積雪がどんどん増えた。夏山用登山靴は雪で湿りはじめた。雨具のズボンを履くが靴下が濡れてきた。この辺が限界である。
 標高550m付近から積雪はどんどん増えた。ついに600m付近で林道は終点になり、谷奥には堰堤が見えた。ネットの記録には谷の奥の稜線に中尾峠があったが今は廃道。ここからヤブを分けて西尾根に合い、神又峰へ登山している。そして西尾根に踏み跡があったそうだ。その登り口は多分、大栃の辺か。或いは落合付近か。
      神又峰(大岳)は撤退
 11時を過ぎて、標高差450mの山頂往復は約4時間もかかるので撤退を決めた。足元の準備不足もある。奥川並に入ってから空が曇ったり晴れたり、雪が舞ったりする。中津谷でもリーダーが素っ頓狂な声を挙げた。ほらほら雪の結晶だ、と。六角形のあの雪印そのものを見せてくれた。標高があがると気温がグンと下がり結晶のままを見られるのだ。
      雪の結晶は六花という
 さて、リッカ谷出合に戻った。そこで昼食とした。カタカナのこの地名も六花(リッカで雪の結晶の意味)に由来するのだろう。横山岳にぶつかったマイナス30℃から50℃の寒気団が雪を降らせるのではないか。だとしたら美しい地名である。
 又しても撤退に意気消沈してしまう。延延林道を歩いて廃村田戸に戻った。この少し下流の小原で締め切って丹生ダムが予定されていたが今は中止となった。世が世なら湖底に沈むはずだった。前回来た時に家があったかどうか。もう記憶はない。
      公魚(わかさぎ)の天ぷらに舌鼓を打つ 
 再びR365に出て、余呉湖に寄った。何と昨夜ビバークを予定していたPは公魚(わかさぎ)釣りの車で満杯だった。釣り場にもひとだかりが見えた。近くの民宿「文右衛門」に入って、わかさきの天ぷらを頼んだ。これは美味かった。ヒマラヤの岩塩もよく効いた。白味噌のしじみ汁も味噌の香りが臓腑を刺激した。これで800円だった。撤退を慰めてくれた。ここはマガモ料理も食べさせてくれる。アイガモ(アヒル)か、と聞いたら内は使わない、マガモだと反論されたので本物だろう。値ははるが食べてみたい。帰路はあねがわ温泉で一と風呂浴びた。湖北は温泉施設が少ないので大繁盛していた。
 長浜市のR365を走ると、鈴鹿の霊仙山の前衛にある阿弥陀山が均整の取れた山容を見せる。見えなくなると岐阜県は近い。浅春の湖北の山旅を終えた。