渡部昇一『知的生活の方法』刊行40周年!2016年12月14日

 梅棹忠夫『知的生産の技術』は岩波新書から1969年に初版が出た。1949年生まれの私は20歳の時だから初版時に購読したはずだ。当時は工場労働者だったが知的好奇心も旺盛だったから岩波文庫や岩波新書でエンサイクロペディアをつくろうと考えて買い集めたりした。この本を参考に知的生産をしたいとカナタイプライターを購入したが全くものにならなかった。何せ知的な行動は何もなかったから入力もせずに出力などあるはずもない。青春時代は徒労に終わった。
 1976年、渡部昇一『知的生活の方法』が出た際も飛びついた。丁度27歳の頃だ。一周遅れで大学を出てさて何をするのか。と考えて二重生活で落ち込んだ体力回復のために登山を始めた。28歳で山岳会に入会して本格的にのめり込んでいった。山行を終えると、先輩から感動したことを書いておくと良いよ、と勧められてガリ版で書くことを始めた。ガリ版は20歳当時、サークル活動の会報つくりのために買ったものだ。再び埃を払って活躍することになった。山は毎週行くから書くことはある。会報も毎月発行する。とはいえ、会報係は表紙を持ってくるだけで、中身はガリ版で刷って自分で持ち込みホッチキスで綴じるだけだ。
 ガリ版はやがて10円コピーになり、ワープロになり、PCのワープロソフトに進化した。40歳くらいから登った下った雨だ雪だ、花だ、というだけでは物足らなくなって文章鍛錬も始めた。山村民俗、歴史、文学、地誌などの本を集め始めた。資料となる本代を惜しまないことにした。たちまち本が増加していった。
 『知的生活の方法』を実践するようになったのは山の本の出版が契機になった。1988(39歳)年に『一等三角点百名山』の出版。するとその後にも『名古屋からの山なみ』(1995年)、『ひと味違う名古屋からの山旅』(1994年)、『名古屋周辺山旅徹底ガイド』(1995年)など次々話が舞い込んでくるようになった。
 夏はステテコと扇風機で消夏していたが、1998年(49歳)に『新日本山岳誌』の出版事業に参画してからPC導入と同時にエアコンも買った。夏でもキーボードに向える環境作りを整えた。執筆生活=知的生活が始まったのである。7年後の2005年に上梓できた。山の雑誌からも執筆依頼が来るようになり山やの知的生活は日常になってきた。今でも所属結社の俳句雑誌の連載を続けている。
 必要な本、資料がすぐ手に取れる環境があるのは快適なものである。躊躇なく調査ができる。着手が早くなる。不足するとアマゾンや日本の古本屋をググってまるで有料図書館のような感じで注文して購入する。たまに山岳雑誌から写真の融通、原稿の依頼、新聞社からも執筆依頼が舞い込む。多少は稿料をもらうので本代の足しにはなる。何のためにこんな本を買い込んだのか我ながらバカじゃないかと思っていた本が活き活きとして活躍してくれるようになった。特に1年9ヶ月40回連載した新聞社の山の記事を続けられたのはこのような環境があったおかげである。
 渡部先生のように印税生活ができれば悠々自適の人生になるがそう甘くはない。
 正岡子規の獺祭書屋というのはビーバーの巣のことで、自分の寝床の周りに本の山が何周もできる環境を例えて言った。自分の寝床もまさにそんな光景で獺祭を実感する。
 但し、渡部先生はそんなだらしないことはしない。整然と片付いた書庫の中で生活と執筆を分離しておられる。とはいえ、私も4畳半のアパートの時は寝床と食卓の分離を理想と考えてきた。今では独立した事務所もあるから少しは、いや大いに進歩している。
 こんな生活に導いてくれたのもこの本の書恩というものだろう。渡辺先生の本は大抵は購入する。今、86歳とか。今後も健筆を期待する。
最近、「書痴の楽園」(DHCシアター)というユーチューブを見つけた。漱石、清張、シェークスピアなど30分単位だが面白くて夕方から深夜まで見て、朝また続けて見た。氏の知的源泉は読書にある。15万冊という書庫から泉のような知識をくみ取って分かりやすい歴史書や国際関係の本になるのだろう。何が出るのか書店をのぞきたい。

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