新年句帳2017年01月02日

高層のわが部屋に差す初日の出
・・・高層といっても12Fだが東の奥三河山地の上に出る曙光を拝む

  天白区 島田神社初詣
痛む膝我慢しながら初詣
・・・年来の膝痛が癒えず、だましだまし歩いている

天にまで炎があがる大焚き火
・・・どこにあったかと思う太い木を何段にも重ねて燃やす

もてなしの甘酒を飲むお元日
・・・財布を出していくらか、と問うが手を振って無料と言うのだ。何でもカネをとるご時世であるが、村社ならではのおもてなしか。

初烏天白川で沐浴す
・・・初詣の帰路、天白川沿いに歩いていたら対岸でしきりに水浴びする鳥がいた。良く見ると烏だった。数回浴びて飛び立っていった。烏の行水というが、元旦の烏は身を浄めてことに清らかに見える。

  中区 愛知県護国神社
わがことの願いのさはに初詣
・・・人生はことごとく運という。しかし、運も祈らないと運ばれない。

城の内なる境内に淑気満つ
・・・名古屋城の三の丸に建立された愛知県護国神社は戦で傷ついた人を鎮める、いわば靖国神社と同じ。

活き活きと生き甲斐を得し年賀状
・・・勤務先の経営不振でリストラされ、転職後の職場で店長になったといふ若い友人から来信。仕事で認められることが生き甲斐につながる

  映画「海賊と呼ばれた男」を観る
チケットはシニアで入る初映画
・・・シニアは1100円とお得。モデルの出光佐三は「人間尊重」を理念に掲げ、社員は家族、非上場でよい、タイムカードはいらない、定年制度はいらない、労働組合はいらない等を標榜したという。
 若いころに自伝を読んだ。アメリカ発のダイバシティには呆れて笑っちゃう。賃金の奴隷にはなるなと諭したという。ユダヤ、キリスト社会がよく見えていたんだろう。

映画観て涙を拭ふ二日かな
・・・原作の百田尚樹はネット上で、ちょっとしゃべり過ぎだが、映画は至って寡黙に進行する。NHKの「プロジェクトX」を彷彿させる内容。
https://www.youtube.com/watch?v=v2SlpjCz7uE

ポプコンの若い二人の晴れ着かな
・・・映画館はミッドランドシネマ。ポプコンを手に持つ晴れ着姿の若い2人、家族で賑わう。ポプコンの匂いが異臭に感じる。

登山技術の本質2017年01月04日

新年早々から山岳遭難のニュースがラッシュになっている。
しかも滑落が圧倒的に多い。

これはどうしたことか。
愚考するに
・ピッケルとアイゼンだけで冬山の基本装備は事足りるようになっている。
・確保のトレーニングが足りないのではないか。
・・・確保技術とは滑落停止
・・・ロープワークとしてコンテニュアス、スタカット
・基本装備はあくまで場面場面で使いこなすことが肝要である。
古い話であるが、
かつて11月後半の連休の富士山は全国から山岳会が集結し、雪上技術講習会のゲレンデと化した。
日本で一番早く積雪面が利用できるから北海道からも遠征してきた。
11月末までならば5合目まで車が通行できる。
一般は5合目にテント泊し、7合目付近で滑落停止の技術を繰り返しトレーニングした。

上級者はコンテニュアスで頂上を目指していった。
8合目付近から4人パーティが1人の滑落に引っ張られるような形で全員が滑落する事故があった。
その時、メンバーで掛け声をかけあって、全員が同じリズムでピッケルを刺すことで無事停止することができた。
今の登山者はこんなトレーニングを積んできているのだろうか。

別の登山者だが、同じ斜面で4名死亡している。滑落後、岩に激突したためだ。
その後、余りの事故の多さに山梨県警から入山禁止のお達しでトレーニングができなくなっている。
富士山の滑落事故が静岡県側に偏るのはその所為かと思われる。

山岳スキーにおいても顕著なことは道具が改良されて範囲が広がりパウダースノー指向が強まった。
・パウダーに突っ込む山スキーヤーの雪崩事故が跡を絶たない。
・降雪中、直後でも突っ込んでゆく。雪が安定するまで待てないのだろう。
・基本的な知識や常識を知らないことと、トレーニングの不足であろう。

とり年に因み奥三河・白鳥山に登る!2017年01月07日

 今年の干支は酉=とりです。そこで奥三河の白鳥山に登って来ました。メンバーは5名でしたが1名減って4名でした。
 7時過ぎ、名古屋から猿投グリーンロードを経て国道153号、稲武で県道80号に入り、面の木峠を越えると旧津具村です。幸いにも道路には雪もなくスムーズに山村に着きました。盆地ですから放射冷却が強く気温は零度以下です。田んぼは白っぽく霜の朝でした。上津具から見出を通過します。
 見出とは砂金を見出したことに由来すると古いガイド紀行を読んだことがある。古町には武田金山の廃鉱があり、選鉱の際にズリに含まれる金を見逃したのでしょう。ズリは川に流れ込み、鉱石が砕けて砂金が取り出された。下留はくだる、と読みます。白鳥山に登るには「くだる」から登ります、とジョークを飛ばす。
 登山口の白鳥神社は大島にあります。ここは花祭の里です。毎年1月2日に行われるようです。そんな看板を観て左折すると花祭の会場を過ぎて登ります。
http://www.shitara-trail.jp/festival/hanamatsuri/
 急坂を登ると行き止まりが神社でした。かなりの急な石段を登ると神社に軽く拝礼。右側に登山道の案内板があり、トイレもある。トイレの右には駐車場から来る登山道が続いています。9時40分、登山道を歩きはじめると二手に分かれます。左を行きます。植林内の急登の道です。左沢筋の山腹を攀じ登ると尾根の一端に着いた。山頂から西に伸びる尾根はここで南北に分かれている。平になった西尾根は右へ振る。しばらくは水晶の採掘跡の急な道を登る。平かになったと思うと山頂でした。断崖絶壁になっているので北面が開けています。
 山頂からの眺望は絶品でした。三角錐の雪の山が見えた。これは山容から聖岳と分かります。ほぼ北東に聳える。名古屋市中区に富士見町があり、江戸時代は富士山が見えたという話があった。現在では聖岳と断定されています。なるほど、富士山と見まがう美しい山容です。
 これさえ同定できれば後は左へ赤石岳が連なります。聖岳と赤石岳の間の顕著な山は兎岳になります。聖岳から右への連なりは上河内岳は白い他は真っ黒です。辛うじて黒法師岳の三角錐の山が同定できますがあとは分かりにくい。またとない寒日和で雪の南アルプスの山岳同定で至福の時を過ごしました。
 愛知県の最高峰の茶臼山もすぐそこに見えます。さきほど越えた天狗棚も至近距離に見えます。これだけ素晴らしい山なのに忘れられたような静寂に包まれています。山頂を去って、しばらくでまた同じような角度で聖岳を望見する断崖絶壁の一角に着きました。この山はテーブルマウンテンになっているのです。
 その後もぬたば池から奥へ進むとやはり断崖絶壁の展望台がありました。目前の山は大峠です。展望に倦むと高く伸びた桧の植林内を下り始めました。段々急な下り道が続いて、ついに山腹の九十九折れの山道を歩いています。間もなくで往きの山道に合流しました。9時40分に出発して約2時間ほどの軽いハイキングでした。
 車に戻り、面の木峠まで走ります。途中、ちらっと形の良い山が見えました。知生山です。古町高山に似ています。
 碁盤石山の山腹の九十九折れを登りきると面の木峠です。ここで昼食というわけです。北西に真っ白な山が見えるので何だろう、と井山へ車道を走りました。井山は以前の牧場から風力発電所へと変貌しました。森林はないので眺めが非常に良い。北西の山は文字通り白山でした。右には御嶽山が頭だけ見えます。黒っぽい恵那山、恩田大川入山が見えます。奥矢作の山々の眺めが欲しいままです。途中に休憩所があるのでそこで昼食にしました。
 帰路は茶臼山高原道路を名倉に下りました。地物野菜の販売所で若干の買い物をしてからまた国道153号を戻りました。本年初の登山は干支の山を楽しみました。

新年句帳22017年01月09日

   通院中の歯科医院の仕事初めは4日
四日まで待って受診や歯科医院

ストーブの灯油買い足す寒の入り

酔客で賑わふ街や新年会

人日は津具の里山歩きかな

赤石の連山なべて雪冠る

日光に耀く雪の聖岳

津具村に人影を見ず霜の朝

霜強し清浄無垢の奥山田

茅枯れて井山は風の発電所

白山は白無垢姿でありしかな

恵那山の黒々覆ふ冬木かな

名倉にてほうれん草の地物買ふ

名古屋も大雪!2017年01月14日

 今日は初雪でしかも大雪になった。と言っても窓から眺めても道路は濡れているが積もる感じはない。しかし、横殴りのいかにも風雪の気分はある。昨日のうちにスタッドレスタイヤに履き替えておいてよかったと思う。
 スキー場には待望の雪が降った。さあ、行くぞ、と思うが膝が悪いのでじっと我慢。しかし、ビタミン剤の服用で少しは軽減してきたような気がする。血行を良くすることで少しづつ治癒してゆくんだな。

 午後になって、事務所へ向かうが雪がちらちら舞うのでマイカーで行く。図書館から携帯に電話があり、富山県の図書館に又借りする本が届いたとのこと。ちょうど良かった。ついでに他の本も検索するが借りたい本は皆貸出し中だった。事務所に着いて、本屋へ行き、昨日購入した本がダブっていたので別の本と交換を希望したら了解だった。貸出し中と知ると余計に読みたくなり新刊を立ち読みする。高い本だが戻せなくなった。

 結局野暮用だけで無為の1日で終わってしまった。未だ集中力が伴わず、正月気分を払拭したいが、1/16、1/21と新年会が続く。

死んでゆくものうらやまし冬ごもり 久保田万太郎2017年01月15日

 読売新聞朝刊の安心の設計「生と死を問う」で五木寛之さんの談話を読んでいたらふと浮かんだのが掲句である。

 団塊の世代の大量死が10年後、20年後にやってくる。これを「多死社会」というそうだ。その前段階として大量の要介護老人があふれるとする。今でさえ、政府を悩ませる課題であるが、その時はいやおうなく迫ってくる。対策はないという。
 個人的には役人らの数字を操作したデータからの妄想におんぶした発想から逃れていないように感じる。多くの人が案外、健康で、活躍しつつ人生を全うすると楽観している。五木氏といえども先を見通すことなどできないだろう。人生は真坂の連続というがそれは歴史も同じことである。
 そんなことよりもこれに乗じて、
1 外国人労働者を大量に移民させること
2 外国人の一時的な在留中に日本の福祉が利用されていること
の方が心配だ。

 五木氏は2008年の新潮新書『人間の覚悟』という本を出した。あれからもう9年経過した。五木氏の類書の中ではよく読まれたらしくカスタマーレビューは『大河の一滴』の60件に続く42件もある。覚悟が随所に語られている。

 文中に紹介された近刊『玄冬の門』はアマゾンの目次をコピペすると
第1章 未曽有の時代をどう生きるか
人生後半の生き方が問われる時代
なぜ家庭用金庫が売れるのか
高齢者と若者の間の「階級闘争」
望んで「下流老人」になった人はいない
現代の「楢山送り」
犀の角のごとく独り歩め
玄冬期に入る前の心構え

第2章 「孤独死」のすすめ
子孫のために美田を残さず
「家庭内自立」のすすめ
自分の面倒は自分でみる
「再学問のすすめ」
妄想に遊ぶ楽しさ
孤独の幸せ感
隠遁は憧れの的だった
「孤独死」のすすめ
孤独の楽しみのためのレッスン
あらゆる絆を断ち切ろう

第3章 趣味としての養生
健康法が多すぎる
趣味としての養生
自分の体と対話する
癌は善意の細胞
病院に頼るのは間違いだ

第4章 私の生命観
いまは後生のことを考える人はいない
宗教なき世界にどう生きるか
不自由でもできるだけ介護されずに生きていく
「遊行期」――子供の心に還るなつかしい季節
死に方の作法
私の生命観――大河の一滴として
輪廻転生の恐ろしさ
語られた言葉が歴史に残った

第5章 玄冬の門をくぐれば
遊行期とお金の問題
過去の良い思い出を回想する
古人を友とする
高齢者こそが活躍できる分野
老後の楽しみとしての宗教
信心の楽しみ
年寄りは身綺麗に、機嫌よく
「置かれた場所で散りなさい」

 読売新聞のインタビューアーは多分この本を読んだんでしょうね。大筋で同じことを言っている。過去の類書の集大成のような内容です。
 第二章の孤独死の勧めにあるように記事の最後も単独死、孤独死が悲惨だとは思わないという。家族に看取られながら息をひきとることはもうない、と。宗教も進めている。
 面白いのは最終見出しの「置かれた場所で散りなさい」のフレーズは本日の同紙の広告に幻冬舎の渡辺和子『置かれた場所で咲きなさい』は散ると咲くの違いはあるが同じこと。この著者も宗教関係者である。

 多死社会への心の対応策として宗教の時代が来るのかな!そりゃもう急速にあの人もこの人も逝った、のかとがっくりする時代ですから心は塞ぐだろう。

 私ども団塊の世代は、青年期は経済界からがんばれ、がんばれと尻を叩かれた。中年期は忍耐、高齢期は諦観を諭されているように思う。

さて、万太郎と言えば、

湯豆腐やいのちのはてのうすあかり  万太郎

も有名な句である。苦労させた愛妻への追悼とか。

http://daisyoninn.asablo.jp/blog/2012/07/18/6515534

山で行方不明になれば野垂れ死にも覚悟の上だ。

野ざらしを心に風の入む身かな  芭蕉

新年会2017年01月21日

 1月21日はいくつもの新年会が重なるのはやむを得ない。その中で山岳会は30年近く続けてきたから最優先することになる。しかも年頭から続いた新年会もほぼ終わる。後は同窓会とか個人的なカテゴリーに関係するものはある。小正月も過ぎれば世間はそろそろ動き出すからだ。
 今年は山岳会ルームに隣接する高砂殿が解体した結果、ウイル愛知に変更された。ちょっと不便になった。16時30分過ぎに会場入りするが何となく手狭な感じがする。セミナールームだから縦型の間取りになりやむなしだ。
 高橋支部長の挨拶に始まった。支部長としては48歳とかなり若い。いやかつてはみんな若かったのだ。若い会員の入会がないので年々平均年齢が上がり、今や70歳代になった。ここからどうやってかつての勢いを取り戻すかは彼の手腕にかかっている。
 続いて毎年、外部から講師を招いての講演になった。今年はNHK山岳班指導員、関裕一氏。明治大学山岳部コーチとして活躍中とのこと。テーマは「山岳番組の舞台裏」であった。これまでの映像のさわりを挿入しながらあっと言う間に終わった。
 山岳番組は視聴率がとれるそうだ。それは以前にも同じNHKから招いた講師も言っていた。あれは田部井さんの番組だったが滅多にない再放送の要望が非常に多かったことを聞いた。根強いファンがいるのである。日本百名山をTVで放映してブームにしたのもNHKであった。最近ではデナリ(マッキンリー)からの大滑降とか、大岩壁の登攀が好評という。非日常の世界を茶の間で味わうことが好きなのだろう。
 歴史番組はドラマであれ、ドキュメントであれ、バイアスが入るから山岳を舞台にした番組はリアルで迫力に富むところが人気を呼ぶ。
 但し、単なる事実だけではだめで、最近は高性能なカメラ機材を活用したり、ドローンも使って人間の視点では得られないアングルからの映像も使われる。中々に苦労の多い舞台裏を見せてもらった。
 その後は懇親会で旧知の友人らとの話に花を咲かせた。

恵贈!安藤忠夫著 画文集『絵本 わが山の日々』~山道も下山に入って~2017年01月22日

 1/21の新年会でご当人から恵贈を受けた。著者の安藤忠夫氏は愛知県足助町の産と聞いた。愛知県立高校の教諭の職のかたわら登山を継続してきた。JACの他に日本山書の会の会員であり、東海支部きっての教養人である。現在は仕事から完全にリタイアして信州・安曇野の一角に新居を構えて夫人とともに暮らしている。
 目次を読むと23本の章立てからなり、北アルプスを主に、御嶽、中央アルプス、八ヶ岳の山名が並ぶ。もちろんガイドではなく、随想集である。そのページに自筆の彩色の絵をちりばめた。ゆえに絵本と言うのだろう。
 眺めているとふと気づいた。安藤氏のもっとも好きな奥美濃は一遍もないことだった。しかし、あとがきを読むと、そんな脂ぎった山行記からは脱して来し方を振り返る趣向なのである。そして本書は饅頭本のつもりと別記する。古来希成りを過ぎて73歳という。いよいよお迎えの声を聞いたのだろうか。
 ちょっとは中身にも触れよう。P62の百瀬慎太郎著『山を想へば』から、の項。今も私が読んでいる最中だからつまみ読みしてみた。
 実は東海岳人列伝で取り上げた「伊藤孝一」の友人という立場で第一級の資料として、読んでいる。愛知県図書館を経由して、富山県図書館所蔵の同著を借りている最中である。今は古書が安いのでアマゾンをクリックして購入するが同著は33000円もするので借りた。借りた本も鉛筆書きされた38000円の値付けが読み取れる。山岳書としても名著にして稀覯本の類に入る。こんな本を安藤氏は蔵書に加えているのである。
 槇有恒の序文を読むと、百瀬は隻眼とあった。子供の頃は辛い思いで育ったようだ。旅館業も彼が好きで継承したわけではなかったという。「この自分の職業にむしろ批判的であった彼は、打算に疎くその深い教養によってかえって広く多くの友人との交誼を得たと思う。」と書いた。その通りである。
 中でも名古屋の伊藤孝一、燕小屋の赤沼千尋とは30年にわたる水魚の交わりを得たのである。そして、登山史に残る山岳映画撮影行として針ノ木峠越え、真川から薬師岳積雪期初登頂、上ノ岳から槍ヶ岳初縦走を記録した。遺稿集に伊藤孝一もあとがきの前の追憶蘭に書く地位を得た。「山を語り得た人」である。別格の扱われ方である。
 短歌蘭には50歳の時の回想の一首があった。
 ”此の山の真冬の深雪踏みしだき心しまりし昔思ひいづ”
     (大正12年2月、立山針の木峠越え)

 病中雑吟にも佳吟がある。3人の友情の溢れた一首だ。
 ”友垣の情けうれしも菊の花菜の花などをとりそへたまふ”
 (伊藤孝一夫妻、赤沼君)
 ”北陸の旅の便りもともしかりまして和倉の塩のいで湯は”
 (伊藤孝一氏)
 ”神風の伊勢の入海舟ゆき黒鯛釣ると羨まし黒鯛”
 (名古屋伊藤孝一氏)
 曾遊回顧の中から
 ”知多の海内海の浜にみさけりし鈴鹿の山の姿はおぼろ”

 12月21日夜伊藤孝一氏への手紙書きつつ浮かび出るままに31首の中から
 ”二十年はすでに経ちにし冬山の思い出の文書かむとするも”
 ”若かりし頃のゆたけき思い出を思ひつつ寂しわが五十一”
 ”深雪を蹴立てて来る時じくも芦倉の猛者八人来る”
 ”榾の火にいつくしき面火照らせつ平蔵が酌む茶碗酒かな”
 ”板倉さんの飯盒の蓋が火にとけしとしみじみとして八郎は語る”
 ”平蔵がどっかと雪に腰下し板倉さんは此処ですといふ”
 
 昭和19年 52歳 16首
   伊藤孝一の令閨死去
 ”愁しみを胸につつみて山を下る足下にふと龍胆の花”
  
 以下の歌は師匠が旅と酒と短歌に生涯を送った若山牧水であることを思うと苦笑を禁じ得ない。
 ”酒に生き酒に傷つく我にして忘れがたかる酒の味かも”
 百瀬は昭和24年、58歳で逝った。同い年の伊藤は昭和29年に62歳で逝き、赤沼は83歳の長命を得て、昭和54年に逝った。黎明期の北アルプスを知る生き証人を失った。「山を語り得た」百瀬の死は早過ぎた気がする。
 ”喘ぎつつ登り来たりてわが齢老けしを思ひ心寂しむ”
 50歳代にしてこんなに弱っていたのか。年は違えどだれにもこんな歌境になる時期が来る。

 安藤氏の住居は針ノ木峠にも近い。百瀬慎太郎に想いを寄せつつ、コマクサの花をめでる。そして、蓮華岳とはコマクサの群落に由来するのではないかと夢想する。コマクサの色はなるほどレンゲソウの赤紫の濃い色に似ている。それもあり得る。私は前田普羅の名句”霜強し蓮華とひらく八ヶ岳”のように寒い朝、眺めた山容に蓮華を見たのではないか。神々しさを想像する。新潟からの白馬岳は大蓮華山と呼ばれたごとしである。またそんな話をしに行きたいと思う。

恵贈!『山その大いなる旅Ⅱ』同志社大学山岳部・山岳会2017年01月22日

 1/21の新年会で和田豊司元支部長から恵贈を受けた。A4サイズ、244ページの立派な製本である。
 同志社大学山岳部の前身のスキー部が1925(大正14)年に創設されて、2015年で90周年を迎えたことから編纂された記念誌である。旧制大学発足は1920(大正9)年だから山岳部はその5年後に創部された。
 日本の近代史とともに歩んだ歴史のある大学と理解する。2011年に創立者の新島襄の妻の八重を主人公にした舞台劇は観たことがある。少しは同志社の歴史をかじったのである。
 また私の所属する山岳会にも同志社大学法学部OBで名古屋高裁に勤める会員がいた。女性でも転勤させるから優秀な官吏だったのだろう。
 私のようなものにも恵贈されたのは目次を一覧して東海支部に縁のある登山隊との関係だったと理解した。クビ・ツアンポ源流域学術登山隊の報告をメインに編纂されている。私にはヒマラヤの遠征経験もなく、少しでも理解をしようと、岩波文庫『ツアンポー峡谷の謎』という本を読んだことも思い出した。読んだだけではだめで、この本と合わせて読めばヒマラヤの秘境を知ることができるだろう。
 2007年のクビ・ツアンポ源流域学術登山隊では和田豊司氏が隊長となって率いた。隊員の千田敦司氏も支部員であった。このイベントがP26~P107まで三分の一強を占める。次は2010年の同志社大学ネパール登山隊、2015年の同志社大学極西ネパール登山隊(仙田裕樹隊長)がP183まで続く。
 以後、国内活動の報告があり、P229のブロッケンの章に2006年ローツェ南壁冬季登山隊(尾上昇総隊長、田辺治隊長)の思い出を千田敦司氏(副隊長)が4ページにわたって綴る。これは東海支部にとっても3回もアタックし続けた壮絶な登山隊だった。こんな難しい登山を遂げても山は非情なもので、田辺治氏は今もダウラギリの雪の下で永遠の眠りについている。千田氏には忘れ得ぬ登攀だったであろう。
 ともあれ、若い人にとって人生は忙しい。あっと言う間に年をとる。体力と技術、信頼の置ける隊員を得て、かつ暇とカネを工面してこのようなイベントに参加して、一書を綴れたら幸運というものである。

句会初めに想うことども2017年01月30日

 1/29は今年最初の句会だった。参加者は4人中2人になった。1人は俳句が作れないと嘆き、1人は限界を感じたのか。ちょっと寂しい新年句会になった。女性3人は皆80歳を越えた。7年前に発足したときは70歳代でも元気な感じだったが、ここへ出席するだけも大変らしい。
 しかし、俳句は80歳を越えてからだろうに。皆さん夫を亡くした。本来は孤独な身辺であるが俳句の趣味があるから赤の他人ともつながるし、575と考える時間がある間は孤独感はない。
 たとえ2人になっても続けられるうちは続けたいと思う。これまでの7年もよく続いたものである。その秘訣は
・結社は主宰が絶対の存在である。”蝿叩き一誌持たねば仰がれず”の世界である。主宰たるもの雑誌を発行する、句集を何冊も出す、文芸評論が書けることが条件になる。事実、人気俳人の多くはこの条件にに適う。だから結社に及ばずながら俳話会とした。
・俳句教室は講師が一方的に薀蓄をたれ流す。受講生を下に置くやりかたではなく双方向で句講を進めることであろう。
要するに少人数で深い話をしたのである。
 この方法もここにきて頓挫した感がある。欠席の1人が夏井いつきのような講話を要望したからだ。結局6年以上やってきて何も理解していないのだった。
 プレパトは大人気の番組だが、あれは夏井さんもプロであるし、酷評される側もギャラをもらうからプロである。視聴者を面白がらせる役目である。視聴率をアップして、スポンサーを喜ばす電波芸者の役目である。
 俳句の俳は人に非ずと書く。もともとは芸能人のような被差別の卑賤な意味があったようだ。俳優は優れて人を面白がらせる職業というわけだ。今はタレントであるが戦前は川原乞食であった。決して名誉な仕事ではなかった。
 俳人も同じことだったが、芭蕉が出てきて、言葉遊びだった俳諧で人生を詠むことから俳聖とまで仰がれた。芭蕉の背景には支那の古典がある。杜甫や李白の漢詩である。杜甫は詩聖といわれた。夏目漱石の俳句が高く評価されるのは漢詩に熱心だったからといわれる。
 今はそこまで高邁な教養を高める人はほとんどいない。そこまで指導したところで同じように学ぶことは無理だ。明治時代は新聞に漢詩選があったが大正6年頃に無くなった。人々の日常から漢文は失われたのである。
 俳句は結局江戸時代の町人大衆のレベルまで下がってしまうのだろう。現代俳句は「駄句の山」と評した主宰がいた。俳句全体が女性化してしまった。人生を詠めとか指導する余り感情のみ優先されてしまうからだろう。句会ではなるだけ自然詠を採るようにしている。視野の広がりを期待する。自然を詠んでも人生をにじませることはできるからだ。