秋葉街道踏査の計画 ― 2023年11月10日
11/18~11/19の秋葉街道の踏査の計画がまとまった。東京の古道調査PTら7名と私で8名(男4名、女4名)の久々の大人数になった。浜名湖の北で落ち合い、青崩峠を越えて遠山谷で一泊。翌日は和田から小川路峠を越えて飯田市へ出る。
小川路峠は過去に数回は行った。
①思い出深いのは飯田市と遠山谷の合同で峠まで登ってジンギスカンの焼肉を食わせてもらったこと。
②今は亡きU先生と小川温泉1泊で往復した。この時に松濤明『風雪のビバーク』の春の遠山入りに出てくる街道と知った。
③ある時は『岳人』の”本を片手に”という特集でこの本と街道を取り上げた。取材で登山した。
④また、『ひと味違う名古屋からの山旅』三十三山の1つで曽山1601mを取り上げて登った。
⑤ある時は小川路峠の南のピークである金森山1703mに登るために登山したこともある。
途中にある木地師の墓が何とも哀れな気がしたものだった。供花一つなき小さな墓は供養する人もないまま時代の推移を見守ってきた。33観音は馬を引いて登る人、秋葉信仰の人への慰みになった。また登山者の安全を見守った。松濤明は登りに、深田久弥は下りに利用した。松濤明の頃はまだ宿があった。しかし、お客が少なくなったと嘆く宿のオーナーの言葉もあはれである。
青崩峠は豊橋市に住んでいた頃に1回だけ行った。飯田線を利用したからフルに一日かかった。久々に地質学的に特異な地域の山へ行ける。楽しみなことである。
小川路峠は過去に数回は行った。
①思い出深いのは飯田市と遠山谷の合同で峠まで登ってジンギスカンの焼肉を食わせてもらったこと。
②今は亡きU先生と小川温泉1泊で往復した。この時に松濤明『風雪のビバーク』の春の遠山入りに出てくる街道と知った。
③ある時は『岳人』の”本を片手に”という特集でこの本と街道を取り上げた。取材で登山した。
④また、『ひと味違う名古屋からの山旅』三十三山の1つで曽山1601mを取り上げて登った。
⑤ある時は小川路峠の南のピークである金森山1703mに登るために登山したこともある。
途中にある木地師の墓が何とも哀れな気がしたものだった。供花一つなき小さな墓は供養する人もないまま時代の推移を見守ってきた。33観音は馬を引いて登る人、秋葉信仰の人への慰みになった。また登山者の安全を見守った。松濤明は登りに、深田久弥は下りに利用した。松濤明の頃はまだ宿があった。しかし、お客が少なくなったと嘆く宿のオーナーの言葉もあはれである。
青崩峠は豊橋市に住んでいた頃に1回だけ行った。飯田線を利用したからフルに一日かかった。久々に地質学的に特異な地域の山へ行ける。楽しみなことである。
三階峰と紅葉ドライブ ― 2023年10月29日
R153の寒原峠を左折、恩田から林道弓丿又線に右折すると頂上直下まで舗装された一本道である。軽く乗り越すと少し広めの道幅にクルマを停める。
山頂への尾根には笹ヤブがかぶさるがわずかに切り開きがある。強引に笹を引っ張りながら登るとあっという間に山頂に着いた。6分。テレビのアンテナが立っているが意味不明。ヤブでさえぎられて展望はない。林道と平行する尾根にかすかな踏み跡があるので下って見た。林道との段差が縮まった辺りで林道に下る。マイカーに戻る。周回13分。散歩にもならないが2ヵ月のブランクの身にはにはこれで良い。
せっかくなので紅葉を楽しむ林道ドライブにした。林道名が弓ノ又線という。弓ノ又川は恩田大川入山が源流で園原川の支流に当たる。新しく舗装されているので地形図にはないが園原方面につながっている見たい。12時前後は太陽が上にあり、ちょうど日光が当たり照り紅葉が素晴らしかった。
いつもと違う山が見える。最初は大川入山だろうと思った。大川入山は南西に右へ1900m前後の山なみのはずだ。北西に見えるし左右に均整がとれた山容は恵那山である。
平谷村から根羽村は明るくなった気がする。多分全山カラマツ林でわずかに黄ばんできたからです。大川入山は全山黄葉に見えた。標高1400m前後が紅葉の真っ最中です。
足助は来週以降ライトアップが始まる予定です。今日は天気が良かったせいか、車が多く、帰りは4時過ぎでもトンネル内から渋滞していました。
山頂への尾根には笹ヤブがかぶさるがわずかに切り開きがある。強引に笹を引っ張りながら登るとあっという間に山頂に着いた。6分。テレビのアンテナが立っているが意味不明。ヤブでさえぎられて展望はない。林道と平行する尾根にかすかな踏み跡があるので下って見た。林道との段差が縮まった辺りで林道に下る。マイカーに戻る。周回13分。散歩にもならないが2ヵ月のブランクの身にはにはこれで良い。
せっかくなので紅葉を楽しむ林道ドライブにした。林道名が弓ノ又線という。弓ノ又川は恩田大川入山が源流で園原川の支流に当たる。新しく舗装されているので地形図にはないが園原方面につながっている見たい。12時前後は太陽が上にあり、ちょうど日光が当たり照り紅葉が素晴らしかった。
いつもと違う山が見える。最初は大川入山だろうと思った。大川入山は南西に右へ1900m前後の山なみのはずだ。北西に見えるし左右に均整がとれた山容は恵那山である。
平谷村から根羽村は明るくなった気がする。多分全山カラマツ林でわずかに黄ばんできたからです。大川入山は全山黄葉に見えた。標高1400m前後が紅葉の真っ最中です。
足助は来週以降ライトアップが始まる予定です。今日は天気が良かったせいか、車が多く、帰りは4時過ぎでもトンネル内から渋滞していました。
図書館の地形図 ― 2023年08月22日
五万図「根羽」の地形図 ― 2023年08月21日
国地院に問い合わせていた大正時代の五万図「根羽」を閲覧できないかの回答があった。国地院のしかる窓口に申請すれば入手できると分かった。但し1枚2200円と結構する。どこかの図書館にないか、調べてなければ購入してみたい。
飯田街道の歴史と文化考 ― 2023年08月19日
南北朝の時代には御醍醐天皇の皇子である宗長親王が浜松の井伊宮、大鹿村の信濃宮を拠点にした。その皇子の尹良親王(ゆきよし)は稲武に拠点を設けて三河宮とした。親王と家来が、伊那谷と三河の稲武、豊根村などを往来したであろう。そして浪合の地で襲われて自害。地形図にも印刷された立派な墳墓がある。戦記『浪合記』が残されている。大和政権がなぜ東国の南信州にまで進出したのか。大和政権は朝鮮半島からの襲来に備えて、防人の傭兵、年貢を納めさせて支配下にしたかったのではないか。東国で平和裏に暮らす山民にとっては迷惑な話で故に権力者への抵抗として襲ったのであろう。
戦国時代には武田信玄が京都を目指して峠を越えた。蛇峠山には狼煙場を設けた。関所も作った。金山を求めて三河にも進出。杣路峠の近くに愛知県と長野県の県境があるが、尾根や沢ではなく、山腹にある。稲武の郷土史家によると根羽村は足助庄だったという。信玄に押されて信州になったという。金山だった設楽町の出来山の足助側には信玄沢の名が残る。近世末期には日本民俗学の草分けとなる『真澄遊覧記』を著す菅江真澄も峠を越えて故郷の豊橋市には帰ることもなく秋田県で死没。角館市には顕彰碑が建つ。塩の道の交易ルートになるのはその頃からであろう。
3年位前に「山と溪谷」誌が山で食う団子の特集に協力した。愛知県の山なら当然五平餅になる。調べると飯田街道沿線は小判型、恵那地方は団子を串に刺すタイプだった。飯田市でも食える。一番遠方は四阿山の麓にある鳥居峠直下の売店でも五平餅を売っていた。ここは古東山道でもある。塩はたれになる味噌の発酵に欠かせない。
サラリーマンのサラリーとは塩の事です。塩は身を養う栄養素のみならず、給料にもなった。俳人で東大の先生だった中村草田男は、学徒出陣する教え子に”勇気こそ地の塩なれや梅真白”と詠んだ。地味で目だたないが大切な働きを意味した。聖書に出てくる言葉でキリスト教徒らしい句です。
戦国時代には武田信玄が京都を目指して峠を越えた。蛇峠山には狼煙場を設けた。関所も作った。金山を求めて三河にも進出。杣路峠の近くに愛知県と長野県の県境があるが、尾根や沢ではなく、山腹にある。稲武の郷土史家によると根羽村は足助庄だったという。信玄に押されて信州になったという。金山だった設楽町の出来山の足助側には信玄沢の名が残る。近世末期には日本民俗学の草分けとなる『真澄遊覧記』を著す菅江真澄も峠を越えて故郷の豊橋市には帰ることもなく秋田県で死没。角館市には顕彰碑が建つ。塩の道の交易ルートになるのはその頃からであろう。
3年位前に「山と溪谷」誌が山で食う団子の特集に協力した。愛知県の山なら当然五平餅になる。調べると飯田街道沿線は小判型、恵那地方は団子を串に刺すタイプだった。飯田市でも食える。一番遠方は四阿山の麓にある鳥居峠直下の売店でも五平餅を売っていた。ここは古東山道でもある。塩はたれになる味噌の発酵に欠かせない。
サラリーマンのサラリーとは塩の事です。塩は身を養う栄養素のみならず、給料にもなった。俳人で東大の先生だった中村草田男は、学徒出陣する教え子に”勇気こそ地の塩なれや梅真白”と詠んだ。地味で目だたないが大切な働きを意味した。聖書に出てくる言葉でキリスト教徒らしい句です。
治部坂峠踏査 ― 2023年08月18日
性懲りもなくまた治部坂峠を調査に行った。R153を走っていたら5時半、東郷町の交差点で反対車線で大事故があった。信号の柱はこっちがわに倒れ、エンジンルームは大破、ドライバーはタンカに乗せられた。どうなったやら。
稲武まで快調、気温は23℃。以後も快適ドライブ。今日は治部坂峠のPから馬の背に登ったが微風快晴で50分の高原ハイク。さて下りは地形とGPSを見ながら平谷村と阿智村の境を探った。結果期待した成果無し。阿智村役場の図書館で資料に当たった。浪合村史によると治部坂峠は国道工事で13メートルも深く削られた。と分かった。
万事休す、往時への郷愁はゼロ。調査完了。
結果、平谷村の「中の土山」は清水沢と栄太沢の間にある別荘地から南下の地蔵二体の付近と断定した。峠から1kmと平谷村村誌の説明通り。恐らく林道の整備、拡幅で地形変更があった。その工事で消失したと思われる。
『平谷村誌』の記述にも峠から1kmの場所が「中の土山」と指摘している。縮尺して定規で計測すると峠からぴったり1kmの位置にあるから間違いない。したがって『平谷村誌』には2ヶ所のミスがあった。峠川を清水沢とルビを振っている。別の絵図では別の位置に「中ノ山土」とあった。
また場所は栄太沢の右岸側の台地とする点も間違っていた。只、未確認のままだが、「中の土山」の地蔵に続く塩の道はおそらく直下の林道工事で消失したと想像する。林道を歩いて見ると必要以上に広くなっているし、斜面が高いところまで削られている。もう一つは地蔵からV字形の清水沢をどう迂回したのか不明のままである。
稲武まで快調、気温は23℃。以後も快適ドライブ。今日は治部坂峠のPから馬の背に登ったが微風快晴で50分の高原ハイク。さて下りは地形とGPSを見ながら平谷村と阿智村の境を探った。結果期待した成果無し。阿智村役場の図書館で資料に当たった。浪合村史によると治部坂峠は国道工事で13メートルも深く削られた。と分かった。
万事休す、往時への郷愁はゼロ。調査完了。
結果、平谷村の「中の土山」は清水沢と栄太沢の間にある別荘地から南下の地蔵二体の付近と断定した。峠から1kmと平谷村村誌の説明通り。恐らく林道の整備、拡幅で地形変更があった。その工事で消失したと思われる。
『平谷村誌』の記述にも峠から1kmの場所が「中の土山」と指摘している。縮尺して定規で計測すると峠からぴったり1kmの位置にあるから間違いない。したがって『平谷村誌』には2ヶ所のミスがあった。峠川を清水沢とルビを振っている。別の絵図では別の位置に「中ノ山土」とあった。
また場所は栄太沢の右岸側の台地とする点も間違っていた。只、未確認のままだが、「中の土山」の地蔵に続く塩の道はおそらく直下の林道工事で消失したと想像する。林道を歩いて見ると必要以上に広くなっているし、斜面が高いところまで削られている。もう一つは地蔵からV字形の清水沢をどう迂回したのか不明のままである。
平谷村へ古道探し ― 2023年07月28日
これで平谷村詣でも何回目になるのか。今日は靭から林道を歩き、栄太沢から送電鉄塔巡視路をたどって見た。急な階段をよじ登るとしばらくは痩せ尾根を歩く。左右ともすぱっと切れている。ほどな」平らな台地の一角に着いて笹の中の巡視路をたどった。すぐに地蔵が一体のみ建っていた。紛れもなく塩の道の痕跡である。地蔵から少し登ると高圧鉄塔が建っている。更に進むと別荘地との接点に着いて引き返した。地蔵付近をよく見ると左側に上に登ってゆく広めの踏み跡があった。先の方は笹の海に埋まるので行く気がしない。そのままやせ尾根を戻るが途中で左の林道へ獣道があり強引に下りた。林道を戻りながら取り付きがないか見ながら車に戻った。旧国道を少し入ると沢をまたぐ橋が架かる。沢の右岸側が塩の道の幅があるかに思える。旧道を横切って車道へうっすらと続く。車道側には一台分の駐車地に見えたが塩の道の痕跡かも知れない。
今日は平日なので平谷村役場を訪ねた。先日電話でやりとりした職員と面接することができた。7/22の栄太沢と峠川の周回の話、別荘地から左折して清水沢を渡り、尾根を探ったら塩の道の痕跡があった話をした。
彼もあの地蔵の存在は周知していたが他は進んでいない。R153に現在塩の道の看板を立てる計画だそうだ。村誌に書いてある「中の土山」の存在が気になる。
いったん役場を出て浪合支所に行き、塩の道の資料を閲覧させてもらった。特にこれはという精緻なものは無かった。村人からも忘れられた古道である。しかし、そうではあるが、阿智村、平谷村、根羽村であのような案内板を建てているのは古道ブームが背景にあるのだろう。
浪合支所を出てまた治部坂峠の蕎麦屋で天そばを食べた。食後、阿智村側の峠付近を探ったが何もない。平谷村の1163m付近を過ぎて栄太沢へ下り下降して見た。両岸とも切り立っているので左右につながる古道は見いだせなかった。上に送電線が見えるところで引き返した。
左岸の斜面の緩やかなところからあの地蔵のあった一角の平な笹原を探った。ここは植林もなく何にするんだろうか。ひょっとして太陽光発電のパネルでも置くのだろうか。笹の海の中にはボサがあるのみである。沢に戻る際少し上に植林と笹の境目を見ると道の痕跡が見えた。幅は狭いがよく踏まれているので辿って見たら右のコブに回り込むように登って消えてしまった。
消えた場所は別荘地の尾根と沢の中間に位置するので尾根に登って見た。尾根の1130mのコブには何もない。踏み跡は消えたが、想像すると塩の道ならこのコブの北の1120mの鞍部から等高線に沿うように清水沢を横断するラインを描いた。峠川の西尾根の1120m付近まで来て峠に登ってゆくのではないか。
残るは地蔵と中の土山を結ぶラインが想像もつかない。再び栄太沢の左又に入って見るか、中々に手強い古道である。
今日は平日なので平谷村役場を訪ねた。先日電話でやりとりした職員と面接することができた。7/22の栄太沢と峠川の周回の話、別荘地から左折して清水沢を渡り、尾根を探ったら塩の道の痕跡があった話をした。
彼もあの地蔵の存在は周知していたが他は進んでいない。R153に現在塩の道の看板を立てる計画だそうだ。村誌に書いてある「中の土山」の存在が気になる。
いったん役場を出て浪合支所に行き、塩の道の資料を閲覧させてもらった。特にこれはという精緻なものは無かった。村人からも忘れられた古道である。しかし、そうではあるが、阿智村、平谷村、根羽村であのような案内板を建てているのは古道ブームが背景にあるのだろう。
浪合支所を出てまた治部坂峠の蕎麦屋で天そばを食べた。食後、阿智村側の峠付近を探ったが何もない。平谷村の1163m付近を過ぎて栄太沢へ下り下降して見た。両岸とも切り立っているので左右につながる古道は見いだせなかった。上に送電線が見えるところで引き返した。
左岸の斜面の緩やかなところからあの地蔵のあった一角の平な笹原を探った。ここは植林もなく何にするんだろうか。ひょっとして太陽光発電のパネルでも置くのだろうか。笹の海の中にはボサがあるのみである。沢に戻る際少し上に植林と笹の境目を見ると道の痕跡が見えた。幅は狭いがよく踏まれているので辿って見たら右のコブに回り込むように登って消えてしまった。
消えた場所は別荘地の尾根と沢の中間に位置するので尾根に登って見た。尾根の1130mのコブには何もない。踏み跡は消えたが、想像すると塩の道ならこのコブの北の1120mの鞍部から等高線に沿うように清水沢を横断するラインを描いた。峠川の西尾根の1120m付近まで来て峠に登ってゆくのではないか。
残るは地蔵と中の土山を結ぶラインが想像もつかない。再び栄太沢の左又に入って見るか、中々に手強い古道である。
熊鈴を注文 ― 2023年07月27日
予備に熊鈴を注文した。塩の道の古道は山里に隣り合うことが多いが、平谷村最奥の靭の奥は人家もなく、熊の生息域と思われる。ので常に熊鈴を鳴らしながら歩く。紛失しやすいのでもう一個持つことにした。
柳川源流域の塩の道を探る ― 2023年07月22日
朝6時過ぎに出発。吉野家で朝定を食べてR153で平谷村に向かった。平谷村最奥の靭に向かう。足元にはウツボグサも生えている。だから靭の地名になったのだろうか。靭は矢を入れる細長い筒をいうらしい。地形的には柳川本流に峠川とフロヤ沢が合流する地点でもある。
峠川は横岳と治部坂峠の山稜の南側の水と峠と馬の背の西側の水を集めている。集水面積はそんなに広くはない。
林道と旧道の分岐点にマイカーを止めて気になっていた林道を歩く。ゲートは1070m地点にあり峠川と並行して歩く。途中で地形図にない車道が右へ別れた。終点には橋を渡った先に建物があった。林道から降りて橋を渡って行って見たが利用されている気配はない。別荘のようにも思える。これだけ川に近いと洪水の恐れがある。
林道の終点まで歩いたが塩の道につながる痕跡は無かったので戻った。山側はえぐられた斜面が続くが沢が来ているところで入って見た。明瞭な踏み跡とモトクロスバイクのタイヤ痕があった。何か知らないがSOとかのマークの札も立っている。バイクの連中が遊んでいるのだろうか。沢は平流で水位も低く登山靴でも歩ける。途中で右に急階段の歩道があった。送電巡視路だろう。
相変わらず平易な沢歩きになった。夏は暑熱から逃れるにはこれが一番である。たとえじゃぶじゃぶできなくても涼しい。結局左右に塩の道が横断するとの期待は外れて源流域まで来たら植林帯へきれいな踏み跡が続いていたので沢から上がった。登りつくと工事現場ですぐにR153だった。7/8に目星を着けた栄太橋を確認した。つまり登ってきた沢は栄太沢だった。これで平谷村誌の地図にあった沢の1つは確認できた。
次は峠川になる。平谷村誌の地図は峠川が清水沢になっている。文の紹介は峠川に沿って塩の道があるとの記述を頼りにまた歩いて見た。トンネルの出口付近に峠川が流れている。ちょっとした台地に上がって見た。道に見える平地があるが下部は笹のヤブで分からない。やみくもには歩けない。峠川の流れまで下って歩いて見た。左岸右岸に沖積した陸地はあるが道の痕跡ではない。途中に巡視路の道が左右に上がってゆく。少し登ったが狭く巡視路の域を出ないのでまた川をどんどん下った。清水沢の出合いを通過、林道の橋で川から上がった。何も痕跡を見いだせなかった。マイカーに戻った。4km、2時間半の沢歩きで終わった。
ちょうど昼になったので治部坂峠の大川入山の登山口の蕎麦屋に入って休憩。美味しい蕎麦を賞味したらまた再開する意欲が湧いた。先週に一度行った別荘地の車道を下り、巡視路を峠川に向かって歩いて見た。清水沢に面したのり面が崩れているからとても塩の道には見えない。清水沢の掘れこんだ渓相をどのようにして往来したものか。とにかく危うい橋を渡ってみた。すると少しは幅が広い。是ならと思うがその先でまた細くなり峠川が少し上がりかけた道になった。
諦めて戻る前に平谷村誌の記述を思った。清水沢の橋の手前に痩せ尾根があり踏み跡が続いていたので登って見た。少しばかり歩くと幻の塩の道の跡が現れた。全体は植林だがそこだけは植林していない。その道を下って見たらさっき引き返した地点に着いた。ここでヤマップをスイッチオンして軌跡を残すことにした。巡視路から左へカーブしまた右回りにカーブしてあとは地形通りに緩やかに登って行った。比高70mほどである。後半は笹薮が覆って歩きにくかったが、前回ここじゃないか、と推理した場所だった。上からでは分からなかったのだ。これで目的の一部は達成できた。
後は石仏が2体あるという中の土山である。別荘地の巡視路から右に振ればまた栄太沢に出合う。推測では1100mの等高線をなぞるようにゆっくり高度を下げてゆくのではないか。
峠川は横岳と治部坂峠の山稜の南側の水と峠と馬の背の西側の水を集めている。集水面積はそんなに広くはない。
林道と旧道の分岐点にマイカーを止めて気になっていた林道を歩く。ゲートは1070m地点にあり峠川と並行して歩く。途中で地形図にない車道が右へ別れた。終点には橋を渡った先に建物があった。林道から降りて橋を渡って行って見たが利用されている気配はない。別荘のようにも思える。これだけ川に近いと洪水の恐れがある。
林道の終点まで歩いたが塩の道につながる痕跡は無かったので戻った。山側はえぐられた斜面が続くが沢が来ているところで入って見た。明瞭な踏み跡とモトクロスバイクのタイヤ痕があった。何か知らないがSOとかのマークの札も立っている。バイクの連中が遊んでいるのだろうか。沢は平流で水位も低く登山靴でも歩ける。途中で右に急階段の歩道があった。送電巡視路だろう。
相変わらず平易な沢歩きになった。夏は暑熱から逃れるにはこれが一番である。たとえじゃぶじゃぶできなくても涼しい。結局左右に塩の道が横断するとの期待は外れて源流域まで来たら植林帯へきれいな踏み跡が続いていたので沢から上がった。登りつくと工事現場ですぐにR153だった。7/8に目星を着けた栄太橋を確認した。つまり登ってきた沢は栄太沢だった。これで平谷村誌の地図にあった沢の1つは確認できた。
次は峠川になる。平谷村誌の地図は峠川が清水沢になっている。文の紹介は峠川に沿って塩の道があるとの記述を頼りにまた歩いて見た。トンネルの出口付近に峠川が流れている。ちょっとした台地に上がって見た。道に見える平地があるが下部は笹のヤブで分からない。やみくもには歩けない。峠川の流れまで下って歩いて見た。左岸右岸に沖積した陸地はあるが道の痕跡ではない。途中に巡視路の道が左右に上がってゆく。少し登ったが狭く巡視路の域を出ないのでまた川をどんどん下った。清水沢の出合いを通過、林道の橋で川から上がった。何も痕跡を見いだせなかった。マイカーに戻った。4km、2時間半の沢歩きで終わった。
ちょうど昼になったので治部坂峠の大川入山の登山口の蕎麦屋に入って休憩。美味しい蕎麦を賞味したらまた再開する意欲が湧いた。先週に一度行った別荘地の車道を下り、巡視路を峠川に向かって歩いて見た。清水沢に面したのり面が崩れているからとても塩の道には見えない。清水沢の掘れこんだ渓相をどのようにして往来したものか。とにかく危うい橋を渡ってみた。すると少しは幅が広い。是ならと思うがその先でまた細くなり峠川が少し上がりかけた道になった。
諦めて戻る前に平谷村誌の記述を思った。清水沢の橋の手前に痩せ尾根があり踏み跡が続いていたので登って見た。少しばかり歩くと幻の塩の道の跡が現れた。全体は植林だがそこだけは植林していない。その道を下って見たらさっき引き返した地点に着いた。ここでヤマップをスイッチオンして軌跡を残すことにした。巡視路から左へカーブしまた右回りにカーブしてあとは地形通りに緩やかに登って行った。比高70mほどである。後半は笹薮が覆って歩きにくかったが、前回ここじゃないか、と推理した場所だった。上からでは分からなかったのだ。これで目的の一部は達成できた。
後は石仏が2体あるという中の土山である。別荘地の巡視路から右に振ればまた栄太沢に出合う。推測では1100mの等高線をなぞるようにゆっくり高度を下げてゆくのではないか。
三信塩の道調査行 ― 2023年07月16日
昨日は夜8時に治部坂峠に着いて新しいテントを張ってみた。テント自体は快適だったがいかんせん国道沿いのPでは往来が結構あってうるさい。おまけに大川入山の登山口でもあって未明から到着した登山者のクルマが多かった。こちらもぐっすりとは眠れなかったのである。
5時に起きて朝ごはん用の弁当を食べてテントを片付けて出発。治部坂峠登山口に自転車をデポする予定だったが、黒雲にすっぽり覆われた山にモチベーションが萎えるので取りやめた。古道調査に切り替えた。とりあえず、アララギスキー場跡でも行って見るかとなった。
まず下り坂のカーブの橋の手前で林道のような草の道が目に付いた。車を停めて見てみると正しく中馬街道の跡であった。奥まで歩くと阿智村の石碑」「史跡 中馬街道」も建っていた。是が第一の発見だった。帰りがけに入り口を探したが何も目印はない。
次は深沢の関所跡の破線路と国道との接点を探した。すると2軒の家に挟まれた空き地の奥にやはり「史跡 中馬街道」が建っていた。車で流すだけだと見落とす。階段を下ると橋が架かっていて関所跡に続く道があった。途中で引き返した。
浪合トンネルをくぐってその先は何も発見はない。寒原峠を左折、恩田川に沿ってしばらくでスキー場に左折。スキー場跡に着いたがかつての駐車場は3箇所あるが物置に再利用、センターハウスの駐車場に入る手前でチエーンがあっては入れなかった。右に林道があるので徒歩で入って見た。登山口まで約400m位なので歩いても良かったが、これだけ閑散とした様子に登山道も荒れているだろう、笹が伸びているだろうと思うとモチベ―ションは上がらず、引き返す。
とりあえず、中野まで下って大野まで戻る。草刈りの村民に塩の道の情報を聴く。地形図の実線の道まで下って右折。民家を抜けると林道のような地道になった。民家の傍に車を置いて歩いたら早速路傍の石仏が安置されていてここが塩の道と確認できた。更に奥に行くと大沢川と同じ高さになった。地形図通り終点になった。作業小屋が建っている。地図にない木の橋が右岸渡れるように掛かっているが中馬街道かどうかは不明。洪水で消失したものか。
帰りに899m地点を探ると簡易舗装の道が下っている。下に下ると傍にはミツバチの飼育箱が捨ててある。蜂が飛び回っていたのですぐに退散した。想像では左岸に塩の道があったが二岐の下流の堰堤工事で埋まった可能性が高い。
日の入峠への道を右に見送り、大沢川沿いの塩の道を行くと大沢集落に着いてすぐに石仏群があった。すぐ下には塩の道の案内板も建っている。中央道の高架橋をくぐって左岸のR153に合流。しかしこの時、阿智川の橋の手前で右折して曽山を走るべきだった。中央道と並行する長い実線が気になる。阿智村役場に着いてUターン。途中では899m地点をチエック。
R153を治部坂峠まで戻った後平谷村の気になっていた1163mをチエック。徒歩で別荘地を下ってみた。両側に別荘が建っていてほぼ直線の車道が下っている。行きついた際には何と高圧電線の保守路が下からあがってきている。その先へも刈払いが続くが馬の通る道ではない。引き返して峠付近を見てみる。平坦地は一部あるが道らしい連続性がない。
そこで『平谷村誌』のP347に示された地図を地形図に落とす。1163mの3の部分の沢は峠川とある。治部坂峠への旧道につながる沢は清水沢とある。もう一つ西に栄太沢がある。清水沢と栄太沢に挟まれた緩斜面とはいえ、結構急な別荘地になっている。村誌の記述を読み直すと「まず治部坂峠を南へ越して清水という地籍へ出る。ここから峠川と呼ばれる小川が南へ流れ、この川に沿って中馬街道がある。小下りに曲折した道が峠川の西沿いに現在もところどころ残っている。
約1k下るとやや平坦な南面した原野がある。ここが「中の土山」で江戸時代から明治六年までは、旅籠とお茶屋のあった所で、この旅籠のことは伊賀良村誌にも記されている。また吉川英治『隠密七生記』の椿茶屋のあった所でもあり、近くの岩の上に二基の馬頭観音の石像があって、中馬時代の面影を残している」
地図では清水沢とルビがふってあるが実は峠川だった。すると、別荘地から下りきった歩道をもう少し先へ進めば街道の痕跡に出会えたかも知れません。先述したように峠のスノーシェルター近くまで歩いて右へ上がる踏み跡を探して1mほど登った。そこで見た平坦な道形ももっと丁寧に下流まで下れば得られただろう。そして峠川だけは国道の橋の下をくぐって行ける。先には峠道がある。
一方で栄太沢、清水沢は橋はないからトンネルで水を流しているのか。栄太沢の方は山側に古い橋の痕跡が見えたが、地形図の櫛型の記号で示すように工事で原形を失ったのだろう。
次の機会には旧国道(廃道)を下って「中の土山」を探りたい。そして別荘地の下部に上がってくる道を下から登って見る。今度は奥まで進み、渡渉して1163mの3を目指して登ればある程度の発見は見込める。
峠付近の探索後は柳川橋の手前から旧道に右折。Pには湧き水もありテント場に良い。靭へ下り、2軒の旅館の廃屋を撮影しておく。R153へ戻り道の駅へ行って休憩。売店でトウモロコシとトマトを購入。根羽村の信玄塚を拝観。稲武では道の駅パスして、喫茶店で昼食。小田木へ下って痕跡を探すが無し。R153に戻り足助町へ。明川町の舞台などもパスして萩野の旧道を通るが痕跡はない。足助町の資料館によると学芸員に相談して文献3冊を紹介してくれた。その後、牛馬水飲み場や馬頭観音も見れた。街場ではなく右岸側の道があったとは知らなかった。追分からは力石峠を走った。ここは東海自然歩道も通過している。これですべて完了した。
5時に起きて朝ごはん用の弁当を食べてテントを片付けて出発。治部坂峠登山口に自転車をデポする予定だったが、黒雲にすっぽり覆われた山にモチベーションが萎えるので取りやめた。古道調査に切り替えた。とりあえず、アララギスキー場跡でも行って見るかとなった。
まず下り坂のカーブの橋の手前で林道のような草の道が目に付いた。車を停めて見てみると正しく中馬街道の跡であった。奥まで歩くと阿智村の石碑」「史跡 中馬街道」も建っていた。是が第一の発見だった。帰りがけに入り口を探したが何も目印はない。
次は深沢の関所跡の破線路と国道との接点を探した。すると2軒の家に挟まれた空き地の奥にやはり「史跡 中馬街道」が建っていた。車で流すだけだと見落とす。階段を下ると橋が架かっていて関所跡に続く道があった。途中で引き返した。
浪合トンネルをくぐってその先は何も発見はない。寒原峠を左折、恩田川に沿ってしばらくでスキー場に左折。スキー場跡に着いたがかつての駐車場は3箇所あるが物置に再利用、センターハウスの駐車場に入る手前でチエーンがあっては入れなかった。右に林道があるので徒歩で入って見た。登山口まで約400m位なので歩いても良かったが、これだけ閑散とした様子に登山道も荒れているだろう、笹が伸びているだろうと思うとモチベ―ションは上がらず、引き返す。
とりあえず、中野まで下って大野まで戻る。草刈りの村民に塩の道の情報を聴く。地形図の実線の道まで下って右折。民家を抜けると林道のような地道になった。民家の傍に車を置いて歩いたら早速路傍の石仏が安置されていてここが塩の道と確認できた。更に奥に行くと大沢川と同じ高さになった。地形図通り終点になった。作業小屋が建っている。地図にない木の橋が右岸渡れるように掛かっているが中馬街道かどうかは不明。洪水で消失したものか。
帰りに899m地点を探ると簡易舗装の道が下っている。下に下ると傍にはミツバチの飼育箱が捨ててある。蜂が飛び回っていたのですぐに退散した。想像では左岸に塩の道があったが二岐の下流の堰堤工事で埋まった可能性が高い。
日の入峠への道を右に見送り、大沢川沿いの塩の道を行くと大沢集落に着いてすぐに石仏群があった。すぐ下には塩の道の案内板も建っている。中央道の高架橋をくぐって左岸のR153に合流。しかしこの時、阿智川の橋の手前で右折して曽山を走るべきだった。中央道と並行する長い実線が気になる。阿智村役場に着いてUターン。途中では899m地点をチエック。
R153を治部坂峠まで戻った後平谷村の気になっていた1163mをチエック。徒歩で別荘地を下ってみた。両側に別荘が建っていてほぼ直線の車道が下っている。行きついた際には何と高圧電線の保守路が下からあがってきている。その先へも刈払いが続くが馬の通る道ではない。引き返して峠付近を見てみる。平坦地は一部あるが道らしい連続性がない。
そこで『平谷村誌』のP347に示された地図を地形図に落とす。1163mの3の部分の沢は峠川とある。治部坂峠への旧道につながる沢は清水沢とある。もう一つ西に栄太沢がある。清水沢と栄太沢に挟まれた緩斜面とはいえ、結構急な別荘地になっている。村誌の記述を読み直すと「まず治部坂峠を南へ越して清水という地籍へ出る。ここから峠川と呼ばれる小川が南へ流れ、この川に沿って中馬街道がある。小下りに曲折した道が峠川の西沿いに現在もところどころ残っている。
約1k下るとやや平坦な南面した原野がある。ここが「中の土山」で江戸時代から明治六年までは、旅籠とお茶屋のあった所で、この旅籠のことは伊賀良村誌にも記されている。また吉川英治『隠密七生記』の椿茶屋のあった所でもあり、近くの岩の上に二基の馬頭観音の石像があって、中馬時代の面影を残している」
地図では清水沢とルビがふってあるが実は峠川だった。すると、別荘地から下りきった歩道をもう少し先へ進めば街道の痕跡に出会えたかも知れません。先述したように峠のスノーシェルター近くまで歩いて右へ上がる踏み跡を探して1mほど登った。そこで見た平坦な道形ももっと丁寧に下流まで下れば得られただろう。そして峠川だけは国道の橋の下をくぐって行ける。先には峠道がある。
一方で栄太沢、清水沢は橋はないからトンネルで水を流しているのか。栄太沢の方は山側に古い橋の痕跡が見えたが、地形図の櫛型の記号で示すように工事で原形を失ったのだろう。
次の機会には旧国道(廃道)を下って「中の土山」を探りたい。そして別荘地の下部に上がってくる道を下から登って見る。今度は奥まで進み、渡渉して1163mの3を目指して登ればある程度の発見は見込める。
峠付近の探索後は柳川橋の手前から旧道に右折。Pには湧き水もありテント場に良い。靭へ下り、2軒の旅館の廃屋を撮影しておく。R153へ戻り道の駅へ行って休憩。売店でトウモロコシとトマトを購入。根羽村の信玄塚を拝観。稲武では道の駅パスして、喫茶店で昼食。小田木へ下って痕跡を探すが無し。R153に戻り足助町へ。明川町の舞台などもパスして萩野の旧道を通るが痕跡はない。足助町の資料館によると学芸員に相談して文献3冊を紹介してくれた。その後、牛馬水飲み場や馬頭観音も見れた。街場ではなく右岸側の道があったとは知らなかった。追分からは力石峠を走った。ここは東海自然歩道も通過している。これですべて完了した。


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