俳句と越の小さな山旅2016年10月11日

 10月9日。所属結社「辛夷」のイベントに参加するため、早朝2時に自宅を出た。今年も天気の良くない連休になった。東海北陸自動車道の長良川沿いの道になると降雨が激しくなった。しかもトンネルが連続するのでワイパーの操作が面倒なほど。白鳥ICの手前では豪雨となった。時速60kmに減速し、4WDにONしておく。路面の水量次第で4WDでもハイドロプレーニング現象が起きる。対策は低速で走るしかない。高鷲ICからやや大人しくなる。ひるがのSAで仮眠。飛騨清見から高山ICまで走りR41へ。交通量は多め。
     大山歴史民俗資料館へ
 富山市内に入り立山方面へ右折、旧大山町から常願寺川を渡ると立山町だ。常願寺川はいつも見る氾濫河原が隠れるほどの濁流である。両岸の堤防はここから始まっている。両岸一杯に広がって海まで突進するようだ。
 下流の雷鳥大橋の河川内の標高は115m、左岸(西)の富山地鉄・月岡駅付近の三角点は86、9mですでに天井川になっている。右岸(東)の立山町側は123mで少し余裕がある。つまり、富山平野の東部は常願寺川の氾濫がもたらした。夥しい土砂は五色が原の鳶山の大崩が原因らしい。旧立山温泉は立ち入り禁止になり多くの砂防堰堤が建設されている。
 いつもの道の駅兼コンビニへは7時半に到着。9時まで時間をつぶす。目的地は亀谷温泉の大山歴史民俗資料館だが、小止みになったので雄山神社に寄る。境内を歩く。隣には富山県立山博物館がある。9時過ぎたので大山歴史民俗資料館に向かった。道を少し戻る。山猿が数匹民家の屋根に上ったり道路に下りて何かやっている。常願寺川にかかる小見への橋を渡る。砂防堰堤が滝のようになって奔流する。地響きが聞こえるようだ。小見から亀谷温泉へ右折。九十九折れの道を登りきると有峰林道ゲートの手前が目指す資料館だ。
 今まで登山の帰りに温泉に入湯することは度々あってもここへ寄ることはなかった。時刻少し前だが入館を許された。いきなり伊藤孝一が有峰がダムに沈む前に買い上げた狛犬を見たいと来観の意思を告げた。奥に展示してあるが順路と言うものがある。右回りに説明を聞きながら色々質疑応答して学ばせてもらった。
 想像した以上の山や向きの資料館だった。
 第一展示室では宇治長次郎、金山穆韶(ぼくしょう)、播隆上人が大山町の三賢人として顕彰されている。
 第二展示室は常願寺川の治水と発電、
 第三展示室は有峰、大山地域の鉱山・恐竜となっている。念願だった狛犬は全部で八体展示。太めの犬くらいの大きさで木質系の荒削りな造形である。円空仏のイメージにそっくりである。すると有峰の住民の先祖は単なる農民ではなく、落ち武者だろうか。円空は木地師とされているが、流れ者の木地師に彫らせたものか。
 放射性炭素年代測定という科学的検査で古いものは大体1300年頃と判明したらしい。いずれもひびが入り朽ち始めていることは確かである。パンフレットには
サル 2体 1334年鎌倉末 ヒノキ科
シシ  2体 1452年室町前 軟松類
ヌエ  2体 1531年戦国期 軟松類
クマ  2体 1814~1879年 江戸後~明治初  モクレン科
とあった。
 これを大正9年にダムに沈む前に名古屋のお金持ちで登山家の伊藤孝一が購入したという。一旦は名古屋に持ち出され、疎開で長野県の赤沼家へ一家とともに狛犬も移転した。これを赤沼氏が買い取って松本市民俗資料館に寄贈したという話。それを松本市から富山市は返還を希望して里帰り(有峰は水没したのでJターンというべきか)を果たしたのが平成になってからのことだった。
中々に存在感のある狛犬であった。結構長々と話をした。次の目的地の富山市電気ビルに走った。
      富山市俳句会へ
 13時から年次大会に入った。結社賞などの発表、投句の選評、その後の懇親会、句会など順調に運行された。40歳で入会したころは初代主宰の前田普羅から直接指導を受けた俳人もいた。年々鬼籍に入り、来賓席にならぶ古参俳人は当時の数名から2名にまで減った。1人は2代目主宰の中島正文(俳号:杏子、日本山岳会会員で山岳史家)の直系の俳人である。3代目の福永鳴風を支えた俳人たちが基盤を守って、4代目の現主宰・中坪達哉を支える。俳誌も現在は1080号を数える。来年は主宰継承後10周年となる。
 この10年間には東京のS女を病死で失い、続いて片腕というべきY氏の急死という波乱にも見舞われた。いずれも結社を支える実力は互角の有力俳人だった。3代目の福永鳴風は昭和55年「花辛夷守らせたまへ普羅杏子」と詠んで、指導者に徹する意味でレッスンプロを自認し、継承の決意を示した。鳴風が育てた若手4名のうち2名を失った。将来の発展のための布石を打つ時期が来たと言える。句会後は散会となる。
       氷見市/七尾市・蔵王山(点名:高坂山)へ
 10月10日。本当は7日から8日は毛勝三山の猫又山に登山の予定だった。天気不良、膝の痛みを警戒して大人しくした。10日は降雨は逃れそうなので昨年と同じ能登半島の1等三角点の山・高坂山507mを予定した。
 ホテルを出たのは寝過ごして8時40分となった。R8からR415へ行き、氷見市に向かう。なるだけ富山湾沿いにドライブした。氷見市の北部の阿尾から県道306号平阿尾線に入り七尾市との境界に近い平に向かった。平は氷見市最北の山村であった。つまり富山県最北でもある。入善町や朝日町とほぼ同じ。
 平とは名ばかりで傾斜地に山家が建つ。地形図では20戸を数えるが人の姿は殆どない。こんな僻村でも人が住んでいた。富山県知事選挙の公報があるからだ。どこにも登山口を見いだせないまま石川県まで走ってしまった。林道からは富山湾を見下ろす。雪の立山連峰など素晴らしいだろう。
 平へ戻って古老に山の話を聞くと意外なことを言う。三角点か、有名らしいなあ、大阪や京都からも大勢来る、この前は80歳の老婦人も来たよ、と言うではないか。同好の士である。この山はねえ、1等三角点という希少価値があるんです、と言うとおおそれだ、と答える。歯はほとんどないがはっきりしている。道はなあ、笹を刈ったと聞いている、剣主神社に車を置いて行けや、と教えてくれた。どうやら登れるらしい。
 神社の境内に駐車。12時10分。舗装された農道を登る。舗装が切れた辺りからは棚田の風景が広がったが休耕田もある。登山口の表示を探すがない。農道から山に通じそうな刈り払いがあったがなぜか足が進まなかった。
 高坂山は目前にあり、東尾根が伸びている。農道から草深い踏み跡に分け入り、尾根の根っこまで近づいて地形図にある破線路(用水路沿いの踏み跡)を歩きながら尾根と落差が縮まったところで杉の植林の中を尾根に這い上がった。12時28分。尾根には微かな踏み跡があった。但し倒木もあり度々道を外した。ヤブっぽくなると道に戻る。すると七尾市側の良い道と合流した。広くて浅い沢のようないわば街道を歩いた。山頂が近づくと再び細道になる。13時登頂。3m四方が刈り払われているきれいな山頂である。1等三角点本点である。周囲は雑木林で眺望はほとんどない。25分滞在後、平へ30分とある道標のある良い道を下った。最初は南尾根の樹林の道から山腹を横切り、芒の生い茂る湿地帯を行くとさっきの農道へ出た。何だ、この道か。印は何もない。Pへ着いたのは14時過ぎ。2時間ほどのハイキングだった。
     石動山(せきどうさん)を散策
 まだ時間があるので石動山へも行って見た。そこは山岳信仰の拠点だったという。最高点の564mの大御前に登拝してみた。小さなお社があった。白山宮という。そこから城跡を経て下山した。樹林の隙間から富山湾が見下ろせた。結局医王山、宝達山と来て本当は石動山に置くはずだったが先に神社があって三角点設置はならず、高坂山になったのだろう。資料館のスタッフは白山宮ははくさんぐうで良いが、白山をしらやまと言った。昔は加賀能登も越の国であった。だから越の白山(こしのしらやま)と呼んだ。相当古い歴史の山のようだ。
 さて、思いは果たした。県道306号を戻ってまた富山湾沿いに走った。虻ヶ島からの立山連峰の眺めが素晴らしいと宣伝する表示があった。
http://www.info-toyama.com/image/index.cfm?action=detail&id=1124
このサイトを見ると確かに素晴らしい眺めだ。剱岳を中心に左に毛勝三山、右に立山が見える。湾に浮かぶ島が前景で立山連峰が借景になっている。こんな時期に来たいものである。今日はあいにく厚い雲の中だ。
 R160をひたすら走る。いろいろな観光施設が新しい。R160からR415を走り高岡市に着いた。R156から砺波ICで北陸道へ。今回は米原経由で帰名。
 これで『一等三角点全国ガイド 改訂版』(ナカニシヤ出版)に収録された1等は愛知県、岐阜県、奈良県、富山県、福井県は完全踏破、石川県は穴水の河内岳、輪島の下山村(三蛇山)と鉢伏山、七尾の天元寺(遍照岳)、宇出津の沖波山、小松の清水山が未踏。離島の1等3座は行かない。三重県は大平尾村4.5mのみ未踏。長野県は大物では四方原山、長倉山、八風山、が残る。