早春の古城山を歩く2026年02月22日

 2月になってやっと山に来れた。ゴホンゴホンと咳き込んで絶不調が続いて一ヶ月ぶりのハイキングは美濃には3ヶ所ある古城山のうちの長良川左岸に聳える437mの山。
 今回は犬山遊園駅で合流。こっちは上小田井駅まで地下鉄鶴舞線で往き犬山線に乗換。約1時間と車よりも早く交通費も安い。
 登山口の運動場のPに止めて歩き出す。古城山への道標が無いのでヤマップを見て最初は運動場の端を歩き車道に降りた。そこに道標があった。先へ行くと毛鹿洞池があるが渇水期の今を利用して何やら工事中だった。俳句歳時記の冬の季語に池普請がある。
 いよいよ登山道らしいところに道標があった。植林内を歩くと林道に合い左折、二俣は谷筋へ直進した。道標はマメにあるから安心だ。岩山のせいか水涸れるの季語通り小さな谷にも流れがない。谷から出て本格的な山道に入る。少し身体が温まってきたので衣服を調整した。
 一ヶ月のブランクで鈍った身体の血液が循環して全身を巡る。温かい血液が足の筋肉の収縮でポンプになり全身に運ばれる。体温が上がると免疫力も上がる。気分も高揚してくる。山歩きの健康効果である。
最初の東屋に着いた。ここからはわずかに南方面にひらけている。風もなく穏やかだ。”のどかさや”・・・と一句詠みたいが後がでない。
ここから階段の道を連続的に登るようになった。登って下ってを繰り返すと2等三角点のある山上だった。城趾らしく広い。
 永禄、天正年間にできた山城という案内板が建っている。
 「古城山の古名は鉈尾山(なたおやま)。 この山の山頂に、戦国末期の佐藤氏三代の城(鉈尾山城)の城跡がございます。この城は永禄六年(1563)に佐藤六左衛門清信により築かれたといわれています。鉈尾山の由来は、四方を釣壁で構えられ、鉈一丁で壁を切り落とせば何千騎も防ぐことができたことに由来するといわれています。」
 尾張藩が編纂した江戸時代末期の地誌『新撰美濃志』に当たると「上有知村」の項目に「鉈尾山」は直高十五町程、根廻り二里八町餘の山なり。と簡単に紹介。ちょっと後に「佐藤氏古城は鉈尾山にあり。佐藤將監、其の子六左衛門、其の子才二郎、三代すみしが、慶長五年の亂れに才二郎岐阜中納言秀信に随ひ、岐阜没落しければ此城を退きしのち廃して小倉山にうつせり。その後は「金森五郎が織田豊臣の両公に従ひ、数度戦功をあらわして飛騨国と共に領して鉈尾山の上に城をうつせり」とある。しかし金森氏の子孫は郡上一揆で失策。改易された。
 ネットからのコピペですが
中世の主な元号(年号)
鎌倉時代:建久、建仁、承久、貞永、文永、弘安
室町時代:建武、延文、応安、明徳、応永、永享、嘉吉、応仁、文明
戦国時代:大永、天文、永禄、天正
※この期間は、武士の力が増大し、荘園制が崩壊して寄生地主制へと変化した、日本の大きな転換期です。
以上
 人の世は虚し=1467年の応仁の乱以後、天皇家の権威をバックにした宮廷の政治から武家の政治へと大転換。日本中世史には宮廷が武家を冷遇したからだと解説。藤原氏も政治が巧みだったわけではなかった。つまり身分の低い武士でも武力で政権の座に付けるチャンスと見られた。乱世を究めた下剋上の戦国時代は1603年の徳川幕府成立まで100年以上も続いた。
      春浅し佐藤氏三代夢の跡 拙作
 南西に展望が広がる。美濃は長良川が作った沖積平野だ。その奥には金華山らしい山が見えた。すると手前の右は百々ヶ峰か。船伏山、兎走山も見えているはず。伊吹山は春霞で見えない。
 充分な休憩後、下山開始。山で会った人は階段が多かったと言いながら元の道を戻った。確かに急で階段が多く疲れるが早い。運動場に着いて登って来た山を見上げた。
 こんな里山にも「しかるに何事ぞ、天変甚速にして、かくのごとく盛大をいたせし」鉈尾山も「ついに槿花一朝の栄に過ぎざりしや。」の歴史に思いを致した。

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