稲武の歴史散策~後山を歩く2022年06月25日

 稲武の山と言えば、夏焼城ヶ山が有名である。稲武の山里からは端正な富士山の姿に見える。もっぱらハイカーの人気を独占している。麓の夏焼を冠して夏焼城ヶ山と呼ぶ。歴史的には山の西半分の麓を塩の道が通っていた。今は国道153号が平行する。忘れられた歴史の道である。
 もっと調べて見ると、御醍醐天皇の皇孫の尹良親王の隠れ済んだ山里としても一部の人には知られている。その名残は「御所貝津」町の地名にある。6/12、6/18、6/25と訪ねて見た。
・6/11は御所貝津町の笹平をドライブしただけに終わった。取り付く島がないと思った。確かに黒田川沿いに腰かけ岩はある。信憑性は?はどうかと思う。
・6/18は同じ道を走ってみて、振り返った時に発見があった。小雨模様だったが、単なる乗り越しであるが、車を降りて見て、乗り越しを振り返ると地域の足として走らせているバス停の名前に地蔵峠と書いてあった。これで地名を特定できた。周辺を歩いて見て山里の人に訪ねて見たら、「ユキヨシ様の祠ですか」「あそこにありますから案内します」との親切な申出があり、祠も特定できた。
・6/25は御所貝津のシンボル的な後山を歩いて見たのである。後山の地形図を見て、破線路につながる入り口を探した。東へ延びる尾根の末端の山形まで走ったが山への入り口は見つからない。南の桑原町の神田辺りから適当に地道を分け入った。ここは熊野洞と言い、後山に着き上げる沢である。武節古城の案内板があった。奥まで行くと車道は行き詰まる。Y家の物置と墓になっている。戻って、神社記号(熊野神社)との交差点にPスペースがあるのでここにデポした。とりあえず武節古城に行くと確かに古代の城跡の感じはある。
 戻って、車道を歩くと後山から真南に伸びる尾根に明瞭な掘れ込んだ山路があったので入ってみた。この山路は何の目的は不明ながらしばらく続いた。そして植林内でうやむやになったが尾根芯をたどれば歩ける。ずっと登ると左の久沢から来る尾根に合流。たどると山頂だった。頂上には三角点はなく、小屋が建っている。後ろには地図に無い携帯電話のアンテナが建っている。他には何もない。
 右に続く車道を下ると、稲武町の電波塔が建っていた。これは地形図にある。この前には破線路が登ってくるはずが何も見えない。下りきると秋葉山の参道とした新しい石碑があった。ここは火伏の神だったのか。駐車スペースの奥に地形図の実線の道があったが、これはよく踏み込まれた道であった。多分参道の続きだろう。一方で、東への尾根にも踏み跡が続いている。これが地形図の東尾根の入り口だろう。
 6/18は車でこの近くまで来たが雨で道路がぬかるんでいたから引き返したところである。このまま下ろうか、と思ったが山頂へ戻り、久沢からの尾根を下った。明瞭な尾根なので道はないが歩ける。最初の水田記号まで下ると水田へ下る道があり、下った。今は廃田で草生す平地が悲しい。そして久沢からの車道に出れた。
 久沢の山里を下ると6/18には不明だった4等三角点も分かった。標石ではなく、基準点だろうか。そのまま歩いて、九沢の媼に教えてもらった、桜の木の下の石仏も拝観した。南西への車道を歩き、乗り越しから628の独立標高点のあるコブに行く。登山道ではなく、踏み跡でもないが作業道があるので歩ける。628mのコブを取り囲むように歩き南へと下がってゆくところで、地蔵峠に行く尾根を過ぎてしまい、戻ってきた。ここも微かな踏み跡はあった。そして6/18に拝観した尹良親王夫妻の祠に出ることができた。地蔵峠に下って車道を歩き熊野洞のPに着いた。帰路は熊野神社に参拝した。立派なお社である。
 半日程度の散策だったが大汗をかいたのでどんぐりの湯で汗を流した。まだ少し時間があるので旧浪合村の尹良親王の墓を訪ねた。ここも地形図に記載されるだけはあり、立派な神社と宮内省管轄の菊の御紋のある墓も拝観できた。突然夕立に見舞われたが、治部坂峠を越えるとぱたっと気象が変わる。木曽山脈の東西で大きく変わる。

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