亀山(越前大野城)に登城② ― 2022年04月11日
大野市へ戻る際に見た九頭竜川は雪解け水で増水し勢いがあった。小京都といわれるごとく複雑な市街地を経て大野市歴史博物館に入館。城の創建は
「福井県大野市にあった安土桃山時代の山城(やまじろ)。江戸時代には大野藩の藩庁が置かれた城である。大野市街近くの亀山(標高249m)に築かれていた。1573年(天正1)8月16日、戦国大名の朝倉義景は刀禰坂(とねざか)の戦いで織田信長に敗れ、一乗谷館・一乗谷城(福井市)を放棄し大野へ逃れたが、一族の朝倉景鏡の裏切りにより大野六坊の一つである賢松寺にて自刀した。こうして朝倉氏が滅ぼされたのち、その戦いで戦功により、大野市周辺を与えられた金森長近が1576年(天正4)に築いた城である。長近は小規模ながら大天守・小天守を持った堅固な大野城を築き、城下町をつくり上下水道を整備するなど、今日の大野市街の原形をつくった。
信長の死後、北ノ庄城(福井市)を本拠とした柴田勝家と羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が対立し、賎ヶ岳の戦いが起こったが、その際、長近は勝家方として従軍した。戦後、長近は敵方であったものの秀吉から城と領地を安堵され、1586年(天正14)に飛騨高山(岐阜県)に転封した。その後、大野城には長谷川秀一、青木一矩、織田秀雄(信長の孫・信雄の長男)が入城し、1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いの後、大野一帯が福井藩の直轄領となったことから、福井城の支城となった。1624年(寛永1)には結城秀康三男の松平直政が5万石の大野藩の藩主として入城、その後、譜代や親藩の大名が城主となり、土井氏4万石の時代に明治維新を迎えた。
この間、1775年(安永4)に火災により大天守・小天守などを失った。現在、城跡には1968年(昭和43)に建設された鉄筋コンクリート造の復興天守群と天狗櫓(てんぐやぐら)があるが、その石垣は当時のものである。また、城門2基が同市内の光明寺および真乗寺に山門として移築され現存している。JR越美北線越前大野駅から徒歩約20分。山頂まで徒歩約10分(4ヵ所の登城口がある)。◇亀山城ともよばれる。」
少しは歩こうと越前大野城に登城した。登ると何と三等三角点もあり、249mの山だった。城からは大野盆地を囲む残雪の毘沙門岳、荒島岳、経ヶ岳、銀杏峰(げなんぽ)、部子山(へこやま)などの名山、遠景には姥ヶ岳、堂ヶ辻山、屏風山、取立山などの無名峰が並んだ。ミニハイキングになった。
下山後は大野市内で名物のおろしそばを食べた。最後は数ある湧水地の本願清水イトヨの里に寄り、取水して土産にした。
地図を見ると大野市は地下水脈の上に成り立つ水上都市と言える。九頭竜川、真名川などの河川が洪水の度に押し出し、土砂が堆積し、伏流水の豊かな土地が形成された。名古屋市中区の鶴舞もツルマという。水の湧く土地であり、以前はビール会社の工場があった。富山県入善町は黒部川の伏流水が豊富で至る所に湧き水がある。郡上八万市、大垣市もそうだし、外国ではナイロビが水の湧く土地という意味らしい。
「福井県大野市にあった安土桃山時代の山城(やまじろ)。江戸時代には大野藩の藩庁が置かれた城である。大野市街近くの亀山(標高249m)に築かれていた。1573年(天正1)8月16日、戦国大名の朝倉義景は刀禰坂(とねざか)の戦いで織田信長に敗れ、一乗谷館・一乗谷城(福井市)を放棄し大野へ逃れたが、一族の朝倉景鏡の裏切りにより大野六坊の一つである賢松寺にて自刀した。こうして朝倉氏が滅ぼされたのち、その戦いで戦功により、大野市周辺を与えられた金森長近が1576年(天正4)に築いた城である。長近は小規模ながら大天守・小天守を持った堅固な大野城を築き、城下町をつくり上下水道を整備するなど、今日の大野市街の原形をつくった。
信長の死後、北ノ庄城(福井市)を本拠とした柴田勝家と羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が対立し、賎ヶ岳の戦いが起こったが、その際、長近は勝家方として従軍した。戦後、長近は敵方であったものの秀吉から城と領地を安堵され、1586年(天正14)に飛騨高山(岐阜県)に転封した。その後、大野城には長谷川秀一、青木一矩、織田秀雄(信長の孫・信雄の長男)が入城し、1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いの後、大野一帯が福井藩の直轄領となったことから、福井城の支城となった。1624年(寛永1)には結城秀康三男の松平直政が5万石の大野藩の藩主として入城、その後、譜代や親藩の大名が城主となり、土井氏4万石の時代に明治維新を迎えた。
この間、1775年(安永4)に火災により大天守・小天守などを失った。現在、城跡には1968年(昭和43)に建設された鉄筋コンクリート造の復興天守群と天狗櫓(てんぐやぐら)があるが、その石垣は当時のものである。また、城門2基が同市内の光明寺および真乗寺に山門として移築され現存している。JR越美北線越前大野駅から徒歩約20分。山頂まで徒歩約10分(4ヵ所の登城口がある)。◇亀山城ともよばれる。」
少しは歩こうと越前大野城に登城した。登ると何と三等三角点もあり、249mの山だった。城からは大野盆地を囲む残雪の毘沙門岳、荒島岳、経ヶ岳、銀杏峰(げなんぽ)、部子山(へこやま)などの名山、遠景には姥ヶ岳、堂ヶ辻山、屏風山、取立山などの無名峰が並んだ。ミニハイキングになった。
下山後は大野市内で名物のおろしそばを食べた。最後は数ある湧水地の本願清水イトヨの里に寄り、取水して土産にした。
地図を見ると大野市は地下水脈の上に成り立つ水上都市と言える。九頭竜川、真名川などの河川が洪水の度に押し出し、土砂が堆積し、伏流水の豊かな土地が形成された。名古屋市中区の鶴舞もツルマという。水の湧く土地であり、以前はビール会社の工場があった。富山県入善町は黒部川の伏流水が豊富で至る所に湧き水がある。郡上八万市、大垣市もそうだし、外国ではナイロビが水の湧く土地という意味らしい。
春尽きて冬物の衣を仕舞けり 拙作 ― 2022年04月12日
朝からさわやかな風が入る。まるで5月に入ったかのようだ。気分は上々なので溜まった冬物の整理を始めた。あちこちに散らかった割には活用機会がぐんと減った。空の整理箱に冬物の長袖の下着、ロングパンツなどをしまう。またウール製品も別の空き缶にしまう。後で防虫剤を入れることにする。
コートも目障りになってきた。この冬は新年会などの宴会もなく、着る機会はなかった。厚地のパジャマも見ただけで暑そうだ。
そして半袖の下着、ハーフパンツ、ワイシャツ、Tシャツなどの春物の衣料を出した。これで日常生活は足りるだろう。さらにスタッドレスタイヤからサマータイヤに履き替えたい。昨年は5月の初めだった。
寝室も窓のない物置代わりの部屋から二面が窓のベランダに面した部屋に入れ替える。夜の気温は下がるので寝入りやすく、朝は早く日の出を感じるので目覚めが早くなる。
閑話休題。
午前中は知人の女性から息子の離婚手続きは明日にも済む段取りになったと電話があった。妻の不倫に振り回されてきた日常がやっと安静を取り戻す。相談者自身の母の相続の件でも土地を相続するか否か悩んでいた。好物件だから悩む。
齢を重ねれば財産特に不動産などの持ち物は減らしたいものだ。不動産は流動性(換金性)のなさでは一番だ。しかし、流動性がないから長く保てるともいえる。
生活できる金を確保できればそれ以上を望まないでいること。今後、当人の認知症発症、家族に癌で亡くなった身内がおれば発症の可能性もある。持ち過ぎると法的な手続きも煩雑になるだろう。女性らしく話好きなので途切れないから身軽に身軽にと念仏を唱えるようにお応えした。終わったら1時間半近く携帯電話を握ったのでしびれがきた。
コートも目障りになってきた。この冬は新年会などの宴会もなく、着る機会はなかった。厚地のパジャマも見ただけで暑そうだ。
そして半袖の下着、ハーフパンツ、ワイシャツ、Tシャツなどの春物の衣料を出した。これで日常生活は足りるだろう。さらにスタッドレスタイヤからサマータイヤに履き替えたい。昨年は5月の初めだった。
寝室も窓のない物置代わりの部屋から二面が窓のベランダに面した部屋に入れ替える。夜の気温は下がるので寝入りやすく、朝は早く日の出を感じるので目覚めが早くなる。
閑話休題。
午前中は知人の女性から息子の離婚手続きは明日にも済む段取りになったと電話があった。妻の不倫に振り回されてきた日常がやっと安静を取り戻す。相談者自身の母の相続の件でも土地を相続するか否か悩んでいた。好物件だから悩む。
齢を重ねれば財産特に不動産などの持ち物は減らしたいものだ。不動産は流動性(換金性)のなさでは一番だ。しかし、流動性がないから長く保てるともいえる。
生活できる金を確保できればそれ以上を望まないでいること。今後、当人の認知症発症、家族に癌で亡くなった身内がおれば発症の可能性もある。持ち過ぎると法的な手続きも煩雑になるだろう。女性らしく話好きなので途切れないから身軽に身軽にと念仏を唱えるようにお応えした。終わったら1時間半近く携帯電話を握ったのでしびれがきた。
PCの物色 ― 2022年04月13日
4/16の岳連の総会後はいろいろ忙しくなる。法人設立が認定されれば会計は複式簿記になるからPCや会計ソフトを準備しておきたい。というわけで大須のマウスコンピューターの出店に行って見た。
家電量販店で売っているのは不要なソフトがてんこ盛りなのでしかも割高なので対象外である。マウスコンピューターは例えて言えばトッピングの無い素うどんか素ラーメンで、必要なもののみ追加して購入できる。個人ではエプソンを購入してきたが、店舗がないので実物を手で触れない欠点がある。そして在庫もないから買い物としては今一不満が募る。その点マウスコンピューターは在庫があるので持ち帰ることができる。
一方で、関係者の勤務先の中古PCの出入り業者がいるので見積もったら88800円(オフィス付)だった。10000円しか違わない。後はブランド志向か否か。さらにはクラウド会計の台頭もあり、選択肢は多い。クラウドはPCは単なる端末だけになる。IDとPSさえ共有すればだれでも交代できるし、中を見ることができる。将来的にはコストダウンが進めば、ガソリン車からEVに切り替わる流れに似ている。普及するときは一気に普及する。
16日の総会でいよいよ法人化に向けて具体的な行動に移ることになる。会計は中でも存続する限り続く。
家電量販店で売っているのは不要なソフトがてんこ盛りなのでしかも割高なので対象外である。マウスコンピューターは例えて言えばトッピングの無い素うどんか素ラーメンで、必要なもののみ追加して購入できる。個人ではエプソンを購入してきたが、店舗がないので実物を手で触れない欠点がある。そして在庫もないから買い物としては今一不満が募る。その点マウスコンピューターは在庫があるので持ち帰ることができる。
一方で、関係者の勤務先の中古PCの出入り業者がいるので見積もったら88800円(オフィス付)だった。10000円しか違わない。後はブランド志向か否か。さらにはクラウド会計の台頭もあり、選択肢は多い。クラウドはPCは単なる端末だけになる。IDとPSさえ共有すればだれでも交代できるし、中を見ることができる。将来的にはコストダウンが進めば、ガソリン車からEVに切り替わる流れに似ている。普及するときは一気に普及する。
16日の総会でいよいよ法人化に向けて具体的な行動に移ることになる。会計は中でも存続する限り続く。
奥羽から北を目指すや鳥曇り 拙作 ― 2022年04月14日
https://www.facebook.com/profile.php?id=100079142031027
原田協子さんのフェイスブックにアップされる白鳥の写真が素晴らしい。今日は日本滞在最後の段階という。そこで一句をしたためた次第。
もう一つ、演歌の世界でも渡り鳥は数多く歌い込まれてきた。中でも「美空ひばり- お島千太郎」の作歌は秀逸かと思う。
♪渡り鳥さえ一緒に飛べる♪と歌い出す。人生の世渡りの不安定さと渡り鳥の習性をかけているのだ。渡り鳥は本能なので、家族を編成して連れだって渡ってゆく。そこに悲しみはないはずだが、人間は一人では生きて行かれない、と謳う。人間賛歌というところが人気が出たのだろう。
本来はひばりのようなしっとりした歌い方が正統である。半面で勢いのある歌い方だが新鮮な島津亜矢で聞いてみよう。
https://www.youtube.com/watch?v=hpRUgSiLMWo
原田協子さんのフェイスブックにアップされる白鳥の写真が素晴らしい。今日は日本滞在最後の段階という。そこで一句をしたためた次第。
もう一つ、演歌の世界でも渡り鳥は数多く歌い込まれてきた。中でも「美空ひばり- お島千太郎」の作歌は秀逸かと思う。
♪渡り鳥さえ一緒に飛べる♪と歌い出す。人生の世渡りの不安定さと渡り鳥の習性をかけているのだ。渡り鳥は本能なので、家族を編成して連れだって渡ってゆく。そこに悲しみはないはずだが、人間は一人では生きて行かれない、と謳う。人間賛歌というところが人気が出たのだろう。
本来はひばりのようなしっとりした歌い方が正統である。半面で勢いのある歌い方だが新鮮な島津亜矢で聞いてみよう。
https://www.youtube.com/watch?v=hpRUgSiLMWo
亡き人の遺品整理のために入る数多のモノに埋もれたる家 拙作 ― 2022年04月15日
15日は昨年秋死去された独居老人の遺言執行者として遺品整理の現場に立ち合った。
朝7時30分に出発。伊勢湾岸道に入ろうとするが、大渋滞で進まない。そうか通勤時間帯では仕方ない。約50分も遅れてしまう。東名阪から先も車多し。目的地には約束の10時4より1時間も遅刻した。
早速、遺品整理業者らと家に入る。死後、遺族が家族ぐるみで整理をしてきたが追い付かないので、遺品整理のプロの業者に見積りをしてもらうことにした。思い出につながるモノを見ると親族はそこで手が止まる。遅々として進まないからだ。
断捨離は生きる自分のみならず、遺族のためでもあろう。モノに宿った故人の霊との決別。
朝7時30分に出発。伊勢湾岸道に入ろうとするが、大渋滞で進まない。そうか通勤時間帯では仕方ない。約50分も遅れてしまう。東名阪から先も車多し。目的地には約束の10時4より1時間も遅刻した。
早速、遺品整理業者らと家に入る。死後、遺族が家族ぐるみで整理をしてきたが追い付かないので、遺品整理のプロの業者に見積りをしてもらうことにした。思い出につながるモノを見ると親族はそこで手が止まる。遅々として進まないからだ。
断捨離は生きる自分のみならず、遺族のためでもあろう。モノに宿った故人の霊との決別。
岳連総会と同窓会総会 ― 2022年04月16日
午後2時からWEBミーティングで愛知岳連の総会に出席。1年間の事業報告、会計報告、など。また法人化準備委員会の事務もいよいよ本格化する。16時前に終了し、名古屋駅前へ。
名鉄グランドホテルの宴会上で母校の同窓会の総会と懇親会が久々に開催されて出席した。オープニングはチアガールの演技を拝見した。若い娘のはつらつとした演技に見とれる。学長、同窓会会長、名古屋支部支部長などが挨拶後は美味しい料理が運ばれて飲食による交流になる。同窓の公職の人らも紹介された。
名鉄グランドホテルの宴会上で母校の同窓会の総会と懇親会が久々に開催されて出席した。オープニングはチアガールの演技を拝見した。若い娘のはつらつとした演技に見とれる。学長、同窓会会長、名古屋支部支部長などが挨拶後は美味しい料理が運ばれて飲食による交流になる。同窓の公職の人らも紹介された。
行く春の名古屋の街に響きけり 拙作 ― 2022年04月17日
会合を終えて丸善のある栄の街に行く。スカイル前で広沢一郎氏が参院選立候補の狼煙を挙げた。日本維新の会、減税日本が推す。広沢氏は昨年前では名古屋市副市長だった。この春、教育長に推挙されたが、減税以外は賛意が得られず、空席になった。しかし広沢氏はまだ若く隠居でくすぶる年齢ではない。7月に迫る参院選は激戦だがそこへ殴り込みをかけた形である。
今日は小雨そぼふる中、栄のど真ん中で第一声をあげた。とりわけ河村市長の声は図太く聞こえる。百戦錬磨で鍛えられた政治家のオーラであろう。
終わりかけたので丸善の店に急いだ。目当ての本を買って出たら丸栄の店だったところも新しい店舗に生まれ変わっていた。歩道からは食品店が見えた。ちょっと覗いたが買いたいものはない。丸の内の事務所で小休憩して帰宅。
今日は小雨そぼふる中、栄のど真ん中で第一声をあげた。とりわけ河村市長の声は図太く聞こえる。百戦錬磨で鍛えられた政治家のオーラであろう。
終わりかけたので丸善の店に急いだ。目当ての本を買って出たら丸栄の店だったところも新しい店舗に生まれ変わっていた。歩道からは食品店が見えた。ちょっと覗いたが買いたいものはない。丸の内の事務所で小休憩して帰宅。
冷雨に思う ― 2022年04月18日
昨日も小寒かったが。未明夜から段々冷えてきた。天気図を見ると日本列島を薄い雲が覆っている。太陽が遮られて気温が上がらず小寒いわけである。
午前中には朝早く起きたが、新聞を取りに行くとまた二度寝になってしまった。民生委員が訪問して安否を確かめに来られた。老人住まいは行かねばならんそうだ。御苦労である。
朝ごはんは昨夜作り置きした焼きそばを温めて食べた。GWを前に冷蔵庫の整理を視野に入れて買い置きを控えている。外食も増えると食品が傷むので結果廃棄することになる。無駄は出来ない。
山岳会の仲間2人が奥美濃の山に行ったがGPSが止り、下山した。さすがの猛者も雨には強行できず中止したのだろう。徳山湖が出来て旧門入にはいることができず、赤谷を越えヤブ尾根を歩こうとしたのだろう。残雪が充分あれば良いが少ないと難渋する。多分、思った以上に雪がないと思う。
午前中には朝早く起きたが、新聞を取りに行くとまた二度寝になってしまった。民生委員が訪問して安否を確かめに来られた。老人住まいは行かねばならんそうだ。御苦労である。
朝ごはんは昨夜作り置きした焼きそばを温めて食べた。GWを前に冷蔵庫の整理を視野に入れて買い置きを控えている。外食も増えると食品が傷むので結果廃棄することになる。無駄は出来ない。
山岳会の仲間2人が奥美濃の山に行ったがGPSが止り、下山した。さすがの猛者も雨には強行できず中止したのだろう。徳山湖が出来て旧門入にはいることができず、赤谷を越えヤブ尾根を歩こうとしたのだろう。残雪が充分あれば良いが少ないと難渋する。多分、思った以上に雪がないと思う。
80歳の壁を乗り越える処方箋(週刊新潮4/21号から) ― 2022年04月19日
執筆者は老年医学の専門家の和田秀樹氏。このところ70歳とかで区切って様々な情報発信をしている。今回は10年アップして80歳の壁と来た。
キャッチコピーは
病に斃れる70代と元気な80代の差は何か、というもの。
コロナを恐れず、外に出よ。
免疫力と回復力を備えている。よく食べる、よく運動する。
大見出しのみ挙げると
〇楽しいことにおカネを使う
動くとともに頭を使え。
〇男性ホルモンを分泌させる
健康診断の結果に基づいて薬を飲み過ぎるな・
〇「人生いろいろ」の方が
老いを受け入れよ。
小泉元首相のようにいい加減に生きよ。
80代後半にピークを定めよ。・・・居る居る、80歳でエベレストに登った三浦雄一郎さんとか。
和田先生は1960年生まれの62歳。老年医学を専門とする以上は6000人以上と多数の老人を診てきた知見の集積があるのだろう。言わば、演繹法と帰納法でいえば帰納法で解説されているのだろう。
キャッチコピーは
病に斃れる70代と元気な80代の差は何か、というもの。
コロナを恐れず、外に出よ。
免疫力と回復力を備えている。よく食べる、よく運動する。
大見出しのみ挙げると
〇楽しいことにおカネを使う
動くとともに頭を使え。
〇男性ホルモンを分泌させる
健康診断の結果に基づいて薬を飲み過ぎるな・
〇「人生いろいろ」の方が
老いを受け入れよ。
小泉元首相のようにいい加減に生きよ。
80代後半にピークを定めよ。・・・居る居る、80歳でエベレストに登った三浦雄一郎さんとか。
和田先生は1960年生まれの62歳。老年医学を専門とする以上は6000人以上と多数の老人を診てきた知見の集積があるのだろう。言わば、演繹法と帰納法でいえば帰納法で解説されているのだろう。
信州の古道~杣路峠 ― 2022年04月20日
山岳古道の調査のために歩いた。江戸時代は飯田街道と呼ばれた。今の国道153号である。名古屋市から豊田市足助町、稲武町、長野県飯田市へと通じる。三河湾で取れた塩を足助まで運び、荷馬に載せて塩尻市まで運んだから塩の道ともいう。今回は飯田街道のうち、昔のままに残されている峠の山道を歩いた。
最初は伊勢神峠を上下した。ここは東海自然歩道に整備されて道標が建ち、誰でも手軽にハイキングが楽しめる。多くの峠が車道になる中でここは古い時代に一車線分の幅のトンネルが掘られて峠越えはない。更に下にトンネルが掘られている。そして新たに大型車がすれ違える幅の新トンネルが工事中である。
伊勢神峠は斃れた荷馬を弔うための馬頭観音も建っていた。塩は重いから馬も喘ぎ喘ぎ上り下りしたであろう。歴史遺産とも言える。結構太い杉木立がいい雰囲気の峠道だった。ここは短いので早く下山したから次の目的地の杣路峠の入り口に向かった。
国道153号を東へ向かい稲武を通過、木地山の先に入り口がある。しばらくは林道を歩くが少しで沢沿いの山路に入る。伊勢神峠道と違ってここはまったくの未整備だから、道幅は狭く、沢に架かる橋も壊れそうだ。やがて沢から離れるが、道は左折するところを直進してしまった。途端に道らしい雰囲気はなくなり、右往左往して道の痕跡を探す。沢の左岸に石仏を眺めると峠道とすっかり信じた。それでも道らしい気はしない。地形図では沢から離れ山腹の破線路に描かれる。結局、おかしいので左へ左へと徒労とも思えるトラバースをしてやっと峠道と確信できる踏み跡に到達した。そこからすぐに愛知県と長野県境の境の道標の建つ所に着いた。ab780m付近。信じられないほど緩やかな蛇行を繰り返して大きなブナの木のあるユキヨシ親王の社に着いた。ここは以前、長野県側から来たことがある。そうして新たな林道をたどると待望の杣路峠だった。とはいえ、新たな林道の工事で切通しになり、石仏ははるか上に見え、峠によくある道標はなく、通り過ぎた。メンバーの一人が何気なく見た印が杣路峠の道標だった。プラスチック製のお粗末なものである。これで目的は完遂した。
林道が四方に分かれている。885mの3等三角点畑ヶ洞は徒歩30分程度とみて帰りがけの駄賃に触りに行くことにした。展望、山頂標もなく、頂上らしくもないが、本来の山頂はこんなもので素っ気ない。ここで初めておにぎり一つを食した。久々の山行で軽登山ではあるが腹筋が締まって空腹感はないので水分はごくごく飲んでいる。
後はそろそろと下山。県境に戻り、峠道の発見場所からは未知の峠道になる。まことに歩きやすく、ずいぶんカーブもしている。重い塩を背負った馬がゆっくりと体に負荷を減らすように緩やかなカーブになっている。一か所は決壊場所もあったが上から巻いた。問題の道迷いの分岐には大きな栃の木があった。直進すると枝道と分かった。そこで少し戻ってみたら栃の木のあるところで左へ急カーブしていた。ここだったんだ。
道迷いの原因も判明して車に戻った。国道153号を走り、水別峠の手前で中馬記念館?に入館し塩の道をにわか勉強した。すべて終わり意気揚々と帰名。
資料を見ても植生についての記述はない。しかし、ユキヨシ社の大ブナといい、最後に見た唯一の大栃も樹齢200年はあるだろう。あの石仏は寛政年間だった。220年前の徳川家斉の時代だ。当時は栃、ブナ、ケヤキなどの自然林の森であっただろう。あの大木は象徴的に残されたと思う。
石仏はおそらくは岡崎市の石屋かも知れない。稲武の駒山には馬が列をなしたという。多数の馬が塩だけでなく石仏を運んだであろう。
樹齢200年といえば、設楽町の学術参考林に残された原生林も200年位だった。ブナ、トチ、ケヤキなどの大木が多かった。
段戸の国有林は戦前は御料林であり、江戸時代は天領だったから勝手に伐採は出来なかった。山周りのお役人も居たらしい。明治維新後に古橋が政府に伐採のお伺いをたてて井山が伐採された。杉、桧が植林された。
最初は伊勢神峠を上下した。ここは東海自然歩道に整備されて道標が建ち、誰でも手軽にハイキングが楽しめる。多くの峠が車道になる中でここは古い時代に一車線分の幅のトンネルが掘られて峠越えはない。更に下にトンネルが掘られている。そして新たに大型車がすれ違える幅の新トンネルが工事中である。
伊勢神峠は斃れた荷馬を弔うための馬頭観音も建っていた。塩は重いから馬も喘ぎ喘ぎ上り下りしたであろう。歴史遺産とも言える。結構太い杉木立がいい雰囲気の峠道だった。ここは短いので早く下山したから次の目的地の杣路峠の入り口に向かった。
国道153号を東へ向かい稲武を通過、木地山の先に入り口がある。しばらくは林道を歩くが少しで沢沿いの山路に入る。伊勢神峠道と違ってここはまったくの未整備だから、道幅は狭く、沢に架かる橋も壊れそうだ。やがて沢から離れるが、道は左折するところを直進してしまった。途端に道らしい雰囲気はなくなり、右往左往して道の痕跡を探す。沢の左岸に石仏を眺めると峠道とすっかり信じた。それでも道らしい気はしない。地形図では沢から離れ山腹の破線路に描かれる。結局、おかしいので左へ左へと徒労とも思えるトラバースをしてやっと峠道と確信できる踏み跡に到達した。そこからすぐに愛知県と長野県境の境の道標の建つ所に着いた。ab780m付近。信じられないほど緩やかな蛇行を繰り返して大きなブナの木のあるユキヨシ親王の社に着いた。ここは以前、長野県側から来たことがある。そうして新たな林道をたどると待望の杣路峠だった。とはいえ、新たな林道の工事で切通しになり、石仏ははるか上に見え、峠によくある道標はなく、通り過ぎた。メンバーの一人が何気なく見た印が杣路峠の道標だった。プラスチック製のお粗末なものである。これで目的は完遂した。
林道が四方に分かれている。885mの3等三角点畑ヶ洞は徒歩30分程度とみて帰りがけの駄賃に触りに行くことにした。展望、山頂標もなく、頂上らしくもないが、本来の山頂はこんなもので素っ気ない。ここで初めておにぎり一つを食した。久々の山行で軽登山ではあるが腹筋が締まって空腹感はないので水分はごくごく飲んでいる。
後はそろそろと下山。県境に戻り、峠道の発見場所からは未知の峠道になる。まことに歩きやすく、ずいぶんカーブもしている。重い塩を背負った馬がゆっくりと体に負荷を減らすように緩やかなカーブになっている。一か所は決壊場所もあったが上から巻いた。問題の道迷いの分岐には大きな栃の木があった。直進すると枝道と分かった。そこで少し戻ってみたら栃の木のあるところで左へ急カーブしていた。ここだったんだ。
道迷いの原因も判明して車に戻った。国道153号を走り、水別峠の手前で中馬記念館?に入館し塩の道をにわか勉強した。すべて終わり意気揚々と帰名。
資料を見ても植生についての記述はない。しかし、ユキヨシ社の大ブナといい、最後に見た唯一の大栃も樹齢200年はあるだろう。あの石仏は寛政年間だった。220年前の徳川家斉の時代だ。当時は栃、ブナ、ケヤキなどの自然林の森であっただろう。あの大木は象徴的に残されたと思う。
石仏はおそらくは岡崎市の石屋かも知れない。稲武の駒山には馬が列をなしたという。多数の馬が塩だけでなく石仏を運んだであろう。
樹齢200年といえば、設楽町の学術参考林に残された原生林も200年位だった。ブナ、トチ、ケヤキなどの大木が多かった。
段戸の国有林は戦前は御料林であり、江戸時代は天領だったから勝手に伐採は出来なかった。山周りのお役人も居たらしい。明治維新後に古橋が政府に伐採のお伺いをたてて井山が伐採された。杉、桧が植林された。
最近のコメント