宮坂静生『俳句表現 作者と風土・地貌を楽しむ』(平凡社)出版2024年08月01日

「俳句はキレ、精いっぱい生きて詠む 『俳句表現』を出版した本紙俳壇選者、宮坂静生さん」
https://www.sankei.com/article/20240713-WFWZGKGCJNPOBDGEGRBDYAPSPA/

 産経俳壇(木曜掲載)選者の俳人、宮坂静生さん(86)。俳句人生は70年を超えるが、「俳句というものは分からない。やればやるほど分からないねえ」というのが率直な思いだ。このほど出版した編著『俳句表現 作者と風土・地貌(ちぼう)を楽しむ』(平凡社、2970円)でも、出会った俳人や俳句を通して、俳句とは何かを模索し続けている。

 作者と作品、多様な視点で
「俳句表現 作者と風土・地貌を楽しむ」の表紙
「俳句表現 作者と風土・地貌を楽しむ」の表紙
本書は、俳句作者の生涯をたどり、いのちが煌(きら)めいた一瞬をとらえた俳句作品を紹介する「いのちの煌めき」、文学作品を通して日本風土の多様性や日本人の生き方を探る「詩歌のちから」、地域の暮らしに根差した多彩な季語の魅力をたずねる「わが産土、わが風土」など、多様な視点から俳句作者と俳句作品に迫った俳句の解説書だ。

 「いのちの煌めき」は、NHK・Eテレの俳句番組・雑誌の「NHK俳句」で平成19年から21年にかけて放送・連載したエッセーで、24人の俳句作品をその人生とともに取り上げている。がんと闘い、刻々と死期に近づく痛苦の世界を遊び心も交えて俳句にした演芸評論家・エッセイストの江國滋。からだのすべての筋肉が失われ、話すことも手足を動かすこともできない難病、筋萎縮性側索硬化症(ALS)と格闘する日々を俳句にしたためたジャーナリストの折笠美秋。鬼籍に入った俳人が残した俳句作品から、いのちとは、生きるとはどういうことかを考えさせられる。

 かつて勤務していた信州大学で医学・医療技術系の学生に死生観を教えていた。同書で人間の生や死にまつわる俳句作品を取り上げるのは、こうした経歴と無関係ではないだろう。

 「私が大学で教えていたのは、日本でまだ死生学という言葉も浸透していない頃。死生学は、メメントモリ(「死を想え」という意味を表すラテン語)が原点の学問。生から死を考えるのでなく、人間は死ぬということを前提としながら生を考える。昔と違って今はこうした考えが行きわたってきましたね。ただ、死生学的なことを表に出すと教条的になってしまう。俳句は自由ということが一番大事。俳句を作るときも選評するときも教条的に、つまり上から目線にならないように気を付けている」

 虐待死の女児を悲しみ
俳句は花鳥風月を詠むものと考えられがちだが、特別顧問を務める俳句団体「現代俳句協会」は「俳句自由」を掲げ、社会的なことも題材にしてさまざまことを詠む。

 「真冬日の結愛(ゆあ)ゆるしてくださいゆるしてください」は、平成30年に東京都目黒区で起きた虐待死事件の女児の死を悲しんで宮坂さんが詠んだ句だ。当時、亡くなった女児がノートに書いた哀切な叫びに胸が張り裂ける思いを抱いた人は多いだろう。宮坂さんは「私の俳句は、結愛ちゃんの哀切な叫びほどに読み手の心に届くものは一句もない」と打ち明け、女児が残した言葉の重みにうなだれる。

 また、「どの子にも涼しく風の吹く日かな」は、6歳の次女を急性小児麻痺で一夜にして亡くした俳人、飯田龍太の句。「明るい子供詠でありながら、一抹の寂しさが漂うのは、死の真実の前で生が『つかのまのいのち』を感じさせるからでしょうか」と読者に問いかける。俳句作品はそれだけで独立したものとはいえ、作者の背景を知ることで新たな作品の一面が浮き上がってくる例といえよう。

 自分から、普遍に
俳句鑑賞学を提唱し、作句と同時に優れた鑑賞力をつけることが俳句作者には必要と説く宮坂さん。現代の俳句の見本と評価する句は、飯田龍太の「一月の川一月の谷の中」。

 「1月の川が1月の谷の中を流れることを詠んだ句です。以前は、なんでそんな当たり前のことを詠むのかと思っていた。だけど、俳句をたくさん読んでいると、この句が永遠のことを詠んだ句ではないかと思うようになった。この世で出会った一月の川が、永遠の谷の中を流れる、自然の骨格を詠んでいる。いろいろな解釈があるけど、僕の解釈が一番いいと思うね(笑)」

 自身の代表作は「はらわたの熱きを恃(たの)み鳥渡る」。長野県高山村の山田牧場で詠んだ句で、菩提寺である同県千曲市の龍洞院に句碑が立つ。

 産経俳壇に寄せられるはがきの選句・選評に加え、主宰する俳句誌「岳」の運営、全国各地での講演・俳句指導、原稿執筆と忙しい日々を送る中、第14句集の『鑑真』(本阿弥書店)を7月に出す。

 「何年やってもこれが俳句だというのが分からない。ただ、人間が生きていくうえで分からないことを詠むのが俳句ともいえるかな。だからさまざまなことをファッションを楽しむように詠む。決まりはない。そして、始めはみんな自分が思っていることを俳句にするんだけど、やっているうちにだんだん自分というものが消えていく。窓口は自分だけど、普遍というか、誰にとっても共通したことになっていく」

 「俳句はキレが大事。嫌なことを鬱々と考えるのでなく、スパッと切るようにね。だって、誰もがいつ死ぬか分からないんだから、一日一日を粋よく生きなきゃ。毎日を精いっぱい生きて、それを俳句に詠む。そうすればおのずといい句ができるのではないでしょうか」(平沢裕子)

宮坂静生
みやさか・しずお 昭和12年、長野県松本市生まれ。俳人、俳文学者。信州大名誉教授。俳句誌「岳」主宰。「現代俳句協会」会長(平成24~30年)を経て、現在は特別顧問。19年読売文学賞、31年現代俳句大賞、令和3年詩歌文学館賞など。句集に『青胡桃』『草塊』、俳句評論集に『季語の誕生』『俳句必携1000句を楽しむ』など多数。
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金子兜太さん死去
現代俳句協会の宮坂静生会長「最後まで現役を貫いた」
2018/2/21 12:29
 現代俳句協会の宮坂静生会長の話 「戦後日本の俳句界を担い、最期まで現役を貫かれた金子さんは、俳人にとって光のような存在でした。現世をいかに生きるか、最期まで体を張って、粘り強く追求された。それは戦時中、トラック島で生死をさまようギリギリの体験をしたことが、背景にあったからだと思います。ほかの俳人が戦争体験から目をそらしてしまう中、金子さんはそれと真っ正面から向き合い、平和を求める俳句を作られた。金子さんの生き方そのものが、あの厳しい俳句を生んだと思います」
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宮坂静生(俳人) 金子兜太の優しさ
2018/4/8 09:53

現代俳句協会創立70周年記念大会での金子兜太さん(手前)と筆者=平成29年11月23日、東京・内幸町

 2月20日、金子兜太(とうた)さんが98歳で亡くなった。近年、兜太さんとの縁(えにし)を感じることが多かった。

 昨年11月23日、勤労感謝の日に帝国ホテルで開かれた現代俳句協会創立70周年記念大会は名誉会長・金子兜太さんの長寿のお祝いの会のようであった。

 兜太さんは17年間、協会の会長を務め、おのずからシンボル的存在であった。当日は特別功労者表彰状を差し上げた。兜太さん最良の日。そこで突如、唄(うた)うかといって、秩父音頭を唄われた。

 「秋蚕(あきご)仕舞うて麦まき終えて 秩父ナアー 秩父夜祭待つばかり」

 喉から声をしぼり出すように、懸命に唄われた。絶唱であった。

 記念大会のしばらく前に、私は『季語体系の背景 地貌季語(ちぼうきご)探訪』という本を出した。各地に残る季節のことばを「地貌季語」と名付けて蒐集(しゅうしゅう)し、大切さを喚起した本である。例えば、「どんぐい」(北海道での虎杖(いたどり)の呼称)や「桜隠し」(新潟県の地域での桜時の雪の方言)など。兜太さんに本の帯文を書いて貰(もら)った。

 産土(うぶすな)を見つめ愛着ある土地のことばを探ることで真実の日本がわかるとある。わが意を得たうれしいことばであったが、これは兜太さんの十八番(おはこ)の秩父音頭に通じる、ご自分が句作を通し求めている思いでもあったのであろう。
以下略
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やっぱり、宮坂静生と金子兜太は産土=地貌で通じ合っていた気がする。兜太が朝な夕なに眺めた両神山を産土と意識して句集名にも『両神』、『東国抄』と命名した。これが宮坂の言う地貌である。遡ると前田普羅の地貌論にもつながる。登山家の小島烏水も地貌を言うことがあった。

下げ過ぎ、日経平均2000円も大暴落2024年08月02日

 元々は円を先物で売って円安を引出した。1ドル160円が行き過ぎなので日銀が冷やし玉を投げた。先物売りを買い戻す。1ドル149円まで戻った。慌てた投資家が狼狽売りした。これは下げ過ぎだろう。相場はいつも行き過ぎである。先物の売りは売り切って、空売りで下げに拍車がかかったのが今日の暴落。
 投資家が売り過ぎに気が付いて今後は買い戻す動きだろう。今回の下げで買い過ぎていた投資家は追証もありまだ調整の下げはあるだろう。利上げの動きも今後またあり得る。
 日米金利の差が4%あるのでキャリートレードはまだまだある。日本の銀行で安い円を借りて、円を売り、ドルを買う、得たドルで米国株を買う動きは続く。

原稿を送信2024年08月03日

 奥秩父のドライブ見聞記を書いた。山岳会向けは6000字にもなった。結局俳句の部分はかなり割愛した。その割愛した文を所属俳句結社向けに編集した。つまり1本の原稿をそれぞれの読者向けに編集した。
 山岳会向けには山岳名著の名文を引用しながら奥秩父が近代の登山家の揺籃期の山域だった旨にまとめた。俳句向けには金子父子のふるさとの皆野町での見聞をまとめた。

子どもらの歓声高き川遊び 拙作2024年08月04日

 朝、松屋へ朝食を食いに行くために自転車で外出したら天白川の左岸側の河川敷に天幕が張ってあった。朝食後はきつい坂道を降りずに自転車を漕いで登坂した。太ももにかなりきつい負荷がかかる。運動不足を少しでも解消しておきたい。
 植田へ下って、スーパーで買い物。行きがけに見た天白川では多数の子ども等が川遊びしていた。天白川の源流は長久手市辺りの標高162mの小山から流れ出る。流域が狭く清流でもないのです。しかし天白区は汚染が余りないので大都会でもこんなことが出来る。

NV350キャラバンを受領2024年08月05日

 午後3時前に陸送の人が来られてNVキャラバンを無事に受領した。7/27に手放して以来、10日間は自転車で用足ししていたが、やっと元に戻った。
 早速、JA天白農協に行って任意保険の書き換えの手続きを済ませた。更に天白警察署で駐車場の標章も書き換えた。隣にある日産プリンスの支店に次からは車検などのサービスを依頼した。ディーラーは何かと頼りになるからだ。
 次は給油に行く。計器盤ではかなり少ないので給油した。近くのスタンドで軽油の価格を見ると137円だが、イオンのカードで入れると133円まで下がった。急激な円高を反映して原油価格も値崩れしたのだろうか。

高齢運転者等専用駐車区間制度の手続きへ2024年08月06日

 8/5に新しい車が来たのでさっそく天白警察署へ出向いて旧の標章を返却して車が変わった旨を告げて更新の手続きを行った。これでまた高齢者としての恩典を継続できる。
 天白警察署を出てすぐの日産のディーラーに行って今後の車検整備等のサービスを受けられるように申出て置いた。今までは営業社員の転勤の影響で大府市まで行っていた。車を変えたのを機にサービスの拠点も変えた。
 待機中にちらちらと日産のディーラーの店舗内はEVとEパワー車の展示車を見た。買う気は起きないが今後はこれが主流になるのだろう。

三日目も会合続き秋立てり2024年08月07日

 8/5は古道の会議、8/6はジムスカの理事会、今日はTSSの例会への出席と丸の内事務所のチエックのために外出。
 まだ炎天の最中の午後3時頃天白川の堤防道路を歩いていたらアキアカネが飛んでいた。涼しくもないがアキアカネには過ごしやすい条件になったのか。やはり季節の変化は着実に歩む。
 事務所へ寄ったら岳連の機関誌が届いていたのでさっそく本日配布できる。但し暑いせいで出席者はたった5名になった。いつものにぎやかな女性陣は1名だけだった。それでも粛々と例会は進めた。はねてからざめしやで夕飯。とんちゃんの熱々の炒め物を当てにビールで流し込んだ。

鈴鹿の釈迦ヶ岳で行方不明2024年08月08日

 名古屋市昭和区の65歳の男性が8/4に鈴鹿の釈迦ヶ岳に行くと言って出たまま帰宅しないと四日市西警察署へ捜索願いがあった。警察官ら8名の態勢で捜索するが今日現在でも発見されていない。

 11年前も釈迦ヶ岳で行方不明があり、山岳会の3人で捜索協力に行った。5/25から遺体が発見された6/9までかかった。
 
鈴鹿・釈迦ヶ岳で行方不明?④
http://koyaban.asablo.jp/blog/2013/06/09/6850359

 その後も名古屋市中村区の60代の男性が行方不明になったが早々に捜索活動は打ち切られた。家族の縁が薄く捜索への要望が弱いとこうなるのだろう。この人は3年後に近江側の沢の滝つぼで発見された。近江側へ迷い込んでしまったのだろう。

体重が74kg台になった2024年08月09日

 夜シャワーを浴びた後、体重計に載ると74.5kgになっていた。6/17当時の78kgに近い体重から3.5kg減少した。当面の目標である73kgに後少しになった。
 糖質ダイエットで減量して便秘が解消されてきた。小便の色が濃厚な色から薄くなってきた。腎臓などの臓器にも良い影響があったみたいだ。ウェストベルトも締める穴が縮まったから腹部の脂肪も減っているのだろう。

猛暑の鈴鹿を歩く2024年08月10日

 朝4時過ぎに出発。R23で四日市市経由で菰野へ向かう。早朝はさすがに交通量が少ない。四日市市の松屋で朝食を済ます。R477を走って朝明渓谷駐車場へは7時20分到着。
 駐車場の管理人に500円支払う。釈迦ヶ岳で行方不明になった人の状況を聞く。現在までに発見はされていない。警察の捜索は1週間で終わるため10日からは山岳会の会員らが手分けして捜索しているらしい。NTTドコモの電波の反応は東の庵座のの滝、中尾根付近だそうだ。どこかの谷に落ちたのだろうか。ご無事を祈る。
 7時23分に出発。中峠分岐の道標で左折、谷川を渡渉した辺りは踏み跡が明瞭ではない。目印も見当たらず、山に向かって行くと古い林道が現れた。砂防堰堤の工事用の廃道だろうか。鈴鹿の中央部は風化花崗岩でできているので崩壊が激しい。あちこちに砂防堰堤が作られている。廃道の終点から枝谷を渡渉すると登山道が安定的に続いた。
 しばらくは支谷を歩くがやはり堰堤がある。左岸には石垣も見える。最後の堰堤を過ぎると谷が立ってきた。ロープも設置してある。
 急登を終えると尾根を本谷へ乗り越す。ここはかつて秋の中峠から下った際、薄暗くて、乗り越しのポイントを見落として滝の方へ進み、音が大きいのでおかしい、と引き返して改めて乗り越しを見つけた思い出がある。
 ここまで来ると中峠も近い。峠は平地が近江側迄続いて開放的なところだ。峠から西へ下水晶谷に沿う登山道を辿る。緩斜面に雑木林が広がる素敵な場所である。ツエルトを持ってくればキャンプもできる。水はすぐそばをせせらぎのように流れる。古い炭焼窯の跡を2ヶ所見た。
 しかし、標高が下がると急に暑さを感じた。金山から流れる谷の渡渉地点で休憩の後引き返した。下水晶谷は花崗岩の美しい谷だが雨が降らないこともあり藻が生えていた。これでは興趣に欠ける。
 中峠に戻って金山を目指す。炎天下で暑かったが多少は風があり樹林もあるので少しは涼しい。いくつもの小ピークを越えた。最後の金山からは独立峰のように聳える釈迦ヶ岳を真正面に仰いだ。
 あの樹海の中に救助を待っている登山者がいるのだろう。
 金山から羽鳥峰へ向かう時、ちょっとしたミスをした。来た道の先に登山道が続く習性で道標もなく明瞭ではない尾根に入った。登山者の気配がないのでおかしいと思い、少し来た道を戻って見たら分岐がある。ちょうど倒木が進入禁止を示すように落ちていたので廃道と思ったわけだ。
 ここからも若干のアップダウンを繰り返し炎熱の羽鳥峰峠に着いた。12時を過ぎた。周囲は白砂青松の表現の通り白い花崗岩の砂地である。青松はないが低灌木の緑が美しい。一幅の山岳画のように思えた。緑陰に入って昼食。さっき汲んで置いた下水晶谷の沢水で梅干しのおにぎりを流し込む。山蟻が盛んに体にまとわりつく。塩分を欲しがっているのだろうか。
 昼食後、険しい石段、石畳の登山道を下って朝明渓谷駐車場に到着。西山荘の自販機の清涼飲料水を立て続けに2本飲んだ。
 帰路は久々に阿下喜温泉あじさいの里に入った。8/10から盆休みは夏季特別料金ということで900円にアップ。個人的には許容範囲は700円程度なのでぎょっとする。経営母体が変わったみたいだ。
 ゆったり湯に浸かった後はまた地道で帰名した。