西穂山荘から天狗のコル2019年08月11日

 朝3時、相棒はもう起床していた。売店へ移動して朝食代わりの弁当をとるがあまり食欲はなくおにぎり1個のみ食べた。そのうち、JACのOさんが名乗って私にあいさつされた。同じ委員会のメンバーであり、奥穂へ向かうという。彼らはさっさと弁当を食べて出発していった。早いパーティは2時半に出発、続々とヘッドランプが続いていた。山荘前の賑わいが途絶えたところでようやくこちらロートル組は4時30分に出発した。もちろん「まだへっとランプが要る。早目に出たいがどこかでもたついて邪魔になることへの忖度もある。
 丸山、西穂独標、西穂までは一般登山道を行く。山頂が近づくと登山者の往来が増えてきた。鎖場では登攀と下降組で譲り合いになる。登山者が多いとそういうことになる。団子になってゆくともっともたつくだろう。
 さて、約3時間で西穂に到達すると、すぐに下降が始まる。ストックを畳んでパックする。鎖場になるのでスピーディには行かない。慎重に下降する。間ノ岳、天狗岩、天狗の頭を登攀したり、下降したりを繰り返す。緊張で喉がカラカラになるのでしばし休憩を入れて水を飲む。カメラ撮影は余裕がなく1枚も撮れなかった。
 実は検索すると8/11に上高地から西穂山荘へ登り、私たちを追い抜いてジャン、奥穂、岳沢小屋、上高地と1日でトレースした韋駄天が居ました。その人の写真の時刻ではヘリが飛んできたのは10時過ぎでした。天狗のコルへは10時49分と記録。われわれは12時過ぎですから抜かれてしかも1時間以上早いペースで歩いています。
 我々は天狗岩付近から奥穂の遭難者を救助体制にあるヘリを見ています。韋駄天氏らの写真では山名板のない頂上を天狗の頭としています。われわれはここはどこなんだろうと、訝っていました。結局天狗の頭だったんですね。しかも韋駄天氏らは西穂から2時間30分で到達。我々はコルに着くのが12時過ぎですから4時間はかかった。すると天狗の頭は1時間引いても4時間かかった。圧倒的な彼らの登攀力に舌を巻く。
 岩稜の連続のみならず、脆弱な岩質、へつり、垂直の鎖場、ナイフリッジ、直射日光をまともに受けながら、緊張で乾いた喉を飴でごまかすがかえってねばついて飴が溶けなかった。
 それでも60代後半のロートル組2人は天狗のコルまでは辿り着けた。ここでは初めてルートの選択ができる。前進か、エスケープか。12時過ぎであり、ジャンにはガスが立ちこめる。遭難者の救助でホバリング中のヘリもガスが晴れないとみて引き返していった。結果、奥穂の小屋まで後4時間というか、午後5時になってでも行くか、どうか。2人で検討した結果、岳沢小屋へ下る方を選択した。相棒がかつて岳沢小屋から往復したことがあったことも心強い。
 前途変更を決心するともう気楽な気分になり1時まで大休止。どんどんガスが湧いてくる。これは靉靆というのだろう。
 13時過ぎ、左手の倒壊したコンクリートで補強した小さな避難小屋を見た。がれきの急斜面を下降する。地図上では廃道で破線路は削除されているが、白いペンキの〇印と矢印でしっかり残っている。とはいえ、浮石の連続で歩きにくい。岩雪崩を起こさないようにゆっくり踏みながら下降する。下部では傾斜も緩んで道型が出てきた。ガスは少しぽつりと来たが降雨ということではない。幸い雷雲の活動は収まっている。
 意外にも前から2人パーティーとすれ違う。クライミングだろう。やがて草付きの尾根上の斜面に乗りストックを出してペースを上げる。地形図では間ノ沢と天狗沢の間のわずかな盛り上がりに見える。草付きになるとシモツケ、フウロソウ、キンバイ、トリカブト、アザミなど多彩な高山植物の群落になった。そしてまた意外にも後方から軽装のクライマー2人に抜かれた。聞くとジャンから下ってきたという。
 草付きの緩斜面から天狗沢を横切り、無名の小沢を横切る。そして長い草付きの斜面をたどると岳沢小屋が見えてきた。 (多分)、コブ沢を横切ると小屋に着いた。約3時間で16時を回った。一方で韋駄天氏らは16時38分に河童橋にゴールインしたそうな。
 小屋ではまず缶チューハイ1本を仰ぐように飲み干す。そして静かな山荘の生活になじんでいく。とても良いロケーションの小屋である。乗鞍岳が素敵な姿で見える。近くには六百山を従えた霞沢岳がやたらに大きくそびえる。背後は西穂からジャン、奥穂、前穂、明神の岩峰の大伽藍である。
 気になる天狗のコルから奥穂へは他人の記録では最大の難関ルートでありロープを出す場面もあるとか。

記録
https://visitmatsumoto.com/tokotoko/%E8%A5%BF%E7%A9%82%E9%AB%98%E5%B2%B3%EF%BD%9E%E5%A5%A5%E7%A9%82%E9%AB%98%E5%B2%B3%E3%80%81%E5%B2%A9%E7%A8%9C%E7%B8%A6%E8%B5%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%88%E8%B8%8F%E7%A0%B4/

トレイルラン
遥かなる穂高の呼び声 西穂~ジャン~奥穂~上高地 周回
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-1967695.html

岳沢小屋から上高地、新穂高へ2019年08月12日

 老鶯の鳴き声で目が覚めた。すぐ近くまで来ているようだ。なんと優雅な山小屋であることか。
 昨夜は夕食は食べたが朝食は依頼しなかった。相棒はコーヒー好きなので淹れ立てのコーヒーを頼んでパンをかじった。それが朝食である。のんびりと岳沢小屋からの一級の山岳景観を楽しんだ。
 さてと重い腰を上げた。重太郎新道を上高地へ向かって下った。小岩のごろごろした歩きにくい一般登山道ではあるが昨日の悪路と比較すると何と歩きやすいことか。
 樹林の中の道をようやく車道と交差した。上高地の一角に着いたのだ。途端に観光客が増えた。気温も高くなった。遊歩道を歩くと清流が美しい。梓川の流れに岳沢の伏流水も混じるのだろう。
 平坦で安楽な道を行くと森の奥に瀟洒な建物が見えた。あれが日本山岳会の上高地山岳研究所か。相棒と別れて立ち寄ることにした。管理人さんが1人と他の客など数名がザックなど置いてあった。セルフだがお茶をいただく。すると見たことがある男性と出会った。岐阜支部のSさんとKさんたちだった。Kさんとは笈ヶ岳に登ったことがある。しきりに昔話になった。
 上高地山岳研究所を辞して河童橋まで歩く。そこからの穂高連峰は絵になる風景だ。何度も見たがやはりカメラに収めた。そして相棒と出会い、BSへ。平湯行きに間に合った。平湯では新穂高に連絡した。新穂高では鍋平に自力で登る元気はなくまたロープウェイのお世話になった。車に戻って一段落。槍見橋の手前の登山者専用をうたう温泉入浴と昼食を済ませた。R41で帰名した。

エミール・ジャべル『一登山家の思い出』(尾崎喜八・訳)を読む2019年08月13日

 今夏は穂高連峰に挑戦。敢え無く天狗のコルで敗退した。

 8/11の夜、岳沢小屋で瞑想した。この時、尾崎喜八の名訳でなる『一登山家の思い出』がふと浮かんだ。
 我々が敗退を決めたあの天狗のコルこそはジャベルの言う”コル・デ・パレッス(怠け者の峠)”ではないか、と。
 古書で買った文庫本が見つからず、検索で以下がヒットした。特に⑦を読むとヨーロッパアルプスであれ日本アルプスであれ、変わらないのだと、思う。

 ジャベルのことども
https://aach.ees.hokudai.ac.jp/xc/modules/Center/Review/trance2/arctic.html
 本書「一登山家の思い出」はジャベルの死後、その残した手記から友人のエドワール・ベラネック教授が登山紀行17編、随筆1編を選んで年代順に編纂して出版したものである。ジャベルはウィンパーやママリーやティンダルのような大登山家とはみなされていないが、山岳文学の古典として残る本書の著者としての地位は高い。友人のE.ランベールは序「エミール・ジャベル」で彼の登山について次のように述べている。

「ジャベルは山に対して一つの熱情を持っていた。彼には永くアルプスの脚下を離れて生きる事は出来なかった。アルプスは彼の上に一種の魔力をふるっていた。彼の心は平野の風景の魅力を等しく理解する程に自由だった。しかし、アルプスの自然が形と現象との種々相をもって人格的象徴の無尽蔵の世界を彼に提供した時、平野の風景は彼の眼には単に風景としか映らなかった。遥かに見える山頂、それは彼自身だった。あの別の山頂、それも亦彼自身だった。 ~中略~ 彼が山頂に達することは、学者が何かを発見する喜び、才能の士が追及して遂に至上の努力によって見出す喜び、それに似た喜びを手に入れる事だった。」

「トゥ―ル・ノワールの初登攀」の中の次の一文は、ジャベルのアルプス初登攀の感激を記したものであるが、山に対するほとばしる情熱を見ることができる。

「未だ何人の足も置かれた事のない或る山頂を踏むことには、単なる自負の満足意外に全く別な何物かがあるのである。其処には魂の奥底に直接触れる一つの痛々しい独特な感じがある。それは、これらの岩が最初に存在して、大空の下にその誇らかな裸体を掲げた数へ切れない時以来、何人も未だ其処を訪れず、如何なる眼も今君の見ている物を見ず、世界の開闢以来其処につづいていた沈黙を破った最初の声が君の声であり、そして人類の最初の代表者として此の野生の領域へ現れる特権を受けた者が、群衆の中から偶然にも選抜された人間、即ち君であるという事を、君が自分に言って聞かせる事に他ならない。~中略~
 我々の野蛮な祖先が、当時まだ森林におほわれていた、そして其処に今日では我々の耕作地や都会が広がっている土地を、初めて自分達の物にした頃、もしも或る小高い所へでも登るような事があると、彼らは一つの石の小山を積み上げた。古いケルト語を保存している英吉利の登山家達が、いまだ口にするあの積(ケ)石(ルン)を。同様に吾々も、自分達の山の処女山頂をきはめる度に、太古の伝統にしたがうというよりも寧ろ一種の本能から、同じ事をする。そしてその積(ケ)石(ルン)は、彼等祖先にとってと同様に吾々にとっても亦、単に個人的な虚栄心の記念碑ではないのである。それは何よりも先ず次のような事を意味する。『人間が此処へ来た。今日以後この一角は人間のものである。』」


http://www.ozaki.mann1952.com/index.html
詩人 尾崎喜八
1892〜1974
ジャベル『一登山家の思い出』からの転載です。

      「二夏の思い出」を編集しました。
① アレートを伝わって行くと高さ約一〇メートルばかりの絶壁の立っている地点へ達する。そこはかなり危険で、未熟な者だと助けなしには越えることができない。もっとも右手へ降りて捲いて行くこともできるが、岩登りの心得のある者にはおもしろい場所である。

② 熟練した者ならば、西方に面した岩組を攀じてたいした苦痛なしに直接山頂へ登ることができる。しかし、岩壁の透き間とか、踏みはずしやすい場所とか、岩庇とか、その他岩登り家の不思議な偶像に対してあまり執着を持たない人たちのためには、シュザンフを眼下に見てしばしば雪に被われている斜面の横腹を通って、そこから最後の肩へ達する方がいっそういい。サルヴァンのガイドたちはこの肩にコル・デ・パレッスー(怠け者の峠)という名をつけた。

③ シャンベリーのガイドは単にダン・デュ・ミディ峠と呼んでいる。しかし、怠け者峠の名こそ万才である!

④ 実際、人が楽々と坐っても、もうプラン・ネヴェの氷河や、六つの尖峰や、ペンニーンの連山や、トゥール・サリエールや、モン・ブランの球帽を眺めることのできるこの峠からは、反対に、ダン・デュ・ミディの最後の斜面がまだ長々と、疲労に顫えている脚膕ひつかがみや、使い果たされた肺臓に対してひどく長々と、かつは急角度に峙っているのが見られるのである!

⑤ 怠け者は顔を上げ、元気のない一瞥で距離を測り、杖や囊を投げ出し、それから身を倒して、もう先へは進まないと断言する。そして、こんなことは毎夏一度以上もあるのである。サルヴァンのガイドたちはばかではない。怠け者峠とは旨くつけたものだ。そうではないか?

⑥ 真の登攀家はそこでは立ちどまらない。しかし、大多数の登山者はそこで気持ちのいい駐屯をする。その後でたまたま一人の怠け者がまた顔を上げて仔細に距離を測り、最後の努力を試みようと勇敢な決心をし、途中二十度も足を停めて自分の決心を半分ぐらい後悔しながら。それでも結局他の山頂と同じように誇らかなその山頂へ達するのである。

⑦ しかし、親愛な読者諸君、もしも諸君にしてコル・デ・パレッスーは単にダン・デュ・ミディだけにあると信じるならばそれはまちがっている。モン・ローズにせよモン・ブランにせよ、またその他の山にせよ、すべて苦しい登路を持つ山嶽の大多数には、その半腹にこの峠があるのである。またあらゆる道徳的高所への途上に、学問の半途に、徳の半途に、この峠の存在することも事実ではなかろうか。勇気ある者は追求して、結局は到達する。臆病な者は斜面を測り、絶望し、中止する。そして、彼の努力はといえば、失敗の恥を贏(か)ち得ることに役立つだけである。
 ああ! 称うべきはコル・デ・パレッスーでのエネルギーである。

原稿を送信2019年08月14日

 8/12に下山してやっと疲労が取れてきた。中区の郵便局へ留め置きの郵便物を受領に行く。事務所に行きたかったが今日は平日でPも有料しかないので引き返す。
 それから自宅で中経向けの山の原稿書きに着手する。実はほぼ書き終えていたが、登山の経験を加筆することにした。何分穂高岳がテーマなので古い記憶だけよりも新しい見聞を書いた方が良いに決まっている。但し、完全踏破とは行かず、天狗のコルでエスケープしたのでその部分は文学的脚色で書いた。果たして編集者に通じるか。

便通2019年08月15日

 8/10から登山にお出かけ、当日は便通があったものの、8/11から8/13にかけては便秘状態が続いた。昨夜はどくだみを煎じて飲み始めたらやっとあり、今朝は昼までに2回もあった。やれやれだ。
 11時37分現在は台風が通過中で高度計では標高180mを指示した。強い熱帯低気圧である。雨はないのが幸い。外はどんより生暖かい風が吹く。外出の気にもならない。
 17時現在は小雨、風強し、堤防の草が風に靡いてひれ伏す。外出の気は無くなりまた戻る。高度計は205mを指示、これから低気圧は強くなるのか。台風の中心は中国山地を縦断中らしい。

水脈の果炎天の墓碑を置きて去る 金子兜太2019年08月15日

 今日は終戦の日。ホトトギスの新俳句歳時記には「8月15日。昭和20年(1945)のこの日、日本はポツダム宣言を受け入れ、昭和天皇は国民に詔勅を宣し、第二次世界大戦は終了した。以後、日本は敗戦国となり、国民は苦難の道を歩んだ。世界が再び戦争を繰り返さないよう心に誓う日である。」と解説。
 表題の句は有名な金子兜太の句。死亡した際はよく引用されて有名になった。今、世界がきな臭くなったことを思うとこの句の意味は普遍性があると思われる。

 米兵は太平洋戦争以後も朝鮮戦争、ベトナム戦争他で多数の命を落とした。アメリカには終戦の日なんてない。戦争が国策事業になっているからである。
 日本は幸いにも戦後の日本国憲法の9条で戦争をしないと規定した。これだけでは外国から攻撃されるから日米安保条約が締結された。アメリカは日本に勝利して「米軍は番犬」(吉田茂)になったのだ。
 評論家板垣英輔氏の2014年に書いたブログの記事には
「米国は、大金を費やして養っている貴重な兵力を日本列島と日本国民の防衛に費やしてきたけれど、この馬鹿な番犬は、吉田茂元首相の英国流「外交マジック」に、やっと気づき、まんまと騙され続けてきたのを覚ってきた。
◆大東亜戦争に敗れた戦後の日本は、吉田茂元首相の「米軍番犬戦略」と岸信介元首相の「国軍再建戦略」(背後に米CIA=対日工作資金を提供)の二つの戦略のせめぎ合いのなかで、国防を維持してきた。
吉田戦略は、朝鮮半島の「38度線」と「米ソ東西冷戦」を利用する狡猾な戦略であり、北朝鮮と韓国を永久に対立させ、朝鮮人を犠牲にして日本国民が平和を楽しめるようにするのが、目的であった。朝鮮半島有事のときは、米軍将兵と朝鮮人が犠牲になる。日本国民は、安全地帯にいて、高みの見物としゃれ込む。
 岸戦略は、米国との密約により大日本帝国陸海軍を再建して、日本軍と米軍が一体となって軍事行動を取ろうとする戦略である。岸信介元首相の孫である安倍晋三首相が、この「悲願」をいままさに成就させようとしている。
 オバマ大統領は、駐留米軍を「日本の番犬」どころか、事実上「日本の傭兵」(日本が駐留経費と米軍将兵の給料を負担)とし、朝鮮半島有事ばかりでなく、世界各地の紛争に「陸海空3自衛隊」も一体になって派兵させようと企んでいる。米軍将兵の戦死(消耗)を極力少なくして、「陸海空3自衛隊」に肩代わりさせようとしているのだ。
 安倍晋三首相は、「金欠病」のため「戦争をできなくなった米国」の現状を直視し、日本の「自主防衛」を念頭に、「積極的平和主義」を標榜して、これからの国防戦略を打ち立てようとしている真っ最中である。
◆だが、日本国憲法の「恒久平和主義(戦争の永久放棄)」と「戦力不保持」を墨守しているいわゆる「平和主義者たち」は、吉田茂元首相が仕組んだ狡猾な「米軍番犬戦略」によって日本列島と日本国民の安全を確保しようと考え続けている。けれども、この吉田戦略が、とっくに破綻していることに気がついていない。」以下略
 左様、トランプ大統領ももう日本には騙されないぞ、と明言している。日本も核を持て、再軍備せよ、と促す。それはもうアメリカには重荷になってきたのである。
 現状、日韓関係は破綻寸前になった。いよいよ朝鮮半島は統一に向かう。すると日本の平和は今以上に脅かされる。再軍備、その前に憲法改正は必須になった。

 アメリカに常に戦争を行わせてきたDS(ディープステート、いわゆるユダヤ国際金融資本)は金儲けの種が尽きかけている。アメリカの産業は日欧にやられて付加価値を産まなくなった。米国債は償還不可。利息だけは払われているようだが日本は自由に売却できないでいる。要するにアメリカは経済戦争には負けたのだ。今、トランプが必死に巻き戻しをかけているが成功するか。

 長い目で見ると戦争には勝ちも負けもない。人生は待つことが80%以上と、論語の解説書にあった。国家戦略もまた同じ。但し努力して国運を上げる必要はある。
 韓国の破綻はアメリカの国際金融資本の破綻である。アジアからの撤退、軍事大国日本の台頭ということになるのか。
 中国も香港デモで揺れている。易姓革命を繰り返してきた国だからまた天安門事件が再現する蓋然性が高い。
 しっかりしなきゃ日本よ!

相談会へ2019年08月16日

 台風の影響はなくなった。朝早く外出したが曇っている。少し暑さは和らいだが蒸し暑い。
 今日は朝9時から近所の銀行で相談会の相談員として出張。徒歩圏だがこの暑さでは歩く気にはなれない。それで乗ったことのない市バスの時刻を調べて乗車、ほぼ6分で到着した。乗ってみるとバスも良いもんだ。
 相談来られたのは皆さん遺言書の書き方の指南だった。自筆遺言書の方法を説明し、且つ公正証書遺言との違いや優位性を話した。3組の中で最後の人がすぐにでも対応を希望された。
 こんなにレスポンスが良いのも珍しい。前の2人は探りを入れに来られた感じであった。自分にも遠方に法律家の弟がいるとか、他の法律家に当たってみるとか、中々信用を得るのは難しい。別の人とクロージングって難しいねと話し合った。そう、契約にもってゆく話法である。午後3時に閉店と同時に退出。

山岳遭難のラッシュ2019年08月17日

 今日はほぼ1日中、山岳会のHPに記事をアップした。日本各地の山岳遭難の情報が次々に飛び込んでくる。傾向としては中部山岳、北海道、東北が多い。涼しい地域だから当然か。
 しかも高齢者も相変わらず多い。高山では30歳代から40歳代の遭難者も出ている。これは槍穂高連峰などアクティブな登山領域に入る。目立つのは山中での行方不明である。長野県警のHPでは新聞で報道されない行方不明者も多数いる。
 今年は平地でも異常な暑さである。しかも台風にも直撃された。今後気温は低下してゆくだろう。平地でのクマの被害もかなりの件数に登る。北海道では市街地に出没して恐れられたヒグマが殺害された。内地でもあちこちに出没している。これも異常な夏の一つの現象であろう。秋になって果実が実らないとクマの被害はもっと増えそうだ。

行方不明2019年08月18日

 突然舞い込んだ身内の行方不明の手紙にびっくりした。年長者の女性なので親しくはなかったが、山岳会でともにスキーに行ったこともあるし、飲み会でもお顔は見ていた。仲間内は愛称で呼ばれていた朗らかな性格だった。
 差出人は長男さんであるが、以前にも娘さんから直接電話があり、いろいろ伝えた。こんな手紙がくることはまだ帰還されていないのだ。家族としてはご心配なことだがなにもしてあげられない。
 2年前にも山岳会を通じて猿投山で行方不明の73歳の友人を探してくれとの要請に応えて会を挙げて捜索に関わったが見つからなかった。今も気にはなる。
 手紙の当人は85歳なのでまさか1人でハイキングには行ってないだろう。何か手掛かりがあればと思う。

遠目にはシモツケのごと百日紅2019年08月19日

百日紅
 名古屋市中区栄の北、桜通大津の交差点の百日紅が開花している。上品なピンク色が美しい。この花も縮れた感じがシモツケの花に似ている。それで即興で詠んでみた。