雷雲に隠れる猿投山辺り2019年08月01日

 突然遠雷が聞こえてきた。ベランダから猿投山方面を眺めると黒雲に覆われている。天気図は太平洋高気圧がカバーしてきれいなものである。今日の名古屋の日没は18時56分、あと30分もない。
 山間部では日が陰って樹木から昇る水蒸気が冷えて雲を湧かす。これの摩擦で雷雨が発生するという。そうか、これからお盆に向かって毎日2分程度日没が早まるので夜の気温は下がりやすい。そしてお盆辺りから加速度的に秋の訪れを感じる。
 立秋は8月8日。有名な和歌が人口に膾炙しているがもう記憶が取り戻せない。まだまだ暑いのだけれど秋は来ているんだよ、とおぼろげに。一雨来れば夜が過ごしやすくなるのだが。
 今日は山積の本を読んだ。気象も激変、世界も激変だ。ついてゆくのが大変だ。週末はまた無名の沢に入りたい。暑き日を沢に遊べり奥三河、なあんて。

孤独死の現実2019年08月02日

  暑い暑い。にもかかわらず汗拭きを忘れた。植田駅前のコンビニに入ると何と500円前後もする。となりのドラッグでも600円はする。高いので何か汗拭きになる布切れはないか物色したら、おしぼりが見つかった。5本セットで200円だった。ふうっ、これで汗をぬぐえる。
 その後、栄から黒川駅経由で汗を拭き拭き、中日信金でのシニア面談会に出席。なんとかご縁を得たいものです。約30分弱でミニ面談を終了後、名鉄清水駅から栄、上前津を経由して植田駅にとんぼ返り。
 天白図書館の集会室で孤独死をした人の遺品整理を専門にするT先生の講話を聴いた。これが単なる遺品整理ではなく、法的な裏付けのあるもので今後はこのT先生の考え方や進め方が標準になってゆくのではないか、と思う。
 例えば、故人に負債があると知らずに遺品整理(財産として換金)すると単純承認になり、故人の負債を抱えることになる。さらに、新婚時は妻側の親が賃貸住宅の借主の夫の連帯保証人になると、その後離婚、夫は賃貸住宅で孤独死した場合、連帯保証人には家賃の延滞のみならず、遺体の腐敗で住宅が極度に傷むと修繕費が加算される。約600万円弱もの事例にぞっとさせられる。
 娘が離婚した場合は連帯保証人の関係も解消しておく必要がある。娘が死亡した場合も同じ。姻族関係も解消して置くことだ。
 その他、孤独死する人は生活保護世帯であったりする。高齢者で年金生活者の場合は子が死亡を確認しないこと、DVを恐れて疎遠になっているなど人生の地獄をさまようような事例を見る。
 幸福とは何か。幸福ではなくとも不幸に陥りたくはない。その為には生活技術、人間関係、など見直す必要がある。意義深い研修であった。

台風8号が発生2019年08月03日

 天気図にふたたび台風8号が現れた。また熱帯低気圧も出現している。これらは8/6頃に日本列島に影響を及ぼすらしい。予想図によれば九州に上陸か。長期予報では8/10に雨の予想が出てきた。
 8/8から8/10にかけて穂高連峰縦走の計画は8/10から8/12にずらしたばかりである。台風が九州から北へ進むと朝鮮半島上空の偏西風で西日本に押し戻される。九州から西へ進むと中国山地へ抜けるだろう。どうも雨で流れそうな気がする。

死んでゆく覚悟で飲みし生ビール2019年08月04日

 EVで居合わせたKさんに聞くと隣人の死去は本当だった。私と同年齢くらいで理事会でも顔を合わせて意見を述べられた。7月中旬、山に行っている間に亡くなり、EVの扉に掲示されたらしいが帰宅後はもうはがされていた。
 別人からちょっとあの人って亡くなったんですってね、と知らされたが確信はなかった。Kさんは葬儀にも参列されてお別れされたのだから間違いはない。
 5月の句会の後でお食事をというので俳句仲間を案内したら、その店に美味しそうに生ビールの大を傾けている人がいた。顔を見るともなく見ると隣人だった。「やあ」とあいさつ。「今、癌の手術で退院したばかりなんですよ」とのたまうのでびっくりさせられた。術後にアルコールは厳禁なはずだがと。
 あれから1ヶ月半で隣人は死去されたのだった。禁断のビールが死に水だったのだろう。今はそう思うしかない。独居でいわゆる孤独死だったが理事会の役員のネットワークのお陰で発見が早かった。それで騒ぎにもならなかった。

ロールプレイ(役割演技)2019年08月05日

 うだるような暑さの中、冷房の自宅に突然の電話。聞くと知己の女性の姪子さんという。相談ごとがあるらしいので伺うことにした。
 話を子細に聞くとまたぞろ姻族の1人が不審な動きをしているらしいと知った。既に弁護士の保佐人が選任されて解決した案件であった。今すぐどうということではないので、一応の対応策をお話しさせてもらった。深刻な事態になるならば???ということである。
 その後は新栄の愛知会で成年後見制度の研修へ移動。
ロールプレイ(役割演技(やくわりえんぎ)とは、現実に起こる場面を想定して、複数の人がそれぞれ役を演じ、疑似体験を通じて、ある事柄が実際に起こったときに適切に対応できるようにする学習方法の一つである。)の事例を4件を挙げてもらい、相談者と質問者に交互に交替しながら対案を研修した。びっしり2時間かけて汗びっしょりになった。事例はどれも深刻なことばかりで滅入る。しかし実務経験を積んできたお陰で冷静に対応策が示せるようになった。
 実務に勝る研修はない。

納涼の夕べに出席2019年08月06日

 クラブ愛知の恒例のイベント「納涼の夕べ」に出席。会場は名古屋駅から一駅離れたささしまライブ駅のグローバルゲート3FのMEDI(メディー)という瀟洒なお店でした。
 約二十数名の参加者と聞く。主賓に愛知大学川井学長、土井同窓会長、愛知県副知事にもなった甲斐一政氏を招いて服部会長のあいさつに続き、一言あいさつをもらった。90歳の最長老の甲斐氏はお元気とはいうものの足腰は不安でなんとか乾杯の音頭の儀式はお勤めいただけた。
 顔ぶれは知己が半々、隣席の若いOBらとあいさつするとまだ20歳台だった。人生はこれからという年齢である。中の1人が、現在は経理事務だが中小企業診断士を目指すというので激励しておいた。
 今も昔も会社にしがみつかず、会社から引き留められる人材が必須であるからだ。中小企業診断士は会計通でなくては務まらない。財務諸表に表現される数字を読み解くことが診断のベースになる。市場、世相で社会を知る、民法、会社法、税法などが必須となる。
 多くの部下を使う管理職を目指すよりも、実務に精通して、決算書が1人で作成できることが何よりである。作成する能力が身に付いて初めて不正やおかしな数字の裏を見抜けるようになる。眼光紙背である。
 後は山好きな若い弁護士のMさんとも山行を一緒にやろうと約束した。私にお声がけしてくれる人はみな登山の話を通じてのことばかりである。それも良いか。
 帰路、ささしまライブ駅からは名駅の高層ビル群が不夜城のように美しく輝いて見えた。

山岳会の例会2019年08月07日

 今夜は19時から山岳会の定例会だった。暑い時期で集まりが悪い。ビールパーティでもやらないと来ないだろうな。それでも朗報はあった。約30年前の会員が復会してくれたことである。Sさんといい豊田市の人だが、本人の顔を見ても失礼ながら記憶がない。元より忘れっぽい方だが追々昔話をすれば記憶を取り戻すだろう。何でも2017年のNHKの「ゆる山へGO」を見たらしい。それが私の顔だったので復会の契機になったのだろう。
 もう一人はブログを見て例会見学の希望だった。50歳代半ばの女性でやっと子育て期間が終わったので登山を再開するらしい。最後の子が40歳くらいとするとちょうど高校生になったころになる。もう精神的には同等になる年ごろだ。
 しかし今も別のちょっと大きな会に所属中らしいのであくまでも見学にとどめるのだろう。ハーネスなどの道具は持っているので若いころは活発に活動していたのだろう。
 我が会は今20名ほどでよく言えば小回りが利く。但し大規模なイベントはできない。大きくなれば運営が旅行会社みたいになっていく。新人が入れば同じ山に何度も何度も入れ替わり立ち代わり連れてゆくことになる。そんな会にはしたくないしで、山岳会運営はいつも悩ましい。
 かといって気楽で自由なな単独だとモチベーションが中折れしやすい。いつしか登山回数が減り、加齢すると近頃よくある心筋梗塞により山中で病死になりかねない。
 会員数20名から30名がゆるやかな結束のもとに自分なりの山を楽しめばよいではないか。インドア、アウトドアのクライミングサークルも生まれて活発化している。何でも試みに参加してくださいと、見学者にはそんな趣旨の説明をしておいた。縁があれば嬉しい。

台風の行方気になる立秋忌(普羅忌)2019年08月08日

 秋立つとはいえ猛暑の日々。こんな暑い日に山の好きだった俳人前田普羅は亡くなった。それで前田普羅を慕う人は立秋忌と呼ぶ。
 「辛夷」8月号には普羅墓参立秋忌・俳句大会の案内があった。まさに8日、二上霊園で少雨決行とある。13時から北日本新聞社高岡支社で大会を催す運び。予定通り挙行されたことだろう。

 普羅忌を詠んだ人は少ない。検索すると以下の通り。()内は結社名を入れた。(雪垣)は金沢市の結社で普羅師系を名乗る。

人参木咲いて普羅忌へ孫弟子ら 中西舗土(雪垣)

普羅の忌とおもふ一鳥水を過ぎ 加藤有水

普羅の忌の四方に雲湧く甲斐の国 有泉七種

普羅の忌の絵皿に透ける洗鯉 松本澄江

普羅の忌や峻厳の語はすでにもう 松田ひろむ

朝顔の浅葱普羅忌のくもり空 文挟夫佐恵 黄 瀬

氷柱の虹普羅の忌は夕べはや 文挟夫佐恵 黄 瀬

秋に入る空を見上げて普羅忌なり 仲原山帰来

走り咲く萩に普羅の忌来りけり 飯原雲海(辛夷)

鯉こくの食ひたき日なり普羅忌なり 石田波郷

雀きて滴おとせり立秋忌 井上 雪(雪垣)

ひと雨のまた笹に鳴る立秋忌 井上雪(雪垣)

 普羅忌でヒットしたブログもあった。「クラカスはつらいよ弐」
http://ogurin1961.blog129.fc2.com/blog-entry-8378.html

 波郷にはもう一句ある。それを切り口に随筆を書いて「辛夷」誌に投稿した。全文を転載する。

随筆    俳句―波郷を覚醒させた切れ字の話     
 「辛夷」誌正月号を読んであることに気が付いた。衆山皆響の切れ字の活用の傾向である。や、かな、けりを数値化して見た。切れ字の入った句数は全部で177句あった。“や”は98句、“かな”は49句、“けり”は30句。
 圧倒的に“や”が多い。又、切れ字はなくても切れている句は当然に多い。むしろ切れ字活用は少数派である。切るということを意識しないと切れない。切れ字を使っても切れていない句もある。散文の断片になる。
 かつて水原秋桜子が高浜虚子に俳句理論の食い違いから反旗をひるがえして、「ホトトギス」から脱退、反ホトトギスの拠点として「馬酔木」を主宰した。秋桜子の『葛飾』(1930)は虚子も評価していた。ホトトギスの名残りで切れ字が多かったからだ。
 その後、石田波郷が秋桜子門に入って来た。後に、「鶴」を創刊・主宰。ネットには「昭和戦前に流行した新興俳句運動を批判し、韻文精神の尊重を説き切れ字を重視。」と解説。つまり俳句とは、俳句を韻文たらしめるには切れ字が重要と説いたのであった。
 いつぞや丸栄のデパ地下の食堂に昼飯を食べに行った。近くのご婦人2人の会話から 
  泉への道遅れ行く安けさよ        石田波郷 
私の好きな俳句を空で詠んでいるのでつい耳を傾けてしまった。話の切れ目を見計らって、名乗り出るとすぐ会話に入れてくれた。ある俳句結社のベテラン俳人であった。会話のレベルから相当な年季が入っているはず、と見た。1人は30年という。しばし、波郷の俳句談義に興じた。 
 波郷は、秋桜子の弟子ながら、ホトトギス派を自称していた。すなわち、や、かな、けりの切れ字を古いものとして捨てた師匠に逆らい、切れ字の韻文精神を重視した。その説を裏付けるのは 
  霜柱俳句は切れ字響きけり        石田波郷 
  鯉こくの食いたき日なり普羅忌なり    石田波郷   
  楢檪霧呼んで普羅の忌なりけり      石田波郷 
と普羅忌を詠んでいるのも切れ字に関係するからだ。前田普羅の俳句は格調の高い立て句で有名である。山岳俳句では死後数十年経った今もって後塵を拝することがない。 
  駒ヶ岳凍てて巌を落としけり       前田普羅 
波郷は普羅を尊敬の念で見ていた。その思いが普羅忌を詠むことにつながると想像する。 
上達するには技術的に難しい、“けり”を使いこなすことだろう。
 大ぶりの黒部の木の実降りにけり     中坪達哉
普羅師系を標榜する結社にとり巻頭におかれたこの句は大いなる手本になる。
以上

 遅れていた好句考も書き上げた。こっちは桜桃忌を詠んだ句の鑑賞文になる。俳句三昧の一日。

穂高連峰縦走へ2019年08月09日

 台風が2つも太平洋上でさまよっている。天気図に台風が見えたら山に行くなとは新田次郎の小説の中の格言的なセリフである。8/7には南アルプスの北岳で落雷で死んだ登山者が報じられた。お盆が近づくとそろそろ雷の季節になる。
 これから行く西穂高岳でも過去に大きな被雷の死亡事故があった。「1967年8月1日の気象状態は、本州を挟む形で高気圧が2つ並んでおり、南海上には台風があったため、大気の不安定な状態となっていた。」(ウィキ)
 ウィキにある当時の天気図とよく似ている。左様、今も台風が2つあり、東の高気圧が強いために東進をはばまれている状況か。しかもシベリア大陸寄りに低気圧が並んでいて冷たい空気を運ぶ。亜熱帯と亜寒帯の気団が列島を挟んで均衡を保っている。気団の勢力の駆け引き次第で、均衡が崩れると落雷をともなう荒れた天気になる。気圧配置はそっくりだ。
 西穂高に登ったら奥穂まではエスケープルートが1本あるとはいえ、簡単には逃げられない。高い尖峰、岩塔、高い樹木、自分自身も落雷の通り道になる。それなので黒い雷雲を見たら引き返すか、なるだけ午前中に奥穂の小屋へ駆け込めるか。

新穂高から西穂山荘へ2019年08月10日

 8/9の夜10時岐阜の可児市で合流後、東海北陸道で高山市、平湯を経由して新穂高へ8/10の深夜到着。県道沿いはオーバーしていて入れず、鍋平の登山者用Pへ誘導される。暗くて分からないが、なんとかスペースを確保してP。車内を整理して2人が横になれるスペースを作る。
 今日は西穂山荘へ行くだけなのでゆっくり起きて準備。ロープウェイ駅へ歩く。朝一から満員である。2番目の箱に乗れた。駅に着いてからも相棒は朝食を食べている。入山届をチエックされて外にでてゆっくり樹林帯の道を登る。日陰とはいえすぐに汗が噴き出す。
 小屋へは1時間40分で到着。何度目の宿泊だろうか。焼失する前の小屋に泊まって初の西穂登山を果たした。隣の人は朝3時ごろからごそごそし出して奥穂へと向かっていった。私はまだ30歳代、そのころは西穂がやっとのことであった。
 これまでにこのルートを踏破したいという山岳会会員は居なかった。しかし先輩や中途入会のベテラン会員は登っているのでいつかはトレースしたかった。今回ようやく30年ぶりにその夢がかなえられるかと来た。
 小屋では夕食タイムまでゆっくり寛いだ。