句会と加古宗也ミニ研究 ― 2017年03月27日
3/26午後、平針駅近くの喫茶店に集まる。今日は冬眠中だった2名が出席したが熱心なOさんが急用で欠席されたうまくいかないものです。しかし、久々ににぎわいを取り戻す。
1人が古い写真をみせてくれた。いずれも俳句教室に通っていた頃のスナップで「若竹」の加古宗也氏が写っている。 地味ながら名古屋で人気の俳人である。
ふらんす堂のHPの著者紹介から「1945年、愛知県西尾市生まれ。1970年、村上鬼城の高弟・富田うしほ、潮児父子に師事。「こころの俳句」を学ぶ。1977年、俳誌「若竹」編集長。1990年、富田潮児より「若竹」継承、主宰となる」とある。
村上鬼城といえば、ウィキペディアの作風のページに「自らも不遇な環境に置かれていたため、困窮した生活や人生の諦念、弱者や病気への苦しみなど、独特の倫理観で憐れみ、哀しみを詠った句が多いのが特色である。また、本人も耳が不自由だったためか、身体障碍者に対する感情を詠ったものが多く(但し、今日では差別語として好ましくない表現を用いた句もあることを留意する必要がある)、阿波野青畝など影響を受けた俳人も多い。また、座右の銘が「心眼」ならぬ「心耳」であったことから、今日では「心耳の詠み人」と呼ばれる」と紹介される。
いわゆる境涯性の強調された俳句が多い。自らの弱さをさらけ出す。私の脳裏にも
冬蜂の死にどころなく歩きけり 鬼城
くらいの記憶はある。
さて、加古宗也先生は作句指導のみならず書くこともできる俳人である。「俳壇」に連載していたものをまとめて書籍化した『定年からの俳句入門』は購読した。無難な内容であった。
検索で主宰の書斎訪問というユーチューブを見つけた。
https://www.youtube.com/watch?v=T0aKRB1ZehU
俳句雑誌「若竹」は1000号を越えた。2015年8月のふらんす堂のブログにある。
http://fragie.exblog.jp/m2015-08-01/
俳句雑誌が1000号を越えた結社はそんなに多くないと思われる。前田普羅系の「辛夷」は2010年に1000号となった。当時でも10誌くらいと聞いた。ひたすら愚直に発行し続けることになる。
先だってつるまい図書館で各誌のバックナンバーをまとめ読みした際、私が40歳から45歳まで投稿していた「武都紀」誌の短歌誌も含めて発行を休む結社誌が数誌はあった。主宰の死亡とともに結社を解散する話も聞く。高齢化の波が結社にも訪れている。
加古主宰は1945年生まれで主宰としては若い方だ。4人に1人は高齢者になる高齢化社会では弱者が増加することになり、境涯性の俳句は増えるだろう。
「「俳句一筋、鬼城一本」この八字をもって「若竹」を歩んで来ました。
「若竹」はかたくなに村上鬼城一本でやって参りました。その頑固さ、頑なさでやってきた一方で、私などは本当に気楽に淡々にやってきました。力んでやった覚えは全然ありません。本当に有難いと思います。そんな中で一〇〇〇号を迎えられのは嬉しいことです。
良い仲間に恵まれました。奇跡と言うべき仲間に恵まれて今日まできました。同時に俳壇の先輩、それから友人が本当に久しく声を掛けていただいて、今日も大勢の方が駆けつけてくれ、また「若竹」一〇〇〇号の記念号に多くの人が本気で原稿を書いてくれました。素晴らしくありがたいことだと感謝でいっぱいです。
感謝を胸にこれからも「愚直に」次に進んでいきたいと思っております。ぜひ皆さまも何卒優しく見守ってくださればと思います。」
主宰の人柄がよく現れた文である。「人を愛すること」という最後の言葉はどの主宰も同じことを言っている。人の支えがないと解散しかない。誌友、会員は投稿を通じて結社誌の発行を支え、又、資金源でもある。
結局、文学というか、文芸の根幹はそれに尽きる。しかし、俳句は人間しか読まないのだから敢えていうことでもないと思っている。江戸時代の宗匠らは俳句はこう詠め、こう考えよ、と指導した。それを月並俳句と子規は批判した。
https://jphaiku.jp/how/tukinami.html
手厳しいが現代の主宰もこの傾向はあるように思う。
「俳句研究」誌編集長として、山本健吉は人間探求派を唱えたのは若干28歳のころだった。当時は皆若かったから追随する俳人が多かったのだろう。現代俳句は駄句の山を築いたとも指摘される。草田男の結社は解散した。楸邨はどうなのか、波郷は?境涯性を追求する、人間愛を追及するのは真理とはいえ、心しておかねばなるまい。自分の弱点をさらけ出すのが境涯性ではないのである。モノに託すことが重要である。
芭蕉の句のように自然を読みながら人間性が出ていることが重要であろう。普羅も自然を詠みながら人間がよく出ている。決して幸せな人生ではなかったのに境涯性を謳わず、自然の美に昇華した。これぞ文学である。だから何年たっても飽きることなく探求していける。
1人が古い写真をみせてくれた。いずれも俳句教室に通っていた頃のスナップで「若竹」の加古宗也氏が写っている。 地味ながら名古屋で人気の俳人である。
ふらんす堂のHPの著者紹介から「1945年、愛知県西尾市生まれ。1970年、村上鬼城の高弟・富田うしほ、潮児父子に師事。「こころの俳句」を学ぶ。1977年、俳誌「若竹」編集長。1990年、富田潮児より「若竹」継承、主宰となる」とある。
村上鬼城といえば、ウィキペディアの作風のページに「自らも不遇な環境に置かれていたため、困窮した生活や人生の諦念、弱者や病気への苦しみなど、独特の倫理観で憐れみ、哀しみを詠った句が多いのが特色である。また、本人も耳が不自由だったためか、身体障碍者に対する感情を詠ったものが多く(但し、今日では差別語として好ましくない表現を用いた句もあることを留意する必要がある)、阿波野青畝など影響を受けた俳人も多い。また、座右の銘が「心眼」ならぬ「心耳」であったことから、今日では「心耳の詠み人」と呼ばれる」と紹介される。
いわゆる境涯性の強調された俳句が多い。自らの弱さをさらけ出す。私の脳裏にも
冬蜂の死にどころなく歩きけり 鬼城
くらいの記憶はある。
さて、加古宗也先生は作句指導のみならず書くこともできる俳人である。「俳壇」に連載していたものをまとめて書籍化した『定年からの俳句入門』は購読した。無難な内容であった。
検索で主宰の書斎訪問というユーチューブを見つけた。
https://www.youtube.com/watch?v=T0aKRB1ZehU
俳句雑誌「若竹」は1000号を越えた。2015年8月のふらんす堂のブログにある。
http://fragie.exblog.jp/m2015-08-01/
俳句雑誌が1000号を越えた結社はそんなに多くないと思われる。前田普羅系の「辛夷」は2010年に1000号となった。当時でも10誌くらいと聞いた。ひたすら愚直に発行し続けることになる。
先だってつるまい図書館で各誌のバックナンバーをまとめ読みした際、私が40歳から45歳まで投稿していた「武都紀」誌の短歌誌も含めて発行を休む結社誌が数誌はあった。主宰の死亡とともに結社を解散する話も聞く。高齢化の波が結社にも訪れている。
加古主宰は1945年生まれで主宰としては若い方だ。4人に1人は高齢者になる高齢化社会では弱者が増加することになり、境涯性の俳句は増えるだろう。
「「俳句一筋、鬼城一本」この八字をもって「若竹」を歩んで来ました。
「若竹」はかたくなに村上鬼城一本でやって参りました。その頑固さ、頑なさでやってきた一方で、私などは本当に気楽に淡々にやってきました。力んでやった覚えは全然ありません。本当に有難いと思います。そんな中で一〇〇〇号を迎えられのは嬉しいことです。
良い仲間に恵まれました。奇跡と言うべき仲間に恵まれて今日まできました。同時に俳壇の先輩、それから友人が本当に久しく声を掛けていただいて、今日も大勢の方が駆けつけてくれ、また「若竹」一〇〇〇号の記念号に多くの人が本気で原稿を書いてくれました。素晴らしくありがたいことだと感謝でいっぱいです。
感謝を胸にこれからも「愚直に」次に進んでいきたいと思っております。ぜひ皆さまも何卒優しく見守ってくださればと思います。」
主宰の人柄がよく現れた文である。「人を愛すること」という最後の言葉はどの主宰も同じことを言っている。人の支えがないと解散しかない。誌友、会員は投稿を通じて結社誌の発行を支え、又、資金源でもある。
結局、文学というか、文芸の根幹はそれに尽きる。しかし、俳句は人間しか読まないのだから敢えていうことでもないと思っている。江戸時代の宗匠らは俳句はこう詠め、こう考えよ、と指導した。それを月並俳句と子規は批判した。
https://jphaiku.jp/how/tukinami.html
手厳しいが現代の主宰もこの傾向はあるように思う。
「俳句研究」誌編集長として、山本健吉は人間探求派を唱えたのは若干28歳のころだった。当時は皆若かったから追随する俳人が多かったのだろう。現代俳句は駄句の山を築いたとも指摘される。草田男の結社は解散した。楸邨はどうなのか、波郷は?境涯性を追求する、人間愛を追及するのは真理とはいえ、心しておかねばなるまい。自分の弱点をさらけ出すのが境涯性ではないのである。モノに託すことが重要である。
芭蕉の句のように自然を読みながら人間性が出ていることが重要であろう。普羅も自然を詠みながら人間がよく出ている。決して幸せな人生ではなかったのに境涯性を謳わず、自然の美に昇華した。これぞ文学である。だから何年たっても飽きることなく探求していける。
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