加藤耕子句集『空と海』鑑賞とミニ研究2017年03月19日

 俳人加藤耕子の名前をメディアで知ったのはかなり前のことだ。俳句と英語を結び付けて、世界一短い詩である俳句を世界に発信しようという試みを続けてこられた異色の俳人でもある。
 自註現代俳句シリーズ加藤耕子集の略歴によると、昭和61(1986)年に日本の俳句と世界のHAIKUをつなぐため「耕の会」発足。俳句と文章誌「耕」「kō」という英文誌も創刊している。しかも名古屋の人なので名前だけは知っていた。
 作者の生まれは昭和6(1931)年なので55歳で一念発起したわけだ。私は俳句を始めたのは40歳なので「耕」の3年後の1989年のことになる。多分、新聞で取り上げられた記事を読んで記憶に残ったのである。「耕」も31歳になったのだ。
 最近になって、所属俳誌の主宰のあとがきに加藤耕子の名前を見た。俳人協会の評論賞の選考委員にも加わっているのだ。おそらく俳句で認められた俳人ではなく、むしろ評論分野に業績があったのだろう。略歴を読むと愛知県立女子短大英文科、同志社大英文科、名古屋市の英語教師を経て昭和44(1969)年に俳句開眼。主に水原秋桜子の師系の結社で俳句修業。
 男性が女性に絶対敵わないのは女性のもつ一途な勉学心であろう。この一途さが俳句と英語俳句を結び付けるという途方もない、徒労ともいうべき、句業につながっている。これは何なのか。
 作者は終戦時、14歳の多感な少女時代、そして英文科に進む。英語圏かつキリスト教文明に対するコンプレックスを抱いたのか。日本にも俳句というものがありますのよ、と英語でHAIKU(俳句)を詠む人達との交流を通じて、日本の心を発信する。
 ロマン・ロラン(1866~1944)は外国語を学ぶ者は母国語をより深く知る、という意味のことを言った。これはエスペラントのテクストにあった断片で記憶違いがあるかも知れない。加藤耕子もこの例にもれず、かえって深く日本の古典文学に目覚めたと言える。
 英文学が専門の夏目漱石は俳句の業績も評価が高い。素養は漢詩にあると思うが英語を深く知ったことが刺激になったであろう。前田普羅も早稲田の英文科であるが文明開化の進む東京をみて俳句に目覚めたであろう。実際、戦後になって『飛騨紬』の句集を編んだ動機も高山線の開通によって飛騨の山村文化が壊れて行くことを案じたことにあった。
 本題の鑑賞に入る。平成14年から平成21年の俳句をまとめた。作者71歳から78歳になる。昨年3月に発刊された。本阿弥書店。

向ひ合ふ齢となりぬ福寿草 
・・・何に向かい合うかと言えば、古希なので死であろう。但し、福寿草という新年のめでたい季語を持ってくるところに作者の都会的な明るさがある。孫に囲まれて幸せな正月の風景のなかにもちゃんと人生の節目を詠む。

樹の姿あらはに寒の山匂ふ
・・・如月の候、梅園にでも吟行したであろう。それも観光地化された名園や遊園ではなさそうだ。寒の山とあるからだ。私には奥三河の新城市海老の奥の川売辺りの廃田に植えられた梅を思う。狭い谷間の山里を1500本の梅の木の匂いが漂う。

月待ちの岩に冠さる橅若葉
・・・伊勢8句の前書きがある。はたして伊勢の山に橅が生えていたのかどうか。明神平辺りまで登れば見られる。あるいは大台ヶ原山へマイカー登山だろうか。71歳の老婦人ながらお元気そのものだ。

金銀の名もつ峠の崖清水
・・・これも伊勢8句の一つ。筏場道に確かに金明水の水場がある。

山めぐるとは老鶯をめぐること
・・・鶯は冬は笹薮の中でチェチェと鳴く。春はお馴染みの鳴き声になり、夏になると高い山に移る。鈴鹿の稜線に登るとうるさいほど鳴いている。

原生林蛭に身の血を分ち合ひ
・・・伊勢8句とはどうも夏の大台ケ原山を歩いた嘱目吟と見える。私も台高山脈縦走中、大台辻の近くの沢筋で休憩中、上から、下から山蛭の歓迎を受けたことがあったことを思い出した。しかし、作者は蛭に吸血されても、身の血を分ち合い、と平然としている様子が諧謔を呼ぶ。

ひぐらしや焦土のころを墓の前
・・・作者は14歳で終戦を迎えた。空襲を受けたのは名古屋だけではない。祖母の話では三重県津市も受けた。約10km以上離れた在所からでも夜が焼夷弾で明るかったと興奮を交えて話を聞いた。14歳とはいえ、もう感性は備わっている。岐阜空襲は昭和20年7月9日だった。岐阜市が焦土と化した記憶はひぐらしの鳴き声とともに作者の脳裏にしまわれている。左翼のように平和とか反戦とか言わないで反戦を詠む。

伊吹嶺に夕日を納む墓参かな
・・・これも岐阜6句の一つ。俳人、歌人は名山に対して尊敬の念を込めて山ではなく、嶺を使う。栗田やすし主宰の「伊吹嶺」は俳誌の名前に採用するし、句集、歌集に採用されてもいる。単純に五音に合わせているからではない。筑波嶺、富士ヶ嶺、立山ヶ根、阿夫利嶺(大山)等。

むらさきの帯を低めに二月礼者
・・・平成15年の作品。粋筋の役者の普段着を目撃しての嘱目吟。結句の収まりが今一だが、帯を低めに、という中句が動かせない、となれば窮屈だが破調もやむなしだ。先駆する作品は前田普羅の「面体をつゝめど二月役者かな」がある。

龍太師に会ふひぐらしの声の中
・・・平成16年の作。毎月一枚の投句はがきに5句、4000名の弟子の2万句を選句していたという「雲母」の主宰飯田龍太。甲斐を旅したのであろう。平成4(1992)年「雲母」を900号で終刊させた。これは新聞にも掲載された俳壇の事件として記憶がある。平成19(2007)年2月25日に亡くなる。平成16年に会ったのか、回想句なのかは分からない。

冠着とは姥捨のこと夏の萩
・・・築北三山の一つで冠着山のこと。この山のみ登り残している。近々のうちに登りたい。
 加齢にしたがい、旅吟が増える。平成17年の作。姥捨伝説が気になるのだろう。私も『楢山節考』を読み、映画も見たことがある。長寿とはいうが、生きるって、目出度いばかりではないのだ。現代は終活が大流行りだ。人生をどう終わらせるか。悩ましい課題だ。

寒晴や伊吹遠尾根荒荒し
・・・遠い尾根って表現は初見。墓参で岐阜市へ行っての所見だろう。岐阜市からなら伊吹北尾根が見えるだろう。比高差は少ないがノコギリの歯のように見えるかも知れない。

葉桜の空茫々と時彦忌
・・・平成18年の作。平成15年には「魂離るこの世に瀧の音残し」と追悼句がある。草間時彦(1920~2003)は5月26日に没。私の脳裏には「甚平や一誌持たねば仰がれず」の句のみある。

川となる沢幾筋ぞ山若葉
・・・「耕・kō」20周年の前書きがある。嘱目吟のようでいて、ぞで切って、継続は力なりを実感する思い。川の源流は一滴の水から始まり、せせらぎとなり、谷になり、川に育っていく。結社を支えた同僚や弟子のお陰で20年継続できた感懐を込めた。創業は易し継続は難し。

楝(おうち)咲く見えゐる花の遠さかな
・・・栴檀の花のことである。地味な花だからそう把握したのだ。普羅の句集にもあったが思い出せない。俳号の普羅はフラワーに由来する。若いころは植物研究会に入っていたから花にも詳しかった。

雲しんと筑波嶺閉ざす半夏生
・・・前述したように筑波山を筑波嶺と詠んだ。1000m以下の低山ながら日本百名山の一つ。関東平野のランドマークと言ってよい。半夏生のころだから梅雨末期で雲しんと、という表現も納得。

老鶯やかつて隠田いま捨田
・・・私がよく歩く奥三河の設楽町に落目という谷合の隠田があった。江戸時代、検地で役人の目から落ちたので目落ちといったが、あからさまなので落目の隠語になって地名として定着した。先祖が苦労の末に開拓した田も圃場整理されて整然としたのに、米作を継ぐ人がなくて廃田になった。

昭和二十年焦土の上の油照り
・・・回想と前書きがある。作者は境涯を句に反映させないタイプだが、この句を読むと油照りとともに少女時代の記憶がよみがえるのだろう。

初秋の空のみづいろ金華山
・・・説明を要しない明快な句。私には長良右岸の園地から眺めた青い空に金華山の尖峰がくっきりと浮かぶ。

みちゆきの足袋もむらさき中村屋
・・・中村屋は歌舞伎の名門。中村勘三郎のこと。平成24年12月5日57歳で没。
 顔見世や通夜の日に舞う勘九郎  寺崎杜詩緒
「誰の通夜かといえば、平成二十四年十二月五日、五十七歳で逝った父の勘三郎であった。通夜は十二月十日に自宅で、近親者のみとの断りにもかかわらず、七百名を超えたという。ファンならずとも耳目を集めた死去であった。」

龍太なき山河春月赤く出づ
・・・平成19年の作。同年2月25日没。龍太の出世作「紺絣春月重く出でしかな」を踏まえての追悼句。オマージュというか、中々こうは詠めない佳作。

葉桜や雨のきらひな雨男
・・・平成20年の作。時彦忌 逗子の前書きがある。時彦忌なら「薔薇垣に薔薇の百花や時彦忌」があるが、単に5/26というだけのこと。掲句の方が修している。

老鶯の声の広がる切通し
・・・切通し、谷戸の語彙が入るといかにも鎌倉で読まれたと拝察する。

夏霞翼をひろぐ岩木山
・・・日本百名山の一座。津軽富士の別称がある。翼をひろぐというのは根張りの優美さを表現しているのだろう。未踏だがそろそろ登山に行かねばなるまい。

峰に雪龍太甲子雄の霊ねむり
・・・平成21年の作。龍太は飯田龍太、甲子雄は福田甲子雄(1927~2005)のこと。飯田蛇笏に師事、蛇笏死後は龍太に投句。龍太亡き後は継承誌廣瀬直人主宰「白露」の同人として活躍。その2人も今は居ない。峰というのは多分、御坂山地だろう。甲州へ旅するも親しんだ龍太も甲子雄も居ない。山には雪があるばかりの空虚さをどう埋めようか。
   雪の峯しづかに春ののぼりゆく  龍太

鉄線や昭和一桁一途者
・・・知性が光る句のオンパレードであった。生活の匂いの無さ、境涯性のなさを感じるが、この句が自画像というべし。

木犀の香を入れ棺を閉ざしけり
・・・身内の死去に寄せた句。数えたわけではないが、切れ字のやは多用するが、かなとけりは少ない。秋桜子系ゆえだろうか。ところが掲句のように追悼句にはけりが使われる。「耕」の22周年記念でもけりが使われた。梅白し佐藤和夫の忌なりけり、と。心が改まると詠嘆の心境になるのだ。
 平成15年に戻るが、石田波郷の故地を訪ねている。波郷は「霜柱俳句は切字響きけり」と詠んだほど、秋桜子系にあってホトトギス派を自認した。
 「清洲橋扇橋風凍てにけり」も、わざわざけりを使った石田波郷へのオマージュなんだと思う。私も小津安二郎の映画を見るために上京した際に同じ江東区なので波郷の砂町を歩いたことがある。庶民の町であった。

加藤耕子ミニ研究22017年03月19日

産経抄から
芭蕉を学ぶ国の危機 2月24日
ソース:http://www.sankei.com/world/news/140224/wor1402240018-n1.html

 ▼日本から遥か彼方にある国の小学生は、なんと国語の授業で、松尾芭蕉の俳句を勉強している。元ウクライナ大使の馬渕睦夫さんによると、独立以来国語教育に特に力を入れてきた、ウクライナの学習指導要領にはこうある。

 ▼「自然を描写して気持ちを表す日本人の国民性を学ぶことにより、ウクライナとは違った文化をもつ日本と日本人に対する尊敬の念を養う」。芭蕉を学ぶ子供たちに、救援の手を差し伸べるすべはないものか。
以上

 以上は加藤耕子句集『空と海』のあとがきにあった話に共通する。あとがきには「ウクライナの小学校の教科書には、シェークスピア、ゲーテと並んで芭蕉が世界の三大詩人の一人に取り上げられています。東洋の、日本の文化の奥深さと同時に世界の人々の指針ともなるべき俳句・HAIKUの持つ精神力、物の見方、詩型の確かさ、短い故の言葉の力を強く思った次第です。」とある。

 中杉弘の大説法と言うブログにも
「元駐在ウクライナ大使の馬渕睦夫さんの話を聞いていくと分かることが色々あります。この人の考え方は僕の考え方とほとんど一致しています。
 まず、第一番「私は世界人です」という人は、相手にされません。国際の社交会に出て「貴方は何人ですか?」と聞かれて「私は、世界人です。国際人です」と言ったら相手にされません。「私は日本人です」と言うと相手にされるのです。
 世界人などいないのです。「日本人です」と言うから世界人として扱われるのです。日本人を飛ばして「世界人だ」などと言ったら通用しないのです。それぞれの個性を主張して、それぞれの歴史と文化を担って、国際の社交場に出て行って、初めて国際人です。国際人をつくっているものは、日本人です。このようなことになるのですが、このような教育が日本では行われていないのです。
 英語をしゃべるのが、国際人ではないのです。日本文化を知って歴史と伝統を学び、アメリカ人と日本人は違います。日本人と朝鮮人と中国人は違います。「どのように違うのか」「どのような物の考え方が違うのか」ということが、説明できないと日本人にはなれないのです。
 馬淵さんがウクライナの駐在大使をやっている時に、小学校の5年生の教科書を見せてもらったのです。日本のことがびっちり書いてあったので、馬渕さんがびっくりしたのです。
 日本ではウクライナなどあまり知られていない国ですが、日本について非常に懇切丁寧に書いてあるのです。一番印象に残ったのは、日本は物質文明と精神文明を融合させている国です。松尾芭蕉の句を、小学校5年生に徹底的に教えるのです。馬渕さんも知らなかった句を小学校5年生で習うのです。
 「自分が知らないではずかしい思いをしました」と言っていました。16ページくらい使って日本のことを紹介してあるのです。」

馬渕睦夫氏のユーチューブ「朝鮮戦争とグローバリズム」
https://www.youtube.com/watch?v=wxVjJcTme3s
・・・ウクライナの小学生が松尾芭蕉の俳句を9ページを割いて学ぶ。自然はインスピレーションの源泉。

 世界はわれわれが知っている以上に日本文化を学んでいるようだ。とりわけ俳句を学んでいるのは不思議な気がする。加藤耕子はその潮流を見て行動しているのだ。どんな結実を見るのか。今後も加藤耕子の発信から目を離せない。