彦根城と彦根市立図書館を訪ねる2025年05月28日

 水戸天狗党の1000名の武装集団が根尾谷を峠越えして福井県に入り敦賀市に着いたところで352名もの武士が斬首した事件はむごいの一言。その訳を知ろうと、彦根市の彦根城と埋木舎(うもれぎのや)を訪ねたのである。名古屋市から100kmにも満たないからいつでも行けると思っていた。
 敦賀市は遠いが腰が軽い、知った当時すぐに武田耕雲斎の立像やニシン小屋を見学した。それだけ衝撃が大きかった。
 あの大量の斬首は彦根藩の藩士がやった。その遺恨はどこにあったのか。井伊直弼の一連の政策しか知らないと真相は見えてこない。憎しみの応酬ということである。
 水戸藩士は光圀公の『大日本史』で尊王攘夷(鎖国のまま)の精神がしみ込んでいる。ところがペリーは圧力で日米修好条約つまり開国を迫った。ここで徳川幕藩体制は二分する危機に陥る。
 鎖国を貫くと武力で侵略してくることは英国とのアヘン戦争(1839~1842)で清国が敗北したと知っていた。南京条約を結ばされ、香港もとられ、侵略された。このことを岩瀬忠震ら幕末の武士たちは情報をつかんでいた。
 なかでも岩瀬忠震は開国派だった。アメリカだけでなく、植民地にされないように他の欧州諸国とも条約を結ぶ構想だ。そこには天皇の勅許の手続きの問題があった。井伊直弼も開国に傾いていて岩瀬に無勅許で締結を進めて良いとした。1858年無事に日米修好条約は締結。
 これを知った水戸浪士らは反発。井伊直弼はその後弾圧するために安政の大獄が起きた。AIは「1860年(安政7年)3月3日に、江戸城桜田門外で、幕府大老の井伊直弼が、水戸藩士らの浪士によって暗殺された事件」と回答する。46歳の人生だった。
 1864年の水戸天狗党の騒乱はこれへの反発だったのだ。中山道を行くと彦根藩が待ち構えているから同年12月根尾谷から蠅帽子峠越えを選んだ。その翌年に敦賀市で斬首。
 しかし地元彦根市では手厚く顕彰されている。AIは「井伊直弼に対する評価は、歴史的文脈や立場によって大きく異なります。一般的には、強権的な政治で思想犯を弾圧した「悪人」として認識されることが多いですが、一方では、鎖国から日本を開国し近代化の基盤を築いた「開国の恩人」としても評価されています。」と回答。
 実は高評価の陰には岩瀬忠震の実務派の活躍があった。井伊直弼は無勅許で締結したことで尊王攘夷派の反発を喰らって殺害された。何だか割を食う立場になった。しかし手柄を立てたはずの岩瀬も将軍の継承問題に巻き込まれて井伊直弼から蟄居を命じられ名誉を回復することなく44歳で死んで行った。
 敦賀市で斬首されたところで止まっていた歴史がこれでようやく開通した。それにしても複雑極まりない幕末史。次は新城市へ行こう。
   世の中をよそに見つつも埋もれ木の埋もれておらむ心なき身は

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