北アルプス 大町登山案内人組合100年 日本最古PR2017年02月01日

 WEB版毎日新聞から
 長野県大町市の登山ガイド団体「大町登山案内人組合」が今年、発足100周年を迎える。日本初の登山ガイド組織として、楽しみで山に登る日本の近代登山の発展に大きく貢献してきた。組合は今年、市などと協力して記念事業を展開する計画で、関係者は「日本最古の登山ガイド団体はあまり知られていない。市の山岳文化をPRする機会にしたい」と話す。【稲垣衆史】

 組合は「大町登山案内者組合」として1917(大正6)年6月に設立された。前年に信濃鉄道大町駅(現・JR信濃大町駅)が開業し、北アルプスの地形図が整備されるなど、それまで知識人が中心だった登山が大衆化。大町も北アルプスの玄関口として年間1000人の登山者が訪れていたとされる。

 増加する登山者の要望に応えようと、組合を創設したのが市内で旅館「対山館(たいざんかん)」を営んでいた百瀬慎太郎(1892~1949年)だった。質の高い案内人を安定的に提供するため、地元の猟師ら山で働く人を中心に22人をガイドとしてまとめた。料金トラブルを避けるため定額料金を導入したり、心得や規約を作ったりし、資質の向上に努め、針ノ木小屋建設など針ノ木岳周辺の環境整備にも尽力した。こういった活動は模範となり、各地に同様の組合ができた。

 大町山岳博物館の関悟志・学芸員によると、百瀬は対山館を訪れる著名な登山家らと交流する中で、地元にいながらも新しい海外の登山文化などを取り入れていた。「組合の拠点だった対山館はサロンのような山の情報の交流・発信場になり、近代登山の発達に影響を与えた」と話す。

 戦時中、登山者が減り、対山館が廃業するなどして活動は一時休業状態になるなど存続の危機が何度もあったが、乗り越えてきた。現在、組合には市周辺に住む約40人が加入。登山ガイドだけではなく、北ア北部地区山岳遭難防止対策協会のメンバーも兼ねて遭難救助や見回りなどにも当たる。狩野正明組合長(68)は「100年で山の道具も環境も変わったが、受け継いだ組合の伝統は伝えていかなければならない。活動や意義を知ってもらい、見直す機会になれば」と話す。

 記念事業では、組合員のガイドによる針ノ木岳へのツアーの他、同博物館では百瀬らを中心とした地域の登山史を紹介する特別展を開催。11月17日には記念式典も開く予定。
以上
 山やには第一級のニュースですな。是非時間の都合をつけて行きたいものです。
 名古屋の伊藤孝一との交遊関係を調査するうちに百瀬慎太郎に触れないわけにはいかなかった。
 百瀬慎太郎遺稿集『山を想へば』を富山県立図書館経由で借りて、今も毎日読んでいる。宿泊客からの手紙や宿帳を抜粋した書簡集はさながらに近代登山のあけぼのを彷彿する一級の資料になっている。短歌は30歳代と40歳代が抜けているので完全に網羅されていない。散文も貴重な文献である。
 対山館は登山の拠点になっていた。今では一流と目される登山家が集まってきた。
 伊藤孝一は鹿島川を遡行するために来て泊まっている。俳人の河東碧梧桐一行はここに泊まって日本アルプス縦走に向かったのだなと分かる。名高い田部重治はまだ独身時代に南日重治の名前で泊まっている。伊藤孝一の手紙には時間があれば一緒に登りたいと懇願する手紙を出している。百瀬慎太郎の人柄の良さにひかれて交遊した期間は死ぬまでに30年に及んだ。赤沼千尋も同じだった。同書P90には登山案内人という言葉は大正初期にできたとあった。結局百瀬慎太郎あっての登山大衆化だったと思える。

1月句帳2017年02月04日

玄関のまだ出番なきスキー板

雑炊の青き彩り野菜くず

大寒や松方弘樹死ぬニュース

締切が近づくばかり日脚伸ぶ

川の鳥いつしか消えて春隣

立春や六法を読む老いてなほ

渡辺真知子「迷い道」を聴く2017年02月10日

 ソース:https://www.youtube.com/watch?v=XZlr800Q22Y

 「迷い道」なんてこんな歌が流行った時代もあったなあ。1977年というから昭和52年のことだった。もう40年も前だ。彼女が20歳くらいのデビューとか。すると今は60歳か。
 聴きはじめたら癖になりそうなくらい軽快なリズムが心地よい。今の時代を反映した歌詞にも感心する。渡辺氏の作詞作曲そして歌唱もなんて天才的な人だこと。
 韓国のパククネ大統領がロウソクデモの末に失脚した。その辺りからこの歌の歌詞の最後のフレーズを目にするようになった。なるほど♪迷い道くねくね♪だ。本当は別れた恋人への片思いの歌なんだけど・・・。
 トランプは迷いなくアメリカファーストを打ち出したけれど、欧州の指導者が迷っている。支那の指導者も同じだろう。日本を悪者にして、自国民の不満をそらすことに懸命だな。
 山の方の遭難も道迷いが増えている。♪ひとつ曲がり角ひとつ間違えて迷い道くねくね♪。まるで喜劇じゃないの、と不器用な自己を見つめる。否、山の道迷いは悲劇につながる。ライブに行きたくなった。

立岩トレーニング2017年02月11日

春浅し峨峨たる岩を攀ぢにけり

垂直の壁見上げれば春の空

クライマーの肩に舞ひ落つ春の雪

蝶々(てふてふ)が舞ふごとひらりと壁を攀づ

風花が舞ふ立岩の二月とて

ふるへつつ挑む岩壁余寒かな

冴へ返る森に笹鳴ひとしきり

立岩の天辺に立つ春寒し

絶壁の孤高の松や建国日

訃報 演歌界の名伯楽 船村徹先生2017年02月17日

 日本山岳会だよりのメールを開くと、船村徹先生の訃報を伝える内容だった。
【訃報】
船村 徹 様(14674)84歳
栃木支部 通常会員
2017年2月16日逝去されました。

通夜 22日午後6 時、
葬儀 23日午前11時から
会場 護国寺
   〒112-0012 東京都文京区大塚5-40-1
   電話 03-3941-0764
喪主 蔦将包(つた・まさかね)様(ご長男)
心よりご冥福をお祈り申し上げます。
以上
 もう84歳にもなっていたことに驚いた。作曲家としての実力は知らない人は居ないだろう。とにかくヒット曲の多い人だった。あの曲が、あの曲も、というくらい数多い。演歌の大家だった。歌手にとっては船村徹作曲のデビュー曲が一生のヒット曲にもなっている。一人や二人ではないから演歌界の名伯楽と言えよう。

 そんな先生は意外にも「山の日」の制定に熱意を示した。日本山岳会の正規の会員でもあった。これを知ってからいっぺんにファンになった。
「「山の日」の言いだしっぺは船村徹さんか? 」
http://koyaban.asablo.jp/blog/2015/08/12/7731748

 昨年の8月11日の「山の日」の制定を見届けて、力尽きたのだろうか。

  ふるさとの山河に還る二月かな   拙作

 心より故人のご冥福をお祈り申し上げます。

富山・高岡市への雪のドライブ行~奥越の温泉入湯2017年02月22日

 2/21は富山県高岡市でシニア人材の交流会というので参加。富山までは約270kmあり道中は長い。交流会は午後からなので少し早出した。高速代を30%OFFするつもりで午前3時過ぎの出発を予定したが、1時過ぎに交通事故が発生し、東海北陸道の上下とも通行止めになった。吹雪いているらしいので結局午前7時前の出発に落ち着く。
 岐阜県に入るとさすがに降雪と言うほどではないが小雪が飛んでくる。郡上に入ると視界も悪い。白鳥からはもっと悪くなる。不思議なくらいなかった雪が出てきた。ひるがのSAで小休止。午前9時前で、荘川からR156へ出るつもりが雪崩のおそれで通行止めという。五箇山まで走りR156へ出た。高速道路でも路面は完全に除雪されているが凍結を恐れて先行車が時速60km前後でしか走らない。それなら国道でも同じというわけだ。
 ここから高速はR156と乖離して長いトンネルを抜けて一気に城端へ行く。R156は庄川の流れに沿いながらくねくね曲がり道を走る。国道は通行量がほとんどないせいか、雪道になった。1年に1回は雪道ドライブも味わいたい。今は10時前だ。13時まではまだ時間があるので開場した温泉を探した。道の駅で聞くと大崩島の新五箇山温泉 南砺市平ふれあい温泉センターを教えてもらった。(くろば温泉は火曜休み)R156から分岐する道を行くとより深い雪道になった。四輪駆動車が頼もしいと感じる。
 非常に広いPだが、先行者は2台だけだった。510円を券売機で支払う。良いお湯だった。少し温めだが芯まで温まる。30分もしないうちに汗がでてきた。効能書きを見ると膝関節症にも良さげである。そういえば車から降りた瞬間に零下5度くらいだろうか、悪い方の膝に血が通う感覚が無くなった。入湯後は血が通った気がした。長い間けい皮鎮痛薬で誤魔化してきたせいか膝の神経が再生されなくなったのか。血行を促すことは治癒を助けることと思う。ぽかぽかした後は寒い戸外でも平気だ。再び高岡市に向かった。
 庄川の左岸側には最新刊の『富山の百山』に収録された高坪山、袴腰山、高落場山、高清水山、赤祖父山などの1000m級の低山がごろごろしている。右岸側の牛岳もいつかは登らねばなるまい。林道を行けるところまで行って山頂に立つ。その後は安い宿に泊まり入湯するのも良い。
 R156の路面は完全に積雪路でガタガタと状況はよろしくないが行き違う車は殆どない。雪解け水を満々と湛えたダム湖で人家は少なく静まり返っている。庄川町を過ぎると突然、となみ野が広がった。雪は意外にもない。カラカラに乾いた冬田が広がっている。突然携帯が鳴った。中産連の担当からだった。名古屋からの参加なので心配したのだろう。高岡市内に着いて中食後、13時ちょうど、二上山の山麓に建つポリテクノセンター富山に着いた。
 そこは大門山を源流とする小矢部川の氾濫が運んだ沖積平野だった。富山湾の河口近くになると運んだ土砂の流れが停滞して蛇行を繰り返す。以前は水田だったと思われた。庄川も山間部を抜けてとなみ野を形成しながら小矢部川と隣り合う。水害の危険地帯だっただろう。それでも高岡市のような町が発展したのは標高52mの高台で水害を免れたからと思う。地名の高岡もなるほどと思う。水害を承知でこんな場所でも逃げないのは氾濫の度に土地が肥えるかららしい。
 交流会後、二上山をドライブしたかったが冬期は通行止めだった。二上山は万葉集の大伴家持ゆかりの名山である。ここには私が信奉する俳人・前田普羅の自筆の句碑が建つ。
  ”雪山に雪の降り居る夕べかな   前田普羅”
 万葉歴史記念館も今日は工事中だった。雨晴海岸からの立山連峰の眺めも冬型の気圧配置で曇り何も見えない。得るところなくそのまま帰名した。但し、白川郷まではR156を走った。

朝のポタリング~遠くの喫茶店へ新聞を読みに行く2017年02月25日

 自宅に居ると運動不足になりやすいので久々にポタリングで近辺を走り回った。帰路は入ったことがない喫茶店に立ち寄った。もちろん、モーニングのパンは断る。減量を心掛けているが一向に減らない。膝痛も一進一退だ。今のところ、飲み薬が効能を著すまでの我慢だ。
 新聞に目を通しても明るい話題はなし。東芝はメモリ会社を分社化して株式を売った利益で赤字の穴埋めにするらしい。徳俵一枚の攻防戦を見る思いだ。
 安倍政権を引きずりおろそう、河村市政を批判したり、あえて民意で選ばれたトップの政治に背く記事が多い。
 本山市政は行政の停滞を招いたし、松原市政はハコモノ重点且つ内内の決定が多かったと記憶する。
 これに対して河村市政の人気の秘密はヤフー知恵袋から借りると
「孔子は言った。人々を頼らせることは容易だろう。しかし、理解してもらうのはむずかしい。 」
意味は「為政者たるもの、民に信頼され親しまれるように努めなければいけない、しかしその気持ちをわからせるのは難しい。」
と言ったことだろう。有権者に分かりやすい行政手腕が批判的に報じられているわけだ。
 自分の報酬を下げだけでなく、更に市議さんたちの報酬、市職員の給与までカットした。10%の減税公約の原資とした。実施できたのは5%だったが公約は果たした。これは分かりやすいが、ポピュリズムの批判も受けやすい。大衆迎合主義である。かつて佐藤栄作がマスコミを嫌ったのと同じでちょっとした隙を突いて批判合戦を繰り広げるから為政者にはたまったものではない。
 河村市長への批判の文脈を言い換えると
 思いつき・・・・ひらめき、アイデア、独創
 思い込み・・・・政治哲学、信念
 減税廃止・・・・増税、報酬アップ、給与アップで財政悪化
 減税は金持ち優遇・・・・貧乏人も少しは負担せよ
 減税を廃止して福祉に回す・・・・子育てを優遇
 
 対立候補の岩城氏との確執もあるのだろう。
「関係者によると、5月に解任された前副市長で弁護士の岩城正光氏は、和解案を受け入れるよう市長を説得したことが解任につながった一因という。副市長は現在1人で、来春の市長選まで空席となる見通しで市政への影響は大きい。

 岩城氏は6月の自民市議の市政報告会で「昨年から和解案を受け入れるよう河村市長を説得したが、応じてもらえなかった。自らの判断で生じた(費用が増加したことの)責任を取っていない」と市長を批判した。」(2016.7.15読売新聞)

 名古屋市の市長がそんなに自由に職員を振り回すほど独断専行する権限があるのだろうか。まして、工事を中断して再考を促す判断が市長の責任一択というのは名古屋市の副市長として報酬を得ている身分でこの説得(進言)は利益相反にもなる。名古屋市に税金を支払わせ、日立製作所側の弁護士に勝たせる行為は公職の身分の逸脱のそしりをまぬかれない。
 しかし、岩城氏を批判する論評は見たことがない。結局、これは、ポリティカル・コレクトネスなんだな。
 岩城氏の弁護士活動で培われた正義感と弱い立場の人をサポートする人権主義はメディアの立場と一致する。
 争点は減税廃止か。選挙戦は競り合いになるだろう。
 名古屋城の木造で再建する計画は支持する。減税で利益を得た市民が寄付する、ふるさと納税の仕組みを生かせないか、国内産木材市況を活性化させるなどが理由。
 鉄筋コンクリートの建設は寿命が来た際は廃棄処分になるが木材なら廃材再利用が可能だ。伐採後も植林すればまた育ってくる。ところがセメント材の石灰岩は採掘しても再生はできない。藤原岳や伊吹山の採掘場を見ると痩せる一方である。鉄鉱石も同じ。木造は山の景観保全にも環境にも優しい。実は火災にも強い。
 と山のことに落ち着いたところでペンを置く。