映画「土を喰らう十二カ月」を鑑賞2022年12月17日

午後から天気が悪くなる予報。見たかった映画に行くことにした。「土を喰らう十二カ月」は以前に水上勉の原作を読んでいたので、料理の内容をどんな内容で画像化した飲んだろうという興味深々だった。
 当初はあちこちでかかっていたが今はミリオン座くらいになった。しかも1日1回の上映という。余り評価が高く無さそうだ。主演は沢田研二と松たか子という華のある俳優なので期待した。
 信州が舞台なのでロケーションは良かったと思う。山家の老作家の独り住まいに東京かららしい松たか子の原稿を催促に訪ねる。そこから料理の数々が展開されてゆく。精進料理である。
 原作にある言葉をセリフに差し込みながらそれなりに退屈はしなかった。但し鳩は映画では山鳩と言っていたがあれは伝書鳩だ。姿、鳴き方、習性を見てもわざとらしい場面だった。
 購入した作品又は映画の原作になった作品
①『土を喰ふ日々』文化出版局 1978 のち新潮文庫(随筆集)

②『精進百撰』岩波書店 1997 のち現代文庫(写真随筆集)、田畑書店 2022に復刊

③『五番町夕霧楼』文藝春秋新社 1963(『別冊文藝春秋』1962年9月号) のち角川文庫、新潮文庫、小学館
『枯野の人』光風社 1963

④『湖の琴』講談社 1966(角川文庫 1968年)(『読売新聞』1965年7月23日-66年6月8日)

⑤『湖北の女』集英社(コンパクト・ブックス)1966(『週刊女性』1965年3-12月) のち文庫

⑥『はなれ瞽女おりん』新潮社 1975(「はなれ瞽女おりん」『小説新潮』1974年2月号、「はなれ瞽女口伝」『小説新潮』1974年8月号)、のち文庫、新編「越後つついし親不知・はなれ瞽女おりん」

⑦『良寛を歩く』日本放送出版協会 1986 のち集英社文庫(紀行文集)

 他に映画作品では「飢餓海峡」などいい作品の原作を手掛けている。

 映画の場面では焼き物の窯に入っているところで心筋梗塞になる。実際は「1989年(平成元年)、訪中作家団の団長として訪れた北京において天安門事件を目の当たりにし、市内の交通が途絶して北京飯店に三日間足止めになるが、東京からの救援機第1号にて帰国。直後に心筋梗塞で倒れ、集中治療室に三日間入り、心臓の三分の二が壊死、1993年「蛍」など療養とリハビリを背景とした作品を執筆、北京滞在時、および闘病の体験は『心筋梗塞の前後』として刊行されている。心筋梗塞後は軽井沢の別荘を売って、長野県北御牧村に家を買い、仕事場を移した。」
 『土を喰う日々』は1978年なので心筋梗塞以前の発刊になる。したがって映画「土を喰らう十二カ月」では創作してある。どちらかと言えば、1989年の心筋梗塞に罹病後の1997年の『精進百撰』に近い。2022年10月28日に復刊したのも映画のベースにしたからだろう。
 田畑書店のHPから
「心筋梗塞で倒れ心臓の3分の2を壊死し失った著者。病身に適した食生活を求めたとき、蘇ったのは少年時代禅寺の侍者として触れた精進料理の世界であった…。

本書は水上勉がすべての料理を手がけ、器は北御牧在住の陶芸家角りわ子が制作した。

今回全写真をリフレッシュし、料理とそれを盛る器の魅力がいっそう楽しめるようになりました。

誰でも何歳からでもここから始められる、精進料理入門の名著復刊。」

 映画でも器を長時間写していた気がする。あれはそんな背景があったのかと、今更思った。器とともに楽しむ映画だったのだ。

たまきはるユダヤの命救いたる樋口季一郎像建つ見ゆ 拙作2022年11月22日

祖霊社に建つ樋口季一郎の銅像
 伊弉諾神宮参拝。その一角の祖霊社に10月11日、樋口理一郎の銅像が建立された。それを見て詠む。

「リトアニアの日本国総領事館に赴任していた杉原千畝がナチス・ドイツの迫害から逃れてきた多くのユダヤ難民を救出した逸話は、「東洋のシンドラー」として国内外に広く知られるようになった。
 その一方で、もう一人の「東洋のシンドラー」、樋口季一郎陸軍中将の史実は知られることが少ない。杉原が救ったとされるユダヤ人の数6000人を優に上回る2万人のユダヤ人を樋口中将が救ったことは、ユダヤ人社会で記録に留められているほどだが、今、彼の功績を広く世界に伝えるべく、日本、イスラエル、米国で連携の輪が広がろうとしている。
 ルトワック氏ら22人のユダヤ人が銅像建立の発起人に第二次世界大戦直前、ナチス・ドイツの迫害からユダヤ人難民を救い、ポツダム宣言受諾後、ソ連の北海道侵攻を阻止した樋口季一郎陸軍中将(1888-1970年)の史実に今、新たな光が当てられようとしている。」

⑤四国の山旅~淡路島の伊弉諾神宮へ、福良で車中泊2022年11月20日

 正午に散会後は次の目的地の淡路島の伊弉諾神宮に向かった。鳴門市まではR11を流すように走る。井ノ尻から左折すると鳴門スカイラインを走って網干休憩所で一休み。伍代夏子の「鳴門海峡」が聞こえる仕組みがあった。少し戻って鳴門北ICから大鳴門橋を渡り、淡路島南ICで出る。
 ここから道の駅のある福良へは近いが時間があるので、淡路島の西の道路を走り淡路市の伊弉諾神宮まで行く。ところどころにサイクリスト用の「アワイチ」の道標があった。また休憩所もあった。淡路島一周のサイクリストを見かけたが歓迎されているんだろう。

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 伊弉諾神宮とはHPによると「はるか神代の昔、イザナギノミコトとイザナミノミコトが、修理固成(国を創り固め成せ)の命を受けて、天之瓊矛(あめのぬぼこ)を授かり、その矛で下界をかきまぜ、引き上げた矛先から滴り落ちた塩の雫が自ら凝り固まって「自凝島(おのころじま)」となりました。その島に天下った男女の神様は夫婦となり、次々と日本列島をお生みになりました。その最初に生まれた島が淡路島なのです。こうして「国生みの島」淡路島は「夫婦のふるさと」とも呼ばれるようになりました。

伊弉諾神宮は古事記や日本書紀にもその創祀の起源が記され、日本で最初の夫婦神「イザナギノミコト・イザナミノミコト」の二神を祀る最古の神社です。そして古くより「鶺鴒(せきれい)」は男女和合へといざなう御神鳥として崇められ、その由来から  伊弉諾神宮境内に「せきれいの里」が誕生しました。」と前書きにある。

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 「いわれいい伝え
            御由緒
 古事記・日本書紀の冒頭にその創祀を記す最古の神社。国生み・神生み始まる御神功を果たされた伊弉諾いざなぎの大神おおかみが、御子神の天あま照てらす皇すめ大御神おほみかみに国家統治の権限を委ね、淡路の多賀たがの地に「幽宮かくりのみや」を構へて余生を過ごされた神宅かむやけの旧跡に鎮座する。

 この地で終焉を迎へられた伊弉諾大神を、その宮居の跡地に神みさ陵さぎが築かれて、お祭りされたといふ神歴を創祀の起源とする。
 
幕末までは禁足地の神陵の前方に本殿があったが、明治初年の官費による造営事業で神陵地を整備し、墳丘上に本殿が移築された。

 わが国最古の歴史書「古事記」や国史「日本書紀」は天地てんち開闢かいびゃくの説話から始まる。「天地あめつちはじめて發ひらけしとき」に、高天地に造化ぞうくわ三神が現はれ、続く神世七代で現れた伊弉諾尊(男神)と伊弉冉尊(女神)に、「この漂ただよへる国を修理固成つくりかためなよ」と命ぜられた。」

 二柱神は天あめの浮柱うきはしに立ち、天沼あめのぬ矛ほこで大海原をかき回し、矛の先から滴り落ちた雫しずくが「淤お能の碁ご呂ろ島」となる。

 この島に降り立った二神は、夫婦めおとの契りを結び、国生みの儀式を行ひ、最初に誕生したのが淡路島(淡道之あはぢの穂之狭ほのさ別わけの島しま)で、続いて四国、隠岐、九州、壱岐、対馬、佐渡、本州と生まれ、「大八洲おほやしま」といふ古代日本の国土が出来上がった。

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 というわけで古代史に関心のある日本人なら一度は参拝したい。

 今回は淡路島の最高峰の諭鶴羽山のハイキングと伊弉諾神宮の一角の祖霊社に10月11日、樋口理一郎の銅像が建立されたことも知って行きたい気が募った。
 祖霊社とは「祖先の霊を祀る社を霊社といい、祖霊社は祖先累代の霊をあわせて祀ったもの。明治以降の神仏分離と神葬祭の普及に伴い、氏子のなかで神葬祭をもってした人々の霊を合祭する祖霊社が多く設けられた。1886年(明治19)6月、神社の公的性格を強調するため祖霊社の創立は禁止されたが、第二次世界大戦後はふたたび神社境内の祖霊社が増えつつある。」の意味。[岡田荘司]

 樋口理一郎はユダヤ人の難民を救済した軍人であった。

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HPによると
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g01097/
「もう一人の「東洋のシンドラー」: 2万人のユダヤ人を救い、北海道を守った樋口季一郎陸軍中将

 リトアニアの日本国総領事館に赴任していた杉原千畝がナチス・ドイツの迫害から逃れてきた多くのユダヤ難民を救出した逸話は、「東洋のシンドラー」として国内外に広く知られるようになった。
 その一方で、もう一人の「東洋のシンドラー」、樋口季一郎陸軍中将の史実は知られることが少ない。杉原が救ったとされるユダヤ人の数6000人を優に上回る2万人のユダヤ人を樋口中将が救ったことは、ユダヤ人社会で記録に留められているほどだが、今、彼の功績を広く世界に伝えるべく、日本、イスラエル、米国で連携の輪が広がろうとしている。
 ルトワック氏ら22人のユダヤ人が銅像建立の発起人に
第二次世界大戦直前、ナチス・ドイツの迫害からユダヤ人難民を救い、ポツダム宣言受諾後、ソ連の北海道侵攻を阻止した樋口季一郎陸軍中将(1888-1970年)の史実に今、新たな光が当てられようとしている。

その功績を顕彰する銅像を建立する募金計画が有志の間で進み、孫の樋口隆一明治学院大学名誉教授を会長理事とする一般社団法人「樋口季一郎中将顕彰会」が設立された。募金活動は日本のみならず、イスラエルや米国のユダヤ人社会にも呼びかけられ、銅像を通じて樋口中将の功績を世界に伝え、国際的な友好の輪を広げようとしている。

2022年秋の完成を目指す銅像について、隆一氏は「(出身地の)淡路島では伊弉諾(いざなぎ)神宮、北海道では北方領土を遠望できる場所が望ましい」と語る。「顕彰会」には、淡路島と北海道の関係者のほか、戦略論研究で世界的権威の米国の歴史学者、エドワード・ルトワック氏や日本のユダヤ人組織のラビ、メンディ・スダケヴィッチ代表ら国内外のユダヤ人計22人が発起人として名を連ね、約3000万円の寄付を募る。

樋口中将は満州国ハルビン特務機関長だった1938年3月、迫害を逃れ、ソ連を通過してソ連・満州国境オトポール(現ザバイカリスク)で立ち往生していたユダヤ人難民に食料や燃料を配給し、満州国の通過を認めさせた。リトアニアのカウナスで杉原千畝領事代理が命のビザを発給し、6000人のユダヤ人を救うのは、この2年後の40年のことである。

ユダヤ人難民は、ドイツ国籍であれば上海へのトランジットが可能だったが、満州国外交部がドイツと日本に忖度(そんたく)して通過させなかった。樋口は「日本はドイツの属国でもなく、満州国もまた日本の属国ではない」と日本政府と軍部を説き伏せ、上海までの脱出ルートを開き、その後、この脱出路を頼る難民が増えた。ユダヤ民族に貢献した人を記した「ゴールデンブック」を永久保存するイスラエルの団体「ユダヤ民族基金」では、救出した総数は2万人としている。

ユダヤ人の境遇に深い理解と憐憫
なぜユダヤ人難民を救ったのだろうか。オトポールでの救済の直前、1937年12月にハルビンで開かれた「第一回極東ユダヤ人大会」で樋口はユダヤ国家建設に賛成するあいさつを行うなど、ユダヤ人の境遇に理解と憐憫の情を示していたことが大きい。

『陸軍中将樋口季一郎回想録(以下、回想録)』(芙蓉書房出版)によると、樋口は1919年に特務機関員として赴任したウラジオストクでロシア系ユダヤ人の家に下宿。ユダヤ人の若者と毎晩語り明かして親交を深め、ユダヤ問題を知った。ワルシャワ駐在陸軍武官として25年から赴任したポーランドでは、弾力性ある国際感覚を身に付けたが、人口の3分の1を占めたユダヤ人が差別と迫害を受けるという流浪の民族の悲哀を垣間見た。
以下はソースにアクセス
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 10月11日に銅像が建立されたことはFBFのRyuichi Higichiのコメントで知った。盛大な除幕式も執り行われた。これに旅心が刺激された。
 伊弉諾神宮参拝後は隣の祖霊社の左に建つ樋口季一郎の銅像も拝見した。
 冬の夕暮れが迫ってきた。今夜は南あわじ市の道の駅「福良」で車中泊だ。再び南へと走った。
 道の駅福良のPはガラガラだった。ちょうどトイレ横のPが空いていたのでそこに陣取った。夜トイレが近いと助かる。夜中に散発的に降雨があった。

③四国の山旅~小島烏井祭に参加2022年11月19日

 近代登山のパイオニアで知られる小島烏水は登山家であり文化人でもあった。当時のベストセラーである志賀重昂『日本風景論』6版を読んで登山に目覚めた。植物採集(山菜取り、薬草取りなど)鉱山師、宗教登山などの目的を持った山登りから純粋に登ることだけを目的に遊びとしてスポーツとして近代登山は発展してきた。その嚆矢の1人である。
 槍ヶ岳に登山するために沢登りで霞沢岳に登頂後、上高地に下って登った。その後、スタンダード石油に勤務していた友人はW・ウェストン『日本アルプス 登山と探検』の原書の槍ヶ岳の写真を見て驚きます。ウェストンらは島島谷を歩いて徳本峠を越えて上高地入りしている。今でいう英国と日本のインテリジェンスの格差に愕然とするわけです。その秘密を探りたいと交流が始まる。


「第3章 山岳会の設立と登山の普及」から

https://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/18/3.html

「日本最初の山岳団体「日本山岳会」(初期は単に「山岳会」という名称でした)は、明治38(1905)年に小島烏水らの手により設立されました。 
 烏水は、横浜正金銀行に勤めながら余暇を利用して登山を楽しみ、多くの紀行文や評論を残すとともに、浮世絵等の美術品のコレクターとしても知られる多才な人物でした。
 明治35(1902)年、『日本風景論』【45-67】に感化された烏水は、友人と二人で槍ヶ岳の登山を試みました。未知の険路をやっとの思いで登頂し「登山の気風」に先鞭をつけたと大きな達成感を得ます。
 ところがその翌年、第2章で紹介したウェストンの著作Mountaineering and exploration in the Japanese Alpsを偶然目の当たりにし、自分たちに先んじて槍ヶ岳に登った西洋人の存在が明らかとなります。
 さらにはその人物が思いもかけず横浜に滞在中であることまで分かりました。烏水は友人と連れ立ってウェストンを訪ね、世界各地に山岳会という登山愛好家のクラブがあることを知ります。
 2年後には、帰国数日前のウェストンからホテルに招かれて山岳会の設立を熱心に勧められ、また、後日ウェストンの仲立ちで英国山岳会からも山岳会設立を激励する書簡が届きました。この後押しを受けて「紙裂けて電火発するを覚えたりき」と奮い立った烏水は、山岳会の設立に精力的に取り組みました。」

 とまあこんな人物を顕彰するために「小島烏水祭」は10年前に尾上昇日本山岳会会長(当時)と地元の会員らが顕彰碑の建立のために動いた。場所は高松市内の峰山公園の一角でした。
 主催者の尾野益大四国支部長、尾上昇元会長、神崎元会長、建立に尽力した地元県議、市議、高松市長代理、小島家の子孫、らの関係者が祝辞を述べた。
 小島烏水には9人の子供がいたが今は孫、玄孫の世代に移っている。小島誠さんは詩吟を披露された。何と正岡子規の「柿食えば鐘がなるなり法隆寺」を得意の喉で吟じた。様々なエピソードが語られたが記録までできなかった。
 散会後は高松市では一級の宴会場である「花樹海」に移動。夜6時から9時近くまで延々語られて盛会の裡に終えた。
 高松城祉の近くのホテルに投宿できたのは夜10時近かった。

宮崎駿ノート2022年11月04日

 ジブリの宮崎駿氏を知ったのは「風の谷のナウシカ」(1982年)が話題になった時だったと思い出した。
 孫引きですが、「産業革命で科学技術の発展した人類社会が、「火の7日間」と呼ばれる最終戦争によって滅びてからさらに1000年余りが経過した未来の地球が舞台。
 以下、第1話の冒頭文を引用する。」「ユーラシア大陸の西のはずれに発生した産業文明は数百年のうちに全世界に広まり巨大産業社会を形成するに至った。大地の富をうばいとり大気をけがし、生命体をも意のままに造り変える巨大産業文明は1000年後に絶頂期に達しやがて急激な衰退をむかえることになった。
 「火の7日間」と呼ばれる戦争によって都市群は有毒物質をまき散らして崩壊し、複雑高度化した技術体系は失われ地表のほとんどは不毛の地と化したのである。その後産業文明は再建されることなく永いたそがれの時代を人類は生きることになった。」

 現代は右肩上がりの夢のある時代から本当に黄昏になった。堺屋太一氏は『「大変」な時代 常識破壊と大競争』の中で「うつむき加減」の時代と表現していた。
 宮崎氏のアニメの世界は1の子供向けのファンタジーから2と3の小難しい世界に迷走したんだろう。この作品で左翼傾向と見ていたがソ連の崩壊(1991年)を見てしまったから懐疑的にならざるを得ない。アニメでありながら今は歌舞伎にも取り込まれた。ジブリパークはとりあえず5つのエリアだが風の谷のナウシカは構想中らしい。見たいような見たくないような作品です。

 ソース:https://www.fenet.or.jp/opinion/id/70
「批判されない宮崎アニメ」から

・宮崎駿は左翼主義者である。「心情的左翼だった自分が、経済的繁栄と社会主義国の没落で自動的に転向し、続出する理想のない現実主義者の仲間にだけはなりたくありませんでした」(『時代の風音』)と自らの「転向」を語っているが、左翼体質は抜けていない。
アニメを観、見せるのは各自の自由にしても、以下の言動を踏まえ、薄甘い左翼主義者の作品を観、また見せているという自覚くらいは必要ではなかろうか。

・「憲法を変えることについては、反対に決まっています。選挙をやれば得票率も投票率も低い、そういう政府がどさくさに紛れて、思いつきのような方法で憲法を変えようなんて、もってのほかです。」(『熱風』2013年7月)宮崎駿の政治発言は多い。スタジオジブリ発行の『熱風』には数多くの迷言が登場する。
「慰安婦の問題も、それぞれの民族の誇りの問題だから、きちんと謝罪してちゃんと賠償すべきです。」(同)朝日新聞が誤報を認める以前の発言だが、そもそものスタンスが左翼だ。

・労働組合書記長・宮崎駿

 学習院大学政経学部卒。1963年、東映動画に入社、翌年労働組合の書記長となる。60年代の空気は若者の多くを左傾化したので宮崎一人を責めるわけにはいかない。ただ「理想のない現実主義者」を拒否した「心情的左翼」が、原始共産社会を理想とする夢想家として形作られていったことは、その後の彼の作品で想像できる。

・作品が良ければ良いでは無いか、とも言える。確かに「血沸き肉躍る冒険、はらはらどきどきのストーリー展開。奇想天外な形状をした飛行機械と、辺りを一瞬にして火の海と化す破壊兵器。天高く駆け抜ける飛翔感と、それ以上に蠱惑的な墜落感。あるいは純朴な少年と高潔な少女の恋とも言えぬ淡い想い」(青井汎『宮崎アニメの暗号』)等々エンターテインメントとしての面白さは抜群だ。ところが観終わると「少なからぬ人々が『面白かったんだけど……』と、何かしらのわだかまりを『……』に忍ばせながら帰途に着く」(同)

・カリオストロやラピュタ等エンターテイナーとしての面目躍如だった宮崎作品も、だんだん意味がわからなくなってきた。あの金魚は何だったのか。なぜ城が歩かなくてはならないのか。顔の無い化け物に追いかけられていたヒロインが、直後にその化け物と一緒に電車に乗っている。観客は「ファンタジーだから」と意味不明を無理に飲み込む。あるいは隠された暗号を読み解こうと躍起になる。

・ ハイジでもコナンでも面白いものは面白い。ただジブリの先輩・高畑勲が明確に共産党支持を打ち出しているのに対して、宮崎駿は今ひとつはっきりしない。そんな人物の作品が「単なるアニメじゃないか」と切って捨てられないほど巨大な影響力を持つに至った。
公開の度に観客動員数は増、興行収入もうなぎ登り。「悪口を言うなんてとんでもない!」―現役引退したとはいえ、世界的巨匠に対してもはや批判そのものを世間が許さない。今の日本で宮崎アニメの洗礼を受けていない人は先ずいない。家でも学校でも宮崎アニメは垂れ流し。ジブリグッズの氾濫を大人と子供とで競い合っている。そもそも生まれたと同時に宮崎アニメに取り囲まれて育っている。となりのトトロを子守歌で聞き、ポニョポニョつぶやきながら大きくなった。薄甘い左翼幻想が個人の生活圏の深層に喰い入り、日常の思考レベルの音階を形作ってきた経緯がある。

・左翼系作品の特徴は、権力者や上位階級者は絶対悪(反天皇・反武家・反貴族)、戦争は悪(エセ平和主義)、戦争で死んでも犬死に(命をかけて戦うべき時があることを否定)・・・など。

宮崎駿、実は東映の労組書記長までやった筋金入り左翼。
しかも、ホントの苦労をしたことないボンボン。鳩ポッポと似たようなところがある。

マスコミが宮崎の経歴をほとんど報道しないので、このことは一般に知られていない。
宮崎のイデオロギーは日教組とほぼ同じ。だからマスコミや学校は、それを隠して、宮崎アニメを盛り上げようと囃し立てる。

柿の日や日に日に増してくる寒さ 拙作2022年10月26日

https://weathernews.jp/s/topics/202210/220135/?fbclid=IwAR0Y1jpKE_uZtJoxLUOYCPT5d8dBMcovO_sL-q7eeR1QWLEQK5F6_FM-DrQ
「柿が赤くなると医者が青くなる」ということわざがあります。柿が赤くなる秋は天候がよいので、体調を崩す人は少なく、医者は商売にならずに青ざめる、という意味です。これはおそらく、柿の健康効果も手伝って生まれたことわざでしょう。

では、その柿の健康効果とはどんなものがあるのでしょうか。
老化防止や美容、二日酔いの予防にもおすすめ!
まず特筆すべきは、ビタミンCの含有量です。甘柿は可食部100gあたり70mgと果物の中ではトップクラスで、1個食べると、ビタミンCの1日の摂取基準量を満たすことができます。ビタミンCは風邪の予防や免疫力アップ、美肌の育成・維持などに重要な働きをする栄養素です。
中略
正岡子規にちなんで、10月26日は「柿の日」
「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」。これは明治時代に正岡子規が詠んだ俳句です。

子規は1895(明治28)年10月26日に奈良へと旅立ちました。その旅先で「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」を詠んだといわれます。この俳句にちなみ、10月26日は「柿の日」に定められています。
以上

八風街道の文献調査2022年10月05日

 10月2日は秋日和でした。
 中央アルプスの寂峰を予定していたがキャンセルに。八風街道の文献調査の宿題を片付けるために菰野町と東近江市の図書館をはしごするドライブに行く。
 先ずは菰野町図書館へ。午前中というのに既に暑い。司書さんに来館の目的を告げると親切に立ち合って出してくれた。菰野町史はコピーを依頼、後はスマホに撮影。
 次はいなべ市のR421から石榑トンネルをくぐり東近江市湖東町へ。道の駅はごった返していたのでパス。R307から西堀栄三郎記念館へ。湖東町に何の縁か、親が近江商人でこの地で商売していたらしい。知恩院で西堀さんの墓を見たことがあったが近江の人だったのだ。
 八風峠について書いた文だったか「峠は高い程良い。高い分高く売れる。」と近江商人の心意気を書いた文を思い出した。数ある鈴鹿の峠でも高く険しい。
 ビジネスとアルピニズムは一脈通じる。リスクとは日々の糧を得るという意味のアラビア語だが、高い程リスクもあるが満足感や儲けも大きい。
 盟友の今西さんも展示されていた。
 隣の湖東町図書館で調べたが核心的な史料はない。永源寺町図書館へ移動。やはり永源寺町史は核心を突くのでコピーを依頼した。
 R421を走ると永源寺そばを謳う蕎麦屋に吸い込まれた。昼ご飯を食べていなかったからだ。天ざる蕎麦1300円也。この蕎麦は美味しい。
 杠葉尾の山家をぬうように狭い旧街道を走ると八風街道の面影を残す「左 いせ」の道しるべを発見。伊勢参りにはこんな険しい八風峠も越えたんだ。来た甲斐があった。

長渕剛、北海道ツアーで熱弁「この土地を外国人に売らないでほしい」観客たちは涙、涙…2022年10月04日

ソース:https://news.nifty.com/article/entame/showbizd/12278-1903011/

 歌手の長渕剛(65)が1日までに自身のYouTubeチャンネルを更新。北海道・札幌文化芸術劇場で行われた「Tsuyoshi Nagabuchi Concert Tour 2022 REBORN with the BAND」のリポートを公開し、ファンに「この土地を外国人に売らないでほしい」と、思いを伝える場面があった。

 MCになり、長渕が「僕は北海道が大好きです!空が高いし、青いし、空気が綺麗だし。水も豊かだし、人間も優しいし、僕は大好きです!」と語ると、観客からは万雷の拍手が送られた。

 また「この北海道という街は、その昔、開拓民たちが一生懸命に開拓した街だ。お願いだから、この自然に満ち満ちたこの土地を、外国人に売らないでほしい」とメッセージを送る場面も。

 「老いていく私たち人間は、年に抗って、お金にまみれないで。心を一つにして、今こそ僕たちの先人たちが築いてきた、共有する心や、和合する心を大事にしていって。ここから5年、10年、15年、100年と一緒にやっていこう」と呼びかけていた。

 終演後、感想を聞かれた観客たち「感動しました」「特に最後のMCは感動して涙が止まらなかったです」「最高です」「また来ます」「MCでウルッときて泣いちゃいました」と話し、涙を流す人もいた。

コメントから
・日本国憲法 第29条3項
「私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる」
日本の領土はいつでも日本国家が没収できるみたい。
・・・・法制を整備しないとね。

アントニオ猪木さん死去、79歳=「燃える闘魂」、元参院議員2022年10月02日

「燃える闘魂」のキャッチフレーズでプロレスラーとして人気を博し、参院議員も2期務めたアントニオ猪木(あんとにお・いのき、本名・猪木寛至=いのき・かんじ)さんが1日午前7時40分、心不全のため自宅で死去した。79歳だった。難病「全身性アミロイドーシス」で闘病生活を送っていた。葬儀は未定。

横浜市出身。家族とブラジルへ移住し、1960年に17歳で力道山にスカウトされ、日本プロレス入りした。「コブラツイスト」「卍(まんじ)固め」「延髄斬り」などを得意技にジャイアント馬場、ザ・デストロイヤーらとともにプロレスブームを巻き起こした。

72年に新日本プロレスを設立し、タイガー・ジェット・シンら外国人スターを売り出してファンを獲得。76年にボクシングの世界ヘビー級王者、モハメド・アリと異種格闘技戦を行うなど、常に話題をまいた。

89年にスポーツ平和党を結成し、参院選で初当選。90年の湾岸危機では、イラクに乗り込み、人質となった日本人の解放に尽力した。

95年に落選したが、2013年に日本維新の会から参院選へ出馬し、18年ぶりに国政復帰。独自のパイプを持つ北朝鮮をたびたび訪れ、親善活動に取り組んだ。19年に政界を去った。

プロレスは98年に現役を引退したが、その後もイベント企画などを手掛け、「1、2、3

ダァーッ」や「元気ですかー」の掛け声、「闘魂ビンタ」などのパフォーマンスは、国内外で幅広く親しまれた。

【時事通信社】 〔写真説明〕アントニオ猪木さん 〔写真説明〕記者会見で「スポーツ平和党」から参院選への出馬を表明したアントニオ猪木さん=1989年6月、東京都港区

2022年10月01日 16時31分
・・・お悔やみ申し上げます。

たまきはる命をかけて尽くしたる安倍晋三の名をな忘れそ 拙作2022年09月30日

 7/8に凶弾に倒れた安倍晋三氏を弔う国葬議は9/27に執行された。そして無事に終了できた。国論を二分するとメディアは騒いだが嘘だった。見事なサイレントマジョリティの長蛇の列に感動もした。それは安倍元総理の国政への尽力への感謝と高評価の現れであった。決して忘れませんよ。