小笠山ノート①2021年01月12日

登山道の真下の断崖絶壁は小笠層群の露頭
 静岡県袋井市北方可睡丘陵の小笠層群
                       竹 村 恵 二(京 都大学)
 天竜川と大井川 にはさまれた地域(掛川地方)の新第三系は,慎山次郎 をは じめ とす る多 くの研究があ り,第 四系について も土隆 一の一連の研究があ る。
 筆者は1974年 の京大理学部の課題研究として,袋井市北方の可睡(かすい)丘陵を対象として,層 序学的な調査を行い,堆 積環境の時間的変遷の考察と大阪層群との比較 を試みた 。
 調査地域は掛川層群,曽 我層群,小笠層群,段丘堆積物よりなる。掛川,曽我,小笠の三層群は南西へ緩 く傾く単斜構造 をなす。曽我層群は中部に挾まれる凝 灰質層 を鍵層 として下部,中 部,上 部に三分される。それを不整合 におおって,砂 礫 と泥の互層状を呈す小笠層群 がのる。粘土層 を基準に して,小 笠層群を下部よ り一色層,西 之谷層,可 睡 斎層,可睡層,平 宇 層,久 能層,鶴 松層 に七分 した 。
 掛川層群は海成の砂泥 か らな る。その上の曽我層群 は小笠丘陵 では下位か ら上位に向 って泥質 か ら砂礫質への変化が認 め られ,礫 は粒度 のそろった海浜成 円礫であ る。可唾丘陵では最下部に数米の礫層 を持 ち,そ の上位に円礫 まじりの砂層 が堆積 してい る。北西 方へ行 くに従 い礫が優勢 とな り,磐 田原下部は小笠丘陵地域 よ りも河成相 的であ るこ とを示す 。
 可睡丘陵では,曽 我層群 の上位 に礫泥互層状の小笠層群が重なり,全体 として河成相的様相を呈する 。一般に現在の河川 との比較 によ り磐 田原下部は天 竜川系 の河川 によ る堆積であ り,小 笠丘陵 は大井川系の河川 による堆積 であ る とされ る 。そ の間 に位 置 す る可睡丘陵 の小 笠層 群 には 少 量 とは いえ花 歯岩の礫 があ り天 竜川系 河 川 の影響 が及 ん だ もの と考 えられ る 。
 しか し,可 睡丘 陵 の小 笠層 群 は生成 環境 を細 か く吟 味 す る と,海 成 の 部 分が 存 在 した と考 え られ る 。第 一 に,泥 質 部 に サンドパイプのある層 が存在すること。第 二に淘 汰のよい海浜成 円礫の層 が平宇層および可睡斎層に存在することによる 。
 た だ し,一 色層 か らSaxostrea  sp.を 産 した以 外 に海 棲 貝 化石 が産 して いな いの は海成の証拠 としては 不十 分 であ る 。今 回 の 調査 では,可 睡丘 陵 の小 笠層 群 は,河 成 相 を主体 としつつ も,淡 水,汽 水 の 入 りくん だ複 雑な環 境 下 で形成 され た こ とが結 論され る 。
 時代 に関 して は,鮮 新 一更新統 の境 界 は浮遊 性有 孔 虫 化 石 か ら掛 川層 群 中 に求 め られ る(1973加 藤,1972両 角)。 ま た曽我 層群 の貝 化 石 は現 生 種 が90%以 上 で,か つ掛 川層 群 中 の熱帯 要素 が 消 滅 す る ことか ら,曽 我層 群 は更 新世 であ る と され る(土1961)。
 小笠 層 群 に つ い ては,化 石 に よ る資料 が 乏 しい が,可 睡丘 陵 の 西浦 付 近 よ りMetasequoiadisticha Mikiの 産 出が 報 告 され て お り(土ほ か1967),大 阪層 群 のMa3の 時 代 よ り新 し くな い と考 え られ る。現在 花粉 分 析 を行な って お り,よ り細 か い対 比 の可能 性 もでてくるで あ ろ う 。
以上
 WEBの国土地理院の地形図をなんども縮尺拡大するうちに天竜川と大井川の間には6本の中小河川があり、さらに微細な河川が縦横に網羅的に見られた。これはきっと天竜川と大井川の伏流水が関係しているとにらんでググってゆくうちに引用記事を発見した。
 やっぱり遠州半島は基本的に小笠山と高天神山を結んであったのだ。
 その北の逆川は夜泣き石辺りを水源に西へ流れる。「逆川(さかがわ)は、静岡県の主に掛川市を流れる二級河川。 太田川水系原野谷川の支流。 蛇行が激しく、たびたび水害をもたらしてきた暴れ川である。 堤が欠ける(決壊する)ことから「かけがわ」(欠川→掛川)とも呼ばれ、当地域が「掛川」と呼ばれる由縁となったと伝えられている。」のであるが、古くは大井川の流れではなかったかと想像する。
 すると袋井は「市内を流れる原野谷川・宇刈川・沖之川に囲まれた「袋」のような地形に由来するという。」という。池袋なども同じ由来だろう。袋になるのは川の蛇行で沖積平野になるが、水溜まりの部分が流れを失い袋状に取り残される地形だから。
 天竜川の伏流水もあり湿潤な土地ではないか。しかし水稲には良い環境だろう。水が豊か、水稲栽培が盛ん、子孫繁栄を願って遠州三山がこの地に成立したものともうかがえる。するとあの団子の餅も土地柄を反映した名物なのだ。