奥美濃の巨渓西ヶ洞を溯る2007年09月30日

 昨年秋、板取村の銚子洞をやった時、次は西ヶ洞だなあ、と呟いた。西ヶ洞は銚子洞、金ヶ丸谷、赤谷のいわゆる三大名渓には入っていないが溯渓の目標に値する谷といわれていたからである。その西ヶ洞をやった。
 そこで名渓の条件は何か、である。①日帰りでは無理な深さと長さがあること、②自然度が高いこと、③長いく険阻なゴルジュとその奥の堂々とした滝、(深く、広い)淵、④多くの溯渓者を受け入れてきた歴史があること。思いつくまま挙げると以上のような条件があろう。西ヶ洞はすべてに当てはまる。
 9/22(土)夜、金山駅前に8時集合、ダイエーで買い物を済ますと出発は9時になってしまった。東別院ICから小牧JCTを経て東海北陸道美濃ICを目指す。芳しい天気ではなかったが美濃ISAに来ると雨であった。何とまあ。前回の二の舞か、と不安になった。しかし雨は美濃周辺だけで路面が乾いている。板取村へは深夜12時頃か。某所でテントビバーク。
 9/23(日)午前4時半目覚ましが鳴る。前回の失敗で飲酒量を控えめにしたので何とか起きられた。動きの鈍い早朝は時間だけがドンドン経過して行く。どんよりした空はまだ秋の気配ではない。朝食後テントを撤収。入渓地までは若干戻る。地形図で送電線の位置などから割り出しながら入渓地を発見!した。
 本流の川浦谷川へは誰が作ったか知らないが鉄パイプを組んだ階段を下降する。まるで非常階段である。それも川床のかなり上で途切れる。落差は100m近くはあっただろうか。昨夜は川面と同じ高さで寝ていたのであるがわずかに走っただけでこんなにも高さが違った。
 本流は水量が多く流されそうなくらいである。常にあるせいかフィックスロープが渡してあった。それを使わせてもらって徒渉。数m下ると西ヶ洞との出合いである。
 出合いからの西ヶ洞はゴルジュで始まる。水に磨かれた岩盤にフエルト底のグリップ力を確かめながら歩く。いきなりヘツリの場面があり緊張する。Wリーダーはもう半身を水没させてやる気満々だ。長いトンネルのようなゴルジュを抜けると河原歩きである。右に本物のトンネルの入口が見えた。ドウの天井という山の中に地下発電所の建設計画があったが環境問題に配慮してか昨年3月に中止が発表された。その名残であろう。
 河原歩き、碧水を湛える深い淵を巻いたり泳いだりして進んだ。大山田谷は明瞭な出合いであった。ここで一泊したいような森の中に平坦地もあったが我々は先を急いだ。そして巨岩帯に出くわす。ミズナラの巨木も散見された。そこを通過するとまた河原歩きであったがすぐにゴルジュ帯に出合う。深い淵は泳いだ。だがその先を先廻りしたW君は大きく手を交錯して前途が通過不能であることを告げた。
 仕方なく戻って高巻きを探るより他なかった。左岸、右岸を鵜の目鷹の目で探したが顕著な赤いテープは元より踏み跡もなかった。思い切って左岸の等高線の緩んだ谷間を登ってみた。明瞭な踏み跡はないが藪が薄く何となく困難もなく登っていける。戻って彼らに呼びかけ誘ってみたら行って見ようか、と合致した。しばらくはがさごそと登ってみたが確証は得られず引き返す。もう日没である。何ら手がかりは無いが河原で情けないビバークとなった。
 川の石を均して何とかツエルトを張った。W君がフライを持っていたのでそれも張った。一方で焚き火を試みた。失敗するとトウモロコシ、ソーセージの類を焼いて食べることができないし泳ぎで濡れたシャツからパンツも乾かせない。しかし現実は非情であった。先ほどから降り出した雨で枯れ枝に炎が燃え移らない。メタを何本も投入して失敗に終った。
 ツエルトでは炊き込みご飯を炊いた。体は濡れたままであるが中は幸い温かい。これは底に少し焦げ目をつけたが成功した。温かいご飯が我々の体を芯から温めてくれた。小石が背中を突いて痛い。沢スパッツ、靴下などあるだけのものを背中に敷いたがやはり痛い。何度も寝返りを打ちながらも疲れで寝入った。
 9/24(月)午前5時起床。幸い雨は上がっていた。アルコール控えめで良かった。割りにすっきりと起きられた。朝食は味噌煮込みうどんである。手早く作って食べ終えた。また濡れたシャツを着たり、靴下を履いて準備。ツエルトを撤収するとよくもまあこんな所で寝れたものだと思う。臥薪嘗胆そのものである。
 昨夕、Wリーダーだけを派遣した形で引き返したが3人で見るためまた行くことにした。淵は泳ぎ、Wリーダーに牽引してもらった。周囲は見上げるような垂壁である。円くなった直径10mのお釜があり5mくらいの滝がかかっている。足がかりはない。Wリーダーが手を交錯して前途を断念したことも理解できた。左岸は垂壁である。しかし、滝の落ち口の右岸に左から急な尾根が降りている。高巻きラインのイメージを掴む。これしかない。
 淵をまた泳いで戻り、右岸をチエックするといい足場が続く岩場がある。少し登ると土になり木の根が出た尾根に出る。Wリーダーに示唆すると彼も登ってみよう、とザイルを出しながらリードしてくれた。ザイルをしまう間に先を行くと何となく踏み跡が続いている。左に落ちるルンゼに出合いルンゼを登る。ルンゼに詰まると尾根に逃げたり、またルンゼに戻りしながらついに証拠物件が見つかった。空缶である。昭和56年・・と印刷された文字が読めた。ルンゼを抜けると踏み跡は鮮明になった。Wリーダーがサングラスを見つけた。いやに人臭い気配である。尾根を越えると滝に落ちるルンゼの源頭である。しかしルンゼ内はむき出しの岩盤の露頭で下降は困難。木の生える尾根を懸垂下降した。ダブルで2回、補助で1回。約70mはあり、素手で下った部分を足すと100mは越える。垂直に近い見上げるような尾根であった。
 本流に無難に降りれた感想はもう安堵の一語に尽きる。滝の落ち口に立つWリーダーは」ここにこうして立っているのが不思議だ」とのたまう。御意である。高巻き出来なければまた本流を下降していた。失敗である。成功したことで予定した日永岳には登れるだろう。なら谷の下降は時間切れで出来ない。同じ心配でも無念に下るか前途を一部カットしてでも完遂できるかは大きな違いがある。
 滝上に出ると一つ滝を越えたがつり人のらしいフィックスロープが下がっていた。平流に近い河原歩きが再開された。イタゴ洞の出合いを求めて歩いた。一旦過ぎて目星を付けた出合いまでまた戻った。錆びたワイヤーロープが谷の中にあって人臭い。壊れた小屋跡もあった。赤いナメが続いたが規模が小さい。巨渓を見てきた眼にはすべてがミニチュアに見える。
 水量が乏しくなって二股になった。尾根があり明瞭な踏み跡が見えた。あと少しで鞍部である。ブナ、ミズナラなどの意外な巨木に最後の感嘆符を挙げながら喘登を続けた。先頭の若いF君が尾根に着いたようだった。続いて私も着いた。ほっとした。F君とは眼と鼻の先だった。遅れ気味のW君も追いついた。これで谷から解放されたのである。
 しばらく尾根を登った。霧で見えないが尾根歩きっていいね、というとF君も照応してくれた。谷歩きに飽食していたからだった。日永岳への尾根はよく手入れされて歩きやすい。急な尾根を登りきると平坦なコブについて一旦下る。登り返したところが山頂だった。もちろん何も見えない。
 峠まで下る。イタゴ洞への道は笹に覆われていた。我々は反対に仲越へ向って下り始めた。伐採後の二次林から植林帯に入ると道は非常に良くなって歩きやすい。林道に着いたが村まではまだ遠い。黒田建設の工事現場を通過。山抜けの治山工事であった。
 ほどなくで工事現場事務所に着いた。久し振りで人を見て懐かしい。我々が西ヶ洞から越えてきたことをいうと一様に驚いていた。電話は事務所にはなく携帯も谷合まで行かないと通じないという。ようやくで舗装路にでた。かつての廃校はもう取り壊されてなかった。コンクリートの道を歩くのは辛いな、と思っていたら先ほどの工事現場のクルマが通りかかり谷合までの便乗を頼んだ。気持ちよく便乗させてくれた。
 細い道を慣れた感じでびゅんびゅん飛ばす。電話のありそうな最奥の民家まででもかなりあった。徒歩1時間タクシー待ちで1時間都合2時間はかかる。現場の人は谷合で同僚を降ろすと我々を川浦まで送ってやる、という。タクシーも捕まるかどうか分からないから我々に親切を申し入れてくれたのだ。この意外さは嬉しい。彼らは一日の危険な仕事を終えた後でくつろぎたいころであろう。それを遊び人の我々に尽くすというのだから。親切はありがたく受け入れたことはいうまでもない。
 川浦まではおよそ30kmはある。薄暗くなった板取路を走ってもらった。車に無事戻り別れた。帰りは板取温泉に入湯した。ぬるぬるして気持ちいい。温泉の成分のみならず人の親切までが身に沁みる思いであった。

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