常寒山と三遠研総会2019年04月20日

常寒山と石の祠
 午後から三遠研の総会参加を兼ねて近隣の常寒山登山に出掛けた。朝5時30分に自宅を出発。東名三好ICから高速で新城ICへ。弁天橋を渡って吉川の里を走る。吉川峠を越えるとゆったり下り、中山間地域の田園が広がる。しばらくで左へ上ると西竹ノ輪、さらに小さな乗り越しを越えると東竹ノ輪に着く。
 地形図の破線路はここから上がっているので登山口を探る。左に古い常寒山登山口の標柱が立っている。よく見ると(高塚山)と書いてあった。左折して行けるところまで行ったがPはないので戻る。公民館の前も空いているが集会でもあればと思うとはばかられる。乗り越しまで戻ると何と登山者向けの駐車場の看板があった。日吉神社の境内の一角である。7時40分からここに止めて歩き出す。
 さきほどマイカーで詰めまで走った。その先へ行くが新しい林道や堰堤工事の道の跡もあって迷う。地形図で人里からしばらくは谷を行き、尾根に乗り換える。そんな山道はないので堰堤を越えて進んだが踏み跡は一切ない。左岸側を探りながら下ってみた。すると2m幅の先ほどの林道と合流する。
 実は登ってみて分かったのは、破線路をなぞるように林道を作ったらしい。途中で左へ尾根を巻いてゆく山道と林道は幅を狭めて右へ行く。尾根を行くと再び林道に出た。左へは下ってゆくので右へ振った。すると平坦な林道は450m付近に着いた。ここに石仏が一体あった。いわゆる稜線に着いた。林道は左へ振って行くが、稜線の道も歩きやすいので山道を選んだ。結局山道と林道は常寒山へ平行してながら登ってゆく。林道と接する箇所は2か所あるのでどちらでも良い。
 山頂直下で下ってくる人にあった。大平(おおびら)の住民で、山上に紫蘭を植栽中で面倒を見るために毎日登山しているそうだ。寒いので育ちが遅いとか。紫蘭にも野生があるのか問うと栽培種だという。人と別れて山頂の手前の鳥居に一礼して9時30分に登頂。なるほど紫蘭が20mほどの列で植栽中であった。まだつぼみで1週間後だろうか。
 山頂は平らで石仏が3体あるのみで三角点はない。展望もないので水を飲んで縦走路を行くことにした。467mまですぐだった。ここにはまた石の祠があった。吉川峠よりにあるが分かりにくい。縦走路は右へ直角に曲がってゆく。古い案内板を拾っておいた。この辺りは地形図でよくチエックしたいところだ。
 467mから南東尾根を下れば東竹ノ輪に下れる。405mからやや複雑な尾根をRFしてもPへダイレクトに下れる。吉川峠への尾根と確認すると防火帯の約3m幅の歩きやすいところを歩くことになる。踏み跡はないし、赤テープの類もない。但し、黄色の紐が切らずに伸ばしてあった。405mから南東へ振っても西竹ノ輪に下れたが、三角点312mへ真南に下った。三角点をチエック後は左へ南東にくだった。踏み跡は一切ないが下草がなく藪もないために歩きやすい。但し急斜面であった。バイク音が聞こえて県道の峠道が近いことが分かった。その音に引かれて下ると吉川峠の300m下の車道に出た。ここから峠を越え、日吉神社のPまで約30分歩いた。11時30分だった。
 その後富岡ふるさと会館に行き、三遠研総会に出席した。総会は式次第で進行。鳳来寺山東照宮の宮司さんを招いての講演になった。鳳来寺山の歴史から説き起こし、東照宮としての来歴を語られた。結構重層的な歴史を持つゆえに古刹といわれるのだ。総会後は豊橋平野をドライブ。今は石巻周辺の柿園が一斉に若葉となって広がった。豊川河川敷まで下りて本宮山と組み合わせて写真を撮影した。まだ明るいので音羽蒲郡ICまで地道を走って高速入した。1日遊んだ。

お伊勢参りと田丸城址、松浦武四郎を訪ねて2019年03月28日

 所属の三遠地方民俗と歴史研究会の行事で春霞の三重県中南部の伊勢神宮外宮、田丸城跡、松浦武四郎記念館を経めぐった。バスは豊橋市発なので、9時待ち合わせで刈谷PAで拾ってもらい便乗。
 11時にまず外宮へ、正月も来たばかりだから多賀宮など別宮を参拝。何でもない日柄なのに参拝客の多いこと。昼食は的矢湾産の牡蠣フライ定食を賞味。美味しかった。1200円也。
 次は続日本100名城の田丸城址へ。ここは初見だった。朝日新聞社創業者の村山龍平は田丸で出生。新聞事業の成功で儲けた村山は城跡を国から払い下げてもらい町に寄付。村山龍平は郷土の偉人として顕彰されている。
 城の歴史は「田丸城跡は1336年(延元元年)北畠親房・顕信父子が南朝義軍の拠点として砦を築いた」そうで、織田信長の次男の信雄(のぶかつ)も5年間城主だった。信雄は城郭の改築再建の経験を重ねて後には姫路城主となった。
 北畠親房は『神皇正統記』で知られる。
 中世の城の面影の土塁を残したところがウリらしい。かつては信雄が建てた3層の天守閣もあったらしいが5年後に焼失。富士山も見えたらしく、富士見門もある。
 ここは熊野街道の出発点とも言われた。また春霞のかなたに局ヶ岳の鋭角も見えたので和歌山街道にも通じる。冬ならば高見山も見えるだろう。眺望に優れた平地の盛り上がりなので51.4mの4等三角点も隣の丘に埋設された。
 話はそれるが、北畠の名前で思い出すのは、深田久弥の先妻の北畠八穂である。青森県出身なのに北畠の姓が不思議だったのでガイドに問うと彼女の先祖もここの出(らしい)だった。昭和22年復員船で戦地から帰国した深田はすぐに八穂と離婚し、初恋の人と結婚。既に子供もいた。裏切られた八穂の中傷で鎌倉文壇から追われ作家としての途を閉ざされる。しかしそれが幸いして大好きな山を書ける作家として『日本百名山』で大成功を収める。三文作家で終わらずに済んだ。山のようなニッチな分野にも成功の余地はあったのだ。人生は何が幸いするか分からない。
 その後は、『日本百名山』に4か所(阿寒岳で詩碑を引用し、蝦夷紀行を紹介、十勝岳ではアイヌ人との交流を披露した。後志羊蹄山で『後志羊蹄山日誌』を引いて初登頂を紹介)も紹介された松浦武四郎の記念館と生家を訪問。
 記念館もなく武四郎の弟の末裔が存命だったころ、生家を訪ねたことがある。私「武四郎はなぜ小説にならないのでしょう」当主「武四郎は女性に関するスキャンダルがなかった」ことから「吉村昭」という小説家も小説化を諦めたらしい。40歳で独身の武四郎にアイヌの女性から子供をもらってくれと言われたこともあるほど信頼されていた。
 北海道通のJACの先輩はどこへ行っても武四郎の悪口を言うアイヌは居ないそうだ。江戸幕府、明治政府を通じて蝦夷の探検調査を担ったが役人の不正に怒って退官した。
 その武四郎がNHKでドラマ化されるとか。「永遠のニシパ」で7月15日午後7時30分から。ニシパは織井茂子の「黒百合の歌」の「この花、ニシパにあげようか、わたしはニシパが大好きよ」の歌詞にも出てくる。記念館で「和人のことか」と聞くと、尊敬語らしい。脚本は大石静、ラブストーリーに脚色しないで欲しいね。
 とまあ盛沢山な成果を得て、刈谷PAで下車。マイカーで帰宅しましたが、バスに座っているだけなのに登山よりも疲れた。

恵那山の山名をめぐる話・・・三遠地方民俗と歴史研究会2019年01月28日

 東海地方のどこからでも悠然とした山容を見せる恵那山。別名は舟覆山とも称されて、漁師からは忌み嫌われたらしい。それがいまでは名山として押しも押されぬ地歩を得た。
 恵那山の由来を調べようと、多くのガイドブックや山の本を渉猟してはみたが、アマテラスの胞を山頂に埋めたという伝説から一歩も踏み込まれることはなかった。江戸時代の地誌『新撰美濃誌』にも伝説の引用はある。しかしそれまでである。伝説は口承であるから人々の脳裏に刻まれた物語である。文献は残されず記憶に頼るからだ。
 深田久弥『日本百名山』も伝説の紹介だけであり、立松和平『百霊峰巡礼』には山名すらない。ほとんどは回避しているかに思える。
 それで暗礁に乗り上げていた時、ふと名古屋市中区生涯センターに置かれた愛知県埋蔵文化センターのチラシが目に留まった。そこには埋甕の展示が案内されていた。実は『埋甕』という本を読んで、明治時代半ばまでは胞は普通に埋設されていた。さらに調べると、徳川家康の胞が岡崎城に埋設されていると知った。松平家康として生れたのだから偉人になってからの記念碑的扱いである。
 こうして考えを巡らすと山頂に胞を埋めること自体は特殊なことではないと思われた。眺めの良い山には伊勢神宮の遙拝所がある。それでなくても、神話上の人物が祀られている。
 例えば奥三河の大鈴山は伊勢神宮の遙拝所だった。伊勢神峠はもともとは伊勢拝みの謂いだという。猿投山にはヤマトタケルの兄の墓所がある。鎌ヶ岳にもアマテラスが祀られている。
 特に信仰の山ではないのにだ。山自体が御神体ではなく、頂上からはるかに伊勢神宮を遙拝できることが重要なのだ。
 これまでの調べでは、地名としての恵那は惠奈として平安時代の和名抄という書籍に記録されている。
 思えば日本民族には言葉はあっても文字のない時代が長かった。そんな時代でも確実に子供は生れたから「エナ」という言葉はあったであろう。唐の時代に漢字を輸入して、一字一音で日本語に当てはめた。それが万葉仮名であった。エナは惠奈と書かれ、恵那になり、やがて漢字の胞が当てられた。岐阜県の胞山県立自然公園と称するように県は胞を使う。恵那は言わば雅字であろう。
 山麓の阿木にアマテラスの胞を洗った血洗池があり、中津川を隔てた湯舟沢はアマテラスが産湯を使ったという伝説。それで恵那山と呼ばれたというのである。この伝説は何ゆえに生れたのだろうか。
 阿木の奥には木地師の活躍があった、今もロクロ天井には木地師の墓がある。1471mの点名は阿木という。焼山は木地師が焼き畑農業で山を焼いて蕎麦、稗、粟などを栽培した名残りではないか。全山が花崗岩の山なので噴火はあり得ない。
 実際には今の恵那山に命名される前に、血洗池の源流の山に埋まる三角点888.3mの点名「血洗」の一帯を恵那山と呼んでいたのではあるまいか。恵那の地名はそこから起こったと考えると自然である。
 伊勢神宮の遷宮は7世紀に始まる。皇学館大学が編纂した御杣山の記録集でも詳細に記録されるのは江戸時代に入ってからのことだった。多分、記録の手段としての和紙の供給が不足していたであろう。江戸時代になると庶民でも出版できるほどに流通した。1340年には奥三河が1回だけ御杣山になったが、設楽山とするだけでどこの山とは特定されない。私は段戸山周辺と思うが・・・。三河の山と伊勢神宮が遷宮の用材切り出しでつながっているとは面白い。
 御杣山の記録集(全文漢字)には恵那山の北の湯舟沢山1620m、井出ノ小路山1840mの名前は出てくる。あの辺には伊勢山もあり伊勢神宮との密着度が高い。しかし、恵那山は出てこないから、中津川周辺から源流は神域であったと思う。用材切り出しは湯舟沢周辺の記録はある。阿木はない。阿木は人里に近く、木地師もいたから落葉樹林でおおわれていたと見る。
 信仰としての恵那山は後世に入ってからのことと思われる。中津川を中心に川上にある恵那神社の建立が象徴する。縁起は不明となっている。前宮登山道は役の行者様の石仏もあった。前宮から奥は今でも針葉樹林の森である。
 恵那山はどこから登っても遠い山である。庶民が親しく登る山ではなく、崇められたであろう。汚されたくないためと盗伐を防止することも重要であっただろう。アマテラスの胞を埋設した伝説を持ってきて、神聖な雰囲気を演出して、安易な入山を阻止したと考えても無理はない。尾張藩が管轄していた木曽の山では、木1本首1つ、と戒めた。それだけ盗伐が多かったのだろう。
 奥三河の段戸山周辺でも、徳川幕府成立から約60年後の寛文年間に天領になった。豊川市赤坂に番所が作られて幕府の管理下に置かれて、山の民はそれまで自由に出入りしてた山に入れなくなった。おそらく、木曽でも三河でもトラブルが相次いだ。木地師は主に落葉樹なので棲み分けはできただろう。桧となると建築用材として需要は数多あり、江戸時代の経済発展とともに盗伐は増加傾向だったと思われる。
 木曽の森林は尾張藩が管轄した。徳川幕府は天皇に権威を求めた。庶民への啓蒙としてアマテラスの胞の埋設の伝説を以って、神々の森への不可侵を広めた。こんなところだろうか。

三遠地方民俗と歴史研究会総会へ2018年04月21日

 会場は富岡ふるさと会館。13時前に会場入りした。総会は式次第に沿って進行。その後に記念講演が行われた。
 演題:村木砦~設楽原まで 信長の鉄砲使用
 講師:小林芳春氏 設楽原を守る会
アマゾンに掲載された略歴
「1933年、新城市生まれ。愛知学芸大学卒業。現在、設楽原をまもる会、新城市郷土研究会、日本銃砲史学会等の会員。元新城市教育長」

・・・・有名な設楽原古戦場であるが、『信長公記』を縦軸に、自著の『「長篠・設楽原の戦い」鉄炮玉の謎を解く 』(黎明書房)を横軸にして展開。目からうろこのの歴史談義でした。元は学校教員で専門は数学でした。話の資料にも分布図、統計など、数学的資質を活用されての話は面白く新鮮でした。
 まさに「データをして語らしめる」ということです。客観的な数値ですから説得力があります。今までの歴史談義は、作家的な想像力を膨らませた物語から、史料の分析にもとづいたアカデミックな学者の研究がありましたが、ここに数学的統計学的なデータ分析からの歴史の解明もあるのかと感動しました。
 私も好きな俳人の句集の俳句をベースに、俳句の季語、キーワードを統計的手法で分析を試みたことがあります。漠然としたイメージが数値的にデータ化されて、伝えられてきた俳人のイメージがはっきりした経験があります。文芸や歴史のような論考にも数学的なセンスがあると面白さは倍増します。

 アマゾンから転載「「長篠・設楽原の戦い」に使われた鉄炮玉の鉛同位体比の測定により、鉛の産地が日本だけでなくタイや中国に及んでいることを解明。あわせて分析結果の詳細なデータを公表。
 鉄炮玉の秘伝書『玉こしらへの事』の分析・解読から、玉に細工をし撃った先で玉が二つに分かれる「二つ玉」等、戦国期の玉に施された工夫の数々を紹介。
 地元鉄砲隊の協力のもと、実際の火縄銃を使って『信長公記』の記述「鉄炮を以て散々ニ」の実態を検証。古戦場跡で発見された鉄炮玉の場所、来歴、大きさ等の報告を収録。」

 ハイキングに歴史の勉強に意義深い1日でした。

  行く春や歴史話も三河弁   拙作

池田輝政と姫路城までの軌跡2017年11月19日

姫路城2017.10.28雨
 11/9に豊橋市に所用で行った際、駅前の精文館書店で『三遠の民俗と歴史7号』(三遠地方民俗と歴史研究会編)を購入した。立ち読みしたら、中野豊光氏の「池田輝政の飛躍は吉田城にあった」という論考が目についたからだった。
 テーマは「豊臣秀吉によって愛知県豊橋市の吉田城に入り、徳川家康によって姫路に移った」ことである。冒頭にメインテーマを掲げて、後で肉付けしてゆく。
 輝政は時に27歳にして15万2千石に取り立てられる。そして吉田城を10年間にわたって城下町とともに拡張してゆくのである。
 輝政31歳にして、何と家康の娘督姫(30歳)を娶る。秀吉の死後、1599年の関ヶ原の戦いでは当然、家康につく。これで52万石の加増となり姫路城に移った。本書はここまでの記述で終わる。
 輝政の吉田城時代の仕事ぶりが秀吉のみならず、家康の目にも留まったであろう。秀吉の一声で督姫を娶らされるが、それが一大転機となった。姫路城の改築には吉田城での経験が良い試練になった。
 輝政の才覚もさることながら池田家には相当先の読める家臣がいたにちがいない。織田家+家康を相手の長久手の戦いでは家来に戦に行くのを止められた運、秀吉の指示で吉田城を任された運、家康の娘と縁を結んだ運、関ヶ原の戦いでは家康の計らいで実戦には加わらず、大切にされたことが伺える。
 人生はことごとく運である。とはいえ、どんな人間性だったのか。運ははこぶものだ。信長には勇断と細心を学び、秀吉には細かい配慮と深謀遠慮を学んだだろうし、家康からは待つこと=辛抱(運が巡ってくるまでの)と愚直を学んだか。輝政の生涯には三英傑の人生の知恵が詰まっているかに思う。

 話は前後するが、10月28日は行政書士の支部旅行で姫路城へ行った。あいにく雨にたたられたが、立派な城だった。ガイドさんの解説の名前に本多などの名前が出てくるとここは尾張と三河勢で固めてあると知った。もう一度丁寧に歩きたいものだ。
 退城後は日本料理屋の「生松」で美味しい御馳走をいただき、さらに酒蔵も見学して新幹線で帰名した。
    秋雨や生松の味旅の味    拙作