シラタマホシクサ群落を見る2022年09月24日

葦毛湿原にて
 台風一過で久々に秋晴れを見る。新城市の会合は午後からなので少し早めに出て葦毛湿原のシラタマホシクサの群落を見学した。結構多くの散策者がいた。人気のある草花である。

 今日はコロナで沈滞していたサンエンケンの総会を3年ぶりにリアルで開催することとなった。会場はいつもの新城市富岡のふるさと会館。
 13時30分開会。会長あいさつ、各スタッフのあいさつや方向などが活発に話し合われた。3年間の事業萎縮期間中に会員の退会、高齢者の役員辞退など深刻な議題もあったがそれほど深まらず、進行した。
 経済活動がこれだけ自粛させられては沈滞してしまったのも無理はない。今後どう盛り返すか、である。
 今回の講演のゲストスピーカーは『江戸藩邸へようこそ 三河吉田藩「江戸日記」 (インターナショナル新書)』の著者の久住祐一郎氏を招いて行われた。この種の研究家はけっこう根強いものがあるなと感じた。
 過去にも2003年に磯田道史『武士の家計簿―「加賀藩御算用者」の幕末維新』が出て話題になった。加賀 樹芝朗『朝日文左衛門『鸚鵡篭中記』 (江戸時代選書)』などがある。

ほのぼのと 空けゆく空をながむれば 月ひとり住む 西のやまかげ 尹良親王2022年06月12日

・尹良(ゆきよし)親王供養塔
(豊田市御所貝津町)
信濃国と三河国の国境地帯の各地には、南北朝の動乱の悲劇として「ユキヨシ様」伝説が広まっており、ここ稲武にも伝わる。かの柳田國男翁も『東国古道記』で考察している。

・御所屋に建つ尹良親王の歌碑
(豊田市黒田町)

真弓山を詠われたという。

ほのぼのと
空けゆく空をながむれば
月ひとり住む
西のやまかげ

・ユキヨシ様
「ユキヨシ様」は伊那谷から北三河・北遠江にかけての国境地帯にて祀られる習俗が広く分布しており、この信仰に関して民俗学の側面から着目したのが柳田國男であった。柳田は「東国古道記」の中で、およそ次のように述べている。「かつて中部山岳地帯と海岸を結び付ける道は秋葉街道だけであったが、やがて浪合を通り飯田・根羽に連なる三州街道(飯田街道)が開けてきて、その段階で津島神社の御師たちが入り込み、土着的な山路の神『ユキヨシ様』を旅人の道中安全を守る守護神(一種の道祖神)へと変化させて山間に広く分布していった。これに加えて、浪合で戦死した南朝某宮に対する御霊信仰の要素が結合して尹良親王なるものが出現し、さらに津島神社や三河武士・徳川氏の起源伝承として存在意義が認められ、地元の口碑がその欲求に合うように内容まで多様に変型させられたのではなかろうか」。柳田の見解は伝説の史実化の過程を考える上で示唆するところが多く、特に津島信仰の絡み合いについては、柳田の洞察力が遺憾なく発揮されていると言えよう。「ユキヨシ様」は、近世の地方における南朝史受容の一コマを現代に語り伝えているのである。

もっとも、延宝から正徳頃までの浪合神社の棟札には、祭神を行義権現と記しているものがあるため、「ユキヨシ様」信仰は一元的ではないことがわかる。

・黒田正寿寺と尹良親王

 黒田の吉祥山正寿寺の開山は応永年間(一三九四~一四二七年)であり、尹良親王がこの地に滞在された時、お供の新田親氏が親王の言いつけで山号を吉祥山、寺号を正寿寺と名づけたといわれている。
 尹良親王は、お亡くなりになった妃の菩提を弔うために正寿寺を建立したといわれ、山門は『御所造り』になっている。(現在の山門の屋根は、平成になって葺き替えられている。)
 この正寿寺の建立の他にも、尹良親王にまつわる幾つかの伝説が伝えられている。
 正寿寺の裏山には御所屋(地元では尹良様と呼ぶ)という所がある。
現在は、尹良親王が読まれた歌の歌碑が建てられている。この歌の短冊は正寿寺にあり、親王の真筆と伝えられている。この他、正寿寺には、親王ご使用の『硯石』、親王ご筆写と伝えられる『大般若教三巻』、ご遊山の時お拾いになったという『鹿の玉』などがある。

2016. 5 No51 編集・発行 稲武地区コミュニティ会議広報部会豊田市稲武支所発行部数: 1,300 部
5P に交流館 Times:6P にゆいの輪を包括稲武地区人口状況(28 年 4 月 1 日現在)人口:2,461 人 世帯数: 1,009 世帯

・《稲武地区の尹良親王伝承一覧》

・尹良親王の腰掛石(御所貝津)
・地蔵峠の尹良社(御所貝津)
・正寿寺(黒田)
 ・尹良親王真筆の和歌が書かれた短冊
 ・尹良親王使用の硯石
 ・尹良親王筆写の『大般若経』(3巻)
 ・遊山(狩り)で見つけた鹿の玉
・尹良親王の歌碑(黒田)
・真弓橋(尹良親王が弓を杖に黒田川を渡った場所に架けられた橋)
・尹良親王の忠臣・青木の御子孫の家
 ・尹良親王の愛馬「龍の駒」の蹄の跡がついた石
 ・尹良親王使用の福州青磁の皿
 ・尹良親王使用の桑の木のお盆(お膳)
・地名「かんばあさ」:尹良親王の愛馬に草を食べさせた「神馬草」の転訛
・地名「御所貝津」:尹良親王の御所の垣内(かいと)

遠足や守らせたまへ我が国を 拙作2021年04月30日

 4月29日の昭和の日には三ヶ根山の殉国七士廟に関係する話題が多々あった。山田氏のブログにあるように、今は名誉回復されて戦犯は居ない。そして昭和天皇もすぐ近くの宿舎まで来られて、殉国七士廟に向かって拝礼されたという。間違いだらけの東京裁判で犠牲になった人々への弔いであった。「裁判官全員が戦勝国の人々で構成された事や、米軍が行った原爆投下などの民間人への虐殺行為は全く罪に問われていない事、起訴状における「平和に対する罪」が第二次世界大戦当時は存在しなかった事」など、戦勝国側の事後法で処刑されたのである。
 純粋にハイキングで登ったり、ガイドブックの取材などで何度も登りにきた親しい山である。もちろん、殉国七士廟も訪ねた。その周辺には秋であればアサギマダラの群舞が見られて感動した。東南アジアへの旅立ちの準備でここに立ちよるのであろう。春は花も咲く。”遠足や守らせたまへ我が国を”と詠んだ。

鳳来寺山と深田久弥2021年01月17日

 おかめ茶屋の店主は今年91歳という。2021年の91年前は1930年というから昭和5年。そうか私の母親と変わりない年代になる。店内に新聞のスクラップの掲示があったので尋ねると25歳から五平餅を作り始めたらしい。すると1955年になり昭和30年だ。門前町が栄えてていた時代は観光バスが来て旅館も繁盛していた。自分も手伝いに行ったという。
 観光にテコ入れするかのようにパークウェイが開通したのは1971年のことで昭和46年になる。
 参道を歩くと確かに廃業したらしいお店が多かった。わずかに名産の硯石の店は2軒残っていた。旅館の「桔梗屋」さんは休業中の札が下がっていたがこのご時世では廃業に近いだろう。もう一軒も少し奥に大きな合掌造りの建物と別館があり往時の隆盛が偲ばれる。あのお婆さんがお手伝いに行ったのはここだろうか。別のブログ「江戸時代には、代官屋敷があり、旅館60軒、芝居小屋2軒があった」らしい。それも今は昔のこと。
 『山頂の憩い』で深田さんは名古屋での講演会を終えるとともに登山用具店を営むデカさんとジャコさんを誘って鳳来寺山へ行く。当時は東名高速も岡崎ICで降りると後はR1を走る。豊橋市から豊川、新城と北上。長篠で山道に入り、一日がかりで門前町へ着く。「教えられた宿は、坂になった一筋町の一番上にあった。昔の茅葺の建物を改装したらしく、すべての作りが鷹揚で、柱も梁も戸も黒く光って重厚、近代まがいの嫌いな私には心地よかった」と書く。1969年のことである。
 「民芸と山菜」を売り物にしていると書いてあるので多分あの大きな旅館の雲竜荘に泊まったのは間違いない。
 雲竜荘のHP
 http://www.unryuso.co.jp/index.html
 1964年(昭和39年)発刊の『日本百名山』がベストセラーになると山の作家としての知名度が上がった。あれから5年後の1969年には名古屋でも講演会に呼ばれた。
 余談だが、昭和39年3月には朝日新聞カルチャーセンターの登山教室で日本山岳会東海支部の講師に交じって「山の話」を担当している。1903年生まれなので61歳になっていた。そして鳳来寺山に登山したのは66歳になっていた。亡くなったのは1971年のことだからパークウェイが開通した年だった。そうか今年は没後50年になるのだ。

小笠山ノート②2021年01月13日

小笠山の原始性のある植生
小 笠 山 の現 存 植生 の成 立史 と植 物 相 の考 察
                           杉 野 孝 雄
1.は じめに
 小笠山は遠州南部にあり,東西約14km ,南北約12km,周囲約40km,最高峰264mの丘陵である。北緯約34°40′ から34° 46′ ,東経約137° 55′ から138° 05′ に位置し,西は太 田川,東 と北は逆川 と菊川で境され、南は遠州灘 に達 している。
 地形は山頂から四方にのびる屋根の間は谷を形成 し,多数の小河川lを生ずる。西から南はゆるやかな斜面で乾燥する。東から北は切立つた崖で谷が特に深い。
  地質的には,西から南側は第四紀洪積世に堆積した小笠礫層で構成されている。地層の下位は第二紀鮮新世の掛川層 群で,砂 岩,泥岩からなり,東から北麓にその露頭がみられる。
 ここでは,小笠山の現存植生の成立史 と植物相の特徴を述べ,現存植生について,植物地理学的,生態的考察を加えたい。尚小笠山の自然保護の重要性についても言及したい。

2.現 存植生 の成 立史
 加藤 (1968),土 (1974)に よれば,小 笠 山を構成する下位の地層は,第二紀鮮新世の掛川層群に属する曽我累層,掛川累層,土方泥層である。その上部を覆い、小笠山の大部分を占める小笠礫層は,第 四紀洪積
世 と推定される上半部の河床堆積物と,下半部の河口堆積物からできでいることから,大井り||に よる堆積物が隆起してできた山地 とされている。
 古大井川の河口は,第 四紀洪積世の頃は掛川附 近にあり,遠州半島を盛 り上げた。この半島は次第に東に移動 し,西方の堆積物が隆起し,小笠山を築いた。また,こ の時期には氷河期のおとずれと共に海面が下が り,間氷期には海面が上昇 し,小笠山地域は海から遠 ざかる時期 と,海水に浸蝕 される時期の繰返しがあり,現在の山容が形成 されたとのことである。
 この地殻変動が小笠山の植生に影響を与えたことはもちろんであるが,気候の変動が植生に与える影響をみのがすことはできない。中村 (1952)及 び塚田 (1967)は ,花粉分析の結果から, 日本における年平均気温の変動 と植生の変遷 を推定 している。それによれば,ヴ ユルム氷期の最盛期 (2.5~ 1.5万年前)に は,現在より年平均気温で約 8℃低かつたとしている。このことから,こ の氷期の頃,小笠山一帯はブナのような夏緑樹林で覆われていたと考えられる。
 小笠山の現在の植生が完成 したのはそのあこの気温の変動により,小笠山の植生 は9,500~ 4,500な いし4,000年 前 頃は照葉樹林で覆われていたと思われる。その後,気 温 が寒冷化 したので4,500年 前頃には山地性,ま たは温帯の 植物が侵入 し分布したであろう。小笠山でその頃からの残存植物 と考えられるものには,モミ,アカガシ,ヒカゲツツジ,ツ クパネ,バイカツツジ,ダ イモンジソウなどの種子植物や,温帯性シダのコケシノブ,オ サシダ,ナ ライシダ,ヘビノネコザ,ハ クモウイノデなどが挙げられる。現在の小笠山の植生 を構成 している暖帯性の植物 は,気温の寒冷化 した時代を生きのびた植物や,気温が上昇 したあと侵入 し、勢力を広げた植物 と考えられる。
 小笠山附近の気温が寒冷化 し,温帯性の植物が分布していたことは,亘理 (1951)も 述べていることである。彼は,小笠山に近い菊川流域の菊川町で弥生式住居址や土器 と共に埋木 を採集 したがその中に,照葉樹のシイ,カ シ類 と共に トチノキの埋木が発見 されている。 トチノキは,「寒冷な気候を指示」するものであり,現在は静 岡県 内では北遠地方にみられるが,2,000年前頃には,こ の地域にも生育していたのである。
 気候とは別に,小笠山の植生の成立に及ぼした人為的要因もみのがすことはできない。小 笠山には昔から人が住みつき,古墳 も発見されている。また,た び重なる山火事 も知 られている。西から南に広がるァヵマツ林の成立には,地形,地質が大きな影響を与えているが,人為的要因も特に強 く介在 していることが考えられる。

3.植 物相 の概 要 と特 徴
 小笠山の植物相を概観すると,西 から南側はアカマツ林が発達 し,林床にはコシダ,ウ ラジロの群落がみられる。東から北側は,お もにシイ,カ シ類が繁茂し,林床にはコバノカナフラビ,ホ ソバカナヮラビの群落が発達 している。スギ,ヒ ノキの植林地も多い人家に近い場所は開墾 され,茶畑、みかん畑になつている.
 山頂には,山地性のアカガシ林 と海岸性のウバメガシ林がよく発達 し,ウバメガシの林床にはヒトッバが多いタ イミンタチバナの群落もみられる。ァカマツ,ソ ヨゴ,ヤ マモモ,ヤ マツツジ,モ チツツジ,ミ ツバツツジ,ナ ツハゼ、ネジキも普通である。小笠神社を中心 とする半径 2kmの地域には,集中的にいちじるしく多様の植物が分布する。

ハ,アカガシ林とウバメガシ林
 小 笠 山の植生の特徴 として,山 地性のアカガシの 林と,海 岸性のウバメガシの 林が山頂に極相林として並存 していることがある。
 アカガシ林は山頂の西側にあり,ツ クバネガシ,オ オツクバネガシを混生する。その東側にウバメガシ林が続 く。いずれもよ く発達 した林で、アカガシは奥の院にみられる最も太いもので胸高直径140㎝もある。
ウバメガシは胸高直径80㎝以上の大木が多数みられ、純林を形成 している。
 アカガシ林は,静 岡県内では低地にも分布するが山地によ く発達するもので八高山 (832m ),粟 ヶ岳 (514m ),光 明山 (540m)の 山頂なとに大きな群 落 がみられる一方,ウバメガシ林は海岸にみられ,静岡県
内では伊豆半島の海岸に多い。南伊豆町子浦には,静 岡県の天然記念物に指定 された林もあるが,そ れに匹敵する大木の群落が,海岸から9励離れた小笠山の山頂に発達 している。両者の生育している環境を比べると,ア カガシ林のある西側の基盤は礫岩であるが,小 さな尾根に囲まれた凹地で,腐植土が堆積 し土壌 もやや深 くなつているoウバメガシ林がみられる東側は礫岩が露出する場所で南面する。
 ァカガシは陰樹で,適潤,ま たはやや乾いた肥沃な深層土を好むoウ メバガシは陽樹で乾燥に強レV性質があるので,他の植物が生育できないような海岸の急斜面の岩上でも生育することができる。この生態 の差が,両者が小笠山の山頂で東西にすみ場所 を分け合つて並存する原因になっていると思われる。
 鈴木 (1952)に よると,ウバメガシ林は植生類型 としては硬葉樹林のウバメ型で,そ の成立の限界はラングの雨 量 係数100に ほぼ一致 し,海岸線が冬の季節風に直角に位置する海岸において発達が顕著になる傾向があるという。小笠山のウバメガシの生育地の気温,雨量の記録はないが,隣接する小笠町のラングの雨量係数は132,袋 井市 のそれは98で あり,小笠山の東側より西側の係数が低いoそれにもかかわ らず東側にウバメガシ林が発達するのは、小笠礫岩の保水力が乏しく,ま た,た えず吹きつける風が乾燥 した環境を形成し,冬雨型の極相林であるウバメガシ林を土地的極相林 として夏雨型の小笠山に発達させたと考えられる。
 このことは,ウバメガシ林が南面する季節風の強い側に繁茂 していることからも裏付けられる。


5.自 然保護 の重要性 と対策
 小笠山は植物学的に各方面から興味深い丘陵である。しかも,狭 い範囲に各種の自然保護上貴重な植物がまとまつて生育 している。これらの植物には,山頂のアカガシ林,ウバ メガシ林,全国的に分布が希な植物,アカウキクサ線を分布の限界とする植物の小笠山をタイプ地 として発表された植物,及び豊富なシダ植物等がある。
 小笠山は山塊そのものが植物見本園的な存在であることか ら,全山を自然公園または森林公園 として永 く子孫に残すべ き,最適 の地域である。その際には,環境の破壊 を防 ぐ意味か ら,自 動車道 を通 す こ となく,山 に入 るには歩道のみ とし,永久に小笠山の自然が保護され ることが望まれる。
以上

・・・・小笠山直下にはアカガシの大木があった。この論考を読むと小笠山を代表する樹種なのなのだ。

小笠山ノート①2021年01月12日

登山道の真下の断崖絶壁は小笠層群の露頭
 静岡県袋井市北方可睡丘陵の小笠層群
                       竹 村 恵 二(京 都大学)
 天竜川と大井川 にはさまれた地域(掛川地方)の新第三系は,慎山次郎 をは じめ とす る多 くの研究があ り,第 四系について も土隆 一の一連の研究があ る。
 筆者は1974年 の京大理学部の課題研究として,袋井市北方の可睡(かすい)丘陵を対象として,層 序学的な調査を行い,堆 積環境の時間的変遷の考察と大阪層群との比較 を試みた 。
 調査地域は掛川層群,曽 我層群,小笠層群,段丘堆積物よりなる。掛川,曽我,小笠の三層群は南西へ緩 く傾く単斜構造 をなす。曽我層群は中部に挾まれる凝 灰質層 を鍵層 として下部,中 部,上 部に三分される。それを不整合 におおって,砂 礫 と泥の互層状を呈す小笠層群 がのる。粘土層 を基準に して,小 笠層群を下部よ り一色層,西 之谷層,可 睡 斎層,可睡層,平 宇 層,久 能層,鶴 松層 に七分 した 。
 掛川層群は海成の砂泥 か らな る。その上の曽我層群 は小笠丘陵 では下位か ら上位に向 って泥質 か ら砂礫質への変化が認 め られ,礫 は粒度 のそろった海浜成 円礫であ る。可唾丘陵では最下部に数米の礫層 を持 ち,そ の上位に円礫 まじりの砂層 が堆積 してい る。北西 方へ行 くに従 い礫が優勢 とな り,磐 田原下部は小笠丘陵地域 よ りも河成相 的であ るこ とを示す 。
 可睡丘陵では,曽 我層群 の上位 に礫泥互層状の小笠層群が重なり,全体 として河成相的様相を呈する 。一般に現在の河川 との比較 によ り磐 田原下部は天 竜川系 の河川 によ る堆積であ り,小 笠丘陵 は大井川系の河川 による堆積 であ る とされ る 。そ の間 に位 置 す る可睡丘陵 の小 笠層 群 には 少 量 とは いえ花 歯岩の礫 があ り天 竜川系 河 川 の影響 が及 ん だ もの と考 えられ る 。
 しか し,可 睡丘 陵 の小 笠層 群 は生成 環境 を細 か く吟 味 す る と,海 成 の 部 分が 存 在 した と考 え られ る 。第 一 に,泥 質 部 に サンドパイプのある層 が存在すること。第 二に淘 汰のよい海浜成 円礫の層 が平宇層および可睡斎層に存在することによる 。
 た だ し,一 色層 か らSaxostrea  sp.を 産 した以 外 に海 棲 貝 化石 が産 して いな いの は海成の証拠 としては 不十 分 であ る 。今 回 の 調査 では,可 睡丘 陵 の小 笠層 群 は,河 成 相 を主体 としつつ も,淡 水,汽 水 の 入 りくん だ複 雑な環 境 下 で形成 され た こ とが結 論され る 。
 時代 に関 して は,鮮 新 一更新統 の境 界 は浮遊 性有 孔 虫 化 石 か ら掛 川層 群 中 に求 め られ る(1973加 藤,1972両 角)。 ま た曽我 層群 の貝 化 石 は現 生 種 が90%以 上 で,か つ掛 川層 群 中 の熱帯 要素 が 消 滅 す る ことか ら,曽 我層 群 は更 新世 であ る と され る(土1961)。
 小笠 層 群 に つ い ては,化 石 に よ る資料 が 乏 しい が,可 睡丘 陵 の 西浦 付 近 よ りMetasequoiadisticha Mikiの 産 出が 報 告 され て お り(土ほ か1967),大 阪層 群 のMa3の 時 代 よ り新 し くな い と考 え られ る。現在 花粉 分 析 を行な って お り,よ り細 か い対 比 の可能 性 もでてくるで あ ろ う 。
以上
 WEBの国土地理院の地形図をなんども縮尺拡大するうちに天竜川と大井川の間には6本の中小河川があり、さらに微細な河川が縦横に網羅的に見られた。これはきっと天竜川と大井川の伏流水が関係しているとにらんでググってゆくうちに引用記事を発見した。
 やっぱり遠州半島は基本的に小笠山と高天神山を結んであったのだ。
 その北の逆川は夜泣き石辺りを水源に西へ流れる。「逆川(さかがわ)は、静岡県の主に掛川市を流れる二級河川。 太田川水系原野谷川の支流。 蛇行が激しく、たびたび水害をもたらしてきた暴れ川である。 堤が欠ける(決壊する)ことから「かけがわ」(欠川→掛川)とも呼ばれ、当地域が「掛川」と呼ばれる由縁となったと伝えられている。」のであるが、古くは大井川の流れではなかったかと想像する。
 すると袋井は「市内を流れる原野谷川・宇刈川・沖之川に囲まれた「袋」のような地形に由来するという。」という。池袋なども同じ由来だろう。袋になるのは川の蛇行で沖積平野になるが、水溜まりの部分が流れを失い袋状に取り残される地形だから。
 天竜川の伏流水もあり湿潤な土地ではないか。しかし水稲には良い環境だろう。水が豊か、水稲栽培が盛ん、子孫繁栄を願って遠州三山がこの地に成立したものともうかがえる。するとあの団子の餅も土地柄を反映した名物なのだ。

三河一向一揆・・・研究発表会2020年01月26日

 新城市富岡ふるさと会館で13時30分から同会の研究発表会が開催された。集結したのは約50名と多数。研究発表は2名でどちらもパワーポイントで視覚的に解説されて分かりやすかった。
 テーマは表記の①三河一向一揆の話で講師は中野豊光氏。
 ウィキペディアには「三河一向一揆(みかわいっこういっき)は、戦国時代に三河国の西三河全域で永禄6年(1563年)から永禄7年(1564年)まで半年ほど行われた一向一揆である。」と紹介された歴史的事実である。
 まず一向一揆とは何か、門信徒の勢力の強い教団はどこか、などの基礎的知識を解説しながら核心に迫ってゆく。この事件に関与したお寺を紹介しながら、徳川家康が如何にてこずったか、の興味深いお話でした。家康といえども最初から三河国一円を睥睨したわけじゃない。多大な収益源を確保したお寺は強い。(約10年後の1570年から1574年に織田信長も長島一向一揆で手を焼いた。)
 和議の成立と決裂・・・一旦和議を結ぶが約20年にわたってくすぶり続けた。結果的には追放である。
 またウィキペディアには「この経験により、家康は本願寺教団の力が戦国大名にとって大きな脅威であることを身をもって理解することとなった。これが後世、本願寺教団の分裂に際し、教如を支持する一派(今の真宗大谷派)に土地を寄進して分裂を支持する行動に繋がった」との解説がある。
 中野氏は冒頭の教団の勢力図の解説でも浄土真宗が西本願寺派と東本願寺派とに分裂した話をされたがこれが原因だったのである。
 途中で気が付いたのは、徳川家康の扱い方である。講話中の中野氏が徳川家康で通していることに違和感を持ったのである。
 1 今川氏からもらったのは松平元康
 2 1563年に今川氏から独立後松平家康に改名
 3 1566年、朝廷からの勅許で徳川家康に改める
つまり、三河一向一揆の頃はまだ松平姓であった。
 ウィキペディアは「この一揆は、三河における分国支配の確立を目指した家康に対して、その動きを阻もうと試みた一向宗勢力が、一族や家臣団を巻き込んで引き起こしたものである。その意味では、松平宗家(徳川家)が戦国大名として領国の一円支配を達成する際に、必ず乗り越えなければならない一つの関門であったと考えられる。」と結んでいる。
 お寺への信仰は自由にさせるが自治(不介入権、財力)は抑制させた。この後、家康は東三河平定へと進む。

②は新城城主の本宮山登山の記録を斎藤彦徳氏が語られた。講師の自著である『池田主鈴寛親』(山婦ミ乃記、松山ごゑ記、一の宮満つ理)を現地で購入した。これをテキストに進講した。
 「山婦ミ乃記」とは”山踏みの記録”で要するに三河本宮山の登山記である。新城城主は江戸詰めなので帰郷してのふるさとの探訪記であった。
 書かれた文政元年は1818年。江戸幕府開幕から215年、今から202年ほど前になる。明治維新の50年前になる。文面からは天下泰平の世が偲ばれる。旧暦10月3日は太陽暦で11月半ば、しかし、当時はいくら空気が澄んでいたとしても浅間山が見えたのだろうか。

 原文から引くと
「からうしていたゝきに至れハ、雲をもしのくハかりにて覚えて、四方の山々ハ海原に立浪のやうに見へて其山々の上より遠き国々の海山見へワたる、爰(ここ)にてしはし休らひ給ふ、北の方に甲斐の国・信濃の国の山々見ゆ、右のかたへよりていと高き峯に雲のかゝりたるハしなのなる駒かたけといへる高山なりとそ、雪の色ハ月毛と見へてハるかなる雲井にかける駒嶽もいとはるかに見へて、雲をいたゝきたるハ浅間か嶽也と聞て
  冬ハまた浅間かたけの煙よりつもれる雪をや見やはとかめぬ  」

 意訳・・・辛うじて山頂に立つと、山脈が波涛のように見えた。山山を眺めながら休んだ。北の方には山梨県や長野県の山々が見える。木曽駒ヶ岳が見える。雪がクリーム色に見えた。甲斐駒はもっと遠くに見える。雲がかかるのは浅間山と聞いた。そこで一首詠んだ。
 冬には浅間山の煙より高く雪が積もるのを見たらすごいことだなあ?

 中々の山岳同定である。締めの和歌は『伊勢物語』の換骨奪胎だろうか。

信濃なる浅間の嶽に立つ煙をちこち人の見やはとがめぬ      
                         在原業平

見やはとがめぬ=「やは」は反語の助詞。見とがめないことがあろうか。どうして注目しないことがあろうか。
以上
・・・晴れたら雨生山(うぶやま)から金山を歩く予定だったがあいにく雨で中止した。登山口のみ偵察しておいた。地質的に特異な地域らしいので春か秋の花の時期が良いだろう。

西教寺と日吉大社へ〜大津・坂本、明智氏ゆかりの地を訪ねて2019年11月12日

 当会の秋の研修会として開催。大型バス1台を仕立てて豊橋、豊川から約40名が来られた。名古屋の私は刈谷ハイウェイオアシスで拾ってもらった。
 伊勢湾岸道から新名神を経由、大津で高速を出る。国道を走ってまずは西教寺へ行く。大型バスが狭い路地に入り込んでUターンするのに難儀したが見事なハンドル裁きで切り抜けた。西教寺のPへ入るのが大変なのだ。
 境内の紅葉はまだ色づいておらず3分くらいか。小春日に助けられて傾斜のある石段を登ると本堂の立つ西教寺に着く。裏手にまわり料金300円は幹事さんがまとめて支払う。住職さんからの案内で本堂に入らせてもらう。話によると天台真盛宗の総本山という。ウィキペディアの解説をいくら読んでも理解しがたい上にまた新たな宗派ときては混乱する。
 今日の目的の明智光秀は一族の墓として葬られている。明智の墓はあちこちにあるがここのは由緒ある墓だとか。菩提寺ともいう。
 ウィキペディアには「信長による比叡山焼き討ちの後、近江国滋賀郡は明智光秀に与えられ、光秀はこの地に坂本城を築いた。光秀は坂本城と地理的にも近かった西教寺との関係が深く、寺の復興にも光秀の援助があったと推定されている。光秀が戦死した部下の供養のため、西教寺に供養米を寄進した際の寄進状が寺に現存している。また、境内には光秀の供養塔や光秀一族の墓が立っている。」と縁が深いことを思わせる。
 またバスで日吉大社に移動。すぐ近くにある。これもウィキペディアによると「文献では、『古事記』に「大山咋神、亦の名を山末之大主神。此の神は近淡海国の日枝の山に坐し」とあるのが初見だが、これは、日吉大社の東本宮の祭神・大山咋神について記したものである[2]。日枝の山(ひえのやま)とは後の比叡山のことである。日吉大社は、崇神天皇7年に日枝山の山頂から現在の地に移されたという[2]。」
 ずいぶん古い歴史を持って居る。ウィキペディアに「元亀2年(1571年)、織田信長の比叡山焼き討ちにより、日吉大社も灰燼に帰した。現在見られる建造物は安土桃山時代以降、天正14年(1586年)から慶長2年(1597年)にかけて再建されたものである。[4]信長の死後、豊臣秀吉と徳川家康は山王信仰が篤く、特に秀吉は、当社の復興に尽力した[2]。これは、秀吉の幼名を「日吉丸」といい、あだ名が「猿」であったことから、当社を特別な神社と考えたためである。」とあって、やっと秀吉との縁が結びつく。しかし光秀に絡む史跡はないので坂本の地にあるという縁だけで取り上げられるのだろう。
 ちなみに明智光秀の居城だった坂本城は城址のみで明智光秀像が立っているだけらしい。
 というわけで今日は観光気分で早足で名刹を回りました。西教寺で2句、日吉大社で2句即吟で投句してきました。
 投句作品は未発表作品なので書けないが、神の留守、小春日和、照り紅葉、冬紅葉、冬柿、実なんてん、冬日和、湯葉などの季語が浮かんだ。
 白洲正子の『近江山河抄』の”日枝の山道”を改めて読む。

研究輯録-三遠の民俗と歴史 第8号発刊!2019年08月28日

 2年に1度発刊される表題の冊子と会報「さんえん」No71を昨日受領した。
 足元をさぐる地方史は良いものです。今まで見過ごしていた事物が実は歴史上重要な意義を見出して突然当時の生活が明らかにされる。記憶のための歴史のお勉強ではなくすぐ身近にある歴史です。
 神経衰弱というゲームにも似て、ぼんやり、なんとなく分かっていた事象を解読するように調べる楽しみがあります。
 例えば、「さんえん」に報告のある春の伊勢路(外宮)研修では北畠親房の故地を訪ねました。ここで青森の北畠姓との関連を地元ガイドさんに尋ねたらやはりここから出て行った末裔と分かった。
 それでGWには山旅を兼ねて、青森近代文学館を見学し、北畠八穂のパンフを入手、深田久弥作とされるが実は北畠八穂の作といわれる「津軽の野づら」の原作も読んだ。北畠八穂は児童文学者にして、山の作家・深田久弥の先妻であった。八穂の病気で不幸な別離になったが八穂は一層文学に磨きをかけてその道の大家になった。
 かつ深田久弥もこのスキャンダル(離婚する前に後妻との間に子供ができた)で小林秀雄や川端康成らの批判を浴びて鎌倉文壇を追われた。故郷に帰り大好きな山の文章を書いて食べてゆくしかなかった。結果として深田は日本百名山ブームを起こして山の作家として知らない登山者は居ない。
 今回は間に合わなかったが、次号にはこんな話をまとめて投稿してみたい。仮題「伊勢から津軽へ・・・『神皇正統記』の祖から生まれた児童文学者八穂へと文学の血筋を追う」。津軽は文学や芸事の宝庫なんですねえ。加えて縄文文化の果てでもある。司馬遼太郎は「北のまほろば」と紀行に書いた。日本の言葉というものはあそこで煮詰まったのでしょう。
 
目次
発刊のことば            会長 熊谷晧司

新城高等女学校第32回生の悲劇              
              城址保存館長 山内祥二

石仏の秘めている世界              
お地蔵さんから見えてきた世界
(石仏のイコノロジー) 
         大学・名誉教授  春日井真枝英

昭和17年の金属保有申告について
         古学協会員・当会講師 七原惠史

「参河国・延喜式内社」 ー26座25社巡り
                設楽支部 小川勝正

奥三河の奇祭「参候祭」            
                設楽支部 平松博久

大岡越前の守と新城市            
                新城支部 塩瀬眞美

池田輝政は西国将軍と呼ばれた      
                豊橋支部 中野豊光
   
禅宗寺院の役行者像             
                豊橋支部 夏目修二

一色氏の興亡と田原一色七郎正照   
               赤羽根支部 横田弘道

「飢饉時の食べ物と災害の記録」     
               赤羽根支部 渡辺賢治

あとがき
令和元年7月31日発刊。
発行者:三遠地方民俗と歴史研究会 
会長  熊谷皓司

注文申込先:TEL&FAX 0532-54-4947 
             編集委員代表  白井正

常寒山と三遠研総会2019年04月20日

常寒山と石の祠
 午後から三遠研の総会参加を兼ねて近隣の常寒山登山に出掛けた。朝5時30分に自宅を出発。東名三好ICから高速で新城ICへ。弁天橋を渡って吉川の里を走る。吉川峠を越えるとゆったり下り、中山間地域の田園が広がる。しばらくで左へ上ると西竹ノ輪、さらに小さな乗り越しを越えると東竹ノ輪に着く。
 地形図の破線路はここから上がっているので登山口を探る。左に古い常寒山登山口の標柱が立っている。よく見ると(高塚山)と書いてあった。左折して行けるところまで行ったがPはないので戻る。公民館の前も空いているが集会でもあればと思うとはばかられる。乗り越しまで戻ると何と登山者向けの駐車場の看板があった。日吉神社の境内の一角である。7時40分からここに止めて歩き出す。
 さきほどマイカーで詰めまで走った。その先へ行くが新しい林道や堰堤工事の道の跡もあって迷う。地形図で人里からしばらくは谷を行き、尾根に乗り換える。そんな山道はないので堰堤を越えて進んだが踏み跡は一切ない。左岸側を探りながら下ってみた。すると2m幅の先ほどの林道と合流する。
 実は登ってみて分かったのは、破線路をなぞるように林道を作ったらしい。途中で左へ尾根を巻いてゆく山道と林道は幅を狭めて右へ行く。尾根を行くと再び林道に出た。左へは下ってゆくので右へ振った。すると平坦な林道は450m付近に着いた。ここに石仏が一体あった。いわゆる稜線に着いた。林道は左へ振って行くが、稜線の道も歩きやすいので山道を選んだ。結局山道と林道は常寒山へ平行してながら登ってゆく。林道と接する箇所は2か所あるのでどちらでも良い。
 山頂直下で下ってくる人にあった。大平(おおびら)の住民で、山上に紫蘭を植栽中で面倒を見るために毎日登山しているそうだ。寒いので育ちが遅いとか。紫蘭にも野生があるのか問うと栽培種だという。人と別れて山頂の手前の鳥居に一礼して9時30分に登頂。なるほど紫蘭が20mほどの列で植栽中であった。まだつぼみで1週間後だろうか。
 山頂は平らで石仏が3体あるのみで三角点はない。展望もないので水を飲んで縦走路を行くことにした。467mまですぐだった。ここにはまた石の祠があった。吉川峠よりにあるが分かりにくい。縦走路は右へ直角に曲がってゆく。古い案内板を拾っておいた。この辺りは地形図でよくチエックしたいところだ。
 467mから南東尾根を下れば東竹ノ輪に下れる。405mからやや複雑な尾根をRFしてもPへダイレクトに下れる。吉川峠への尾根と確認すると防火帯の約3m幅の歩きやすいところを歩くことになる。踏み跡はないし、赤テープの類もない。但し、黄色の紐が切らずに伸ばしてあった。405mから南東へ振っても西竹ノ輪に下れたが、三角点312mへ真南に下った。三角点をチエック後は左へ南東にくだった。踏み跡は一切ないが下草がなく藪もないために歩きやすい。但し急斜面であった。バイク音が聞こえて県道の峠道が近いことが分かった。その音に引かれて下ると吉川峠の300m下の車道に出た。ここから峠を越え、日吉神社のPまで約30分歩いた。11時30分だった。
 その後富岡ふるさと会館に行き、三遠研総会に出席した。総会は式次第で進行。鳳来寺山東照宮の宮司さんを招いての講演になった。鳳来寺山の歴史から説き起こし、東照宮としての来歴を語られた。結構重層的な歴史を持つゆえに古刹といわれるのだ。総会後は豊橋平野をドライブ。今は石巻周辺の柿園が一斉に若葉となって広がった。豊川河川敷まで下りて本宮山と組み合わせて写真を撮影した。まだ明るいので音羽蒲郡ICまで地道を走って高速入した。1日遊んだ。