津軽山地・算用師峠を歩く2019年05月01日

 令和元年をつつがなく迎えた。
 天気予報通り、霧の中にあり、よろしくない。津軽山地の大倉岳は明日にして、算用師峠に変更した。雨でも歩けるように考えてあった。吉田松陰が越えたというので「みちのく松陰道」として整備されている歴史の道である。他にも愛知県豊橋市出身の紀行家で民俗学の草分けである菅江真澄も越えて蝦夷に渡った。
 R339を走って、傾り石(かたがりいし)まで行くと案内が建っている。右折して林道に入る。奥へ行くほどに悪路になって心配になる。足元にはキケマンの花が群れ咲く。悪路をこなしてなんとか登山口にたどり着く。広い沢の出合いである。
 算用師とは分水嶺辞典というサイトに「「算用師」とはその名のとおり算術で生計をたてた職業の一つ。読み書きが普及していなかった江戸時代、村の算用をひきうけたそうだ。しかしながらここ算用師峠の名前の由来はこの職ではなく、アイヌ語の「サニウシ(sani-usi)」であるという(江戸時代に東北を游歴した文人・菅江真澄の日記に古名がさにうしであることが記されている)。これは「昇り降りをする場所」という意味で、まさに峠口であるからこの名があったのである。このように東北にもアイヌ語の転化した地名が広く分布しているのだ。」とある。
 山田 耕一郎『青森県山岳風土記』の増川岳には昔、三厩村にはアイヌがいたと書いてあるので蓋然性は高い。
 7時40分、登山口からゴム長を履いて歩き始めた。霧は深いが雨は降っていないのでストック代用で傘を持った。入り口から山野草の宝庫であることを期待させる。イチリンソウ、シラネアオイ、エンレイソウなどが惜しげなく繁茂していた。右岸から左岸にかけて森林鉄道の残骸が残されていた。青森名産のヒバは翌桧のことで、ヒバで作った架橋の跡である。アスナロは風呂桶に使われる。油分が多いので腐食しにくいのだろう。
 せせらぎのような穏やかな流れに沿う小径を歩く。イチリンソウの大群落の中を行くと、前方に一段高く巻いてゆく小径へと登ってゆく。しばらくでまた緩やかな道になる。とにかく一面が若葉青葉で覆いつくされた美しい。足元には山野草が絶えず出てくるから飽きが来ない。枝沢を渡る際にはアップダウンがあるが最後の渡渉を終えるとあとは峠に向かうのみとなる。8時50分峠に着いた。道標は倒れていた。三厩側は笹が刈られている。峠道は短いが、林道は長い。峠で10分休んで引き返す。
引用
 吉田松陰が歩いた「みちのく松陰道」
江戸に留学中、ロシアの船が北方の海に出没することを知った松陰は、その防備状況を確かめるべく、脱藩覚悟で東北へ旅立った。嘉永4年(1851)の旧暦12月、弱冠22歳の時である。

翌年3月、彼は熊本藩士宮部鼎蔵とともに津軽半島に達した。
『東北遊日記』に「真に好風景なり」と書かれているのは、中里の十三湖岸の景色のことだ。

3月5日、2人は小泊から海岸沿いに北上し、途中から山道に入る。当時津軽藩は旅人がこの道を通ることを禁じて道をつくっていなかった。谷間をのぼり、膝まで水に漬かりながらあちら側、こちら側と沢を幾度も越えてようやく算用師峠の頂上に至る。嶺を下ると、二、三尺も雪が残っており、雪の中を歩き、さらに雪解け水が大流となっている川を何度も渡って、「困苦太甚し」という苦行の末に、やっと三厩の海岸に出たという。

その途中詩作している。「去年今日発巴城(去年の今日巴城を発し)…」で始まる詩文は、昭和41年竜飛崎に建立された「吉田松陰詩 碑」に刻まれている。
2人は、三廐から海沿いに今別へ向かう。袰月海岸の波打ちぎわにある洞門は、彼がここを通り抜けたことから「松陰くぐり」の名がつい た。

袰月に宿をとった松陰は、竜飛崎と松前間の狭い津軽海峡を外国船が堂々と往来するのを許しているのは、日本の存亡にかかわる重大なことであると悲憤している。

松陰が翌日訪ねた平舘には、砲台があった。「大砲が7個あるが普段は備えていないこと、下北半島とわずか3里の海を隔てたこの要衝の地に砲台があるのはすこぶる佳いこと、また4年前に外国船がやって来て、5、6人の異人が上陸したこと」などを日記に書き残している。
出典:弘前国道維持事務所「幕末の志士が辿った[みちのく松陰道]」

 R339まで戻ると竜飛岬に向かった。海岸線からきついカーブをこなして稜線へ上ってゆく。しかも濃霧の中であった。ヘッドライトは点けたままである。道の駅と青函トンネル記念館がある。ここでちょっとコーヒータイム。記念館の中の見学はスルーした。さらに先へ走る。Pから濃霧の中を散策。何も見えないが、燈台へ行ってみた。すると渡海三角点を見た。
 説明板には「この渡海三角点は青函トンネル竜飛側の基準点であり、青函トンネル工事の偉業とともに測量の精度を紹介するものである。

青函トンネルは、海底23.5kmを有する全長53.85kmの世界最長の海底トンネルです。このトンネルの建設にあたっては、いかに計画ルートどおりに掘削し貫通させるかが大きな課題の一つでした。(地球は丸い-高精度測量が必要) 青函トンネルがあまりにも長いので、地球の曲率(丸み)を考えた驚くほど高精度な測量を行う必要がありました。

①と北海道の抗口における水平位置と高さを精密に関連づける基準点の設置から始めました。(精密三角測量、渡海水準測量、昭和40年開始)
②これらの基準点を拠点として、トンネル掘進に伴う坑内での測量が行われました。(坑内トラバース測量、昭和42年開始)

昭和58年1月先進導坑が貫通しました。この貫通出会差は距離2cm、高低20cm、左右64cmのわずかな誤差でトンネルを貫通し得た。(貫通精度確認測量、昭和58年開始)

ここにその記録をとどめ長く保存するものである。」とあった。
 専門的には
http://uenishi.on.coocan.jp/k680seikan.html
に詳しい。
 石川さゆりのデビュー曲にして大ヒットした「津軽海峡冬景色」の歌碑もあった。ごらんあれが竜飛岬、と歌詞に謳われているからだろうが、ボタンを押すと歌声まで流れるのはやりすぎである。
 竜飛観光を終えて、またR339を戻り、小泊の太宰治文学館で行った。ここは太宰の幼年時の養母が嫁いだところだった。太宰が信頼し心を寄せていた女性である。その縁をこの地ではとても大切にして記念館を建てた。名作『津軽』(新潮文庫)の重要な舞台になった。
 ここでは地元の女性が津軽弁で語り部となり、「津軽」の一節を聞かせてくれた。同席した夫婦のうち秋田県から来たという女性は涙を流して聞いていた。しかし私には耳慣れない津軽弁は外国語同然である。 但し、語り部さんへの返礼には
   行く春や津軽言葉で聞く「津軽」
と即興の句を贈った。
 語り部さんはこちらが席を立とうとすると話をして帰らせまいとする気がした。普段はあまり見学者もないことだろう。僻村ゆえに観光客も立ち寄りにくい位置にあるのが残念だ。文学館を辞して、R339を今泉まで戻って、県道を走って外ヶ浜町の蟹田へ行く。左折してR280を北上し、道の駅「たいらだて」に着いた。がらんとしている。これは竜飛への道が県道14号がバイパスみたいに良い道になり寂れたのだろう。車中泊はここに決めて、若干戻り、湯ノ花温泉に入湯した。ぐっすり眠れた。

北畠八穂・・・津軽言葉の文学者2019年05月02日

 青森県近代文学館を見学し、北畠八穂のイベントのパンフを購入。平成6年10月25日から11月30日まで、同館で、北方のメルヘン作家ー展として北畠八穂特別展があった。
 北畠八穂の先祖は三重県の北畠親房の長男の顕家が東北(陸奥国)へ下向した、とあるように南朝方の公卿(くぎょう)で今風に言えば高級官僚であった。青森の北畠家はその血筋の流れを汲む浪岡氏の末裔である。八穂は嫁入りして北畠家入したのではなく、その流れの人だから世が世ならお姫様の身分だった。
 両方の祖母からたぶん津軽弁の民話を聞かされて育った。それがベース資産になり、多くの作品を産んだ。深田久弥との結婚は文学の同士としてのものと解するが、病気もあり、悲劇的に別れることとなった。
 同居時代の深田久弥の小説は実は八穂の作品だったという。但し、八穂は標準語で小説を書けなかったともいわれる。それを添削して一般読者に読みやすい文にしたのが深田だった。だからどっちの作品か、論議のあるところである。
 女優で小説家でもある岸恵子は『津軽の野づら』のあすなろうの一節を気に入って八穂の文と断定し、自分が文学少女になった契機になったともいう。

津軽山地・大倉岳は断念2019年05月02日

 朝は例によって4時台に目が覚めた。空は明るく晴れた。むつ湾の向こうに下北半島も見えたから今日は大倉岳に立てるかと思い、段取りを終えて、南へ東津軽郡の蓬田へ向かった。
 大倉岳は津軽山地の1等三角点の山である。最高峰は丸屋形岳718m、2位は増川岳だが、眺めが良い山らしい。大倉岳、赤倉岳、袴腰岳の蓬田三山の最高峰になる。小説「津軽」にも出てくる。
 R280のバイパスに入り、蓬田に着いて、阿弥陀川に沿う道を探したが中々に手間取った。スマホのナビには山名を入力したためか、つながっていない道でもダイレクトにガイドする。行きつ戻りつして探したものの、降雨後か雪解け後か、泥濘の泥んこ道の悪路をかなり奥まで走ったが、標高が上がらず、不安になって引き返す。それで、隣の袴腰岳から登ることを思いついた。両山を結ぶ尾根の道は藪らしいが、踏み跡はあるだろうとの読みである。何しろ三山である。
 蓬田川に沿う林道を走ってゆくと前方にトラックが走っている。こりゃまずい。それでも可能性は捨てずに奥へノロノロ走るが、帰ってくるトラックも見えてどうやら伐採中であり搬出の作業であった。先ほども林道の途中で伐採作業中だったから、津軽山地は雪解けの直後であり、閉ざされた冬の山には仕事で入っているのだ。撤退を決めた。すると同時に空が黒くなり、雨が吹き降りとなった。予報では午後3時以降晴れ間が出るとのこと。
 結果、蓬田三山は中止とした。時間はあるので再び竜飛岬へ向かった。県道へ左折、今別へ行く県道に右折。岬に近づくにつれて降雨が激しくなる。
 津軽線津軽二股駅と北海道新幹線奥津軽いまべつ駅が併設され、道の駅があった。ここでしばらく休んだ。ここに車を置いて、ちょっと函館まで一泊二日の旅もできる。
 今別では終点の三厩駅を見た。本州最果ての駅である。緯度的には下北半島の大湊駅がちょっと北になる。
 そこから増川川に沿う林道も走ったが6月までは閉鎖されていて奥へは行けなかった。戻って、R280を行くと、R339になった。海沿いの狭い道だった。昨日歩いた算用師峠に源がある算用師川を渡る。ここにもみちのく松陰道の看板があった。結局竜飛港までは行ってみたが見どころは特になく、太宰治が泊まったという元旅館を活用した観光案内所と太宰の文学碑があって見学した。ストーブがある寒いところだった。
 竜飛燈台へ上ってゆく県道もあるがここで引き返す。R280、県道14を走り、R280で青森市へ行く。
 青森県近代文学館を見学し、北畠八穂のイベントのパンフを購入。平成6年10月25日から11月30日まで、同館で、北方のメルヘン作家ー展として北畠八穂特別展があった。蔵書の『津軽の野づら』の作品も閲覧した。
 ここからR4、R279と走って、下北半島に行く。野辺地から東半分は青森県だが南部藩だったらしい。道の駅「よこはま」で車中泊した。

下北半島・吹越烏帽子を歩く2019年05月03日

 道の駅「よこはま」は人気のエリアだった。ほとんどびっしり車で埋まり、みなさん車中泊組だっただろう。道の駅の混み具合は人気の差か。
 今日も夜明けとともに起きた。トイレで洗顔、歯磨き、その後の朝食を手早く済ませる。スマホに山名を入力してドライブを開始。R279からすぐに農道に左折。ナビに従うとまた失敗した。
 山頂の真西になる林道の入り口は閉鎖されている。しかし、そこに登山口の表示はない。おかしいので先まではしるがそれらしいものはない。農道の分岐まで戻り、山そのものを見て走った。吹越烏帽子の南西方向まで走った。登るより下ってしまうので怪しいと思いながらも行くと、やっと登山口の標柱が立っていた。やれやれである。
 クルマを止めて歩き出す。松林の平坦な中の山道を歩くと小沢を渡り、段々高度を上げてゆく。松林から小さな尾根になると展望も開けてきた。
 南には六ケ所村の原発と風力発電所がたくさん並ぶ。そういえば青森県は風が強い。そのせいであちこちで風力発電所が建っている。
 登山口から約1時間で登頂だ。周囲は360度の大展望である。わずかに508mの低山でも周囲に高い山がないので見晴らしは抜群である。感動させたのは南西に見える八甲田山であった。その山の広大さは堂々としている。東海地方の山域をコンパクトにするとこんな形になるか。乗鞍岳は八甲田山とし、岩木山は御嶽山とみえる。
 青森県はまるで箱庭的なコンパクトな美しさがある。2つの半島に取り囲まれたむつ湾、それぞれの半島の山々、南半分は山岳地帯、その水源の恵みを受けて広がる津軽平野。司馬遼太郎は人気の『街道をゆく』のシリーズで青森県をして、「北のまほろば」と名付けた。実にその通りだ。うまいキャッチだ。そう見えるし大げさではない。縄文時代から今日まで曲折はあるが、山海の珍味に恵まれてきた。
 登山はあっという間に終わった。下山後は下北半島の最高峰の釜臥山にドライブ登山を企てたが道路は途中まででしか行けなかった。恐山まで下りて上辺だけ見てきた。大湊市では溜まった汚れ物をコインランドリーで洗った。1週間もの着替えはちょっとある。後3日も旅を続けるし、都市部は今日だけだった。買い物を済ませると後は八甲田山ロープウェイ駅まで向かう。
 R279から下北縦貫道に入り、野辺地でR4に出る。七戸の道の駅は満杯だ。ここも東北新幹線の駅があるからだろう。R4からR394へ右折。八幡岳の南麓を通る。登山口から少し入ったがまだ融雪が進んでいなかった。
 R394から八甲田山の一角に入る。広大な火山性高原台地を快適に走った。右折して八甲田温泉を経てR103に入る。ロープウェイ駅のPに着いた。今夜はここで車中泊とした。トイレが駅舎内にしかないのが不便であり、水も使えない。そのためか、車中泊する車は数台もない。

残雪の八甲田山を歩く2019年05月04日

 朝4時過ぎ、目が覚めると周囲には結構な車の台数が埋まっていた。夜遅く着いたのだろう。近隣の県ならそれでも良い。ここでも岩木山と同様に山スキーヤーが非常に多い。春の八甲田山は色んな変化のあるコースがあって、春スキーのメッカともいえる。
 さて、朝食後に、出発の準備をする。残雪が多いので重登山靴を用意した。ところが、靴底が壊れてゴム底がはがれるというアクシデントがあった。出発前で良かった。以前から水の染み込みが早くなったのは靴底の革が割れていたためだった。そこで無雪期用の登山靴に履き替えた。これだとアイゼンが使えないがやむなし。
 食料、水、衣類などパッキングに念を入れてロープウェイ駅まで歩く。白神岳では軽ピッケルにした。岩木山では冬用のピッケルを使ったがここではストック2本とした。
 ロープウェイはもう稼働していた。観光客が多いので臨時便を出したのだ。2番目の箱に乗れた。終点で降りると一面の雪の平だ。1326mの建物のあるピークを緩く越す。すると地形図では湿地帯になっているが今は一面の雪の平に下ってゆく。しかし、長い竹の棒が赤倉岳の登山道につながって刺してあるので万一ガスられても迷うことはない。数名から10名以上の山スキーヤーのパーティの後を追うようについてゆく。雪面が少しは固くなるから楽だ。
 こうして赤倉岳を登ったが、スキーヤーとはルートが違うために、途中から藪を漕いで、登山道に出た。そして1527mの井戸岳を経て1440mの避難小屋に下る。比高144m登り返すと八甲田山の最高峰の大岳に登頂。1等三角点がある。意外にも登頂者は少なく5名くらいか。あれだけいたお客はほとんどが観光客であり、山スキーであった。ツボ足で登頂だけを目的の登山者は少ないのだった。
 展望の広大さはいうまでもない。岩木山と違って広さがある。これゆえに大規模な遭難事件が起きたのだ。ほぼ南に予定していた戸来岳の三山が見える。確かではないが、階上岳も視野に入っているだろう。しかし、もうこれで良いと満足し、明日は帰名することとした。
 滞在15分で下山した。元来た道をたどった。往きは2時間半、帰りは2時間くらいか。またロープウェイで下る。
 帰路はスマホのナビがR103、R394,R102,R454、R7とつないだ。道の駅「碇ヶ関」で車中泊とした。ここには温泉がありありがたく入湯した。ところが、夜になって国道沿いの騒音の激しさがきになり眠れなくなった。それで3時間ほど睡眠後の11時半にまたドライブになった。

日本海を見ながらドライブ2019年05月05日

 青森県の碇ヶ関から秋田県潟上市の道の駅「しょうわ」に入ってまた仮眠した。国道から少し入るので騒音はない。明るくなってまたR7をひたすら南下する。基本的にはR7、新潟からはR8であるが、なるだけ海沿いの国道を走った。渋滞はほとんどなくて快適だった。帰路も鳥海山、月山を眺めて素晴らしかった。
 新潟県に入ってからのR345、R402は景色が良い。R352,再びR8を行き、5/5の夜は道の駅「うみてらす名立」で車中泊とした。

親不知で道草食いながら帰名2019年05月06日

 長かった十連休も最終日となり、いよいよ帰名の日。新潟県の名立の道の駅を出て、R8を走る。念願だった親不知に寄った。小さなホテルが断崖にへばりつくように建っている。旧道を歩いてさらに古い道のレンガのトンネルまで往復してみた。かなりな難所だったことはひしひしと伝わってくる。
 戻って、栂海新道の登山口もチエックした。ここから白馬岳まで続く登山道の出発点であった。旧道の東屋の前に栂海新道の開拓者の小野健氏の顕彰銘板があったのはその功績を讃えたものだ。ウエストンの胸像がありともに北アルプスのよき紹介者である。
 続いて気になっていたのは芭蕉句碑のある市振の長圓寺だった。奥の細道の道中で詠まれた俳句の句碑がある。ここにも立ち寄った。
  一つ家に 遊女も寝たり 萩と月  松尾芭蕉

 そして最後は朝日町のたら汁街道を走る。朝7時40分前に栄食堂に着いて入店した。たら汁を注文した。中くらいの鍋に鱈がぶつ切りでみそ仕立ての汁になってでてきた。元は漁師の船上の料理だったが、家庭料理になり、お客に出すと喜ばれて観光客にも出す名物料理になったという。味噌の味が体にしみわたる。久々の手料理に舌鼓を打った。
 入善町では高瀬の湧水群に寄った。近所の人らがたくさん来て2リットルのペットボトルに水を詰めていた。水のポリタンクに10リットルほど汲んだ。料理に使うためだ。
 その道筋の生地魚市場にも寄った。日本海産の鮮魚が売られていた。蟹ずしを買った。こんな市場があるところは良い。すべての気になる要件は済ませたからあとはR41で帰名するだけになった。スマホのナビは常願寺川沿いに富山市街を迂回する道を選んだ。そして八尾町の笹津のR41に出た。猪谷でR360に入り宮川村を通過する。また古川町でR41に合流。古川の道の駅で車内の大整理。
 R41で高山市内を通過。宮峠を越える。R41に高山線の宮トンネルに平行するトンネルの工事が始まっている。美濃加茂市、可児市と走る。犬山市まで来ると突然天地が裂けたような稲光が走った。そして大雨になった。
 最後まで有料道路は使わずに走り切った。走行距離は2750kmになった。往路が900km、5/4に八甲田山を出発時に1700kmで青森市内は800km走った。帰路は差し引き1050km走った。大いなるグランドツーリングだった。

青森の山旅の休養2019年05月07日

 9日間のロングドライブの疲れをいやす休養日に当てた。山岳会へは無事下山と帰名の報告をした。
 司馬遼太郎の『街道をゆく』シリーズの41「北のまほろば」を読んだ。自分のドライブコースと重ねながら読んだ。さすがに緻密な考察が行き届いている。

青森の山旅の報告2019年05月08日

 5/1に小泊の太宰文学館で買った太宰治の『津軽』を読み始めた。津軽山地の山名も出てくるから親しみやすい。太宰の作品はこれまでに「走れメロス」か、「富岳百景」くらいしか記憶がない。
 他に根深誠『白神山地を行く』が書棚で見つかったので枕元に置いた。長部日出雄の作品を出して枕元に置いた。旅を反芻する誘引剤である。それにしても今回は弘前市郷土文学館には寄れなかったが、また行ってみたい。弘前市出身の作家は結構多く、知っている人が居た。司馬が北のまほろばとたたえた青森県は文学を産む土壌があるのだ。

 夕方からの山岳会の定例会で山行を報告した。

オイル交換2019年05月09日

 今日は酷使したマイカーのオイル交換をした。車齢17年目で通算の走行距離23万kmを越えた。
 連休明け後に届いた高齢者講習通知書も手続した。近場の自動車学校に問い合わせて5月下旬に予約ができた。マイカーも高齢車ならこちらも高齢者にされてしまった。
 司馬遼太郎の街道をゆくシリーズの10「羽州街道・佐渡のみち」を読んだ。ウィキには「奥州街道から陸奥国の桑折宿(福島県伊達郡桑折町)で分かれ、小坂峠や奥羽山脈の金山峠を越えて出羽国(羽州、山形県・秋田県)に入る。ここから出羽国を縦断し、矢立峠を越えて再び陸奥国に入って、油川宿(青森県青森市)で奥州街道に合流する。現在の国道113号・国道13号・国道7号などに相当する。」とあり、今回の旅と重なり合う。反芻の材料になる。