韓国人の中ア遭難事故に思う2013年08月01日

 中央アルプスの檜尾岳附近での、韓国人グループの遭難報道には驚かされた。4名の死亡という痛ましい結果になった。低体温症で3人、転落で1人とある。パーティを割るな、という鉄則を知ってか知らずか勢いのある元気な人は先行し、無事下山している。
 20人という大人数、軽装、日本人ガイドなし、通信手段なし、高齢者、小屋の人の警告を無視して強行したらしい。高齢者の落伍を無視して行ってしまったのか。ツアー登山では、人間関係も希薄とはいえ、弱った同行者を放置するのは非常識だろう。
 結局は連れてってもらうひとばかりだった。ニュースでは山岳会に所属するベテランもいたというが。日本をみても分かると思うが、気象の変化の速さはヒマラヤの比ではないという。ヒマラヤ登山経験者でも簡単に遭難死するのが日本の山の恐さである。
 要するに個人的に鍛錬して高まるような狭義の登山技術よりも、観天望気を含めた広い意味の登山の常識が身を助けることになる。

 長野県知事は外国公館へ日本の山に登山する際の注意喚起をするようだ。一刻も早いほうがよい。

 剱岳の道標にハングルがあったが、無いほうがよい。あれば単独でも登ってしまう可能性があり、かえって危険だ。日本人ガイドなしで行動できないようにする方が親切だろうに。

 JACの知人らが朝鮮半島の白頭山に登山した際、韓国のツアー会社が同行し、ソウルから中国に飛んで、現地の朝鮮族のガイドをつけたらしい。これと同じで郷に入れば郷に従え、ということだ。日本人は優しくし過ぎてかえって不興を買う。

 今回でも、新潟の韓国領事館の偉い様が入山制限があれば登らなかったと文句を言っている。責任転嫁も甚だしい。もちろん日本人でもあった。
   http://freeride7.blog82.fc2.com/blog-entry-3046.html

 昨年6月のマッキンリーで雪崩で4人が亡くなった。リーダーだけが自力で下山したが、当局の雪崩発生への警告があれば行かなかったと言っていた。今年5月の白馬大雪渓での雪崩事故でも地元では警告を発していたが、知らなかったという。自分で判断するから山は面白い。厳しいようだが、登山は所詮道楽である。結果は自己責任である。

 http://koyaban.asablo.jp/blog/2012/06/24/6491001

 但し、韓国人の責任転嫁は国民性だと思う。あらゆるルートを通じて、日本の山の恐さと対応方法、遭難時の救助体制を周知しておくことだ。山では何が起きるか分からない。だから充分な食料と暖かい衣料、風雨を凌ぐツエルトくらいは用意したい。ビバークすると高齢者から順に死んでしまうそうだ。軽量化が喧しい時代だが高齢者は1枚余分に持つ必要があろう。加齢すると低温に鈍くなるそうだ。しまった、と思ったらもう死が隣り合わせだ。若い同行者がいてもそこが理解できない。ベテランだからゆっくりでもついてくるでしょう、というもんだろう。若い人に放っておかれてもいいように自分の命は自分で守りたい。

WEB版産経新聞から
2013.8.1 11:58
 長野県の中央アルプス檜尾岳(2728メートル)周辺で7月29日に発生した遭難事故で、県警は1日、死亡した男性4人を韓国人ツアー登山客の一員と確認し、氏名を発表した。

 県警によると、パク・ムンスさん(78)、イ・グンスさん(72)、パク・インシンさん(70)、イ・チョンシクさん(62)。イ・チョンシクさんは滑落で、他の3人は低体温症で死亡したとみられ、それぞれ別々の場所でみつかった。

 長野県の阿部守一知事は1日、険しく天候が変わりやすい日本の山の特徴を各国の政府関係者に伝えたり登山口に外国語のチラシを置いたりして、外国人登山客に注意を呼び掛ける意向を示した。外国人の遭難防止対策を話し合う県の検討会議も設置するとした。

 ツアーには韓国南部・釜山周辺で暮らす40代から70代の男女計20人が参加。空木岳(2864メートル)近くの山荘から檜尾岳を経由し宝剣岳(2931メートル)の山荘までの道中、悪天候で散り散りになった。

中央アルプスで韓国人グループが遭難2013年07月30日

 朝日新聞朝刊は32面で、中日新聞朝刊は31面で、中央アルプスにおいて、韓国人のツアー登山グループの遭難を報じた。韓国旅行会社が企画したツアー登山で20名(男14名、女6名、年齢は48歳から78歳)の内5人が不明(中日)、9名が遭難か(朝日)、という。日本人ガイドは同行していなかった。

WEB版読売新聞から
長野県駒ヶ根市の中央アルプス檜尾岳(2728メートル)付近で、ツアー登山の韓国人パーティーのうち9人と連絡が取れなくなり、長野県警などは30日早朝から捜索を開始した。

 午前5時頃、宝剣岳近くの登山道で心肺停止状態の男性1人を発見。午前5時55分頃には、濁沢大峰の登山道で、別の男性1人を心肺停止状態で発見した。(2013年7月30日07時13分 読売新聞)

 蘇生すれば良いが。トムラウシで起きた遭難事故を彷彿させる最悪の事態になりそうだ。北陸ではまだ梅雨明けしていない、というから今年は気象変化が激しく、判断が難しい。桧尾岳には避難小屋があるが、北アルプスの薬師小屋から推定すると、気温は10℃以下になっただろうと思われる。防寒着、非常食、コンロ、ツエルトなどの準備は充分あったのだろうか。

 同じ日程、山域に単独で行く予定だった会員も登山中止のメールが入っていた。まして20名もの団体ならば中止が正解だったと思う。

 ツアー登山はメンバー間の連携がなく、経験もバラツキがあり、バラバラになり易い。今回も自力下山した人、避難小屋にとどまった人、宝剣岳まで縦走した人などどういう計画だったの、という驚くようなニュースである。韓国の報道に熱心なNHKオンラインで詳細を報じている。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130730/t10013390041000.html

続報

 桧尾岳の地形図   国土地院のHPから
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?meshcode=53374650

 帰宅後、中日新聞夕刊、ネットで見ると、20名のうち、15名は下山したようだ。行方不明が1名いるという。心肺停止4人の内、3人死亡と伝えられた。いずれも70歳代である。朝鮮半島の地理的な関係で韓国人は寒さに強いはず、・・・との期待も外れた。あって欲しくない事態になってしまった。
 昨年剱岳の登山道でもハングル語の案内を見たから、外国人登山客はよほど増えているんだろうと思う。日本の気象は変化が早く、観天望気が大切だ。中央アルプスは天竜川を暖かい湿った空気が溯り、北からは冷たい空気が南へ吹いて雷雲を発生しやすい。豪雨も並大抵ではない。
 昭和40年の豪雨では廃村・松川入にあった避難小屋に泊まっていた7人が小屋ごと流されて遺体も発見されないまま。あの時、安平路山にいた人は地面に雨が浮いていたという。
 今回も降雨の中を出発して行ったらしい。折角、日本の山へ登りに来たんだからと無理しちゃったんだろう。

藪山・焼山遥か2011年12月02日

阿木川源流の山々
阿木川源流の山々
 笹ヶ峰と名づけたいような女性的な山容であるが藪漕ぎの末に追い返された。愛想はいいが気位の高い女性に振られたような気がする。

左から小さなコブが1630mで山腹に切り分けがある。これは谷に下る。
次に樹林に覆われたコブが1650mである
中央の若干高い盛り上がりが1690mのコブであり、ここで時間切れとなり引き返す
焼山はすぐ隣に見える。道があればあと10分もかからない指呼の距離に過ぎないが時速500mの速度と日輪のつるべ落としの今はそこが踏み込めなかった。

東濃・焼山の笹藪の海に敗退!2011年11月30日

 午前3時起床、3時半出発、瀬戸市のK氏宅でW君と合流。4時半、K氏の車で登山口に向かう。瀬戸市内はまだ暗いが地理勘のあるK氏は国道とはいえ、R363の曲がりくねった道をすいすいと運転する。
 やがて中津川市の阿木地区。阿木川をまたいで右折し、阿木川に沿って登ると風神神社である。まだ薄暗いがトイレタイム。もう神様は出雲からご帰還されたはずだが人影は無く、閑散としている。
 さらに奥へと走るとゲートで行き止まり。かつては槙平まで車で行けたのだが。ここで身支度して出発。6時10分。約850mから900m付近。
 未舗装の林道を坦々と歩く。眼下には阿木川源流の流れが白い。あくまでも澄み切った水である。6時半になってようやく空が明るくなる。
 槙平へは6時50着。1088m。懐かしい。ここからロクロ天井や天狗森山、橋ヶ谷山に登った。今は左天狗森山、右焼山の道標もあるがもちろん登山者向けではないと思う。
 7:00丁度出発。1233m地点の橋を探るが手がかりは無い。7:40。少し戻って目処をつけた「歩道入り口445」から入ってみる。実は登山記録はあまりない。W君がインターネットで検索してくれたが基本的には手探りの山である。
 私はかつて恵那山登山口から奥の上手山峠から笹の海を辿って登った。辛うじて踏み跡やテープが残っていた。ここはそんな人跡すらなく、営林用歩道を行けるだけ行ってみるという戦略である。
 歩道は幸いに続いていた。沢を3度跨いだ。1233M付近から林道に並行しながら沢の上部に沿って登る。最初の沢を跨ぐとがけ崩れがあるが1413Mの標高尾根の檜林を経て雑木林の拡がる山腹を登る。ここもまた沢に沿うように登ると何気なく沢を跨ぐ。1450M付近の一帯は落葉松林の疎林となり、8:40に最後の沢で休み。
 8:55。沢を出発するとすぐに急斜面の尾根を攀じ登る。長めの蛇が日向ぼっこをしている。穴に入って冬眠する季節をすぎてもうろうろする蛇を穴惑いという。秋の季語であるがまだこんな時期でも冬眠に惑っているのだ。今年はやっぱりおかしい。
 急登するとトラバースになり、尾根を巻く。1628Mの標高点のピークの山腹1550M付近を巻いている感覚である。ここらから切り分けが怪しくなる。踏み跡を探るように笹を分けていく。緩やかな沢状の地形では水分が多いせいか笹の丈が高い。そのためしばしば踏み跡を見失う。沢から離れるとまた不明瞭ながら踏み跡が出てくる。
 1550M付近の等高線に沿うように笹の海のトラバースを続けると1630Mのコブからの南下する尾根へと切り分けが下ってしまう。どうやら下部で見た分岐のところへの戻るようである。
 10時10分、切り分けはここまでと判断できたのでまず1630Mのコブに笹を漕いでのぼる。尾根上に防火帯の切り開きがないかと期待したがない。仕方なく笹を漕いで登る。標高点1650Mのコブは天然檜や針葉樹の影で藪が薄いので楽に越えられた。しかし、もう後は笹を漕いで登るのみであった。
 焼山手前の1690Mのコブで12時10分となり、登頂を打ち切った。およそ6時間の登りであった。コブの頂上は笹の海で腰を下ろす場所も無い。笹が一部枯れていたのでそこで休んだ。
 周囲には鯨のような恵那山の巨体が横たわる。ロクロ天井は三角錘の立派な山容に見える。至福の頂上というわけには行かないがなぜか異口同音に満足という。
 12時40分小春日和というにはもう寒い「頂上」を後にした。ゲートに着いたのは15時半。日没が迫る。16時ゲートを出る頃にはもうヘッドライトを照らす。
 k君の希望で岩村のカステラ屋に寄る。松浦軒本店である。団体客が出て行って入れ替わりに入った。小さいが人気がある店のようだ。長崎に伝わるポルトガルからの製法そのままに伝えるという。やや歯ごたえがあってフツーの食感のようなスポンジ風ではない。能書きは以下のHPで見て。
http://matsuhon.enat.jp/
 松浦という名前もいかにも長崎っぽいがここは水がいいのだという。お茶も美味いので尋ねるとやはり水がいいという。確かに焼山の水も美味しかった。その伏流水に違いない。山にもお味にも満足でした。

中央アルプス・摺古木山を歩く2011年08月06日

 夏のハイキングの条件は樹林の山であること、即ち緑陰を得られること、花の山、水の多い山、標高が高い山などから選ぶことになる。話を持ちかけられてとっさに思いついたのは摺古木山だった。かつて家族連れハイキングでも好評でスイカを持参して喜ばれた。今回もスイカを持ち上げた。6名が参加。
 山道の草刈られおり登山口

 病葉を手によく見ればナナカマド

 木曽からの夏の山霧越えて行く

 高原の吹き上げる風山涼し

 うなだれる一薬草の花白し

 リンドウの花重たげに咲き初めし

 八月やアキノキリンソウ今盛り

 登頂す四方を遮る霧の山

 頂上や美味し美味しとスイカ食う

 山清水両手で掬い飲み干せり

 炎天のナゴヤの街に帰りけり

飛騨・鎌ヶ峰の塩蔵谷を溯る2011年07月19日

 岐阜県山岳連盟が編纂した『ぎふ百山』の一つ。本書はかならずしも有名な山だけを網羅したわけではなく、無名の山も数多い。続編も刊行されて正編は復刻版も出版されている。若栃山に続く飛騨の沢シリーズ。 私は124座完登しているので二登目になる。
 7/17の夕方、W君宅に寄って飛騨清見から高山市へ。夜の市街地を抜けてR361を走る。高根町の道の駅ひだたかね工房で仮眠。ここは標高900mに近い高原の村。とはいっても最初は少しテント内は暑いので外で消夏。夜空を仰いでいるとまるで流れ星のようにふらふら飛んでいく。一匹の蛍が夏の風情を醸し出す。
 7/18、5時に出発。F君の待つところへ車を飛ばす。途中、日和田富士(継子岳の別名)が姿を見せる。
 F君と合流後、峠まで同行。初回は野麦峠から往復したが今回は飛騨側の野麦にある塩蔵谷から往復した。登頂後は稜線の「道」を当てにして野麦峠にもう1台デポした。
 取り付きは野麦集落のはずれにある道路標識で県道に野麦峠へ9kmとある4差路の車道で橋を渡ったすぐのところに路駐。塩蔵谷への林道に入る。地形図野麦では破線路で表現されているが今は整備された林道になり、奥まで続いている。
 7時出発。林道上には大きなホタルブクロが咲いている。林道の脇にはミヤマオダマキ、アザミが咲いている。途中、牛首沢への分岐をチエック。面白い地名である。概ね西日本は谷といい、東日本は沢と呼んでいる。中間地域の岐阜県は洞の地名も多い。岐阜県は混在していると思う。
 ネットの地形図で乗鞍岳から御岳の県境をはさんで地名を比較しても沢と谷の使い分けははっきりしている。稀に谷に混じって沢名も見る。それは人材の東西交流があったからだろう。
 山の命名にも偏在はある。包括的な山、特定的な岳、丸、嶺、森など。例外も多々あるが。ちなみに鎌ヶ峰は木曽側の命名かも知れない。辰ヶ峰、奥峰。
 林道は一旦沢から離れて左へ迂回して巻いて行く。再び沢と出会って並行してから入渓地を探る。枝沢へと迂回して塩蔵谷から離れる寸前がポイントになった。一旦枝沢に下って合流地点まで下る。
 本流の水温はとても冷たい。あとは栃やミズナラ、サワクルミの原生林のうっそうとした中を平凡な渓谷歩きを続けるのみである。滝場は全くない。深い淵も、ゴルジュもない。平凡そのもの。中にはヘルメットのゴミも落ちているし、錆びたワイヤーロープも見られたから一旦は部分的に伐採されたようだ。
 そう思っていると上流部に石垣が見え林道に出会った。日影沢から来ている長大な林道だ。鉄の大きなパイプが橋になっているのでそこを潜って溯った。地形図では左から出合う枝沢のみをチエックしておればよく、スムーズに源流部を詰めて笹に突入した。笹を漕いで県境の踏み跡に遭遇したとの一報を期待したが踏み跡はは無かった。わずかに白くなったテープが枝になびいている。ササヤブと格闘しながら30分もかかっただろうか。笹の中に埋もれた三角点があった。
 さて下山はどうする、と協議。一旦鞍部までくだってみて顕著な踏み跡がない場合は沢を下ることにした。鞍部はもちろん笹の海。わずかな笹の小ピーク2130mがとてつもなく困難な登りを示唆する。意見はすぐまとまり、来た沢を下ることになった。
 困難な場所がないだけに下るのも早い。滝を越える、深い淵を探る、ゴルジュを突破するという沢登りの醍醐味には欠けるものの登山道としての価値はある。
 車に戻って着替え。峠に走って車を取りに行く。F君とはここで別れた。途端に夕立に見舞われる。
 一旦、奈川へ出て境峠を越えて木曽に出た。R19を走って帰名する。

霧訪山2011年05月04日

頂上から見えた蝶ヶ岳と常念岳
頂上から俯瞰した辰野町小野の街。小野神社の例祭で爆竹の煙があがる。



翁草を見に霧訪山へ2011年05月04日

霧訪山の頂上は日本中央分水嶺

頂上のわずかな草地に育つオキナグサ
花が散って白い毛髪に見える。名前の由来かな。


雪の木曽御岳行2011年02月21日

 2/19から2/20にかけて冬の御岳で合宿を実施。6人用テント二張りと食材、調理機材など持ち上げて田の原の奥深く登った小高いところで幕営した。ロープウェイがあるのでいくらもアルバイトはない。当日はテントを張ると早速宴会になる。今夜は秋田のキリタンポがメニュー。山飯にしては豪華な寄鍋である。せりを根っこから食べたのは初体験。持ち寄ったウイスキー、焼酎、酒を各自飲んで四方山話。しかし18時過ぎには就寝。男女4人なので半々に分かれた。
 2/20はゆっくり目に起きて朝食もしっかり。残り物だがいい味が出ている。8人もいるとよほど統制がいるが登頂が狙いではない。雪上テント生活になれること。アイゼンを着装、ピッケルを携えて登りはじめる。天気も微風快晴で登山日和。
 私のアイゼンがどうも合わなで外れる。昨年4月富士登山でプラブーツに合わせていたが壊れたために廃棄した。今日は36年も使った皮製登山靴を復活させた。同じ文数でも1センチほど小さめになる。度々調整しながら登る。結局7合5勺の祠で引き返す。脱落3人で下山して行くと先行していた連中も8号上部で折り返し下山するのが見えた。
 下山は早いのですぐ追いつかれた。U字形の沢でしばし滑落停止、雪上登攀の練習。Yリーダーのミニレッスンであった。テントに戻って撤収。またロープウェイで下りた。上松のトロン温泉で入浴し、近くの蕎麦屋で木曽の蕎麦を賞味した。あとは木曽路をドライブ。やや大目の通行量に春の季節の到来を感じた。

秋山吟詠2010年10月19日

秋深しあまたの人を山に見る

天高し峨峨たる巖の槍穂高

突き抜けて御岳の座す木曽は秋

華麗なる乗鞍岳や秋高し

白骨の湯煙と見ぬ秋の雲

動かざる秋雲の立つ岳の上

山脈を統べるや秋の駒ケ岳

恵那山も見えて嬉しき秋の山

芝枯れて松本盆地見下ろせり

秋寒し名山をなお飽かず見る

ナナカマド林彩る照り葉かな

山装う林道歩きとて愉し

黒木なる森のあちこちに見る黄葉

山葡萄落葉松の木を独占す

かれ菊の高く奥まで続くなり