廃線の鉄路錆び行く秋の風 拙作 ― 2025年10月19日
御船湿地での所見。
貧しさを定めに生くるシラヒゲソウ 拙作 ― 2025年10月18日
18日は近場の山へ、と考えたが台風の影響で不順な天候。矢並湿地のシラタマホシクサを見逃したのでシラヒゲソウの御船湿地に行った。開花期の盛りは過ぎていたが若干の花が見られて良かった。
栽培植物は施肥で作物を育てる。このシラヒゲソウは湿地帯と言う貧栄養の環境でないと生きられない。乾燥化するとライバルの種に負けて消滅する。微妙なバランスの中で保たれている。
奥へ登ると御船石に到達。その上には三河線の廃線があってちょっとサプライズだった。鉄路も敷設されたままだ。西中金駅と猿投駅間は2004年に廃線。
足助の街は紅葉期の間は最も賑やかで猿投グリーンロードは大渋滞する。名古屋と足助には直通のアクセスは無いが地下鉄から豊田線梅坪駅乗換で西中金駅まで行けたはずですがバス乗換では利用者は無い。やっぱり足助まで鉄路をのばすべきでした。或いはリニモ八草駅からモノレールを延伸できないかと夢想する。
狭いのですぐ巡回してしまった。稲武のタカヤド湿地の様子見に行ったが未だ青かった。帰りにはパラパラと雨も降って来た。飲食店に入るためにクルマから降りると座席にマダニが見えた。さては湿地帯でやられたか。廃線から下る際に伐採地を通過した。嫌な予感が当たった。
栽培植物は施肥で作物を育てる。このシラヒゲソウは湿地帯と言う貧栄養の環境でないと生きられない。乾燥化するとライバルの種に負けて消滅する。微妙なバランスの中で保たれている。
奥へ登ると御船石に到達。その上には三河線の廃線があってちょっとサプライズだった。鉄路も敷設されたままだ。西中金駅と猿投駅間は2004年に廃線。
足助の街は紅葉期の間は最も賑やかで猿投グリーンロードは大渋滞する。名古屋と足助には直通のアクセスは無いが地下鉄から豊田線梅坪駅乗換で西中金駅まで行けたはずですがバス乗換では利用者は無い。やっぱり足助まで鉄路をのばすべきでした。或いはリニモ八草駅からモノレールを延伸できないかと夢想する。
狭いのですぐ巡回してしまった。稲武のタカヤド湿地の様子見に行ったが未だ青かった。帰りにはパラパラと雨も降って来た。飲食店に入るためにクルマから降りると座席にマダニが見えた。さては湿地帯でやられたか。廃線から下る際に伐採地を通過した。嫌な予感が当たった。
一袋五つ地物の柿を食ふ 拙作 ― 2025年10月16日
日進のJAの食料品売り場のリニューアルオープン後で初めて買い物をした。野菜、もち米のおこわ弁当、一袋5個入りの柿も買った。今年初の柿を剥いて食べた。
大峰山脈・山上ヶ岳に登る。 ― 2025年10月10日
10/9の夜は大淀町の道の駅吉野路大淀センターで仮眠。軽自動車なので窮屈だったが丸まって寝た。
10/10の午前5時に出発、R169からR370,R309とナビ任せで泥川温泉に導かれた。ごろごろ茶屋駐車場に着いたがまだ奥があると走ると913.1mの三角点のあるPが広がっていた。店舗はあったが無人、封筒に1日1000円を入れて投函する仕組みだった。支度を整えておにぎり1個をお茶で流し込んで出発。橋を渡ると女人結界の石柱が建っている。1300年の歴史があるから前近代的とは言うなかれ。
登山道はゆるやかに整備されている。一の世茶屋はすぐに着く。一本松茶屋までは山腹を縫う道で歩き易い。更に先の洞辻茶屋で稜線に上がる。谷間から尾根上に登って明るい。吉野方面から大峰奥駈け道が合わさる。この道は熊のへ続き世界遺産ともなった奥駈け道である。小屋で休んでいたら一人東京から来て奥駈け道を目指したが雨で引き返す途中だった。世間話に花を咲かせていると1時間の長休みになった。
稜線になると自然も豊になる。左右二手に分かれた道は左へ。先の人が慎重に、とアドバイスしてくれたが、重装備だから慎重になったのだろう。我々は日帰りで軽いから心配はいらない。
鐘掛岩には鎖場まで立ち寄ったが霧で引き返す。登山道は平坦になった。西ノ覗岩も霧でパス。平坦ながら岩場の通過があるので捗らない。その内宿坊の立ち並ぶ一角に着いた。大峰山寺の手前まで来たのだ。古い宿坊の軒先にザックを置いて空身で山上に登った。境内に着くと左が本堂だった。右の高まりがあるので細道を行くと背の低い笹原の中にお花畑と山頂の看板が立つ。左折して笹の小径を歩くと一等三角点のある山頂だった。その奥は聖蹟、右は湧出岩の石柱が建つ。どうやらこれがシンボルらしい。
登山者としては一等三角点の大峰山上に関心がある。1887(明治20)年埋設。補点である。奈良県の一等三角点は8座あり、これで6座登った。大峰山系では釈迦ヶ岳、玉置山に次ぐ三座目になる。釈迦ヶ岳は東のコブシ嶺から眺めると三角錐の立派な山容だがこの山は望岳した覚えがない。それも今になった理由である。
釈迦ヶ岳は三十代に登った。西行法師が小夜の中山で詠んだ和歌
年たけてまたこゆべしと思ひきや命なりけり佐夜の中山
私もまた後期高齢者になってから登りに来れるとは。命があればこそこうして霧を突いて登山出来た。
霧の中で長居は出来ない。霧しょんべんといってずぶぬれになりそうだ。先の宿坊へ戻ってザックからおにぎりを出して食う。冷涼な自然の中では喉の渇きもないからお茶もまだある。来た道を戻った。二手の道は板の階段道で滑りやすいので慎重に下る。洞辻茶屋で休憩。ここで稜線から谷筋の道へ入る。雰囲気が随分変わる。水飲み場にはソーメンが落ちている。これが不潔感を誘うので手を洗うにとどめた。きれいに使って欲しい。
歩き易い道になるが先は長い。そんな倦んだ気分を変えてくれたのは鹿の啼き声だった。
遠くよりな滑りそと啼く鹿の声 拙作
※な~その間に連用形、未然形の動詞を入れると軽い禁止になる。
足もとに気を付けて滑らないように下りなさい、と山の主のような鹿が導いてくれるかに聞こえる。最後の茶屋を見て一段と歩き易い山路まで来るとPに出た。やっぱり我々の車だけあった。支度して動き始めると軽自動車のパトカーが来て我々を見るとUターンしていった。誰かが6時頃から15時30分ごろまで動かない車があうるよ、と警察に通報したんだろうか。ごろごろ茶屋には多数の観光客が居た。さらにくだると昭和レトロな洞川の商店街に出て帰りたくなくなった。結果、柿の葉寿司を購入、洞川温泉に入湯したりとミニ観光で余韻を楽しんだ。
R309に戻ると奈良の複雑な道路網を抜けてようやく名阪道路に入れた。
10/10の午前5時に出発、R169からR370,R309とナビ任せで泥川温泉に導かれた。ごろごろ茶屋駐車場に着いたがまだ奥があると走ると913.1mの三角点のあるPが広がっていた。店舗はあったが無人、封筒に1日1000円を入れて投函する仕組みだった。支度を整えておにぎり1個をお茶で流し込んで出発。橋を渡ると女人結界の石柱が建っている。1300年の歴史があるから前近代的とは言うなかれ。
登山道はゆるやかに整備されている。一の世茶屋はすぐに着く。一本松茶屋までは山腹を縫う道で歩き易い。更に先の洞辻茶屋で稜線に上がる。谷間から尾根上に登って明るい。吉野方面から大峰奥駈け道が合わさる。この道は熊のへ続き世界遺産ともなった奥駈け道である。小屋で休んでいたら一人東京から来て奥駈け道を目指したが雨で引き返す途中だった。世間話に花を咲かせていると1時間の長休みになった。
稜線になると自然も豊になる。左右二手に分かれた道は左へ。先の人が慎重に、とアドバイスしてくれたが、重装備だから慎重になったのだろう。我々は日帰りで軽いから心配はいらない。
鐘掛岩には鎖場まで立ち寄ったが霧で引き返す。登山道は平坦になった。西ノ覗岩も霧でパス。平坦ながら岩場の通過があるので捗らない。その内宿坊の立ち並ぶ一角に着いた。大峰山寺の手前まで来たのだ。古い宿坊の軒先にザックを置いて空身で山上に登った。境内に着くと左が本堂だった。右の高まりがあるので細道を行くと背の低い笹原の中にお花畑と山頂の看板が立つ。左折して笹の小径を歩くと一等三角点のある山頂だった。その奥は聖蹟、右は湧出岩の石柱が建つ。どうやらこれがシンボルらしい。
登山者としては一等三角点の大峰山上に関心がある。1887(明治20)年埋設。補点である。奈良県の一等三角点は8座あり、これで6座登った。大峰山系では釈迦ヶ岳、玉置山に次ぐ三座目になる。釈迦ヶ岳は東のコブシ嶺から眺めると三角錐の立派な山容だがこの山は望岳した覚えがない。それも今になった理由である。
釈迦ヶ岳は三十代に登った。西行法師が小夜の中山で詠んだ和歌
年たけてまたこゆべしと思ひきや命なりけり佐夜の中山
私もまた後期高齢者になってから登りに来れるとは。命があればこそこうして霧を突いて登山出来た。
霧の中で長居は出来ない。霧しょんべんといってずぶぬれになりそうだ。先の宿坊へ戻ってザックからおにぎりを出して食う。冷涼な自然の中では喉の渇きもないからお茶もまだある。来た道を戻った。二手の道は板の階段道で滑りやすいので慎重に下る。洞辻茶屋で休憩。ここで稜線から谷筋の道へ入る。雰囲気が随分変わる。水飲み場にはソーメンが落ちている。これが不潔感を誘うので手を洗うにとどめた。きれいに使って欲しい。
歩き易い道になるが先は長い。そんな倦んだ気分を変えてくれたのは鹿の啼き声だった。
遠くよりな滑りそと啼く鹿の声 拙作
※な~その間に連用形、未然形の動詞を入れると軽い禁止になる。
足もとに気を付けて滑らないように下りなさい、と山の主のような鹿が導いてくれるかに聞こえる。最後の茶屋を見て一段と歩き易い山路まで来るとPに出た。やっぱり我々の車だけあった。支度して動き始めると軽自動車のパトカーが来て我々を見るとUターンしていった。誰かが6時頃から15時30分ごろまで動かない車があうるよ、と警察に通報したんだろうか。ごろごろ茶屋には多数の観光客が居た。さらにくだると昭和レトロな洞川の商店街に出て帰りたくなくなった。結果、柿の葉寿司を購入、洞川温泉に入湯したりとミニ観光で余韻を楽しんだ。
R309に戻ると奈良の複雑な道路網を抜けてようやく名阪道路に入れた。
名月を見上げれば句が駆け回る 拙作 ― 2025年10月05日
夜になってから用事で外に出るとくっきりと月が浮かぶ。空気が澄んでいて名月の句が駆け巡る。
世にすみし姿をかへて荒川の蘆穂の蓑に身をや隠さん 岩瀬忠震 ― 2025年08月16日
幕末の1861年8月16日死去。別の冊子には7月11日とある。享年44歳。
明治16年4月に忠震旧臣の白野夏雲が向島白髭神社境内に「岩瀬鴎所君之墓碑」を建立。
昭和57年11月に横浜本覚寺境内に「横浜港開港の主唱者」の碑が建立された。
昭和61年4月に忠震ゆかりの地、新城市の勝楽寺に「岩瀬肥後守忠震顕彰之碑」が建立された。
明治16年4月に忠震旧臣の白野夏雲が向島白髭神社境内に「岩瀬鴎所君之墓碑」を建立。
昭和57年11月に横浜本覚寺境内に「横浜港開港の主唱者」の碑が建立された。
昭和61年4月に忠震ゆかりの地、新城市の勝楽寺に「岩瀬肥後守忠震顕彰之碑」が建立された。
病床にエベレスト記読む立秋忌 ― 2025年08月08日
8/8は普羅忌または立秋忌。前田普羅は明治(1984)年生まれ。少年期から自らを山恋の病というほどで志賀重昂『日本風景論』を愛読して登山を覚えた。
早稲田の同窓でもあった飯田蛇笏から山梨県の山を詠んだ山岳俳句「甲斐の山々」5句が高評価された。40歳前後の関東大震災後は富山に移り住んだ。戦中は空襲に追われて命からがら生き延びた。
昭和4年、報知新聞社の記者を退職して、金沢で創刊された「辛夷」の初代主宰を引き受けて俳句指導に乗り出す。昭和5年に『普羅句集』刊行後、地域別の句集『春寒浅間山』(昭和18年)、『飛騨紬』(昭和22年)、『能登蒼し』(昭和25年)を発刊。
晩年はいなべ市に住居を移す案が弟子らで画策されたが戦後のインフレで敵わず立ち消えになった。東京に転居。病床にあってもエベレスト登山記を弟子に取り寄せてもらって読むなど山岳への憧れは衰えることがなかった。享年70歳。
昭和29年8月8日死去。
以来普羅忌が詠まれるようになった。ネットからのコピペ
雀きて滴おとせり立秋忌/井上雪
ひと雨のまた笹に鳴る立秋忌/井上雪
人参木咲いて普羅忌へ孫弟子ら/中西舗土
走り咲く萩に普羅の忌来りけり/飯原雲海
鯉こくの食ひたき日なり普羅忌なり/石田波郷
・・・秋桜子の師系の石田波郷は普羅句の韻律を重んじた。
楢櫟霧呼んで普羅の忌なりけり 石田波郷
早稲田の同窓でもあった飯田蛇笏から山梨県の山を詠んだ山岳俳句「甲斐の山々」5句が高評価された。40歳前後の関東大震災後は富山に移り住んだ。戦中は空襲に追われて命からがら生き延びた。
昭和4年、報知新聞社の記者を退職して、金沢で創刊された「辛夷」の初代主宰を引き受けて俳句指導に乗り出す。昭和5年に『普羅句集』刊行後、地域別の句集『春寒浅間山』(昭和18年)、『飛騨紬』(昭和22年)、『能登蒼し』(昭和25年)を発刊。
晩年はいなべ市に住居を移す案が弟子らで画策されたが戦後のインフレで敵わず立ち消えになった。東京に転居。病床にあってもエベレスト登山記を弟子に取り寄せてもらって読むなど山岳への憧れは衰えることがなかった。享年70歳。
昭和29年8月8日死去。
以来普羅忌が詠まれるようになった。ネットからのコピペ
雀きて滴おとせり立秋忌/井上雪
ひと雨のまた笹に鳴る立秋忌/井上雪
人参木咲いて普羅忌へ孫弟子ら/中西舗土
走り咲く萩に普羅の忌来りけり/飯原雲海
鯉こくの食ひたき日なり普羅忌なり/石田波郷
・・・秋桜子の師系の石田波郷は普羅句の韻律を重んじた。
楢櫟霧呼んで普羅の忌なりけり 石田波郷
俳句の整理 ― 2025年08月04日
7月は猛暑が続いた。6月以来の仕事もあり俳句が作れていない。記憶を取り戻しながら季語だけでも整理した。
俳句の鑑賞文執筆 ― 2025年08月01日
時間が出来たので俳句雑誌の鑑賞文の執筆にとりかかった。先ずは下読みから取り上げる俳句をピックアップする。やっぱり切り口は山があると良い。というわけで弥彦山を詠みこんだ句を発掘できた。
新城市へ行く ― 2025年07月01日
今日1日は忙しい。5時起き、R153添いの牛丼屋で朝飯をかき込む。R301から三河山間部を走って作手に行き、巴山白髭神社に参拝。予定では周回したかったが車から降りるともう暑いと感じて最低鞍部からもっとも安易な参道を往復しただけに済ます。
新城市のコメダで時間を過ごす。回転ずしで腹ごしらえして新城市市民文化会館と図書館へ向かう。図書館では郷土資料室で岩瀬忠震の書籍類を物色、けっこう集めてある。
13時20分頃か、新城武都紀の短歌会の歌会に寄らせてもらう。40歳から5年間は文語文法を学ぶために入会していたことがあった。いったん解散して今は継承者がなく、雑誌の発刊は止めたが歌会は有志で続けられている。
13時30分から三遠歴研の会合へ。資金難で遅れていた機関誌が1年ぶりに発刊されて配布。今後をどうするかの話である。短歌、俳句に限らず高齢化、継承者難で結社の解散が続いている。とりあえず、2年毎の研究輯録は資金難で延期するがそれに代わる発表の場は用意される運びである。
帰路はR301に向かったが、パトが火事だからR151へ迂回せよと、いう。やむなく豊川市からR23経由で帰名。この道は遠回りだが信号がないためにまあまあ走る。約2時間で帰宅。シャワーを浴びて、名工大へ。
19時からの理事会に間に合った。会場が突然変更されて右往左往した。出席者は4名。WEBも少ない。うだるように暑いからか、今一盛り上がらず。
新城市のコメダで時間を過ごす。回転ずしで腹ごしらえして新城市市民文化会館と図書館へ向かう。図書館では郷土資料室で岩瀬忠震の書籍類を物色、けっこう集めてある。
13時20分頃か、新城武都紀の短歌会の歌会に寄らせてもらう。40歳から5年間は文語文法を学ぶために入会していたことがあった。いったん解散して今は継承者がなく、雑誌の発刊は止めたが歌会は有志で続けられている。
13時30分から三遠歴研の会合へ。資金難で遅れていた機関誌が1年ぶりに発刊されて配布。今後をどうするかの話である。短歌、俳句に限らず高齢化、継承者難で結社の解散が続いている。とりあえず、2年毎の研究輯録は資金難で延期するがそれに代わる発表の場は用意される運びである。
帰路はR301に向かったが、パトが火事だからR151へ迂回せよと、いう。やむなく豊川市からR23経由で帰名。この道は遠回りだが信号がないためにまあまあ走る。約2時間で帰宅。シャワーを浴びて、名工大へ。
19時からの理事会に間に合った。会場が突然変更されて右往左往した。出席者は4名。WEBも少ない。うだるように暑いからか、今一盛り上がらず。
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