葛飾や桃の籬も水田べり 水原秋櫻子2020年05月12日

ソース:https://tsukinami.exblog.jp/26186846/
六四三の俳諧覚書

 大正十五年作。葛飾は東京・千葉・埼玉にまたがる江戸川流域の水郷地帯である。家々の庭の籬(まがき)越しに桃の花が垣間見え、その垣ぎりぎりまで水田が迫って水面に「桃の籬」を映している。古代から続くかと思われる美しい農村風景と云えよう。東京神田生まれの秋櫻子は、大正八年頃から句作を始め、この頃は頻繁に葛飾方面へ吟行に出かけており、昭和五年処女句集『葛飾』を上梓した。
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【平山周吉氏書評】伝説の俳人・河東碧梧桐に肉迫
https://news.livedoor.com/article/detail/17360159/

書評】『河東碧梧桐 表現の永続革命』/石川九楊・著/文藝春秋/2500円+税
【評者】平山周吉(雑文家)

「五七五のリズムの生れるべき適当な雰囲気が、芭蕉の身辺に醸生してゐたのではないでせうか」「芭蕉の時代に近い、それと相似た雰囲気のもとに立たねば、再び五七五のリズムの物をいふ時は復帰しないのではないでせうか」

 本書に引用されている河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)の『新興俳句への道』の一文である。碧梧桐は高浜虚子と並ぶ正岡子規門下の巨人だった。虚子が花鳥諷詠を愛で、「ホトトギス」を一大文芸企業に発展させたのに対し、碧梧桐は旅を続け、定型を破壊し、遂には俳壇を引退した。

 書家・石川九楊による評伝『河東碧梧桐』は、俳句と書のいずれでも近代の最高峰となった碧梧桐を描き出す。「近代史上、書という表現の秘密に肉迫した人物は、河東碧梧桐と高村光太郎の二人しかいない」という判断があるからだ。俳句は五七五と指折り数えてヒネるのではない。俳句の母胎である「書くこと」=書字へと降りて行くことによって新たな俳句へ至るという「俳句―書―俳句」なる回路の作句戦術に向かった」のが碧梧桐だ。

 明治末、碧梧桐は六朝書の新鮮な衝撃をバネに子規的世界から離脱できた。その当時は、「書は文芸と密接な関係にあり、切り離すことはできない」(『近代書史』)時代だった。いまでは視えなくなったその関係が多くの図版を援用しながら論証されていく。

 碧梧桐の俳句は活字ヅラで読むより、書として鑑賞する時に、その「自由で愉快な」魅力が伝わってくる。日本の近代化が「西欧化」であると同時に「中国化」でもあったことをも、碧梧桐を論じることで解明していく。

 著者は「かく」ことなくして文はない、という強力なワープロ・パソコン否定論者である。本書の中では芥川賞を二種に分け、手書きの「芥川賞」と別に「e芥川賞」をと提言している。その箇所を読んでいる時に思い出したのは長らく芥川賞銓衡委員を務めた瀧井孝作のごつごつとした選評の文章だった。瀧井こそが碧梧桐に激しく傾倒した大正文学青年だった。※週刊ポスト2019年11月8・15日号
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碧梧桐は『新興俳句への道』で次の言葉を述べる。

「五七五のリズムの生れるべき適当な雰囲気が、芭蕉の身辺に醸生してゐたのではないでせうか」

「芭蕉の時代に近い、それと相似た雰囲気のもとに立たねば、再び五七五のリズムの物をいふ時は復帰しないのではないでせうか」

 ここから五七五の韻律性を破壊して行った。そして自壊したのである。


 一方で水原秋櫻子らの虚子への反旗を翻して、新興俳句運動も進展を見せたが今は波静かなりの状態だ。表題の俳句は虚子から独立後に出版した句集『葛飾』の名句である。
 
 そんな中で現代俳句協会から新刊がでた。「『新興俳句アンソロジー 何が新しかったのか』おかげさまで完売、重版。」だそうです。しかし、この本は碧梧桐を踏まえたものではないという。

 俳句同人誌「海原」の書評を読むと
「新興俳句運動は、当時たまたま目立った人々が花鳥諷詠や客観写生などに不自由を共鳴して盛り上がった「記録」にすぎない。従来とは異なる俳句表現の工夫は古今東西、俳人=アーティストなら誰もがいつもやっていることだと確信する。
 〈彼らは用意されていた俳句らしさ(花鳥諷詠、客観写生など)の枠にとらわれず、詩や短歌や映画など広い文学の沃野に刺激を受けながら、自らの主題と方法を探し求めた。〉と「はじめに」にあるが、既存の俳句らしさの〈枠〉に「捕らわれる」のはほかでもない作者あるいは読者自身である。〈枠〉とは、誰かに押しつけられた制約などではなく、作者あるいは読者自身が自ら学び育んできたものの見方や観念などの総体であって、無意識な思い込みやバイアス、無自覚な不自由(または自由という錯覚)である。しかしそんなことはだいたいどの俳人も皆体験的に知っていて、日々、新しい俳句を詠もう(読もう)と、自分自身の既存の俳句らしさの〈枠〉=無自覚な不自由に向き合っているではないか。その点で、何も新しくはなかった。」
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 そうか、何も新しいことはないのか。結局は水原教という宗教の教祖の手のひらで踊らされただけか。それなら俳句と言わなきゃいいのに。新詩とでも言えばどうか。五七五を崩したら言葉の断片になる。西洋の詩と同じであり、約束や拘束性のしばりはなくなる。俳諧から川柳が分派したごとく、別のジャンルを作ればいいのだ。新興俳句は社会性や時代性を盛り込んで限りなく川柳に近づいた。そして消滅していったのである。

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